No.49 東中州物語

対談:平成1年9月

司会・構成:土居 善胤


お話:
北九州コカコーラボトリング(株)社長 篠原 雷次郎氏
郷土風俗保持研究家 長尾 とり氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 会長 松本 攻

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


発展の夜明け

昭和初期の中州(葦書房提供)

西島

篠原さんは今年おいくつで...。

篠原

明治36年2月11日生まれ。

西島

86! 長尾さんは...。

長尾

おなごには年を聞くもんじゃないとですばってんナ(笑)。あんまり違いまっせんと。明治42年です。

西島

へえ!

松本

いやいや、お二人ともお顔色もいいし、お元気で。

西島

篠原さんのことで私が覚えとうのは"ねばや"ですね。

長尾

今の博多織の松居さん、あの隣り角でしたね。洋品雑貨、それに真綿"ねば"を売ってあった。

西島

寒い時、真綿をおばちゃんたちが、肩や背中にかけて...。結構ぬくかったんですね...。あれが"ねば"でしたね。

松本

ああ、ありましたな。

篠原

ねばは、生糸にならん玉繭からつくった。父が、黒田藩筆頭家老の黒田播磨(くろだはりま)の命をうけて、上州(群馬県)で養蚕の研究をして
きて、生糸工場を始めたので、真綿にも手を出したとです。

西島

どんたくの時は、ねば屋の前は人だらけじゃった。

篠原

以前は、最後に中洲に集まってきて、うちのところが中心で。帯谷瑛之介さんがいい句をつくっとったい。
"どんたくはねば屋の前で渦を巻き"

西島

ところで昔の中洲の話ですが...。

篠原

そもそも中洲は、那珂川の川尻にできたデルタ。川の中の洲で博多のもんな、"なかず"と言うていた。
博多の動脈は、東の三笠川の石堂橋から始まる六町筋です。慶長年間に黒田長政が福岡城をつくり、福岡の町づくりをしたとき、福岡部にも六町筋をつくって博多古来の六町筋につないで、今の中島町をつくった。
小早川が架けた多々良川の橋を持ってきて、那珂川に西中島橋、博多川に東中島橋を架けてつないだ。中島町の北側を浜新地といった。この浜新地に、天保(1830~1843)の頃に大歓楽郷をつくって景気づけた。

西島

いまと同じですね。

篠原

幕末には大名はみな財政火の車で、黒田藩も同じこと。それで、藩はここに芝居小屋や茶屋をつくる。相撲興行もする。富くじもやる。景気振興策で、大賑わいじゃった。
天保5年には海老蔵(えびぞう)、この人はのちの7代目団十郎で、こうした大物を招んでいるのだから、たいした力の入れ方じゃった。これが中洲発展の夜明けで、中洲開発は黒田藩の財政再建から始まっとる。

西島

なかなか歴史がありますな(笑)。

桜田屋と作人橋

西島

一般に博多は商人の町、福岡は武士の町で、那珂川を挟んで分かれとったと言いますね。中洲が華やかになって、福岡の人も博多の人も中洲で一緒に飲むようになったと言っていいわけですか。

篠原

そうたい。中島町から南の今の中洲がなしてそうなったかというと、そもそもは桜田屋のおかげといえる。

松本

桜田屋といいますと...。

篠原

幕末の頃、大名はみな借金だらけ。岩田屋に勤めていた長野伝さんの先祖が桜田屋、黒田支藩の直方領の造り酒屋で、黒田藩にたくさん金を用立てていた。

西島

長野伝さんは、存命中に装飾やディスプレーの会社、ケンラン社をつくられた人ですね。

篠原

そうです。なんど貸金の催促をしても借さしてもらえない。どっちも困ってね。最後の殿様、11代の長溥(ながひろ)さんが「おい桜田屋、何かもうかることを考えてこい」と言われる始末。それで桜田屋が考えついたのが藩の口入れ稼業で、いまでいうと"職安"。城の普請(ふしん)や大きな仕事を一手に引き受けようとした。すると殿様が、ことが大きいので相棒を連れてこいということになって、博多三豪商の一人、島井宗室(しまいそうしつ)の末裔を説いて、パートナーにして大いに活躍した。
その後桜田屋は川端へ移ってくる。そして、博多川に板橋の作人橋(さくじんばし)をつくり、あぶれた労働者を草っ原の中洲へ渡らせて、芋やら大根やらつくらせた。「自分たちの食う野菜くらいつくってこい」。それで作人橋という名が残っているんです。
どんたくの時は、七福神の衣装を着せてアルバイトもさせる。それでまた、川柳ができましてね、"桜田屋七福神に宿を貸し"

長尾

昔は、福岡の武士や仲間(ちゅうげん)が、色町の柳町まで遊びに来るのも大変で、"門越え橋越え、門越え橋越え、も一つ門越え黒田さんのご仲間"という歌がありました。まず、お城の門を越しましょ。そしてお堀の橋を渡りましょ、そして、今の電通のところの桝形門(ますがたもん)で調べられる。やっとそこを通って、それから柳橋の門を入らな柳橋に行かれんやったということです。それくらいやかましかったと。

西島

なかなかきびしいですな...(笑)。

長尾

それが明治維新になって、初代の山中立木(やまなかたてき)市長が、桝形門が福岡と博多をへだてている、こわしてしまえと言って取りのけられた。それで往き来がフリーになりましたやな。ですけん、中島町はいまの中洲よりも早くから開けていました。
あそこは福岡医学校もあったですね。それから幕末に、中洲の松居のところに精錬所ができとります。阿部源蔵市長の頃建てられた記念碑がありますね。今の吉塚うなぎの所には火力発電所がありました。商工会議所のようなものもできた。市の施設のようなものが全部中洲にあったんです。原っぱだから、あそこへ持って行け、ということで...。

篠原

福岡の文化は中洲からおこっている。そのもともとはというと...。古い話ですが、黒田藩と鍋島藩は長崎の警備を交代で命じられていた。長崎にはオランダ館などあって、学問と文化の最先端がいくらもあった。それを、藩の若い優秀な藩士が勉強してきました。精錬所も生み出した。よそよりも早く写真館、古川写真館もできた。それから那珂川の川べりに長野という時計屋がありましたが、これも長崎留学生の一人です。長崎のグラバー邸のグラバー、あの人に何か感謝されることがあって、そのお礼に懐中時計をもらった。それがきっかけで、時計屋を始めた。

長尾

九大病院のもとになった福岡病院も、はじめは中洲ですもんな。

芸者さん全盛のころ

西島

一足飛びに、私は大正12年生まれですが、この年の1月に大火事があったそうですね。

篠原

私は福岡商業学校を出て、住友に入っていた。そうしたら家が丸焼け。それで中洲に帰ってきた。なにしろ、電車道をはさんで52軒も焼けたですもんね。

長尾

友楽館の近くあたりから火の出たらしいのですが、食い止めたとは、いまはNTTのしゃれたお店ビルに変わっているけど、電話局の鉄筋。北側は寿座のところで食い止めとう。西側が那珂川まで全部焼けて、検番の通りの料理屋やら置屋は残った。

松本

その火事で、中洲の顔が変わったんですね。

篠原

そうですね。原田種夫(はらだたねお)さんや火野葦平(ひのあしへい)さん等が若いときねばっていた喫茶店のブラジレイロやら、しゃれたカフェやらできてきて、中洲の顔がハイカラになった。菓子の生田の裏通りは川べりの博栄館(大がかりの料理と風呂)まで、町全部が縄のれんの飲み屋で、大繁盛でした。堂々とした本格的な九州劇場も建った。ここで、博多で初めての活動写真を持ってきたが、さっぱり映らない。肝心の発電所の出力が足らんじゃったんじゃそうな(笑)。それから、今の松島ビルのところに、芝居劇場の南座もできた。

長尾

ありました。昭和の初め頃、南座の入場料はたしか10銭ぐらいだった。夕方になると年寄りがみんな上を見て待ちよっちゃんね。時計を見よんなさる。何を待ちよるとねと聞くと、南座は8時になると5銭でよか、ということで、それが楽しみでした。

松本

戦前から戦後の石炭景気にかけて、中洲を彩ったのは芸者衆ですね。

長尾

中洲に中洲検番、略して中検、そして東中洲検番、略して東検がありました。

篠原

中洲検番だけで、芸者衆が500人以上おったそうですね。戦前は接待とか会合というと、芸妓さんが主で、検番と料理屋さんとはツーカーでしたが、戦後のバーやクラブになると、もう私らとは縁がなくなりました...。それで、もう昔のようにごりょんさんの、仲居さんの、おかみさんの...というのがないごとなりまして...。

長尾

検番通りで旅館の大きいのでは、玉川、これは一級旅館、そして後は全部料理屋と置屋とが並んで、中ほどに中洲検番があったんです。

西島

その頃の岩田屋は...。

長尾

昭和7x年に私が結婚した時は、まだ麹屋番だったですな。

西島

福岡部の一番盛んな通りはいまのマツヤレディスから電通市立歴史資料館になっているところまで。福岡橋口町でいろいろ賑やかだった通りですね。

長尾

そして那珂川を渡ると中洲で中島町に入り込むんです。博多川を越えると、博多の橋口町。十七銀行に突き当たって、その横から左へ入っていくと赤線でした。
その頃の中洲は、芸者さん全盛でしたな。そして、当時の一番こういうハイカラな方たちが(西島氏を指して)、カフェーとかビヤホールに行かっしゃると(笑)。白いエプロンの、髪を丸くハイカラに結ったお姉さんがサービスするけん。みんな行かっしゃった。

西島

今の城山ホテルの所に、高い福助足袋の広告塔があって、その続きに樹の繁ったアサヒビール園が...。

長尾

あれが博多のビアガーデンの始め。そのちょっと奥に水野旅館。寿座の前ちょっと先に千里十里(ちりとり)があったっちゃん。あそこはいまも変わってない。そのちょっと先を左へ曲がると松島屋。これが宮様やら泊まられる旅館。そして、橋口町にある栄屋に陛下が泊まられた。栄屋、松島屋、玉川、この三つが高級旅館でした。

西島

吉塚うなぎの並びのところに、大きな料亭がありましたね。

篠原

玉屋のすぐ裏の福村、あれは大きかった。

玉屋が博多ではじめてのデパート

篠原

中洲は西のほうから東急ホテルの前の天神橋、それをこして那珂川に西大橋、そして玉屋と川端の間の博多川に東大橋。そこを電車が通り、電車道をはさんで北側の浜の方を"浜側"、陸の方を"陸側"(おかがわ)と言った。

長尾

浜側と陸側は博多言葉を聞きなすとわかります。浜言葉は元気があって荒い、陸言葉は優しい。

篠原

学校は、浜側の校区は大名小学校、陸側は呉服小学校で、いまのエレデ寿屋のところ。現在は冷泉小学校です。氏神様も、陸側が住吉神社、浜側が水鏡天満宮

長尾

私のうちは中洲でも住吉です。"筑紫郡住吉村字中洲"って言いました。小学校は呉服小学校でしたが学校が移転して冷泉小学校に変わり、その一回生でした。

西島

南新地に"噴泉浴場"というのがあったでしょう。あれは、電気が余ったのを使って沸かしていたとか...。

篠原

その経営者が、亡くなられた独立美術の山田英二さんのお父さんです。中洲に縁のある芸術家というと、児島善三郎さんも。独立美術協会の重鎮だったが、児島洋紙店の長男でした。
中洲繁盛記でもう一つ、玉屋デパートを忘れちゃならん。あそこが中洲に大きな灯をともした。博多で最初のデパートで5階建て、エレベーターつきです。大正14年の10月4日に開店している。田中丸善蔵さんは、佐賀の牛津の人です。資本金が100万円。開店して4日間、四検番が交代で本格的な余興を出して競演したとです。

松本

あそこも呉服屋さんから始まっているんですね。

篠原

そうですね。だから、はじめは玉屋呉服店、福岡玉屋になったのは昭和16年からです。面白いのは、店の中が全部茣蓙(こぎ)敷きで、下足番がゲタを預かり、靴の人にはカバーをつけさせた。店員は約200人、初日の昼までに客が13,000人入ったそうです。

長尾

玉屋のできた時はようござんしたな。ちょうど、今の高校生くらいの年ですから、食堂なんてものは、女が一人で入るなんてことは絶対にできん時代でしょう。あそこの上の食堂へは、よく、友だちと誘い合って行ってました。今から洋食を出されて食べきらんかったらおかしかって言うて、結構行きよった。

西島

良家の子女がいってた(笑)。長尾さんが娘さんの頃、中洲に少しは田圃(たんぼ)などありました?

長尾

水上公園のところは豆畑でしたな。子供の時、豆笛をピーッと吹きますな、それで採りにいくと立札が立っていて「豆の葉とることでけん」と書いてありました(笑)。

川丈と"五足の靴"

松本

川丈さんは、だいぶ古いんでしょうね。いつ頃から...。

長尾

明治25年に中洲へ来まして、26年に旅館を始め、37年に劇場を始めました。その後私が生まれております。

篠原

それじゃあ、これから私があなたの所の宣伝をするから...(笑)。川丈は旅館業と温泉、それから寄席、ここから有名なタレントが育っている。たしか、築地小劇場の新劇で活躍した薄田研二(すすきだけんじ・明治31~昭和47)もそうじゃったですな。それから広告代理業、氷屋までしてござる。それから、戦前、八幡製鉄の労働運動で「溶鉱炉の火は消えたり」のメッセージで知られる浅原健三(明治30~昭和42)が逃げてきて、あなたのとこに泊まってる。覚えちゃなかろう?

長尾

知っとりますよ。それから"五足の靴"の記念碑が旅館の前にあります。

篠原

あれが当時の偉い文士五人、与謝野鉄幹(よさのてっかん)や北原白秋(きたはらはくしゅう)、吉井勇(よしいいさむ)、木下杢太郎(きのしたもくたろう)、平野万里(ひらのまんり)が明治40年の7月に来遊した記念碑ですね。吉井勇の歌碑は
"旅籠屋(はたごや)の名を川丈といひしことふとおもい出てむかし恋しむ"ですね。与謝野鉄幹が37歳ですが、あとは20歳代の学生ばかりじゃった。それを原田種夫さんらが西公園の吉原亭で歓迎会をして、伊崎浦から船で博多に入り、川丈に泊まったんです。そして後日、吉井勇がこの歌を作った。歌碑の字は誰が書いたと?

長尾

ご本人の吉井さんの筆跡ですよ。九州文学の人たちや、文学を愛する人たちから、一口100円ずつお金を集めて石を買って、工費一切はうちが引き受けてつくりました。たしか、昭和37年だったと思います。

松本

博多に来ると、まずお宅へ、という感じだったわけですか?

長尾

高級旅館はあったのですが、私のところは、早く来ても遅く来ても、食べても食べなくても値段は同じ。朝風呂から終い風呂まで何べん入ってもかまわない。劇場はタダ。合い部屋しない。これが評判をとったわけでございます。

篠原

アイデア経営だ(笑)。緒方煤鳥(おがたばいちょう)という六尺豊かな名物アドマンがついていたし...。

長尾

祖父は丈七、通称"初代丈七"です。川端におった丈七さん、というので屋号が川丈になったんです。それで、息子が虎吉というんですが、それが父で二代目丈七を名乗りまして、これはハイカラ好きで、ビジネスホテルも2軒作りました。その頃そういうものはなかったのです。

西島

ほう...。何年頃のことですか?

長尾

昭和の初めでございます。今の電通の裏の方に今の西日本新聞社、当時の福岡日日新聞が天神町に引越すので、それを引き受け、その次に、西中洲の病院も引き受けて、ビジネスホテルにしました。ハイカラにベッドでしたが、着物の人のために畳が一枚敷いてありました。部屋にバス・トイレはなかったですな。
うちが温泉と言われたのは、浜崎の鉱泉を運んで石炭で沸かしていたからです。カルシウム温泉もありました。櫛田神社の横のお寺の冷泉が、非常に皮膚病に効きました。その流れが、うちの家の真下を通っていたので、汲み上げました。普通の湯が1銭、温泉は2銭でした。

篠原

川丈は広告代理店も...。

長尾

はい、うちと三軒の代理業者が一緒になり西日本広告社となって、それを戦後西日本新聞社に譲りました。

西島

戦争で九州劇場も寿座も全部焼けてしまって。戦後いちばんに川丈が復活してストリップショーを始められた。額縁の中にこう、裸の女がじっとしているのが初めてでしたな。
おたくは博多にわかは?

長尾

生田徳兵衛さんは、博多にわかの名人でしたな。

西島

女優の生田悦子さんのおじいさんですね。

長尾

このくらい芸のできる人はいませんでしたよ。でも初めの頃は「あら、徳兵衛が来たよ。何をさしようか、何もしきらんが」て言うてた(笑)。初めての舞台が博多節の発表会の時の、生の黒田武士にならっしゃったと。

篠原

それはお宅でやったと?

長尾

はい、正調博多節をつくりましたのが、二代目長尾丈七でございます。昔の博多節は品のなか。ばってん、博多節は残さないかんと、大正8年、新聞社が歌詞を募集し、9年に四検番総出で発表会をしました。曲付けは父が清元(きよもと)の太夫(たいゆ)でしたので、他の二、三人の方と話し合ってつくりました。

松本

ほう、それは知りませんでした。

飢人地蔵さん(うえにんじぞう)

西島

川丈さんの近くに飢人地蔵さんがありますね。

篠原

享保17年(1732)の大飢饉で、博多で6,000人が死んどります。2月から6月まで雨続き、それに低温、うんか大発生で米ができず、全国的な大飢饉で、これはもう悲惨でした。黒田藩全体では、96,000人が死んだといいます。米の減収が42万石。黒田藩が52万3千石ですから、それはもう大変なことです。
櫛田神社に、博多商人が備蓄米の米倉をつくったのも、この飢饉があったからでしょう。いまはその記念碑が建っています。

長尾

その時、家老に偉い人がいて、一番に大阪に駆けつけて、米の買いつけをしたそうです。それだけお救い米ができたわけです。荒戸の藩の米倉から一合ずつお救い米を出していて、"荒戸の浜までつんなんご、つんなんご..."という歌になったんです。荒戸の浜まで手をつないでいこうと、子供たちが歌ったんですね。それから、もう一ヶ所でもお救い米をやっております。この供養に建てられたのが飢人地蔵さんで、いまも8月23日と24日におまつりしています。

西島

おおきな提灯を、ずうっと並べよったですね。

長尾

あれは川っぷちに、美しうございましたばってんね。自動車が通るごとなってやめましたな。私たちが子供の時は、毎朝おにぎりをあげに行きよりました。それを食べて飢えをしのいでいた人たちもいたわけですね。お地蔵様のお慈悲であの人たちは食べござっちゃけんと...。それが大正の初め頃までずっと続いておりました。

戦後の発展

松本

終戦直後の中洲は、だいたい今と同じですか?

長尾

空襲のあったあくる朝、春吉橋の所に立って見て、ポカーンとしておりました。一面に焼けてしまって、なーんもなかっとです。どこ行くなと言って腰掛けて見よりましたですたい。ただ、鉄筋の部分だけは残っとりました。それで、一部を修繕してもろうて、21年には建ち上がりました。毎日、仮住まいの*雑餉隈から満員電車に揺られて来ながら、いったい、また中洲に建ちきるんっちゃろうかと思いよりましたな。

西島

そうだ思い出した。新富町が戦後早くからあったっちゃ。

篠原

そして人形小路多聞通りね。

長尾

あそこが縄のれん復活の一番初めでございます。

松本

当時の懐かしいお店というと?

西島

今でもあるおでん屋の文楽があった。

長尾

松竹の隣すぐの双葉寿司も。そして、松竹座が焼跡にすぐ建ちましたろ。中洲市場もバタバタできました。うちが一番に建って、玉屋は焼け残りましたけんですな。

西島

中洲で焼け残ったのは...。

長尾

南新地の一部と中島から先ですね。戦後はまずここからにぎやかになりました。それから戦後、進駐軍が入って来て、商売も変わってきました。朝鮮戦争のあと赤線禁止になって、南新地は、小料理屋、飲み屋という今の恰好に変わっていくわけです。

西島

私も中洲で飲み始めて、40年になりますけんね。だから、だいたい知っとりますが、人形小路の玉喜なんかは、篠原さんたちが大先輩で、新富町の多聞通りにあったこずえやら、すいぶん開拓してござる。戦後の中洲で忘れてならないのは、川原俊夫さん。あの人が終戦後引き揚げてきて、中洲市場で明太子(めんたいこ)のふくやを始めんしゃった。

松本

東中洲から博多を代表する名産が出た。明太子はいまでは業者170社、年商1千億の堂々たる産業ですね。これは戦後の東中洲の大ホームランですよ。

西島

そして、あの中洲市場の中に育った子供たちが、ちょうど今34、5から40くらいになっとうとです。みんな兄弟みたいなもので、山かきの時もよう協力しござるですね。

篠原

ここでいまの中洲の現況をみてみましょうか。ちょっと市役所で調べたんですが、中洲が現在1丁目から5丁目までに区画整理していて、面積が十万坪。人口は平成元年1月末現在で、所帯数が235世帯、構成員が433人ところが昼間人口は約1万5千人、夜間人口がその3倍から4倍で4万から5万ということです。
営業の店の数が、

深夜営業の届け出 …1355軒 ゲームセンター …15軒
キャバレー …27軒 特殊浴場 …70軒
料理店(含カフェ) …754軒 ストリップ …6軒
ナイトクラブ …4軒 アダルトショップ …4軒
パチンコ屋 …5軒 その他 …4軒
マージャン屋 …8軒

合計で2,252軒のこういう業種の店が営業しています。

西島

そして、派出所は一つ。

篠原

派出所が二つも三つもいるごとならんように願いたいですね。そしてお寺もお宮もない。飢人地蔵、国広稲荷だけ。戦前はなかった商売が多いですね。

長尾

舞台が変われば世も変わる、お芝居の文句の通りでございます。

人情でつながる町に

最近の中州(西日本新聞社提供)

西島

中洲で、昔からのお店はどれくらいですか?

長尾

店は残っていても住居はよそというようになりましたね。時代ですね。

松本

この前、長尾さんのところをお訪ねして、ご令息の社長さんにお会いしたんですが、みんなあそこに住んでおられる。「こんな、お金になる所にお住まいになってもったいないですね」と話しましたらね、「いや、母がここを動こうとせん」と言われるんです。さっきおっしゃいましたよね、住んでいる人口がわずか500人足らずって。

長尾

私も口では、時代も変わったから移ってもよかばい、と言いますが、よそには三日とおりきるまい(笑)。だから私は言いますと。よその人は年とったら養老院やら入れられますでしょうが、私ははいずりまわっても、ここからよそへはいかんばいって...(笑)。

松本

最後に大先輩から結びに、中洲へのエールをお願いします。

篠原

そうですね。中洲っ子は以前のように人情でつながってほしいですな。それに、旅の人にも親しまれ、愛される中洲であってほしい。

長尾

今、人情がうすいばってんね...。でも、山笠が残っとる以上、中洲は絶対につぶれません。福岡と博多の人たちの心のつながりは中洲でございます。

篠原

山笠で見せる心意気を大事にせないかん。"博多の心"がないと、博多はつまらん、中洲はつまらんということになりますよ。次の世代への"博多教育"が大事になる...。

松本

昔のうるおいだけはなくさないようにしてほしいですね。

長尾

そして、昔のように、昼も楽しい、晩も来られる、というふうになしてほしいです。

西島

私たちは、夜の中洲しか思いよらんですもんな(笑)。

篠原

では、悪童は今から人形小路に行こうか...(笑)。