No.51 加藤司書

対談:平成2年5月

司会・構成:土居 善胤


お話:
地方史研究家 吉永 正春氏
節信院住職 加藤 昌弘師
聞き手:
福岡シティ銀行 副頭取 井上 雄介

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


西郷さんとならぶ人材

加藤司書 年譜

井上

NHKの大河ドラマで司馬遼太郎さんの「翔ぶが如く」が評判ですね。筑前福岡藩は明治維新に乗り遅れて、どうも立場が悪かったのですが、それは維新の直前に藩が、加藤司書等勤王派を弾圧したからで、司書の処刑(慶応元・1865)が惜しまれますね。翌、慶応3年末には、王政復古宣言なんですね。

吉永

司書は第一次長州征伐(元治元年)のとき、福岡藩を代表して薩摩の西郷吉之助(隆盛)等と長州に寛大な斡旋をして、征長軍を解兵させるでしょう。軽輩出身の志士が多い中で、彼は大藩の家老職ですから、あとちょっと存命なら、西郷、木戸孝允(たかよし)等とともに新政府の参議に推されていたでしょう。

井上

その巨星、加藤司書を、今の人はほとんど知らないですね。

吉永

どうも、彼のつくった今様(いまよう・当世風の意で、俗謡、その頃のはやり歌。)が戦時中に全国的に歌われて、勤王の神様にされてしまった。「皇御国(すめらみくに)の武士(もののふ)は いかなる事をか勤むべき ただ身にもてる真心を 君と親とに尽くすまで」。時代が変わって、その反動が大きかったのではないでしょうか。

井上

戦後も45年、司書も冷静に見直される時ですね。

吉永

加藤司書は、文政13年の庚寅年(1830)の3月5日、この年は12月に改元になっているので天保元年に生まれています。明治維新の37年前、ペリー来航の23年前で、近くの萩や久留米では百姓一揆が起こり、物情騒然を感じさせる頃ですね。

如水を救った司書の先祖

吉永

今の平和台球場の入口に観音橋があって、その前の四ツ角に「若竹」という酒屋がありましたが、そこが司書の生まれたところです。城門前のその一帯は上の橋堀端といわれ藩の重役たちの屋敷でした。幼名三太郎、11歳の時、姉に迎えた養子の、義兄徳蔵が実家に復籍したので、加藤家11代当主として2,800石の家督を継ぎ、又左衛門徳成(のりしげ)と称し中老職となりました。司書は号です。
先祖の加藤重徳という人が黒田藩始祖の如水を地下牢から救出した功で、代々中老職に列せられた由緒ある家柄です。摂津国伊丹(伊丹市周辺)の豪族で、15代将軍足利義昭に仕えていましたが、織田信長により義昭が追放されたので、攝津を領した信長の武将荒木村重に身をよせていました。
一方、黒田孝高(よしたか)(如水)、当時の小寺官兵衛孝高は、村重が信長に離反して毛利の傘下に入ろうとしたので説得に行ったのですが、反対に捕らえられ、城内の土牢に閉じ込められてしまいました。そこは後ろが沼地で竹藪が茂って日も射さない場所で、一年近くも幽閉された孝高は、身体をこわして、足が立たなくなってしまいました。
村重の有岡城は、天正7年、織田軍の滝川一政に攻められて落城。この時、孝高に同情していた加藤重徳は、孝高家臣の栗山善助と共に、歩行困難の孝高を燃えさかる城から救出しました。

井上

それで黒田家から大事にされたんですね。

吉永

ええ。二男の一茂は如水に請われて幼時から如水に仕えて、長政の家老となり、甘木市の三奈木で1万6,000石の所領をもらう。これが、三奈木加藤の始まりで、後に黒田の姓を与えられ、黒田三左衛門一茂と名乗ります。
長男の吉茂はすぐに仕えていません。最初、宇喜多秀家、そして宇土の小西行長に仕えますが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで敗れたために浪々の身になります。
二男の一茂が、主人の長政に父と兄を呼びたいと願い出て、吉成が黒田に仕えるようになります。司書はこの吉成の嫡流です。父の徳裕は正妻に子供がなく、側室の尾形友花(ゆうか)との間に2男と2女、司書はその長男です。

井上

司書と運命的な出会いを持つ藩主黒田長溥(ながひろ)の方は…。

吉永

黒田藩の最後の殿様11代長溥は島津家の出で、英主島津斉彬(なりあきら)の曾祖父に当たる重豪(しげひで)の66歳の時の子です。また、長溥の姉の茂姫は徳川11代将軍家斉(いえなり)の正室でした。
長溥は江戸島津藩邸で育ち、重豪の孫・斉彬とともに重豪に可愛がられ、斉彬と仲も良かったそうで、後年斉彬の家督相続に随分力をつくしています。
長溥は文政5年(1822)黒田斉彬の養子となり、天保5年(1834)、24歳で藩主になります。当時司書はまだ4歳の頃です。

井上

司書が頭角を表したのは…。

征長軍の解兵に尽力

吉永

最初は24歳の時、嘉永6年(1853)7月、ロシア海軍のプチャーチン中将が長崎にロシア艦隊を率いて来た時のことです。前月の6月3日には、ペリーが黒船4隻を率いて浦賀へ来航し、幕府に開国を迫っています。東と西で大事件ですね。
プチャーチンも開国を迫り、幕府からは外国奉行の川路左衛門尉聖謨(かわじさえもんのじょうとしあきら)が応対しています。川路は幕府きっての人材で、プチャーチンもその人物を讃えています。

井上

司書がどうからむのですか。

吉永

長崎警護は筑前藩と肥前藩が交替で、この時は福岡藩の番でした。
司書は幕府代表で折衝に当たる川路を助けて、藩兵500余人を指揮して長崎を警固し、同艦隊を無事国外に立ち去らせました。異国との紛争回避に努力した功績は多大でした。
それから、次に上げられるのは長州征伐の解兵です。文久3年(1863)8月18日、会津・薩摩の会盟による政変で、それまで宮廷守護に当たっていた長州が解任され、尊攘派の7人の公卿とともに京を追放されますね。翌元治元年6月には新撰組が池田屋を襲い、長州の吉田稔麿、肥後の宮部鼎蔵ら勤王の志士を斬殺した池田屋事件などが起こる。同年7月、長州藩は息巻いて京都に上り、会津・薩摩と戦い、禁門の変、いわゆる蛤御門の戦いで、長州はこれに敗退します。
その報復として、幕府は前尾張藩主徳川慶勝(とくがわよしかつ)を総督として、36藩を動員して長州を討とうとしたわけです。広島に各藩の藩兵が参集、司書も藩を代表し、薩摩の西郷吉之助も来ています。この時、長州藩の毛利敬親元徳(たかちか・もとのり)親子を切腹させて長州藩召し上げという強行論まで出ていました。
長溥は、外国艦隊の脅威がある時に国内で戦っている場合ではない、国防に専念すべきだという考えで、穏便に解決したいと、司書に建白書を持たせ、徳川総督に提出しました。司書と西郷が参謀会議を止戦へとリードして、元治元年の暮、長藩の三家老らに腹を切らせ、恭順を条件に解兵が実現しました。つまり長州征伐の取り止めです。
解兵が決定した日、司書が広島の宿舎で詠んだ歌が「皇御国の武士は」の今様です。一身を堵して国のために大事を成したという感懐でしょうね。

太宰府が勤王のメッカ

井上

まさに得意の絶頂ですね。

吉永

そうです。ところが、それにおまけがつきました。山口に逃れていた七卿の処遇です。三条実美(さねとみ)、四条隆謌(たかうた)、三条西季知(すえとも)、壬生基修(みぶ もとなが)、東久世通禧(みちよし)、錦小路頼徳(よりのり)、沢宣嘉(のぶよし)の七卿で、そのうち錦小路頼徳が亡くなり、沢宣嘉は生野で平野国臣とともに兵を挙げているので五卿になっていました。尊攘派のシンボルの五卿を反幕の策源地長州においていては何が起こるかわからないということで、福岡藩が預かることになり、慶応元年の正月に太宰府の延寿王院に着くわけです。

井上

いまの宮司さんのお住いですね。

吉永

そうです。三条公の部屋が残っていますね。以後3年間、禁が解けるまで五卿は太宰府にいました。そこへ薩摩の西郷吉之助や土佐の中岡慎太郎、長州の高杉晋作らの志士が集まってくる。幕府も目付小林甚六郎に五卿の動静を見張らせて、無言の威圧を与えたり、場合によっては江戸に連れて行くというような態度を示していました。
最初は、五卿を五藩に分けるという案もあったのですが、司書らが反対して一緒に太宰府に預かり、筑前、薩摩、筑後、肥前、肥後の五藩の藩兵が五卿を守りました。司書はたびたび五卿を見舞っています。また、この頃薩摩と長州と手を結ばせようと、西郷と高杉に画策したといわれています。

井上

司書はその時いくつですか。

吉永

数えの35です。翌元治2年4月に改元されて慶応元年となり、その年の10月25日に司書は切腹ですから、維新のわずか前ですね。

井上

五卿を太宰府に移した頃までは、殿様とはうまくいっていたのですか。

吉永

そうですね。長溥という人は開明的な殿様でしたが、黒田藩が徳川家に厚遇されたこと、また姉が11代将軍家斉の正室だったこともあって、どちらかというと佐幕派、当時の言葉で言えば、公武合体派の殿様です。

藩論が勤王から佐幕へ

吉永

長溥という殿様は“蘭癖大名”と呼ばれるくらい、オランダから進んだ学問や技術を取り入れています。中洲に精錬所を設けて大砲を鋳造したり、ガラスまで作ったり。写真術や医学も長崎で学ばせている。養父の斉清は、シーボルトから医学の手ほどきを受け、長溥も一緒に見たりしています。

井上

殿様が一番教養があったわけですね。教養は過激派を受け入れない…(笑)。司書が勤王の旗を立てるようになる契機は何からですか。

吉永

外国船が来航した頃からでしょう。幕府が勅許を待たずに開港し、それに憤激する志士たちを弾圧して、安政の大獄になる。志士たちが激昂し、それが討幕運動のきっかけになるのですが、時代がたぎり、志士たちがエキサイトしてくるにつれて、天皇を中心にという思想が強まってきました。
さらに、長州征伐解兵の時に西郷吉之助等と接触して、幅広い視野ができたのではないか…。尊王思想が芽生えて、倒幕となり、筑前勤王派の首領として仰がれるようになったのです。
だが、司書が征長軍の解兵で得意の頂点にいたのも束の間で、佐幕派の家老たちが連名で司書の弾劾状を長溥に建白します。司書のやり方では藩をそこなう、司書を重用されるなら、一同揃って総辞任しますと申し出るんです。

井上

司書は首席家老でしたか。

吉永

いいえ、首席は三奈木の黒田播摩(はりま)ですが、他にも立花、犬音、浦上、野村、久野らの家老もいます。司書は元治元年の解兵の功労で財政の元締になり、郡町浦方の事務総宰にもなり、中老ですが実際に藩政の実務を司る家老になるわけですね。ところが、わずか3ヶ月で藩論が佐幕になって、罷免されて蟄居。そして切腹です。

外国侵攻に備えた犬鳴御別館

井上

弾劾されただけで切腹ですか。

吉永

いや、過激派の行き過ぎとか、長溥を犬鳴(いぬなき)御別館に幽閉するという風評もあったのですね。

井上

犬鳴御別館といいますと。

吉永

これも当時の外国侵攻の脅威の所産なんです。福岡城は海に近いので、万一の場合は藩主を犬鳴の別館に移し、最後の防衛線にしようという考えでした。元治元年の6月に着工して、翌年の2月にほぼ完成しています。西公園の下につくった砲台のお台場も同じような危機感からでしょうね。
久山町から若宮町へ通じる犬鳴の頂上付近に“司書橋”のバス停があります。別館跡は、ここから西へ1キロばかり入ったところです。

井上

当時は、ずいぶん不便な所でしたでしょう。

吉永

何しろ犬も鳴きながら通るという深山幽谷の地でしたから。
別館址は、東西25間(約50メートル)、南北40間、約1,000坪くらいの広さで、大手と搦手に石垣が残っています。その下に約2メートル程の山道があり、粕屋の方に通じています。
御別館の番所で、巡視に来た司書が藩士たちとあぐらをかいて話したという言い伝えがあり、観音滝で身を清めて涼をとったともいわれています。

井上

長州征伐とか騒がしい大変な時に、どうしてそんなものを…。

吉永

藩全体の国防的見地からでしょうが、この工事が司書の命取りにもなった。財政を浪費したということ、藩公を山中に移すということから反逆の疑いをかけられ、佐幕派の都合のいい攻撃材料になってしまうのです。
言い伝えでは、犬鳴に来ていた大工が、柳町の遊女に通っていて、殿様を迎える館だと漏らしてしまう。その遊女の情夫が目明かしだったというんですね(笑)。それで、別館の秘密が漏れて、司書が藩主を幽閉して世子の長知をたて、藩政を牛耳るという話になってしまったんです。

乙丑の獄(いっちゅうのごく)

井上

過激派の方は。

吉永

豪商原宗右衛門を襲い、金銀相場を乱した張本人と首を黒門に晒しています。佐幕派の重臣たちを襲撃しようと物騒なことを言い出す連中があり、これが佐幕派に漏れてしまう。

井上

それは、司書の配下で…。

吉永

司書は過激な行動に走らぬよう若い武士たちを戒めています。しかし、このころ、司書が長溥の気持ちを逆撫でするような建白書を、勤王派の家老、黒田播磨と連名で差し出しています。人心一和を名分に、長溥に佐幕的立場を改めてほしいという内容です。

井上

それでは殿様も腹を立てるしかないですね(笑)。

吉永

ええ、長溥は非常に立腹し、勤王派の弾圧を決意します。過激派が藩を潰してしまうと思ったのでしょう。
司書等の勤王派が弾圧されたのは慶応元年(1865)、ちょうど乙丑の年に当たっていたので、乙丑の獄(いっちゅう)というんですが、明治維新のわずか2年前ですね。司書と大組の斉藤五六郎が天福寺で切腹。建部武彦衣非茂記が安国寺。尾崎惣左衛門万代十兵衛森安平が正香寺で切腹。2日前の23日には、桝木屋獄で月形洗蔵梅津幸一鷹取養巴森勤作江上栄之進伊藤清兵衛安田喜八郎今中祐十郎今中作兵衛中村哲蔵瀬口三兵衛佐座謙三郎大神壱岐伊丹信一郎筑紫衛等、15人が斬首されています。筑紫衛は脱獄し、那珂川で水死したのを、改めて斬首するという凄惨さでした。
姫島に流された野村望東尼(いっちゅう)などまで含めると、百数十名もの人が断罪されています。福岡藩はこの時、維新で通用する人材を総なめに失ったのです。
しかし福岡藩はその後、明治政府の中後期に活躍する優れた人材を多数輩出しています。明治憲法制定と日露戦争講和に功績のあった金子堅太郎や、同じく日露講和に活躍した山座円次郎(やまざえんじろう)、日露戦争の勝利を諜報活動でもたらした明石元二郎(あかしもとじろう)、明治政府最大の課題であった不平等条約改正に貢献した栗野慎一郎、三井の大番頭として日本経済のリーダーであった團琢磨もそうですね。新政府に通用する人材はなくしましたが、次の日本を支える人材をきちんと送り出しているんですね。
長溥は、これらの有為な青年を私費で留学させて、新しい学問を勉強させている。そういう意味で、長溥は乙丑の獄の償いをしていることになります。また司書の遺児にも長溥は後に不明を詫びて、毎年銀20枚を与えています。

井上

ところで、筑前勤王の志士というと、平野国臣が浮かびますが、司書は、一緒に行動していたのですか。

吉永

司書は一藩の家老、国臣は足軽出身で、身分差もあり、なかなか接触の機会がなかったようです。国臣が脱藩していたこともあるでしょうね。

井上

歴史のうねりの中で、どちらが大きな役目を果たしたのでしょうか。

吉永

やはり大きな行動からいうと、広島解兵に功のあった司書でしょうか。

井上

勤王の歌人、野村望東尼とは。

吉永

望東尼の孫、野村助作の妻の父は、勤王派の建部武彦で、その妹の安子は司書夫人ですから、望東尼とは同志の仲だったようです。司書や建部の自刃後に詠んだ歌があります。「もみじはも散らぬさきこそ惜しみつれ 心のこさで共に砕けむ」。
維新を振り返ると、司書のような高祿で家老職にあった者が直接勤王に活動するという例は、他藩にはあまりありませんね。

井上

どうも、司書を筆頭にした筑前勤王派は、巨木は立ち並んでいるが、森にはなっていなかった感じですね。長州のように奔騰するエネルギーがなかったのは、片方に狂気と一歩離れたスタンスの博多があったということも影響しているんじゃないですか。

吉永

そう思います。昔から大陸文化を取り入れて開明的な都市ですからね。時代の流れは読み取るが、狂気までは走らない。一つの制御を博多が果たしていたのかもしれませんね。薩摩は狂気のエネルギーが明治10年まで続くでしょう。変動を起こすエネルギーは、どうも僻陬の地の生み出すものかもしれませんね。

切腹

井上

司書の切腹は急転直下ですね。

吉永

そうです。今の赤坂門の角のある「一色」のあたりに2,000石の中老職隅田清左衛門邸があった。ここに慶応元年(1865)10月23日に突然預けられ、座敷牢に入れられます。6畳の部屋の中にもう一つ木を組み合わせて囲いを作る二重室のような部屋の牢です。24日、25日と3日間そこにいました。
司書が「御当家にご厄介になるとは夢にも思っていなかった。君命なら謹んで従うのみ。ただ、気になるのは子供たちのこと。玄関に手をついておかえりなさいませと迎えるのだが、今頃はさぞ、帰りが遅いと待っているだろう」。2日目には「お前たちは“よなべ”という言葉を知っているか。昼間仕事をし残したのを夜やるから、本当は“よのべ”と言うのが正しい」と言ったと隅田の家臣が書き残しています。3日めは髪をあたってもらい、夕食に酒と御馳走が出たので、処刑を悟ったのでしょう。それを全部たいらげ、お酒も許された3杯を飲み干しました。

井上

豪胆なものですね。

吉永

さて、10月25日夜の10時頃、またものものしい迎えの駕籠の列が来ます。その前に隅田邸の書院で、上使の河村五太夫が上意を読んで切腹を申し渡します。この時、切腹の場所を告げるのを失念したので、司書はすぐにそれに反問します。河村は詫びて、天福寺であることを改めて告げます。
当初は聖福寺の塔頭で、加藤家の菩提寺である節信院でということでしたが、聖福寺山門の後鳥羽上皇の勅額に恐れ多いという理由で、天福寺に変更になりました。夜の10時過ぎに赤坂門を発って春吉を通り、左折して瓦町を過ぎ、深夜12時近く小山町の天福寺に着く。何もかもが終わったのが、未明3時頃だったということです。
司書は介錯人に、自分がよろしいと言ってから首を打ってくれ、と言って、辞世の「君がため 尽くす真心今日よりは なおいやまさる武士の一念」を朗吟して、よろしいと言って首を前に差しのばしました。介錯人があわててうちそこない、介添人が打ち落としたといいます。司書の身体は、仰向けに倒れると同時に身体の中から「ウーン」という気息が発せられたというから凄いですね。なきがらは、家臣たちが節信院へ運び、そこへ葬りました。
五十年後、大正4年の墓地改葬で発掘された時、甕の中から、血がついて茶色に変色した袷に肉片も少し付着して出てきたそうです。おりからの軍国思想に乗って非常に話題になり、司書のつくった今様、「皇御国の」がよく歌われるようになって、軍人のお参りが多くなりました。
司書夫人、安子は、司書と同じ日に切腹した建部武彦の妹です。2男2女が生まれています。夫人は7ヵ月後に後を追って亡くなりました。夫と兄を同時に失った心痛から病気になり、遂に絶食して果てたのです。
司書の長男の堅武(たかむ)は、明治10年の西南の役で西郷軍について福岡で挙兵しましたが、捕らえられ、首を打たれています。菩提寺の節信院に現在いらっしゃる住職の加藤昌弘さんは、司書の次男、大四郎の孫に当たる人です。

井上

で、司書を弾劾した佐幕派の領袖たちはどうなったのですか。

吉永

時代の風向きが変わり、慶応4年(明治元)の2月に、佐幕派の家老浦上信儂野村東馬久野将監は閉門謹慎4月に切腹を申し渡されます。彼等の最後も立派なものだったそうです。

井上

殿様の長溥もどうしようもない。まことに辛い心境だったでしょうね。

凛々しい男振り

司書のプロフィールをもう少し。

吉永

司書は凛々しい男振りだったらしく、肩幅の広いがっちりした体格で文武に秀で、沈着で胆力あり、力が強かったそうです。碁盤を片手で持ち上げ燭台の火を消したという話も残っています。若侍が碁盤で火を消せるかと議論しているのを黙って聞いていて、家で練習して彼らの前で火を消してみせた。周到な人だったんでしょう。
それから、投網(とあみ)の話があります。船釣りの時、家老が自慢げに投網を打つんですね。司書は、庭を海に見立てて、縁側から投網を打つ練習をして、パッと広げて打てるようになった。次に釣りに行った時、知らん顔で投網を打って見せて、見事に魚を捕まえた。この人は負けず嫌いですね(笑)。
また、よく心を配る温厚な人で、目下の者によく慕われたということです。「槇乃戸」という八幡黒崎出身の力士を非常に引き立てていました。自刃の時に付けていた袴腰板(はかまこしいた)を形見にもらい、子孫が大切に伝えて、現在八幡市民センターに展示されています。
実は、家内の曾祖母が、娘時代に加藤家へ行儀見習に上がっており、自刃当時の見聞したことを、祖母にあたる娘に、「殿は立派な御最気でした」と目を潤ませながら語っていたそうです。

井上

五卿が助命願いをしたのでは。

吉永

三条実美の意を受けて、土佐脱藩の土方楠左衛門が、太宰府から馬をとばして駆けつけ「切腹待たれよ。助命の使いでござる」と門を叩いたが、門は開けられず「司書殿、すでに腹を召された」と非情な返答で救出できなかったという話ですね。

井上

のちの土方久元伯爵ですね。

吉永

そうです。三条も蟄居の身ですから、助命嘆願だったでしょうね。

井上

五卿のその後は。

吉永

2年後に維新を迎えると、藩は全くうって変わった態度です。司書在職中は見舞もしていましたが、藩論が佐幕になってからは冷淡な扱いだったんです。五卿が復官して帰京の時は一変し、五卿にお祝いを贈っている。三条公には300両寄進しています。

井上

話は変わりますが、黒田の殿様は、武人派は長政・忠之の2代くらいで、あとはだいたい学者タイプの殿様でしょう。勤王、佐幕の選択にも影響したのかもしれませんね。
それに、長州にしても薩摩にしても、関ヶ原で負けた方でしょう。土佐の勤王派は長曾我部の残党。一度やられた側が、馬鹿力を出している。逆に、勝った方の福岡藩は力が出ない(笑)。
司書がつくった今様は、他にも残っていますか。

吉永

司書の酔筆にこんなのもあります。「無二膏や万能膏の奇特より親孝行は何につけても」。親孝行が何よりも一番の良薬ということですね。

井上

司書にまつわる行事は。

吉永

前福岡市長の進藤一馬先生が、節信院の司書会の会長で、毎年10月25日の司書の命日には、節信院で法要を行っておられます。司書を偲ぶ人たちが多数集まられますね。

井上

先生が司書に魅かれるところは。

吉永

人間としての最後の態度ですね。
武士としての人生の処し方に魅力を感じますね。もちろん、潔くするといっても、投げ出して死んでしまえばいいということではありません。
しかし、命を投げ出す覚悟で当たれば、どんなことでもできるのではないですか。だから、司書の立派さに魅かれるのでしょうね。

井上

今日は興味深いお話を、ありがとうございました。

曾孫の節信院住職、加藤昌弘師に聞く
司書公のこと

司書公の御子孫ですね。

加藤

はい。司書には長女のまき、長男の堅武と次男の大四郎、末娘ちかの4人の子供がいました。堅武は、明治10年の西南役のとき、西郷さんに呼応して決起して、鎮圧され刑死しています。いわゆる福岡の変で父子2代、節に殉じました。
堅武の夫人チセは、母里太兵衛の子孫でした。残された娘が2人、ちさゑぬで、ちさに大村藩士族の子息、万四郎を養子に迎え、この人が銀行の頭取などをしていました。こちらが本家筋で、今は子孫が横浜に在住しています。

御住職の方は…。

加藤

私の方は次男大四郎の子孫です。大四郎も福岡の変に加わりましたが、若年のため赦されました。若死しましたので、その子供、当時6歳の輔道(ほどう)が加藤家の菩提寺、節信院の親寺聖福寺にあずけられました。輔道が私の父で、成長して節信院を守り、私が引き継いでいます。

玄洋社の頭山さんはよくお参りに…。

加藤

頭山満さんは、羽織袴のまま、墓前の石に正座して黙祷(もくとう)しておられました。福岡の変の前に検束されて決起に加われず、それで生命が助かった方で、国を愛する至誠の方でしたから、司書公を敬慕される気持ちが深かったでしょうね。

司書公の写真像は…。

加藤

ありません。それで司書の風貌ですが、娘時代に17歳のときまで司書に仕えていた原田トミという人が大正時代まで存命で、“うちの住職”(輔道)とそっくりだったと証言しています。戦前、平野国臣の甥の田中雪窓という彫刻家がつくった、司書の銅像が西公園にありましたが、戦時中に金属回収で撤去されました…。

御子孫として司書公評を。

加藤

至誠一筋の人でした。今生きていれば、全てが金づくめの世の中を痛憤するでしょうね。大義のために筋をゆずらず、従容(しょうよう)として死んでいった。戒名が見性院殿悟道宗心居士で、全てを尽くしているような気がします。