No.59 「明太子」誕生物語り

対談:平成5年11月

司会・構成:土居 善胤


お話:
株式会社ふくや社長 川原 千鶴子氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 副頭取 中 脩治郎

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


タラコの味が忘れられなくて

川原俊夫 氏

明太子(めんたいこ)は博多が生んだ日本の味ですね。売上高も1,000億以上とか。亡くなられたご主人の俊夫さんと奥さんがこの味を産み出された。お二人は博多の明太子の生みの親ですね。

川原

博多の名物になってしまってびっくりしていますが、戦前、主人も私も韓国の釜山に住んでいたのが、明太子との縁の始まりですね。私たちの毎日のお惣菜に、キムチと明太子は欠かせませんでしたよ。

西島

で、その明太子はタラコで、スケトウダラの卵ですね。そこらへんがややこしい。

川原

スケトウダラのことを朝鮮語でミヨンテと言いますものね。漢字で明太、メンタイですね。
その卵だから明太子でミヨンテコ、メンタイコになったのです。加工して辛子明太子、うちでは“味の明太子”と言っています。

西島

それでタラコ、明太子になじんでおられたのですね。

川原

はい。うちの近所の豪家では、寒くなると出入りの人が総出でキムチをつけていました。
大根、人参、せり、からし菜、生姜、にんにく、ねぎ、赤唐辛子。それに蝦(えび)やタラコや牡蠣(かき)、飯蛸(いいだこ)まで、いろいろいれる。それに塩をいっぱいふって樽漬けにするんです。

西島

なるほど、そんなに沢山の味がしみて、キムチの味になるのですね。

川原

暮の日本の餅つきのようで、それはそれはたいへん活気がありました。
主人も子供時代に近くの海産物屋で、タラコを漬けるのをよく見ていたそうです。

西島

どちらも辛いのが特徴で。

川原

はい。あちらでは舌が千切れるぐらいに、唐辛子をいっぱいいれて辛く漬けるんですね。

お2人が子供時代に釜山で見ておられたキムチ漬けタラコ漬けの状況が、博多明太子の原風景なんですね。
その頃、釜山は日本人が多かったんでしょう。

川原

当時の人口は40万人ぐらいで、日本人は5万人ぐらいだったでしょう。下関と釜山の間は関釜連絡船でひとまたぎですから、釜山はつい隣街の感じでした。だから福岡の人も多かったんですね。その人たちのお惣菜にキムチやタラコは欠かせませんでした。

西島

それで、戦後引き揚げられて、その味を再現されたのですね。

川原

敗戦になって、主人は沖縄の宮古島から、私は当時の満州の新京(いまの長春)から3歳の息子を連れて引き揚げました。博多港へ着いたのは、翌21年の8月でした。主人が港へ迎えにきてくれていましたが、2年ぶりだったですね。
こうしてやっとやっと博多へ帰ってきたのですが、どうしてもあの明太子の味が忘れられませんでね。

金魚鉢のケースからスタート

それからが博多明太子の誕生物語になるのですね。

川原

昭和21年に引き揚げてきて、主人の兄の家に世話になっていました。1軒建てでも3世帯が住みこんでいましたから、とてもいつまでも迷惑をかけられられません。
焼野が原で店などないので天神で露天商売をしていましたが、ある日、新聞を見ていましたら、中洲市場25軒を引揚者にという入店募集の記事が目に入りました。
自分の店が持てる。どうしても持ちたい。そこで主人を3日3晩口説きました。その頃の中洲は20年6月の大空襲で焼野が原のままでした。市場に入っても周囲に家などありませんから商売になるかどうか不安でした。
主人もずいぶん考えていましたが、とうとう根負けしてか、「じゃ、やってみるか」となって申しこんだのです。

西島

それはいつ頃ですか

川原

忘れもしません。入居したのは昭和23年の10月5日でした。今とは違って車などありませんから、大八車 にあるだけの荷物と、幼い息子を乗せて移りました。資金も引揚げのときにもらった3千円がたよりでした。
この日をうちの、「ふくや」の創立記念日にしています。

西島

屋号がひらがなで当時としてはしゃれてましたね。

川原

店を出すのですから屋号がいりますね。義兄の釜山の店が富久屋でしたのでそれをもらったのです。ただ富久屋だとゆっくりしすぎている気がして「ふくや」にしましょうと主人にたのみましたら、それでもよかたい……(笑)

西島

どうでもよかったようで(笑)、面白い(笑)。で、最初は食料品からですね。

川原

はい。でも戦後の何もないときですから、生鮮品は手には入りません。ですから干魚・干椎茸・高野豆腐と、もっぱら乾物食品ばっかりで、それも戦後のもの不足ですから、店先がさびしくかさかさしているんです。
これではやっていけない。なんとかしなければ……。それで私は釜山のタラコの味が忘れられませんから、あれをとりよせればきっと評判になると思って。主人に手をまわしてもらって韓国から仕入れたのです。
ところがそれが全然舌に合いません。私たちがなじんでいた明太子は日本人向けにつくられていたんですね。そんなら自分でつくろうと思いましてね。

西島

材料のタラコがたいへんだったでしょう。

川島

苦労しました。やっとの思いで手に入れると上っ面だけがいいタラコで下の方はとても使い物にならないクズものだらけ。悲しかったですよ。
そこで北海道近海のタラコを買ってすこしずつつくったんですが、つくっては捨て、つくっては捨てで、どうにかどうにか店に出せるものができるまで一ヵ月以上かかりましたね。北海道のタラコは粒が太いし粗いので日本人の舌によく合いました。
味つけは二人の舌だけがたよりでしたが、どうしてもつくりたかったのです。

西島

その明太子の誕生の日は?

川島

昭和二十四年、年あけてすぐの一月十日でした。

歴史的な博多明太子の誕生日ですね。そうして売れましたか。

川原

全然売れません。(笑)十年ぐらいは全く売れませんでしたね。そこでまたつくっては捨て、つくっては捨てばかりでした。(笑)
その頃小学校の末っ子が捨て役で、いつも店員さんといつもこぼしていたそうです。
それに当時のことですから、しゃれたガラスケースなどはありません。仕方がないので、金魚鉢をきれいに洗って、その中に明太子をつめて店においていました。

いまの数千億の明太子産業が、金魚鉢からスタートしたのですね。いや、感動的な話だなあ(笑)。

冷泉小の先生の口コミがきっかけ

川原

主人も私も明太子が好きでしたから、つくりつづけたのですよ。そのうち次第に福岡の街が復興し、中州も賑わいだして、うちの店の売上げもあがってきました。

西島

その売上げは明太子以外ですね。

川原

はい。だから酔狂だとか、趣味だとか言われた明太子づくりもつづけられたのですね。
はたから見ると、私たちが迷惑品かかり切りでみておれんやったんでしょうね。
親戚から「明太子みたいな無駄仕事は止めない。」「薬院店もさっぱりやから止めない。」と、やかましく言われましたよ。

よく我慢して持ちこたえられましたね。御主人がどしっとしておられたからですね。
でも、戦後の博多の明太子の発祥が、お二人のタラコの郷愁からだったとは。いいお話ですね。で、売れたのは。

川原

最初の頃、よく買っていただいたのは近くの冷泉小学校の先生方です。店にこられた先生が「これなんですか」ときかれ、「まあ、食べてみるか」とお昼の御弁当のおかずに買ってかえられたのです。
それが「案外うまかばい」となって、先生方に口コミで宣伝していただいて……。それで評判が校区いっぱいにひろがったんです。

西島

海より深い先生の恩ですね。

川原

それからあちこちで話題になりだしたのです。さらにはずみがついたのは、昭和二十五年におこった朝鮮動乱の特需景気のころからでした。博多どんたくや山笠も復活していましたし、東中州も賑やかになったものですね。
でも、明太子がよく出はじめたのは昭和三十五年頃からで、中州の小料理屋さんたちの酒の肴に明太子がいいと言う評判がたちだしてからですね。

家庭のお惣菜です

口コミだけで広がったのがすごいですね。でも、結局、味がよかったのですね。その味を見られたのはずっと奥さんだったとか。

川原

ええ。主人はつくる人、私は食べる人と、分業でした。主人は材料の仕入れを吟味し、ていねいにつくる人。私は、もう少し辛くとか、塩を薄くとか、私が納得する味つけをしていましたから。

西島

いまもそうなさって……。

川原

いまは研究室の人たちが慎重に吟味していますが、毎日製品が届けられるので、私が味わって注文をつけたりしています。

西島

じゃ、味に変わりようがない。で、はじめからのその吟味はどんなふうに……。

川原

別に難しい事ではありませんよ。一般家庭のお惣菜にぴったりの味かどうかみているだけで。私は家庭を持ち、子供を育ててきた普通の主婦ですから。主婦の舌で吟味しています。

でも、時代の傾向とか。この頃のように暖冬とか、気候の変化も。

川原

ええ。そこらへんは主人とよく話し合ったものです。研究室でも長期予報や好みの変化をきちんと調べてすこしずつ味加減を調節していますね。

西島

では、率直に。明太子の企業秘密を(笑)。

川原

やはり、材料のタラコの吟味が一番です。それからブレンドのキメテになるいい唐辛子も。そりゃあ、主人は材料にきびしかったですね。
北海道の羅臼や、カムチャッカ近海のものを買っていましたが、サンプルを吟味して、今年はこれっときめます。主人も問屋さんも真剣勝負でしたよ。いまはアラスカ近海のスケトウダラもつかっています。
産卵直前の暮れから二月にかけてが漁期で、そのハラのタラコを十分に選別してから、唐辛子や鰹や昆布や、いろいろの調味料でブレンドした調味料に三日間つけて熟成させ、味をしみこませます。
そして最後に納得できる私の隠し味をきかします。この味は息子たちにちゃんと伝えています。

母子相伝の味ですね。

川原

それに「この頃の味はどうばい」と言っていいただくお客様が大勢いらっしゃる。いろいろ参考にしてみんなでさかんに味論議をしています。味つけはいつになっても一生懸命ですよ。

食べものだから、気を使われることも……。

川原

うちがはじめた頃は今とちがって、冷蔵システムも不十分な時代でしたから、古いものが手に入らないよう、それが一番の気がかりでしたものね。
食べものですから一度飲みこまれたらおしまい。間違いがあったら大変という気持ちが一番だったんですよ。鮮度のあるうちに直接お渡ししたかった。それで直販をつづけたのです。
味のほうも、工場にちょっとの気のゆるみがあれば、私の舌か見つけます。自分で勝手にですね、私の舌のほうが安心と思っているんですよ(笑)。工場の人たちにはすまないのですが、仕方がありませんね。

西島

ベテランおかあさんの舌が一番なんですねです (笑)。

川原

明太子は贊沢な御馳走有ではありません。日常のオカズ、お惣菜ですものね。だから、私の出番があるのです。おかずは明太子が一番と言われる方が多いんです。ごひいきの方々のために、喜ばれるようにしないとですね。

明太子で家庭料理が変わってきましたね。ひとつの食卓革命ですね。

川原

若い方がたが、スパゲッティやグラタンなど。それからなんやかんやと。もう、私たちの手がでない料理まで次々つくられるでしょう。明太子が世界に広がってうれしいですね。外人の方もキャビアみたいだといって買っていかれるんですよ。

新幹線開通で日本のお惣菜に

西島

新幹線の開通で明太子が全国へひろがったんですよね。

川原

東京と大阪に開通し、東京オリンピックも。どちらも昭和三十九年でした。それで日本の名物が東京に集まるようになって、隠れた特産品だった博多の明太子がまた広く知れだしたのです。明太子の希望がふえて主人が飛行機便で送りました。当時では画期的で評判になったものです。

西島

本格的には、新幹線が博多まで通じた昭和五十年からですね。

川原

博多のおみやげになりましてね。それぞれの持ち味で同業者の方もふえましたが、おそろしいほど売れました。いくらつくっても、つくっても足りないんです。

西島

業者さんはいま……。

川原

百五十社ぐらいでしょうか。それぞれに味の特徴をだしあって、みなさんが切磋琢磨にしておられるんです。

おたがいに努力されて、ますます博多の名物に……。

川原

ええ。それでやっと明太子が日本のお惣菜になったんだと、嬉しかったですね。

そんなお気持ちだから特許や商標権もとらなかったのですね。

川原

ずいぶんすすめられましたがまったく関心がありませんでした。主人は、博多にいろんな種類の明太子ができて、お客さんが好みのものを食べれるのがいいんだといっていました。

亡くなられた御主人も、いまの盛況を喜んでおられるでしょうね。

私は博多商人です

御主人の川原俊夫さんと奥さんのお二人が、戦後の明太子発展のもとをつくってこられたのですね。御主人がお亡くなりになったのは……。

川原

病院の検査でおかしいと言われ、山笠のお汐井とりをすませてすぐに入院しました。山笠が終わって二日後の昭和五十五年七月十七日に亡くなりました。享年六十七歳でした。

山笠を愛された御主人らしいご最期でしたね。ご葬儀には三千人もの会葬者が御主人の徳を偲ばれたそうですね。
博多商人の典型だった御主人の事をすこし……。

川原

なにより明太子が好きな人で、つくりかたもいろいろ納得がいくまでしていました。
明太子でもうかって贅沢しようとは、すこしも思わん人やったですね。人さまが喜ばれるものを安く……。と、そればっかり考えていたんでしょう。
私、食べる人。主人、つくるひとと申しましたが、主人の熱意がなかったら、いまの明太子はなかったでしょうね。

御主人が堂々と話しておられました事は。

川原

「いいものは安く」が口ぐせでした。「私は博多商人です」とも、よく言ってましたね。
まあ、自分の夢をすこしづつ実行して幸せな人でもあったですね。
全国大手の食品関係の方がみえると、「一流商品は、一番いいものを、一番安く売ることばい。一番いいものを、一番高く売るのは一流商品じゃなかばい」と遠慮せずにズバズバ言って、そばの私はハラハラしたものですよ。
一流商品はよく売れる。だから安く売れるはずと言うのが主人の信念だったのです。

明太子が評判になりだした頃、東京や大阪から販売の話もずいぶんあったでしょう。

西島

向こうの人たちには幻の食品でしたものね。

川原

明太子がまだうちだけの頃、東京や大阪のお客さまがどうしてもほしいどデパートに言われる。うちは直販ですからデパートさんも困られたんでしょう。うちで現金買いして店に並べられたんですね。
値段は高くなっているし、そしてなにより鮮度がおちて、なにが事があったらとハラハラでしたよ。

山笠気狂いでした

明太子

西島

御主人は涙もろくて……。博多にずいぶんつくされた方でしたね。
畑違いの私たちのデザインの催しでもよく御支援いただきましたよ。

川原

それはもう涙もろい人で。不幸な子供さんや、不自由な方たちを見ると、じっとしておられない人でした。
子供たちの施設へ慰めにいったときの、「たまらんやったばい」という話は何度もきかされました。
いたいけな子供さんが、主人の大きなどんばらをつついて「おじちゃん、ここ、なにがはいっとると、ときくばい。どの子もみんなおんなじ可愛い子なのに親がないだけで、可哀想な子ばい。」そう言って涙をだして話すんですよ。
いろんな人から頼み事も。入学金とか、授業料とかもありました。先のある人の負担になるから、名前は出すなで、私もなれっこになってました。

昭和40年頃の
川原俊夫、千鶴子夫妻

西島

博多の祭の山笠にもずいぶん支援されましたね。
資金がなくて、振興会で来年どうするやという話になったとき、不足分は出しますけんと言わっしゃって存続できたそうですね。
今ではとても考えられませんが、そんな事もあったんですね。

川原

山笠がとことん好きで、山笠気狂いでしたから、そんなことも言ったのでしょう。
息子がはじめて山笠に出るとき、まだ布切れの不自由なときで、私の嫁入りの晴着をつぶして赤い締込みをしてやったりしました。
「無一文の引揚者夫婦を受けいれていただいて、博多のお陰で今日になれた。ありがたかばい」といつも思っていたようです。主人は沖縄戦のとき宮古島の守備隊にいて運よく助かったんですね。多くの人たちが戦死しているのに、のんのん生きているのが申し訳ないと。
私も満州の引揚者で、地獄を見てきましたから、主人がそうならとついていきました。

税金も、特別なお考えだったと。

川原

ガラス張りでしたね。
「この立派な道路を歩ける。子供は学校へ行ける。みんな税金ぞ。利益を出して税金ばうんと払う。それが当然ばい」でした。

西島

それは税務署に喜ばれる。……(笑)。

川原

自分の贅沢には関心がない人でした。多くの人からゴルフやら、芸事やら、海外旅行やらすすめられ、少しゆっくりしんしゃいと言われるんですが、うんうんですますだけでした。
亡くなって税務署の方が見えました。当時市内で所得税が一番でしたから、当然の調査なんでしょうが、私の家を見て怪訝そうにこれだけですかとおっしゃった。
それで「ハイッ」。じゃ美術品はと言われるので、私もよくわからないのであるだけの掛軸などをお見せしたら、結構です、でおわりでした。期待されるほどのものが全くなかったんでしょう。つまらんものをお見せして恥ずかしかですね。

だけどいいお話ですね。もう少し、御自分の楽しみにひたれるまでお元気でいてほしかったですね。

西島

いや、百歳にならっしゃっても、変わらっしゃらんやったでしょうや。きっと(笑)。

川原

裸一貫でここまできた。子供も大学までいかせた。あとは全部、自分の気のすむように使っていこうと思っていたんでしょう。

西島

それがやすらぎ荘支援や、子供早帰りの夕顔運動支援などになっているんですね。

川原

まあ、息子や社の人たちが、主人の気持ちをひきついで、なんとかやってくれてるようです。

100メートル12.8秒でしたよ

お話をうかがっていて博多の明太子が生まれるには、敗戦が大きな背景だったと思われてなりません。産みの親のお二人が、引き揚げて博多に落ちつかれるまでの事をすこし。

川原

主人は釜山、私は仁川で生まれました。川原は釜山で回漕店、私の実家の田中も釜山で三井系の海運業ををしていました。だから両方の父どうしが親しかったので、親同士でどうや、だったのでしょうね。
主人は釜山中学、私は釜山高等女学校でした。私は陸上の選手で走ってばっかり。もちろん主人とは結婚するまで会った事もありません。

西島

陸上は何秒くらいで。

川原

100メートル12.8秒が記録でした。
戦前の全道の女子記録だったのですよ。アムステルダムオリンピックで銀メダルの人見絹枝さんから、日本体育大学への推薦があったりして。私はいきたかったんですが、父がどうしてもうんと言ってくれなかったのですよ。いやあ、はずかしいですね。

西島

それはすごい。しかし陸上ひとすじでなく道を結婚にふみ誤られてよかった(笑)。
御見合結婚ですね。

親が決めた通りの結婚でした

川原

当時ですから、もう親の言いつけ通りでしたよ。主人は中学を卒業して昭和五年に満州電業に入社していました。あの頃の少年の夢は大陸雄飛でしたからね。

日本と当時の満州国の合弁企業で、満州の電力をカバーする会社でしたね。

川原

社員も一万人以上の大きな会社でした。主人は奉天(現・瀋陽)支店の経理係でした。
結婚したのは主人が22歳、私が20歳でした。昭和11年の1月でいちばん寒いときでしたね。
でも春になると、あんず、れんぎょう、梅、桃、梨、りんご、ライラック、木瓜(ぼけ)、などの花がいっぺんに咲き出すんです。それはそれは美しかったですよ。

奉天
昭和20年(1945)頃の人口は約100万人、このうち日本人は10万人の大都会だった。

ずっと 奉天で。

川原

いいえ、昭和十七年に新京(現・長春)の本社へ転勤になって、動物園近くの社宅に住みました。

西島

昭和十七年ですか。日本が世界大戦に突入した次の年ですね。それから戦後の引き揚げまでが大変だったでしょう。

川原

でも、物資はまあまあで、終戦でソ連が攻めこんでくるまでは、そう心配はなかったんです。
ただ主人が何度も兵隊に召集されて、結局4回参りました。4回目は沖縄の宮古島で中尉でしたが生きて帰れたのは神さまのおかげですね。

西島

御主人のほうが先に帰国されていたんですね。

川原

主人は戦後早々に帰国できましたが、私は満州でたいへんでした。息子がまだ3歳で、手をつないで、もう必死に歩きました。
夜は地面の上に掻(か)い巻きだけで夜露にぬれて寝た事も。子供がか弱い女の子だったらきっと駄目だったでしょうね。元気な男の子だから助かったんですよ。子供をひっぱって泥濘(ぬかるみ)の道をずっと歩きました。
帰国してから、水たまりの道を通ったりすると、「母ちゃんのモンペを引っ張って歩いたもんね」と子供が言っていました。その都度、涙が出ましたね。
しかし引き揚げの苦労は皆さんと同じで、私たちは無事に帰れ、主人も無事でしたから、幸せなほうだったでしょうね。

西島

いや、御苦労さまでした。ところで奥さんは博多にとけこんで、どんたくにもよく出られましたね。

川原

主人は自分では何もしないのに私には、何でもさせてくれましたから、琴、三味線、小唄、舞、長唄、川柳までいたしました。いざとなれば琴と三味線で子供を養えると思っていました。私はのぼせもんですから……(笑)。

西島

すごい。と言って全然出しゃばられない。いつも御主人をたてられてましたね。

川原

主人が逝くなってから主人の大きさをひしひしと感じました。

戦後約半世紀。奥さんが産婆さんをつとめられた明太子が、博多の名物に育ちましたね。いいお話をありがとうございました。

スケトウダラ(朝鮮名でメンタイ)
タラ科の海水魚で、体長は50cmほど。分布は北海道近海、アラスカ、カムチャッカなどの北太平洋北部と朝鮮半島東北部の日本海に多い。
1~4月に産卵。卵巣に直径約1.5mmの卵を20~100万粒ほど産む。
その卵巣を塩漬けにしたものをメンタイコ(明太子)と呼ぶ。

「明太子」のできるまで

1.タラコ加工

スケトウダラ捕獲
(北海道近海・日本海・アラスカ・
カムチャッカ近海)

卵採取

塩蔵

着色

型の選別

2.めんたいこ加工

塩抜き

調味液づけ、熟成

箱づめ

冷蔵

出荷