松本治一郎の一生(年齢は数え年)

明治20年(1887) 6・18 福岡県筑紫郡金平村(現・福岡市)に生まれる。幼名次一郎
27年 豊平尋常小学校入学。31年住吉高等小学校入学、33年卒業。
京都の干城中学校から錦城中学へ(中退)。※明37・38、日露戦争。
40年
(1907・21歳)
6月・中国へ渡り職業転々43年帰国。※明39・島崎藤村「破戒」出版。
大正5年
(1916・30歳)
6月「博多毎日」差別事件。これを契機に部落解放運動へ。
9年
(1920・34歳)
馬出の地主の差別を糾弾。
10年
(1921・35歳)
「筑前糾革団」を結成し黒田300年祭反対斗争。
11年
(1922・36歳)
南梅吉を委員長に「全国水平社」を創立。
12年
(1923・37歳)
4月、全九州水平社結成にあたり、予備検束。
5月、未決拘留中に全九州水平社創立大会で委員長就任。
6月父・次吉死亡。釈放。
13年
(1924・38歳)
3・3全国水平社第3回大会で「徳川家一門に対する辞爵勧告」
を提案し、実行委員長に。
14年
(1925・39歳)
5月、全国水平社第4回大会で委員長に選出。(以降毎大会で委員長に選出)
12月、「徳川暗殺未遂事件」一審判決で松本、佐藤三太郎に懲役4ヵ月。直ちに控訴。9月松本源太郎獄死。
15年
(1926・40歳)
1月福岡第24連隊の差別事件おこる。
11月「連隊爆破陰謀」として治一郎等十数名逮捕される。
昭和2年
(1927・41歳)
1月福岡連隊事件で懲役3年6ヵ月の判決、控訴。
3月「徳川公爵暗殺未遂事件」で下獄。7月出獄。
3年
(1928・42歳)
8月第1回普通選挙に立候補(労農党公認)、落選。
12月、福岡連隊事件で控訴院が一審通り判決。大審院却下。
4年
(1929・43歳)
4月福岡連隊事件で下獄。
6年
(1931・45歳)
12月仮出獄(2年8ヵ月在獄)。
8年
(1933・47歳)
6月高松地裁事件おこり、差別判決を糾弾。
11年
(1936・50歳)
2月衆議院議員当選。次一郎を治一郎に改名。
5月、広田内閣に華族制度改正に関して質問。
17年
(1942・56歳)
1月「言論、出版、集会、結社等臨時取締法」により全国水平社解散。
20年
(1945・59歳)
8月15日終戦。10月日本社会党結党・入党。
21年
(1946・60歳)
2月、部落解放全国委員会を組織、中央委員長就任。
22年
(1947・61歳)
4月参議院全国区に当選。5月、初代参議院副議長。
23年
(1948・62歳)
1月天皇へのカニの横這い拝謁を拒否。
24年
(1949・63歳)
吉田内閣により公職追放。26年追放解除、公職復帰。
28年
(1953・67歳)
アジア歴訪、ネール首相と会談。各年世界各国歴訪。
40年
(1965・79歳)
8月、内閣同和対策審議会が「同和地区に関する社会的経済的諸問題を解決するための基本方策」答申を佐藤首相に提出。
41年
(1966・80歳)
11月22日逝去。
※44
(1969)
「同和対策事業特別措置法」制定。
※44
(1969)
「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律
(地対財特法)」制定。