No.55 新聞記事で見た福岡・北九州の女性

対談:平成4年1月

司会・構成:土居 善胤


お話:
福岡大学商学部教授 武野 要子氏
聞き手:
福岡シティ銀行専務取締役 井上 雄介

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


明治の女性が求婚広告

・明治42年7月18日 福岡日日新聞

司会

ユニークなテーマですが、新たに御研究の分野ですか。

武野

私は今、福岡県の女性史編纂委員会の会長を仰せつかっているんです。女性史の資料といっても、まとまってあるわけではなく、特に近代の女性たちを調べるとなると、どうしても新聞に頼らざるを得ません。
一般に知られている有名な人では、伊藤野枝と柳原白蓮の2人ですね。新聞を持って来ましたので、それに従ってお話ししていこうと思います。

井上

新聞には、その時代ごとの女性に対する見方が自然に出ていますね。
女性の地位なども、かなり今とは違っているでしょうね。

武野

ええ。ただ、私が感じたのは、その当時から新聞記者が女性の動きによく注目して、女性の地位に関心が深かったということです。これは、明治時代から見られることですね。

井上

古い記事は何年頃ですか。

武野

最初の記事は明治28年9月22日です。他人の女房といい仲になった男が、その夫に買い受け証文を差し出して、ようやく所帯を持てたと、福岡日日新聞の記事です。

井上

福岡日日新聞というと、西日本新聞の前身ですね。

武野

そうです。この場合、証文という形をとらないと、結婚できなかったということでしょうね。これは、金銭の授受があった、女房をお金で買ったいうことですね。 新聞に載るということは、その頃でもやはり珍しい事例で、大騒ぎになったのでしょう。
それから、次の記事は面白いですよ。これは明治42年7月18日の記事で「求婚、地方資産家の女 年二十二躰健 良縁求む」と結婚相手を募集しています。 そういう自由があったということで、新聞がそういう目的に使われているのも面白いですね。

井上

当時、新聞をとっている人というのは、相当な資産家でしょう。

武野

今みたいに、どの家にも新聞があるということはないですから、知識人でしょうね。記事は匿名で、女性の名前は新聞社にあると書かれています。

井上

それは実を結びましたか。

武野

それはわかりませんが、女性にも男性を求める自由があったということです。

女髪摘みからカネボウの女工さんまで

明治43年1月28日 福岡日日新聞

武野

それから、これは明治43年2月16日の記事で、女髪摘みが全国で福岡が1番多いというものです。これは髪結いさんではなく、理髪師さんのことだと思います。 女性の名前で営業している店が50軒もあるということで自立する女性が多かったということでしょうね。髪摘みですから、お客さんは男性です。女性がしてくれるというので繁盛したんでしょうね。

井上

記事がいい。「総じて丁寧で手荒くないところが特長とでもいうべきである」とあります(笑)。

武野

1つの福博の風俗ですね。次が明治43年の1月28日です。福岡市商品陳列館の女店員さんを紹介しています。
親切だし優しくていいと言っていますが、労働時間が午前7時半から午後10時半の15時間なんでたいへんです。1日のほとんどを立ちづくめで勤めていたということですね。

井上

物産館みたいなものですかね。かなりモダンな女性でしょうね。

武野

日給20銭と書いてあります。「月6円の給料になり。休日は月3日で、この3日を休まず出勤した者には、6円の他に60銭増し」だそうです。
福岡という土地は、新しもの好きというか、よそがやらないことを率先してやるところがあるように思いますね。「都合15名で、1階に7名、2階に5名、3階に3名」とあります。

井上

3階建てというと、いまのデパートのような感じでしょうね。

武野

そうですね。それから次が、明治43年1月27日のカネボウの紡績女工の記事で、女郎屋に売られるところだった女性を、他の女工が救ってきて見習いにしたということです。ということは、当時の女工さんは、身を売る女性と親元の暮らしが同じレベルだったんでしょうね。

井上

明治43年だと、紡績花盛りの頃で……。

武野

その反面で「女工哀史」というくらい悲惨な労働条件だったんでしょうね。
それから、これは人身売買です。大正2年の福岡日日新聞で、瀬藤寿市・お滝夫婦が女性を買い取って上海に売っていたことが露見して、船小屋温泉で警察に捕らえられたという内容です。
この時期、上海や香港あたりに、日本の女性が石炭船に積み込まれて売られて行った。島原の子守歌などにも出てきますね。石炭と共に女性も輸出していた。つまり、石炭船というのはそうした2重の意味を持っていたということです。これなどは、作家の森崎和江さんがノンフィクションで書いていらっしゃいます。

井上

山崎朋子さんの「サンダカン八番娼館」などの時期もこのあたりになるんですか。

武野

だいたい同じ時期ですね。

-新しい女- 伊藤野枝

武野 要子氏

武野

そして、今度は「新しい女」が出てきました。
「新しい女」というのは当時の言葉で、有名な平塚雷鳥(ひらつからいちょう)がかかわりました。明治44年に「原始、女性は太陽であった」の宣言で知られる雑誌『青鞜)せいとう)』の創刊号を出すわけです。大正デモクラシーの影響で、新しい女の動きが出てきたのだと思います。
話は飛びますが、雷鳥は夏目漱石(なつめそうせき)と知り合いだったらしいですね。漱石の小説に新しい女が何人もでてきますが、モデルが雷鳥や伊藤野枝だったのではないかと思います。伊藤野枝は早良郡の今宿村の生まれです。

井上

福岡の人なんですか。

武野

そうです。はじめアメリカ帰りの人と結婚しますがうまくいかず、離婚します。彼女は長崎にいたことがあって、貿易港の空気を吸って自由とは何かということに目覚めていたのかもしれません。
その後、上京して上野女学校に入ります。そこで英語教師で詩人の辻潤(つじじゅん)と知り合い、事実上の結婚をするんです。辻潤が「野枝さんはルーズで、計算というものができない、節約ということもできない、ご飯も炊けない。 しかし、私は野枝さんが大好きだ」と彼女にべったりのことを語っています。
彼女は、大正5年に青鞜社に入り、雑誌『青鞜』の編集を平塚雷鳥から任されるんです。そして、ゴールドマンを読んで非常に感動して、無政府主義者に転向していきます。その大正5年に、同じ無政府主義者の大杉栄(おおすぎさかえ)と結婚し5人の子供をもうけています。

辻潤【明治17年(1884)-昭和49年)1974)】大正-昭和期の詩人・翻訳家・評論家。
伝統的審美感に反抗するダダイストとして知られた。

井上

5人も子供さんを。

武野

野枝は、子供をあやしながら原稿を書き、金たらいでご飯を炊いていたそうです。何やら怪しげな食事をご馳走になったということを、平塚雷鳥が自叙伝に書いています。

井上

子供の名前も変わっていますね。長女が魔子さんでしょう。

武野

そして、幸枝、ゑま、ルイーズ、ニストルと続くんです。
その頃『青鞜』が千部出ていたということです。「一時は2千部出ていたこともあり、純文芸誌で千を出るといえば『早稲田文学』でも千部」というように、編集者として自画自賛しています。
これは大正4年9月の記事ですが、与謝野晶子(よさのあきこ)を伊藤野枝が褒めています。晶子は「君死にたまふことなかれ」や「山の動く日来る」であまりに有名ですが、『青鞜』にも頼まれて原稿を書いています。だから、野枝は晶子を知っていたわけですね。
晶子も11人の子だくさんで、子供を育てながら仕事をしていることに伊藤野枝が感心している。それが新聞記事に出てきています。

・大正4年9月12日 門司新報

井上

大杉栄と伊藤野枝は関東大震災のとき、甘粕正彦(あまかすまさひこ)大尉に虐殺されますね。

武野

大正12年の9月1日の関東大震災で、物情騒然のときですね。大杉が16日に伊藤と妹をたずね、甥の橘宗一を連れて帰る途中で、甘粕大尉等に拘引されて殺されました。この虐殺事件は26日付の新聞に載っています。

井上

「大杉の子を連れて、野枝の叔父が福岡に帰る」とありますね。

武野

子供は、野枝の実家が引きとって育てたようです。この事件は陸軍省が発表して、何日かにわたってこの事件の余波についての記事がのっていますね。

井上

記事は、甘粕大尉を叩いている論調ですか。

武野

いいえ、記事は事実そのものを率直に述べています。
ただ、驚くのは、野枝の性格をはっきりと打ち出し、むしろ彼女のいい面を書いていて、擁護するような論調なんですね。ちょうど関東大震災の後で、野枝が叔父に出した「白米4、5俵を送ってください」というような、優しい最後の手紙が記事にされていることです。
この頃はまだ、思想的に自由な雰囲気が新聞にあったということでしょうね。大杉栄と野枝の葬式は、野枝の故郷の今宿で丁重に行われています。彼らは無政府主義者でしょう。当時としては、郷土出身の有名人のお葬式という感覚だったのでしょうね。

大正12年に女性の職業特集

・大正12年3月21日 
福岡日日新聞

武野

大正6年7月31日の記事は、女の郵便配達の採用を計画しています。この後にも「九州の郵便局に起こった新問題」として女性の採用を検討している記事が出てきます。重たい小包の配達が問題だとされています。

井上

まだ、自転車も普及していないですよね。担いでいくわけですね。

武野

「20歳前後の女性なら耐え得るだろう」と、体力が必要だったんですね。

井上

市役所はどうだったんですか。

武野

ありますが2人ですね。大正6年12月10日に福岡市の女事務員さんの人数が載っています。これが面白い。為替貯金支局が84人、百三十銀行が2人、福岡銀行が11人、福岡郵便局が92人、博多駅が8人、日本生命支店が1人、徴兵保険が1人、十七銀行が8人、そして福岡市役所が2人、計209人が福岡市の女事務員さんの数ということです。

井上

きちんと事務を執るということで、女学校出のインテリ女性だったんでしょうね。

武野

そうだと思います。この記事の書き方が面白いですね。「女子の職業範囲、著しく拡張せられ、男子の領分に侵入し来たりたるは、世界各国共通の事実なり……」(笑)。

武野

そして、次は「我が国最初の福岡県立女子専門学校の入学試験」です。80名の定員に対して336名の応募者があって、4倍強の高倍率だった。家政科よりも文化科への応募者が多かったことと、他県や朝鮮や台湾からの応募者も多かったとありますね。朝鮮や台湾といっても当時のことですからこれは多分、日本人の子女が多かったのだと思いますけど。

井上

これは福岡女子大学のことですね。文化科といいますと。

武野

裁縫以外の広い意味でのカルチャーでしょうね。文学とか哲学とか……。
伝統的に日本女性というと裁縫でしょう。文化科に志望者が多かったというのは驚きですね。家事に締め付けられてきた女性が、次第に目覚めてきたということでしょう。

井上

「裁縫家事を研究する家政科も、もはや手先の仕事から機械学に行き詰まっている際とて、かくのごとき結果をきたしたものであろう…」と。機械学とはミシンのことでしょうね(笑)。

武野

女性も、裁縫だけではいけない時代になってきたということですね。

武野

大正12年になると、もう女性の職業について特集しているんです。10月27日から11月7日までのロングランシリーズで、女性の職場進出がこの頃から目立ち始めたようです。
最初が電話交換手で、近くで火事が起きても仕事に徹したと書いている。

井上

試験は難しかったんでしょうね。

武野

女学校出が多かったみたいで、インテリの職場でしたね。今みたいにどこの家にも電話があるということではなかったですしね。
次は福岡の煙草(たばこ)の専売支局の女工さんです。数が男性を上回ったと書いてあります。煙草工場で女工員の方が男工員より多かったというのは初めて知りました。女性の方が手先が器用だったんでしょうね。まだ機械化されていない時ですから。

井上

「さつき」とか「あやめ」とか「はぎ」、「なでしこ」と煙草の名前が書いてありますね。

武野

次が看護婦さん。九大病院に300人とあります。労働時間は朝5時から夕方6時までとかなり長時間で……。
次が鐘紡(かねぼう)の博多工場の女工さん。これは、圧倒的に女性の方が上回っています。男性230人に対して女性790人です。
それから、次が大正12年11月、博多駅の出札に女性が従事していたという記事です。

井上

昔の方が進んでいたみたいですね(笑)。

武野

改札ではなく券を売る方です。どこからどこまでという計算が非常に難しかったようで、インテリでないとできない仕事だったのでしょう。「買い手に時間がないので急いでくれと言われて困っている」というようなことも書いてあります。
その次はタイピストで、10分間に900字という、非常に敏捷性と正確さを問われる仕事だと書かれています。

井上

写真が着物にたすきがけですね。タイピストが必要だったのはどんなところだったんでしょうか。

武野

やはり銀行が多いですよ。
それから女教師です。そのころ、奈良屋小学校で芸妓さんの卵の半玉たちが教育を受けていました。昼間は授業で、夜はそそくさとお座敷へ。博多の花柳界をテーマにして「昼は学校、夜はお座敷」という記事です。

井上

「赤穂義士と同じく47人」と見出しにありますね(笑)。芸妓さん全盛の時代ですね。男の先生だったら目移りして困ったでしょうね(笑)。

武野

生徒はお座敷を前にきれいに化粧していますから、いくら半玉とはいえ、ちゃらちゃらしていたでしょう。
それから次が女髪結い。これがいわゆる美容師で、福岡市内に多くて、360人いたということです。

井上

じゃあ、360人の遊んでいる旦那さんがいた……(笑)。

武野

そういうことになりますね。髪結いさんというのも女性の特権的な仕事ですね。娘さんには島田を結ったり、「好みに応じて結い上げる」とあります。素人と芸者さんの髪も違います。結いわけていたんですね。

井上

立派なエキスパートだった(笑)。

武野

それから大正11年になると、九州帝国大学工学部に女性聴講生を受け入れるかどうかが問題になっている記事。「男女共学は未決定」という見出しで、大正11年の新聞です。東京帝大や東北帝大は女性聴講生を入れているのに、なぜ九大はだめなのかということです。
学長さんが、九大は医学部と工学部だから、専門的な教育を受けた女性となるといないではないか、教育程度がある一定のレベルに達した人でないとだめだ、と言っています。九大の女性聴講生は、文科系ができてからですね。

玄界島の女子消防隊

井上

男性顔負けの記事もありますね。

武野

ありますよ。この大正12年2月25日の記事は、我が国2番目の女子消防隊が玄界島で組織されたというものです。玄界島では、男性は漁に出るので、家を守るのは女性で、団長、副団長いずれも女性の消防隊が組織されたということです。
それから次ですが、門司水上署に女性の通訳が登場したという記事です。

井上

近代的になってきて……(笑)。

武野

いよいよ女性が仕事の最前線に出てきたということです。初めての女性の通訳だったと思いますね。

井上

「竹下マツ子女史(32歳)」と書かれていますね。

武野

独身ともなんともわからないんですが、小倉の人です。

井上

英語の通訳でしょうね。貿易港で女性のお客さんも多いのでという配慮からなんでしょうか。

武野

いや、むしろこの人の学力をかって採用したみたいですよ。

-筑紫の女王- 柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)

武野

それからいよいよ柳原白蓮さんの記事です。柳原白蓮は皇室とも縁の深い柳原前光伯爵の次女として生まれ、明治44年に炭鉱主の伊藤伝右衛門と結婚します。再婚ですが、その美貌と歌で〝筑紫の女王″と呼ばれたことはあまりにも有名です。
彼女は、歌集を出す時に出版社の宮崎竜介と知り合って、伝右衛門のもとを逃げ出して宮崎と一緒になります。その後は、宮崎と共に無産者運動に入って、83歳で亡くなりました。
この大正10年11月3日の記事は「私の内縁の妻で同棲する、という宮崎」という見出しです。白蓮は伊藤家を離れて、実家の柳原家に匿(かくま)われました。そして竜介のところにはしり、正式に結婚しています。 そのいざこざがあった時の記事がこれです。

井上

記事はどんな論調ですか。

武野

そうですね。「事情すこぶる複雑」とあります(笑)。

司会

最近は、伝右衛門さんの方に軍配が上がっているようじゃないですか。一言も釈明もせず、一族郎党にも何もいうなという態度が立派だった。

武野

伊藤伝右衛門は筑豊の川筋気質で、裸一貫から一代で財を築き上げた人ですから、それなりの姿勢で、白蓮に対しても、いつまでも後を追わなかった点は見事です。太宰府天満宮の鳥居も彼が寄付していますね。

井上

あまりに立場が離れすぎていた2人が一緒になったのが、悲劇だったんでしょうね。

武野

昭和にはいると、女性の職場進出も本格化してきて、面白いのが女学校卒業生に、求人側が何を望むかというアンケート結果の記事です。まず算盤につよくなって算数の力をつけてほしい。日本の文字をもっと覚えてほしい。それから、意識をはっきりさせてほしいと言っています。

井上

意見をはっきり言ってほしいということですかね。多分、何を聞いても黙っていたんでしょうね(笑)。

武野

商売の知識が不足しているので、その準備も必要だと……。これが求人側の意見なんです。

井上

女学校側のほうは……。

武野

女学校側は精神修養をモットーとしているというんですね。学校側の理想像と求人側の理想像との間には、ギャップがあるということです。
それで、「社会に巣立つ若い女性に暗い影」という見出しで、なかなか女性に就職口がないということが昭和7年1月23日の記事になっています。

井上

昭和7年頃だから、大恐慌の影響で大変な不況だったんでしょうね。

武野

女学校卒業者は上級の学校への進学1割で2割が就職、残りはお嫁さん候補ということです。2割の就職組がなかなか職に就けなかった。不況のあおりを食ったということですね。

井上

記事にも「不況の影響は、こうして希望に燃える可憐な乙女たちにまで、暗澹たる影を投げている」と書いてありますね。

バスガールからゴルフガール

・昭和7年11月17日 門司新報

武野

昭和7年11月11日の門司新報に、バスガールが出てきます。この当時はみんな○○ガールとつけるんですね。
その翌日の記事がデパートガール。お給料も結構良く、高等女学校卒業生もいたということです。しかも、結婚率が高かったそうですね。門司が1番華やかだった時期でしょうね。
当時、岩田屋デパートに勤めていた女性の話を聞いたことがありますが、試験が非常に難しかったそうです。その方は女学校は出ていませんが、大変な美人なんです。美人ということも大きな条件だったと思いますね。
また躾が非常に厳しかったそうです。その方のお話でしたが、デパートガールは見られる商売だということで。お客さんが、自分の息子のお嫁さんを探しに来るということが多かったそうです。そういう意味で、結婚の条件としてはよかったようですね。

井上

まだ洋装はしていないのですか。

武野

着物で、途中から洋装になったそうです。新聞に載っている門司の写真も、着物姿にたすきがけですね。
その次が面白い。やはり昭和7年にゴルフガールの記事です。といっても、門司ゴルフ倶楽部のオープンより2年前のことですから、ベビーゴルフですね。門司は貿易港だし、近くに八幡製鉄や石炭もあり、ハイカラだったんですね。和服を着て、帯を締めて、クラブを振っている。さすがに数は少なくて2名なんです。キャディーの役割もして、全然ゴルフを知らない人にはコーチもしています。

井上

キャディさんの草わけで、楽しいですね。「朝まずゴルフ場の掃除からローンの修理…素人にはパットの持ち方からルールに至るまで要領よくコーチしながらスコアもつける。ご常連のおなじみ客にはお相手をうけたまわる…」と。

武野

「給料は日給が6、70銭くらいであるが、むろん未婚者ばかり」とか、チップなどは断じて許されないということも書いてあります。

井上

「スポーツ精神に則(のっと)って訓練しているそうで、エロサービスやチップ等は断じて許されない……」と(笑)。

武野

神聖な職場だったのでしょう(笑)。

井上

昔の新聞記者は、のびのびと書いていて面白いですね。
この頃、ゴルフをしようとする人は、大変なお金持ちでしょうね。

武野

ほんのひと握りの人、あるいは外国人でしょうね。ということは、外国語も若干話せないといけないでしょうし、やはりインテリでないと……。

井上

当時の門司はずいぶんハイカラだったんでしょうね。

女学生の希望は恋愛結婚

武野

次に昭和7年の11月23日の門司新報に女学生の意識調査がのっています。面白いのが、希望しているのは圧倒的に恋愛結婚なんですね。子供も10年間は生みませんといっています。
この辺の結婚観は、現在の女性と通じるところがあるみたいで面白いですね。

井上

10年も子供をつくらないなんて、当時としては考えられませんね。

武野

もっともこれは、女学生の意識調査だから、現在でいう大学、インテリ女性ですね。そして恋愛至上主義……で。

井上

スポーツレディはあまり出てこないですね。

武野

ええ、日本女性はスポーツ面での進出はあまり早くなかったんですね。

井上

ただ、学校では結構やっていたでしょう。私の母も女学校でバレーボールの選手で結構頑張ったという話はよく聞きましたから、専門化するのは別でしょうけど、やっていたと思いますけどね。
最後に、先生が一連の新聞記事を見てお感じになられることは何ですか。

武野

私たちの想像以上に女性が溌溂として、意気軒昂たるものがあって、元気がいいということです。また、新聞記者も女性によく注目しているということですね。
女性史の編纂となると、虐げられた女性が立ち上がってくるということでないといけないようになっているんですが(笑)。しかし、実際は生き生きしているんです。人身売買のような暗い話もありますが、明るい話も多いんですよ。

井上

博多や北九州の女性は昔から溌溂としてたんですね(笑)。

武野

私は、女性史とは必ずしも女性が虐げられた歴史ではなく、女性の置かれた実態をそのまま把握していけばいいと思っています。

井上

明治から昭和にかけて、新聞がこれだけ女性を記事に扱っているとは思いませんでした。
で、博多のごりょんさんをテーマにした記事は出てきませんか。

武野

ごりょんさんが支えている家の実態のような記事はあまり出てきません。記事に見る女性はだいたい17、8歳からせいぜい30歳くらいまでですね。結婚後の女性もほとんど出て来ないですね。
ごりょんさんの調査もしなければならないので、ごりょんさんの代表、長尾トリさんのお話を聞きにいくつもりです。ごりょんさんの実態は、民俗学の分野ですね。

司会

切り口が違った面白いお話を、本当にありがとうございました。

九州にみられた奴隷
古くは卑弥呼が中国に生口を献じた記録があるが、博多は中世の末期から奴隷市場売買が行われていた。女よりも男が主で、武力や労働力を買われたらしい。戦国時代には多くの男女がポルトガル商船などに買われ、海外へ奴隷として連れ去られた。豊臣秀吉が一時交易を禁じたのは、この事実を知ったからで、彼の禁令により奴隷売買はストップした。

武野要子氏略歴

昭和28年、九州大学経済学部卒。九州産業大学教授を経て、福岡大学商学部教授。専攻は商業史で、対外交渉史、博多商人史に造詣が深い。著書、『日本の古地図・平戸と長崎』『藩貿易史の研究』『博多の豪商』『博多町人・栄華と経営手腕』ほか。福岡県史編纂委員ほか。