No.60 夢野久作

対談:平成6年4月

司会・構成:土居 善胤


お話:
西日本新聞社論説委員長 山本 巖氏
葦書房社長 久本 三多氏
聞き手:
福岡シティ銀行 副頭取 井上 雄介

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


夢野久作の誕生

夢野久作 略年譜

井上

夢野久作が見なおされていますね。ただこの人、福岡出身ですが、どうもなじみがうすい。しかし、愉快なペンネームですね。

山本

作家、夢野久作の誕生は大正15年(1926)です。書きあげた『あやかしの鼓』を、義弟が雑誌『新青年』の探偵小説の懸賞募集に応募をすすめます。父・茂丸が「俺にも読ませろ」と言う。そして「ふーん、夢野久作が書いたごたあ~る小説じゃね~」と言ったのです。
父の杉山茂丸は明治政界の影の策士として隠然たる力を発揮した大物ですね。
博多で、ちょっとぼんやりしたわけのわからない人物を夢野久作と言っていたので、そんな小説だと言ったのです。
杉山泰道(たいどう)が、それが本名ですがそれは面白いと夢野久作のペンネームで応募するのです。その小説が第2位となり、賞金200円を手にする。1位は該当なしで、2位が二人。もう1篇は山本禾太郎という人の『窓』でした。こうして「夢野久作」が誕生したのです。

司会

面白いですね。あの小説が杉山泰道では形にならない。しかし茂丸自身もなかなかの文筆家で、義太夫(ぎだゆう)のことや、児玉源太郎大将伝ほか、『百魔』や史伝ものを書いているでしょう。血の流れを感じますね。

  • 義太夫節の略。元禄頃竹本義太夫が大成した音曲で浄瑠璃の一派。竹本・豊竹の二派にわかれ、明治・大正頃まで盛んに流行した。

井上

その面白い名の夢野久作さんの代表作『ドグラ・マグラ』が難解で。読み切った人がどれだけいるのですかね。

山本

原稿用紙1,200枚の大作です。令息の龍丸氏の文章によれば、久作は『ドグラ・マグラ』が、聖書や、史記や、あるいは古事記に匹敵する作品と思っていたらしいんです。
ブウウーンン…という柱時計の音ではじまるこの小説は、九州大学医学部精神科に入院している記憶喪失の男が自分探しをする筋書きです。筋が奇々怪々で複雑ですから、大方の人は10頁か20頁で投げ出してしまう。

井上

題名の『ドグラ・マグラ』からして。

山本

それがまたよくわからない。長崎あたりで南蛮渡来の幻魔術の事を言ったという説があるようですね。

音のひびき

パイプをくわえた
夢野久作
(昭和11年撮影)

山本

『ドグラ・マグラ』は傑作なんですが、難解だし好き嫌いがある。だから、むしろ短編から読むといいですね。短編はとても面白い。ぐいぐいひきつけられるのですよ。彼は短編の名手なんです。
昨年、女性の講談師、神田紅さんを招いて久作の『名君忠之』を口演してもらったんです。これがよかった。聞いた人たちが、たいへん感動しました。あまり評価されていない、まあ並の小説なんですがね。

井上

それがなぜ。忠之は黒田騒動で忠臣栗山大膳が相手で暗君のイメージが定着していますね。

山本

史実も時代によって評価が変りますね。そこでちょっと考えなおしたんですよ。夢野久作の文体の妙を思ったんです。音のひびきがいい。

久本

そういえば久作は喜多流の能の先生でしたね。若いとき出家して京都から大和路を托鉢をして歩いてもいる。御経はたいがい般若心経ですましたらしいが(笑)、誦経(ずきょう)はリズムですね。
それに彼の日記をみると、できあがった小説を妻のクラや家族に読んで聞かせていますね。
小説を目で追うだけでなく、語りと考えていた…。彼は日記に「人の魂を捕ふる力は音が第一、次は言語、次は文、次は色と形なり」とはっきり言っています。

井上

認められた第1作が『あやかしの鼓』でしたね。そこらへん、音が夢野久作の小説への感覚的な入口でしょうか。

久本

評論家の平岡正明さんが、夢野久作は、ある意味では音楽家だと言っていますね。これは頭にいれておくべき事でしょうね。たいへん示唆的で…。

司会

鶴見俊輔さんは「音と間合い(静寂)とも」。それに鼓つくりの名人の名が音丸久能で…。

山本

そうですね。だから神田紅さんの口演が面白かったのかな。

井上

とりつきにくい夢野久作への一つの切口が開けたようですね。

『坊ちゃん』と『ドグラ・マグラ』

井上

それにしても漱石入門は万人が読む『坊ちゃん』ですが、久作が『ドグラ・マグラ』では分がわるい(笑)。

山本

夏目漱石との対比は面白いですね。漱石は西欧的な価値観をとりあげ、それを日本の伝統的価値観とのせめぎあいでとらえている…。あえて乱暴に言えば、それが日本の近代文学の主流になった。
だいたい日本の小説は、江戸時代の黄表紙(きびょうし)もののように寝ころばって読んで楽しむものでした。それが西欧的な文学観が入ってきて、小説はきちんと正座して読むものになったでしょう。
久作は慶応の文科中退ですが、こうした固苦しさでなく庶民的な視線で小説を書いていますね。

久本

言いふるされた言葉で言えば土俗的なものが…。

山本

そう、そう。まあ、小説は物語で、読み、語り、聞いて楽しむものと、久作は思っていたに違いない。
短絡はできないが、彼の土俗の根底には「博多仁和加(にわか)」や「オッペケペ」もあると思いますね。

井上

それなのに、『ドグラ・マグラ』は難解でとっつきにくい。

山本

そう。久作、即『ドグラ・マグラ』とされているのが夢野久作の不幸の第一ですね。

父・茂丸と頭山満

久本

不幸の第二は、父親が明治政界の黒幕だった杉山茂丸だということかな。プラス面も多いけど…。

司会

茂丸は自分の活動の場として台華社をつくり、頭山満玄洋社と1つの距離をもっていたようですが、故・進藤一馬先生の御話では「玄洋社の実業部のような役割を杉山茂丸先生が受持っておられましたが」とあって、財政面で頭山満さんを支援していたのですね。

山本

頭山満と玄洋社は、そろそろ見なおさなければならない点がありますね。戦後はマルクス史観から超右翼、悪の温床のレッテルをはられてしまって全否定でしたからね。
中国から近代の日中関係史を研究に九大にきている人がいます。「頭山満をどう見ていますか」と聞いたら、「頭山の役割は日中の調整者だった」と言うんですね。孫文を支援したということもあるのでしょうが、中国人研究者がそういう見方をするというのがおもしろいですね。冷静な眼で見ている。日本のほうも、もっときちんとクールに歴史を見つめないとですね。

久本

玄洋社の中国認識は非常にリアリスティックでした。中国は日本よりはるかに広い。スケールも大きい。絶対侵略なんかやるべきでない、これが1つの鉄則だったのですよ。

井上

明治維新で筑前は冷や飯組でしたが、政財界に特異な人物をおくりましたね。久作の父親の杉山茂丸は、またとらえ所がない…、大物ですね。

山本

茂丸は16歳のとき、大久保利通なきあとの日本の害は長州閥だと考えて、伊藤博文を刺そうと上京するのです。親もそれを励ましているし、その旅費工面に熊本まで出かけて、一面識もない佐々友房から、自分の首を担保に160円借りている。

井上

維新後十数年、まだ時代がたぎっていたのですね。

山本

2度目に上京した21歳のとき、山岡鉄舟の紹介状をもらって博文を訪ねます。
ところがこの紹介状には、この男は閣下を刺殺しようと考えているが、将来有為の人物だから、おふくみの上、会っていただきたいと書いてあったのですね。
護衛の警官に凶器の検査をうけて会うのですが、茂丸は若いし巨漢、博文は老人の小男。その気になれば素手でも殺せたでしょう。博文はこの無名の青年と昼食ぬきで話しつづけ、ついには夜食をともにして語りあっている。質問に、ひとつひとつ事実をそえての回答で、この対決によって茂丸は政治の現実に目覚めたわけです。

井上

博文は、当時、初代の総理大臣でしょう。一国の総理が…、今ではとても考えられない。

久本

明治興隆期のロマンですね。

山本

茂丸はそれから変遷をへて、長州閥の伊藤博文、山縣有朋(やまがたありとも)、桂太郎の内懐(うちぶところ)にはいってしまう。歴史の善悪は別として日露戦争の外債募集、台湾から韓国、満州鉄道のことまでかかわり、九州では関門トンネルや博多湾開発までプランニングしています。

井上

親交があった後藤新平が大風呂敷といわれたように、茂丸も法螺丸(ほらまる)と。

山本

そうです。しかし明治末期に関門トンネルまで、炯眼(けいがん)ですね。
茂丸は悪魔的な記憶力と理解力、そして説得力をもっていて、その武器をフルに使った。
久作の『近世快人伝』によると茂丸は、「右のポケットに2・3人の百万長者を忍ばせ(略)左のポケットにはその時代の政界の大立者を2・3人か4・5人忍ばせつつ」政界の黒幕として活躍したんです。

井上

そして玄洋社の頭山満とも早くから。

山本

頭山満は9歳上で、2人が初めて会ったのは、茂丸の伊藤訪問の2年あとだったそうです。
茂丸は荒い縦縞(たてじま)のフランネルのひとえ着に借物のシルクハットという珍妙なスタイルで、芝口の旅館へ頭山を訪ねている。
頭山は、血気にはやる茂丸に「才は沈才なるべし、勇は沈勇なるべし」と自重を求め、茂丸は「己れ1個の憤にのみ一身を没して、結果の如何を考えなかった」と自省する。これから頭山に兄事してのふれあいがはじまるのですね。
まあ、そういう事で、戦後は玄洋社も頭山も茂丸も全否定でしたから、久作の小説も父が茂丸だったという事で、歩が悪かった面はあるでしょうね。

『オビ』に書けない作家

井上

そして久作の不幸の第三は…。

山本

久作の小説が、ひとつの枠でくくれない事ですね。久作は大正15年、37歳のとき、『あやかしの鼓』で小説家として登場するのですが、彼の小説は怪奇小説や探偵小説と言ったジャンルではとらえられない。
『近世快人伝』なんか、これは小説ではないのですが、独特の史観を表現した大変おもしろいエッセイです。

井上

そう言えば読みやすい作家はレッテルが貼りやすい。

久本

つまり、本の「オビ」を書きやすい作家。久作はオビを書きにくいんだ(笑)。ついむつかしく書いてしまう(笑)。

司会

それに久作は深読みされる作家で…(笑)。

井上

この頃は、若い人が久作の本をかかえているとナウイと言われるようで、変りましたね。

山本

どうも、最近の若い人たちは久作をホラー(HORROR)でとらえている面があるようですね。それはそれで1つの読み方でしょうが、ホラーだけでとらえるのは不満です。そんなに単純じゃない。

  • 恐怖の意。怪奇な趣向で恐怖を感じさせる作品。

久本

そうですね。ホラーでなくて、超常というのかな。非日常的なんで、その点が若い人に受ける。

資本主義も社会主義もコケに

井上

経済事象で60年周期説があるでしょう。シュンペーターも言っていますね。経済だけでなく、社会をうつす文学にも60年周期が…。久作の復活にもそれがあてはまりそうで…。

山本

そう言えば、久作の活躍期から大方60年ですね。
久作が戦後に見なおされたのは評論家の鶴見俊輔さんが、1958年に『思想の科学』に『ドグラ・マグラの世界』をのせたのがはじめです。
それで注目され、ついで60年安保世代に久作ファンがふえ、7・8年後の全共闘世代になって爆発的に久作を読む人が出てくる。

井上

60年安保闘争では既成左翼への不信、全共闘では反自民、反社会、反共産でしたが、あの若い世代が久作ファンに…。

久本

うちでも著作集を出しましたが、問合いわせが多いのは、非常に若い人たちと、マニアックな久作ファンからでしたね。マニアックな人たちは、安保・全共闘時代の余韻でしょうね。

山本

久作は社会主義をコケにしている。資本主義も社会主義も、どちらもモノ取主義だと。
久作の近代批判は、近代という時代を功利主義だと見る点から出発するわけですが、社会主義をも功利主義と見たわけです。

井上

ところで探偵、怪奇、猟奇小説というと江戸川乱歩を思い出しますが…。

山本

大正から昭和にかけて西欧的なものにあこがれる風潮、一種のモダニズムですね。モダニズムが乱歩にも久作にもあるんですね。
ただ久作は単純でなく屈折している、多面体なんです。久作の方がイメージでは総合的かな。だから別面で未完成。翔んでいるんですね。

久本

そこに若い人がひかれる…。

井上

なるほど。ところで、昭和の初期に久作の小説を載せていた『新青年』は特殊な雑誌ですか。

山本

『新青年』は博文館発行で、今で言えば「文藝春秋」に近い雑誌ですね。メジャーな、当時の人気雑誌だったようですよ。

井上

で、「夢野久作」の生いたちを。

山本

幼名は杉山直樹、父・茂丸と母・ホトリの間に長男として明治22年(1889)に福岡市の小姓町、今の大名で生まれています。
杉山家は戦国時代の九州の雄、龍造寺隆信(りゅぞうじたかのぶ)の末裔である事を誇りにしている家柄です。
茂丸は国事に奔走して家に寄りつかず、祖母がやかましい人でホトリさんはすぐに離縁になり、直樹少年は祖父・三郎平と祖母・友子にあずけられる。

井上

神童でしたか。

山本

祖父の三郎平は加藤司書の勤王派で追放された人。維新後は国学、朱子学の塾をひらいて転々。祖父仕込みで3・4歳のとき『論語』や『孟子』をそらんじていたそうです。

久本

よくできると御褒美に一服。

山本

煙草をのましてくれる。だから子供のときからニコチン中毒で、修猷館時代も煙草は公認だったそうです。
その頃、茂丸が東京から帰ってきたとき、少年の直樹にお前は大きくなったら何になるかときくのです。文学で身をたてたいというといやな顔をする。絵かきというと、バカッ、ヤメロ。明治の親、その上、明治政界を泳ぎまわっている父に言われるとグーの音も出ない。
じゃあ農業をやります。それならいいとニッコリしたそうです。国のために役立つ男になれというわけです。

井上

農は国の本、農業は体をきたえるからと安心したのですね。

山本

その通りですが、久作は涙をポタポタおとしながら聞いていた…(笑)。

父・茂丸に抗議の上京

父・杉山茂丸

井上

茂丸の子であり、玄洋社の人たちにも近い。実業家や政治家にもなれたでしょうに。小説も怪奇複雑で。久作その人も異彩の人でしたか。

山本

ところが日常生活ではよき父よき夫で、心の優しい人だった。親も大事にしていますね。
継母に対する配慮は格段で、奥さんに自分の事より母の事を先にといつも言っていたそうです。

久本

国事に奔走という事で、祖母や継母、弟妹を放りっぱなしの父茂丸がゆるせない。修猷館5年のときに抗議の上京も。

山本

万の金を動かす茂丸が、家庭をかえりみず、継母が生活苦にあえいでいる。義憤にかられて、汽車賃だけ都合して、飲まず喰わず、白の制服も煤煙で黒にすすけて、みじめな姿で鎌倉の茂丸を訪ねるのですね。
茂丸も、悪かったと謝るのです。家族は東京へ招ぼう。しかし久作に中学は卒業する事。卒業したら軍隊を志願する事を義務づけるのです。

久本

中学生の久作にとっては偉大すぎる茂丸ですね。生命がけの喧嘩をうったのですね。そしてその約束はきちんと守っている。

山本

中学を卒業して1年志願兵の手続をするんです。ところが、身長5尺5寸6分(168センチ)、体重13貫弱(48キロ)の貧弱な体で乙種不合格です。
しかし徴兵官をときふせて、合格に。そして翌年明治41年に近衛歩兵第一連隊へ入隊するんです。

井上

言う事は言うが約束は守る。

山本

そうですね。翌年、除隊して予備見習士官に。その後の訓練にもきちんと出て45年に陸軍少尉に任官しているから大したものです。

井上

除隊してから慶応ですね。

山本

いいえ。軍隊の成績はよかったが、中学ではテニスばかりして勉強していない。それで予備校にはいって、幾何、三角法、物理、英語…と勉強のやり直しです(笑)。
そして慶応文科に入学するのです。

井上

文科を茂丸がよくのみましたね。

山本

茂丸は「日本は小説家を必要としていない」と言ったそうですが、近衛入隊までキチンと約束をはたしているので目をつぶったのでしょう。ただ彼の英文日記では軽蔑の微笑(A SMILE OF DISDAIN)をうかべてOKしたそうで。

井上

状況が目に見えるよう(笑)。大物の親父とつきあうのもたいへんですね。

山本

でも、茂丸はその後死ぬまで久作の生活を支援している。久作の作品には茂丸、あるいは茂丸の周辺から材料を得たものも多い。広い意味で久作文学のパトロンは茂丸ですよ。

放浪・托鉢から新聞記者へ

夢野久作の書斎の外観(昭和8年)

山本

慶応を中退してから、継母の久作廃嫡の動きがいやになって家を出て東京で放浪し、労働者として転々、26歳で仏門に入り剃髪して、名も泰道に変え法名を萠圓(ほうえん)に。京都から大和路を托鉢して歩いたそうです。

久本

そのときのエピソードがありますね。
長男の龍丸さんの話では、江戸川の町工場に住みこんでいたとき、毎日隅田川の土手で昼弁当をとっていた。川向こうでも弁当を食べている人がいる。いつしか、お互いに手をあげて挨拶するようになっていた。春のある日、その人が煙草をおいしそうに吸っていると、作業服を着た男が後ろに近づいて、ハンマーで男の人の頭を打ちつけた。動かなくなったのをみて、川に蹴おとし、その人は隅田川を流れていった。
久作はお握りを口に持っていったまま、声が出ず、唖然と見ていた。それから毎日、新聞をすみからすみまで見たが、その関連記事は1行ものらなかったそうです。

司会

なぜ、警察に届けなかったのですかね。
鶴見俊輔さんは、この心に焼きついた体験には、『ドグラ・マグラ』がいっぱいつまっていると言っていますね。

久本

托鉢巡礼のとき腰の曲ったお婆さんに5円の布施を受けて、手をあわせておがまれた。久作は般若心経を誦したのですが、あんなに身のちぢむ思いをした事はなかったと言っていますね。

山本

それから福岡に帰って香椎に住みつくのです。
父の茂丸が、頭山満と相談して香椎村に三万坪の農園を買うんですね。玄洋社の若い連中の錬磨のためということでしたが、ここに玄洋社の長老奈良原至の息子の牛之助と元力士の黒木政太郎と住みこみ、農場経営にあたるんですね。

井上

小説にはまだまだで…。

山本

その頃から、茂丸発行の雑誌「黒白」にエッセイを書きはじめます。

井上

茂丸は、何も言わない。

山本

農園に腰を落ちつけていたからでしょうね。大正7年にクラと結婚し、能の喜多流の教授になり、翌年長男龍丸誕生。大正8年に九州日報の新聞記者になっています。

久作のスケッチ-九州日報

井上

九州日報とは。

山本

頭山満がおこした新聞で、茂丸が社長のときもありました。のちに福岡日日と合併していまの西日本新聞になっています。

井上

新聞のルポが光っていたと。

山本

十二指腸虫駆除のため入院していたとき、関東大震災の報をきいて、院長に300円借りて、そのまま茂丸、継母、妹の安否をたずねて上京するのです。みんな安全でしたが、九州日報に震災スケッチとルポをのせ、評判になるのです。それで翌年も上京して九州日報特派記者として『1年後の東京』『街頭より見た新東京の裏面』を連載するのですが、これ、いまよんでも面白いですよ。ルポ文学の傑作という見方もあります。
私は、彼は夢野久作以前に、大変個性的なジャーナリストだったと確信していますよ。たとえば、今、浅草では、無言正札商法がはやっている。商品に定価をつけて、定員がいらっしゃいとも言わない。それが銀座や神田にもひろがりつつあると…。

井上

危機感のルポですね(笑)。福岡は、まだそうなるには時間がという安心感(笑)。

山本

そのころの福岡は正札がないわけですから、たとえば豆腐を買うのに、定価がない。いくらときくと10銭という。8銭にしろと交渉。物を買うときの対話で人間的なふれあいがある。正札商法にはこのふれあいがない。こちらの金と、向うの品物を交換するだけで、さびしいではないか…という事です。久作はそれを近代化の罪と見たわけです。

井上

シャープな久作の眼にも、そのように。のどかな時代だったのですね(笑)。

ハイカラな日常

井上

久作さんの日常は。

山本

香椎の農園時代、3人の男の子供さんに創作の童話をよくきかせたそうです。それがエロ、グロ、ナンセンス、滑稽で、子供にもおかしかった。奥さんは吹き出したり、気持ちがわるくなって食事をやめたりで(笑)。
口が大きくて、ゲンコを口の中に入れて見せたり、頭も大きく、ニックネームが地球儀だったそうです。

久本

風呂場のオーケストラも。

山本

子供たちと風呂にはいると金だらいや馬穴を叩いてオーケストラ。奥さんが、こわれるから止めてとおかんむりだった(笑)。
銭湯に行って、子供さんを忘れて帰ったり…。

井上

おかしいですね。その人が、ずいぶんハイカラだったとか。

山本

おしゃれでしたよ。久作に能を習われたお医者さんの江浦重成先生のお話では、昭和初期に久作は福岡一のモダンボーイだったそうです。
ベルベットの洋服を着て、首に粋(いき)なマフラー。文化人が集まる喫茶店のブラジレイロで、ゴールデンバットをふかしていた。
朝食はトーストに明治屋で買ったリプトン紅茶。ミルクとイチゴ。ヨーロッパ映画が好きで、書斎はオンドル暖房。大正モダニズムが身についていたと。

久本

それでいて、体内には福岡的土俗の血が流れていて。そのせめぎあいが久作文学になり、ドグラ・マグラにも…。だから複雑で。

山本

今度、吉行和子さん出演でTNCの番組「久作の夢」をつくった岩佐寿弥さん。この人はドキュメンタリー作家ですが、久作が福岡の出身だと知って床にへたりつきたいほど驚いたとおっしゃる。
それは、前にTNCで「広田弘毅」の監督をされたとき玄洋社記念館へ行かれた。そのとき偶然に久作が福岡人だという事を知った。久作文学は若い時から愛読しているが、こうした特異な文学がどうして出現したのか、わからなかった。
それが福岡出身と知ったとたんに、玄洋社との関係がひらめいて、一切の疑問がす~ととけたと。それで、是非「夢野久作」をやらしてくれという事でテレビ化したのですね。

井上

なるほど作品は、生きている風土のあかしなのですね。

山本

福岡の歴史と風土を背中に背負って、近代化していく日本、その象徴の東京と真摯に向きあった作家だったのだと思います。
だから、今度の「夢野久作展」も、この視座を大切にした内容になるはずです。その意味で、意義のある展覧会になると思っています。

井上

久作は小説家で認められても福岡にいつづけましたね。今のように交通が便利でないし、ファックスもないし、久作の立場なら東京へ出るのが普通でしょうに。

久本

あれだけの人が東京へ出なかったのは珍しいですね。こういう作家は外にいないですね。ただ秘書の紫村一重さん、直方の方ですが、この人の回想では茂丸をさけたのだと…。その面があったかもしれない。

山本

茂丸と久作との関係も複雑ですね。亡くなる前年の昭和10年の日記に「夕食後父上自ら薄茶を立てゝ賜ふ。淀(よど)み多く苦(にが)し。後の思い出とならむ。汝は俺の死後、日本無敵の赤い主義者となるやも計られずと仰せらる。全く痛みいる。中(あた)らずと雖(いえども)遠からず。修養足らざるが故に看破されたるや。」とあります。久作の反体制的な体質を茂丸は見抜いていたわけですね。

井上

なかなかの、親子ですね。

山本

茂丸が昭和10年の7月になくなって、その後始末が終り、会計報告をきいているとき、昭和11年3月11日に脳溢血で亡くなる。47歳でした。不思議な親子の縁ですね。

近世快人伝

頭山 満

井上

それにしても、玄洋社、頭山満との関係が深いですね。

山本

でも、久作は案外突き放して見ています。彼は『近世快人伝』で頭山満、杉山茂丸、奈良原至、篠崎仁三郎の4人をとりあげていますが、前の3人は玄洋社系の人たち、篠崎仁三郎だけは博多大浜の魚屋の主人です。それぞれが破天荒な人物で、エッセイですが、まったく面白い。
むろん、頭山に対しては強い敬愛の念を抱いているのですが、決して美化はしていない。久作は頭山の意味は「ノンセンス」にある、と書いてます。
北海道の炭鉱が75万円で売れた。それをききつけて浪人たちがいろいろの理由をつけて、たかりにくる。頭山はふんふんときいていて言うだけの金をやる。食客もいっぱい。
周囲が見かねて、「あの連中は追い出しなさい。そうしないと先生一家が野たれ死ですよ。」そしたら頭山が笑って、「まあそう急いで追い出さんでいい。食う物がなくなりゃ、どこかへいくだろう」。こういう頭山の姿勢を久作は「ノンセンス」だというわけです。
大正時代に雑誌、「冒険世界」が、現代の豪傑の人気投票をしたら段突で無位無官の頭山が第1位でした。当時の大衆の頭山への期待がうかがわれますが、たいへんなカリスマの頭山をノンセンスといってのけている。
久作が頭山を評価するのは現世的な価値から超越していた人間としてですね。久作が批判しつづけている近代日本は現金主義の社会・拝金主義の社会でしょう。その意味で、それに毅然たる頭山にひかれたのかもしれない。新政府に反抗した武部小四郎等の福岡の変以来の歴史と風土みたいなもの、薩長政府とちがう形のもう1つの国づくりの流れ…。

久本

暗渠(あんきょ・地下水路)ですね。

山本

そう。暗渠と言っていい。その目には見えないが、地下の大きな確かな流れを、よくもわるくも現代に体現しているのが玄洋社だと見ているんですね。
しかし久作は一言も、頭山の政治的功績をあげていない。天才的な平凡児とみている。
玄洋社は歴史的にみると自由民権から国権運動に変わり、大隈重信外相の不平等条約改正案を国辱的な内容として、社員・来島恒喜が爆弾で吹っとばしてしまう。明治中期まではパワフルな集団でした。
しかし、日本の政治が近代化しシステマチックになっていくとともに、玄洋社が持っていた伝統的な共同体的価値観、義理人情の世界といってもいいが、その意味が次第にうすれていく。その中で、次第に存在価値を失ってゆく。

久本

社稷(しゃしょく)感の喪失ですね。

山本

社稷ね。それが、近代化の中で意味を失っていく。
その頃から、中国の孫文、インドのビハリ・ボース、フィリピンのアギナルド将軍などの独立運動支援をはかっていく。

井上

頭山満の生涯は実に大きなノンセンスなのですね。外の3人は。

山本

杉山茂丸が頭山と違う人物とは息子の久作にもわかっていたようで、「其日庵(きじつあん)」という杉山の号は其の日ぐらしからきていますが、「現代における最高の宣伝上手」だといっていますね。

司会

筑摩書房の全集の解説をされている養老孟司氏の御話では、死体国有論をとなえて自ら献体し、夫婦の骨格が東大医学部に大切に保管されている。それぞれの座姿のケースの上に、久作に頭山満、妻クラに広田弘毅の献辞があると。驚きましたね。
医学の進歩のために献体を。そう言いのこしても、なかなか遺族は従わないものでしょう。さすが久作という思いもして。

山本

奈良原至は、貧窮を恥としなかった人。玄洋社の長老で世間渡りが下手。維新前夜か、戦国時代にいきていたらという人ですね。
篠崎仁三郎は商人ですが、彼の博多ッ児の資格5ヵ条は豪快だが、とてもここに全部は記せない。第3条は生命かまわずに山笠をかつぐこと。第5条は死ぬまでフグを食うこと。もう博多仁和加そのものです。
面白いのは、この『近世快人伝』は昭和10年の作品で、久作の作家の地位がかたまっているときです。
「新青年」の水谷編集長にあてて、「現代の軽薄、神経過敏なる世相と、福岡県人中に見うくる面白からざる気風に対する一服の清涼剤を与うる目的、小生の特志原稿にして、稿料など頂戴せず、一切の誤解は小生に於てひきうくべく申し候」とあります。
原稿料はいらない、頭山の取り巻き連中の批判でトラブルが起こっても自分が引き受ける、というわけです。

井上

久作の書かねばならぬ気持ちがよく出てますね。たいへんな思い入れですね。

人も作品も多彩でしたたか

久本

久作は結構したたかですね。稀代の怪物、大ものの父・茂丸とツボをおさえた親子関係で、生涯生活費の援助を受けている。秘書には共産党員で公判中の人を平然とやとって全てをまかせる。カリスマの頭山満にも厚誼を受けている。

山本

多才というよりしたたかですね。彼の作品もだが久作の人間が面白い。
彼の作家生活は、大正15年(1926)5月の『あやかしの鼓』から亡くなる昭和11年(1936)3月までの11年間で、わずかに47年の生涯ですが、人生すべてが作品の源流で、大きな生涯だったと思いますね。
きわめて福岡人らしい作家で、福岡からでなければ生まれなかった。今度の展覧会では、その事を強調したいですね。

井上

作品と言えば、彼の歌集、猟奇歌ですか。またユニークですね。

山本

短い歌の中に、久作の世界を象徴する面白さがありますね。猟奇的ですが、人間の根元的な部分を鋭くついていて。
闇の中に闇があり 又闇がある
その核心から
血潮したたる
真鍮(しんちゅう)のイーコン像から
★細工のレニンの死体へ
迷信転向
これなど半世紀先を見つめていて、とても象徴的、魅力的ですね。

井上

では終りに、夢野久作の文学の魅力と、ゴールは『ドグラ・マグラ』としてそれに至る読みやすい作品をご案内ください。

山本

久作の作品は実に多様多彩で、人によって好みも違いますし、なかなか、選び方が難しいんですけどね。
短いものでいえば『瓶詰地獄』、それから『いなかのじけん』はぜひ読んでほしいですね。『犬神博士』『氷の涯』などは中編ですが、おもしろいですね。『あやかしの鼓』『押絵の奇跡』『少女地獄』などもファンが多いですね。エッセイでは『近代快人伝』『東京人の堕落時代』はぜひ…。

久本

こうして夢野久作をふりかえると、彼は、職業作家ではなくて日曜作家なのかもしれない。絵でいえば日曜画家のアンリ・ルソーのように、生活全般が小説の対象で。だから視野が広いし、感覚がみずみずしい。

山本

だから、限りなくひろがり、限りなく複雑になる。

井上

遠い人物の夢野久作が、隣の人、愛すべき福岡人に思えてきました。ありがとうございました。