No.54 俳句、静雲・菁々子

対談:平成3年6月

司会・構成:土居 善胤


お話:
「ホトトギス」同人 俳誌「冬野」主宰 小原 菁々子氏
九州造形短期大学学長 谷口 治達氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 会長 松本 攻

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


「少年世界」へ投句

松本

俳句が盛んですね。先生は句誌『冬野』を主宰されて、九州俳諧の重鎮でいらっしゃる。まず「菁々子」(せいせいし)のいわれから教えてください。

小原

先生の河野静雲(こうのせいうん)師からいただきました。
先生は中学修猷館を中退して仏門に入られましたが、菁莪(せいが)という言葉を愛しておられました。その大事な「菁」の字を私の俳号にくださったのです。修猷館の講堂の名も「菁莪堂」でしたね。

谷口

中国の古典の『詩経』からの引用でしたね。

小原

「菁菁タル莪ハ彼ノ中阿ニアリ。既ニ君子ヲ見レバ楽シミカツ儀アリ」(青々としたヨモギが大きな丘に茂っている。既に立派な人物となって、楽しみ礼をまもっている)から引かれた詞で、先生の菁莪(英才を育成することを楽しむこと)ともつながり、とてもいい名をいただきました。

松本

静雲師の先生への思い入れがうかがえますが、俳人には「子」のつく人が多いですね。

小原

いや、これは高浜虚子先生が最初です。先生の御本名は清で、正岡子規先生が虚子と命名されたのです。それから虚子門下のホトトギス派の山口誓子水原秋桜子といった人たちがつけ始めたのです。

松本

静雲さんも虚子門下ですね。虚子が初めて福岡に来られたのは、

小原

大正6年10月に吉岡禅寺洞(よしおかぜんじどう)と清原かい(枴の字の刀部分が力)(きよはらかいどう)がお招きしたのが最初です。その折の句が天の川の下に天智天皇と臣虚子とでした。
太宰府へ吟行されてこの句を得られたのです。

松本

先生の俳句はおいくつの時からですか。

小原

『少年世界』という雑誌があって、俳句欄に入選すると2、30銭の賞金をもらえました。小学4、5年の時で、それが楽しみでせっせと投句して。文芸の目覚めでした(笑)。

西島

先生のお生まれは。

小原

博多の廿家町(にじゅうやちょう)です。太閤町割以来の古い町ですが、市小路(いちしょうじ)とともに今では呉服町です。

西島

ご家業は紺屋(こうや)どんでしたね。

小原

古い紺屋で藍玉の卸問屋もしていました。庭に藍ガメがいくつも置いてあって、遊んでいて転げ落ち、全身真っ青になったこともありますよ。
当時の人の普段着は木綿の着物で、藍が主な染料でしたが、次第に化学染料の時代になって先細りでした。

19歳で独立

谷口

高等小学校を出ると、求人広告で足袋卸問屋に入られたんですね。

小原

大正12年、15歳で西町の吉田米治商店に住み込みました。「小店員入用」というビラでしたが、小僧でした。宗太郎がその日から幸吉で、(笑)。

西島

大きなお店でした…。

小原

福助足袋の大きな卸問屋でした。店員見習いから別荘の雑巾かけまで一生懸命。いまのデパート松屋、当時は天神の呉服屋松屋を開拓して褒められたりもしました。でも、小僧が本を読んで…と奥さんの機嫌が悪い。安国寺の高階瓏仙(ろうせん)禅師が、「是心棒(辛棒)也」と賛をして如意棒の絵を描かれ、腹が立った時はこれを見なさいと励ましてくださった。

松本

いいお話ですね。

小原

そうして、20歳の時独立しました。月賦で赤い自転車を買って、まず糸物の行商です。タオル・足袋、綿まで扱いを広げ、おたふくわたの原田平五郎さんには可愛がってもらいました。
独立してどうやら順調にいきだすと、ついお酒です。それに、博多で商売すると、「ちょっと一杯」でしょう。
ある時、ローソク屋の大将に誘われてカフェーでぐでんぐでんになり、おふくろにきつく叱られました。酒をやめようと思いましたが、商売していて酒呑まないでは通用しません。何かいい考えは…。そこで近くのルーテル教会を思い出したのです。

西島

教会とどうつながるので…。

小原

キリスト教の信者になると禁酒ですな。みんな、えらいですなと言ってくれる(笑)。それで、早速入信しました(笑)。19歳の時です。

松本

入信もいろんな動機が(笑)。

小原

牧師の山内六郎先生が立派な方で、次第に本信心になりましてね(笑)。昭和9年に、26歳で家内のシカと結婚しましたが、家内も入信。司式も山内先生にしていただきました。後年、福岡の金融界で活躍された鶴喜代二さんも信者仲間でした。

西島

キリストの御利益をたくさんいただかれましたな(笑)。

あなた俳句をつくらんな

河野静雲師
(西日本新聞社提供)

谷口

馬出(まいだし)の称名寺で静雲師にめぐり会われたのは…。

小原

古い話でもう64年前、昭和2年5月、20歳のときでした。

谷口

静雲先生も当時ご苦労中で…。

小原

先生は時宗(じしゅう)の総本山・藤沢の遊行寺(ゆぎょうじ)で修業して宮城県専念寺の住職でしたが、大正12年に養父智眼師の急病で帰福されていました。
いろいろ内部事情があって、老師が亡くなられた後も称名寺を継ぐことができず、寺内に庵住まいしておられました。生活も大変で、ツネ夫人が裁縫塾をして家計を支えておられました。
私がうかがった時、先生は仏間で朝のお勤めをしておられました。先生が「あなた俳句をつくらんな」とおっしゃる。名声は承知していましたから、直接のお勧めだし、『少年世界』の下地はあるし(笑)、それではと弟子になったのです(笑)。

松本

絹糸売りに行って俳句入門。大正らしい風景ですね。その頃の句は。

小原

『木犀』に載った私の第一作が、
雀の子昼寝の縁に落ちにけり
羽蟻とぶ稲荷鳥居に詣でけり
の二つでした。活字になるのはいいもんやなと思いましたな(笑)。

西島

雀の句。一茶に負けませんな(笑)。

松本

その頃の博多の俳壇は。

小原

明治末から大正にかけて、末永感来という日本画家がおられました。玄洋社の領袖(りょうしゅう)だった末永節さんの弟さんで、俳句もつくり絵も描かれる。この方に俳句の手ほどきを受けました。感来さんの句は
木犀や父の画像の恐ろしき
を覚えています。
次に影響を受けたのは、俳誌『木犀』を創刊された清原枴童さんです。
九州大学の久保猪之吉博士も夫人のより江さんとともに、優れた詩や俳句をつくられました。猪之吉博士は漱石の紹介で長塚節(ながつかたかし)の主治医だったことでも知られています。
赤坂門の電車通りにあった博士の瀟洒なお宅は、文学サロンの観がありました。

静雲師と禅寺洞

松本

静雲さんの俳風は。

小原

客観写生に徹し、日常の中に自分を深く見据えられた作風で、仏門俳句を確立されました。私がお訪ねして間もなく、『ホトトギス』の巻頭を静雲先生の句が飾りました。

「ホトトギス」
-俳句雑誌。明治30年、正岡子規主宰、柳原極堂編集のもとに、松山市で発行。翌年、東京に移し、高浜虚子が主宰、編集にあたる。花鳥諷詠の客観写生を説き、俳壇を代表する多くの英才を育て、ホトトギス派の一大山系を現出し、俳壇の興隆に資した。

お十夜や一人欠けたる世話ばん婆

など5句。さらに昭和4年の巻頭に

盆布施のきばってありしちとばかり

昭和9年の巻頭

引導の偈(げ)を案じつゝ股火鉢(またひばち)

など、今よんでも新鮮で愉快でしょう。お説教臭の全くない奔放な句ですね。

西島

仙がい(がんだれに圭)さんの感じですね。

小原

僧門俳人・静雲の名は全国に知れ渡って、初代の中村吉右衛門さん、武原はんさん、浪曲の寿々木米若さんのような、異色のお客さんが馬出の静雲居をよく訪ねて見えました。

松本

静雲さんが教えられたことは。

小原

俳句は生き方の記録だから、自然のうつろいを通じて折々に句にしなさい。季題を通して客観して…と、口酸っぱく聞かされましたね。

松本

そこで先生の口にされる“俳諧求道(はいかぐどう)”がわかりましたよ。

谷口

静雲さんと対照的だったのが吉岡禅寺洞ですね。

小原

禅寺洞は「俳句は男子一生の事業なり」と宣言。昭和2年に九州俳壇で初めて『ホトトギス』同人になりました。静雲師の静に対し、現代俳句、無季俳句を打ち出された禅寺洞の『天の川』の刺戟は対照的で強烈でした。その頃の句に、

火になりて松鞠みゆる焚火かな

谷口

誌名『天の川』は、虚子の太宰府吟行の句からとられたのですね。

小原

しかし、次第に客観写生にあきたらなくなって、虚子から離れていくのです。

松本

お二人の影響力は…。

谷口

静雲の方が門下も多く影響力も大きかった。しかし、文学的には禅寺洞が評価されていました。まあ両々ですね。

小原

禅寺洞は根っから文学青年で、血気盛ん。かい(枴の刀部分が力)童さんと二人で俳諧修業といって東京の虚子先生を訪ねて長期滞在したりしています。虚子先生はそういう異才の俳人をまた愛されたのですね。
だから、村上鬼城(むらかみきじょう)原石鼎(はらせきてい)飯田蛇笏(いいだだこつ)長谷川零余子(はせがわれいよし)、ついで「4S」の水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)山口誓子阿波野青畝(あわのせいほ)高野素十(たかのすじゅう)、そして山口青邨(やまぐちせいそん)日野草城(ひのそうじょう)川端茅舎(かわばたぼうしゃ)松本たかし中村草田男(なかむらくさたお)冨安風生(とみやすふうせい)。九州からは静雲、禅寺洞、杉田久女(すぎたひさじょ)竹下しづの女中村汀女(なかむらていじょ)等、英才異才がむら雲のようにホトトギスから輩出したのです。

松本

壮観ですね。女流の杉田久女は小倉の人で教師夫人でしたね。

小原

杉田久女は、

足袋(たび)つぐやノラともならず教師妻

で知られました。イプセンの『人形の家』が評判で、女主人公ノラの生き方が新しいとされた頃ですね。

谷口

あまりにも一途で激しく、ついには虚子に破門される。悲劇ですが、久女のことは田辺聖子さんの小説『花衣ぬぐやまつわる』に詳しいですね。

小原

その頃、禅寺洞さんの『天の川』に投句した私の句が上位に取り上げられましてね。
昼雲の立ち変わりつゝ蜘蛛の留守
選評の横山白虹(よこやまはつこう)氏に「ドイツの芸術写真を見るようだ」と誉められました。
静雲先生が、そろそろ自分の方か禅寺洞か、方向をはっきりさせた方がいい。そうでないと、いい加減な句になってしまうと言われました。静雲先生は、一つの生き方をとことん追求される行き方。禅寺洞さんは、今日より明日、明日より明後日と激しく変化するタイプ。結局、私は静雲先生を生涯の師と決めました。

句会いろいろ

西島

博多で俳句が盛んなのは、博多仁〇加や博多なぞなぞなど、情景を縮めて表現する土壌があるからじゃないですか。

小原

それに、伝来の博多の祭や行事など、生活の風景に潤いがあるからだと思いますよ。
俳句には「わび」「さび」のほかに「軽み」があります。深さを軽みで包むのですね。

谷口

静雲さんや先生の句に、その面白味が。人生の裏が句になってますね。

西島

句会も盛んだったでしょう。

小原

今でも楽しく思い出すのは、初代の亀井味楽さんや画家の永倉江村や書家の大坪柊軒といった人たちとの雅友会ですね。百道浜に3本組の竹で灯りを吊るす。漁師の地引網を手伝ってバケツいっぱいの魚をもらい、それを酒のサカナにして、句作と俳句談議に夜の更けるのも忘れて過ごしました。

西島

俳句ご熱心で、ご商売の方は。

小原

どうにか目鼻がついて小原宗太郎商店を興し、戦後は福岡衣料株式会社を経営していました。
その頃、お宅は社長が四島一二三さん。一番電車で出社する剛直の人でしたね。女房役が速水梓さん。古武士のような風貌の紳士でしたな。私の義弟が鉄工所をしていて、一二三さんにとても親しくしていただきました。

松本

石井鉄工所の石井宗太郎社長さんでは。

小原

そうです。

松本

一二三がお世話になった方でした。故人からずいぶんお話を聞かされましたよ。

福岡空襲

谷口

昭和20年6月19日の福岡大空襲の時は…。

小原

36歳で佐世保海兵団に動員され、その頃は西戸崎の博多航空隊に配属されていました。

松本

博多湾をはさんでちょうど対岸で。

小原

ええ。夜空にB29から焼い弾が火のすだれになって落ちてゆきます。博多が丸焼けになる。切歯して見ていました。翌日、特別休暇が出て飛んで帰りましたよ。幸い家人は無事でしたが、家は丸焼けです。
奈良屋小学校の焼け跡へ行ってみると、知り合いの奥村利蔵さんや森部半助さんが後片づけをしています。ちょうど、罹災証明の発行日だったので、私も水平服を脱いで手伝いました。
校庭に焼け死んだ人たちの遺体が並べてあり、プールには火を避けた人が溺れて浮いている。知った人たちばかりで、実に悲惨でした。
博多駅から天神まで、ずっと見通せたのを覚えています。間に岩田屋と西日本新聞、玉屋、呉服町のいまの日産ビルが点々と残っているだけでした。
警友の屍顔に涙梅雨の蠅

ホトトギス600号記念を福岡で

天の川の下に
天智天皇と臣虚子と
虚子

谷口

虚子との触れ合いのことを…。

小原

初めてお目にかかったのは昭和3年、20歳の時ですが、ホトトギスに入選したのは22歳の時でした。母の還暦で親孝行をしたお伊勢参りの句でした。
大前のしろがねの雪跪(ひざまず)く

谷口

虚子を迎えて湧いたのは、『ホトトギス』600号記念の九州俳句大会でしたね。

小原

静雲先生の終戦の句は
あとや先百寿も露の命かな
でしたが、翌21年、先生はザラ紙で『冬野』を復刊されました。この時、思い切って景気づけに『ホトトギス』600号記念を九州でやろうや、とおっしゃる。それならと、私たちも燃えまして上京して虚子先生にお願いする。そうして、念願の大会が実現したのです。

松本

終戦直後に福岡で大会とは。先生は推進役で大変だったでしょう。

小原

何もない時でしょう。第一、バスを動かすにも燃料を工面しないと動かない。汽車の切符、宿舎の手配、何もかもが大変でした。

西島

虚子はどんなふうでした。

小原

羽織袴で凛とした御風姿でした。
ちょうど、雑誌『世界』に桑原武夫氏の「第二芸術-現代俳句について」が発表されて大騒ぎでしたが、先生は「文学の中で俳句は18番か20番と思っていたら、第二芸術とは出世した」と笑っておられました。どうも、桑原武夫氏の空振りのような気がして、さすがと思ったものです。
福岡へ来られた虚子先生の句は

よそほへる筑紫野を見に杖曳(ひ)かん

先生は箱崎原田の私の家までお立ち寄りになり、老父に

自らの老好ましや菊に立つ

の句をいただき、感激いたしました。

花鳥山仏心寺

西島

その大会のとき、静雲先生は。

小原

とてもご機嫌でした。私が事前に虚子先生に書いていただいた條幅70枚を、虚子先生が何に使うかとたずねられる。
静雲先生はとっさに、私の花鳥山仏心寺を建てる費用をつくらせていただきますとおっしゃった。それで、太宰府に花鳥山仏心寺ができることになったのです。

松本

先生が奔走なさったんでしょうね。

小原

『冬野』系の俳人、弟子たち、多くの人たちの浄財でできたことです。場所も太宰府の観世音寺の近く、ちょうど、彫刻の冨永朝堂先生の隣で、願ってもない所でした。
昭和24年に完成し、虚子先生揮毫の「花鳥山」の篇額を掲げ、時宗の管長を迎えて落慶式をすませた時は、それはそれは嬉しかったですね。
先生も馬出の寓居から移られ、隣に建てられた虚子堂は静雲門下の俳諧道場となりました。

松本

静雲さんは、仏心寺で、満ち足りた晩年を過ごされたのですね。

小原

それから25年お過ごしになりました。昭和49年に前立腺を患われて病状が進み、呼吸も脈拍も止まりました。医師が臨終と告げましたが、驚いたことに30分後に息を吹き返されたのです。先生の生命力にみんなびっくりしましたが、翌日の1月24日、生命の灯が消えて御入寂なさいました。
私たち枕頭にいる者たちに「もう20、数を数えると往生するやなあ」と言われ、私たちも和して数回唱えているうちにがくっと頭を垂れて入寂されました。享年87歳でした。

松本

名僧の大往生ですね。ご辞世は…。

小原

辞世は残されませんでしたが、前日、枕元の屑かごに書きくずしがあるのに気がついて、大事になおしておりました。先生の病中吟で、それを辞世がわりに発表しました。

スーツーとめぐみの味や林檎汁
尚生きるよろこび胸に林檎汁
寒に堪え老妻が手摺りの林檎汁


松本

奥様に感謝されて…。俳諧人生を終えられたのですね。

西島

仏心寺はいまも…。

小原

それがいろいろ事情があったのでしょう。私たちの知らぬ間に第三者名義となって失われました。

西島

それは悲しいですね。

句誌『冬野』

谷口

先生が守っておられる『冬野』のお話を。

小原

昭和14年に戦時統制令が出て、福岡県内のホトトギス派の句誌、雷鳥、無花果、木犀、やまたろう、貝柱の5誌を冬野に統合し、静雲先生が主宰することに決まりました。
禅寺洞の『天の川』は廃刊されました。当時は何もかも統合でしたな。私の商売の繊維商売も成り立たなくなり、お得意さんたちと話し合って、服装雑貨小売商業組合をつくり、私は事務長になっていました。

松本

厳しい時代でしたね。で、『冬野』のいわれは。

小原

静雲先生が、冬の野に根をはり春を待つ木々の心、春を待つ5誌の気持ちを込められたのです。しかし、昭和19年に福岡が焼け野原となってから、とうとう休刊になりました。

谷口

その前に『閻魔(えんま)』の発行がありましたね。

小原

『冬野』発行の時、静雲先生のホトトギス入選句をまとめて句集『閻魔』を刊行されました。この中で先生は、虚子の「選句もまた創作である」の言葉を引いて感謝しておられます。

松本

ずいぶん先生が力をつくされたのでしょう。

谷口

菁々子先生が、編集、発行を全部なさいましたね。そして、終戦の年12月から『冬野』が復刊される。これから菁々子先生が『冬野』をになってのご活躍ですね。

西島

で、『冬野』は何号に…。

小原

『木犀』から通巻して、もうすぐ800号です。よく続いておりますな。

海の句と春一番

谷口

海の句もお得意ですね。

小原

私は戦後早々、まだ米軍が落とした機雷が浮いていた頃から、商売で毎月対馬に渡っていました。その頃の句、
泡一つより生まれ来し鮑海女(あわびあま)
これがホトトギスの巻頭第2位に載り、虚子先生に大変誉めていただきました。海の句は少ないから、菁々子さん、どしどしつくりなさいとおっしゃる。それからしばらくは、海ばっかし見ていましたな(笑)。
帆立貝明日帆を何処(いずこ)に止むるや
がまた巻頭第2位に入りました。
当時のホトトギスには、山口誓子以下、雲のように偉才が集まっていた時で、地方の私たちが巻頭句を占めるとは…。言葉にならないうれしさでした。

松本

壮挙だったんですね。

小原

虚子先生は、私が漁師の風をしているものと思い込まれていたのか、背広姿の私を怪訝(けげん)な眼で見ておられましたよ(笑)。

谷口

戦後は俳句一筋で。先年
は中国までご指導に。

小原

ええ。昭和27年に商売をやめてからは俳句一筋で。俳句には漢字の俳句、漢俳があってもいいと思いましてね。でも、忘れられないのは西日本新聞で『西日本歳時記』を連載したことですね。
昭和39年6月から42年5月まで丸3年の連載で、博多山笠、小倉祇園、唐津おくんち、ほかいろいろとお祭や行事を取り上げ、全国的に注目されました。
これまでは、東京と京都の歳時が俳句歳時記でしたが、この連載で地方歳時として一分野を築くことができました。

谷口

あれがきっかけになって、『全国地方歳時記』が発刊されましたものね。「春一番」も、先生が発掘された。これは特筆に値することですね。

松本

春一番を先生が…。

小原

商売で、しょっちゅう壱岐へ行っていました。定宿にしていた平田旅館のおかみさんが「春一番が吹きましたもんな」と言いなさる。
2月末から3月初めの寒い日に、雨を伴って吹いてくる南の風。それを壱岐の人たちが「春一番」と言い伝えているのです。春一番から日本列島が春風駘蕩。いい季語ばいと、ぞくぞくしましたよ。

松本

「春が来た」を、これほどさわやかに伝える気象用語はありません。先生、実に日本にいいことをなさいましたね(笑)。

私の俳句のこころ

松本

先生の俳句の心について…。

小原

「自然と語り合うやさしい俳句」を勧めています。頭の中だけで俳句をつくってはいけません。生活の中から。奥さんたちなら台所からでいい。何か呼びかけてくるものを五・七・五にまとめればいい。
野辺を歩けば、その一歩ごとに眼にしみるタンポポを、野草を、五・七・五に。「自然と語り合う」、これが私の俳句作法です。

松本

近代俳句については。

小原

根底は自然と語り合うやさしさで、表現が違うだけだと思っています。

松本

山頭火ブームですが。

小原

誰も彼もが種田山頭火(たねださんとうか)の真似をするのは感心しませんね。

西島

でも、山頭火の句は、現代の私たちにピーンと通じますが…。

小原

だからこわいんです。山頭火の句は書で言えば草書です。草書は楷書をきちんとマスターした人が、次の飛躍を図って到達する境地です。楷書をまず稽古して、それから先、自分の行き詰まった時に他の光を求める。その光が輝くんです。これがいわゆる山頭火の破調になる原因なんです。
その原因を知らずに、最初から山頭火を真似て草書を手がけると、俳句のつもりでも自由詩形になって、とりとめもないものになってしまいますよ。
俳句の楷書とは五・七・五の定型と季題を守ることです。山頭火はこの二つをきちんと消化したから、あの奔放自在な句境に達したのですよ。

したいこと、たくさん

谷口

先生は、俳句指導で刑務所にも行っておられますね。静雲先生と2代続きですね。雨でも風でも、バスに乗って遠くまで行かれる。そのかたわら、刑務所に千本桜を植えていらっしゃる。

松本

いいお話ですね。

小原

たまたま罪を犯しているが、この人たちも本来の性は善なることを信じています。

谷口

俳句仲間の前市長・進藤一馬先生も協力されていますね。

小原

桜仲間でもあるのです。

松本

先生はおいくつですか。

小原

84歳です。

松本

とてもそのお年には見えません。お若い秘訣がわかりましたよ。先生はいいと思ったらすぐ始められる。俳句、キリスト教、禁酒、虚子詣で、旅。好奇心がいっぱいの万年青年で、人に喜ばれることをたくさんなさっている。奥様の内助も素晴らしいのでしょうね。

谷口

今もしたいことをいっぱい抱えていらっしゃる。この後、すぐ俳句会でしょう。

小原

じゃあ、今日新聞社の句会に出すホカホカの句を披露しましょう。

綾杉の千古の緑天霧(あまぎ)らふ

季題は「緑」で、この「天霧らふ」は梅雨で風景が白く煙って見えることです。綾杉は香椎宮の綾杉で、私が行った時、雨で白くけむる空に神杉の緑が梢をのぞかせていました。もう一句は

飛梅の実梅(みうめ)拾ふは巫女(みこ)の役

これは季題の「みうめ」をいかしました。

俳人それぞれ

松本

では、終りにこれまで先生が触れ合ってこられた俳壇巨星の寸評を。

小原

子規は古俳諧を土台にして花鳥諷詠を現代に生み出した俳諧人。虚子は、明治精神を持った文芸ルネッサンスの人で、花鳥諷詠の中に情趣を取り入れ、単に五・七・五の写生だけではいけないとしました。
吉岡禅寺洞は俳諧を先駆けた人。静雲先生は善的な気持ちでどっしりと俳句を絞り出す人で、仏教を、社会を、人間性を、家庭を自分のものにして一句に結晶された。
情報だけの俳句は私は好きではありません。自然を観るにしても、やはり、堂々と意向を噛みしめ、自分を噛みしめた作風でないといけないと思っています。

谷口

そして菁々子。いまホトトギスは虚子のお孫さんの稲畑汀子(いなはたていこ)先生の主宰ですが、汀子先生にも慕われておられますからね。

松本

いいお話をありがとうございました。

【十句】
紀州の旅 故河野静雲

巌万古御瀧万古(いわをばんこおんたき)神杉(かみすぎ)

雲よりの那智の御瀧(おんたき)神杉に

(とろ)八丁奇巌にすがり姫つゝじ

聖絵(ひじりえ)の熊野中辺路(なかへじ)ほととぎす

年古(ふ)りし秀衡桜(ひでひらざくら)ほととぎす

~昭和43年

隠れ耶蘇(かくれやそ) 小原菁々子

蕎麦(そば)播いて一渓一戸隠れ取蘇

(わ)び住みといふ隠れ耶蘇烏賊(いか)干して

遠航の烏賊船戻り島聖夜

聖書説き世俗に媚(こ)びず炉の神父

海鼠(なまこ)突きに行く年守(も)りて隠れ取蘇