No.63 檀一雄

対談:平成8年5月

司会・構成:土居 善胤


お話:
女優 檀 ふみ
聞き手:
福岡シティ銀行 頭取 四島 司

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


石の上に雪を 雪の上に月を

檀一雄 年譜

四島

ときどきお目にかかりますね。今日はお父上の檀一雄さんのお話をうかがいます。お亡くなりになって何年になりますか。

父は筑紫野市の柳沢病院で肺ガンを発見され、九州大学病院で治療をうけました。亡くなったのは、昭和51年1月2日で、もう20年になるんですね。「人は2度死ぬ」という言葉がありますね。1度は肉体の死。2度目は人から忘れ去られたときと。20年経って、父の話をとお声がかかったり、新しい世代の人たちに作品を読んでいただいたりするのは、娘として、とてもありがたいんです。いまも父が生きているんですから。でも、父が喜んでいますかどうか。

四島

それ、墓碑銘の詩でおっしゃってるんですね…。

はい。父が夢の中でつくったとか。うまく言えますかどうか。

「石の上に雪を 雪の上に月を やがて わがこともなき 静寂(しじま)の中の 憩いかな」
ですね。

四島

いいですね。でも、いまの時代が、多くの人たちが、檀一雄さんの風と作品の魅力に、アンコールをかけている。素晴らしいことですよ。それに福岡とご縁の深い方ですね。

はい。生まれは祖父の勤めの関係で山梨県なのですが、すぐに故郷の柳川にあずけられます。それから久留米、福岡、東京の谷中と転々。中学は栃木県の足利(あしかが)中学(旧制)、そして多感の青春時代は、旧制の福岡高等学校です。福岡市の能古島を終(つい)の栖(すみか)にえらんでいますし、亡くなったのは九州大学病院です。だから柳川と福岡が“父の故郷”だったのですね。

終焉を迎えてスコットの言葉

西島伊三雄スケッチ訪問
おはよう皆さん
作家 檀一雄氏

四島

銀行は、檀一雄さんの、最期のお言葉をひとついただいているんですね。

えっ。どんなことなんですか。

司会

銀行は各界で活躍されている方々のお話をうかがって、新聞の朝刊に*載せているのですが、亡くなられる1ヵ月ほど前に、檀一雄さんのお言葉(別掲)をいただいています。快諾していただいたのですが、あとで、ご病状が悪いときだったと知って、胸が痛みました。

病室のドアに面会謝絶の札を下げていましたが、知り合いの人たちが、自由に次々と出入りして。父は、サービス精神が旺盛だったから(笑)。

司会

どうもすみません。入院されていた九州大学病院にお訪ねして、お母様にお目にかかりましたが、すぐわかりました。ふみさんとそっくりさんでいらっしゃって。先生にはご病臥中でお目にかかれませんでしたが、お母さまから、こういうことを申しておりますと、お話をお伝えいただいたのです。

その頃の父は肺の病状がだいぶん進んで、喉をぜいぜいさせていましたから、お目にかかれなかったのでしょうね。

四島

檀さんは病床で、人生のフィニッシュを、じっと見すえておられたのでしょうか。じつに、深いお言葉で。

ああ、これだったんですか。昨年、沢木耕太郎さんが『新潮』に小説『檀』を発表されましたが、そのために、母にずいぶん父のことをお聞きになったんです。そのとき母が、「亡くなる前に、なんとか探検隊長の話をしていたの。その人が亡くなるときに、美しい光みたいなキラキラしたものを、見たとか言うことだったけど、誰の、なんの話だったか。どうしても思い出せないの」と悔やんでいました。最期のときを迎えた南極探検のスコット隊長のお話だったのですね。母に伝えておきます。なにかしら、胸がつまります。

ざわめきのなかの孤島“能古島”

能古島の居宅

四島

檀一雄さんは、終の栖にどうして能古島を選ばれたのですか。

父は“新宿路地裏の孤独”が好きだったんですね。ざわめきの中の静寂(しじま)が好き。ほどほどの離れぐあいがよかったんでしょう。はじめは、五島列島に行きたかったんです。でもあまりにも遠いし、次は佐賀県の呼子町の加部島を考えたようですが、空港に遠くて不便でしょう。当時はファックスもありませんから営業にも差し支える(笑)。それでみあわせたんですね。

四島

“新宿路地裏の孤独”ですか。わかりますね。本当の孤独は、耐えられないですよ。

だから、父は放浪の作家と言われているけれども、タクラマカン砂漠には行かない。そう、女々しいんです。シルクロード回遊が15回の、四島さんのほうが、漂泊の詩人かもしれない(笑)。

四島

いや。モンゴルの王者のような豪放な檀さんの情感の一側面で、いいですね。

だいたい博多の人は、あけっぴろげだけど、内には孤独を秘めて…。

四島

博多の屋台が、そうなんです。ざわめきの中の孤独で。

能古島は、ざわめきの福岡につつまれながら、自然のたたずまいが残っている。それに父が惹かれたんですね。以前に唐津の断食道場にはいったとき、しばらく能古島で保養したことがあって、能古島に愛着を感じていたのでしょうね。若い時から懇意にしていた榎本求仁也さんという方と、「のこのしまアイランドパーク」の久保田耕作さんの、お骨折りで能古島に終の栖となる家を見つけたそうです。それに、父は衝動買いの名人なんだから(笑)。

四島

それで檀一雄さんが、福岡市の住民になられた。すばらしい衝動買いでしたね(笑)。

司会

西日本新聞の聞き書きシリーズ『島を拓く』の久保田さんのお話が面白いですね。「南向きの日当たりのいい空き家を世話したが、特別に見に来た様子はなかった。1,200万円だったが、登記の時に500万円足りなかったので立て替えたら、すぐに返してこられた。『檀流クッキング』の著者だけに、いつも変わったものを食べさせられた。大きな里芋に、豚肉を挟んで煮込んだものなどは忘れられない」と。

四島

檀さんらしいですね。そのお住まいは、今もそのままに。

はい。近くの方にお願いして管理していただいています。

司会

船着き場から、歩いて5、6分ぐらい。ちょっと小高いところで、正面に博多湾をへだてて福岡市が横たわっている。とくに夜景は絶景で、先生の詩情をなぐさめたでしょう。久保田さんのお話をつづけますと、檀さんの文学碑のあるアイランドパークの西の高台は、『リツ子・その愛』『リツ子・その死』の舞台となった小田の浜が、海を挟んで正面に見えるところです。檀さんはそこが好きで、あるとき、ふみさんや兄妹の方たちに、「あそこが、太郎兄さんが生まれた所だよ」と、教えておられたとありますね。

懐かしいですね。御無沙汰で、島の方たちに申し訳ないのですが。

司会

その、お宅のすぐそばに、私立の能古博物館がありますし。

博物館がですか。

司会

黒田藩の著名な学者の亀井南冥(なんめい)、昭陽(しょうよう)、暘州(ようしゅう)、玄谷(げんこく)、4代の書や遺品、藩時代の漢籍資料や登り窯趾。大きな北廻船の復元模型まで。美術館には、島出身の多々良義雄画伯や、福岡の画家の絵が展示され、孔子聖廟(せいびょう)まであっておどろきますよ。

四島

福岡市の人たちが訪ねるアイランドパークがあるし、能古島は奥が深いんですね。

「火宅の人」檀一雄

「火宅の人」

四島

沢木耕太郎さんの『檀』が、檀一雄復活の大きなうねりに火をつけましたね。『檀』は小説でしょうが、実録『火宅の人』の趣で、たいへん評判になりました。すぐに本にもなって。結局、2回読んでしまった。

ずいぶんご用意いただいて(笑)。恐縮です。

四島

作家は自分を凝視し、自分を裸にして小説を書かれるが、死後はまた裸にされる。作家の業(ごう)を感じますね。亡くなられて20年。その光芒と哀しみを見極める宿命に、つき合わねばならない家族の方も、大変ですね。

そうですね。ある批評家が、檀一雄をこんな女々しい男にしてと書かれていました。でも私は、女々しいっていうのは、そう悪いような気がしないのですよ。格好つけていないんですね。『火宅の人』には、男の奔放さの裏側のかなしさみたいなものが、感じられますよね。

四島

自分を裸にしてですね。ふつうの女々しさとは違うけれども。

そうですよ。父の、哀しさなんですね。だから、母のほうが、強いのかもしれない。四島さんのお宅もそうでしょう(笑)。

四島

確かに頑固な父よりも、一見従順な母のほうが強かったですね。

九州男児は強いんだけど、人がいい。ぽきっと折れちゃう。愛すべきところがあって、可愛いんだけど。反対に東北の人は素朴で、守ってあげなければという感じがするけれど、結構人を喰いますね。だから強い。

ふるさとは柳川と福岡

四島

檀さんの幼少時は、どんな少年だったのでしょうね。

父は、明治45年に山梨県で生まれています。明治の終わりの年で、大正元年にもあたるんですね。祖父の参郎が工業関係の技師で、県立試験場などを転々としますが、山梨県に勤務のときに、父が生まれました。祖父参郎が31歳、祖母トミが19歳のときの長男です。それから3人の妹が生まれるんですが、父が9歳の時に、祖父母の間にもつれがあって、祖母は4人の幼な子を残して家を出るんです。

四島

幼少から試練の運命に。大変ですね。

4人の幼な子を残して家を出た祖母の*心中も。父に「艱難、汝ヲ玉ニス」の、書き置きを遺していたそうです。それから妹たちは祖父の里の、柳川の*沖端にあずけられ、父は足利中学(旧制)まで祖父と一緒に暮らすんです。食事当番も日常だったそうで。楽しみは、毎年の夏休みに、柳川へ帰って、毎日泳ぐことだったそうです。

四島

たくましいなあ。檀さんの*不羈奔放さは、そこらへんからなんですね。

そして福岡高校(旧制)から東大経済学部へ。そこで太宰治さんとの交友がはじまるんですね。昭和11年に東大を卒業しますが、そのころ「夕張胡亭塾景観」が芥川賞候補におされます。最初の作品集『*花筺』の出版を、佐藤春夫先生の装丁ですすめますが、出版記念会の日に、中国との事変が起こって軍の召集がくるんです。

四島

時代の激動を、もろに受ける世代でしたね。

祖母は再婚しますが、気持ちの広やかな人だったようで、再会した父に前の奥さんの律子さんとの結婚を勧めています。律子さんが亡くなられて、作家の与田準一さんのお世話で母ヨソ子と再婚するんです。母は遺された太郎を育てながら、次郎(病没)、小弥太、ふみ、さとを生みます。私たちは5人兄妹です。父と再会した祖母は母にもおおらかに接し、父をよく支援したそうで、母が立派な人だったといっています。

四島

直木賞をうけられたのは。

昭和26年に、『長恨歌』と、『真説石川五右衛門』で、第24回直木賞を受けています。秋頃、坂口安吾さんが家に同居され、暮れには捕鯨船に同乗して南氷洋へ行っています。私はまだ生まれていませんが、母は大変だったでしょう。

四島

いやあ。文学、放浪、そして家庭。目まぐるしいですね。

ヒューヒュー胸にモガリ笛

能古島の文学碑

四島

能古島の、檀一雄さんの文学碑が素晴らしい。

司会

アイランドパークの近くで、小田の浜を遠望するところに大きな自然石で。

絶筆の「もがり笛」の句が父の書で刻まれています。もがり笛は、冬の木枯らしの風が、ヒューヒュー吹きすさぶ、あの風の声ですね。

モガリ笛

いく夜もがらせ

花ニ逢はん

父が亡くなる前には、木枯らしが病院の窓をゆさぶってヒューヒュー吹いていました。病状も末期で、父は自分の喉を指さしながら、「ホラ、ここにもモガリ笛」と苦笑していました。

四島

花に逢はんか。つらいですね。それだけに、碑の展望のひろやかさに救われますね。

父の文学を愛していただいた作家の北川晃二さん、歌人の六百田幸夫さん、詩人の織坂幸治さん、郷土史家の高田茂広さん、親友の榎本求仁也さん、武富繁晴さん、地元の久保田耕作さん。その他多くの方々と地元のご厚意で、父が亡くなった翌年の、昭和52年5月22日に除幕されました。終の栖を能古島にかまえ、島を愛していた父は嬉しかったでしょう。

四島

檀さんの文学碑はあちこちに。

父が学んだ栃木県の足利高等学校(旧制足利中学)の校庭にも。これは生徒会の決議でたてられたそうです。それから新潟日報の文化面に関わっていたので新潟市、幼少期を過ごしたふるさと柳川市と、次々に。そして、昭和45年から1年ちょっといた、ポルトガルのサンタ・クルスにも。碑をすすめていただいたのは、文学仲間や、お友達や、ファンの方が多いのです。ありがたい事ですが、たいへん経費もかかることで、父が生きていたら、きっとはにかんで、「もうよか、よか」と言うでしょうね。ちょっと、多過ぎるみたい(笑)。

四島

いいじゃないですか。ポルトガルまで。檀さんらしい気宇広大(きうこうだい)さで。ふれあった人が、みんな自分の檀一雄だと思ってしまう。お父上ぐらい、多くの人を仲間にしてしまう巨きな作家もいない…。

本当にありがたいことですね。いまも毎年、花どきの5月に能古島の碑の前で「花逢忌(かおうき)」の集いを催していただいているんです。遺族の私たちがなかなか参加できなくて申し訳ないのですが。

四島

絶筆にちなんで「花ニ逢はん」の集いですね。いいですね。

“父帰る”後の父が好き

四島

ところで、檀一雄さんは小説家ですが、裸の人間味や小説の雄大さ、いつわらない生き方などを見ていると本然は詩人なんでしょう。人生を謳わずには、書かずにはおられない。師事しておられたのが佐藤春夫さんですね。佐藤さんはたいへんな詩人だし。そんな気がしてならない。

おっしゃる通りだと思いますね。自分をいつわらないで、父なりに真摯に生きたかったのでしょう。だから、はたから見れば、家庭が崩壊するようなこともしてしまう。それも父にとってはロマンの追求だったのかもしれません。詩人なら何をしてもいいということではありませんが。

四島

ふみさんにとって、巨きな歩みで人生を駆け抜けられた、お父上檀一雄さんは。

母が、「代表作が前妻との愛を描いた『リツ子・その愛』『リツ子・その死』と、愛人との火宅を描いた『火宅の人』という作家の妻の立場も変なものだが」と述べていますが、「おっかん」とよばれていた母にとっては、耐えがたいこともあったでしょう。私はリツ子時代は生まれてませんし、火宅の時は小さかったので、ほとんど影響を受けていません。でも私、“父帰る”後の父は、好きなんです。

四島

“父帰る”か。いいなあ。菊池寛の初期の名作に『父帰る』がありましたね。行動の振幅の巨きな父を許し愛している娘さんの優しさに、搏(う)たれますね(笑)。ご家庭での会話は? ふみさんは檀さんを、“ちちさん”と呼んでおられたのですね。

父は、佐藤春夫先生をたいへん尊敬しておりました。先生がお嬢さんたちに、ご夫妻を「ちち」「はは」と呼ばせておられたので、父がその高風を(笑)、いただいたと聞いています。父は「ちちさん」ですが、母はよその家とおなじように、「おかあさん」でした。父は私たちにとても丁寧な言葉遣いで「ふみこちゃん、何々してください」というふうな塩梅でした。

飲んだくれのやさしい心平おじちゃん

父・檀一雄氏と
映画デビュー当時のふみさん。

私は幼いころ、佐藤先生の大きな福耳を、触らせてもらうのが大好きで、「おじちゃんお耳ちょうだい」と言って、先生のお耳に触っていたそうです。

四島

可愛い風景ですね。

ところが少し大きくなってから、先生は亡くなられていましたが、「佐藤のおじちゃん」と言ったら、「佐藤先生とおっしゃい」と、ものすごく叱られたのでびっくりしました。父は文学と人生の師匠である佐藤先生の御名を口にするときは、いつも襟を正す人でしたから、わたしのなれなれしい言葉遣いが許せなかったのでしょう。

四島

豪放磊落(ごうほういらく)とか、天衣無縫とかいわれていますが、内面に……。

磊落にふるまっていましたが、堅いところもありましたね。人に対する礼儀や公衆でのマナーなどにもうるさかったし。いつも背筋がピシッと伸びている感じで…。明治も終わりの、45年生まれですが、父はやはり明治人だったのだなと思います。

四島

友人で作家の眞鍋呉夫(まなべくれお)さんが、「檀さんの魂を貫いていたものは、偽善に敏感で、潔く果敢な金無垢の筋金でした」と、述べておられますね。精神の貴族だったんですね。ちちさんの所へは、作家の人たちが次々に来襲されたでしょう。

おじちゃんたちが来られると、すぐに酒盛りで、父は本当に楽しそう。檀流クッキングも本領発揮でした。いちばん印象に強い方は、詩人の草野心平さんですね。私は心平おじちゃんが、たいへんな詩人だとは知りません。優しい飲んだくれのおじちゃんと思っていました。小学4年のときでしたか、心平おじちゃんの絵を描いたら、それがよく似ていたので、父がおじちゃんに見せて、とてもよろこんでくれました。

四島

情景が目にうかぶようですね。

心平おじちゃんが偉い人だなと思ったのは、5年生か、6年生のときでした。社会科か国語の教科書のガイドブックでしたが、戦後の詩人や作家の一覧があって、草野心平さんの名が載っていました。びっくりして見てみると、名前の下に何年までとなって、亡くなった人になっている。飲んだくれの心平おじちゃんかな、他の人かな。それで、父に、「心平おじちゃんは詩人なの」。「そうだよ」。「死んだの」。「えっ」。どれ、見せてごらんとなって、父がゲラゲラ笑いだしました。さっそく心平おじちゃんに電話をかけて、「お前さん、死んでるぜ」。それからどうなったかは知りません。

四島

おかしい、おかしい。それで、芥川賞作家の火野葦平(あしべ)さん、九州文学の原田種夫さんら、との交流は。筑後には矢野朗(あきら)さんもいますが。

残念ですが、あまり往き来がなかったようですね。私はほとんど知らないんですけど。でも作家で、フクニチ新聞の社長さんもされた北川晃二さんとは、戦後早々に福岡で劇団珊瑚座を作った親しい仲間同士だったそうです。惜しいことに、先年なくなられましたね。

東映映画に父の勧めで

モガリ笛 いく夜もがらせ 花ニ逢はん(絶筆)
能古島文学碑を拡大

四島

ふみさんはたいへんなパーソナリティの方ですが、やはりお父上の血を感じられることが。

血というよりも、そもそもこういう世界に足をつっこんだのが父のせいですから(笑)。私はまじめに学校に通っていて、わが家の期待の星だったのです。公務員か、きちんとお給料をもらえるOLになるわが家で初めての人間になるつもりでした。父の友人が東映の重役さんで、叔父も勤めていましたので、遊びに行っているところを、プロデューサーにスカウトされたのです。

四島

あれは、爽やかなニュースでしたよ。真面目な学生さんで、健康なふみさんの笑顔が、なんともいえない魅力だった。

お恥ずかしい(笑)。檀一雄の娘ということ。そして映画が東映路線のやくざ映画だということでマスコミが面白がって書いたので、評判になったのですね。アドバルーンをあげて模様を見ていた東映も、だんだん記事がエスカレートしてきたので、父に承諾をもらいにきたんです。父は人に頭を下げられて、駄目とは言えない人でしょう。もう、決まりです。私はそんなこと知らないから、自分で女優になりたいと言ったことは一度もない、才能もない。とても出来ないとぷんぷんです(笑)。すると、父はずるいんです。チャップリンを見なさい、ジャン・ギャバンを見なさい。あとの一人は誰だったか忘れましたが、あの人たちは顔がいいか、背が高いか。いや、みんな努力の結果です、と言うんです。世界トップの名優が、なんで努力だけですか(笑)。

四島

作家だなあ。すごい説得力(笑)。

父は小説家という自分の職業を単純に肯定し、愛しているところがあって、私が小さいときに、あまり考えもなしに、父のあとを継ぐといったら、とても歓んだのです。女優をしていれば、いい経験になるから失敗してもいい。30ぐらいになれば、いい小説が書けるかもしれないと言っていました。それで、私は、泣く泣くこういう世界に入ったのですよ(笑)。

四島

しかし、結局、あなたの天職を、お父上は見つけられたのですね。

そうかもしれませんが、どうも女優は父の本意じゃなかったような気がします。私がお化粧して帰ってくると「ふみは、口紅をつけるの」とか、指輪をしていると「ふみは結婚するのか」と言ったりしていました。派手な生活があまり好きじゃなかったんですね。

四島

すぐれた娘を持つ父親の悩みなんだ(笑)。

でも、ありがたかったのは、当時のうるさ型の監督さんの世代が、父にとは言いませんが、坂口安吾さんや太宰治さん、あのへんに憧れている世代なんですね。だから私がいくと、「あんたはどうでもいいが、お父さんが好きでね」と言って、あまり邪険にされないんです(笑)。

四島

檀さんや、坂口さん、太宰さんといった人たちは、我々には、胸が滾(たぎ)る存在でしたね。たしかに、私たちの世代には、時代を共にしている共感があった。いまの若い人たちと作家に、そのような歓びがあるのかなあ。

仕事はこころからニコニコと

四島

作家である檀一雄さんが、娘さんで女優の、才女であるふみさんに話しておられたことは。

私、才女じゃありませんよ。だから心配だったのでしょうね。「仕事をするのならニコニコやりなさい」と口が酸っぱくなるほど言っていました。これを一番先に叩き込まれたのは、東大の安田講堂攻防戦があって、家でテレビを見ていた時でしたから、中学生のころだったでしょう。父が愛人さんとの家を引き払って、“父帰る”のころだったのですが、家族と、なかなか会話が弾まなかったんでしょうね。それで、すぐに料理を始めるんです。料理が、すき間のできた家族とのよりをとりもどす、父流儀のコミュニケーションだったのでしょうね。

四島

檀流クッキングの始まりなんですね。

父は子供のころから、祖父との生活で食事をつくったりしていました。南極捕鯨船に乗ったり、アメリカの長旅、そしてポルトガルで1年ちょっとでしょう。自然に、檀流クッキングの腕をみがいていたのですね。

四島

絵も上手いし、何をやらしても一流で、人生の名人だったのですね。

お客さんというと酒の肴(さかな)、そして家庭料理でしょう。私たちも手伝いに動員されるし、山のようなお皿も洗わなきゃならないしで大被害でした。娘の私は遊びたい盛りでしたのに。

四島

ちちさんは絶対だった(笑)。

はい。父が大将で、母が参謀、私たち子供は3等兵でした(笑)。ある日、夕方の5時過ぎから「はりはり漬け」をつくると言い出したのです。父が小さいころからなじんでいる、九州の漬物ですね。切り干し大根が山のように積んであるんです。父は丁寧な声で、「はりはり漬けをつくりますから、切り干し大根を切ってください」と言うんです。父は大将ですから絶対です。思春期の私はしたいことが山ほどあったので、ふくれっ面(つら)で鋏(はさみ)を持ち出して切り始めました。すると父が、「仕事をするときはニコニコしてしなさい」と烈火のごとく怒り出したんです。父はよほど我慢がならなかったんでしょう。食事が終わると、色紙と硯を持ってこさせて、「ふみ、さとに告ぐ」と書き始めたんです。

「われ幼少の頃

五分漬けを愛したり

その甘酸く懐しき味を

子らに教えんと欲すれば

子ら たちまち色をなす

……」

今でも読むのが恐ろしくて。うろ覚えですが…。東大安田講堂でも今日のような、思いもしなかったことが起きる。変転流転の世のなか、お前たちも好きなようにすればいい。人間なんてすぐに滅びてしまうものだ。人生かくのごとし、と結んでありました。

四島

それはそれは。

私は、御免なさい、御免なさい、と涙ポロポロでしたが、10年後に読みなさいとその色紙をくれたのです。10年たっても、20年たっても、安らかな気持ちでは読めません。

四島

何よりのものを、遺されて。

身にしみたといいますか。どうしてもやらなくてはならないことならニコニコやろうと…。表だけでも機嫌よくしていると、心の中もそんな気になってくるかもしれない。とにかく遺言だから…と。

四島

だから、ふみさんスマイルが、すばらしいんだ(笑)。

でもね、こればっかりは難しくて、どうしてもいやな顔が出てくるんですよ、時々。ま、父も原稿に向かう時は険しい顔してたからいいか。なんて自分を慰めていますけど。

四島

父と娘。父は厳しい教師、娘はいいお弟子さんなんだ。家庭の教育不在が論議されている今日からすれば、いい時代だし、いいお父さんだったのですね。

反面教師という意味でもですね(笑)。でも今日は、どんな人に会えるかしら。どんなお話が伺えるかしら、なんて考えると楽しいですものね。父も人好きで人が集まってくると機嫌が好かったけど、そういう遺伝子を受けついでいるのかもしれません。

四島

ふみさんスマイルの秘密をうかがったんですね。私も、しびれてきたなあ(笑)。そのようなお父上、檀一雄さんは、ふみさんのお仕事を、よく御覧になっていましたか。

それが全然で。女優になりなさいと言ったくせに、女優、檀ふみ出演の映画やドラマは、多分、見たことがないでしょう。

四島

それは父親の照れですよ。娘の演技をまともには、父親は照れくさくてとても見ておれない。

ただ、今はなくなりましたけれども、NHKテレビの連想ゲームに出ていた時には、毎回、楽しみに見て、ハラハラしてくれました。

四島

そりゃ、聡明な娘さんが地のままで出ておられる。はらはらしても、誇らしく、楽しんでおられたのですよ。

ふみこちゃん青春はのんびりするもの

檀ふみさん

いつだったか、音楽関係の方から歌を唄ってはと、すすめられたことがありました。それで、家族で紅白歌合戦を見ていたときに、兄が「ふみも、来年はこの中で歌ってるかもしれないな」と言ったのです。すると父が、「えっ、ふみがこんなことをやるのなら、俺は、あそこの松の木で首をくくるよ」と言いました(笑)。だから、どうも父は芸能界を、本質的に好きではなかったのですね。

四島

お二人とも忙しくて、すれ違いばかりだったのでは。

仕事のラッシュで、朝早く家を出て夜遅く家に帰る生活が続いて、父に「おはようございます」と「おやすみなさい」の挨拶だけという生活のときがありました。父は、家では私を“ふみこちゃん”と呼んでいましたが、私が大切なものを忘れていると思って、見かねたのでしょう。「ふみこちゃん。青春というのは、のんびりするものでもあるんだよ」と言いました。

四島

いいなあ。その通りですよね。

さきほど、父を詩人だとおっしゃったでしょう。私は親バカならぬ子バカで申し訳ないんですけど、父は生きる詩人だったというか、生き方が詩みたいなところがあったと思います。現実には生きるのに忙しくて、あまり詩は残していません。でも、晩年は子供たちに贈る言葉のようなものを、よく書いてくれていました。人生は、白紙に書き込みをしていくもの。だから多難であればあるほど、人生の実りが大きいんだ。そのような事を、書いたエッセイもあります。人生多難は当然。自分の炬火(たいまつ)をかざしながら、困難を乗り越えて生きていけ。そこに、詩があり、文学が生まれる。こころがひ弱な子供たちが気がかりだったのでしょうが、自分に申し渡してもいたのでしょうね。

四島

生きかたの厳しい世界に、娘さんをおくりこんだ、作家、檀一雄のまたべつの笛の音を聞く思いですね。作品をもう一度、読ませていただきましょう。いいお話を、ありがとうございました。

必敗の戦士

檀一雄さんに30年間兄事されましたね。最初の出会いは。

眞鍋

珍しく当時のメモが残っていたせいもあって、その日のことは、今でも昨日の出来事のように覚えています。ぼくは昭和20年の9月に復員して以来、妻と福岡市高宮の父母の家に寄食していました。檀さんが訪ねてきてくれたのは律子夫人がなくなってから約1ヶ月後にあたる、昭和21年5月19日の夕方のことでした。ぼくは、その日は2階の仕事部屋で、三島由紀夫の「わが世代の革命」という原稿に眼を通していました。その原稿は北川晃二君と創刊の準備を進めていた文芸雑誌『午前』のために依頼したものでしたが、そのうち、たてつけの悪い玄関の引戸をあける音がしたと思うと、階段の下から「ダンさんというかたがきとんなさるばい」という、母の声が聞こえてきました。そこで、急いで玄関に出てみますと、毬栗頭(いがぐりあたま)に灰墨色の国民服を着た檀さんが太郎さんを肩車にして窮屈そうに首を縮めて立っていました。檀さんはその時、男ざかりの34歳で、口のまわりは文字どおり黒い針のような無精髭(ぶしょうひげ)におおわれていましたが、太い・負盾フ眼鏡の奥には、ややロンパリ気味の魚眼がしんとみひらかれていました。とにかく、そうしてむかいあっているだけで、なにか高圧の電流のように激しい精気がびりびり伝わってくるような感じでした。すると、檀さんが太郎さんの細い足首を握ったまま、ちょっと上眼づかいになって「これが太郎、ぼくの首かせです」とぼくに言いました。そこで、まだ3歳にもなっていなかった太郎さんが「ん?なーん?チチ、いまなんていったの?」と檀さんの顔を覗きこむのへ、檀さんは間髪を入れず「眞鍋おじちゃんにね、太郎は父の首かざりですって、そげん言うたとたい」。そう言って笑いながら、太郎さんを肩越しに抱きおろして、すとんとあがり口の板の間に立たせました。そういえば、『リツ子・その愛』の中にも「私は全く天真にふるまった。自分のエゴイズムに即してだ」という記述が出てきますが、作者がそこで言いたかったことは、無論「人間は誰でも自分がいちばん可愛い」などというしりたげな人性観ではありません。そうではなくて、相手が異性であると否とを問わず、憐憫や同情や血縁や因習をぬきにした、対等で率直で人間的な関係への、ほとんど自分でも如何ともしがたいほど強烈な志向です。つまり、ひとが生きるということは、それぞれが己の力を尽くして、眼に見えない「首かせ」を「首かざり」にかえていくことではないか、という簡明な問いかけです。ですからぼくには尚更、その時の檀さんと太郎さんとの短いやりとりが、それから4年後に刊行された『リツ子・その愛』と『リツ子・その死』の出現を、失われた愛と美へのたぐいまれな哀歌であることが、即ちさわやかでみずみずしい生命への賛歌でもあるような、あの名作の出現を、予言していたような気がして忘れられないんです。

それから、親交を深められて。

眞鍋

ええ。1週間に1度は訪ねたり訪ねられたりして、夜おそくまでしゃべりあったことを覚えています。ところが、そうした往来がしばらくとだえたのは、檀さんがその年の夏に、山門郡東山村の善光寺という山寺の屋根裏部屋に移ったからでした。ぼくが善光寺を訪ねたのは、たしかその年の「後(のち)の月(旧暦9月13日の名月)」の当夜のことでしたが、檀さんのあとから手さぐりでその屋根裏部屋への階段をのぼっていった時には、息をのまずにはいられませんでした。吹きぬけの荒壁に囲まれた20疊前後のだだっぴろい空間に、ままごとめいた煮たきの道具がひとそろい。その奥に、古疊が2枚と綿がはみだした薄い蒲団。それから、小さな経机(きょうづくえ)と文庫本の『杜詩』が1冊。そのほかには、疊もなければ、障子もありません。窓がまちが腐っているので、雨戸を閉めることもできません。しかも、その腰窓からさしこんだ月光が、荒挽きの床板に分あつく積もった綿ぼこりを霜柱のように輝かせていたからです。檀さんはそれでも「1週間に1度、瀬高や船小屋で鰯を6匹ずつ買ってくるんです。その鰯を太郎と二人で最初の日は2匹ずつ、次の日は1匹ずつたべるのが楽しみでね」そんなことを言って、くったくなく笑っていました。

名作「リツ子」シリーズが始まる前ですね。

眞鍋

そうです。その夜も、善光寺への山道をたどりながら「律子のことでは、書きたいことが頭の中でひしめきあっているような感じで、机の前にすわりさえすれば、すぐにも書きだせるような気がしてるんです。ただ、ぼくの従軍中の体験をどこでどう生かすかがむずかしくてね。そこを、どうしたらいいかと考えてるところなんです」と話してくれたことを記憶しています。

戦後、作家や思想家が混迷していた中でも、檀さんの言行は闊達で「天馬空を行く」ような観がありましたね。

眞鍋

檀さんは青年時代から人一倍不羈奔放(ふきほんぽう)で、およそ事物の偶像化や絶対化に対しては、けたはずれに鋭敏な拒絶反応の持ち主でした。たとえば、後に草野心平さんなどと一緒に中国に招かれたときにも帰国後「なにしろ、どこへ行っても毛沢東の肖像画だらけですからね。あれじゃぼくなんか、とても生きていけませんよ」と言って、苦笑していました。ですから、戦後の一時期には「今の日本人は戦争に負けて、提灯の火が消えたみたいに焼け跡にへたりこんでしまっている。ぼくはそんな連中の尻に火をつけて回りたいんだ」。そんなことを言って、自分のことを「生命の放火魔」と称していたこともありましたよ。

その気持ちが、劇団「珊瑚座(さんござ)」の結成に。

眞鍋

そうでしょうね。檀さんは徴兵検査の時にも、甲種合格の山砲兵として入隊したくらいで、文壇では珍しく頑健な体の持主でした。それだけに、一字一字、原稿用紙の升目を埋めていくのがもどかしくなるような一面もあり、かたがた中央のジャーナリズムもまだ活動を再開していませんでしたから、その前に、戦後の焼け跡の真っ只中で、身体的な表現とその反応がもたらす解放感を、生命の花火のように打ち上げてみたかったのじゃないでしょうか。

檀さんを囲む文学の師や仲間も、壮観ですね。

眞鍋

檀さんはその文章の中で、文学の師は佐藤春夫先生、私淑した先輩は川端康成さんと瀧井孝作さん、影響を受けた友人は太宰治、安田與重郎、坂口安吾の3人を列挙するのが常でした。中でも太宰治については、まだお互いに無名だったころ、なま原稿を読んだだけで、アパートに乗り込んでいって、直接「君は天才だ」と太宰に言い、ぼくらにも「あの甘美な文体は、100年に一人ぐらいしか生まれない」と言っていたほど高く評価していました。

先生は、檀さんの魅力には、芭蕉のいわゆる「夏炉冬扇(かろとうせん)」の世界に通じるものがある、とおっしゃっていますね。

眞鍋

「夏炉冬扇」という言葉は、夏のストーブと冬の扇風機を組みあわせた対語ですから、「何の役にも立たぬもの」という意味になりますが、芭蕉は当時の人たちから「婀娜(あだ)なる人」と言われていたそうです。もっとも、この場合の「婀娜」という言葉は両義的で、その1つは「徒花(あだばな)」の「徒」と同じく「はかない」という意味、もう1つは「色っぽい」という意味だそうです。つまり、芭蕉は誰よりも人間という存在のはかなさをよく自覚していたからこそ、いくつになっても齢よりはうんと若く、色っぽく見えた、というんですね。そういう意味では、俗に「破滅型の浪漫派」といわれた檀さんの魅力にも、みずから「狂俳」たらんと志さずにはいられなかった芭蕉の生きかたに似たようなところがあったのではないでしょうか。いや、げんに檀さんは「埋葬者」という短編の中で「それがよし幻影であろうと、虹であろうと、過ぎてゆく長大な時間の中の必敗の戦士であれ。/無限のものが有限のものを飜弄(ほんろう)する日の手口に乗るな。必敗の戦士であるからこそ、有限の生命を鍛冶して、この帰結のない戦いをいどめ」と書いています。ぼくは今年の「花逢忌」の会場で「はじめて檀さんに会った時、女性に生まれてこなくてよかったと私は思いました。もし女性に生まれていたら、無我夢中で檀さんを追っかけたにちがいないからです」とそんなばかな事を言って、皆さんから笑われましたが、ありし日の檀さんの精悍な言動にはそれほど圧倒的な魅力がありました。しかも、その檀さんがわれわれに残していってくれたものは、世に「天馬空を行く」と称された果敢な詩魂の眩(まばゆ)い軌跡そのものにほかなりません。ですから、ぼくは今でもその甘美な詩文を読み返すたびに、

金剛の露ひとつぶや石の上

という古人の詠嘆がよみがえってくるのを感じながら、なにか自分の本然に則した修羅(しゅら)の道に直面しているような気がしてきて、一種の戦慄をおぼえずにはいられないんです。