No.57 中村 琢二

対談:平成4年12月

司会・構成:土居 善胤


お話:
西日本新聞社会長 青木 秀氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 頭取 四島 司

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


光る砂・筑前 輝く泥・筑後

中村琢二 略歴

西島

福岡は優れた洋画家が出ていますね。

青木

今日のテーマの中村琢二さんですが、お兄さんに中村研一さん、研一さんの親友にライバルの児島善三郎さんがいますね。敬称は略させていただいて、3人とも児島がはじめた修猷館中学のパレット会で絵を描きはじめたのが面白いですね。

四島

筑後には青木繁坂本繁二郎古賀春江田崎廣助という人たちも。

西島

そうした人たち以外にも、優れた画家が大勢で、大きな山系ですね。

青木

そう、壮観ですよ。面白いのは旧黒田藩の筑前と、有馬藩の筑後の絵の違いですね。中村兄弟も児島も、どっちかというと色彩が淡い。絵が淡泊なんです。光安浩行も、鞍手出身の山喜多次郎太も同様で…。

西島

そういえば、坂本さんも淡泊のようでいて、よく塗りこんであるし、青木繁も田崎さんも色が強い。

青木

筑後の伊東静尾もそうですね。以前に県美術館で「イメージの風土学」“川”の筑後と、“海”の筑前展が催されたとき、詩人の丸山豊さんがそれを見事に言い表されていた。光る砂・筑前、輝く泥・筑後。

西島

うまい(笑)。福岡は白砂青松、筑後は筑紫次郎の筑後川、そして有明海の潟。

四島

日本の洋画を支えた両極の人たちが、筑前と筑後の芸術家なんですね。で、今日は、淡々としたもっとも筑前らしい風致の画家、中村琢二さんがテーマですね。

青木

画家には、説明がいくらでもつけられる画家と、説明不要の画家がありますね。琢二の絵は見るだけでいい。自分に話しかけてくれる絵だという事が、誰にでもわかる。

西島

実にあかるい、気持ちがゆったりする。線にしても、色にしても無雑作にポトンと筆をおとしているようだけど、しかしデッサンの確かさと、配色の妙。これはすごいですよ。

青木

素直な絵だと思われている。ご本人も、先生につかず、外遊もせず、自分で好きな絵をかいてきただけと言っているが、どうして、どうして。

四島

琢二さんの絵にひかれるにつれ、ご本人のお人柄にも魅せられますね。周囲の人がみんな琢二が好きになって、彼の画業を育てている。

青木

両親、そして一番に兄さんの研一、安井曽太郎有馬生馬等の巨匠たち、そしてあたたかい家族の人たちも。

ターシャン絵かきにならんかね

アトリエの中村琢二画伯

西島

琢二さんは、美校にもいかず、専門的な教育はなにひとつ受けていない。素人画家からのスタートでしょう。

青木

そこが面白いですね。兄さんの研一は、東京美術学校を出てパリに留学、帰朝してすぐに帝展特選、帝国美術院賞をもらう。年齢は2歳しかちがわないが、すでに大家の観がありますね。その兄の研一に「ターシャン、あんたも絵かきにならんかね」とすすめられて、描きはじめるのです。

西島

ずいぶんオクテですね(笑)。でもいい兄さんで。もつべきは“賢兄”だ(笑)。

青木

しかし“愚弟”ではない…(笑)。その研一が、その前にパリから「いずれラジオの世界がくる。ターシャン、ラジオ屋をしろ」とすすめたりしてもいる(笑)。

西島

無責任ですね(笑)。お父さんが住友の偉い人で生活の心配はなにもなかったそうで…。

青木

お父さんの啓二郎さんは住友のドル箱だった別子銅山の四阪島精錬所の初代所長をつとめ、のちに住友本社の技師長になった人。
だから二人とも生活の心配は全然しなくていい。好きなように絵がかけたのですね。琢二が東大在学中にお父さんがなくなりますが、父が存命だったら、住友へいれられて、課長ぐらいにはなったろうと言っていますね。(笑)

西島

絵のもつ悠々たる姿勢がわかりますね。お父さんがなくなられたので、絵かきになれた…(笑)。

四島

絵かきになるまでのステップも実に自在ですね。

青木

お父さんが、最初佐渡金山勤務だったので、佐渡で生まれています。お父さんが住友にかわったので愛媛縣新居浜の小学校へ。そしてお祖父さんの宗像へあずけられ、東筑中学から中学修猷館へ転校します。

西島

修猷館時代にさっきのパレット会へ…。

青木

河野、池上という絵に熱心な先生の指導で、児島善三郎が研一たちとパレット会をはじめ、琢二も入会するのです。研一は子供のときから、水彩絵具を買ってもらって描いていたそうで、琢二の絵もお兄ちゃんの影響だったのですね。

四島

それにしても、後年、日本画壇を背負う善三郎、研一、琢二がそろって修猷館から。壮観ですね。その頃、マチスにひかれたと…。

青木

ちょうど、丸善書店が福岡に支店を出して、マネやモネの画集、そして武者小路実篤等が出した雑誌「白樺」に、ゴッホやマチスの写真版の絵がのったのだそうです。カルチャーショックだったでしょうね。

四島

そして終生、マチスの絵を指向している。ふれあいの不思議さですね。

青木

研一は反対する父親を説得して東京美術学校へ入るのですが、琢二の道はもたもたで…。
はじめは父のすすめで三高理科を受けるが、幾何は100点だったが代数0点で失敗。お母さんが占い師にみてもらったら、仙台の二高へ行くと病気になる。金沢の四高へ行くとわるい女がつく。熊本の第五高等学校がいいという事で(笑)、五高に入るのですが、これも製図ができず神経疲労で退学。
その頃ブームの温室を作ってもらって花屋にでもなろうかと……。

西島

なかなか絵にはたどりつかない(笑)。

青木

そうそう(笑)。そして岡山の六高文科英法科へ入ってやっと落ちつくんです。同級に新日鉄の会長になる永野重雄さんもいたそうで、やっとたのしい学生生活になったのですね。
そして、折よく東大に経済学部ができて無試験だったので東大へはいれた。美濃部達吉さんの憲法講義も2・3回聞いただけ。桑木厳翼さんの哲学講座もチンプンカンプン。テキストを買って、ナニガナンデアル、ヨッテナニナニ…と自分でもわからんことを書いたらテストが優だったそうで。のどかないい時代でしたね。殆ど学校へ行かず、チェロをひいたり、つくってみようと思ったりしたそうで。
そして2年のときに、広島の伯母さんの隣家のおとなしい娘さん・美代夫人と結婚している。新居は、パリへ行った研一のアトリエです。
まあそれでも卒業できて(笑)、父親はとても喜んだそうですが、琢二が28歳のとき肺炎で亡くなる。琢二も肺尖カタルなので、療養を考えて、鎌倉の名越谷に移ります。
のちに、昭和8年にアトリエをかまえた家を建てますが、ずっと鎌倉生活になるんですね。そして、帰国して大活躍の兄研一にすすめられて画家を志すのです。

“賢兄・賢弟”

青木

当時の画壇は官展の帝展と、在野の二科展の2つでした。研一は帝展で活躍していましたので、琢二は形式にとらわれない自由な表現を求めて二科会に入ったのですね。
「兄研一がたのんでくれていて」と、言っていますが、以来1回も落選知らずで毎回入選だったそうです。
もっとも最初の入選は12号の小品「材木座風景」で、喜んで見にいくと、奥の上のほうにちょこんとかけてあったそうです(笑)。
最初は1点入選。それが6年目に2点入選したときは、こおどりして喜んだそうです。

西島

情景がみえるよう。その気持ち、わかりますよ。

四島

ゆっくりでしたが、琢二さんは、絵かきになるべきひと。絵かき以外の人ではなかったのですね。

青木

そうです。でも決してまわり道ではなかったと思いますよ。学生時代、夏目漱石を耽読して、特に草枕なんか暗記するぐらい読みふけっている。「坊ちゃん」は軽やかだが、その後の作品は屈折した人間心理がベースですね。
草枕が私の歩みをきめたと後年話していますが、漱石の人生観でマチスの絵にひかれた。そうすると、あの琢二の絵になるんですね。あかるい絵だけど、世捨て人の境地で、心情は俳諧の世界ですよ。漱石の句に「海棠が化けて出てくる月夜かな」がありますね。なんか見えてきますね。

四島

それは面白い。なりゆきまかせのようでも、芯は強い人なんですな…。

青木

そうですよ。この頃思うと琢二は、世間で言われている風流自然の人生をおくっただけの人ではない。秘めたもの、ゆずらないものを持ち続けた意志のつよい人なんだな……と。そう思えてならない。

西島

研一、琢二の兄弟仲のよさ、兄思い、弟思いで本当に羨ましいですね。

青木

私は研一のすぐそばに住んでいて、よく出入りしていました。琢二と初めて会ったのは昭和22、3年頃でしたでしょう。研一のそばで、いつもににこにこしていましたね。
生涯、兄・研一をたてていて、その兄思いは見ていて美しく羨ましいものでした。
研一は優しい面が多いんだが一見傲岸でそのスタイルをおし通した人。戦後のGHQの要人に肖像画をたのまれても、ジェネラル以上でないと引き受けない見識と誇りがあった。その点琢二は洒脱でしょう。
色彩にしても、研一はコバルトや朱が好きで焼物なら色鍋島や有田、琢二は黄と緑が好きだから九谷焼の緑となる。子供の時からグリーンが好きで、英和辞典1つにしても研一は青表紙、琢二はグリーンだった(笑)。そしてエビ茶が大きらいなんです。
しかし琢二の心中には、兄貴に負けまいとする自分があったのですね。これ、たいへんなドラマですよ。それを見事に切りぬけたから、あれほど気持ちの安定した人物ができ、人をひきつける絵がうまれたのですね。

西島

内にひめた兄さんへの対抗心もなかなかだったのですね。

青木

兄・研一は、昭和25年に芸術院会員になりますが、そのとき「俺はこれでメシが食える。琢二は貧乏しているから助けてくれ」と、自分の絵を一手に買ってくれている日動画廊の社長にたのんでいる。
それで日動の長谷川さんが琢二のアトリエにきて、14・5点ぽんぽんえらんで、びっくりするぐらいのお金をおいていったそうです。
そのような兄さんですから研一を心から尊敬し敬愛していましたが、でも、琢二には琢二なりの意地はあった。
研一へのすずしい眼はもっていました。修猷館時代に研一が弁論部で天草四郎の講演をした。それをきいていて、兄貴は演説がうまい。それにしてもおせんち極まる演説だったと、言っていますからね。

誰が見てもわかる絵

四島

琢二さんの絵は肖像画と風景画で、静物は少ないですね。
青木 静物は適当に組合わせられるでしょう。それが面倒だとあの人は言っているが、本来あるがままが一番いいという考えなのでしょうね。
花も生きているから、描いている間に変わるので面倒だ。そして色が派手だから苦手だと。風景や人間の顔は変わらないし変えられないですからね。

西島

というと、この頃の抽象の反対の極点にいる人ですね。

四島

抽象も、形象を止揚してゆきつけば、また琢二世界なのかもしれない。

西島

琢二さんほどの一流の絵かきさんが、ヨーロッパに一度も行っていないのがわからないし、おかしい。

青木

外国というと、戦争末期に北京へ写生に行っただけですものね。

四島

みんなが好きだというミレーの絵もあまり好かないと…。

青木

「マチスの画集だけあればいい」と言っていたが、内にたのむものがなければそんな言葉ははけませんよ。

西島

人物も、モデルが奥さん、息子さん、お嫁さん、お孫さんと、身内の人が多いですね。

青木

さながら家族の成長記録になっている。幼い頃の良太さんの絵があるが、もう今は東大農業工学科の教授ですからね。

西島

家族がモデルというの、実はむつかしいのですよ。第一、なかなかいう事をきいてくれない。もっとも、琢二さんのように、気持ちよい絵に描いてもらえば別なのかな(笑)。

四島

風景画も割合きまった場所で…。

青木

気にいったところで、描きつづけるんですね。海では房州の太海、伊勢の大王崎、山ではアルプス連峰が一望できる信州の高遠、箱根からの富士、内牧からの阿蘇、そして子供の頃、父母と祖父母の間を往き来した折の思い出の尾道と…。

西島

タッチが明快だし、色彩が澄んでいる。見たままの情景だが、琢二さんの気持ちの中で瀘化されていて、いいですね。

青木

そうなんです。琢二の絵は、誰がみてもわかる絵でしょう。これは奥さん、これは良太さん、これはお嫁さん。風景にしても、これは尾道、これは阿蘇、これは伊豆…とすぐわかる。これはとわかる絵。琢二にとってこれは大切な事なんですね。

四島

苦労したプロセスを見せませんね。そしてその成果がちゃんときまった線と色。全然塗り直しがない。

青木

そして、「絵のよしあしは、自分の好みでいいのだ。私にとってよい絵は私の好きな絵だ」と、さりげなく言っている。

西島

風景もありのままの現地主義でしょう。その場の感動をそのまま絵にうつしているわけで……。

青木

「この頃はスケッチや写真で描く人が多いが、どうしてかね」と、不思議がっていました。琢二にはとても理解できない事なんですね。

四島

自分が感動したものだけを描いている。理論や技術は二の次、そう言ってますね。

西島

なにかで読みましたが、信州の高遠は絵になる風景だから自然と絵を描く人が多い。
琢二が野外にイーゼルを立てて、アルプスを描いていると、とおりかかった人が、「県展にはとおったかね」と声をかけたと(笑)。この話、いかにも琢二さんらしくていい(笑)。

師・安井曽太郎

四島

安井曽太郎に師事されて…。最高の先生ですね。

青木

在野の二科時代から安井に師事し、のちに安井とともに一水会に移りました。
日展の雄だった兄貴が牛耳っていた光風会にははいらないし研一もいれない。えこひいきと思われて、弟につらい思いをさせたくない。琢二も、兄貴の下にはつきたくない。
だから研一は在野の大家、安井曽太郎に弟のことをたのんだのです。

青木

また安井曽太郎が実にいい師だったのですね。絵を見てもらおうと先生の前にならべる。先生はじっと見ながら、10分も20分も何も言われない。琢二は、悪ければ悪いと言ってくれればいいのにと、いらいらしていたそうです。ところが、ある日、そうした所へ速水御舟が亡くなったという電話が入った。
先生はすぐに出かけなければならない。君、ここはいい、ここはこうではと、実にポイントをついた率直な指摘だったそうです。
安井が、じっと眺めていたのは、どのようにほめようかと、考えていたのですね。長所をのばそうという師、当代一流の大家が、弟子の絵を10分も20分もだまって見ている、これとても出きませんね。

西島

配色をとてもほめられたとか。

青木

配色に特異の才能がある。それを大切にのばしていけばいいと言われたそうです。たしかに琢二の絵の色にはひきこまれますが、安井曽太郎のお墨つきなんですね。

四島

マチスにあこがれ、安井曽太郎に師事して…。琢二の絵の魅力がなんとなくわかってくる……。
マチスと似ているといわれても全然気にしなかったそうですね。

青木

むしろ誇りに思ったぐらいでしょう。しかし、先生の安井曽太郎そっくりだと言われると、そうはいかない。それをきくと、パッと筆をかえている。

西島

根性もんですね。

青木

そうですね。筆をこれまでの柔らかい筆から硬い豚毛のものに変え、タッチもさっぱりさせました。
琢二は安井さんの絵に似ているが、はるかにマチスの絵のほうに近い。安井さんは、名人の中の名人と言った超克の芸みたいなものがある。大家という感じ、それを琢二はさけたのかもしれませんね。

四島

絵以外の友人にも恵まれて……。

青木

友人が小林秀雄、川端康成、吉野秀雄と立派な人たちで、やはり琢二さんの風がよびよせたのですよ。

宗像ユリックスで初の「兄弟展」

中村研一

西島

兄さんの研一さんの絵を一口でいうと。

青木

研一は、人に買ってもらおうという姿勢がなかった。自分の好きな絵を描いている。それは兄弟同じですね。
だから画商にも頭を下げない。出入りしていたのは気のあう日動画廊の長谷川さんだけで、他にわたさないんだから画商には徹底的にきらわれた。その点も、珍しいですね。
研一が逝くなったとき、今泉篤男さんが西日本新聞に追悼記をのせましたが、それがよかった。

研一を帝展最後の画家といい、彼の画業は戦前に終わっている。戦前だったらこの画家の死によって、官展の一つの系列は断絶したに違いない。戦後の彼の絵がダメという事ではない。商品としてもてはやされる事に毅然と背を向けて独り超然と生きてきた…と。
父親の残した遺産で、食べるために迎合した絵をかかなくてもよかったのですが、根底に、兄弟に通じる根っ子の太さがあるからなんでしょうね。

西島

琢二さんは、研一さんに感謝しておられたでしょうね。

青木

それは、もう。研一がいなかったら、あのような生涯はおくれなかったでしょうね。琢二芸術を支えた大きなパトロンが、優れた画家の兄であった。それをのりこえる刺激を課してくれて…。幸福な人生でしたね。

四島

兄弟展が、宗像ユリックスで行われましたね。

青木

平成2年の春、ふるさとで。はじめての兄弟展でした。
生前、私がすすめると、研一さんが、「俺たちは話しあってそれはしない事にしているんだ。
なぜって、考えてもごらん。私の絵の前に琢二の絵があったらボクの絵がうす汚れてみえる。琢二の絵の前にボクの絵があったら、琢二の絵が弱々しく見える。どっちみち、ろくな取り合わせにならん。両方とも、弱点が目立つばかりだよ」と。

西島

なるほど、そういえば、そうで…。

青木

お二人が亡くなられて、夫人方にお話ししたら、とても喜ばれて、ぜひ実現してくださいと言われる。「なぜ断っているのかわからなかった。二人とも一徹居士だから、やらんと言ったらやらんで、残念でしたよ」とのお話。そして、「兄弟がきっとあの世で喜んでくれますよ」とおっしゃった。

四島

初の兄弟展でしたが、欠点が目立つのでなく、かえってお互いの特長が目立ちましたよ。

西島

研一さんの初期の小品もあり、戦前からの活躍がよくわかりましたね。
兄弟展に首をふられなかったのは、青木さんがあまり身近におられたから、研一さん流儀のはにかみだったのでは。

青木

兄弟展で、人前にひけらかす事に、二人のはにかみがあったのね。本当は二人ともしたかったんだろうと思う。夫人たちも来られ、宗像ユリックスはじまっての充実した展覧会で大成功。研一さんの墓参りもされたし、とてもよかった(笑)。

四島

研一さんが臨終のとき、琢二さんを大声でよばれたと…。

青木

昭和42年8月28日。研一さんが息をひきとるとき「ターシャン」と大きな声で呼んだそうです。
琢二さんは悲しくて窓枠につかまって泣いていた。抱きかかえてやるのだったが、悲しさで胸がつまってできなかったと。

四島

いいご兄弟だったのですね。

襟を正させられる遺言

阿蘇の秋 1980 10F

西島

琢二さんがなくなられたのは幾歳で…。

青木

昭和63年1月31日、90歳でした。その最期がまたすごい。連絡を受けて私が駆けつけますと、これが絶筆ですと、夫人から6号の絵をみせられました。
それが尾道風景なんです。尾道は、子供の頃、よく往き来した思い出の場所ですね。宗像の祖父母の所から父母のいる新居浜へいくとき、尾道から船ですね。帰りは尾道から汽車で惜別の感じだったでしょう。だから尾道には特別の思い入れがあるんですね。
そして、そのまだ乾いていない絵にサインがされている。普通は1週間ぐらいたって、乾いてからサインするんです。サインをいれて、絵の完結と同時に、我が画業もこれで終わったと、静かに思われたんじゃないでしょうか。

四島

作品の完結であるとともに芸術家としての完結、人生の完結でもあったのですね。

青木

ちょうど画家の菊畑茂久馬さんが西日本新聞に画家の絶筆シリーズを掲載していましたが、予定終了でほっとしたところに、琢二さんの訃報でしょう。
私は琢二の絶筆の絵に感動して是非いれてくれとたのんだ。菊畑さんは「もう、気持ちの区切りもすんだし、次の仕事の設定にかかっている。勘弁してくださいよ」と言ったが、ぜひたのむと、無理にたのみこんだ。
ところが菊畑さんが実にいい文章を書いてくれた。彼もシリーズがいい完結になってよかったと喜んでくれましたね。

四島

読みましたよ。琢二さんの絶筆で、とてもいい完結でしたね。

青木

絶筆で話が終わったようですが、この御話は、琢二さんの遺言で締めくくりたいですね。

西島

遺言とは。

青木

これがすごいんですよ。4つあって、第1は自分の死顔を絶対孫に見せるな。第2は葬式は出すな。第3は霊柩車をつかうな。第4、香典はいっさいもらうな。
この遺言に、彼が秘めていたもの全てがうかがえますね。森鴎外が自分の死に対処していた事とそっくりですね。
飄々として、自然体だけで生涯を終えただけの人ではありませんね。自然体だけで逝った人なら、あとはなりゆきで遺言をのこす必要がない。風のように去ってあとは勝手にでしょう。

西島

その遺言は完全に行われましたか。

青木

完全でした。夫人と東大教授の長男の良太さんが、遺言どおりに実施された。見事でした。

四島

葬式するなの遺言ぐらい守られない遺言はないそうで(笑)。周囲がそれではすまさない…。

青木

1ヶ月おくれて、上野の精養軒で偲ぶ会が催されました。ふだんの写真に一輪の献花はしましたが、ワイワイガヤガヤ、実に楽しい会でした。

四島

孫に死顔を見せるな。グッとくる言葉ですね。

鳥のように、重く、軽い

西島

お話をうかがっていて、琢二さんは、自分は絵かきではないというふうな、ただ好きで描いているというふうな感じ。素人画家のような感じですが、それでいて絵が誰もまねができない世界でしょう。いいですね。

青木

私もそう思っていたんだけど、この頃ちょっと考えが変わりました。
琢二さんは、あんなふうにごく自然な話をしているけど、本当は内にとても強靱なものをもっている。内向的な強靱さでそれは人には分からない。

四島

ただ、飄々としているだけでは重味がないですね。一茶にしても、良寛にしても、やはりちがう。

青木

そう。琢二は飄々のうしろに強い感受性と、ひそかに疎外感と闘ってきたしたたかさがあるんだ。今頃になって、やっとそう確信できるようになったんです。

四島

平凡の極致が非凡だなんて、口では簡単ですけれどね。

青木

本当は、本当の非凡さが、あの自然体を生みだしているんですよ。仙がい(がんだれに圭)だってそうで、非凡の淡々飄々のうらには重いものが厳としてあるんですね。
私が好きなジャン・コクトーの言葉に、「羽のように軽いのは駄目だ。鳥のように重くて軽いのが本当に軽い。羽は重味がないからひらひらするだけ。本当の芸術の軽さは鳥の軽さだと」。これ、琢二さんを言いつくしている言葉だと思うんですよ。

四島

芯の重さをみせない苦労をしている。決して感じさせない。だから、すごい遺言ができる。絵もだが、琢二さん自体が、芸術なんですね。

青木

いやぁ、琢二さんの最期は重かった。

西島

たしかに…。重い、重い…(笑)。

青木

それからピアノの上に古いチェロがおいてあった。昔、宮沢賢治の「チェロひきのゴーシェ」に感動して、チェロひきで生きていこうかと思ったそうで、木を彫ってチェロをつくっている。未完のままですけれど…。

四島

そういう話、いいなあ…。感動が琢二さんの人生のベースなんですね。まったく…。

青木

琢二さん、本当の貴方は…。今日の座談会に苦笑しているでしょうね。きっと(笑)。

四島

気持ちがひろくて博多にわかが好きだったそうだし。

青木

ちょっと距離をおいて物を見る、そのシニカルな面白さ、鋭さ。

四島

それが軽みになって…。琢二という人は奥が深い。

西島

ひとすじナワではつかまれん人だという事がわかった(笑)。

青木

だから琢二さんは、鳥のように軽く天空を舞った人なんですよ。 生きるとは…。あんな風に生きていければいい…と、思いますね。