No.58 サザエさん物語り

対談:平成5年3月

司会・構成:土居 善胤


お話:
長谷川町子さんの友人 高松 千代子氏
郷土史研究家 柳 猛直氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 常務取締役 今田 賢勇

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


あかるくお早う「サザエさん」

高等女学校時代

司会

長谷川町子さんが亡くなられて、気づいたのですが、「サザエさん」が新聞から消えてもう20年というのでおどろきました。つい、この間まで続いていた感じで。

「サザエさん」の磯野一家が親戚のような感じでしたものね。だから町子さんの御逝去は悲しかったですね。

今田

国民栄誉賞は女性では美空ひばりさんについで二人目、漫画家でははじめてでしたね。これはもう当然ですが、できれば生前にさしあげてサザエさんがはにかんでいる漫画を見たかったですね。

司会

サザエさんが、磯野一家をつれて、引き潮にのって、母の海にかえられた。そんな気がしましたね。
今日は町子さんと幼な友達で親友でいらっしゃる高松千代子さんと、「サザエさん」がスタートのとき、夕刊フクニチにいらっしゃった柳猛直さん、そして童画 でおなじみの西島伊三雄さんにおいでいただいて、なによりのお話になりますね。

高松

私は、長谷川さんとは小学校から女学校まで同級でした。あんなに有名になられてからも、とてもお親しくしていただきましたから、亡くなられたときはもう悲しかったですね。
町子さんの遺言で野辺の送りも、お身内だけでひっそりと。世間への発表も納骨をすまされてからだったですね。

死、この厳粛な事実にどう対応するか。サザエさんは世俗のかかわりからはなれて静かにひとりで逝ってしまわれた。町子さんもお姉さんや妹さんもご立派だなあと思いました。

今田

で、「サザエさん」が、どうしてあんなに受けたのでしょうか。

日本の漫画では、主婦が主人公になったのは初めてですよね。どうしても奇妙キテレツなものが多かったでしょう。
それがごく普通の家庭の陽気なお母さんが主人公で、これは漫画史上はじめてですね。テーマも日常生活から生まれたとんちんかんな面白さ。ふつう の家庭で女・子供の眼から見つめた身近なぬくもりが受けたのでしょうね。

西島

サザエさんのモデルはあるのですか。

高松

私はお姉さんの毬子(まりこ)さんではないかと思っています。楽天家で親切でとても気持ちのいい方ですよ。お母さまはフネ、妹の洋子さんはワカメ、町子さんはサザエさんとワカメの両方でしょう。
皆さんが、町子さんの明るい 家庭の理想像だったのですね。

西島

サザエさん一家の名前がいいし、また顔もいい(笑)。何年たっても飽きがこない(笑)。ヒラメキの天才だし、とにかくすごい。もうあんなひと出てきませんね。そういえば町子さんもひばりさんも、えらいのはみな女性だな(笑)。

毎朝あの漫画を見て笑って出勤したでしょう。日本の朝を明るくしました(笑)。いやぁ、福岡出身の女性はエライですよ(笑)。

今田

子供時代の町子さんは...。

高松

お父さま(勇吉氏)が三菱炭鉱の技師をなさっていましたから、町子さんは大正9年(1920)に佐賀の多久市でお生まれです。
お父さまが独立なさって、ワイヤーロープの事業をされてから博多にお住まいで、おうちはいまの渡辺通3丁目へんの四十川でした。お手伝いさんも二人ぐらいいて裕福に お暮らしでした。お父さまは、チョビヒゲをはやしてハンサムできりっとした方。とても子ぼんのうでしたが、『サザエさん』に出てくるお父さんとは全然ちがったキチンとした方でしたよ(笑)。

西島

四十川なら春吉小学校ですね。その頃から絵がお上手でしたか。

高松

それはもうずばぬけていました。なんでも、2、3歳の頃から絵を描かせると上機嫌だったそうです。生まれつきの素質だったのでしょう。
1年生のとき、花嫁さんの絵をかいてもらいましたが、カンザシから、手の指の1本1本まで、きれいにきちんとかいてありましたね。

今田

御姉妹も絵がお上手でしたか。

高松

お姉さんの毬子さんも絵がお上手で、藤島武二先生に洋画をならわれたり、菊池寛先生の小説の挿し絵をかいたりされました。妹の洋子さんは文学がお好きで菊池先生に可愛がられ、先生の口ききで文藝春秋社にしばらくつとめておられました。

西島

ほおっ、芸術一家ですね。

高松

皆さんの才能を、お母さま(多賀さん)がうまくひきだされましたのですね。行動的な方でしたから、田河水泡や藤島武治といった錚々(そうそう)たる先生方との御縁もお母さまがしゃあしゃあと(笑)。気さくでたよりになる方でしたよ。

長谷川 町子さん 略歴

長谷川町子さん
(共同通信提供)

大正9年(1920)1月30日、佐賀県多久市にて出生。幼児、父君・勇吉氏の事業開業にともない、福岡市春吉に移住。

昭和7年、春吉小学校卒。9年、福岡県立福岡高等女学校(現・福岡中央高等学校)2年生のとき東京の山脇高等女学校(現・山脇学園高等学校)へ転校。

昭和11年卒業。 山脇高女在学中に田河水泡に師事。処女作は少女倶楽部に載った「狸のお面」。山脇高女卒業と同時に、水泡の内弟子に。

昭和19年、福岡市百道に疎開。西日本新聞編集局絵画課勤務。ルポルタージュの挿し絵など担当。終戦後辞職。

昭和21年4月22日、夕刊フクニチで「サザエさん」スタート。半年後中断。12月上京。続「サザエさん」再開。「サザエさん」は昭和24年12月より、朝日新聞(夕刊)に移り、 26年から朝刊に掲 載。49年2月21日終了。掲載6477回(途中休載あり)。この間、昭和41年より、サンデー毎日
に「いじわるばあさん」掲載。ほかに「エプロンおばさん」など多数。

昭和60年、「長谷川町子美術館」開館

平成4年(1992)5月27日逝去(享年72歳)

受賞-文芸春秋漫画賞(昭和37年)。紫綬褒賞(昭和57年)。東京都文化賞(昭和63年)。国民栄誉賞 (平成4年)

義ヲ見テセザルハ勇ナキナリ

西日本新聞時代 ルポルタージュの挿し絵
(サザエさんのイメージがすでに...)

今田

で、町子さんとは。

高松

私は旧姓が古川でしたから、50音順でいつも町子さんと同じ机でした。戦前の小学校は1つの机に2人がけでした。
私、町子さんには子供心にずい分気をつかったのですよ(笑)。というのは長谷川さんは、ちょっとそそっかしくてお転婆さん。すこしわがままで茶目ッ気たっぷりでしたから(笑)。
時間中も先生の御話はあまり聞かないで、教科書をたてて、そのかげで先生の似顔を描いたりされる。だからいつも注目されていて「コラッ、長谷川、何シトルカ」と白墨を投げつけられる。そして廊下に立たされるんです(笑)。
そのウップンばらしに、先生のクセを漫画で描いて、私にほかの子にまわせといわれるんです。こまって、もじもじしていると、ひざを つねられる(笑)。仕方ないから、決心してそっとまわしていました(笑)。

西島

わるい、わるい(笑)。それじゃクラスの人気ものでしたな。ずいぶんお転婆さんで。

高松

教室のお掃除当番も、いつも長谷川さんと組合わせになるんです。机をすみによせて、ゆかの雑巾がけをするのですが、長谷川さんは掃除なんか全然しない(笑)。
私の雑巾がけを横目に見ながら広くなったところで、男の子たちとチャンチャンバラバラをしている(笑)。私が 「長谷川さんも手伝ってよ」といっても、「そんなものいいじゃない...」で(笑)。

今田

「いじわるばあさん」の素質がその頃からあった...(笑)。

高松

でも、私たちが男の子に泣かされたりすると「義ヲ見テセザルハ勇ナキナリ」と言って、男の子を校舎の屋上につれだしてやっつけてくださるのですよ(笑)。

「義ヲ見テセザルハ勇ナキナリ」。論語が出てきましたね。いや実に面白い。でも、私が知っている20代の町子さんは、とてもしとやかな方だった。どうもイメージがつながらない。それだけに愉快ですね(笑)。

西島

成績もよかったので。

高松

はい。でも一番よくできたのは図画と作文でした。感想文なんか早かったですね。私たちが頭をかかえているうちに、西洋紙のまん中に感想を書き、周囲にその状況の絵をさらさらで、光ってました。
操行点はまあまあで(笑)、級長はされなかったですね(笑)。

先生も、きっと立派ないい先生だったんだ(笑)。

高松

担任は松本善一先生で、1年生から6年生まで受け持っていただきました。たいへん教育熱心な立派な先生でした。亡くなられましたが私たちは同級会のたびにお墓参りを忘れていません。
「サザエさん」が夕刊フクニチに連載されだしたときは、とても喜んでおられたそうです。

西島

町子さんのおうちは、自由なのびのびした家庭だったのでしょう。

高松

はい。でも、躾はとても厳しかったですよ。お父さまは葉隠れの佐賀だし、お母さまの実家は薩摩の士族でしたからね。
でも可愛いイタズラがすぎると、こらしめに鶏小屋へいれられる(笑)。優しいお手伝いさんがいつもたすけ出してくれたそうです。

西島

いい味方がいたんですね(笑)。

高松

町子さんはその頃流行のアイス饅頭がたべたくてたまらない。しかし、お母さまが不衛生だといってどうしても買ってくださらない。それでお母さまが留守のとき、お手伝いさんからお小遣いをもらって、食べながらニコニコ帰っていると、うしろから誰かに肩をつかまれた。 振りかえって見るとオニよりこわいお母さまで、あとは語るもナミダだったそうです(笑)。

今田

たいへんきちんとしたおうちだったのですね(笑)。服装なども、ちがったセンスで。

高松

お母さまがお若いし、センスがよかったから、きちんとした洋服でした。オルガンもありました。

県立高女もごいっしょで...。

高松

当時は高女の試験がなかなかむつかしくて。いまの中央高校ですが、戦前はいまの新天町にございました。松本先生は受験する子を自宅に呼んで特訓されました。11人受けて7人通ったので、先生は大喜びでした。
長谷川さんの家は厳しくて夜は外出禁止です。それでお母さまが勉強をみられました。

今田

名門校できびしい校風でしたでしょう。町子さんのお転婆ぶりは。

高松

首をすくめておられたのか、おとなしいお嬢さんで、あまりイタズラがありませんでしたよ(笑)。

西島

じゃ、お母さんがのぞまれた、いいお嬢さまだった...。

高松

そうでしたよ。でも悲しいことに、2年のとき、お父さまが病気で亡くなられましてね。
それでお母さまが、東京で国会議員をされていた叔父さまをたよって上京されるのです。昭和9年のことです。そして山脇高等女学校(現山脇学園)2年に編入されました。
そのときは、博多弁がおかしいと笑われて、少女時代ですからはじめはつらかったそうです。

田河水泡の、お弟子さんに

西島

そこで田河水泡に入門されるんですね。戦前に少年時代をすごした私たちは少年クラブに連載されていた水泡さんの「のらくろ」がもう待ち遠しくてならなかった。
絵が好きでしたから水泡さんは神さまでしたよ。博多で図案の先生に弟子入りした私から見ると、町子さんは日本一 の大先生のお弟子さんになられて。いやぁ、羨ましいですね。

高松

それも、よしと思ったらすぐ行動されるお母さまのおかげですよ。
『うちあけ話』によると町子さんが飴をしゃぶりながら寝ころがって、「田河水泡の弟子になりたいな...」といったら、お母さまが「それはいい。早速たのみに行きなさい」と、姉さんを介ぞえにとびこみ訪問させたのだそうです。
町子さんが描いた『博多どんたく』や、『お花見』の絵を見ながら、先生が「いいよ」と言ってくださったそうで、これで長谷川さんの漫画家人生がはじまるんですね。

西島

いいお話だなあ。お母さんも、お姉さんも、町子さんも。そして水泡先生も、みんなえらいなあ(笑)。

高松

女学生の制服姿で可愛かったでしょう。先生が「うちには女の子の弟子がいるよ。珍しいでしょう」といって雑誌の編集者に紹介してくださった。
それで、女学校3年生、15歳のとき、少女倶楽部に『狸のお面』でデビューされたのです。それから『ひーふーみよちゃん』 『仲よし手帖』と、新聞や雑誌に漫画がのり出したのです。

順調なデビューですね。住みこみのお弟子さんでしたか。

高松

最初は通いでしたが、そのうちに住みこみで。先生夫妻はお優しかったが、早く起きてふき掃除もしなけりゃならない。寒い日などつらくて、家に帰りたかったそうです。1年ちかくその生活だったんですね。
そのうち次第に戦争が激しくなり、昭和19年頃から雑誌に割当ての紙もなくなる。漫画どころではないので疎開されたのです。

夕刊「フクニチ」で「サザエさん」誕生

フクニチ時代の長谷川町子さん(右)と柳さん(左)

高松

はじめは疎開先に信州を考えられたらしいんですが、知人のすすめで、お父さまが建てておられた百道(ももち)の家に帰ってこられるんです。終戦の前年、昭和19年の春でした。

それから数ヶ月して西日本新聞に入社されるんですね。翌年まで1年ちょっと。配属は編集局絵画課で月給は75円だったそうです。
報道写真の修正や、産業戦士ルポルタージュの挿し絵を描いたりでした。当時はブラブラしているとすぐ 軍需工場に徴用されるので、それをさけることもあったのでしょう。

西島

柳さんも同じ部でしたか。

いいえ、私は内勤の通信部でした。絵画課はのちに日本を代表する抽象画家として国画会の重鎮になられた宇治山哲平さんが課長。まんがで活躍された原真人(はらまひと)さんもおられ、気さくな空気だったのでよく遊びにいっていました。
その頃、女子も働かねば徴用される。それで新聞社に大勢女性がはいって召集された男の仕事をカバーしていました。下はモンペでしたが、上は花柄のブラウスでしたね。女専卒の高学歴で社内を闊歩している美人記者が多かったのですが、町子さんはしとやかな方で近よりがたい気品がありました。
でも、どうも絵画課では居心地がわるかったようでしたね。

西島

純粋芸術の宇治山さんからみると、のらくろ漫画の田河水泡の弟子なんか...と、どうもそんな空気だったんじゃないんですか。

宇治山さんはルポルタージュの絵なんか全然関心がなかったでしょう。小娘のような町子さんを相手にする気もなかった、まあ、無視してたんでしょうね。それが、中央で仕事をしてきた町子さんにはガマンがならない。純粋芸術と漫画の立場のちがい。 まあ、そんなところでうまくいかなかったのでしょうね。
『うちあけ話』を読むと、家庭では食料菜園の働き手だったらしいが、そんな事は知りませんでしたね...。

高松

朝早く起きて、街におちている馬糞を肥料にひろったりとありますね。馬車がトラックがわりの時代でいまではとても考えられませんね。

今田

戦時色のルポルタージュも、町子さんの絵ならほっとするところがあったでしょうね。

出征する人たちが、町子さんに日の丸の旗に虎を描いてもらっていましたね。

今田

「虎は千里を駆けて帰る」から...。

そうです。張子のトラが得意で、よくたのまれてましたよ。町子さんの虎の日の丸が、どこかにのこっているのでは...。

今田

そして昭和20年8月15日に終戦ですね。町子さんは...。

終戦になるとすぐに新聞社を辞めています。徴用の心配はなくなったが、勤めも面白くなかったのでしょう。
翌21年に夕刊フクニチが西日本新聞から独立して、連続漫画をのせることになった。しかし有名な漫画家はみな東京ですし戦後の混乱で 連絡もつかない。仕方がないから、報道部で器用な人が描いたのですが、まあザマがない(笑)。
整理部長の牟田口宗一郎さんが、そうだ長谷川クンにたのもうという事でスタートしたのが『サザエさん』
で4月22日から連載がはじまりました。

高松

その頃の西新3丁目のおうちは西南高校の向かい側で、いまは駐車場になっています。ちょっと歩けば、すぐ砂浜と松林でしたよ。

西島

で、家族構成は。

その百道浜を、入院していた妹さんが元気になったので、二人でよく散歩していたんですね。それで漫画の主人公が海に縁のある名前ばかりになった。百道浜はサザエさんのふるさとなんですね。

今田

評判は。

当時の新聞は大きさは現在と同じですが、たった1枚の2ページです。その中の4コマ漫画ですから目立ちました。
なんといっても描いた人が漫画家の金の卵の町子さんですものね。『サザエさん』のキャラクターが平和日本を象徴する、カラッとした女性だった のも受けたんです。夕刊フクニチは発行部数7万、堂々たる新聞でしたよ。

今田

当行の創業者の四島一二三もその頃70いくつで、百道ですぐ近くにすんでいましたから、お会いしていたかもしれませんね。

西島

一番電車で33年通ったり、4時に帰ってお百姓さんをしたり、独特な格言をつくったり。ユーモラスなおじいちゃんだったから、町子さんとふれあってたら、きっと面白い展開になったでしょうね。
私より2歳お姉さんですね。同じ絵描きとして当時の町子さんに会いたかったですね。

全国区のサザエさんに

連載がはじまって半年くらいたって、新聞に、お姉さんの毬子さんと町子さんを探している求人広告がのったんですね。東京の雑誌社が挿し絵や漫画をたのみたいと広告したのです。戦後の混乱ぶりもうかがわれますね。

高松

それで仕事がくるようになるとお母さまがこれからは東京だと、家を売って上京されるんです。思い切りの見事さは、男以上でした。それでフクニチの漫画は、サザエさんの結婚で目出たし目出たしで終わりでしたね。

ところが、サザエさんの評判があまりによくて、読者から復活の要望がつよい。それでまたお願いして、サザエさんの再登場になるんです。
夕刊フクニチと北海道と名古屋の新聞で、3紙掲載でしたね。このときから御主人のマスオと長男のタラちゃんが登場しています。
そうこうしているうちに、昭和24年に朝日新聞が夕刊を出すことになってサザエさんに目をつけたのです。
どうも朝日に移るらしいということで、私は東京支社の編集部長をしていましたが、本社から町子さんを引きとめろという命令です。

西島

それは大役でしたね。

当時はたいへんなインフレですから、町子さんが原稿料アップの話をされたがエライ人がつっけんどんに断ってたんですね。
町子さんは「九州男子かなにかしらないがあんな言い方ないわよ」と憤慨していました。もっとも、 エライ人も「なんとかせにゃいくめーや」と言っていました。
九州の新聞人は言葉がつっけんどんだから始末が悪い(笑)。
その頃の漫画の原画に、総選挙で落選した候補者が出てくる。その吹き出しが「いようMクン、また落ちたんだね」になっていた。Mクンはうんといわなかった Mさんです(笑)。Mさんが、「なんやこれ...」で笑いましたよ(笑)。
その頃銀座で、お母さんと一緒の町子さんにぱったり会ったのです。辞めないでくださいとたのんだのですが、お母さんが「もうきまった事だから、ハッキリお断りしたら...」でどうにもなりませんでしたね。 フクニチはその頃は発行が10万部をこえていて意気さかんでした。だから、ぜひ続けてほしかったんですよ。
町子さんの実力からすれば、全国区への登場は当然だったでしょうが、地方廻りの役者が一躍して歌舞伎座の桧舞台にたつようなものでしょう。
朝日も大英断だったでしょうが、 見事でしたね。昭和24年12月から掲載されて、評判がいいので、「ブロンディ」のあとをおって26年から朝刊にのるようになったんですね。
まあフクニチが日本全国へサザエさんを送り出す役目ははたしたので、もって瞑すべしですかな(笑)。

今田

「サザエさん」の魅力について...。20年の間にはサザエさんもずいぶん変わったでしょうね。

フクニチの昭和20年代は、スタイルもひょろりとして、顔もすこしとがっていました。テーマもデモクラシーに関する話題が多かったですね。30年代になってから、戦後は終わった...で、表情も丸味をおびてきましたよ。

西島

ストーリーが身近でどの家にもありそうな話だったので親近感がありましたね。それにしても4コマの完結が、シャキッとしていた。毎日なのにマンネリがなかった、すごいなあ。

高松

「漫画は面白くなくては駄目なのよ」と、いつも言っておられましたからね。
だから毎日のアイデアを考えだすのがはいへんだったでしょうね。アイデアを考えて、胃がいたむと言っておられ、本当に胃潰瘍で手術もされました。

今田

それにしても、お母さん、お姉さん、妹さんと女性だけの家庭でしょう。それなのにお父さんの磯野ナミヘイ、御主人のマスオ、弟のカツオまで、よく男の世界を観察されている。不思議ですね。

高松

お姉さんは朝日の記者さんと結婚されましたが、新婚生活1週間で召集されてインパールで戦死されています。
妹さんは戦後読売の記者と結婚されたが、御病気でなくなられ、お子さんはお嬢さんお二人。本当に女家庭なんですね。
でもお友だちや担当記者の家庭など、よく見ておられたんだと思いますよ。

西島

高松さんのお宅も観察対象で。

高松

うちは男の子ですからね。まあ女世帯は、それだけ生活への観察がゆきとどいていたんですよ。オイルショックのとき、トイレットペーパーなんか、騒ぎになる前に登場していましたからね。

昭和20年代から40年代まで、女性の目で見た世相が実に活き活きと描かれていますね。

西島

『サザエさん』だけかと思うと、『エプロンおばさん』から『いじわるばあさん』もあって。

あれ、シニカルで面白かったな。サンデー毎日でしたね。昭和41年からでしたか。町子さんは『サザエさん』でたまったストレスを『いじわるばあさん』で解消されたんかな。愉快でしたね。

西島

それにしても『サザエさん』は何回掲載されたのですか。

司会

昭和21年4月22日に夕刊フクニチで誕生して、終了が49年2月21日です。途中休載もありましたから掲載が6477回だそうです。
サザエさんの本がまたすごくて68巻で約3,000万冊、ほかにも『いじわるばあさん』 やいろいろで単行本は108冊だそうです。

高松

お母さまの思いつきで、『姉妹社』をつくって第一巻を出されたときは大型本のせいか返本の山だったそうです。それで、いまの小型本にされたら、売れて売れて、大ベストセラーになったのですね。
孫の小学校の教科書に、サザエさん が出ているので驚きました。サザエさんから見たお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、子や孫、姪などの関係が漫画でよくわかるんです。私たちの年齢から子供たちまで、サザエさんはとても身近な存在なんですね。

皇居の園遊会にて(昭和60年・共同通信提供)
長谷川町子さん(左)と高松千代子さん(昭和53年)

茶目ッ気。やさしかった町子さん

長谷川町子美術館

サザエさんがみんなに好かれたのは、結局、作者の町子さんのお人柄なんでしょうね。

高松

誠実で、出しゃばらない、いつもひかえめでしたよ。同窓会でも末席にちょこんと坐られる。あまりおしゃべりもされない。ひとの話もよく聞かれる。けれども別れたあとで無性に懐かしくなる。そんな方でしたね。

今田

静かに世を去っていかれて、お人柄もうなずけますね。

高松

お忙しいのに、同窓会には都合をつけてよく出席なさいました。
同級生が長谷川さんのお宅を訪問すると歓待されました。「みんな、飲むほどに、酔うほどに、私からいじめられた話ばかりするのよ。今度福岡へ帰ったら 罪ほろぼししなけりゃ....」という電話で、大笑いしたことがございました。

男の子たちには。

高松

長谷川町子美術館が世田谷に出来たとき、元気のいいひとたちが、もういいおじいさんですが、町子さんのお宅へ御祝いにいったんです。
町子さんがなじみの料亭で歓迎されて、どんちゃんさわぎになったんです。 ところがたいへん。いい気分でタクシーに乗ったところが、一人が心筋梗塞になって、病院へ直行です。長谷川さんのツテで応急処置をしていただいてたすかったんですが、それからは「男の子は来るときは健康診断書をもってきてよ」と言っておられましたよ(笑)。

笑ってはいけないがおかしいな(笑)。

高松

RKB毎日のテレビでしたか、『サザエさんふるさとへ帰る』という番組が企画されたんです。ところが本人が「私、テレビいやよ」といって帰ってこられない。
そして、「あなたたち私のかわりに出てよ。いくら悪口言ってもいいから」 ということで、私とお友だち、男性一人の3人で出たこともありました。

ちょっと有名になると、みんなテレビの出たがるのですがね。出しゃばらない、その品のよさは新聞社時代のままですね。
ときどき福岡へ帰っておられたのですか。

高松

昭和51年でしたか、大濠にマンションを買われました。たびたび帰るおつもりだったのでしょうが、実際はお忙しくて...。それに飛行機がおきらいだったんですよ。
帰られたときは、柳橋市場で買物するのが楽しみだったようですね。

今田

高松さんはよくお訪ねなさったでしょう。

高松

いいえ。あまりお仕事の邪魔をしてもいけませんから。でも、あの方、とても茶目っ気があって、私が訪ねるとなんとかして喜ばしてやろうとなさるのですよ。
20年ぐらい前でしたか、中学2年の息子をつれて上京した折り、長谷川さんは あいにく箱根の別荘へ行かれてお留守でした。
翌日の朝、ホテルへ電話があって「昼頃帰るから東京見物のガイドをするわよ」とおっしゃるんです。車の前に息子をのせて「右に見えますのは、かの有名な青山学院でございまーす....」と名調子のバスガイドさんで、思わず吹き出してしまいましたよ。
またあるときは、一家で歓迎していただきましたが、お母さまが私の事を気づかって、テーブルをたたいて悲憤慷慨さなるんです。あたたかい親身な御一家でしたよ。

皆さん、おテンバさんのまま、成人されたんだな(笑)。皆さんが、サザエさんの源泉であることがよくわかる(笑)。

百道にサザエさん誕生の記念碑を

さきほどの長谷川町子美術館は。

高松

東京の世田谷区桜新町で商店街からちょっと坂をのぼったところです。
赤煉瓦づくりの小ぢんまりとした美術館で、町子さんの作品や、ご姉妹が蒐められた内外の美術品が飾ってあります。

司会

サザエさんのまんが一代記がたのしいし、磯野一家の間取りが見透しできる家の模型までありましたよ。
私がいったときはウィークデーでしたが、ひっきりなしの入場者で、サザエさんの人気がうかがえましたね。

今田

お亡くなりになったのは、平成3年5月27日でしたね。本当に惜しい方でしたね。

高松

遺言で納骨がすむまで秘しておられたので、私もニュースを聞いたときはびっくりしました。
踏み台にのって高窓をしめようとされて転ばれた。それが引き金になって病床に臥せられたようです。
亡くなられる前の年に、電話で「この頃、低血圧で、朝起きにくいのよ」と言われるので、「年をとるとみな同じよ。秋はさびしいけど、元気をを出してよ」とはげましたりしましたのに。

司会

田河水泡夫人の高見沢潤子さんの随筆で「私たち夫婦は町子さんの導きでクリスチャンになり、平安をえました」とありましたが、町子さんは敬虔なクリスチャンなのですね。

高松

お母さまがとても熱心なクリスチャンで、全てに信仰を優先させられる方でしたからね。
もっとも水泡先生御夫妻の入信は『うちあけ話』によると、ひょうたんから駒だったのですね。 町子さんはお母さまが懐かしくて、なんとか口実をつくって家に帰りたい。それで教会に御参りしなければならないから家に帰らしてくださいと、少女の知恵をいっぱいしぼったのですね。
すると先生が、「じゃあ、隣りの教会へ一緒に行こう」とおっしゃった。植えこみがあって、 教会に気がつかなかったそうです。町子さんの計画はフイでしたが、それが縁で入信されたらしい(笑)。

西島

町子さんのまわりは、厳粛な信仰までおかしな笑いになる。日常がサザエさんだったのですね(笑)。

ともかく『サザエさん』は福岡が生んだ昭和を代表する漫画で、町子さんほど全国の人に愛された漫画家はいないでしょうね。永遠に不滅なサザエさんですな(笑)。

西島

百道の町子さんの住んでおられたところに『サザエさん誕生の地』の記念碑が、ぜひほしいですね。

それはいい。サザエさんの漫画いりで。きっと福岡市の新名所になりますよ。

今田

今日はサザエさんを目の前にしている感じで、いいお話をうかがいました。ありがとうございました。