No.64 天真爛漫に歌を革新した幕末の大歌人 大隈言道

対談:平成8年10月

司会・構成:土居 善胤


お話:
福岡市歌人会会長 医学博士 桑原 廉靖氏
聞き手:
福岡シティ銀行 会長 松本 攻

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


現代の歌を、天保の俵万智さん

大隈言道 年譜

自画像(個人蔵)

司会

今回のテーマは歌人の※1大隈言道(おおくまことみち)ですね。博多町人で、福井の※2橘曙覧(たちばなあけみ)とともに、幕末を代表する二大歌人ですが、どうもなじみがうすくて。桑原歌は誰でも詠(よ)めるのですが、なかなか日常になじまなかった。俵万智さんが現代の息吹を吹き込まれて、歌がずいぶん身近になりましたね。
約150年前に博多に登場した大隈言道に私は俵万智さんを感じています。

  • ※1 大隈言道 おおくまことみち(1798~1868)(寛政10~慶応4)
  • ※2 橘曙 覧 たちばなあけみ(1812~1868)(文化9~慶応4)

松本

言道が新しい歌を。

桑原

えゝ。月や花といった旧来のきまりにしばられないで、自由に見たままを、思ったままを歌に詠(よ)もうと新風をおこしたんです。
「現代の歌を詠(うた)おう」。当時ですから「天保時代には天保の歌を」と。
そして、「百姓なら百姓の歌を」、「町民なら町民の歌を」と。主張が新鮮なのです。
彼の言葉で言えば「古人は師なり。吾にはあらず。吾は天保の民なり。古人にはあらず。みだりに古人を執(しゅう)すれば吾身何八、何兵衛なることを忘る」と言っています。

松本

天保の歌を。今なら"平成には平成の歌を"と言っているわけで、新鮮ですね。でも激しいですね(笑い)。

桑原

言道の71年の生涯に年号が12回もかわっている。天保時代は言道の33歳から46歳までの13年間で、この間に言道は歌道革新の狼火(のろし)を打ち上げています。
勤王歌人の※3野村望東尼(のむらぼうとうに)が入門したのもこの間です。

  • ※3 野村望東尼 のむらぼうとうに(1806~1867)(文化3~慶応3)

松本

天保は、言道にとって重要な年代だったのですね。
では、手始めに先生が一番お気に入りの、言道らしい歌をひとつ。

桑原

なにしろ一日百首の歌を詠んだ人ですから、のこされている歌は大変な数です。
九州大学図書館蔵の「大隈言道家集」「今はし集」2集合わせて短歌5,585首、長歌5があります。岩波文庫になっている「草径集(そうけいしゅう)」に残した自選歌はわずか971首です。
その中から一首ですか。じゃ、思いきって新鮮な歌をひとつ(笑い)。

徒に わが身フルゴロオトガラス
水に虫ある 事も知らずて
徒=いたずら

ありし日の「ささのや」

長崎でシーボルトの鳴滝塾(なるたきじゅく)に学んだ博多の蘭方医師の※4百武萬里(ひゃくたけばんり)や大阪の※5緒方洪庵(おがたこうあん)と親交があったので、どちらかに「顕微鏡」を覗かせてもらったのでしょう。
歌の弟子でもあった洪庵が日記に言道との歌会のことを記しています。大阪の筑前蔵屋敷に言道はしばらく宿をとっていました。蔵屋敷は洪庵の往診先でした。そうしたことで言道が12歳下の洪庵と交わったのでしょう。

  • ※4 百武萬里 ひゃくたけばんり(1794~11854)(寛政6~安政1)
  • ※5 緒方洪庵 おがたこうあん(1810~1863)(文化7~文久3)

松本

フルゴロオトガラスを覗(のぞ)いて、きれいな水の中に思いもかけぬ虫が泳いでいる。驚いたでしょうね。歌に片仮名が入ると、前衛的で(笑い)。
たしか、※6仙さんは、望遠鏡を買ってましたね。フルゴロオトガラスじゃないが、博多は開けていたんですね。

  • ※6 仙(がんだれに圭)(1750~1837)(寛延3~天保8)

桑原

次のような歌もあります。

見ゆる日も ありとはいへど 荒津の沖
何れの雲か 新羅なるらむ
何=いず・新羅=しらぎ

荒津の海は、博多湾のこと。その浜に立てば、かなたの雲が朝鮮半島の雲だと言っているわけで、スケールが大きい。
アジアに目を向けている現在の福岡市のハシリのような歌ですね。

松本

躍動感にあふれていますね。

桑原

また、感動の失(う)せぬうちにと即詠が多い。
歌会のおり、犬が喧嘩をはじめた。それをすぐに歌にしろと弟子たちに言い、みんなが面食らっている中で、衆寡敵せずと、即詠で、さっさと歌にしてしまうんです。

少なきが 多きに勝たぬ ※7ことはりに
争ひ負くる 犬ぞかなしき

  • ※7 ことはり=道理

店を弟に譲って歌ひとすじに

松本

さっぱりした気宇広大な人だったのですね。その魅力に魅せられて、お医者さんであり、「歌と評論」同人で歌誌「かささぎ」を主宰しておられる先生が、大隈言道を現代によみがえらせていらっしゃる。
では、大隈言道のプロフィールを。

桑原

言道はいまから約200年前の寛政10年に福岡の薬院に生まれ、明治と年号が変わる直前の慶応4年7月に、71歳で今泉[中央区]の池萍堂(ちへいどう)[ささのや]で亡くなっています。
この年は9月から明治元年ですから幕藩時代の最後の歌人ですね。
桜が好き。酒が好き。小男で一見、田舎の小父さんのようですが、三味線(しゃみせん)や琴も弾き、小鼓を打ち、篆刻(てんこく)と書に優れ、庭作りにも一家言を持っている。歌会では浄瑠璃(じょうるり)もうなる。さばけた人だったそうです。
奥が深いひとだったので、野村望東尼のような優れた女性からも敬慕されたのでしょう。

松本

巾がひろくて、なるほど言道さんは、博多町人ですね。

桑原

はい。祖父の清助さんまで豊後[現・大分県]玖須郡大隈村でお百姓でしたが、博多へ出てきて、父親の茂助言朝が質屋を始めるのです。
代々、文雅の嗜みがある一家でしたが、このひとは才覚に富んだ人で店を繁盛させて、藩や太宰府天満宮にずいぶん献金したりしているんです。
のこされた言道の肖像を見ると小刀を携えています。父の言朝の代から、黒田藩に功績を認められて苗字帯刀を許され、準武士待遇だったのですね。

松本

じゃ、裕福だったので....。

桑原

はい。ところが言道の代になって左前になってくるのです。
繁盛していた店も主人が「歌人言道」では心もとない。それで39歳のときに、仕送りを条件に家業を弟言則に譲り隠居しました。

松本

でも、それで、歌一筋に。後世の私たちには、ありがたい選択だった(笑い)。

桑原

それでも、商売に陰りが見えてきたのか。約束の弟からの仕送りが途絶えだして、暮らしにくくなるのですね。
その上、46歳のときに妻を亡くしているし、60歳のときに歌集出版のため大阪へのぼり10年間滞在している。
家族は大変だったでしょうね。次女うめは元気だった祖母と家を守って苦労しましたが、後に藩士の田代正良に嫁ぎました。
男の子は一人は夭折し、一人は高柳家に養嗣子にいっています。この方の子孫は、有名な鋏「博多はさみ」を作っておられます。

松本

後年の生活は苦しかったのですね。

桑原

ところがよくしたもので、飯塚の酒造業の小林重治が、言道をたすけて、生活や「草径集」の出版を支援するのです。言道が舟便に託して小林におくった大阪からのSOSの手紙も残っています。
飯塚は言道の第2の故郷のようで、住み心地が良かったのでしょう。よく出かけては長逗留しています。

天真爛漫で"時代"を越えた

朝日新聞より(H.8.8/26)

桑原

歌といえばもともとは大宮人、お公卿さんの楽しみだっただけに、当時は身分の低い人たちがたしなむのを冷ややかに見る風が支配的でした。
そして、歌のテーマも花鳥風月に限られがちで、おのずから決まっていたのです。
だから、町人や下級武士たちもお公卿さんをまねて、エラそうな歌をつくっていた。
言道は、「それはおかしい。歌は属目(しょくもく)そのままを、身近に、見たり思ったりしたことを、あるがままに歌にすればいい」と。歌を庶民の生活に近付けたのです。

松本

いわば、平安時代以来の歌の改革を、歌の民主化を始めたのですね。

桑原

そういう事ですね。たとえば豆の歌があります。えんどう豆でしょうか。さやの中に奇麗に豆が並んでいる。そのやさしさ、可憐さをさらっと詠(うた)ってしまう。
この歌を大岡信(おおおかまこと)さんが朝日新聞に連載されている「折々のうた」で取り上げられています。「天真爛漫で自己を偽らなかった彼の歌は、ついには時代を超えていた」と。言道は百数十年後の知己の言に感泣しているでしょうね。

松本

いままで誰も歌わなかった何の変哲もない豆の歌をさらさらと。歌はたいそうなものではないんだな。それなら自分でもつくれるな。
士農工商の身分わけの厳しい時代だけに、言道の歌にふれて、誰もがなにかしらほっとしたのですね。

偉大な「反面教師」二川相近

松本

言道さんの主張は、現代でもそのままにうなずけますね。それは師事した先生の影響も。

桑原

八歳の時に有名な※1二川相近(ふたかわすけちか)に入門しますが、言道の考えは次第に師を離れていくのです。そして、まったくオリジナルの道を歩みだす。だからすごいんです。
言道が入門した頃は相近が39歳ぐらい。油ののりきったころでした。
相近は福岡藩の料理人頭でしたが、書家で、画家で、笛や琴の雅楽演奏にも長(た)けていて、すべてが一流の人物でした。マルチな才能を藩に認められて家職の料理人を免じられ、文や、筆や、音曲で藩に仕えていたのです。※2"今様(いまよう)"の作者としても知られ、彼の作による

嶺の嵐か松風か 尋ぬる人の琴の音か
駒をひかえて聞くほどに ※3爪音しるき※4想夫憐
嶺=みね・尋=たず・音=ね・爪音=つまおと・想夫憐=そうふれん

は、筑前今様の秀歌として知られています。

  • ※1 二川相近 ふたかわすけちか(1767~1836)(明和4~天保7)
  • ※2 今様=和歌は31音が基本だが、平安中期頃から白拍子(しらびょうし・歌舞芸人)や遊女が七五調(もしくは八五調)四句の歌謡を歌い出して、当世風ということで、今様とはやされた。のちに後白河法皇が「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」に集大成された。
  • ※3 爪音しるき=琴を弾くすばらしいつまびき
  • ※4 想夫憐=古代中国の晋の話を曲にした雅楽のひとつ。失脚した大臣王倹の清廉がわかって再び重用されたことを泥中の蓮の花にたとえてつくられたという。小督局(おごうのつぼね)が弾奏して天皇への愛情を偲んだという平家物語の話で有名。

桑原

相近は伝統を踏まえた歌の大家ですが、弟子の言道はなににも縛られないで、自分の見たまま、感じたままを詠おうと思う。
人の顔かたちが違うように、歌もそれぞれ違うのが当然。師匠の好みで歌が選ばれるのはおかしい。個性の尊重をと。

松本

主張の清新さ、そして激しさ(笑い)。

桑原

35歳のころから、一家の新風を生み出した歌の革新者です。
振り返って、12、3年前までは人まね人形の木偶(でく)、のような歌を詠っていたと言っているのですから(笑い)。
相近先生と考え方が根本的に違ってウマが合わなくなる。仕方がありませんね。

松本

言道にとって、相近は今でいう"反面教師"だったのですね。

桑原

それも、"最高の、立派な"反面教師だったのですね。
それで、よほど思いつめたのか、ぽっと江戸に行ってるんです。だが、なぜ江戸へ行ったのかはわからない。そして江戸の歌が残っていない。
反対に、大阪の歌は多い。歌集出版のために10年もいたからでしょうが、すっかりなじんで、たくさん詠んでいます。
江戸では、どうして歌がないのか、言道のミステリーですね。
だから私は、相近との関係があって江戸に※5韜晦(とうかい)したのではないかと思うのです。思い悩んで、江戸にドロンをきめこんだのかと想像しています。
江戸に出かけている間に相近が亡くなるのですが、三回忌には弟子たちにも歌を献じさせ、きちんとお参りもしています。言道は礼をつくす人だったのです。

  • ※5 韜晦=自分の存在を隠しくらます

一日百首で、見るもの思うものを歌に

言道の書
「時ニ随(したが)フ」(個人蔵)

桑原

言道の歌への真摯(しんし)な取り組み方にも目を見張ります。35歳のころから日常に目にふれるもの、属目(しょくもく)をすべて歌にして、一日百首を目標にして、弟子にもそれを課したのです。
ただ、初孫ができたときだけは嬉しくて、60首とサボったらしい。お弟子さんがこの例外を、ちゃんと証言しています。

松本

可笑(おか)しいですね。言道先生、嬉しくて、お酒を飲み過ぎたのでは。でも、いいじゃないですか(笑い)。
ところで一日百首というと、作るのも大変ですが、紙代だって大変だったでしょう。つましい時代ですから夜は灯りの菜種油もいるし。

桑原

長女のしなが唐人町(とうじんまち)[福岡市]の漢古堂という中国渡来品などを扱う商家に嫁いでいて、紙も扱っていたので、ずいぶん現物支援を受けたようです。
面白いのは、言道が40歳のころ100日かかって書いた約1万首の短冊を、田んぼの雀脅しに使ってくれと近くの農家に配っているんですね。
これは反骨なのか、宣伝なのか、それとも飢饉が続いたので五穀豊穣(ほうじょう)を祈ったのか。
言道は、隣の小父さんといった、のどかな印象の人だったようですが、内には強烈な意志を秘めている、したたかな人でした。私の歌を見ろと、昂然たるものがあったのでしょう。

松本

それにしても、短冊1万枚が田んぼにひらひら。のどかでひろやかな風景で、いいですね。雀も感じいって稲をたべなかったのかな(笑い)。

司会

身分と歌道の制約ががんじがらめだった時代に、言道の歌はその制約をとびこえて、のびやかだったのですね。言道の歌に、商人や百姓が乾きに水を得たように歓喜したのもうなずけますね。
では、残っている幾万首のなかから10首ほどご披露ください。たいへんでしょうが(笑)。

桑原

博多の者は博多の歌をといった言道だけに、博多のあちこちを詠った歌が多いですね。
室見川の白魚(しろうお)の歌や、博多名産の博多帯の歌。清流だった樋井川の歌、宝満山の歌。それから千代の浜辺の今の九大医学部の対岸にあった色里[遊廓]の歌。そして浜づたいの刑場の歌など。

松本

それらを眠らせていては勿体(もったい)無いですね。

桑原

ゆかりのところに歌碑を作ればいいですね。
あちこちを詠った地誌的なもののほかにも、生活の歌、心境の歌と、実にたくさんのテーマで歌を作っています。藩庁がハラハラするようなことも平気で詠っていて、大阪の奉行所が歌集「草径集」の出版をよく許可したものだと思います。
全身が好奇心とチャレンジ精神のかたまりだったのですね。
ただ不思議なのは、博多山笠の歌が見当たらない。どうしてなのでしょうね。
その中から10首ですね。じゃ、私の好きな歌ということで、

しらぎより しぐれの雨や 降りくらむ
からにしきなる 筑紫路の山

  • しらぎ=新羅、古代朝鮮半島の一国
  • しぐれ=時雨。晩秋の通り雨

夏くれば 水にすみても あるばかり
裸わらはの むるるなの川

  • 裸わらは=裸の童
  • むるる=むれになって
  • なの川=那珂川

なの川の 蓼の穂つみて 酒のまむ
をかしき友を 一人見出ば
蓼=たで・見出=みいで

のぼり得で かごに入りたる しろうをは
水の落せる 命なりけり

  • しろうを=室見川の白魚

ことなくば 花のもとにて 暮らしなん
帰るさまには 月も出ぬべし

  • 帰るさま=帰るとき

いづこにて 折りしか酔ひて おぼえねど
枕にたてる 花の一枝

  • =桜

こたへする 声おもしろみ 山彦を
限りもなしに よぶわらはかな

いくばくの 劣りまさりも 見えぬ子の
負へるおはるる あはれなるかな

与へたる ものの礼さへ 言はぬかな
飼ひ犬ならば 尾をもこそふれ
礼=いや

けふはけふ あらむ限りは のみくらし
明日のうれひは あすぞ愁む
愁=うれへ

  • うれひ=憂い、愁い

松本

何かを送って、礼をきちんと言わぬ連中に怒りをぶっつけている。正直ですね(笑い)。
おわりの歌が酒好きの言道先生らしくていい。なるほど、肩を張っていない(笑い)。

桑原

酒の友を迎えて、いそいそと川っぷちの蓼の穂をとってきて、酒の肴にしている情景が目にうかびますね。
酒で失敗したことがあって、愛宕(あたご)神社に参って、禁酒を誓うことも考えたでしょう。瓢箪に、「いまからオレに酒を飲ませるな」と言う歌を書いてぶらさげてもいたそうで……。

松本

愉快な人ですね。でも飯塚のシンパは酒造業だし、各地でも好きな酒が出る。禁酒はとてもむりだったでしょうね(笑い)。

桑原

そのように一見飄々とも見える言道の日常ですが、大阪滞在の晩年の10年は維新前夜です。
黒田藩は勤王か佐幕か、攘夷か開国かで物情騒然、騒がしかったころですね。町民の言道は、その激しいうねりを歌一筋に超越している……。
彼は彼の流儀で、歌を町民や、百姓のものにと、和歌1,000年の維新に挑んでいたのでしょう。

言道と曙覧

「ささのや」略図 梅野満雄氏による

桑原

時代をともにした人に、同じように庶民の歌を詠い、同じように維新の前夜に亡くなった福井の橘曙覧がいます。
幕末の二大歌人として並び称されているんですが、二人の活躍の場が、中央の文化圏である江戸や上方(かみがた)[京都、大阪]ではなくて、地方だったのが面白いですね。

松本

橘曙覧は、「たのしみは」の連作でよく知られていますね。
今の民主的な時代に受け入れられるテーマの歌が多いようで。

たのしみは 朝おきいでて 昨日まで
無かりし花の 咲ける見る時

たのしみは 妻子むつまじく うち頭
ならべて 物をくふ時
妻子=めこ・頭=かしら

たのしみは まれに魚煮て 児等皆が
うましうましと いひて食ふ時

たのしみは 客人えたる 折りしもあれ
瓢に酒の ありあへる時
客人=まろうど・瓢=ひさご

  • ありあへる時=ちょうどいいあんばいにあった

たのしみは 家内五人 五たりが風
だにひかで ありあへる時
家内五人=やうちいったり

  • 風=風邪

だが、悲しい歌も。4歳の童女を疱瘡(ほうそう)で亡くして

きのふまで 吾が衣手に とりすがり
父よ父よと いひてしものを
衣手=ころもで

松本

悲痛な歌ですね。言道と曙覧、二人の歌を対比しますと.....。

桑原

言道は"日常性"を詠った、画期的な歌人です。
曙覧も日常の歌を詠んでいますが、勤王の歌人で、激しい尊王攘夷の歌が多い。銀山の労働を詠って、めずらしい"労働歌"の歌人としても知られています。

松本

二人それぞれに、スタンスが違うのですね。

今泉公園の歌碑

桑原

そうです。曙覧は殿様の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)に大事にされましたが、言道は殿様の黒田長溥(ながひろ)さんと縁がうすいんです。
春嶽は幕府の親藩ながら、大老の井伊直弼(なおすけ)の施政に反対した英明な殿様です。
黒田藩は隣藩の鍋島藩と一年交代で長崎警備の役目がありましたから、殿様の長溥もオランダを通じて西洋に関心を持ち、蘭癖大名として知られていました。
だが言道には、関心がなかったようでちょっと不運でした。
曙覧の人間味のある歌には魅(ひ)かれますが、こちこちの攘夷論者でしょう。歌も昔風の題材や懸(か)け言葉を多用しています。
どうも私には、日常をありのままに見た言道の自然さのほうがなじめますね。

松本

先生の好みでは、言道のほうが歌格が上ということのようですね。やはり、博多の人ですね(笑い)。

桑原

いや、いや。それでも、福岡市のアジア文化賞をもらわれたドナルド・キーンさんが、近著の「日本文学の歴史」(中央公論社)で二人を対等に評価していますね(笑い)。

司会

司馬遼太郎さんが、日本人以上の日本人と一目置いていたキーンさんに評価されたから、引き分けですね。

桑原

年齢は言道のほうが14歳年長です。だが二人とも明治維新の成立を見ずに慶応4年、ということは明治元年ですが、維新の直前に亡くなっている。不思議な暗合ですね。

松本

二人は生前に交流は。

桑原

それがまったく無いようです。幕藩時代の福岡と福井は、とても想像できないはるかな距離だったのです。
二人とも明治時代になって再発見されたのですが、橘曙覧の旧居は福井市で大事に保存されているのに、大隈言道の福岡市中央区の旧居「ささのや」(池萍堂)は、昭和41年に売却されて跡形もありません。
南と北を代表する維新前夜の二大歌人だけに、言道の不運が残念ですね。

松本

「ささのや」は空襲も免れていただけに、惜しいことでしたね。

桑原

庭内にあった言道"発見者"の佐佐木信綱博士書の「大隈言道大人(うし)旧宅」の碑、金子堅太郎伯爵書の「大隈言道翁旧蹟」、清浦奎吾(きようらけいご)子爵書の詩文、言道が入門していた広瀬淡窓(ひろせたんそう)の詩ですが、この3つの石碑はもらいうけて、とりあえず隣地に移しました。

松本

それだけでもよかったですね。庭の風情などは。

桑原

樹木や芭蕉が茂った敷地254坪、瓦葺きで平屋建てのたたずまいでした。
幸いに言道研究家の梅野満雄さんが克明に記録して残されています。

松本

それなら復元も夢ではない。

桑原

たたずまいを想いうかべることはできますが、ビルが建っているので無理でしょうか。
その後、市も文化顕彰に熱心になって、平成4年に、近くの今泉公園に言道の歌碑が建てられ、石碑も移設されました。こうして福岡市に、言道の初めての歌碑が誕生したのです。
穴山健(たけし)、遠藤益太(えきた)、中野三敏(みつとし)の3氏と桑原廉靖(くわはられんせい)が選歌を委嘱され、数万首の歌から、2首を選び出しました。

うゑおきて たびにはゆかん さくらはな
かへらん時に さきてあるやと

  • 植えおきて旅には行かん 桜花 帰らん時に 咲きてあるやと

何乎為暇装無東歳毎尓
日短乎侘留頃哉

  • なにをする 暇もなしと 年ごとに 日の短さを 侘びるころかな

前の歌は私が所蔵している「春野(しゅんや)集」から、あとの歌は「草径集」にのっている歌で、市場直次郎(いちばなおじろう)先生所蔵の掛軸の書から、言道の筆跡のままをうつしました。

松本

歌も、書も、いいものを選ばれましたね。姿勢をただして、拝誦しなければ。
それにしても、大隈言道は橘曙覧とともに幕末を代表し、歌の歩みに巨きな足跡をのこした博多の大歌人なのに、私たちはあまり知らない。言道さんに申し訳ありませんね(笑)。

言道を信網、曙覧を子規が"発見"

梅野満雄氏蔵

松本

言道"発見者"が佐佐木信綱博士とおっしゃいましたね。

桑原

明治開化は西洋礼賛で、固有の日本文化は二束三文と受難の時代でした。博多の大隈言道も、福井の橘曙覧も、すっかり忘れ去られていました。
二人の大歌人が蘇るには、それにふさわしい大物の発見者が用意されていたのです。

松本

二大歌人にふさわしいドラマですね。

桑原

明治の中頃になって、やっと、日本文化を見直す気運が生じてきました。
新聞「日本」で、「歌よみに与ふる書」を発表して、和歌復興のリーダーだった※1正岡子規(まさおかしき)が、まず橘曙覧を発見したのです。
そして著名な歌人で、学者である※2佐佐木信綱が、明治31年の夏、神田神保町のゆきつけの古本屋で、大隈言道の『草径集』を発見するのです。その感動のさまを『ささのや記』の信綱の記から見てみましょう。「その夜の月の光、青くほのぐらかった光は、今も忘れがたい。明治31年8月の夜、むしあつい夜であった。空には月があった。(略)
末広町の角の古本屋で錦絵をも商(あきな)ふ吉田金兵衛の店の前に、吾が歩みはとまった。(略)半紙がたで薄茶色の表紙の草径集といふのがある。とりあげて見た。3冊で、歌の集である。上巻を開くと目に入ったのは

ききすてて いひたく親の みぬ間にも
聲の限に 泣くうなゐかな
(略)これはと胸をうたれて、さらに下巻をあけると

  • いひたく=飯を炊く
  • うなゐ=幼児

放つ矢の ゆくへたづぬる 草むらに
見出て折れる 撫子の花
見出=みいで・撫子=なでしこ

撫子といふ題で、かういふいきいきした歌を詠んでをるのはどういふ人であろうと、序文を見ると、名を知らぬ人で、大隈言道とある。直に買ひ求めた」とあります。
そして、天文を志す人が、新しい星を発見したときの心地もこのようなものであろうと、感動しています。

  • 正岡子規 まさおかしき(1867~1903)(慶応3~明治35)
  • 佐佐木信綱(1872~1963)(明治5~昭和38)

松本

こちらまで博士の感動が伝わるようです。思わぬ大発見でしたね。

桑原

信綱は新鮮な詠風におどろいて、どういう人だろうかと友人の子規や誰かれに尋ねてみるがわからない。
それで梅野満雄というひとと協力して言道を調べ、15年かかって、大正7年に共著の「大隈言道」を出版するのです。
その序文に「福岡の歌人大隈言道の名は、久しく埋没して世に知られざりき。しかも、言道は、和歌史の上に永遠に伝へられるべき偉人なり」とあります。
言道に傾倒した信綱の感慨が読み取れます。言道の見事な回生ですね。

松本

人間のふれあいの不思議を感じさせられますね。

桑原

縁は縁を招(よ)ぶのでしょうか。信綱の父の弘綱と言道は親交があって書簡が残っていた。でも、当時は全く気がつかなかったのだそうです。
ところで、言道を発見した佐佐木信綱は、短歌革新運動を興し、万葉学の基礎を確立した学会の碩学(せきがく)でしたが、子規に比べると地味な活動でした。
一方、曙覧を発見した正岡子規は、陸羯南(くがかつなん)の新聞「日本」で健筆を揮い、近代俳句誌「ホトトギス」と、短歌革新の歌誌「アララギ」を創刊し、近代日本の文化の骨格をつくりました。

松本

共におおきな人ですが、応援団としては言道のほうが少し分が悪かったようですね(笑)。

百部出版の「草径集」

「草径集」原本

松本

ところで言道の歌は、黒田藩の武士たちには。

桑原

それがあまり受け入れられなかったようですね。
藩内では、藤田正兼という人の歌が正統派として受け入れられ、言道の歌は町人や百姓むきの歌と軽んじられていたのです。
だが言道はしたたかで、負けてはいません。

松本

だから大阪まで出かけて、歌集を出そうと。

桑原

自分の歌風を天下にひろげようと考えた。60歳のときですから、当時ならみんな隠居です。志の鮮烈なこと。覇気満々に驚きますね。
そうして上阪して6年目、66歳のときに「草径集」三巻を発行しています。

松本

たいへんな、熱意ですね。

桑原

当時の出版は、京都、大阪、そして江戸の3都に限られていました。
大阪奉行所の手続きが面倒な上、旅費滞在費まで大変な費用です。
それらは、娘の嫁ぎ先や富裕な弟子たちがサポートしたのでしょう。

松本

出版されたのは「草径集」だけですか。

桑原

言道には20数巻の歌集がありますが、みな手書きですね。そのなかでただ1冊、生前に木版で印刷されたのが、この『草径集』なのです。
言道が筆で書いた歌を、版木職人に彫らせて、文久3年(1863)に、やっと100部出版された。たいへん貴重な本なのです。
幸いにこの本は、昭和13年に岩波文庫に取り入れられ、平成元年に再刊されています。

松本

その問題の、「草径集」を先生が持っていらっしゃるんですね。

桑原

ええ。この和とじ本で、上中下の3冊本、私の宝物です。

松本

言道の流麗な筆跡のままを木版に。これはとても読めない(笑い)。大阪には長逗留だったのでしょう。

桑原

10年もいたのですからね。後に明治政府で活躍する金子堅太郎[伯爵]の父の金子清蔵が、大阪の黒田藩屋敷で国元と大阪の物資集散の役目をしていました。その人が、言道の暮らしを見かねて、手伝い役にしたのですね。
言道の歌名は大阪まで響いていましたし、のちには難波(なには)三筆の一人に目されるほどの名筆でしたから、豪商鴻池(こうのいけ)の接待にも同席したりと、結構のびのびと暮らしているのですね。

松本

そういえば、飄々洒脱(ひょうひょうしゃだつ)で博多の傑僧として知られた仙さんも同時代ですね。聖福寺(しょうふくじ)の塔頭虚白院(たっちゅうこはくいん)の住職でしたが、二人の交流は。

桑原

仙さんは言道より48歳も年上です。ただ歌の師匠だった二川相近と仙さんが、よく往き来していたそうですから、言道も仙さんの話を聞いたことはあったでしょうね。

先祖に清少納言「ひとりごち」の本音

言道サイン
春日和音男氏所蔵より

松本

彼の歌風をうかがえるもの、彼の考えをまとめたものは……。

桑原

「ひとりごち」があります。彼の歌論集ですね。
書題は "独言、ひとりごと"という意です。それに、博多の者は博多の歌をとか、今の天保の歌をとかいったことが、みな載っています。
「此度(このたびは)は何の体(てい)などとかまへずして、近古の体、うちまじりて出で来るぞ自(おのずか)らなる」と、心の赴くままに作ればいいと書いている。

松本

極めて自然体ですね。

桑原

面白いのは、「己が家せまくいやしきは言ふも更なれど、山野凡(およ)そ10里余りの展望ありて」とあります。
言道の住んでいた今泉(今の天神)の「ささのや」から北は立花山、若杉山、東に四王寺山、宝満山、東南に天拝山、脊振山など一望できたのですね。

松本

今泉だから、都心の天神四つ角から数100メートル南で、今はビルにさえぎられ展望ゼロ。のどかなよい時代だったのですね。

松本

ところで言道の家族関係は。

桑原

言道は二男二女の子持ちですが、長女しなが嫁ぐ時に、自分が書き留めたこの「ひとりごち」を、花嫁道具の中にいれて持たせているんです。
当時の言道は、家業の質屋さんがまだ羽振りがよかったらしく、唐人町までの花嫁行列の見事さに、家をとびでてみる人が多かったそうです。

松本

嫁いでいく長女に渡した「ひとりごち」は、言道の歌の考え方のエキスで、いわば家伝書ですね。子孫にあとをついでくれということでは.....。

桑原

そう思いますよ。片仮名で書いて、難しい字には読みやすいようにちゃんとルビをふっているんです。

松本

「草径集」の著者名は大隈のほかに清原言道ともある。名家の流れだったのですか。

桑原

祖先は天武天皇の第3皇子だった舎(とねり)親王で万葉集にも登場しますが、子孫が臣籍に降下して清原姓を名乗ったのです。
だから先祖の清原家に清少納言がいる。平安中期を代表する閨秀歌人で、有名な「枕草子」の著者として知られていますね。これは歌人の言道にとっては大きな矜(ほこ)りだったのですね。
「草径集」に、福岡の高宮を詠んだ歌があるんです。

けさ見れば なびく霞の おのれから
かかげて見する 高宮の里
霞=かすみ

この歌から清少納言とのかかわりがうかがえるのです。

松本

どうしてですか。

桑原

清少納言が「枕草子」に引用した「白氏文集(はくしもんじゅう)」に、白楽天の、「香炉峰(こうろほう)の雪は簾(すだれ)をかかげて看(み)る」という有名な詩がありますね。
言道の高宮の歌は、そのひそみにならったもので、言道がいかに清原氏であることに矜(ほこ)りを持ち、先祖を大切にしていたかがわかりますね。

望東尼もお弟子さん

松本

筑前勤王のヒロインで歌人だった野村望東尼が言道のお弟子さんというのがいいですね。花があって。

桑原

彼女は27歳のとき413石取りの主人、野村新三郎貞貫(さだつら)と一緒に入門しています。言道の新風に魅かれたのでしょう。
さっそく、「花を貰(もら)ひて」という題を与えられて、一日百首に挑んでいます。

松本

美しいお弟子さんをえて、言道先生も気分晴れ晴れで(笑い)。

桑原

望東尼の歌文集「向陵集」に序文をたのまれて、「おのれ教へ子あまたなれど、またたぐひあることなし」と記して、望東尼のように優れた弟子は二人といないとべた褒めしていますから、お気に入りの優れたお弟子さんだったのでしょうね。
大阪滞在のとき吉野山に遊んで

つみとりて みればかはらぬ ものながら
はせ山ざくら 見ればことなる

  • はせ山ざくら=長谷観音の山桜(はせかんのん)

と詠んで、桜花の一枝を舟便で国元のもと子[望東尼]に送っているほどです。
望東尼は望東尼で、師の言道が居心地のいい飯塚の弟子たちの家へ行って、いつまでも帰ってこないと腹を立てています。
それだけではなく、桜ばかり可愛がって、福岡の私たちには関心が薄いと愚痴ったりしています。

松本

花が感じられて、なんだか、ほっとしますね(笑)。

桑原

言道先生をひたすらに敬慕していたのですね。
主人を失って剃髪した望東尼は、文久元年に東上して大阪の言道をたずねます。
彼女の「上京日記」に、「いそぎ大隈言道大人(うし)のもとに行く。嬉しさいふばかりもなし。ただかたみに[お互いに]涙さへこぼる」と、その思いを記しています。

松本

勤王歌人、野村望東尼の歌の素地は、美しい師弟関係から養われたのですね。

桑原

言道は望東尼の歌集「向陵集(こうりょうしゅう)」の序文に、
「彼女には、風流を愛し、歌を詠う心がある。これは日本国のたいへんな宝で、とつくに[外国]まで誇れることだ」という意味のことを書いています。
幕末の激動を京で目(ま)の当たりに見た望東尼は、帰国してから勤王派にのめり込んでいく。彼女の平尾山荘は勤王派のアジトになって、平野国臣(くにおみ)や高杉晋作等がおとずれていました。
慶応元年(1865)に藩論が一変して、筑前勤王派の加藤司書(かとうししょ)等が切腹や斬罪にあいました。いわゆる乙丑(いっちゅう)の変で、彼女も玄界灘の姫島に流罪になるのです。
姫島の牢に幽閉されているところを高杉晋作が仲間を送って救援する。維新史を飾るエピソードですね。
そして維新前夜に死ぬ晋作をみとり、辞世のあとの句までつけています。
晋作が「おもしろきこともなきよをおもしろく」と上の句。それに望東尼が「すみなすものはこころなりけり」と下の句をつけ、晋作が「おもしろいのう」と言って息を引きとったことはよく知られています。

松本

その望東尼の影響、弟子の影響というのもおかしいですが、言道は当時の激流であった勤王に関しては。

桑原

無関心の姿勢をとっていましたが、「草径集」をよく読んでみると、言道が国のことを憂えている気持ちがうかがえます。
勤王のことから言道と望東尼が仲違いをしたとも伝えられていますが、文学の深い理解者で歌人長塚節(ながつかたかし)の主治医でもあった久保猪之吉博士が、これを見事に否定しておられます。
勤王に尽くした望東尼が、師の言道に迷惑をかけてはと、晩年は間を置いていたのでしょうね。

桜と言道

言道サイン
春日和音男氏所蔵より

松本

言道の桜のぼせはすごいんですね。

桑原

桜を詠んだ歌が2,600首ぐらいあります。
私は言道に魅せられて「大隈言道と博多」[海鳥社刊]を出したのですが、彼の桜のぼせに私ものぼせてしまって(笑い)。とうとう「大隈言道の桜」という第2冊を出しました。

松本

どうしてそれほどまでに桜に魅せられたのですか。

桑原

言道には恋の歌がない。しかしよくみると、桜を恋うている。花の中に女人を見たのです。

神にだに 祈らまほしく なりにけり
わが待つ花や 恋のあだ人

  • 恋のあだ人=気まぐれな恋人

と詠んだ言道ですものね。

松本

昔の人は、ゆかしいですね(笑)。桜の歌というと西行(さいぎょう)や本居宣長(もとおりのりなが)の歌を思い出しますが.....。

桑原

桜が好きな言道は西行に憧れていたんですね。西行の

ねがはくは 花のもとにて 春死なん
そのきさらぎの 望月のころ
望月=もちづき

はよく知られていますね。
言道は西行を敬慕して、西行の歌を親歌にした歌をたくさんつくっています。
自在に軽みにあふれている句をつくった芭蕉(ばしょう)にも傾倒して、庭にたくさん芭蕉を植えたりしています。
また、自宅を「池萍(ちへい)堂」とも言っている。萍は池や沼の浮き草です。
歌風の相違から、二川相近の門は離れましたが、42歳のときには、日田まででかけて、広瀬淡窓の咸宜園(かんぎえん)の門を叩いています。
現在残っている入門簿に「筑前福岡、大隈清助、42歳入門、天保十己亥四月十日」とあります。
淡窓は西国一円から門弟4,000人と言われた当時第一の大学者です。よく知られた淡窓の詩に

休道他郷多苦辛
道うを休めよ 他郷苦辛多しと(いうをやめよ たきょうくしんおおしと)

同袍有友自相親
同袍友有り 自ら相親しむ(どうほうともあり おのずから あいしたしむ)

柴扉暁出霜如雪
柴扉暁に出ずれば 霜雪の如し(さいひあかつきにいずれば)

君汲川流我拾薪
君は川流を汲め 我は薪を拾わん(くめ たきぎをひろわん)

がありますね。
漢詩にすぐれ、人まねを退けた淡窓は、個性の発揚を尊重した学者で、言道は通うものを感じていたでしょう。
言道は和歌がうまいし、漢詩も上手です。淡窓も言道の入門願いには驚いたでしょう。それで客分扱いになるんです。後に淡窓は言道の「ささのや」(池萍堂)を訪ねています。
私は独自の平明な歌の道を開いてきた言道が、淡窓の胸をかりて自分の歩みを確かめてみたかったのだと思っています。

アメリカから"言道"コール

桑原

言道は生活派詩人ですから、これからますます注目されるでしょうね。
福岡市のあちこちをたくさん歌っているのですから、次々に私たちの誇りである歌人の歌碑が建てられればいいですね。
窪田空穂(くぼた うつほ)さんの歌に

生まれかへり 歌は詠まめと
言道も曙覧もいひぬ かなしやも歌は

とあります。歌詠みの業のようなものでしょうね。
そして、歌は国境を越えるんです。アメリカのイリノイ州立大学のロジャー・トーマス助教授から、
大隈言道の研究をしているので協力をという手紙が舞い込んで面食らいました。
若い時から尺八を習い、福田蘭童の曲が殊に好きだと言われる。蘭童の父は夭折した洋画家の青木繁です。
そして青木繁の友人が言道発見に尽くした同郷久留米の梅野満雄さんです。
太平洋をはさんで、大隈言道学のよきライバルがいる。言道との縁のひろがりにびっくりしました。
スペイン語で『草径集』を出した人もいるのですよ。

松本

アメリカやスペインで言道の歌が。いいですね。大隈言道が、歌が、ますます新鮮に、
身近なものに感じられてきましたね。
ところで終わりに、先生の歌をひとつご披露ください。歌碑になった、お歌をぜひ。

桑原

いや、恥ずかしいですね。では思いきって、

武者絵馬に 少年の日の名はありて
兵には召され 発ちてゆきたり
発=た

那珂八幡宮(博多区那珂)に詣でると、氏子が子供のおりに奉納した絵馬があり、その行事は今も続いています。武運長久を祈り出征しましたが、多くの者が再び戻ることはありませんでした。歌仲間に強要されて拙い字を書きました。

司会

今に尽きぬ断腸のお気持ちなのですね。
今日は、ふかい、いいお話を、ありがとうございました。