No.62 フォークの旗手と「照和」物語

対談:平成8年1月

司会・構成:土居 善胤


お話:
九州朝日放送KBC ラジオ本部専門局長 岸川 均氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 副頭取 井上 雄介

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


ドームオープンにビッグ4登場

司会

平成5年4月10日の福岡ドームのオープンのときの井上陽水さん、財津和夫さん、武田鉄矢さん、甲斐よしひろさん。ビッグ4の華麗な顔合わせはすごかったですね。

岸川

はい、ドームオープンの柿落とし(こけらおとし)を福岡出身の4人でと。なにぶんビッグ4ですから、準備に1年以上かかりました。
ことの始まりは酒場でRKB毎日放送の野見山さんがそろそろ会社を卒業だという話が出て、それだったら何かしなくてはということになり、それをビッグ4に親しい音楽業界の人たちが、地元出身の同窓会コンサートにふくらませて、陽水さん、財津さん、武田さん、甲斐さんといっしょにやろうとなってこのビッグコンサートが実現したのです。
解散していたチューリップ海援隊の連中も参加し、大分出身の南こうせつさんや、福岡出身の若手でいま評判のチャゲ&飛鳥や、久留米出身のチェッカーズの藤井フミヤさんも応援にかけつけました。福岡出身のタモリさん、筑紫哲也さん、女優の牧瀬里穂さんも友情出演していただいて。

司会

自分たち4人を育ててくれたRKB毎日放送の野見山実さん、九州朝日放送(KBC)の岸川均さん、テレビ西日本(TNC)の藤井伊九蔵さんと、3人のディレクターへの感謝ということにひろがったライブで...。
4人が、合作した福岡讃歌「SOUTH WINDOW」を歌ったときは、3万6千人の観客が興奮と感動につつまれましたね。

岸川

でもベースは自分たち4人を育てていただいた博多の人たちに感謝するライブでしたから、皆さんに喜んでいただいて、成功でしたね。

西島

ビッグ4の人たちの順序は。

岸川

いちばん兄さんは財津さんなんですが、デビュー順でいくと陽水さんが一番で財津さんが二番。三男坊が鉄矢さんで、四男坊が甲斐さんということになります。

井上陽水さんと「カンドレ・マンドレ」

福岡ドームのオープンライブで。
左から財津、武田、甲斐、千葉、陽水の皆さん。

岸川

4人が福岡から同じ頃に出現したというのが夢みたいですね。彼等が出なければ、あとに続くミュージシャンの福岡王国はなかったでしょう。

井上

彼等がジャンプするために、民放3局が大きな援助を。そしてミュージシャン誕生のメッカ、喫茶ライブの照和があって...。
ミューズの神の配意のように、すべての条件がそろっていたんですね。

井上陽水氏

昭和23年(1948)福岡県田川郡糸田町に生まれる。
「カンドレ・マンドレ」でデビュー。代表作に「夢の中へ」「心もよう」
「傘がない」ほか。

僕は 井上陽水 という名前の歌手です。
自分で詞を書いたり曲を作ったりしているのでSinger Song Writerなどと呼ばれることがありますが、まぁ、歌手です。自分では何者にもなりたくないという想いで暮らしつづけていたら、その結果が、気がついてみると歌手になっていたというわけです。
井上陽水著『媚売る作家』の「警告」(角川書店刊)より抜粋

西島

陽水さんの出身は。

岸川

筑豊の田川出身です。高校生のときから、ギターに合わせて作曲したりしていました。
昭和44年の春の夜だったそうです。予備校の九州英数学館にいた髪ボサボサの浪人のとき、作詩、作曲、歌唱、全部自分でしたデモテープを持って、RKB毎日の野見山さんを訪ねたんです。

井上

自作の売りこみですね。うまくいったのですか。

岸川

野見山さんは、ラジオの深夜番組「スマッシュ・イレブン」のディレクターで番組がはじまったばかりのときでした。
この番組は毎週土曜日に、アマチュアが作った曲をかけるコーナーを設けていたのです。
聞いてみるとメロディが新鮮、そして詩がいい、ボーカルがいい。
野見山さんが、すっかり感動して、スタジオで曲をとりなおした。「これはいい。俺に任せろ」と、CBSソニーの知人に紹介したのです。それがレコードになった。だから陽水さんが福岡勢登場の第1号なんですね。
CBSソニーもヒットしたカルメンマキの「時には母のない子のように」の第2弾をさがしていたときだったのです。

井上

その曲は。

岸川

陽水さんが1年間の自分の作品から選んだベスト曲で「カンドレ・マンドレ」でした。

西島

どういう意味で。

岸川

どうも、別段の意味はなかったのでは。なんとなくヒラメキでしょうね(笑)。
そして、二人で相談して芸名をアンドレ・カンドレとしたそうです。

西島

アンドレ・カンドレの「カンドレ・マンドレ」。なにかしら、どうでもいいようなネーミングですね(笑)。

岸川

どうもレコードは売れなかったらしい(笑)。
それが2年後には本名の井上陽水にかえって「氷の世界」の大ヒット。冷たい氷の中に、ほのぼのとした愛がある...。
彼の詩は冷たい書き方なんだけど、歌になるとほのぼのとした味があって実にいいんです。

異質の才能の持ち主では。陽水との出会い

野見山 実 氏

陽水が訪ねて来た時のことはよく覚えています。44年の春の夜でした。二人づれの若者で、一人がデモテープを聞いてくださいという。
とりあえずあずかって、聞いてみました。音楽番組を担当していてアマチュア音楽をたくさん聞いていましたが新鮮な異質の才能を感じましたね。
心が躍りながら連絡して、局のスタジオでとりなおし、スマッシュ・イレブンで放送しました。そしてCBSソニーレコードの知人に紹介しました。
私は、衣食足りて次は音楽だと思っています。音楽は生活の必需品です。
ただ作り手の感性が聴衆に受け入れられるかどうか。地球と同じように世の中も自転しているんだと思います。自転の中にお互いのふれあいがある。陽水の感性と私とのふれあい。あの出会いは、振り返るとまことに不思議な思いです。
彼らの登場に照和が果たした役割は大きかったですね。あの頃は照和にでたいために福岡へきた若者が多かった。天神のどまん中のビルを提供されたオーナーは、気持ちのきれいなまっすぐな方だったのですね。
今も照和は第三世代の若者たちの発表の場としてよろこばれています。店の「照和ノート」には財津や鉄矢や甲斐がここから出たのかと懐かしむファンの声がよせられています。貴重な勲章ですね。(談)

野見山 実 氏 略歴

昭和7年、福岡県嘉穂郡稲築町で出生。
33年早稲田大卒、RKB毎日入社。TV・ラジオの音楽番組を担当、43年より「スマッシュ・イレブン」をもとに一貫してアーティストを支援。現在、RKBセレナ代表取締役専務。

チューリップの「心の旅」

井上

財津和夫さんとはながいおつきあいで...。

岸川

私が財津さんに会ったのはまだ西南大の学生のときでしたね。
どうも敬称つきでは、まだるっこいし、遠い人のよう(笑)。
みんなカンベンしてもらって、私たちがいつもつきあっている親しみの敬称ぬきでいきましょう。
彼は昭和41年に西南大学へ入って、ビートルズから始まって、キング・ストン・トリオや、ブラザース・フォーなどの楽譜を買ってきてギターでコピーしていたのです。
昭和41年はマイク真木の「バラが咲いた」が大ヒットした年ですね。

財津和夫氏

昭和23年(1948)福岡市で生まれる。昭和47年「チューリップ」を結成。
代表作「心の旅」「虹とスニーカーの頃」「WAKE UP」ほか。

「夢を、電波で発表できた。青春は、ラッキーだった」私たちの曲をステレオにと、モノラルスタジオを二つ使って、岸川さんが狂ったように両方を往き来した。あの昂揚が忘れられない。

井上

なつかしいなあ。

岸川

HBFというフォーク・グループでしたが、すぐに解散して吉田彰田中孝治末広信幸等と、フォー・シンガーズをつくります。
私がKBCラジオで担当していた「歌え、若者」やRKB毎日の野見山さんの「スマッシュ・イレブン」、TNCの藤井さんの「レッツ・ゴー・フォーク」などに出場して、「フォー・シンガーズは上手い」と評判がたちます。昭和44年頃の財津はニューミュージック連中の憧れの的でしたね。
旋律の清々しさ、実に素晴らしかった。高貴なフォーク・シンガーと言われた事もあります。

井上

まだチューリップではなくて。

岸川

ええ。昭和44年11月に東京の「ライトミュージック全国大会」に出場。1位は関西の「赤い鳥」。2位は「オフコース」でした。はるかな差をみせつけられた財津はその年の暮れにフォー・シンガーズを解散して、宗田慎二、吉田彰、末広信幸たちと「チューリップ」を結成するのです。
宗田さんの親戚が東芝EMIレコード勤務だった縁で「私の小さな人生」がチューリップの最初のレコードです。

西島

ヒットしましたか。

岸川

いい曲ですが、ヒットしない。レコードが出て早々に宗田、末広が離脱する。なにしろ彼等はまだ学生です。
それで財津はベースに吉田、リードギターに安部俊之、サイドギターに姫野達也、ドラムに上田雅利といった編成で再出発し、閉店後の照和のステージをかりて猛練習するのです。

井上

そうしてデビュー曲は。

岸川

「魔法の黄色い靴」で実に素晴らしい。福岡にこんないい曲を書く人間がいたのかと話題になりました。
東京でもヒットするなと思った。それが当たらなかった。47年2月に上京したが次の「一人の部屋」も駄目。

井上

試練が続きますね。

岸川

上京して1年たってもヒットが出ない。財津は負け犬には絶対ならないと、ふるさと博多に残していたさまざまなものへの思いをこめて、ポップ調の親しみやすい曲をつくったのです。
これが昭和48年4月にレコーディングした「心の旅」で、博多のチューリップを日本のチューリップにした運命の曲でした。「ああ、だから今夜だけは...」、姫野が唄って5ヵ月でヒットチャート1位の大ヒットになったのです。

西島

ああ、よかった(笑)。それからチューリップ全盛時代に。

岸川

ええ。これが海援隊のいい刺激になって。同じ福岡勢、負けるものかと。

西島

福岡シティ銀行の行歌も財津さんでしょう。

井上

はい。普通銀行に転換のとき、つくってもらいました。財津さんの声で、CITY、CITY、CITYとCITYが30ぐらいある(笑)。
CITYが多すぎるという役員の声もありましたが、唄いやすくって、いつまでも新鮮でいい歌ですよ(笑)。

海援隊の「母に捧げるバラード」

井上

武田鉄矢さんは賑やかで、静かな財津さんと好対照ですね。

岸川

彼は歌ができる。テレビドラマができる。映画もつくる。

武田鉄矢氏

昭和24年(1948)福岡市で生まれる。昭和44年「海援隊」を結成。
代表作「母に捧げるバラード」「贈る言葉」ほか、俳優としても活躍。

「誰でも青春のたまり場をもっている」私のたまり場はフォーク喫茶「照和」だった。そこで私は、いったい幾つの夢を描いただろう。そこにあったものは、歌と夢と友だちだった。

西島

「3年B組・金八先生」でもある。主題歌の「贈る言葉」もいい。

岸川

福岡教育大時代に、教育実習で教壇に立ったときは、生徒たちに大人気だったそうで。

井上

人間が面白い。「金八先生」は武田さんの地なんですね(笑)。

司会

山田洋次監督で、高倉健桃井かおり倍賞千恵子等と共演の「幸福の黄色いハンカチ」も。

西島

あれはよかった。なんか賞を。

岸川

最優秀助演男優賞でしたね。

西島

この人の織部金次郎のゴルフシリーズもいい。名ショット、珍ショット、涙のおかしみで...。

井上

映画の「刑事物語」もあるし。だけど、海援隊という名のスタートはよかった。

岸川

昭和44年に武田が福岡教育大学に入ったとき、高校時代の同級生たちにさそわれて始めた最初のフォーク・グループの名はヤング・ラディーズだったのです。
それが須崎公園で練習していたアマチュアサークルのヴィレッジ・ボイスに入会したとき、会長の山本良樹さんにグループ名はと聞かれて、とっさに「海援隊」と言ったらしい。
武田が司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」を読んで、坂本竜馬に感動していたのでつけたのですね。

西島

それにしてもヒラメキがいい。

岸川

ところがだんだん寒くなってきて、寒風の須崎公園ではメンバーの出席も悪くなる。それで45年の冬から自然と照和に登場するようになって。照和のスターになった(笑)。
その前年の秋に、TNCの藤井さんが明治生命ホールでやっていた「レッツ・ゴー・フォーク」に出ています。海援隊は次第に「チューリップ」に対抗できる存在として認められだしたのですね。
武田はのちにヴィレッジ・ボイスの三代会長におされています。
そして昭和45年に、生ギター中心で、千葉和臣、中牟田俊男たちと、三人組の海援隊が再編成されたのです。

西島

その頃チューリップは。

岸川

プロダクションのシンコー・ミュージックがついて上京しています。「チューリップ」は東京へ行ってプロになりますが、決して博多を忘れません」と名セリフを残して。

西島

それじゃ、海援隊も燃えなければ...(笑)。

岸川

武田は照和のステージで、「ぼくら海援隊は博多を離れません」と宣言している(笑)。それがしばらくして、47年7月に香椎球場で行われたフォーク大集合福岡夏祭のとき、泉谷しげるさんに声をかけられるんです。
泉谷さんは、吉田拓郎さんにつぐフォークの担い手として人気上昇中で、「東京へ出てこい。俺が責任を持つ」と。そして満員の大観衆に、「海援隊は俺が東京へつれていく。レコード会社は俺と同じエレックだ」と宣言した。

西島

そりゃ、大変だ(笑)。

岸川

そしてその秋の10月に上京しますが、照和での旅立ちコンサートでの挨拶がいい。「海援隊は九州文化をつくるために上京するのです」と宣言。

西島

それでレコード第一作は。

岸川

「海援隊がゆく」ですが、これが予想に反して...。1年半ぐらい鳴かず飛ばずで、プロデューサーからお灸をすえられる。チューリップの「心の旅」がヒットの情報も伝わってくる。
ギリギリに追い込まれた武田が考えたのがセリフ入りの「母に捧げるバラード」でした。

井上

お母さんのイクさんが泣かせる。

岸川

はじめは6分ぐらいの曲でしたが、長すぎるので短くした。それが48年暮れに出て大ヒットです。武田はテレビでお袋さんへの詫び証文だったと言っています。

西島

おの歌詞通りの学生時代だったんでしょうね。音楽もいいが、おしゃべりもいい(笑)。
財津さんも武田さんもたいへんな才能の人だが、試練を乗りこえて、自分が光る。いや、参りました(笑)。

井上

先生の若き日も、そうでしょうが(笑)。それにしても「母に捧げるバラード」で、博多弁が全国通用語に...。約束通り博多文化をひろげましたね。

彼らは純度が高かった。それにひかれた

藤井 伊九蔵 氏

武田鉄矢と私は9歳の開きです。20歳そこそこの彼らには私たちはいいおじさんで、何かと頼られ相談も受けました。気分のいい男で一緒に飲んだり仕事をするのが楽しかったですね。
私もカレッジフォークの学生バンドにかかわっていたので、彼らとワイワイガヤガヤと音楽談議をかわしながらやって来ました。
当時の9歳の開きは大きいから名前は呼び捨て、それが一番自然な親しみで、今でも続いています。日本のスターになって、振り返るといい出会いでディレクター冥利でしたね。
連中を一言で言えば、音楽へのひたむきさ、そう、私はその純度にひかれたのですね。
フォークのイベントを提案したら反戦フォークかといわれた。そういう時代でしたね。八幡製鉄所に勤めながら「ザ・フォート」というバンドをやっていた田中準二さんとの出会いが私の音楽イベントのスタートでした。
ともかく1回やらせてくださいと上司を説得して始めましたが、アマチュアの演奏で井筒屋デパートの文化ホールでも福岡の玉屋デパートでも倍の人たちが押しかけてびっくりしました。
九州の、特に博多の人は出たがり屋の陽気な気分。その陽気な純度と私たちとのハーモニーが、うまく続いたということでしょうね。(談)

藤井 伊九蔵 氏 略歴

昭和15年、埼玉県で出生。38年立教大卒、TNC入社。
42年より事業部に配属となり、音楽イベントを通じ、若いアーティストのバックアップをはかった。現在、事業局局次長。

甲斐バンドと「バス通り」

井上

四男坊の甲斐よしひろさんは。

岸川

ボーカルの第一人者ですね。透明とハスキーなさびた声の中間で、独特の音声です。高校生の頃から会ってましたが、必ず東京へいってヒットを出すと、夢いっぱいでしたよ。

司会

セクシーボーカル。スタイリストで。

甲斐よしひろ氏

昭和28年(1953)福岡市に生まれる。昭和49年に甲斐バンド結成。
代表作「バス通り」「HERO」「安奈」ほか。

「ちがう、わたしは抵抗し、すばやくツバを吐く/コトバという武器で/素朴な歳月を/ころがりつづけてきた曲につつみ...」といったディランの言葉に支えられ、自分の声、スタイル、生き方を築いていった。
その最初のきっかけが「照和」だった。

岸川

彼がですか(笑)。

西島

福岡出身ですね。

岸川

ええ。バスケット志望だったが足の関節をいためて音楽に方向を変えたんです。高校時代にはノーマン・ホイット・フィールドというフォークのグループを持っていました。そしてKBCの「ショコラ・ヤング・ヤングナイト」に出場し、いい気分になって照和をのぞいた。そして、ひとつ唄わせてくれませんかと。そこで1日に2回他流試合に出た。

映画「ラストソング」のポスター

博多のヤングミュージシャンの青春像と、デビュー物語りを松田成道監督が映画化。本木雅弘、安田成美等が出演。登場人物は誰がモデルかと話題になった。

井上

まだ高校生ですね。若さは気持ちがいいですね。

岸川

ええ、それから進学のためグループを解散しますが、家庭の事情で、観光会社に就職します。音楽しか頭にないから4ヶ月で辞めて、照和でウェイターをしながら、ステージに立っていた。
昭和47年のことで、初めの出番は月曜日でした。

西島

月曜日か、入りがわるそう(笑)。

岸川

ランクがあって、財津、武田クラスは土曜か日曜、どんべが月曜で新参向き。まあ、つなぎでしたね。

西島

いちど実社会に出ているだけに根性がありますね。で、飛翔のときは。

岸川

照和で熱心に甲斐の歌をきいていた小宮真一さんにすすめられて、電気ホールでコンサートをするんです。

西島

当時、福岡では電気ホールが最高のコンサートホールでしたね。

岸川

全曲オリジナルでやって、900人の聴衆を集めました。
次も小宮企画で、「21人の晩餐会」に参加して九州各地をまわり、どこも会場があふれる盛況でした。

井上

着々と進撃ですね。

岸川

みんなに愛される男ですよ。ライバルの妙安寺ファミリー・バンド門田一郎さんが詩集を出してくれる。
「思春期、それはいつも拒否と苦悩をかねそなえ、美しいあの木もれ日の中からさえ悲しみをひきずりだす灰色の時期」と。

井上

なかなかの詩人ですね。

岸川

仲間たちが手伝ってくれたデモテープを持って上京するのですが、どこもまともに相手にしてくれない。
よしっ、認めさせてやるぞ。そこで"全日本アマチュア・フォークコンテスト"(第3回)に応募して、見事に金賞を射止めるんです。
そして、チューリップと同じ、シンコー・ミュージックがプロダクションになる。リードギター大森信和、ベースギター長岡和弘、ドラム松藤英男のメンバーで甲斐バンドを結成して上京するのです。そして昭和49年末に東芝EMIレコードから「バス通り」でデビューし、「HERO」でわっと大人気になるのです。

西島

それにしても、ビッグ4も、1枚のレコードに至るまでは、涙、涙のドラマですね。音楽のことはよく分からないが、いや参りました(笑)。

井上

それぞれに個性があって、多才。で、ビッグ4を総括しますと。

岸川

陽水と財津は透き通った声の魅力。武田は身近なメッセージを博多弁でひとの心に。甲斐はチャーミングな声ですね。
共通なことは詩もつくる。曲もつくる。そして歌がうまい。
ぼくは、西南のグリークラブにいたからでしょう。ボーカルを重視してしまう。詩や曲がよくてもボーカルが弱かったら駄目です。彼等はボーカリストとしても一流ですからね。
この頃の人は、怒鳴りあげているだけの連中が多いでしょう。だから、すぐに消えてしまう。

「歌え若者」と「スマッシュ・イレブン」

井上

ビッグ4、それぞれにライバル同士で、いい刺激があって。

岸川

それは大きいでしょうね。武田なんか、財津を目標にして越したい、越せると励んだんじゃないかな(笑)。

井上

ビッグ4の飛翔を貴方がたが大きくサポートされた。照和というなによりの場もあったし。

岸川

いや、彼等が自分で躍り出たのですよ。陽水は特にですね。

井上

でも、あの人たちには失意の時代もあったでしょうが。あの人たちはそれをのりこえるタフさを持っていたが、それをフォローする三人衆の風があった。やはり幸運でしたね。で、いよいよサポート三人衆のお話を。KBCで、貴方が担当された「歌え若者」や野見山さんの「スマッシュ・イレブン」が若いミュージシャンのはげみだったのですね。

岸川

アマチュアの音楽グループの番組をどうしてもつくりたかった。ラジオ制作にまわされたので、アマチュア登場の企画書を書いては出し、書いては出して。ずっとボツばかりでしたが、5年目にやっと「面白いか」となってスタートできた。最初は30分番組の「みんなで一緒に」でしたが、これを踏み台にして昭和44年に「歌え若者」が1時間番組で登場したのです。「歌え若者」は上手下手なく受付順でどしどし登場させました。自分たちの歌の演奏が電波に流れるので、若い連中にたいへん受けました。

彼フォークの集い「レッツ・ゴー・フォーク」

西島

TNCは。

岸川

TNCはテレビ局ですから、ほとんど全国ネットで、ちょっと小回りができなかったでしょうね。
しかし藤井さんは、それで我慢しない。彼はそれをイベントでやりました。入社4年目に事業部担当になってから、北九州フォーク・ソサイエティの協力を得て、昭和42年の秋に小倉井筒屋の文化ホールで、「TNC・フォークソング・フェスティバル」を開いたのです。
田中準二さん等の「ザ・フォート」などアマチュア4バンドの演奏で300名の席に倍の若者がおしかけて、ほっとしたそうです(笑)。
これが毎月1回の「サンデー・フォーク」に発展しました。

西島

当時、TNCの本社は北九州の八幡だったですものね。そして福岡へ。

岸川

福岡の第1回は玉屋デパート屋上の「フォーク・ソング・フェスティバル」で、2回目から中洲の明治生命ホールに移り、「レッツ・ゴー・フォーク」とタイトルが変わって定着するのです。財津や武田、甲斐も出演しています。

西島

九電記念体育館かなんかでも。

岸川

ええ、シューベルツビリー・バンバンベッツィ&クリス五つの赤い風船新谷のり子等を招き、地元からは陽水や海援隊を入れて、5,000人の会場を満員にするフォークソング・フェスティバルまでやっています。

井上

ニューフォークの連中には、3局がなによりの腕だめし、トライの場だったのですね。「歌え若者」には、ちゃんとスポンサーがついて...。

岸川

それがさっぱりで。当時、長髪の若い連中がジャンジャンうるさくギターを弾いて唄う番組を提供する酔狂なスポンサーはいなかった(笑)。
野見山さんの「スマッシュ・イレブン」も同じだったのでは。藤井さんはイベントにスポンサーをちゃんとつけていた。たいしたものです(笑)。

井上

ずっと自前で、それでは局の偉い人がなかなか決裁しないはずですね(笑)。しかし、それを諦めて。いや、なにかたぎっている熱気を感じますね。

岸川

だから、どうしても番組の廃止論がでる。4月と10月の番組編成時期はいつも孤軍奮闘でした。

西島

その「歌え若者」に財津さんの新生チューリップも。

岸川

天神のショッパーズダイエーがオープンするときでしたね。6階のイベント会場で人集めに「歌え若者」を持っていき、再編成したばかりのチューリップを出演させたのです。
会場に人があふれる盛況でした。そこで彼等が唄ったのが「魔法の黄色い靴」で、それが受けてもう大熱狂でした。
それで、社のエライ人たちもこれはいいんじゃないかと言いだした(笑)。「歌え若者」は、せまいスタジオで公開録音でしたが、熱気ムンムンで、いつも3、4グループが出演していました。
自分の演奏が電波にのるなんて、誰も思わなかったから若者に受けたんですね

西島

ビッグ4に続く連中は。

岸川

感性のあるいい旋律の曲を作るんです。ただ詩に深味がない。上っつらでね。それで、いい詩を書け、できろうがと、そればかり言っていた(笑)。

井上

後見役3人衆の重味が感じられますね。野見山、岸川、藤井さんが頑張られて、福岡の若いミュージシャンには何よりの福音でしたね。

岸川

といっていただくと、困ってしまう。私たちはたまたま連中の役に立つ場にいたんですね。彼等の熱気を受けて、福岡にフォークが根づけばいいと思っただけで...。
この連中を東京で大成させようなんて、夢のまた夢で。ただ、一緒によく食事をし、音楽談議を夢中でしていました。どうしたら、いい曲になるか、それだけでしたね。

井上

で、いまはどうなのですか。

岸川

すっかり時代が変わりましてね。いまは、ワイド・ワイドで、3時間・4時間構成でしょう。当然スタジオの生放送で、時間をかけて録音し編集してということがなくなりました。

西島

「歌え若者」のような番組をという声は...。

岸川

多いのですよ。それに民放局のあり方というか。それで、よく若い連中に、新人登場の登竜門をつくれよと、口すっぱく言うのですがね。

西島

そういえば、テレビの歌番組もへったし、復活してほしいですね。

「照和」物語り

地図

井上

さて、そこでもう一つの飛躍台が今日のテーマの照和ですね。

西島

「照和」とは。

岸川

昭和の世の中を明るく照らすようにというオーナーの願いだったそうです。照和のことは、音楽評論家の富澤一誠さんが昭和52年に出された『照和伝説』という本に詳しいんです。その本や新聞記事などを参考に、私の見聞をふまえてお話ししましょう。
まず照和はニューミュージック好きの若い連中が、生演奏で腕を競えるライブ喫茶でした。喫茶店ですからアルコールは出ません。入場料はジュースやコーラつきで250円だったそうです。それで好みのバンドの演奏が楽しめるので、若い人たちの人気を集めたのです。
ちなみに、連中の出演料は、バン食といっていたバンド用の軽食つきで30分の1ステージがソロ700円バンド1,000円だったそうです。

今の照和のライブ

井上

登場の時期は。

岸川

ラジオの「歌え若者」や「スマッシュ・イレブン」、イベントの「レッツ・ゴー・フォーク」が、昭和42年から44年にかけてでしたね。
須崎公園でヴィレッジ・ボイスが練習やライブを始めたのが43年。照和がスターとしたのが45年の11月21日で、53年の11月30日まで、8年間。第一次照和は福岡のフォークの殿堂だったのです。

西島

西鉄福岡駅のすぐそばでいまの、天神の西鉄ソラリアの前のところですね。その頃はスポーツセンター前で。

岸川

ええ、いまも若いアマチュアバンドのライブ喫茶店として営業されています。
社長の福田純子(すみこ)さんが天神に8階建ての福田ビルを建てられた。そのビルの地下1Fが照和なんです。
支配人の藤松武さんが、地下1Fを若い人が集まる喫茶店にと提案した。街角で反戦フォークを唄っている若い連中を見て、その頃はやりの歌声喫茶をイメージされたらしい。
福田さんは須崎公園で若い人たちが演奏しているのを見ておられたので、「若い人が喜ぶのですか。それならいいですよ。」と言われる。それで、音楽好きの学生さんに出演グループ探しをたのんだらしい。
その頃は、ビートルズが来日したばかり、そして「バラが咲いた」の和製フォークが大ヒットで、こうした空気をベースにアマチュアのフォーク熱はすさまじいものでした。「歌え若者」や「スマッシュ・イレブン」に出た連中は電波にはのるが、生演奏がしたくてうずうずしている。
その流れに、まったくぴったりの照和オープンだったのですね。

西島

オープンの実状は。

岸川

最初はエジンバラ、フォーク・メイツ、ハーズメン、ライラックなどというアマチュアグループで、開店の午後5時には客席が全部うまって藤松支配人がほっとしたそうです。

西島

ビッグ4も次々と。

岸川

陽水は早く東京に出たのであまり出ていませんが、チューリップ、海援隊、甲斐よしひろ等がステージにたち、ついで長渕剛西田恭平と次々にスターが登場して、照和が日本中に知られるようになったのですね。

西島

一喫茶店が...。すごいですね。

岸川

照和に出ているかどうかで、フォークグループの信用が違っていたそうです。大学の文化祭でも出てない連中はノーだったそうです。

井上

一つの喫茶店が、福岡の音楽の英才たちをはばたかせ、日本中に福岡の名を高めた。これは市民賞に、そんな賞あるのかな、値しますね。

西島

お客さんは250円で、2~3時間いるんでしょう。喫茶店経営としては採算があわなかったしょうね。だからオーナーも偉い(笑)。

岸川

照和は53年の秋に閉店、第二次照和が3年後にミュージックパブで再開しましたが、60年頃閉店、平成3年春に第三次照和がオープンしました。いまはステージも当初とは逆になって様変わりしていますが、アマチュアのミュージシャンが元気に演奏していますね。
いま、また、照和への回顧ブームは強いでしょう。照和伝説という酒場まである。それだけ博多っ子の心の中にしみついているのですね。

井上

出演した人たちも、民放も、貴方がた三人衆も、照和のオーナーや支配人さんも、みんなして、博多の夢を育てていただいた。照和回顧は、ひとつのよき時代の博多への郷愁ですね。

東京は遠かった

井上

フォークの人たちは、演奏がラジオの電波にのる。照和でも大人気となると、いよいよ次は東京ですね。

岸川

70年代(昭和45年~54年)はもう、誰も彼もが、熱にうかされたように、東京東京でした。
いい曲がある。ぜひ世に出してやりたいと思う。でも私は、上京の相談を受けるといつも反対していました。
東京で成功するのは何百人にひとりでしょう。地方の民放局の一ディレクターが、お前東京へ行け、成功するなんてとても言えない。そりゃ悩みましたよ。

井上

ビッグ4の出現で東京熱がますますフィーバーしたのですね。

岸川

あの頃は若い連中が次から次にデモテープを持って訪ねてくる。たいへんでした。私はのぼせ頭に水をかけることばかりしていましたね。
そして、東京は遠かったのですよ。

西島

本当に、東京は遠かったなあ。まだプロペラ機の時代で料金は高いし本数は少なかった。たいがい寝台列車で、16時間かけて上京していましたものね。それに博多は田舎と思っていたし。

岸川

距離的にも、メンタルでも、遠かった。そして、レコードに売りこむのにどうしたらいいのか。プロダクションの事やらなんやら、そのノウハウを私たちも知らなかった(笑)。

井上

それでも彼等は出かけていった(笑)。若さですね。

岸川

そうですよ。財津のチューリップも上京しましたが、ビートルズの影響を受けて生ギターだけでは駄目だとわかったのですね。5人のバンドに再編成して昭和47年2月に再上京しました。連中は合宿生活で、私によく電話をかけてきて、一人で住みたい、プライバシーがないと。それで私は、いい曲をつくれ。ヒットを出せ。それしかない。ガンバレと。それしか言いようがありません(笑)。

西島

武田鉄矢さんは。

岸川

あの連中は元気がいいから(笑)。海援隊の3人が昭和47年の10月にとにかく上京をと、夜行列車で出かけていった。ところがヒットがでない。1年後に「母に捧げるバラード」がヒットしたときは、ほっとしましたよ。

井上

それでいくら岸川さんが慎重でも、東京から見ると、その渦の背後に三人衆が見えかくれする。貴方がたへの東京のアプローチもたいへんだったでしょう。

岸川

とにかく一時は、電話はひっきりなし。レコードのディレクターは飛んでくる。福岡が日本のニューフォークのリバプールだと言われだし、たいへんなフィーバーでした。

井上

イングランドのリバプールはビートルズの生まれ故郷ですね。

岸川

歌ということで広くとらえると久留米から松田聖子、飯塚の永井龍雲、やはり福岡のチャゲ&飛鳥と続きましたね。福岡育ちの徳永英明中村あゆみも出てくる。
そして久留米のチェッカーズもと。

西島

東京からみれば飯塚も久留米も福岡もみな同じで...。

岸川

ひどいときは昭和53年でしたね。福岡のアーティストが13組も東京でデビューした事がありました。
私は青田苅りもいい加減にしろと文句を言ったものです。
そしてチェッカーズが出てきて、また火がつきました。

福岡へ熱い視線

井上

ところで、なぜ福岡から照和伝説がうまれたのでしょうか。

西島

ものおじしない、あけっぴろげな博多の性格があるんじゃないんですか。祭にしても豪放な博多山笠だし、祭の間は山笠法被(はっぴ)にしめこみで、結婚式でも葬式でもフリーでしょう。
それに山笠は年長者絶対で、小さいときから礼儀が身につく。こんなところ、案外東京の偉い人に可愛がられたのでは。
博多どんたくでも、にわか面をつけて、"ぼてがずら"かぶって平気で街を歩いている。よそからきた商社の人たちは、とてもしきらんですよ。

井上

それに加えて、福岡が情報や文化を敏感にキャッチする都市だからでしょうね。ニューフォークは、当時若者文化の最先端の情報でしょう。
その情報を見事に消化して伝達し支援する適度な数の民放局がある。そしてその情報をキャッチする感覚人間、学生が多い。
九州大・福岡教育大・西南学院大・福岡大・九州産業大・第一経済大・福岡女子大・中村学園etc...と、福岡には大学、短大が多いからでしょうね。

司会

当時、福岡は駐留軍向けにFEN(極東放送)が流れていたことも。アメリカでいちばん先端の音楽がふんだんに聞けたですね。

岸川

なるほどいろいろと。風土と、情報に強い背景ですか。そういえば納得できますね。

西島

そして、出ていった人たちが、みんな博多を懐かしみ、大切にしている。

岸川

福岡ドームのオープンフェスティバルも、ビッグ4の市民への感謝だったし、あまりしゃべらない陽水も「山笠があるけん博多ばい」と言ったりして会場をわかしている。

西島

武田鉄矢さんは、博多っ子の東京出張所長みたいだし(笑)。

岸川

財津もよく帰ってきます。大評判になったNHKの朝のドラマ、長谷川法世さん原作の「走らんか」のテーマソングもつくっている。詩も曲も財津ですね。

  • 博多を背景にした「走らんか」は平成7年10月から平成8年3月まで放送された。

井上

そして、そのタイトルの字は西島先生で(笑)。

岸川

甲斐よしひろも、博多想いは一番で...。

西島

本当に彼等は博多ッ子の心情がある嬉しい人たちですね。

もう一つ。ロックの光芒。

西島

いい話が続きましたが、気になるのは、グループがよく解散するでしょう。

岸川

彼等はときの風をフィーリングで敏感にキャッチする人種です。幾つかヒットを出すと、次の風を、次のハーモニーを考える。仕方ないですね。
意見の衝突もあるでしょうが、みんな、それぞれ個性の人たちだから。

井上

チューリップは。

岸川

昭和62年に解散して、財津はソロ活動。上田や、安部、姫野、といった連中はグループオールウェイズで活躍しています。
海援隊は、アコースティック(エレキギターでなく生ギター)ですから解散はしても、いつでも集まってやれるんです。鉄矢はソロ活動。ドラマ、映画でも活躍。千葉は作詩家。中牟田はレコードのプロデューサーです。

井上

博多はロックもあるのでしょう。

岸川

そう、今日の話はみなフォークだったでしょう。しかし1970年代後半から照和はチーフマネージャーになった門田一郎さんがロックを次々出演させています。

あの頃、駐留軍向けに流れていたFEN(極東放送)のビートのきいたロックに若者がしびれていた。その一番手は柴山俊之率いるサンハウスでした。ついで鮎川誠の率いるシーナ&ロケッツや、森山達也ザ・モッズ石橋凌A・R・B陣内孝則らのザ・ロッカーズが登場し、フォークだけが照和じゃないと頑張っていた。
メンタイロックといわれ、一時期を画していました。いまも山善こと山部善次郎など健在ですね。
石橋凌や陣内孝則はいま俳優でばりばりやっています。福岡はロックにも大きな足跡を残しているのです。

井上

福岡はフォークもあり、ロックもあり、歌謡曲も。そしてクラシックではベルリン・フィルハーモニーのコンサートマスターの安永徹さんがいる。やはり音楽風土なんですね。

岸川

そして、何千人という人を集められるホールは東京以外はそんなにありませんね。それが福岡には福岡ドームがあり、アクロス福岡があり、国際センターがあり、新しくできたマリンメッセ・福岡もあります。

井上

そう言えばキャナルシティ博多には常設の劇団四季の福岡シティ劇場ができ「オペラ座の怪人」がロングランと...。

岸川

博多は音になじむ人が多いんでしょうな。

司会

いいハーモニーのお話で、ありがとうございました。