No.50 展望、吉野ヶ里

対談:平成1年10月

司会・構成:土居 善胤


お話:
佐賀県教育委員会副教育長 高島 忠平氏
聞き手:
福岡シティ銀行 常務取締役 野口 康見

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


昭和13年から注目されていた…

吉野ヶ里遺跡

野口

吉野ヶ里には日本中の関心が集まっていますね。発掘調査を手がけておられる先生が「邪馬台国が見えてきた」と…。

高島

一度そう言ってしまったものですから、あちこちで使われて往生しています(笑)。

野口

吉野ヶ里は急に出現したような感じですが…。

高島

いや、吉野ヶ里の遺跡は、昭和10年ごろから学会で知られていました。今、遺跡調査の現地責任者をやっている七田忠昭さんのお父さんの七田忠志さんという考古学者が、この遺跡の最初の発見者で、昭和13年に学会で報告されました。三友国五郎さんという、福岡の考古学の草分けの方も、ほぼ同じごろ学会に報告されて、それからこの吉野ヶ里遺跡が学会で広く知られるようになりました。そのころも邪馬台国論争がありましたが、七田さんが「邪馬台国を考える上で、この地域は学術的に重要な地位を与えられるべきだ」ということをまとめられたんです。そうした予見が、昭和61年から始めた今回の発掘調査で立証されたのです。

野口

ここは佐賀県の工業団地の計画でしたね。

高島

ええ。その事前調査として始められました。この遺跡は、戦後もいろいろ調査されて、中国の漢代の遺物や副葬品が入っている甕棺(かめかん)が多数発見されていました。だから、吉野ヶ里が佐賀平野の弥生時代の拠点であることは、今回の調査以前に位置づけられていたのです。工業団地決定に先立つ確認調査でも、大規模な濠をめぐらした「環濠集落(かんごうしゅうらく)」の存在が、ほぼつかめていました。ただ、その段階では、なかなか保存という話はできなくて、工業団地と文化財の共存ということで、遺跡の一部を工業団地の保存緑地の中に残すことになりました。そして、残りの地域約30ヘクタールを調査しようということになったのです。

野口

そして大発見になったのですね。

高島

ええ。調査の結果、大規模な環濠集落と2,000あまりの甕棺群からなる墓地、さらに人工的な盛り土をした弥生時代最大の墳丘墓(ふんきゅうぼ)が発見されて、ご承知の通りのフィーバーとなり、学術的な重要性から、保存することになったのです。

野口

保存と決められたのは香月知事さんの英断ですね。

高島

その通りです。当初は工業団地が66ヘクタール予定されていましたが、その約3分の1の22ヘクタールを一応保存しようということになりました。これが、今までの経過です。

魏志倭人伝のナゾを解くカギ

野口

お話をうかがう前に、吉野ヶ里の主要な年代を整理してください。

高島

吉野ヶ里遺跡は紀元前3~紀元3世紀の約600年間。魏志倭人伝の時代は紀元2、3世紀で、卑弥呼(ひみこ)が中国の(ぎ)に遣使し、「親魏倭王」の金印・銅鏡をもらったのは紀元239年。弥生時代は紀元前3世紀から紀元3世紀まで、ついで古墳時代は4世紀から7世紀ごろまでですね。吉野ヶ里と魏志倭人伝の邪馬台国時代より、400~500年後に古代国家が成立するのです。吉野ヶ里遺跡の今回の発見の意義をひとことで言えば、日本の歴史の中で最大の謎とされている邪馬台国の謎を解くカギをこの遺跡が提供している点だと思います。だから、吉野ヶ里から邪馬台国が見えると言っているんです。日本は7~8世紀に律令制度による古代国家が打ち立てられましたが、国家の成立過程を考えるには、国の成立の曙の時代である紀元2世紀から3世紀の魏志倭人伝の時代がどういう状況だったかということが、非常に重要な問題です。ですから、魏志倭人伝の時代は、邪馬台国がどこかというロマンだけでなく、国家の成立の道筋を明らかにしていく上で最も重要なテーマですね。

野口

その解明のカギは…。

高島

そのカギが2つ想定されています。1つは日本で最大の濠をめぐらした環濠集落が出てきたことです。それも濠が二重にめぐらされていて、幅が約6~7メートル、断面形がV字型で深さが3.5メートルくらい。外濠は延々2.5キロメートル以上も続いて、吉野ヶ里の丘陵をめぐっていて、その濠に囲まれた集落の大きさは約30ヘクタール以上あります。その内側にもう1つ内濠があって、内濠は丘陵の頂上の中心部をめぐっている。南北約110メートル、東西が100メートルくらいのほぼ長方形で集落の中心となっています。この内濠と外濠との間にたくさんの住居が営まれている大規模な環濠集落が出てきたということです。

野口

すごい規模ですね。もちろん日本一の規模でしょう。

高島

そうです。考古学的に見ると、魏志倭人伝の中の30数国のクニの中で、邪馬台国が最大のクニですが、その勢力の裏付けになるのがこうした大集落で、これは今まで近畿地方でしか発見されていませんでした。考古学の邪馬台国論争では、この大集落と近畿地方を中心に出土する三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)と、この2つから近畿説が優位に立っていました。この1つが吉野ヶ里の発見で崩れたわけです。

野口

それが吉野ヶ里発見の大きな意義ですね。それで、もう1つの鏡の方は…。

高島

三角縁神獣鏡は、京都大学の小林先生が鏡の分析を通じて、魏志倭人伝の中で卑弥呼が魏の皇帝から下賜(かし)される鏡であろうと推定され、そうした鏡が近畿を中心に分布しているという理由で、近畿邪馬台国説を示唆(しさ)された。その鏡は円形の青銅鏡で、縁が断面三角形、裏側の紋様に獣と神様を半肉彫りに描いている特殊な鏡です。ただ、この三角縁神獣鏡が魏の中心の洛陽近郊で1面も出てきていない、最近はこれが日本で作られたのではないかとも考えられているわけです。私は、むしろ北部九州で出てくる後漢の系統の鏡が、卑弥呼がもらった鏡ではないかと考えています。

高さ10メートルの物見櫓(ものみやぐら)

野口

それにしても大きなスケールで…。立派に復元された物見櫓も目を引きますね。

高島

楼観(ろうかん)ですね。内濠に囲まれたところに、濠が一部半円形に張り出していて、その内側に6本の柱からなる物見櫓の跡が出てきました。建物の平面的な規模や、柱穴の深さ、また、鳥取県で出てきた同時代の物見櫓風の絵などから、10メートルほどの高さだったろうと推定しています。この物見櫓の発見は吉野ヶ里が初めてです。

野口

魏志倭人伝に記されている施設が次々と出てきたのですね。

高島

ええ。そして城柵(じょうさく)です。濠を掘った土を外側へ盛り上げて土塁にして、その土塁の上に木の柵を立てて城柵にしています。城柵の跡は、全国で100ヶ所くらい発見されていますが、楼観とセットで発見されたのは吉野ヶ里が初めてです。また、内側の濠(城柵)に囲まれた一隅が同じように柵で囲まれています。ここにも竪穴住居の跡や掘立柱の跡があります。どうもここは特別な場所だったらしい。その集落のリーダーか祀りを司る身分の人がいた場所ではないか、あるいは宮室ではないかと考えられるわけです。これらが卑弥呼のいる所として魏志倭人伝に記されている「宮室、楼観、城柵を厳しく設けて、つねに人がいて武器を持って守っている…」という部分の記述と一致するわけです。だから吉野ヶ里が魏志倭人伝の世界、邪馬台国かということで、大きく報道されたわけです。

野口

待望の卑弥呼もあらわれそうで…(笑)。

高島

魏志倭人伝が卑弥呼のいるところとして描いた場所は、当時の30数カ所のクニの族長というか王の所在としてクニの中核的な集落であり、この吉野ヶ里のような構造をとっていたのではないかと思いますね。そのため気の早い人は、ここが邪馬台国だと言っていますし、そう理解されている方もたくさんいらっしゃいます。現に、県の議会で、ある議員さんが「ここは邪馬台国ではないのか、吉野ヶ里遺跡を邪馬台国だと考えるが、知事の所見は如何(いかが)」と質問が出たくらいで(笑)。邪馬台国論争が議会で取り上げられたのは、論争が始まって以来、初めてのことでしょう。

野口

さらに大規模の倉庫群が出てきましたね。

高島

城柵の外側に高床の倉庫群(たかゆか)の跡が出てきました。20ばかりありますが、弥生時代のものとしては極めて巨大な倉庫です。静岡県の登呂遺跡(とろ)の倉庫が復元されていますが、吉野ヶ里はその4倍以上の容積があり、そのような倉庫が20も集まっているのですから、たいへんな量の物資を集めた場所なんですね。おそらく当時のクニの範囲から物資が集められたのではないか。多分、環濠外の人たちの物資まで集められたのではないでしょうか。

野口

吉野ヶ里は当時のクニの中心部だったのですね。で、そのクニの範囲は…。

高島

考古学的には現在の“郡”を1つないし2つくらい合わせたものをクニととらえています。郡というのは、奈良時代の律令国家が7~8世紀に制定した行政区画で、奈良時代にも郡ごとにやはり租税を集めています。これが正税で、それを納める倉が正倉、東大寺の正倉院がそうですね。この正倉や郡の役所の跡が発見されていて、時代はさかのぼりますが、その規模に吉野ヶ里の20余りの高床倉庫が匹敵するわけです。

野口

そうすると、倉庫群はクニの租税倉庫なのですか。

高島

その推定にピッタリくる魏志倭人伝の記述もあり、「国ごとに市が開設され、産物を交易している。それを管理する役職がある」と書かれています。また「租賦を収む(そふ)、邸閣あり(ていかく)」(租賦…租税、邸閣…倉庫)とあります。中国では邸閣という言葉は公的な倉庫、軍事的な物資を集めた倉庫という意味でも使っています。だから、吉野ヶ里の高床倉庫が租税倉庫である可能性が強いのです。このように宮室、楼観、城柵、そしてこの邸閣と、魏志倭人伝に出てくる施設が、ことごとく吉野ヶ里で出てきました。当時の政治、社会、経済なども含めて、集落のありかたを明らかにできる資料です。だから、この遺跡から魏志倭人伝の世界を展望できるといっているのです。

最古、最大の墳丘墓

野口

墳丘墓の場所は佐賀平野のまん中で、クニの中心にはいちばんの場所ですね。そしてまた、墳丘墓の場所がスケールが大きいですね。

高島

この墳丘墓は、紀元1世紀の初めに作られた日本最古で最大の古墳で、この集落が最も栄えた3世紀から200年くらい遡ります。墳丘墓は、長方形の四隅を切り落とした長い八角形で、南北40メートル、東西30メートルくらい。高さは現在2.5メートルですが、戦後の開拓で削られているようですから、だいたい4.5メートルはあったようです。盛土は、粘土と砂質の土を交互に1層、1層つき固めていく版築という工法で、中国の技術を取り入れて作ったのでしょうね。その墳丘墓の中から、九州の弥生時代に特有の甕棺が8つ発見されました。その中の5つから銅剣や玉が出てきています。戦後の開発の時に、銅剣、銅鉾(どうほこ)、鏡、玉が発見されたといわれていますが、ここに埋められている甕棺には、族長的な身分を表す副葬品が納められているということです。

野口

副葬品のブルーのガラス管が目をひきましたね。

高島

このガラスの管玉(くだたま)は、これまで出土した同種のものの中で、もっともいい色です。ライトブルーとも、トルコブルーとも言っています。素材は純度の高いガラスで、元素が微妙に配合されています。中国からの輸入品で、日本か韓国で作られたのではないかと専門家は言っています。管玉には長短があり、組み合わせて出土した状況から、山形の頭飾りを作っていたと思われます。

野口

甕棺も2通りあるようですが…。

高島

墳丘墓の甕棺は、周囲の甕棺より一回り大きく、内側と外側に黒色の塗料が塗ってあったり、内部に水銀朱が一面に塗ってあり、また、副葬品が納められています。それに比べると、ほかに2千数百基の甕棺が発見されていますが、これは丘陵の尾根筋に2列にきちんと埋められて、全長は800メートルほどありますが、副葬品はありません。この2つの甕棺には大きな身分差があるのだと思います。中には貝輪(かいわ)をつけた人骨もありますが、これをつけた人はおそらく、祭や呪術を行う呪術師(じゅじゅつし)かシャーマン(巫女(みこ))でしょうね。

野口

貝輪は何の貝ですか。

高島

奄美諸島でとれるゴホウラ貝です。当時、南海の島と南九州に交易があったのでしょうね。この種の貝輪は北部九州の各地で発見されています。

野口

その頃の朝鮮半島とのつながりはどうなっているのですか。

高島

その時代、紀元前1世紀の初め頃というのは、中国が朝鮮半島に植民地をつくった時代ですね。現在のピョンヤンに楽浪郡(らくろうぐん)、のちにソウルに帯方郡(たいほうぐん)を置いて、朝鮮半島を支配しています。そのため、旧勢力の人たちが押し出されたり、国々の抗争が激化します。北部九州はその影響をもろに受けたわけです。その証拠として、北部九州の古墳で発掘される銅剣銅鉾銅戈(どうか)ですが、これは朝鮮半島に特有の青銅器文化です。これらの青銅器がいっせいに北部九州へ渡ってきています。また今回の調査で、製作の技術も渡ってきていることがわかりましたから、当然、これらをつくった人たちも渡ってきたことになります。つまり、北部九州は朝鮮半島の青銅器文化圏に組み入れられるわけです。

クニの形成

野口

甕棺の人骨を見ますと、弥生時代も激しい闘争の時代なのですね。これまで私たちが弥生時代に抱いていたイメージは、のどかな農村社会でしたが…。

高島

実際は激しい闘争の時代です。甕棺の中には首なしの人骨や、肩や腕に傷があったり、腹部に10数本の矢を打ち込まれているようなものもあります。これは、この紀元前1世紀の前半、北部九州一帯で部族の間の抗争が激しかったことを示しています。この抗争の中で、部族の結束、組織力の強化が求められたのでしょう。私はこの過程を部族社会の確立ととらえています。

野口

社会の確立といった面では、稲作の影響が大きいでしょう。吉野ヶ里ではもう稲作をしていますよね。

高島

この時代は日本で稲作が始まって200~300年たっています。自然の産物を採取する段階から、生産経済に入り、社会的な成熟が進んで、富める者と貧しい者の差も広がり、身分の差も出てきている。社会的にいろいろな複雑な様相が生まれてきている時代ですね。こうした中で、それを取りまとめていく族長の権威の確立が要求されてきます。族長は内部の首長であることはもちろんですが、戦争や対外的な交渉など、他の部族やクニに対して代表者であり、権威者でもあるわけです。

野口

族長の身分の確立が、クニの形成に必要になったのですね。

高島

そう見てくると、この墳丘墓がよく理解されてきます。真中に埋められた人がおそらくそのクニの始祖にあたる人で、後から放射状に埋められた人が歴代の族長でしょう。
濠をめぐらした大規模の環濠集落が、墳丘墓を取り込んで形成されている。これが非常に需要です。

吉野ヶ里人の生活

野口

それで、吉野ヶ里の人々は、どういう生活をしていたのでしょうか。

高島

そうですね。吉野ヶ里のムラの人口を我々は1,000人くらいだとみています。これまでの発掘調査からみて、この一帯に1万5,000個くらいの甕棺があるだろうといわれています。これは、約300年ほどの間に築かれたものですが、当時の平均寿命は短くて1世代が約20年、300年は15世代になりますから、1世代約1,000人になるわけです。

野口

1,000人というとこの時代としてはかなり大きな集落なのでしょうね。

高島

大きいですね。文化人類学の先生によると、1,000人というのは、1つの階級的な社会としてのクニをつくれる数だそうです。吉野ヶ里が、多分一番大きいムラだったと思われますが、それに類似するムラが4つか5つあって1つのクニを形成したのだと思います。魏志倭人伝には「山島に依(よ)りて国邑(こくゆう)を成す」とありますが、吉野ヶ里は当時のクニの首都のような集落だったといえるでしょう。おそらく男女は住み分けていて、子供は女性が育てている。水田と畑で、唐津市の菜畑遺跡(なばたけ)にみられるように、米、大麦からソバ、粟、ウリなどをつくり、家畜(ブタや犬)を飼っている。稲作畑作家畜、この3つを合わせて「複合農業」と呼びますが、そうした経営形態だったでしょうね。(※日本の稲作の最も古い遺跡は、福岡市の板付遺跡、唐津市の菜畑遺跡)

野口

この時期、当然、狩猟もしていたでしょう。

高島

動物性蛋白質が必要ですからやっていたでしょうね。しかし、やはり大事なのは植物性の食べ物を確保するということでした。農業以前の狩猟社会では、植物食料の採取はどうも女の仕事で、大切な役割だったようです。狩猟社会で植物性食物を確保するのは、大変なことですよ。稲作になれば、必要な食料が目の前で生産できる。その上、稲は他の穀物の3倍くらいの人口を養える生産性の高い食物です。だから、これは私の個人的な感想ですが、稲作を本当に取り入れたいと思ったのは、女ではないかと思います。それを、労働集約的に進めていったり、水田を大きく拡げていこうとなると、やはり男のリーダーシップが必要になってくる。その過程で逆に男の地位が高まってきたのだと思います。吉野ヶ里時代は、海産物などもとっていますが、重点はもう農業と家畜で、縄文時代と比べると安定した生活だったでしょうね。

「九州・邪馬台国」説

銅剣とガラスの管玉
「吉野ヶ里王国」(佐賀新聞社刊)より掲載。

野口

それはともかくとして、先生が主張されている「九州邪馬台国」説の背景をもう少し…。

高島

弥生時代にクニが生まれ、魏志倭人伝に書かれているように、卑弥呼が30数国を連合としてまとめるわけですね。そのようにクニが形成されていく様子を、吉野ヶ里が遺跡の上で具体的に示しているのではないかと思います。また文化的にも、墳丘墓から出てきた有柄銅剣(ゆうへいどうけん)、十字の柄(え)を持った銅剣、ガラスの管玉などは、中国とか朝鮮半島、あるいはメソポタミアなどの大きな文化圏の中でとらえることができます。当時の人たちはそういう国際的な関係の中で生活をしていたのでしょうね。こうした大きいクニの形成は、豊かな生産力を持った地域だと考えられます。邪馬台国の勢力を考える場合、その舞台は農業が始まって500~600年たった時代ですから、やはり稲作を中心とした農業の生産力というものを勢力のバックに考えるべきです。これまで、弥生時代の九州におけるメインステージは福岡市周辺や糸島平野、唐津平野とか玄界灘周辺を考えていたのですが、範囲を拡げて、むしろ福岡県から佐賀県にわたる広大な筑紫平野を考えるべきではないかと思いますね。そうなると、広大な平野を抱えた筑紫平野が弥生時代のメインステージとして浮かび上がってきます。

野口

九州邪馬台国説の大きな背景ですね。

高島

考古学の資料の積み上げで、魏志倭人伝の世界を再現できる日がくると思っています。いまのところ、魏志倭人伝に出てきているクニの中で、所在地が明らかなのは、対馬壱岐を除いて、末盧国(まつらこく)、伊都国(いとこく)、奴国(なこく)ですね。あとはよくわからない。少なくとも分かっている3つの国を遺跡や出土品から考古学的に追っていきます。副葬品を有する特定、かつ少数の甕棺群と、副葬品を有しない圧倒的に多数の甕棺群とでおりなす地域です。さらに魏志倭人伝の時代を飛び越えて、古墳時代になりますと、豪族の墓である前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん )が登場します。その前方後円墳を作る地域が、後世の地域に継承されていくわけです。奈良時代になると、国司は中央から派遣されますが、郡の長官(郡司)はその地の豪族が任命されています。その豪族が創る私の寺、つまり氏寺が建てられる地域でもあり、単位でもあります。その豪族が支配する地域は、弥生時代から古墳時代を通じてほぼ継承されているのですね。クニをそういう見方で見て、北部九州に当てはめていくと、少なくとも40くらいクニがある。そうなると、魏志倭人伝に登場する30国というのは、九州だけでまかなえる。まして、1つの郡をクニとしてとらえられるのであれば、これを近畿まで拡げると、魏志倭人伝の世界が拡散してしまう。それで私は、魏志倭人伝に描かれた世界は、北部九州であると考えています。

邪馬台国は筑紫平野か

かめ棺墓地

高島

その上に、私はまだ有力な証拠があると考えています。吉野ヶ里遺跡の楼観、邸閣といった、当時としては大規模な建物の存在ですね。楼観は、城の天守閣的な性格のもので、中核的な集落のステータスシンボルだったろうと思います。この時代に、これだけの巨大な建物を作る技術は、まだ近畿にはなかったのです。従来は柱の直径くらいの穴を掘って柱を建てていたのですが、北部九州では、紀元2世紀くらいから、柱より一回りか二回り大きい四角の穴を掘って、それに柱を埋め込んで立てるやり方をとっています。柱が下に沈まないように下に礎盤(そばん)を敷いたり、また柱が動かないように横木や根がらみを設けるわけです。そのためには、大きな四角な穴を掘らなければなりません。こうした穴が近畿で出てくるのは5世紀からで、4世紀に遡る可能性はあっても、弥生時代にはありません。この四角の柱を立てるための穴は、久留米でも福岡でも出ています。そうしたことからみても、魏志倭人伝の世界は北部九州だととらえた方がいいと思います。

野口

北九州のどこであるかが今後の問題ですね。

高島

先程もいいましたように、有明海北岸の福岡県から佐賀県にかけての筑紫平野ではないかと思います。年代がちょっと下って5世紀から6世紀にかけて、九州北半部の肥と豊と筑紫の豪族を集め、いわゆる九州豪族連合を作って、大和の豪族連合と戦って敗れる磐井がいますね。彼の本拠地が八女市周辺で、現に磐井が生前に作ったといわれる墓が八女市に残っていて、岩戸山古墳と呼ばれています。3世紀の魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の勢力が、後代に引き継がれるのにふさわしい地域はということになると、やはり磐井(いわい)の本拠地の近く、久留米から八女のあたりではないか。これは、私の吉野ヶ里遺跡の発見を通じての、邪馬台国に対しての思い入れでもあるんです。

邪馬台国はドコ?陳寿に聞きたい。

魏志倭人伝

野口

邪馬台国というと、どうしてもロマンとしてどこにあるのかということが知りたい。吉野ヶ里がその大きな切り口で、魏志倭人伝と一致する内容が多いということだと思いますが、「水行十日、陸行一月」の表現など、一致しないようなところも…。

高島

そうですね、文献的な解釈は専門ではないのですが、その行程や距離の解釈はいろいろありましてね。たとえば末盧国から伊都国が500里、伊都国から奴国が100里というように国と国が何里、「水行十日、陸行一月、邪馬台国に至る…」という記述、それから「帯方郡から邪馬台国まで一万二千余里」ともありますね(※この時の1里が現在の何kmにあたるかは不明。対馬と壱岐の間が約90kmあるが、倭人伝では1,500里と記している)。私は正直言って、これだけでは邪馬台国はわからないと考えています。邪馬台国時代のクニを考古学的にとらえて、どういうものであったかを考えた方がいいのではないかと思います。たとえば、邪馬台国は「七万余戸」の戸数があると書いてありますが、これはちょっと今の考古学的な知見では考えられないですね。末盧国が4,000余戸となっていますが、唐津の平野を発掘してみても、それほどの集落があったとは考えにくい。これはどうも魏志倭人伝の誇張ではないか。それから、「かささぎはいない」とか書いてあるのに、このへんにいるとか…(笑)。もっとも、かささぎの骨は今まで出てきたことはないので、後の時代に渡ってきたという考え方もできます。卑弥呼の墓がその径は100余歩とあっても、どんな墓かは分からない。そのように、魏志倭人伝は考古学の知見と一致しない部分がかなりあります。魏志倭人伝をまとめた陳寿は、どういう情報を集めて書いたのか聞いてみたいですね。倭人伝は、末盧国までの記述では周りの風景などをちゃんと描いているんです。「末盧国では草木繁茂して前を歩く人が見えない」、また「山裾(やますそ)まで海が迫っていて、そこに家がある」という部分は、考古学的な知見と全く一致しています。ですから、末盧国までは少なくとも、倭人伝の記録をとった人が来たのは確実ですね。

野口

それから先は伝聞でしょうか。

高島

わかりませんが、そうではないかと…。伊都国から先になると、あまりその地域の情景に触れていないのです。どうも北部九州、それも末盧国に近い範囲で、その情景をとらえているようなところがあると思います。最終的には、卑弥呼が魏帝からもらったとされる親魏倭王の金印が出てくれば邪馬台国は決まりでしょう(笑)。しかし、近畿でそれが出てきても決まりとはいかないだろう、という近畿説をとっている人からの声もあります。それが近畿に移動したのだとも解釈できるからです。九州で出てくれば、九州で間違いないだろう…と冗談で話したんですけどね(笑)。

野口

早く邪馬台国の真の姿に接したいものですね。吉野ヶ里をもとに、弥生へのロマンのお話を、本当に今日はありがとうございました。

吉野ヶ里へは

  • JR長崎線・三田川駅か神埼駅下車・タクシーで5~6分。
  • 車では九州横断自動車道、東脊振インター下車・10~15分。