No.56 解放の父 松本 治一郎

対談:平成4年4月

司会・構成:土居 善胤


お話:
参議院議員 松本 英一氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 会長 松本 攻

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


出現は天の配剤

松本治一郎の一生

松本攻

今年(1992年)は部落解放をかかげた全国水平社の創立70周年にあたるそうですね。松本治一郎さんはずっと委員長をされましたが、氏の出現は天の配剤のように思われてなりません。
戦前のあの時代に、差別の不当をかかげて部落解放のため、絶対の権力であった国や軍に敢然とたちむかわれた。あの力はなんだったのだろうか。知の人、信念の人は当然として、たいへんな仁者でもあったのですね。伝記を読んでいて、胸があつくなりました。

松本

父のことをそのようにお褒めいただいて恐縮です。おっしゃる通り、父は子供のときから、不当と差別に我慢ができず、身をはって抵抗しました。
部落の子が差別されると相手が上級生でも、大勢でも立ち向かっていく。謝るまでやめない。体も大きかったし力もあった。

松本攻

子供世界にも、治一郎少年のほうに、どうも正義があるというか、筋道が通っているのがわかる。大勢をたのみに部落の子を差別し、いじめていた子供たちも、今度は相手がちがう。だんだん、たじたじとなって、一目も二目もおくようになる。
このパターンは、治一郎さんが大きくなって、国家権力を相手とされたときも同様ですね。「真に正しい者は強い」とよく言われていたとか。本当にそう思われますね。

松本

小さいときから、この一筋という生き方だったようですね。治一郎の父も兄弟も、不当を泣き寝入りするような者はいなかった。そして、危機に対処する治一郎を支援しています。

松本攻

見識も、信念も。そして生計をきちんとたてられていて。治一郎さんのお父さんは村会議員、長兄の治七氏は収入役もされ、松本家が、部落の人たちの支えだったのでしょう。
先生のお父上は治七氏ですよね。102歳まで矍鑠(かくしゃく)としておられ、手形も筆文字で書かれていた。端正なお姿が目に焼きついていますよ。先生が治一郎さんの秘書をされていて、養子になられたのでしたね。いつ頃から秘書に…。

松本

治一郎は全国水平社の委員長で多忙でしたが、若い人と話すのが好きでしたから、いつも20人ぐらいの書生がいました。私が秘書に専念したのは戦後、参議院の副議長になってからです。
開院式に天皇をお迎えしたときのカニの横這い拒否、あれから身辺警護もあって、ずっと治一郎の左側につきそっていました。

西島

左側というと。

松本

治一郎は、不意の防御をかねてステッキがわりに竹の杖を愛用していました。だからスキになる左側を。

西島

なるほど……。ところでカニの横這い拒否はたいへん話題になりましたね。

松本

議会の開院式で衆参両院の議長副議長が天皇陛下を国会議事堂の玄関にお迎えし、控えの間で“謁見”がある。一般で言えばご挨拶で、そのとき天皇にうしろを見せては不敬ということで、横這いをして、正面から前にすすんで挨拶する。終って同様の手順で引きさがっていたんです。
松岡衆院議長松平参院議長田中衆院副議長が慣例通りにして、治一郎の番になった。ところが治一郎は陛下の前へまっすぐ歩いて、普通にご挨拶をし、うしろを向いて引きかえしました。人間天皇をお迎えするのに横這いができるかと…。これがカニの横這い拒否と大きく報道されたのですね。

西島

以後は横這いは廃止されて…。

松本

元華族の松平参院議長の胸の内も、本心は横這い反対だったようで(笑)。
ところが、不敬だと脅迫が続く。私も体をはった気持ちで、親父さんの左側についていました。

松本攻

じゃ、いつも治一郎さんのそばに。

松本

ええ、しかし、ひと頃は治一郎の命令で盟友、鈴木茂三郎先生のボディガードをしていました。

松本攻

それは…。

松本

自分より鈴木先生の安全を気にしていたのです。治一郎はそういう男でした。

西島

いろいろと役目があって書生さんも大変でしたね。

松本

治一郎は書生にはきびしかったですね。朝食も朝7時すぎると絶対食べさせないんです。それでも治一郎に惚れこんだ人が次々とおしかけてきて…。東京のマッサージの名人までぜひにと言って書生になりました。私をふくめていろんな人間がいましたな。
若い連中ばかりでしょう。戦後早々だからみんな素寒貧で、元気づけの酒代がない。それで事務所の敷物を質入れする。親父がくるとなると大急ぎで受け出して…。(笑)

黒田300年祭の寄付割当に反対、徳川公爵辞爵勧告

全国水平社の同志たちと。
左から米田富、阪本清一郎、山田孝野次郎、
柴田啓蔵、西光万吉、治一郎

西島

養子になられたのは。

松本

私が解放同盟からすすめられて参議院全国区に出るという話があった。たしか昭和36年の8月でした。
親父さんがとぼけて、「全国区の候補者に松本英一とあるが誰かいな」。「私です」。「なんやお前な。いま出るがいいとな、出んがいいとな」。後援会長は安部辰五郎さんで、準備はできていたんですが、親父の目から見ると早すぎると見えたらしい。
「そんならやめまっしょう」とあっさり断念しましたが、そこらへんの思い切りを気に入ってくれたのでしょう。養子にという事で親子になったのです。
私も若い盛りで、中洲でも元気者で通っていましたが、英一はクラブで呆けとるから困ると、よく叱られましたな(笑)。

松本攻

治一郎さんの名が知られたのは、黒田長政公300年祭の寄付反対からですね。

松本

恩願を受けた者が自費でするのなら美談にもなろうが、各町村に割当てるのはおかしい。まして差別の遠因をつくった黒田藩祖の長政の祭事に部落が醵金する要はない。絶対反対という事で。

松本攻

すじが通っていて、知事さんも市長さんも参ったでしょうね。また「筑前糾革団」というネーミングがすごい。頭の切れる人だったんですね。

松本

「吾人、先祖ノ虐待者、旧福岡藩主黒田家ガ催ス三百年祭ニ、(略)積恨ヲ持テル被虐抑者ノ子孫タル吾人同胞ガ、大正聖代ノ今日壱厘ダモ負担スルノ義務ナキヲ自覚セヨ」のビラをまき、演説会をし、知事に抗議して、「寄付は任意である」という通達を約束させるのです。まあ、それで5万円の募金予定が1万570円しか集まらなかった。

松本攻

治一郎さんが黒田300年祭の寄付割当に反対のときは、まだ30歳ぐらいだったのでしょう。ついで徳川公爵爵位返上勧告ですね。

松本

水平社全国大会で治一郎の提案が決議されたんですね。300万部落民の先祖は、徳川家康のために、人間の権利も自由も無視され、社会の底辺におしこめられた。この責任を負って徳川家達公爵は爵位を返上すべきだ…と。

松本攻

徳川さんも困ったでしょうね。

松本

爵位は天皇の大御心でいただいたもの。天皇の大御心には反せないという論旨で逃げられましたね(笑)。戦前ですからね。
ところが、九州水平社の佐藤三太郎が芝の中華店で昼食中、ピストル、短刀所持でつかまって、「徳川公爵暗殺計画」がつくりあげられる。
治一郎もピストルを渡した容疑で松本源太郎といっしょに逮捕されますが、松本が獄死するんです。解剖すると胃や腸に何もない。脚気患者の松本に5、6日も食事を与えていない。充分に病舎で看護したというが、実際の入院は死の前日とわかった。
盛大な水平社葬でとむらいましたが、治一郎の家に住みついていた浜嘉蔵が、仇討ちだと、徳川邸にしのびこみ、マッチで放火する。本人はボヤぐらいだろうと思っていたら、翌朝銭湯の話で全焼と知る。それで大連へ逃げましたが、つかまって懲役15年です。

西島

治一郎さんのほうは。

松本

懲役4ヵ月です。

松本攻

治一郎さんには、官憲も別格扱いだったそうで。

松本

「拷問するならしゃんとやれ。殺すまでやった方がよか。そげんせんと、いつか娑婆に出てお返しするばい」と平然と言う相手で、まあ監獄でもコワモテだったのですね。

浴びるほど飲んでいた酒を、ぷっつりやめて

日中友好運動に尽力し、国交回復の礎をつくった。
周恩来首相と。(1957.10)

西島

出所されてから生活を一新されたとか。

松本

浴びるほど飲んでいた酒をぷっつりやめました。1日3箱の煙草もやめる。漬物も調味料なしで食べる。そしてノーネクタイです。
部落解放に生命を張る以上、いつ警察に拘留されるかもしれない。そのときこわいのは欲望に負けること。だからこの敵を前もって退治したのでしょう。
ノーネクタイは、警官ともみあうとき、ネクタイで首をしめられると参ってしまうからだと言っていました。そして太いステッキを常用しはじめました。

松本攻

ずいぶん女性にもてたそうですが…、生涯独身も決意されている。

松本

若いとき、心をゆるしたひともいたようです。身売りされる寸前の娘さんをたすけたり、女性にはやさしかった。
女性議員にもよくもてましたな。生涯結婚しないと誓ったのは、後顧のうれいをなくそうとしたからでしょう。

松本攻

身をはっての決意の程がうかがえますね。300万部落民解放のために自分を投げだされたのですね。そして次は福岡第24連隊の差別反対運動で、軍を相手に糾弾される。

松本

軍は連隊爆破事件を捏造(ねつぞう)して治一郎等が拘束されます。しかし証拠になったダイナマイトや手紙の疑惑が法廷で露呈されてしまう。それでも保釈になるまで3年あまり収監されていました。

松本攻

当時の絶対権力の軍に対しての抵抗。捨身だったでしょうが、普通の人にはとてもできることではないですね。「不可侵、不可被侵」を信条とされたのはいつ頃からですか。

松本

35、6歳からでしょう。治一郎が手がけた建設業も、請負は福岡県内だけ、他県へは出ていません。

西島

それも不可侵不可被侵で(笑)。よく人の面倒も見られたのでしょう。

松本

人の気持ちがよくわかっていましたね。3,000円借りに来たら500円余計にわたす。5,000円なら1,000円つける。それで役立つ金になるのだと言っていました。そのかわり、4回も5回もくる人間はつきかえせでした。
よく人を見ていて、あの人ならと信用した人には「証文はいらんから持っていき……」でした。金を借りるときは、すぐに返せる筈がない。ゆっくりでいいでしたね。

西島

年譜を見ますと、将棋の王将で有名な坂田三吉さんの介添役をされていますね。お好きだったので。

松本

碁も将棋も好きで、よくしていました。しかし、どんな優勢な局面のときでも、人がくると御免とくずして会っていました。

西島

銭湯がお好きだったそうで。

松本

議員になって東京の魚藍坂に住んでいたとき、朝4時半始発の電車にのって芝から神田へ入湯にいっていました。私が22、3歳の頃でよくいっしょしましたよ。
親父さんはとびきり暑いお湯が好き、私は好かん、弱りましたな(笑)。

松本攻

福岡では毎朝、東公園に。

松本

木の多い所が好きでしたな。親父さんに用があれば毎朝、東公園に行けばいいと言われていました。菜園づくりも好きでしたね。

松本攻

浮浪者の人たちにも、ここで差し入れをされたとか。

松本

おにぎりを、毎朝配らせていました。少し麦を入れていましたが、あの頃は失業の人たちが多くて喜ばれましたね。それから福岡刑務所の受刑者全員に、元日の日、三段重ねのあたたかい雑煮弁当を差し入れていました。刑務所暮らしの辛さがよくわかっていたからですね。この“おやじ弁当”は死ぬまで続けましたよ。

松本攻

いいお話ですね。そして若い人をとても可愛がられたとか。

松本

水平社でも事務局の若手連中をよく引きたてましたね。若手の提案を、まるで自分が考えた事のように、手をそえ支援していましたね。

西島

写真がとても童顔ですね。目がやさしいしあごの山羊ヒゲに味があって、世界に通用するいいマスクですね。

松本

写真家の土門拳さんが気に入ったマスクらしくよく写していましたね。

松本攻

人間解放の父ということで、外国でも歓迎されましたね。

松本

中国で周恩来さんに歓迎されたときは嬉しかったようです。その喜びを、百人一首を引用して挨拶しました。「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の わけてもすえに会はむとぞ思う」。通訳さんが、さぞ困ったでしょうね(笑)。
アジア諸国からヨーロッパまで出かけましたが、日本人民の代表としてずいぶん歓迎されましたね。

松永安左ェ門さんと広田弘毅さん

「不可侵不可被侵」
の書。

西島

電力の鬼といわれた松永安左ェ門さんとは、たいへんな親交だったそうで…。

松本

立場が反対ですし、年もひとまわりも上の方でしたが、お互いに私欲が薄く公益優先でしたから共感しあっていたんでしょうね。
松永さんが書かれた福沢諭吉の「公平ノ論は不平ノ人より出ズ」の色紙をもらって大事にしていましたね。
中野正剛さんと松永さんが選挙を争ったとき、立会演説会場でいつも同じ連中2、30人が松永さんを弥次っている。目にあまるので親父が追い出した事もあったようです。
松永さんに、建築業なら見積もりを出せといわれて、名島発電所の仕事をしたりしました。私たちは、松永のじいさんと呼んで親しんでいました。治一郎が動脈硬化で入院して面会謝絶のとき、松永のじいさんが見舞にきて、面会謝絶でもなんでもいい、俺に会わせろ、俺に会って往生するのなら極楽往生だと…。
松永さんはそのとき91歳でしたか。それで親父が一時元気をとりもどしましたからね。

西島

広田弘毅さんとは。

松本

うちは建築だから砂屋で、向うは石屋でしょう。広田さんのお父さんとは懇意でしたし、立場は違っても認めあうものがありました。議会で華族制改正を質問するとき、「松本さん、現実には無理だよ。」「無理なら無理で答弁を」というような話があったそうです。

西島

広田さんの墓所の敷石を、治一郎さんが贈っておられるそうですね。

松本

軍部の暴圧を抑えようとした広田さんの苦衷を知っていて、鎮魂のつもりだったのでしょう。
中野正剛さんとの仲は、晩年はよくなっていました。頭山満さんとは、立場も年令もへだたっていて、接触はなかったですね。
戦後の民選初代、二代の福岡市長になった三好弥六さんとの交友も忘れられませんね。親父の裁判は三好弁護士に一切をまかせましたし、衆議院初出馬のときも部落出身でない三好さんが選挙事務局長になってくれた。弱い者の味方になるスタンスが二人を結びつけたのですね。

松本攻

治一郎さんは80歳でなくなられましたが、老人の感じは全然ないですね。

松本

服装も、親父なりにおしゃれでしたし、いつも勉強していました。ちょっと余裕があると、二日市の大丸別荘で一人で読書にふけっていました。

松本攻

終生、解放のために、その使命を追いつづけて、心はいつも青年でおられたのですね。

-略伝- 松本治一郎の歩み

今年(1992)は部落解放のために全国水平社が創立されて70周年にあたる。部落の人たちは、数百年にわたって、いわれのない差別を受け続けてきた。「エタ・非人の称廃され候条、自今身分職業とも、平民同様たるべき事」と四民平等をうたった明治維新後も新平民の蔑称のもと、不当な差別は続いた。
全国300万の部落の人たちにとって、全国水平社は結束と団結で不当な国家権力に抗し、自由と平等を求めた強固な連帯であった。その水平社と戦後の部落解放同盟の委員長として、権力の弾圧に抗し不屈の戦いを続けたのが、松本治一郎であった。彼の80年の歩みは、日本民族の良心として、部落大衆解放の父として、一身を投げうった尊い生涯であった。

幼少のころ

松本治一郎(幼名・次一郎)は、明治20年(1887)、包装用の竹の皮や桐材を扱い、村会議員をつとめた父・次吉と母・チエの3男3女の末ッ子として、福岡県筑紫郡金平村(現・福岡市)に生まれた。
住吉小学校時代の治一郎は、成績は中ぐらいだったが、体が大きく腕っぷしが強く、負けん気の強い腕白大将だった。同じ地区の子が差別されると、相手が謝るまでむかっていった。
担任の岡沢燐太郎先生に、「じいっちゃん」と可愛がられ、修猷館の国漢の先生に転じられてからもよく訪ね、終生の師として敬慕した。
小学4年生の頃のこと。部落出身の娘が柳橋遊郭を逃げだし、警官がその捜査にきて、親父いるかとずかずかと家に入りこんだ。治一郎少年がその無礼をとがめると「何を言うか。文句があるなら警察へこい」という。少年は包丁を手に、何もしない者をなぜひっぱるかと抗議。その真剣さに警官が驚いて立ち去ったという。
「怒りが本物なら、相手が権力者でもこわくない。相手は必ず逃げる」の確信をえて、これが生涯の支えになった。
京都の干城中学から錦城中学に転じたが、差別を受けた相手を殴って1週間で退学している。
20歳の徴兵検査に治一郎だけ長髪だった。下士官に叱られたが検査官が収め、日露戦後の兵員超過のため国民兵に編入だった。
兄の友人をたよって、少年時代に夢みた大陸へ渡ったが、日露戦争に勝った日本人の支配意識に幻滅。新聞探訪記者から郵便局の臨時雇い、土木工事人夫、飲食店下働き、易者と転々。最後は街頭医者となり、「大日本帝国一等軍医監」の*幟をたてて繁昌したという。
しかし無免許のため苦情が出て、日本領事館から「諭旨退清(ゆしたいしん)」の処分を受けて明治43年に帰国した。
次兄鶴吉が起こした土建業を手伝い、翌44年独立して25歳で土建業・松本組を起こした。祭礼には背広にまっ白なカッターシャツ、金縁眼鏡とモダンだった。この頃心をゆるした女性との生活もあったが、入籍できなかったらしい。

興味本位の記事に抗議

6月に「博多毎日事件」が起こった。興味本位の探訪記事を主とした新聞だったが、大正5年6月17日号に、「浮世のぞき眼鏡-人間の死体を元素に還す火葬場の隠亡」の見出しで、豊平金平地区は専属の火葬場を持っている、人間の亡者様は穢多の亡者様と一所のかまどで焼かれる事をおきらいとみえるという記事がのった。
これに約300人の人たちが激昂し、新聞社へ抗議したが、社長が逃げていない。ガラスをわり、活字台をひっくりかえし、机、椅子を投げる騒ぎとなって印刷工一人が負傷した。
折から九州劇場で市政刷新市民大会が催されていたので、警察は二つの行動が重なれば不穏な事態になると考え、騒擾罪(そうじょうざい)を適用して600人を取調べ半数以上が拘留された。
治一郎は「喧嘩は一人でするもの」との信念で、警察に抗議したが追い払われ、組織の必要を痛感した。それで青年団に入り熱心に活動する事になる。
三隈社長の謝罪状は受けとったが、47人有罪で、首謀者3人は懲役1年となった。このときの弁護士が後年、戦後初の地方選挙で市長に当選、1期2期と福岡市の人情市長として知られた三好弥六氏で、治一郎と終生の友情を結んだ。なお、1ヵ月後の刷新会判決は別の裁判長だったが全員無罪で、あまりにも対照的だった。

地主の差別を糾弾

青年団長の治一郎は、青年たちからいつしかオヤジと親しまれていた。大正9年、一人の青年が、オヤジ、ゆるせぬ事が…と、とびこんできた。
周辺農村へ出稼ぎしている部落の人たちが、食事は土間に坐らされ、女中が別の茶碗によそった飯を自分の茶碗におとしてくれる。味噌汁も長柄ひしゃくで高い所からつぐ。不浄だと差別して人間扱いでない。
治一郎は、一番忙しい田植え時をまって友人二人とこの村へ出かけた。公会堂で部落の農民300人からくわしい話をきいて、地区一番の大地主を訪ねて抗議した。いちばん手強い相手に立ち向かう治一郎流だが、ちょうど朝食の最中で、部落の人たちは土間で食事をさせられていた。地主に抗議すると、昔からのシキタリだとそっけない。
そのとき、猫が地主の膝にのった。治一郎は、猫が田植えをするか。トカゲや虫を食う不浄の獣を座敷にあげ、人間を土間に。どういう料簡かと問いつめた。地主は一言もなく、地主仲間と話しあって今日から差別をやめると謝り、悪風は改善された。

黒田侯300年祭寄付割当に反対

大正10年7月、「明春黒田長政公没後300年祭を行う。所要5万円を旧筑前領市町村で」という知事通達があった。
安河内知事と久世福岡市長が話しあって旧藩領の郡市長会で賛成を求め、予算を10万円とし、内5万円を旧黒田領3市9郡の住民から県税に準じて徴収ときめたものだった。
治一郎は「長政は先祖を社会の最底辺にしばりつけた人物である。恩を受けた連中がお祭をするのはいいが、被害者の部落民にまで何故割当てをするか」と郡長に抗議した。知事からの通達でと郡長はオロオロだった。
治一郎は「筑前糾革団」を組織し、知事を追求して「寄付は任意」の通達を約束させた。300年祭は豪勢に行われたが、寄付金は目標にはるかにおよばず1万570円であった。

水平社創立

大正10年、奈良の阪本清一郎西光万吉等と話合い差別撤廃のため読書会をつくり、駒井喜作平野重吉松田喜一朝田善之助等が加わり、輪がひろがって水平社の創立がはかられた。
大正11年3月3日、京都の岡崎公会堂に2,000人が参加して全国水平社を創立した。
「全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。長い間虐められてきた兄弟よ。(略)。吾等の中より人間を尊敬することによって、自ら解放せんとする者の集団運動を起せるは、寧ろ必然である。(略)。人の世に熱あれ、人間に光あれ。」と結んだ大会宣言は、西光万吉がガス配管の受け持ち先の島原遊郭の角屋の物干台で書きあげたものだという。
黒地の中央にイバラの冠を配した荊冠旗もつくられ、水平社はちくじ全国に結成されていった。このとき、九州と中央は遠く、治一郎はまだ参加していない。
九州水平社は西本願寺布教師の花山清田中松月柴田啓蔵が話しあい、治一郎をリーダーとして、大正12年4月26日博多座で創立にきまった。
その前月、警察より延期を要望されたが拒否。そのころ、工事請負のトラブルで死傷者がでて社員16人が逮捕されていた。裁判所が治一郎が身元引受人になれば釈放するというので出頭すると、そのまま拘留されてしまった。
5月1日、治一郎拘留のまま、九州水平社は設立され、委員長に治一郎を選任し、「門戸を解放し人材登用」「人間尊厳の小学教育」などが議決された。父親(次吉)の死で保釈、ついで無罪となったが、このときから治一郎は欲望をたつ生活一新をはかった。酒、タバコ、食事の調味料をやめ、生涯独身を誓い、ノーネクタイに太いステッキと、権力との戦い、拘留への決意をひめた決定であった。

徳川公爵爵位返上勧告

大正13年3月3日、京都で行われた第3回水平社大会に治一郎は初参加した。全九州水平社が祖先の人間の権利と自由を剥奪した徳川家の責任を追及して爵位返上を提議。治一郎、南梅吉花山清(九州)、松本源太郎(九州)の4人が実行委員に選任された。
3月4月と徳川家へ勧告訪問をしているうち、九州からかけつけた佐藤三太郎が、芝の中華料理店で昼食中に逮捕される。佐藤は12連発のピストルと短刀を持っていて、徳川公爵暗殺計画の被告とされる。治一郎と松本源太郎が佐藤にピストルを渡したとして、予備殺人容疑で逮捕された。
治一郎拘留のまま、水平社代表はやっと徳川家達公爵に面談したが、「徳川家は明治維新で廃滅したが、明治天皇からあらたに爵位をいただいたもの。爵位返上は大御心に反することで到底できない」と、天皇を笠にして拒否。当時の世情では、これ以上の追及は不可能だった。
ところが治一郎といっしょに検束された松本源太郎は脚気症の病弱のため、病状が悪化して獄死した。死因に疑問があるため布施辰治弁護士が慶応大学の川上博士に解剖をたのんだところ、強度の心臓肥大とともに、胃と腸がカラッポで5・6日食事が与えられていない。病舎収容も死の前日であった。布施は「病死に非ず。遺棄致死である」と発表、痛憤の中、福岡の大光寺で盛大に水平社葬が行われた。
県庁につとめ、治一郎宅に住みついていた浜嘉蔵が松本の仇討ちをすると、徳川邸応接間にしのびこみマッチで放火した。大陸へ逃れたが、大連でつかまり、懲役15年を宣せられた。
徳川公暗殺陰謀事件は布施辰治、三輪寿壮、三好弥六が弁護士となったが、治一郎、佐藤三太郎両人は懲役4ヵ月を宣せられた。
大正14年5月、水平社第4回総会で、治一郎は第二代委員長に選任され、全国水平運動のリーダーとなった。

福岡第24連隊事件

大正15年1月、歩兵第24連隊(福岡市)機関銃隊第4隊の井元麟之に部落出身の初年兵が差別を受けたと泣きついたのが、この事件の発端だった。井元は部落の青年200人が営門前で革命歌と解放歌をうたって入営を送ったことで注目された人物だった。
井元等はひそかに外部の水平社と連絡をとりながら、厩舎を同志の打合せ場所として、機関銃隊の隊長に日常の差別を抗議し、差別撤廃の講演会開催を要求した。
ところが返答はナシのつぶてなので、水平社側は同年5月に大博劇場で催された第5回全国水平社大会で「軍隊内のこの差別を見よ」のビラをくばり、軍に差別撤廃を強く要望した。
青年隊が荊冠旗をかかげて軍に抗議したり、報告講演会など抵抗の炎は燃えさかる一方だったが、久留米の太田憲兵隊長が仲介にたち、同和教育の連隊講演会を福岡市記念館で催し、将校は連隊長宅で学習することで同意した。
ところが、「福岡連隊の差別事件、大勝利解決す」のビラに「ここにおいて*頑迷固陋(がんめいころう)、階級差別によって固められた彼等連隊当局の石頭連中も、遂に我らの正義力の前に屈服した」とあったことから軍がクレームをつけ、交渉は振り出しにもどった。
水平社九州連合会は、さっそく糾弾演説会をひらき、在郷軍人会、青年団、処女会、青年訓練所からの脱退、福岡連隊への入隊拒否、11月に佐賀で行われる陸軍大演習で全将兵への宿舎提供拒否を打ちだした。
11月12日に警察は糾弾をおさえるため水平社幹部宅の一せい手入れを行い、治一郎宅の物置から新聞包みのダイナマイトのようなものを押収し、治一郎、藤岡正右衛門等十数人を「爆発物取締罰則違反」で拘留した。
3ヵ月後の報道解禁で新聞は「1,000余の水平社同人を集め、福岡連隊の爆破を企つ。陸軍の大演習を機として将兵の不在を襲う計画」等と、福岡第24連隊爆破事件として大々的に報じた。
ところが公判がすすむにつれ意外な事実が出てきて、爆破計画が官憲の捏造(ねつぞう)でないかと思われるにいたった。
治一郎は「我家はオープンなので、誰でも出入りできる。誰かが故意にダイナマイトをおいたのに違いない」と主張。さらに治一郎宅から押収した手紙に疑念がもたれた。熊本市の清住某から治一郎の秘書にあてた手紙で「岩尾君、さきほどおたのみのマイトは、なにほどでも注文通り手に入ります。数を知らせてほしい。しかしながら相手は無知なものですから金をだしてくれねばダメです…」とあった。
ところが、この手紙が押収された前日に、警部がこの手紙をもって熊本県特高課をたずね清住の筆跡鑑定の依頼をしていることが、予審調書につづられていた警部の復命書でわかった。
つまり、誰かが家宅捜索の前日11日午前に、このレターを持ち出して特高にわたし、12日の手入れまでの間に、こっそり返していたことになる。
公判で治一郎は「11日に熊本へ持っていかれた手紙が12日にひょっこり私の家から出てくる。これはどうした事か。検事さんは家宅捜索のときドロボーを先頭に立てて手引きしたのでは…」と検事を追及。軍隊爆破の陰謀は大きくゆらぎ出した。
陰謀に参加したとされる22日に治一郎は中洲の改築工事場にいたし、23日は福岡警察署長の指揮で、組頭として消防組の点検と演習に参加し、夜は慰労宴に出ていて、アリバイもはっきりした。
しかし、治一郎の懲役3年6ヵ月をはじめ、被告全員に懲役刑の判決となり、二審も同様。大審院は棄却して刑が決定した。昭和4年5月1日、福岡刑務所に入所する治一郎等を送る荊冠旗をかかげた同志の列は10キロの沿道をうずめたという。こうして昭和6年12月の仮出所まで2年半の懲役に処せられている。
この間、昭和2年11月、名古屋で行われた陸軍大演習で、北原奉作二等兵が馬上閲兵の天皇に隊列から走り出て差別撤廃を直訴。訴願令違反で1年の懲役刑を受けている。
昭和8年、高松事件が起こった。高松市で婦女誘拐罪に問われた青年に高松地方裁判所で検事が「結婚は互いに身元を調べ、身分、職業、その他をあかしあって双方納得の上行うべきであるのに、特殊部落民でありながら、身分をかくし、甘言詐謀をもちいて女を誘惑した」と発言。裁判長は検事の発言を黙認した。
治一郎は、いままでの弾圧は斗いに対してだったが、何もしなくても部落民というだけで罪になる。これはえらいことだと思った。司法大臣に厳しく抗議し、全国部落民代表者会議は福岡から東京までの差別裁判取消要求請願行進を決定した。司法大臣に遺憾を認めさせ、このような事をおこさぬよう司法次官通達を出させ、関係判事検事の配転をみて解決した。

国会へ

大昭和3年に獄中から立候補し落選したが、11年に再び衆議院に立候補。弁護士三好弥六が選挙事務長になって3位当選。内閣は広田内閣で、治一郎は華族制度廃止について議会で質問し信念を吐露している。
昭和12年に日本は中国との泥沼戦争に入り、16年には太平洋戦争に突入。言論、出版、結社等の臨時取締法により、水平社は思想結社と見なされ解散の止むなきにいたった。
昭和20年終戦、民主国家に生まれ変わったが、戦時中翼賛推薦議員であった事で公職追放にあい、第1回総選挙には出馬できなかった。
21年2月、京都で全国部落代表者会議が開かれ、中央委員長に治一郎が就任。部落産業の全面振興、華族制度など封建的身分制度撤廃、強力民主戦線、民主主義日本の建設を採決した。
公職解除により22年4月、参議院全国区に立候補し、42万票を獲得して全国第4位、初代参議院副議長に選出される。翌年1月、第2回国会開会式で天皇への挨拶に慣例のカニの横這いを拒否し日常の礼で行ったので話題となった(対談参照)。
24年1月、第3回総選挙の開票日に、治一郎、田中松月、井元麟之等10人が戦時中大和報国運動本部の役員であったとして再度公職追放を受ける。追放解除運動が全国でおこり、国会でも質問された。25年10月、追放解除訴願委員会の発表した解除者は1万91人だったが、吉田首相をへて、総司令部に出された解除者は治一郎を除く1万90人であった。これは治一郎追放を吉田首相がマッカーサーに要望したためであった。
26年8月追放解除。28年4月参議院全国区に当選。参議院本会議で「吉田クンに本会議で会うのは5年ぶりですね」と一矢を報い、民生安定、再軍備の憲法無視、現外交では日本は世界の孤児になると3点を質問、吉田首相は苦虫を噛みつぶしたような顔で素っ気なく2分間の答弁だった。
40年7月、第5回参院選に出馬。最後のお礼奉公と言ったが54万8,008票で当選した。
40年8月、佐藤内閣へ、4年の審議を行った「同和対策審議会の答申」が提出され、同和対策に大きな光明と前進をみた。

落日

41年3月、脳卒中で倒れ、福岡市浜の町病院に入院。生涯の知巳松永安左ェ門の見舞を受け一時快方に向かったが、11月22日未明逝去。部落解放、人間解放に一身をささげた80年の生涯であった。
葬儀委員長の鈴木茂三郎(元、社会党委員長)は弔辞で「あなたはあみだ様のような面ざしで、被圧迫階級を見られた。そして不動明王のような鋭い目で圧迫階級をねめつけられた。…」と述べ、喪主の松本英一は「しいたげられた人びとの完全解放を見届ける事ができなかった心残りはあったにしても、父の歩いてきた道が、全国の数え切れない人びとの心に生きつづけ、子供に孫に、語りつがれていくかぎり、父は一粒の麦、地の塩たりえたことをひそかに喜ぶでしょう」と治一郎を偲んだ。