No.53 博多の禅寺

対談:平成3年2月

司会・構成:土居 善胤


お話:
福岡県地方史研究連絡協議会会長 廣渡 正利
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行専務取締役 木村 順治

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


博多はお寺が多い

木村

博多には立派なお寺がたくさんありますね。今日は聖福寺崇福寺承天寺の三禅窟(さんぜんくつ)のお話を。

西島

たしか京都に次いで多いとか……。お寺がお城の防衛のために配置されているという話も聞いていますし、お坊さんが饅頭とかお茶とかの元祖だという話も多い。不思議なのは、藩主黒田家の墓が崇福寺と東長寺の2つの寺にわかれていることで、その理由を何度聞いてもよく分からない(笑)。

廣渡

この禅宗の3つのお寺は由緒が古くて、黒田長政が関ヶ原の戦いの功で慶長5年(1600)に筑前52万石の城主になる前からあったんですね。

崇福寺は、太宰府にあったのを長政が菩提寺として博多に移したのです。初めに呼び方を整理しておくと、聖福寺はショウフクジ、崇福寺はソウフクジ、承天寺はジョウテンジですね。

西島

お寺の古さからいいますと……。

廣渡

聖福寺が源頼朝の頃で、1番古くて建久6年(1195年)、次が太宰府に建てられた崇福寺で仁治元年(1240)、承天寺が仁治3年(1242)と前後50年に建てられています。
中国との関連で言えば、南宋(1127~1279)の頃ですね。
お寺には開山と開基とがあって、開山はお寺を創立したお坊さん、開基がお寺を建てた人ということです。お寺は元々は天皇や公家の建立によることが多く、時代が下ってだんだん地方の豪族たちが建てるようになり、さらに時代が下ると、一般の人たちがお金を出し合って建てるようになってきます。その頃は、中国から帰って来た人が、1番偉く見られていて、お寺は学問と文化の中心でした。知識階級のお坊さんを養成する所で、お葬式をするというのは、ずっと後になってからですね。

西島

栄西(ようさい)禅師がお茶の元祖だとか、聖一国師(しょういちこくし)が饅頭の元祖だとか……。

廣渡

いずれも中国から来たもので、この方たちにぴったりなじむのですね。

  • 黒田長政-博多シリーズNo.5 「黒田如水と長政」参照

日本最初の禅寺 聖福寺

聖福寺

木村

じゃあ、まず聖福寺から……。

廣渡

栄西禅師[永治元年(1141)~健保3年(1215)]が開山で、多分博多の人たちがお金を出し合って建てたんじゃないかと思います。
明庵栄西(みょうあんようさい)は、岡山の生まれで比叡山で天台宗を学び、仁安3年(1168)と文治3年(1187)の2回宋にわたり、臨済禅を学びました。2回目は47歳のときで天竺(てんじく)(インド)へ行くのが目標でしたが、交通不能ではたせなくて、在宋4年で建久2年(1191)に帰国され、聖福寺を建立されたのです。鎌倉五山の寿福寺や、京都五山の建仁寺も建立されています。
聖福寺は別説では、源頼朝の申状(もうしじょう)というのがあって、頼朝が大檀越(だいだんおつ)で建立したという言い伝えもあります。
聖福寺が出てくる1番古い資料は『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』で、東福寺の虎関師錬(こかんしれん)というお坊さんが、お寺のいろいろな歴史を書かれたものです。

西島

聖福寺の山門に後鳥羽上皇[治承4年(1180)~延応1年(1239)]の、「扶桑最初禅窟」の勅額がかかっていますね。

後鳥羽上皇 勅額

廣渡

上皇の御宸筆で、扶桑は日本のことですから、日本最初の禅宗のお寺ということです。

木村

たいへんなお墨付きですね。

廣渡

聖福寺は栄西が京都に建立した禅宗の建仁寺派です。鎌倉幕府の外交上の役所のように扱われていて、来日した使節は、だいたい聖福寺に泊まっています。室町時代も同様でした。

西島

塔頭(たっちゅう)が多いですね。

廣渡

塔頭は一応修行を終えたという人たちが住んだお寺で、本寺の聖福寺の寺務を助けていました。幻住庵(げんじゅあん)・虚白院(きょはくいん)、円覚寺順心庵節信院広福庵などで、終戦後は独立した宗教法人になっていますね。

西島

今でも聖福寺は結構広いですが、昔は広大なものだったんですね。

廣渡

そうです。境内を妙楽寺に分けたりしましたからね。禅宗のお寺は七堂伽藍といって、広壮な規模なんです。だいたいどのお寺も同じ造りになっています。山門、仏殿、和尚さんがおられる方丈(ほうじょう)。そのほかに今の厨房の、庫裏(くり)、そしてお坊さんたちがいる僧堂。浴室、東司(とうす)、これはトイレです。
聖福寺は禅寺の伽藍様式が残っているので、昭和四十四年に国の重要史跡に指定されています。

聖福寺MAP

木村

どうして福岡には禅宗のお寺が多いんですか。

廣渡

最初に中国から伝来した所だからでしょう。栄西は十数年もここにいたので、博多だけでなくて、香椎の報恩寺、筑後の千光寺など、栄西を開祖とするお寺があちこち残っています。

西島

聖福寺の山門に、山崎朝雲十六羅漢の木像がありますが、公開は年一回だけでもったいないですね。

廣渡

名作ですからね。姪浜の興徳寺にも、大応国師(南浦紹明(なんぽしょうめい))自賛の頂相(ちんそう)(肖像画)があるんです。鎌倉時代の貴重な作例ですが、これも年一回の開山忌の日しか公開されません。

西島

どのお寺さんも、内陣や庭園を、もっと気軽に見せていただけるといいのですね……。

廣渡

京都だと見学者が多いから拝観料で説明する人を置けるんですが、あまり観光にはしない方がいいような気もするし……。どのお寺も寺僧は二、三人しかいませんから、とても手が回らないんですね。

西島

それから、どこでも殿様の墓所が歴史散歩の大きなポイントですよね。しかし、ここは黒田さんの墓に参ろうと思っても参れない。なんとかしてもらったら、と思いますね。

廣渡

その通りで、ちょっと博多の人は黒田さんに関心がうすいですね。
その背景に黒田さんのフが悪かった(不運だった)こともありますね。幕末に藩の対応が悪くて明治維新に乗り遅れたのがよくなかった。加藤司書たち勤皇の人たちを島流しにしておけばいいのを、切腹させている。その上、明治になっての贋札事件で、新政府にとっちめられてさんざんでした。
四百年前に長政が入国して、那珂川から東の福岡を家臣団の街にしましたが、その頃はまだ整ってなくて、博多のほうが城下町みたいだったでしょう。それに、黒田三百年より博多の街の歴史の方がうんと長い。そういうことからなんでしょうが、藩政はまずまずだったのですから、博多の人はもっと黒田さんを大切にしていいですね。

  • 山崎朝雲-博多シリーズNo.33 「山崎朝雲・冨永朝堂」参照
  • 加藤司書-博多シリーズNo.51 「加藤司書」参照

多くの名僧を生んだ崇福寺

崇福寺

西島

崇福寺は黒田さんの菩提所ですね。

廣渡

黒田藩主13人のうち11人が祀られています。

木村

誰が開基ですか。

廣渡

崇福寺は、聖一国師などと一緒に中国に渡った湛慧(たんえ)という天台宗の偉いお坊さんが、仁治元年(1240)に太宰府の横岳に建てられました。
翌2年、聖一国師が帰国して禅宗のお寺に変えられ、その後、国師の甥の大応国師が住持になられた。
この方が開基です。大応国師は、中国から帰って鎌倉の建長寺(けんちょうじ)におられましたが、北条氏の懇請で博多に来られたのです。文永6年(1269)に姪浜の興徳寺、文永9年に太宰府の崇福寺に移られて33年間おられました。この方は純粋の祖師禅をとなえられ、多くの高僧を育てられました。
大応国師の弟子には京都大徳寺大灯国師(だいとうこくし)、妙心寺の開山の関山慧玄(かんざんえげん)など名僧が出て、大応派ともいわれています。大徳寺も五山(ごさん)の中に入ったことがあるんですが、いろんな関係で十刹(じっさつ)になって、崇福寺と同じ寺格です。

崇福寺MAP

木村

その五山の下に十刹が……。

廣渡

そうです。崇福寺と承天寺が十刹に入ったのはちょっと後の応永年間で、その頃は十刹というのが5、60くらいできていました。だから3つとも同じ格なんです。

木村

崇福寺はいつから博多へ。

廣渡

戦国時代の末期に、島津氏が九州統合を目指して北上し、天正14年(1586)、太宰府岩屋城にこもる大友氏の名将・高橋紹運(たかはしじょううん)を囲んだ時、戦火で焼かれてしまいました。その後、黒田長政が筑前城主として入国してから、菩提寺にと博多へ移したのです。その時の住持・江月和尚(こうげつおしょう)が、崇福寺中興の開山とされています。

木村

なるほど。だから、崇福寺は藩から優遇されたのですね。

廣渡

崇福寺の寺領は300石で、徒弟の教育や寺の普請まで藩からお金が出ていました。聖福寺は200石、承天寺は100石です。100石で10人くらいのお弟子さんが食べていけるくらいですね。

木村

崇福寺が1番高かったので……。

廣渡

いや、ほかにも。少林寺もそうですし、荒戸山の東照宮(現、光雲神社)の松源院という徳川家康をまつっていたお寺も300石でした。

木村

崇福寺は、黒田長政公等藩主の菩提寺ですが、頭山満(とうやまみつる)、来島恒喜(くるしまつねき)等、玄洋社の人たちの墓もありますね。

廣渡

島井宗室高場乱(たかばおさむ)、江藤正澄等の墓もあります。ただ、黒田家の墓所は中囲いの中にあって、一般の人は入れませんね。

西島 伊三雄氏

西島

2代藩主忠之、3代光之の墓は、東長寺にあると聞いていますが。

廣渡

ええ、2人の墓は同じ御供所町の真言宗の東長寺にあります。東長寺は空海の開基と伝えられています。忠之の手習いの師匠が真言宗の高僧で、忠之が信者になり、死後は東長寺にと言って200石の寺領をつけました。
忠之が、菩提所は崇福寺だから、子孫が菩提を弔ってくれるか気がかりだといったので、息子の光之が、じゃあ私もと、2代目と3代目が東長寺になったんです。光之も100石加えたので、東長寺も300石になりました。

木村

そうすると、4代目の綱政から崇福寺に戻ったのですね。

西島

中央区の親不孝通りにある少林寺に、黒田の奥方の墓があると聞いていますが……。だいたい藩主夫妻のお墓は隣り合ってあるはずでしょう。

廣渡

長政の奥方で、信仰が別々だったからです。夫人は徳川家康の姪で浄土宗でした。この寺にも忠之が100石寄進、後に徳川将軍の霊をまつって200石を加え、寺領300石になっています。

木村

崇福寺は入口に有名なお地蔵さんがありますね。

廣渡

旭地蔵さんですね。禅宗とは関係ありませんが、縁日の四の日はたいへんな賑わいですね。

  • 五山-禅門臨済宗で最高の寺格を持つ寺をいい、十刹の上に位置する。鎌倉五山は建長寺、円覚寺、寿福寺、淨智寺、淨明寺。京都五山は足利義満により確定され、南禅寺(五山の上)、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺をいう。
  • 十刹-五山に次ぎ、諸寺の上に位する。当初十寺であったが、次第にあいまいになり、単なる寺格の名称となった。

山笠と縁が深い承天寺

承天寺

西島

次は承天寺(じょうてんじ)さんですね。呉服町の筋のところは、昔は門前町で、お参りで栄えていたといいますね。

廣渡

聖福寺と承天寺は地続きだったんですよ。今は広い道が通って離れていますが……。

西島

承天寺を建てたという謝国明(しゃこくめい)の墓が出来町(できまち)にありますね。大きな楠の木の根元で。子供の頃は大楠様といって、あそこでよく遊びましたが……。

廣渡

明治22年に鉄道が通ったので分断されましたが、以前はあそこまで承天寺の境内だったんです。あそこにある謝国明の碑は、約600年後の天保3年に建てられています。

木村

聖一国師や謝国明の姿が、もう少しはっきり見えてもいいと思うんですが……。

承天寺MAP

廣渡

700年ぐらい前の鎌倉時代のころは、中国から博多にやってきて貿易する人がたくさんいたんですね。謝国明もその中の1人だと思います。承天寺の開山は聖一国師ですが、国師に帰依(きえ)していた謝国明が中心になって、承天寺を建てたのでしょう。当時は主に私貿易で、お互いに博多と中国の浙江省の寧波(にんぽう)あたりを自由に往来していました。

木村

その頃から博多はたいへんな国際都市だったんですね(笑)。

廣渡

中国は南宋の時代ですね。栄西禅師も聖一国師も、元々は天台宗のお坊さんです。国師は、諱(いみな)が弁円、字(あざな)を円爾(えんに)と言い、おくり名されて聖一国師となった方です。嘉禎元年(1235)、平戸を発って明州に渡り、在宋6年。抗州の径山萬寿寺(きんざんまんじゅじ)で名僧無準師範(むじゅんしはん)(仏鑑禅師)から法を受けて仁治元年(1229)に帰国して崇福寺により、ついで仁治3年(1242)に承天寺を建立されました。
国師が広められた禅宗は、中国の純粋な禅ではなく、禅宗と天台宗を兼ね備えたものでした。

黒田 長政

西島

すると、聖一国師は750年ぐらい昔の人ですね。それじゃ博多山笠もたいがい古かとですね(笑)。

廣渡

博多山笠の起源は、聖一国師ということになってますからね。
あの方は天台宗も学ばれていて、病気がはやった時に平癒の祈祷をされたんじゃないでしょうか。閼伽棚(あかだな)に乗り、これをかつがせて、博多の街を祈りながら水を撒いて回られた…それが山笠の起こりだといいますね。
天文9年に、筑前の守護大内義隆が、承天寺に天皇の病気平癒の祈祷をさせています。また、延宝年間に博多に流行病がはやったので、承天寺で祈祷をしてお守り札を配ったり、そういういろんなことを結びつけて、聖一国師が山笠の起源となったのでしょう。
このように、承天寺との縁が深いから、山笠は承天寺と東長寺に舁きいれているんです。もっとも、回らないこともあったようで、その都度、お寺に謝っています(笑)。
以前は、6月に承天寺で大般若の眞読会が行われていました。昔は山笠は6月でしたから、その時のお札を山笠につける、ということもあったんじゃないかと思います。

廣渡 正利氏
木村 順治

西島

正月の11日に承天寺のお坊さんが筥崎宮(はこざきぐう)に参って、お経をあげる儀式もありますね。

廣渡

あれは、聖一国師が中国からお帰りになる時、嵐で難破しそうになったとき、筥崎宮に祈って、八幡様に助けていただいたということで、お礼参りなんですね。

西島

それが700年も続いている。

廣渡

そうでしょうね。明治初年の神仏分離の時は、遠慮して鳥居の前から拝んだというような話も残っていますよ。もう1つは、筥崎さんが東光院を聖一国師に寄進されたからという説。東光院は天台宗でしたが、鎌倉時代に禅宗になって承天寺の末寺になるんです。謝国明が筥崎さんの社領から100町歩くらい分けてもらって、承天寺に寄進したからという説もあります。

木村

承天寺は禅宗の何派ですか。

廣渡

聖一国師が開山の東福寺派になっています。

聖一国師と謝国明

勅賜承天禅寺

廣渡

聖一国師の事蹟で1番有名なのは、中国で学んだ径山の万寿寺が焼けた時に、謝国明に勧めて再建のために建材の檜を博多から送ったことです。それに対する感謝状が残っていて、それを「板渡(いたわた)しの墨跡(ぼくせき)」といいます。今は国立博物館にありますがかなりの量の材木だったことが書かれています。そのほかに、聖一国師がやりとりした手紙などもあります。

木村

仏教史の上で、聖一国師の大きな業績はありますか。

廣渡

向こうからたくさん仏典や漢籍を持って帰られたことでしょうね。それが東福寺に残っています。仏鑑禅師墨跡の『勅賜承天禅寺』という額字も残っています。たいへんな名筆で、現在は本山の東福寺に所蔵されています。

木村

聖一国師は、中央でも有名な方だったんですか。

廣渡

そうです。最初に僧界で最高称号の国師号をもらわれた方ですからね。栄西禅師は僧正で、本来僧正は仏僧の位の最高なのです。僧正以上の方という気持ちで贈られたのでしょうね。

西島

ひじりの1番の国の師ですね。何歳まで生きておられたのですか。

廣渡

79歳です。

西島

当時ではたいへんな長命ですね。で、国師に帰依していた謝国明は……。

廣渡

没年ははっきりしませんが、宗像神社(むなかたじんじゃ)の建長5年(1253)の文書に、謝国明の後家が小呂島(おろのしま)の所有を宗像神社と争ったとあります。だから、謝国明は建長5年には亡くなっていたということになります。

木村

子孫はどうなったんでしょうね。

廣渡

混血の子孫がたくさん生まれているはずですがわからないでしょうね。元寇の文永の役が1274年、弘安の役が1281年で、承天寺の開基後、3~40年ぐらいのことですからこの人たちは前の大戦の時と同じような迫害を受けたんじゃないかと思いますよ。

木村

元寇の影響がこんな面にも出ているんですね。

廣渡

謝国明は、櫛田神社(くしだじんじゃ)の横に大きな屋敷を持っていました。聖一国師は中国に渡る前、2年間くらいそこにいて、謝国明から中国語などいろいろと習って行かれたんでしょう。渡航費や滞在費を出したという言い伝えもあります。また、国師のお弟子さんたちも承天寺にいて中国へ渡っています。
謝国明がどういう人だったかは、承天寺に伝えられている絵姿と木像で想像する以外ないですね。もっとも、これも元禄頃に作られたものですが。

西島

聖一国師のはないのですか。

廣渡

立派なものはありません。あの方は目が悪くて、片方しか見えなかったようですね。承天寺に残っている伝説では、謝国明は情深くて鍼灸の術を博多の人に施したり、飢えた人たちにお粥や蕎麦やうどんとかを配ったというようなことが残っていますね。

西島

仏殿が立派に再建されましたね。

廣渡

仏殿がシロアリの害で崩れていたのを、和尚さんの発願で仏殿山門復興委員会ができて、ひろく一般から浄財をあつめて再建されました。

木村

正面の山門に菊の紋が彫ってありますね。

廣渡

「承天寺」の山号は天皇の下賜によるものです。だからあの門は勅使門で菊の紋になっているのです。

名僧たちと文化財

西島

明治の新派俳優、オッペケペ節の川上音二郎のお墓がありますね。

廣渡

博多織を始めた満田弥三右衛門(みつたやざうえもん)の墓もあります。

木村

この3つのお寺で、特筆すべきお坊さんは。

廣渡

なんといっても1番は聖福寺の仙厓(せんがい)さん。禅宗の教えを、一般の人が誰でも分かるように絵に書いて教えられた。庶民を教化した非常に偉い方ですね。崇福寺は曇栄(どんえい)さん。亀井南冥(かめいなんめい)の弟で、立派な詩をのこしています。承天寺では龍門和尚で、この人は仙厓さんと同じ時代の人です。 3人とも名筆家で、博多の三筆と称されています。

木村

3つのお寺の寺宝は。

廣渡

聖福寺は大鑑禅師像といって、これも禅家六祖のうちの慧能(えのう)という人の頂相図(ちんそうず)があり、国の重要文化財です。高麗渡来の朝鮮鐘と、芦屋鋳金の鐘も知られています。もう1つ無隠元晦(むいんげんばい)という方が和尚になられていますが、その人のお師匠さんの、中峰明本(ちゅうほうみょうほん)という中国の方と兄弟弟子の高峰原妙(こうほうげんみょう)、断崖了義(だんがいりょうぎ)の3人の和尚さんの頂相があります。これも重要文化財です。
承天寺は釈迦三尊像。これは鎌倉時代の仏像です。この他に達唐(だるま)大師から大鑑禅師まで、祖師を絹本に画いた禅家六祖像というのもあり、2つとも重要文化財です。
古文書がたくさん残っているのは聖福寺ですね。転派した時の資料なども全部残っています。
太宰府にあった崇福寺は、島津が岩屋城を攻めた時に焼けてしまいましたから、中世の古い文書は残っていません。その後、黒田氏が博多に移した崇福寺中興の開山・江月(こうげつ)和尚は、堺の天王寺屋という非常に大きな商家の出です。江月和尚の先代が書き遺したのが、茶道具などの名品記録で知られている「天王寺屋(てんのうじや)日記」です。和尚はその血を受けて茶道具の鑑定などを引き継いでいます。その鑑定書の写しなどが崇福寺にあって、東大から写真集が出ています。私たちがよく目にする如水や長政の肖像画もあります。そのほかにも文化財がたくさんありますから、拝観できるといいですね。
承天寺には徳川幕府の住持職の任命状が代々全部残っています。古文書学的にも貴重なもので、黒田の殿様の添状がついています。五山十刹は室町幕府がつくった制度ですが、徳川幕府も寺院統制の政策として、残していました。承天寺は五山派だったので、その任命状が残っているんです。
しかし、聖福寺と崇福寺は親寺の妙心寺・大徳寺が五山から落ちた関係で、任命状はありません。聖福寺も寛永年間までは建仁寺派で五山派の十刹に入っていたのですが、その後、五山には入っていない妙心寺派に変わったのではずれました。

木村

三禅窟には、それぞれお坊さん教育の僧堂があったのでしょう。

廣渡

寺格からいって当然僧堂があり、禅僧を教育していました。でも、今は承天寺にはありません。崇福寺も、はっきりした座禅堂はなくて、廊下で座禅をくんだりしていましたが、最近、座禅堂が再建されたときいております。これだけの寺格の寺だけにもったいないですね。

博多のお寺

足利義植 公帖 承天寺

木村

五山、十剃と寺格が正式に認められたのは、いつ頃からですか。

廣渡

それは、室町時代からで幕府が五山とか十刹とか決めました。博多のお寺で1番最初に十刹に入ったのは聖福寺で、第三位で入っています。天皇の勅願で建てられたとか、藤原氏が建てたとかいうことで選ばれたのでしょう。五山は京都と鎌倉だけです。

木村

当時は、禅宗が1番羽振りが良かったんですね。

廣渡

鎌倉から室町時代まで幕府は寺格をつけて寺院を統制し、またそれだけ後押しをしたんですね。住持になるには幕府の辞令がいるわけで、それが公帖(くちょう)です。公帖をもらうにはお金を納めなければなりません。これは1つの財源で、幕府は、財政難になってくると公帖をたくさん出すわけです。座り公帖といって、実際にはそのお寺に赴任しない。大宰府の役人に任命された人が、任地に行かないで京都にいたまま、という遙任(ようにん)と同じですね。

木村

禅宗は武士に支持されましたね。商人の町博多には、他の宗派の大きなお寺があってもいいように思いますが。

廣渡

いや、たくさんありますよ。浄土宗の善導寺、真宗の万行寺(まんぎょうじ)など、寺格の高いものもあります。ただ、禅宗は日本的な宗教ができた1番最初のもので、しかも古いですからね。

西島

万行寺さんは新しいんですか。

廣渡

300年ぐらいあとですね。真宗西本願寺派の寺で、弘治3年(1557)性空(しょうくう)の開基ですが、藩から禄はもらっていません。真宗は檀家が100軒ぐらいないとお寺にしないから変動があっても強いわけですよ。
ところが、天台宗や真言宗はご祈祷が主で、民衆にお経などで結びついていません。それで、だんだんお寺を維持できなくなって、東光院のように廃寺になってしまったんです。東光院は、敷地建物と什物の重要文化財が市の管理になっています。

西島

それで、仏像が福岡市博物館に収蔵されているんですね。

廣渡

平安時代の立派なものですね。ご本尊は病気を治すという薬師信仰の薬師如来です。

西島

妙楽寺には神屋宗湛(かみやそうたん)の墓がありますね。

廣渡

伊藤小左衛門の墓もありますね。博多の息の浜の方にいた人たちで、元々妙楽寺自体が、博多の人たちが建てたお寺だからだと思います。

西島

その隣が円覚寺ですが、鎌倉の円覚寺とつながりが。

廣渡

いえ、ありません。あれは天台宗のお寺で、聖一国師が博多に来られた時、最初に泊まられたお寺です。その後、宋から蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(大覚禅師)が来てしばらくおられたので、禅宗になったんです。

木村

博多のお寺は歴史が深いのですね。では先生、3つのお寺の特色をひとことでまとめていただくと……。

廣渡

聖福寺は日本で1番古い禅宗のお寺。鎌倉時代に渡来した名僧の客館で、日中文化交流の拠点です。崇福寺は名僧大応国師が32年在住された鎌倉時代屈指の僧堂で、のちに黒田氏の菩提寺。承天寺は宋人謝国明が建てた寺で、中国との文化交流の事蹟が多いことで知られています。

木村

今日は興味深いお話をありがとうございました。

廣渡正利氏 略歴

昭和10年福岡師範学校卒。22年、福岡県庁学芸課。23年、教育委員会発足により教育庁。42年、福岡県文化会館。49年退職。宗教文化懇談会等の設立に参画、福岡県地方史研究連絡協議会会長。

聖福寺 しょうふくじ

福岡市博多区御供所町六丁目一。
臨済宗妙心寺派。山号は安国山。建久6年(1195)千光国師栄西の開基。
元久2年(1205)に伽藍(がらん)完工。
山門の掲額「扶桑最初禅窟」は後鳥羽上皇(法王)の宸(しん)筆。
室町時代には臨済宗十刹の第三位に列した。歴代住持のうち、遣明正使として活躍した頤賢硯鼎(いけんせきてい)、天正・文禄年間朝鮮修交に尽くした景轍玄蘇(けいてつげんそ)、文化・文政年間書画をもって衆生を済度した仙厓義梵(せんがいぎぼん)は著名。
寛永15年(1638)建仁寺派から妙心寺派に転派。建物は本堂、庫裏、鐘堂、客殿、宝蔵、経蔵、書院、座禅堂、開山堂、仏殿、三門が備わり、塔頭寺院には、広福庵、順心庵、節心院、瑞応庵、虚白院、護聖院、幻住庵、円覚寺などがあり、広大な境内全域が国の史跡指定である。
寺宝に重要文化財の絹本着色の大鑑禅師像(南宋)、高峰断崖中峰三和尚像(南宋)、銅鐘(高麗)などがある。
西鉄奥の堂バス停下車、徒歩2分。

承天寺 じょうてんじ

福岡市博多区博多駅前1丁目29番9号。
臨済宗東福寺派。山号は万松山。仁治3年(1242)宋人謝国明の創建。
捨地檀越(だんおつ)は少弐資頼(しょうにすけより)。開山は聖一国師。
鎌倉時代には国師の高弟が次々に住持となり、一流相承制をとり、室町時代には天下十刹(さつ)に列した。
塔頭は天与庵・宝聚庵・祥勝院・乳峰寺。建物は仏殿、方丈、書院、庫裏、開山堂(常楽院)、鐘楼、山門など。
寺宝は木造釈迦三尊像(鎌倉時代・重要文化財)、絹本着色禅家六祖像(鎌倉・重文)、銅鐘(室町・重文)などのほか、室町時代以降の将軍公帖(くちょう)などを所蔵。
墓地には博多織始祖満田弥三右衛門、明治期の新派俳優川上音二郎の墓がある。
仏殿は蟻害により 1953年(昭和28)に解体、平成元年に再建された。
西鉄祗園町バス停下車、徒歩3分。

崇福寺 そうふくじ

福岡市博多区千代4丁目7番79。
臨済宗大徳寺派。山号は横岳山。
仁治元年(1240)随乘坊湛慧(たんえ)が太宰府横岳に創建。
仁治2年(1241)聖一国師の開堂。開山は大応国師。
天正14年(1586)兵火にかかり焼失。
慶長5年(1600)黒田長政(福岡藩初代藩主)が現在地に移転。
大徳寺の江月和尚を請して伽藍(がらん)を造営。寺領300石を寄進して黒田家の菩提所とした。
建物は本堂、庫裏、仏殿、客殿、開山堂、山門、唐門、鐘楼、経蔵、納骨堂などがあり、塔頭は瑞雲庵、心宗庵、正伝庵。寺宝に黒田如水、長政の肖像など。
寺後に如水、長政、綱政、継高など藩主の墓、寺側の墓地には島井宗室、高場乱(たかばおさむ)、頭山満、来島恒喜(くるしまつねき)、江藤正澄などの墓がある。
寺内の朝日地蔵は有名で参詣(けい)人が多い。
西鉄崇福寺前バス停下車。

  • 福岡県百科辞典より(抜すい)