No.61 頭山満 偉大なる足跡-頭山満翁の生涯-

対談:平成6年1月

司会・構成:土居 善胤


お話:
作家 北川 晃二氏
聞き手:
福岡シティ銀行 会長 松本 攻

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


不思議な大きなひと

司会

頭山満(とうやまみつる)さんが亡くなられて50年をこしました。右翼・玄洋社の総帥だったという事で、戦後は抹殺されていましたが、冷静に再評価のときを迎えたようですね。

北川

頭山満さんは役人にも政治家にもなっていない。無位無冠の浪人ながら、薩長の藩閥政府を震撼させるパワーを持った巨人でした。明治維新にのりおくれた筑前は実に不思議な人を産みだしたのですね。
頭山さんを本当に理解していたのは、前市長の進藤一馬(しんとうかずま)さんでしたね。進藤さんは最後の玄洋社社長で、父君は頭山さんとともに活躍され、義と情の人と言われた進藤喜平太さんです。
進藤さんは、頭山さんが右翼の巨頭と言われることについて、あの人ほど日常が清潔で、国家と国民のために、いやアジアの人たちのために、いつでも生命を投げだせる人はいなかった。その至誠と無私に、人が搏(う)たれ、ひきつけられたのだと言っておられました。

松本

カリスマ的な右翼の頭領でありながら、犬養木堂(いぬかいもくどう)さんらと孫文さんの中国革命を支援したり、当時アメリカ領のフィリピンや、英国領のインドの独立運動に力をかしておられる。

北川

日露戦争では国家存亡のときと主戦論者だし、欧米諸国に植民地化されているアジアのために国権伸長論者でもあった。自由民権論者ながら国防予算成立のために松方内閣を支援して、選挙史上にのこる選挙干渉もあえてする。もっとも、これは松方さんが腰くだけとなって総辞職したので、頭山さんも懲(こ)りられたのか、その後は政府や選挙にかかわる事はいっさいやめられました。

松本

あの時代のうつぼつたる志の人は、明治維新を肌で感じ、新日本の歩みとともにあった。国と個人が直結して一体だったのですね。国の事を家のように考える思考の血脈があったのですね。

北川

義のために生命をすててかえりみなかった頭山さんのような人は、自分を放擲するにふさわしいフィールドが明治日本だったのですね。
だから、頭山さんと玄洋社がいちばんパワーを発揮したのは維新後の新日本が形成される明治中期までで、その延長が大正初期まで持続。奔騰した時代が去ると、国民的師表という感じになってパワーが消えてしまったのです。

頭山満 略歴

1855・4・12
~1944・10・5
(安政2~昭和19)
玄洋社創始者。幼名乙次郎。のち満と改める。号は立雲。筒井亀策の三男で、頭山家を継ぐ。福岡西新町の生まれ。初め滝田紫城、亀井玄谷に学び、次いで高場乱(おさむ)の人参畑塾に入る。
1875年
(明治8)
矯志社結成に加わり、翌年萩の乱に連座して投獄された。出獄後は板垣退助と交わり、愛国社再興に参加。九州各地を遊説した。箱田六輔、平岡浩太郎らと向陽社・玄洋社を組織。
1887年
(明治20)
玄洋社系の福陵新報を創刊し社長となる。大隈重信の条約改正案に強硬な反対を貫き、1889年玄洋社員来島恒喜による大隈外相爆弾事件にかかわる。
1892年 玄洋社による選挙干渉を指導したが、政府の背信行為に幻滅し国民協会への協力を拒否。
1894年 天佑
1904年 満州義軍結成を支援。
1908年 浪人会を結成し大正デモクラシーの風潮と対決。
1925年
(大正14)
純正普選運動を展開し、また金玉均、孫文、ラス・ビハリ・ボースら亡命政客を保護した。早くから古武士的風格と評されたが、戦前右翼界の長老として晩年は半ば神格化され、その言動は世間の注目を浴びることが多かった。

<石瀧豊美>
西日本新聞社刊「福岡縣百科辞典」より

無私で人を魅了

松本

熊本出身の徳富蘇峰(とくとみそほう)さんと親しかったそうですが、どちらも共通点がありますね。

北川

頭山さんは政界の裏面で、蘇峰さんはジャーナリズムの頂点で、どちらも戦前に隠然たる勢力でした。しかし、頭山さんは幸せでしたね。裏面で構築に参画した(明治日本)の崩壊の前に昭和19年に亡くなっている。
名著『近世日本国民史』の著者の蘇峰さんは戦後まで生きておられた。日本の壊滅を見たくなかったでしょうね。

松本

敗戦の昭和20年は明治歴にすると明治78年ですね。50年頃が頂点。そのあとはシステムが制御不能になって敗戦への道をたどった。
日本も終戦から50年、前車の轍をふみたくないですね。

北川

まあ、そういう意味でも頭山さんを冷静に見なおしてほしいですね。
でも、学者がいくら研究しても、頭山さんの魅力は別格で、これは理屈ではなかなか説明できない。
定着した頭山像は無私、茫洋、大局観、金権と権勢にこびず、東洋豪傑の風があるとされていますが、夢野久作(ゆめのきゅうさく)さんのお父さんの杉山茂丸(すぎやましげまる)さん。この人は一歩間をおきながら頭山さんと行を共にした同憂の士でさすがによく見ています。
茂丸評は、頭山翁には二面性がある。愚鈍に見えて俊敏、寡黙にして雄弁、無学のようで非常に学問している。粗漫にみえて緻密、横着者のようで非常な正直者、無情のようで極めて情けにもろい人だと。
そして記憶力が晩年まで抜群、一倍大きな志をもっていたし、筋力でも誰にも負けなかったのですね。
頭山さんの特長は、ふだんは何もしないで眠っているようで、いざというとき瞬時にポイントをついて発動する。ひとことで言えば、全人格の発動で人を魅了したのですね。

松本

頭山さんのパワーは志の高い人の、無私のひと睨(ねら)みのすごみだったんでしょうね。
でも、外相大隈重信(おおくましげのぶ)さんの不平等条約改正案に反対して玄洋社員の来島恒喜(くるしまつねき)さんが爆弾を投げ自分は従容(しょうよう)として自害する。大隈さんは片足を失い、条約改正もふっとんでしまう。
薩長閥の連中には、まるで伊井大老を桜田門外に襲った連中が現存しているようで、それが無言の圧力だったのでは。

北川

そうですね。政府におもねらず、利権に目もくれない。活動は国家国民のためとする士族集団でしょう。権勢におぼれていた薩長の長老連には煙たい存在だったでしょうね。それに、反体制パワーは薩摩も肥前も長州もそれぞれの乱で讖滅されている。しかし筑前は明治10年に西郷さんに呼応した武部小四郎(たけべこしろう)・越智彦四郎(おちひこしろう)等が斬刑に遭いましたが、後年の玄洋社の領袖となる箱田六輔宮川太一郎進藤喜平太奈良原至等は9年の前原一誠(まえばらいっせい)の乱に連座して牢の中です。
激動のときに一番安全地帯の牢獄に無私の筑前士族集団のパワーが温存されていた。たしかに薄気味わるい存在だったでしょうね。

人参畑の豪傑塾

松本

そうした人たちの温床が高揚乱(たかばおさむ)の興志塾なんですね。

北川

これがまた不思議な人で、筑前一の女の眼医者ですが、男装して両刀をさし、乗馬で往診していたそうです。亀井塾の高弟でカリキュラムが、青年の志を興し元気を振起させる三国志や、水滸伝(すいこでん)など、血湧き肉躍る教課なんですね。当然、気風が荒々しくなるが、十訓をもうけて連中をおさえこんでいる。

松本

で、その十訓とは。

北川

それが、当時であれば絶対の忠とか孝とかが出てこない。長幼の礼儀とか、酒は飲んでもいいが乱れるなとか、男童無用(男色禁止)といった日常訓です。元気をもてあましている乱暴者たちをおさえる実践的な塾訓だったのですね。

松本

人参畑の豪傑塾は、駅前4丁目のバス停のそば(西側)で、頭山さんの書で記念碑がたっていますね。

北川

前原一誠の萩の乱に頭山満等が連累したので乱が拘留され煽動と監督不十分の罪で糾弾されます。乱は「私が参加していればあんな失敗はしない。私が塾生の責を負うのなら、陛下の命を奉じて県民統治の責任を負っている県令渡部清の罪は私ごときではない。私と県令の2人の首をさらし首に」と反論。それで釈放されています。

松本

激しいおばさんですね。この人の感化がなければ、後年の頭山満や玄洋社は…

北川

それはなんとも言えないが、色彩が変っていたでしょうね。

松本

ところで矯志社強忍社堅志社。まとまって向陽社に、それが玄洋社になるでしょう。どうして、社と言ったのですか。

北川

もちろん商法制立以前ですから今の法人ではありませんね。社は志を同じくする人間が集まって研鑽をはかる意味あいだったんでしょうね。
似たようなものに組がありますね。町内の火消の組とか、お祭の組とか。この町人衆の組とは違う。当時ですから志を天下国家にかけた士族の結社だという気持ちのたかぶりがあったのでしょうね。

金祿公債をもちよって

松本

当初は自由民権と不平等条約改正が二大スローガンで。そのために全国大会に出かけたり、各地に遊説(ゆうぜい)したり、その財源は。

北川

官員は給俸の1パーセントを、ほかは1人20銭の賛助をという記録もあります。
当初は旧士族に下付された金禄公債を持ちよって基盤にあてたのですね。当初の社長の箱田六輔さんは私財をなげうっているし、岡喬(おかたかし)という人は裁判所の差紙配(さしがみくば)りの仕事をうけおってその収入から玄洋社の敷地を買っています。国会議員を3回勤めた的野半介という人は、佐賀の乱の江藤新平さん等の名誉回復につとめた人物として知られていますが、若松で精米所を経営して財政に寄与。林斧介(はやしおのすけ)さんは出版業をはじめて福本日南(ふくもとにちなん)の『普通民権論』を出したりして財政に貢献しています。
しかしもっとも貢献した人物は結城(ゆうき)虎五郎で松脂(まつやに)の採取精製の事業化をはかったり、麦藁帽(むぎわらぼう)を事業化したり、資産家を説いて山野炭鉱の払い下げを受けて頭山さんの活動を大きく支援しています。
玄洋社社長だった平岡浩太郎さんも炭鉱経営に。明治鉱業を経営しておられた安川敬一郎さんは頭山さんの孫文支援に多額の援助をされているでしょう。

松本

そう言えば政界の黒幕と言われた杉山茂丸さんも頭山さんと一線を画しながら玄洋社の財務部的な存在だったと、進藤一馬さんが言っておられますね。

北川

そこらへん、財政のバックもなんとなく広大で。頭山さんと他の人たちとの違いでしょうね。

松本

安川さんは、若い人が頭山さんに心酔してその真似をしようとすると、やめとけ。やめとけ。あれは頭山だけができる事、お前さんたちが真似をしても通用しないとたしなめられたとか…。そこらへん、あの時代の大きな流れのポイントに頭山さんの座があったようで…。

広田さん・中野さん・緒方さん

頭山満 書「不動如山」

松本

魅力と言えば、広田弘毅(ひろたこうき)、緒方竹虎(おがたたけとら)、中野正剛(なかのせいごう)さん等も頭山さんに私淑して…。

北川

軍部体制の中で、それぞれ違った面で日本の活路を見つけようとした立派な人たちですね。この3人は玄洋社の社員ではありませんが、郷党の先輩として上京すれば頭山邸に挨拶にゆく。そして頭山さんの大きな人物にひかれていったのですね。
中野正剛さんが東条首相に反対して自刃したとき、連絡を受けて一番先に駆けつけられたのが頭山さんでした。次に奥さんの父君の三宅雪嶺(みやけせつれい)さん。そして緒方竹虎さんがとんでくる。
頭山さんは枕頭でよくやったと一言、あとは黙然と座しておられたが、緒方さんに、葬儀委員長をと言われた。
緒方さんは朝日新聞を代表する立場の人でしたが、当時、東条首相に反対する人物は国賊視される中で、頭山さんの言葉をうけて親友中野さんの葬儀委員長をつとめられた。正剛さんを惜しむ人たちで1万か2万の人の葬送だったそうです。
広田さんは、頭山さんが亡くなられて頭山満伝が編まれたとき、巻頭に献辞をのべておられる。緒方さんは紙の手配までされたらしい、克明に原稿に目を通されたようです。
ちょうど戦争末期ですぐ終戦でしょう。発刊されたのは、57年後の昭和56年で広田さんも緒方さんも既に亡くなられていました。

松本

郷党の先輩とはいえ、中野、広田、緒方といった人たちにそれほど敬慕されたとは、やはり頭山さんの大きさです…ね。

北川

その『頭山満正伝』ですが、巻頭にある、在野の碩学(せきがく)、三宅雪嶺さんの頭山満評が面白いですよ。
「頭山満氏のこと」の第1章に「頭山氏は昔の通りに壮士といえば壮士、浪人といえば浪人、名士といえば名士、大丈夫と言えば大丈夫、俊傑といえば俊傑、滅多に見ない人物として推賞せずにはおけない。」とあります。

夢野久作が『近世快人伝』に

司会

夢野久作さんの『近世快人伝』にも頭山満が出てきますね。久作の父の杉山茂丸は頭山満と盟友でしょう。彼は、頭山さんを奇矯なエピソードで紹介しながら、醒(さ)めた目で遠くに見すえている。けれども限りなく親愛感をいだいているペンのぬくもりが感じられますね。

松本

頭山さんの魅力なんでしょうね。ところで筑前三人衆の、明治憲法の制定にあたり、日露講和成立に活躍した金子堅太郎。不平等条約改正に尽力した栗野愼一郎。財界リーダーの団琢磨(だんたくま)さんらとは。

北川

この人たちは俊才で、頭山さんが牢にはいっているときに、最後の殿様の黒田長溥(くろだながひろ)公の配慮でアメリカへ渡り勉強中でしょう。3人とも帰国すると、少々の風雪はありますが、官と財界の表街道を歩いている。
在野に徹した頭山さんとはすれ違い人生で、親交はなかったでしょうね。

松本

この前の大戦の終戦工作に頭山さんをという事があったとか。

北川

孫文先生が第二革命で袁世凱(えんせいがい)に破れて日本亡命のとき隣家に住まわせて4年間かくまったのが頭山先生で、その間の生活費は安川敬一郎さんが引き受けている。だから当時の蒋介石(しょうかいせき)総統に通用するカードは、中国革命を支持し孫文さんを支援した頭山さんだけなのですね。かつて蒋介石さんが日本に来たときも世話をしています。だから、何も言わなくてもいい。頭山さんを南京へつれていけば蒋介石総統に重慶から南京へ飛んできてもらえる。それで日中平和を…と。
だが、軍の反対で実現できず、一片の夢で終って、残念でしたね。いずれにしても、茫々、半世紀前の話ですが…

松本

明治日本の一面を代表した無欲の人の大きな話でした。ありがとうございました。

国民投票で日本一

明治12年頃の頭山満

頭山満翁の一生は実に波乱万丈で、また先生その人がユーモアを解される方で翁の話は非常に面白い筈でありますが、私が話をするとそうした先生の面白さをお伝えできるかどうか、心配いたしておるのでございます。

いったい頭山翁のどこが偉かったのかと云う事になりますとなかなか言葉で説明しにくいのでありますが、明治時代にある雑誌社で現代日本一の人物の国民投票がありましたが、その中の日本一の豪傑で頭山先生が第1位。政治家は大隈重信、学者は三宅雪嶺、実業家は渋沢栄一、力士は常陸山(ひたちやま)という方々でありますが、当時、国民から豪傑の第一は頭山満と信じられていたと思うのであります。

そういう人気はとろうとしてとれるものではない。やはり頭山翁がいよいよの場合、国民のために命を抛(なげう)つ人であるという信頼から、一浪人ながら世の中に重きをなして、こうした人気があったのだろうと感じております。

『一年有半』という書物を書いて有名な中江兆民(なかえちょうみん)さんが、頭山先生を称して「武士道を存し得て全きものは、独り君有るのみ」。また大隈重信さんは「頭山という男は、どこがどうと言う表わしがたい所に、どこか大きいところがある」と批評しております。

翁は大局を見る聡明さがあり、またいっさい私欲がなく、万事に誠をもって当り、毀誉褒貶(きよほうへん)に頓着せぬ方でありました。

玄洋社の実業部のような役割を受持っておられた杉山茂丸先生との初対面は、頭山翁が31歳、杉山翁が22歳、今日からいえば非常に若い2人の出会いでしたが、杉山先生は感激して、50年の交わりを続けられたのであります。

その当時のことを杉山先生は「恍惚として夢の如く、思いに思うた多年の行為に一一鉄針を以って刺されるが如く感動を覚えて魔人の頭目に面会して不可思議の新天地を開いた」と述べておられますが、本当にその迫力といいますか、魅力と申しますか、人を惹(ひ)きつけずにはおかれなかったのが頭山先生であったのであります。

札の厚さで金渡す

先生は一生を浪人として送られました。金はあるときもありましょうが、ないときはない。あるときというのは、持っておられた夕張炭鉱を三井に75万円で売られた。借金はみな倍にして返されたということできれいさっぱりに半年くらいでなくなってしまったということであります。玄洋社にも、寄付されましたが、当時の話で、いろいろ金もらいにくると、どのくらいかといって指で厚さを示して、このくらいかといって渡された、という話が伝わっております。

さようにものに執着されないので、あるときもあれば、ないときもあります。とにかくないときの方が多いのでありまして、電話が通話停止になったり、米屋や牛乳屋に払う金がたまったこともあったようですが、米屋の主人が先生を崇拝して、催促しなかった。

いよいよ破産ということが耳に入りまして、先生は米屋を呼んで「多いか少ないかわからないが、とにかくとっておけ」と渡された。3ヵ年の米代の倍以上の金があったそうです。それで「多過ぎます」と返すと「まあ全部とっておけ、多ければ君の儲(もう)け、少なければわしの儲けさ」と一笑に付されたというのであります。

それだけに翁をだます者もいましたけれども、頭山翁は平気でだまされる人であります。翁に、書を揮毫してもらって、帰りに近くの骨董屋に売って、一ぱい飲んで帰ったという話もありますけれども、そういう無限に大きい翁を私どもは感ずるのであります。

幼年時代

頭山翁は、安政2年に黒田藩士で百石取りの筒井亀策の三男に生まれられた。犬養毅(いぬかいつよし)、杉浦重剛(すぎうらじゅうごう)、大石正巳先生、小村寿太郎侯爵、みんな同じ年の生まれです。幼名は乙次郎で、縁戚に養子に行かれ、頭山を名乗られた。鎮西八郎爲朝が大好きで、10歳のとき八郎と自分で改名しておられましたが、14歳のときに太宰府天満宮にお参りして満の字がいいということで、それから満と改名されました。

幼年時代は亀井南冥(かめいなんめい)の流れを汲む亀井塾に入り、後に人参畑の先生で名高い高場乱(たかばおさむ)という女の先生、この人は眼医者ですが、日常は男装でひとが女扱いをすると叱りつけていたそうです。その高場塾に入って勉強された。そこで教えるものは読書の末節に拘泥しない。古今の英雄豪傑を論評したり、志士仁人に涙を流すというような風で朱子学の穏健に反し覇気あるいわゆる亀井学をやっておりました。自然にそこから後々の玄洋社の同志が生まれるひとつの基礎があったと思います。

先生は非常に記憶力がよくて、平野国臣(ひらのくにおみ)、高山彦九郎前原一誠先生等の詩や歌や長い手紙も、よく暗記しておられました。たちどころにおっしゃって、一字一句も間違われなかった。老年になられても変らず、私どもは先生の記憶力に感じいったのでございます。

自由民権思想に共鳴

玄洋社社員とその関係者。
前列右から末永純一郎、杉山茂丸、進藤喜平太、内田良五郎、頭山満、福本日南、月成功太郎。後列右から児玉音松、月成勲、的野半助、内田良平、大原義剛、古賀壮兵衛、武井忍助。(明治38年頃)

頭明治8年、高場塾の連中が武部小四郎さんを盟主として矯志社を組織し先生も参加されました。先生は萩の前原一誠先生を尊敬しておられ、前原ならば一緒に事をあげてもいいと多少の気脈を通じておられたようであります。

前原先生は挙兵が事前に密偵にわかり捕えられましたが、福岡の連中がいろいろ画策しておりまして、頭山先生の家も家宅捜索されました。そして「大久保(利通(としみち)を斬れ」と書いた一札があったということで、箱田六輔、頭山満、進藤喜平太さんといった矯志社の連中が逮捕され、福岡の獄に入れられた。その後間もなく、西郷南洲(隆盛)の西南の役が起こったので、福岡には置いておけないと云うことで、萩の獄に移された。そして西南の役が終って放免されたのであります。

その際に玄洋社の先輩で、矯志社の武部小四郎とか強忍社の越智彦四郎という人が西郷に呼応して敗れ、多くの人々が福岡で斬首になる。これが十年の変で私どもは毎年5月にお祭りを続けております。こういうふうで、藩閥政治に対する不満は特に福岡の天地に欝勃(うつぼう)としておったのであります。

民権運動の大本山はやはり土佐の板垣退助立志社だろうと思われます。

頭山先生が福岡郊外の平尾で開墾をしておられたところへ、後年大隈さんに爆弾を投じた来島恒喜さんが、大久保利通が東京紀尾井坂で刺客にやられたという報告を持ってくるのです。先生は「それじゃ板垣が立つであろうから、自分はすぐ土佐に行く」とそのまま土佐に向かわれた。

ところが板垣さんは挙兵の考えはなく、「自由民権の旗印で言論をもって藩閥と戦う決意を語り、立憲政治の妙諦をとき、民選議員の性質を論じ、国会開設の急務を主張し、国民の力で藩閥を倒さなければいかぬ」という堂々たる理論です。先生は大いに感じ共に民権運動をやろうということで、演説会を県下各所で開き、大いに自由民権の必要を説いて回られたのであります。

頭山さんの演説は聴衆があふれる盛況であったそうですが、まずぐっとコップの水を一飲みして満場を睥睨(へいげい)して、まるで号令をかけるような調子で咆哮されると、聴衆は水を打ったように静かになったと聞いております。

演説は無駄がなく、論理的でおのずから文章になったといわれております。時には当時はやりました自由民権の数え唄を大きな声で演壇でうたわれました。私の父の喜平太も先生と一緒に“演説を食いに行った”といっておりましたが、演説会のあと元気づけに飲食があったのでありましょう。

玄洋社の結成

福岡には武部の矯志社とか、越智の強忍社、箱田の堅志社、いろんな社がありましたが、国会の請願運動は大同団結して力強いものにしなければいかぬというので、越智、武部さんのなくなったあと、明治12年にみんなが団結して作りましたのが玄洋社で、そのとき頭山先生は25歳の若さです。玄洋社には憲則三章があって、

一、皇室を敬戴すべし
一、本国を愛重すべし
一、人民の権利を固守すべし

その付則に「子孫に伝え、人類いまだこの世界に絶えざる間は、決してこれをかえることなかるべし」とありました。玄洋社は終戦まで続きましたが、私が最後の社長になり、アメリカの解散命令で解散いたしました。

玄洋社は国会開設の請願運動とともに、最初から不平等条約改正を主張したのであります。板垣さんの土佐の立志社は、目的の2つに分かれたのでは力が二分される、自由民権運動一本にということでしたけれども、福岡や岡山では、国会請願だけではいけない、改正もやらなければと最初から主張しておりました。井上馨(いのうえかおる)外務大臣の改正案が不充分だと言うことで世論の反対に会って退陣します。かわって外務大臣についたのが大隈重信さんで、何が何でも条約改正を実行する決心です。

その改正案に外国人の犯罪をさばくときは裁判所に外国人法官を入れるということがあって、完全な治外法権の撤廃は期待できない改正案で、喧々囂々(けんけんごうごう)と反対があったのであります。

その先頭に立ったのが玄洋社で、頭山翁は関西、九州の委員として、条約改正問題に奮闘されたのであります。

来島恒喜の一撃

来島恒喜さんは人参畑の高場塾の塾生で頭山先生よりも5つくらい下でしょうか。井上の条約案は、世論の攻撃で阻止できたが大隈の条約案はとうてい言論では駄目だと見てとっておりまして、心に決するところがあったようです。

大隈さんの条約改正がいよいよぎりぎりのところにきた明治22年10月18日のこと。午後4時5分過ぎでございますが、大隈さんが閣議を終えて馬車が桜田門の方から外務省の門に入るところを、門の前に待ち受けて爆弾を投げたのであります。

白煙濛濛として、あたりがわからなかった。来島さんはうまくいったというので門外に歩いてくる。余り落ち着いているので、駆け付けた警部は犯人は何方へ逃げましたかと聞く。犯人はあちらの方へ逃げましたと虎の門の方を指したとか。その来島さんの行動を反対側の土手から月成光さんが見ておった。

来島さんは皇居の方を拝み、成功したと云う合図の手をあげて、そして筑前左文字の短刀でその場で自害されたのであります。

谷干城さんの当時の日記には「世論は即ち天意なり。天意豈(あに)恐れざるべけんや」と書いてありますが、来島さんのこの一撃によって大隈条約改正案は実現できなかったのであります。

来島さんの葬儀はひっそりとされましたけれども、5千人からの会葬者で、自宅から崇福寺まで人の山を築いたということであります。頭山先生の弔辞は「天下の諤々(がくがく)は君が一撃に如(し)かず」という短いもので、まことに寸鉄人を刺す強い響きを感ずるのであります。

孫文先生との交友

孫文・頭山の神戸会談
大正13年11月25日神戸オリエンタル・ホテルにおける孫文・頭山の神戸会談。前列右から頭山満、孫文、大久保高明。後列右から藤本尚則、李烈釣、戴天仇、山田純三郎。

いっぽう、国会は明治23年に開設されました。松方内閣は国防のために軍艦を造り製鋼所を新設して軍備を整えなければいかぬ。これが日本の急務だということで、明治25年に第二議会を解散して、選挙になります。

松方正義(まつかたまさよし)さんが頭山先生に選挙に加勢してもらいたいというので、先生が、「やる以上は徹底的にやらなければならぬが、中途で腰を抜かすようなことがあってはいかぬ、それができるのか」と質(ただ)したのであります。松方さんが絶対にやるというので、それならばということで、自由党、改進党を向こうに回して、松方内閣を
鞭撻してやられました。これが今日でも選挙干渉事件としていわれておりますが、頭山先生は日本を建て直すためにという信念の下に松方内閣に協力されたのであります。

そのあと松方内閣が山県、伊藤の元老からいろいろ言われて辞表を出すというようなことで、頭山翁はそれ以後政党から手を引かれ一生関係されなかった。よほど先生もこの点考えられたのであろうと思うのであります。

頭山翁と孫文先生との交友は本当に深いものでありまして、翁は犬養先生とともに孫文先生の中国統一をたすけて、日中が手を携え、東洋民族を白人の横暴から脱出させようという念願だったのであります。

日本に亡命していた孫文先生に留学していた黄興さんを結びつけたのが末永節(すえながみさお)、内田良平宮崎滔天(みやざきとうてん)先生で、明治38年に中国革命同盟会の組織作りを進め、革命主義者の大同団結を申し合せました。飯田町の富士見楼で孫文先生大歓迎会を開いたときは、千人からの留学生で立錐の余地ない盛会でありました。

また赤坂の内田先生で中国各省の留学生から委員を選んで、その準備会をされたときには、あまりに大勢人が入って、床が落ちたという話もあるのでありまして、そういう人々が、民報という新聞を出したり、革命思想の宣伝をどんどんやって、日本において孫文革命の下地がほとんどできたのであります。

そのあと、明治44年の10月に武昌で革命軍が鋒起して第一革命の辛亥(しんがい)革命が始まり、中華民国政府ができ、翌年元号が中華民国元年になったので、そのときに頭山先生、犬養先生は上海に渡られた。動乱ときいて海を渡った連中にいかがわしい者がおり、革命党が迷惑だというので、日本人が革命に邪魔をしないように、援助になるようにということで行かれたのですが、炭鉱をやっておられた安川敬一郎さんに5万円の用立てを頼まれる。安川さんは「何も5万円に限ることはなかろう」といわれたということでありますが、頭山先生の活動の陰に、こうした同憂の士がおられたのであります。

更に頭山先生は南京まで行って、孫文先生に「この革命の主人公はあなただから、袁世凱に妥協して北に行く必要はない。袁世凱を呼んで、話を決めて、おもむろに北に行っていいじゃないか」と話されたのでありますが、孫文先生はそれをきかれないで、北に行って袁世凱と妥協して、そのときは革命ができそこなったようなことになっております。

亡命志士の世話係

「血ハ水ヨリモ重ク
唇齒相依ル」の意

インド独立運動のビハリ・ボースさんは、大正4年第一次世界大戦後日本に亡命して来ましたが、日本政府はイギリス政府の要請で退去命令を出す。期限の日までにはアメリカに行く船はない。ボースさんはグブダという人と2人ですが、上海か香港に降りれば英国官憲に捕らえられて、どういう重罪にかけられるかわからない。

悄然として各方面に暇乞いに回るとき、最後に霊南坂の寺尾亨(てらおとおる)さんのところから、隣の頭山先生のところにまわられた。ずっと路地なので、警視庁の付き添い自動車は表に止まっておる。2人が頭山邸に入ったままで出てこないから、どうしたのだろうとたずねると、「早く帰ったよ」ということでびっくりするのであります。

2人を当時の若手の宮川一貫(後の衆議院議員)とか白石好夫という柔道の強い人たちが護衛して、杉山茂丸さん差し回しの自動車で、頭山邸の裏から新宿中村屋の相馬家に連れて行ってかくまったのであります。後にはだんだんに緩和されてボースさんは日本に帰化して、中村屋の娘さんと結婚されます。第二次世界大戦ではインド独立連盟の総裁となって国民軍を率いて陣頭に立って活躍されたのであります。

当時のフィリピンはアメリカ領で、アギナルド将軍や、リカルテ将軍の反米独立闘争に最初に参加した日本人は平戸の菅沼貞風(すがぬまていふう)、玄洋社の福本日南等です。頭山、犬養翁の命によって独立運動の武器を送るためにずいぶんみんな苦労した。リカルテ将軍は80歳になるまで、独立を叫びながらアメリカと戦い通したのであります。

アジア民族の亡命者を頭山先生は本当に心から愛せられたのですが、その因縁は現在も各方面に残っております。昭和43年、私は香港に行きましたが、孫文先生がお世話になったということで孫文会の人たちに、非常に歓待していただきました。

香港から一里の青山という所に孫文先生が黄興さんとともに、最初の旗上げをした、紅楼と云う当時の家がありますが、そこに孫文会館を造るんだといっておりました。頭山孫文両先生の交情のつながりが今も残っておるのを感ずるのであります。

翁の大アジア主義は理論から出発したものでなく、自然の感情であると私は思うのでありまして、本当に頭山翁は欧米の勢力に虐げられていた当時の中国民衆の痛ましい有様を見るときアジア救済の義憤にもえ、何としてもアジアがしっかり団結して強いものにならなければならぬ。これが翁の衷心からの念願であったと思います。

来島さんの爆弾事件であるとか、あるいは対露同志会の運動など常に当事者をヒヤヒヤさせた頭山先生を、中国に対して膺懲論(ようちょうろん)とか強硬論の主唱者のように想像されるのではないかと思いますが、事実は正反対。中国民衆に同情を有し、翁ほど日中親善、提携論で一貫した人は少ないのであります。

孫文先生が大正13年に北上する際、神戸にこられたときに、先生は孫文先生の希望で神戸まで行って話されますが、そのとき孫文先生が大アジア主義の講演をしておられる。日露戦争が全アジアの解放を大きくはげましたことを論じたあとで、アジアの欧米に対する戦いは王道文明と覇道文明の戦であるとして王道と覇道の文化について論じ、ヨーロッパの文明ではだめだ。この王道文明によって、中国、日本、インド等アジア諸民族が1つの団結の力で欧米列強に拮抗すべきだと力説されたのであります。これは丁度頭山翁の考えと一致しているのであります。

この神戸での会見が翁と孫文先生との最後で、先生はそれから帰国されてまもなく亡くなられたのであります。
世間で翁が右翼の巨頭であるとか、源流であるとか、いっておりますけれども、本当に私心がなく、私欲なく、心とともに態度も正しく、国家国民のために一命を抛つ気概のある愛国者であった。頭山先生こそ本当の勤王愛国者であったということを、いつになっても思うのであります。

  • 東京尾崎記念会館での講演から昭和55年10月5日 玄洋社記念館発行を要約。
  • 写真は葦書房刊・「頭山満翁正伝」「頭山満翁写真伝」より掲載。

「頭山満翁」を北川晃二氏にうかがい、次回を約しておりましたところ、病気のため逝去されました。聞き残しもございますが香気を伝えたく、前半のお話のまゝに編集しました。
そのため、翁の全貌を、故・前福岡市長・進藤一馬氏の講演より、玄洋社記念館の了承を受け、要約して載せさせていただきました。

社団法人「玄洋社記念館」

頭山満、箱田六輔、平岡浩太郎、進藤喜平太等玄洋社の活動にかかわった人たちの筆跡、記録、また維新関係の志士、孫文の遺墨まで、近代日本の歩みを実証する資料が展示されています。

場所 福岡市中央区舞鶴2丁目4の24 玄洋社ビル2F(旧玄洋社跡)
福岡市健康づくりセンター(略称あいれふ)前
TEL 092-771-3203
開館時間 平日 午前10時~午後4時(閉館5時)<土・日・祝祭日、年末年始は休み>
  • ※念のためお電話で開館をお確かめの上、ご来館ください