No.65 福岡女子大物語

対談:平成9年4月

司会・構成:土居 善胤


お話:
福岡県女子専門学校 福岡女子大学同窓会 筑紫海会 会長 岡崎 ユウ氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 副頭取 中 脩治郎

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


「名流婦人」たちが女専を

年譜:福岡女専・福岡女子大学の75年

同窓会
「筑紫海会」70年誌

司会

福岡女子大学が、今年で開校七十五年ですね。そして同窓会の「筑紫海会」が七十年で、立派な記念誌*「檍が原から香住丘へ」が話題になりましたね。
まず、大正十二年に、女子大の前身の福岡県女子専門学校が福岡市に誕生したのですね。全国の公立女専のトップを切って。

岡崎

はい。学制改革で大学に昇格して、現在は福岡女子大学です。
七十五年前に、全国のトップを切って、福岡市に公立女専として誕生したこと、これは私どもの誇りなのです。

学生さんが、全学で約七百人の女子大ですね。男女共学のマンモス大学が多い中で、先生と学生、そして学生さん同士がみんな適度のふれあいがある。いまどき、そんなキャンパスはありませんね。

岡崎

はい。女専時代も、今の大学も適度のふれあいで、励みにも、親しみにも、よい雰囲気なのですよ。
そして同窓会の結束にも。

その同窓会、筑紫海会の会長さんを岡崎先生がされているんですね。会の名も、会誌の名もいい響きで。

岡崎

筑紫海会は女専設立の灯をともされた村上茂登子さんが、「筑紫」と「いつくしみ」から名付けられたのですよ。
七十年の卒業生は約九千人ですね。お元気な第一回生の方から若い卒業生まで、皆さんがこの会をとても身近なものに感じておられます。

では、まずは大学の前身の女専創立のドラマからお聞かせ下さい。

岡崎

私立の学校は、一人の方の理想や宗教の情熱から生まれることが多いですね。大学誕生物語は、偉人伝の重要な一章ですが、福岡女子大は違うんです。福岡県の婦人たちが、県知事さんや市長さんや、九州大学の先生方のご支援をいただき、女性に高等教育の場をと官民一体で、前身の女子専門学校を実現されたのです。

司会

官民一体というと、当時は官と民の男たちですね。それを、女性たちが。九州男児に福岡の女性も負けていない(笑)。

岡崎

旧制の学制では、男子は中学(五年)から高等学校や専門学校(三年)へ。そして大学(三年)への道が開かれていました。
だが高等女学校(高女)から大学への道はとざされていて、国立では東北大学や九州大学が専門学校卒業生に、わずかに門を開いているだけでした。

お茶の水や、奈良、東京女子大、津田塾などは?

岡崎

お茶の水や奈良は国立の女子高等師範学校、東京女子大、津田塾は私立の女子専門学校でした。女子大の名はついていても、内容は専門学校でした。
長崎に活水女子専門学校がありましたが、福岡には私立の女専もなかったのです。向学心に燃えた女性たちが高女から東京の女専へ進学したくても、遠方へは親が心配して許してくれない。彼女たちには、福岡女専がなによりの希望だったでしょうね。

女子教育に「橋」を

安河内知事

女専設立に、最初に灯をともされたのは?

岡崎

ドイツ留学から帰朝されたばかりの九州大学工学部の桑木 雄教授をかこんで、*安河内麻吉知事、久世庸夫福岡市長、武谷水域氏といった方たちが、福岡に女子高等教育の学校をと話し合っておられたのです。
東京では、福岡女専の初代の校長になられる東京大学文学部講師の小林照朗先生が、大学への「橋」になる女子高等学校の設立を文部省に要望されていました。

福岡でも中央でも、女性の地位向上と、男女の教育機会均等をはかる気運があったのですね。

岡崎

福岡の婦人たちも、遅れてはいません。新しい時代を敏感に感じ取って、福岡婦人会の会長の村上茂登子さんや裁縫女学校校長の伴タツさん、安河内知事夫人、久世市長夫人、山口ツギさん、森田タカさんといった、インテリ夫人の方たちも、女性の教育問題について話し合いを始められる。桑木教授がなさった「ヨーロッパでの女子教育の現状」の講演を聞いて、
婦人達は外国の進んだ女子教育に目を洗われたのですね。それで、女性の地位を高めるために、なにはおいても福岡の地に女専設立をと、燃えあがられたのです。

インテリで裕福な"名流夫人"の関心が、贅沢や遊びでなく女子教育だった。大正ロマンを感じますね。

岡崎

婦人会の人たちは、すぐに安河内知事、久世市長、九大の箕田貢、桑木教授を有力な後援者にして、「福岡女専設立期成会」を設けられる。そして桑木教授に、「女子専門学校の学制の研究」という設立ベースになる草案を依頼されるんです。

西島

タイミングのよさ。婦人たちの行動力には驚きますね。

お雛茶屋で“ドーナツ”

村上茂登子
(福岡婦人会会長)

さて、そうなると設立資金がたいへんですね。

岡崎

はい。公立女専ですから県の支援が一番で、各界の援助もお願いしなければなりません。だが、寄付をいただく前に、まず自分たちが資金を集めようと。

自助努力ですね。

岡崎

その頃、大正九年に、ちょうどタイミングよく、福岡市の須崎浜で工業博覧会が催されたのです。*村上茂登子さんが材木を寄付して会場に本格的な茶屋を作って、その売り上げを設立資金にと。「お雛茶屋」と名も決まって、政財界に影響力を持っておられた頭山満さんに「雛也」の大額を書いていただく。そして名流婦人たちが、五十日間もエプロン姿の甲斐甲斐しい接待でしょう。ずいぶん評判になったようです。

西島

博多の男は、女の人にいい格好をするから、当たったろう(笑)。

岡崎

当時の方の思い出をみますと、売れっ子の芸妓さんに、社長さんたちが気前よくなるコツまで伝授を受けて待ちかまえられる。福博名士を次々に通せんぼしたそうで、成果は大ありでした(笑)。
松本健二郎さんや安川第五郎さんら財界のお歴々も、気前よく“釣りはいらんばい”で。一般にも大評判で、売り上げがあがったそうです。

西島

お茶屋といっても、ハイカラにコーヒーやったろうか。

岡崎

いちばん人気があったのは、ドーナツで、ハイカラだったんですね。ドーナツ二個とお茶で十銭だったそうです。
黒田のトノサマ(侯爵)がこられるというので、婦人たちが正装でお待ちしていましたが何かの都合で来られない。がっかりしていると、家令さんがご祝儀を持ってこられた。四十円はいっていたそうです。

西島

高いドーナツ代で(笑)。

お雛茶屋で売られた大学
ひな人形のデッサン

岡崎

そのほかに、女子美術学校の加藤トヨ先生が考案された大学人形が評判になって、とてもよく売れたそうです。黒い角帽にうす絹の洋服を着た丈十センチの可愛い人形で、女学校の生徒さんの応援もうけてみんなで作られたのです。
そのお人形が一体だけ、大学の学長室に大切に保管されています。歌人の白蓮さんもお雛茶屋の茶室の奥で、短冊や色紙を書かれて支援してくださっています。歌を書かれた楽焼の湯飲みや皿が、一個十円でとぶように売れたそうです。

女専へのステップ

そうして、女性たちが女専設立の灯を、福岡県にともされたのですね。

岡崎

なによりのことに、当時の知事さんが、女子教育に深い関心を持っておられた安河内麻吉氏でした。
すでに大正八年に、視学を上京させて女子教育の現状を視察させ、小林先生の意見も聞いて、公立女子専門学校設立の準備を進めておられたのです。

いいタイミングだったのですね。

岡崎

はい。安河内知事は大正九年十一月の県議会に、福岡県立女子専門学校の設立を提案されます。建築予算は四十五万四千二百五十円でした。

西島

スムーズに通ったので…。

岡崎

いいえ。県議会で、諸費緊迫のおり、不急のことだと否認されます。
だが女性たちはへこたれません。議員さんごとに分担して、一人一人の説得作戦にかかられる。

議員さんも、たじたじで(笑)。

岡崎

その努力が実って、翌十年の十二月に、二十四万九千八百一円に減額した設立予算が、県議会で全員一致で承認されるのです。

西島

ずいぶん減額でしたね。

岡崎

でも福岡市から、七万五千円の援助がいただけたのです。婦人たちもお雛茶屋の収益目標を一万円にきめて一生懸命です。不足の千円は村上夫人が寄付され、茶室もばらして別荘用に八百円で売却。頭山さんの軸も高価で売れたそうです。
安河内知事は県議会の女専設立の提案説明で、福岡市と婦人たちの支援に感謝し、「北斗があって、諸星が取り巻く。女専設立で、県下八千人の女学生が刺激を受け、福岡の文化が促進される」と、“北斗論”を述べて、たいへん話題になったそうです。

西島

それで、校舎のほうは?

岡崎

黒田藩の砲台跡だった須崎裏町で、敷地が四千九百三十坪(約一六三・二ヘクタール)でした。
いまの天神五丁目あたりで、県立美術館があるところですね。土木監督署の建坪三百坪の古い建物を改造して、校舎に当てたのです。

うら若い女性の学園には、ちょっと程遠い風景でしたね(笑)。

いよいよ“女専”開校

岡崎

文科と家政科、三学年の学生総数二百四十名で、大正十一年六月七日に、文部省の認可を受けたのです。

翌年四月から開校でしょう。大変ですね。

岡崎

設立事務所を県庁において、大変だったようですね。最初の校長先生が、女子の高等教育に先鞭をつけられた小林照朗先生でした。

当時の文部省も味な配慮を。それにしても認可から十か月で。よく開校できましたね。

岡崎

文科約四十名、家政科約四十名を募集して、翌年四月十七日に、第一回生の入学式を実施しています。

西島

見事ですね。学校にかけた虹というか、ロマンを感じますね。

岡崎

文科が約四倍の百八十二名、家政科が百五十五名の応募者でした。試験科目は国語、数学、理科、地理、歴史、作文の六科目でした。

初めての女性の公立女専で外地の人たちにも歓迎されたでしょう。

司会

女性史をご研究の武野要子先生に見せていただいた、開校時の熱気が伝わる福岡日々新聞の記事があります。
見出しが“女子教育の旺盛を語る”“遠く朝鮮台湾近畿からも押しかく”とあります。

岡崎

初年度の合格者は福岡県勢が多く、ついで九州一円から。東京、大阪、岡山、山口、そして朝鮮や台湾からの人もいました。評判がつたわって年々に広がっていったようですね。
私は昭和十九年に入学しましたが、試験のとき、前の人に、あなたどこからと聞きましたら、「私、北京よ」とあっさりした返事に驚いた記憶があります。

晴れ晴れの入学式女専一回生

女専一回生
女専 初代校長
小林照朗氏

司会

いよいよ待望の入学式で。

岡崎

晴れの第一回の入学式です。学生は、父兄同伴で、紋付きと紫紺の袴姿に感激を包んでいます。
小林校長先生はフロックコートに身をただして、「新時代の男女の教育への機会均等へ、第一歩を踏み出す諸姉は、校舎の貧しさに心揺るがすことなく、内面的教養の充実に専念し、理想高くリファインされた淑女として、社会の先覚者としての自覚を持って勉強されたい」と、熱意ほとばしる挨拶をされたそうです。

西島

“校舎の貧しさ”に、夢いっぱいの女学生ですね(笑)。

岡崎
教室も文科と家政科の二つだけです。そして入学生の半数が、寮住まいでした。
寮は赤坂門にあった松葉屋さんの店員合宿所を借り受けて、急場のしのぎにしたそうです。十九畳の広い部屋に十二、三人はいったという回想が寄せられています。

花の女専のお嬢さんたちが…。質素な時代だったのですね

岡崎

もっとも二年後には、須崎にガラス窓の明るい寄宿舎ができました。食堂もついていました。

そのころ、旧制の福高生はマントに高下駄で福博の町を闊歩していましたね。寮は自治の城とうそぶいて。

岡崎

でも女専は、寮は起床六時、門限五時半、自習七時から九時、消灯十時と厳しかったのです。

西島

大きな違い(笑)。

岡崎

外出も面会も帳簿に記入しなければならないし、郵便も舎監さんから渡してもらうのです。
寮に帰ると、袴を脱いで帯を締め、お太鼓を結んでおしとやかな淑女に変わります。
楽しみの食事は、家政科の三年生の献立で、すき焼きも出てご馳走だったそうです。食費は一月につき十二円。そして部屋は六畳に三人と。

ずいぶん改善されたのですね(笑)。その頃の学費は?

岡崎

授業料などは別で、だいたい一月三十円。寮費をひいた十七、八円がお小遣いでした。
自習時間にはそっと脱け出して、天神の凪州屋にアイスクリームを食べにいったりしたようで、舎監の先生も大目に見ておられたそうです。
日曜には、那珂川でボートにのったり、映画を楽しんだり。
中洲の映画館は、寿座、世界舘などで、四、五十銭。「外人部隊」「舞踏会の手帳」「モロッコ」「歴史は夜作られる」などの名作が次々でした。
九州劇場、大博劇場では文楽や、歌舞伎も楽しんだようです。

西島

そして、川端ぜんざいも。

岡崎

川端ぜんざいが一杯五銭、乙ちゃんうどんもたしか五銭。よき時代でした。
画家や、原田種夫さんらの「九州文学」の人たちといった、福岡の文化人が出入りしていたブラジレイロのコーヒーも十銭でした。
日曜日には寮でレコードをかけ、ワルツやフォックスとダンスに興じたりしたそうです。
そしてデパートは玉屋に松屋、岩田屋で、ささやかにおしゃれを…。

女専の学生さんは、本屋さんも。岡崎もちろん、勉強する女専生でしたものね(笑)。
土居町の丸善や、中洲の金文堂、唐人町の黒門書店では好みの本をさがしている女専の学生がいつも見られました。古本屋街もよくのぞきましたね。
だいたい十七、八円のお小遣いで、本や映画やぜんざいまで嬉しいやりくりだったのですね。

女専のお嬢さんらしく、カレッジライフを、たのしめたのですね。

お母さまごころ

なつかしい福岡市内電車路線

女専創立の大正十二年は関東大震災でしたね。

岡崎

九月一日でしたが、開校早々の福岡女専にとても痛手でした。
学校がスタートしたものの、東京が壊滅して、図書館に必要な書籍が入らないのです。

なるほど、困りましたね。

岡崎

それで、県立図書館へ通ったり、先生方の蔵書を拝借したりと苦労したそうです。
そのころ、女専設立に尽力された安河内知事は、神奈川県の知事さんでした。女専の恩返しだと、伴タツ先生が家政科の学生たちと布団をつくって、お見舞いに送られたそうです。

いいお話ですね。それで設立当初の先生方は?

岡崎

小林校長先生のほかに金ヶ原、伊東、丹羽、横田、竹下、森山といった先生がた、そして設立にかかわられた伴タツ先生も。
“伴さんの女学校”で知られた福岡裁縫女学校の校長先生で、「大学人形」の生みの親の加藤トヨ先生とともに非常勤講師で教壇に立たれたのです。

西島

お雛茶屋の皆さんは、アフターケアも十分で、さすがですね。

岡崎

婦人会の会長だった村上茂登子さんや君島実生子さんは、名士の講演会や茶話会に学生と一緒によく参加さ
れ、村上さんは自邸に学生さんを招かれたり。ずいぶん支援を続けられたのです。
卒業生たちは、この方々のご厚意を“お母さまごころ”と回想し、懐かしんでおられます。

西島

そうしたふれあいは、今もあってほしいですね。

岡崎

女専の創立に情熱を注がれた“お母様たち”は学生に手を添えないではおられなかったのでしょうね。

筑紫海会の七十年誌を見ますと先生方をずいぶん懐かしんでおられますね。

岡崎

「昔の先生って、何故あんなに素敵だったのだろう」と。それぞれに傾倒した先生の思い出を大切にしておられます。
先生も学生も、公立女専第一号と言う誇りと自負が、うるわしい師弟のふれあいと、校風をつくったのでしょうね。
回顧の座談会で先輩が、「学校の名前より大きな人になってほしい。“私は女専を出てます”でなく、それ以上の人になって下さい」と、先生に言われたことが忘れられないと、語っておられます。

華やかな女専スタイル

岡崎

不十分な設備でしたが学生たちはめげてはいません。「多難こそ生きる力、成長を一層強くする」「不自由は自由への門」と励まし合って勉学にいそしんでいたそうです。

西島

健気ですね(笑)。真面目な学生さんたちだったのですね。

岡崎

よく勉強していたんですよ。
当時はたいへん難しかったのですが、女専から九州大学へ進学する人もいました。
よく勉強していた一例は、「文検」免状を早くもらえたことですね。
旧制中学や高等女学校の中等教員資格検定が文検ですが、当時は非常に厳しい検定試験を受けて取得できたのです。
文検は個人でも取得できましたが、一般には学校単位の取得でした。学校が文部省に出願して、代表学年が受験するのです。クラスの平均点が合格点に達すれば、その受験科目について、その後は無試験で、中等教員免状が認められたのです。
女専の生徒はよい成績でしたから、家政科、文科、数学科の各科とも、一回生から免状を受けているんですよ。
私は数学科の一回生だったので、この試験をうけ、必死になって答案を書いたことを覚えています。
もちろん、よく遊び、よく学びでしたが(笑)。

西島

女専の学生さんは、紺サージの制服で華やかでした。良家のお嬢さんで福博の花でしたね。

岡崎

一見華やかでしたが、学生の心得要領をみると、「服装ハ簡易ニシテ質素ヲ旨トスベシ」とあります。服装のきまりは厳しかったのですよ(笑)。
髪は後ろに束ねた束髪でした。一尺八寸(約六十八センチ)の袖丈の着物に、紫紺のサージの袴を胸だかにはき、木綿の靴下に、編み上げの黒の短靴です。靴のかかとは一寸五分(約五・八センチ)以下、先太なることと指定されています。
そして夏は日除けのパラソル、冬は毛糸のショール姿でした。
このスタイルで、ブックバンドで十字にからげた教科書を小脇に、颯爽と博多の街を歩いていたのですから、やはり目立ったでしょうね。

西島

目の前に女専のお嬢さんが浮かびますね。
なにか郷愁を誘うような、夢二の絵に出てくる風俗のようで。

岡崎

昭和八年頃からは、和洋どちらでもよかったようで、その日の気分で楽しんでいたのですね。
その後セーラー服になり、西島先生の印象が深い紺サージのスーツの制服は昭和十二、三年頃から(笑)。戦時中はモンペ姿と変わっていきました。

西島

そうした華やぎと真面目さから戦前の女専スタイルが生まれたのですね。

みやびな名の校友会

校友会の「檍会」は、みやびな名称ですね。

岡崎

開校二年目に開かれた、校友会の第一回総会でこの名がつけられたのです。名付け親は、漢文の丹羽教授だろうと言われています。
檍は『古事記』の引用のようで、イザナギノ命が、妻のイザナミノ命の住むヨミノ国との境のヨモツヒラ坂で別れた後、ミソギ祓いをした場所という伝説の地名です。
その「筑紫の国の日向の橘の小門の阿波岐原」からとられたようです。

西島

さすがに…。国文に強い女専生でしたね。

岡崎

女専のあった須崎裏といえば女専生の誰もが懐かしむのが「檍が原」の呼び名です。
金ヶ原教授が作詞された校歌にも歌われた場所で、校舎の裏手をぬけたあたり、博多湾を望む袖ヶ浦の芝生におおわれた小高い丘を、女専の学生は檍が原とよんで愛おしんでいたのです。

二回の火災でキャンパスが香椎に

軍艦旗制作風景

檍が原から今の香椎まで、校舎が何回も変わりますね。

岡崎

火事と戦災にあって、校舎は四回変わっています。
昭和十二年に檍が原と親しんでいた須崎の校舎が、火災で全焼しました。
当時の新聞号外に「猛火天を焦し校舎総て全焼。損害二十万円」と報じられました。
それで福岡高女が移転してあいていた天神町の、今の新天町のところにあった古い校舎に移りました。今ではとても考えられない、つっかい棒で支えられた仮校舎でした。
焼け残った須崎の講堂と体育館は寄宿舎に転用されました。

西島

そのころから、次第に戦時体制にはいっていくのですね。

岡崎

昭和十二年から中国との戦いに。十六年から太平洋戦争でしょう。
勤労奉仕で、農家の田植えや、稲刈りや、麦刈りの手伝いに。須崎校舎の焼け跡もいも畑になって、学生は鍬を担いで食糧増産に通いました。
そして学生たちは、海軍の軍艦旗も縫っていました。

西島

私も水兵で海軍にいましたが敬礼していた旗がそうだったかな。

岡崎

そうかも知れませんね(笑)。
大きな旗なので、机をいくつも並べてその上で、赤の旭日の光をゆがまないように白地にぴしっと縫いつけていました。

勤労動員でも大変でしたね。

岡崎

私は当時学生でしたが、全員が渡辺飛行機工場や、兵器工場や、九州大学の研究室に手分けして動員されて、空襲のサイレンにおびえながらの、厳しい生活でしたね。

そして昭和二十年六月十九日に福岡大空襲ですね。

岡崎

これで学校は二回焼けたのですね。そして、八月十五日の終戦です。
そのころ寄宿舎は田島に移転していましたので、焼け残りの古い須崎の講堂と体育館を今度は教室にかえて、授業を再開したのです。ストーブひとつない部屋に、寒いすき間風が吹きぬけて、厳しい冬だった思い出があります。
それに簡単な仕切りでしたから、私たちが数学の問題を解いている最中に、国文の源氏物語の講義が聞こえてきて、頭の中は混乱してしまって(笑)。
女子大に昇格した後、昭和二十六年に旧制香椎中学あとの校舎に移りました。
“檍が原から香住丘へ”。それから次々に本格的な校舎が建てられ、施設も充実されて、現在の福岡女子大学の時代を迎えたのです。

天神仮校舎時代現在の新天町のところ(後方ビルは岩田屋デパート)

大学昇格へ

戦後を迎えて、いよいよ大学昇格ですね。

岡崎

戦時中に数学、物理化学、保健の三科が設置されましたが、昭和二十一年から学則改正で数学科、国語科(文科)、生活科(保健科・家政科)となりました。
そして昭和二十二年四月に六・三・三・四の新学制の発足です。新制中学が誕生し、翌年に新制高校、そして二年後の昭和二十四年に、新制大学が誕生することになったのです。
それにともなって、全国の旧制の高等学校と専門学校は、廃校か、二年制か、四年制に昇格かを選択しなければならなくなったのです。それで、福岡女専はどうするかと。

大問題ですね。それで。

岡崎

学校と、同窓会、在校生が一体となって、米田登校長先生を中心にして、大学昇格運動になるのです。

西島

当時の知事さんは、杉本勝次さんでしたね。

岡崎

はい。県はさっそく「福岡女子大学設置準備委員会」を設けて検討にかかられました。
はじめは、二十四年度の昇格は財政面から無理だから、二年制ではどうかという話だったようです。
でも私たちは絶対四年制だと、県会議員の方々に熱烈アタックで(笑)。
畑山四男美福岡市長や九大理学部の松浦新之助教授、法文学部平塚教授にも御支援をいただきました。議員の先生方も、県側もよく話を聞いていただいて、次第に順風に変わってきました。ありがたかったですね。
そして二十四年八月の文部省の内報では「教官組織は良好、設備方面懸念あり」までこぎつけましたが、まだ楽観できません。

学校が丸焼けだから設備は仕方がない。困ったですね(笑)。

岡崎

九月の県議会で、大学昇格が可決され、二十五年の二月に文部大臣承認となった嬉しさは、言葉に尽くせませんでしたね。

西島

やっと、学校と同窓生と在校生のがんばりが報われましたね。博多の女性はえらいですなあ(笑)。

岡崎

対応も早かったと思います。同窓会の「筑紫海会」では高橋節子会長・城野節子先生・目加田サクヲ先生の両副会長を中心に「大学昇格期成実行委員会」をつくって、学校と在学生とともに幅広い活動を展開していきました。

また資金作りですね。戦後だからたいへんだったでしょう。

岡崎

戦後早々で、県にも財政の余裕がありません。まず学校側が自主的に資金を集めて、後は県費をよろしくという時代でした。
総予算は二千四百二十万円で、県費一千四百万円、一千万円が学校側の負担でした。
その一千万円を同窓会が五百万円、在校生と大口寄付でそれぞれ二百五十万円ということでした。
寄付集めには、学校側とともに、同窓生がウーマンパワーを発揮しました。バザーも盛大でしたね。

西島

第二の“お雛茶屋”ですね。

岡崎

戦後の物のない時ですから、バザーの目玉は、同窓生や学生たちの手づくりの手芸品でした。お人形や、造花、手袋、靴下、帽子、バッグなどでした。
それからぜんざい、うどん、おはぎ、甘酒などの食べ物コーナーもうけたのです。
三回のバザーで二十万円の売り上げになりました。そのころ学生のアルバイト料が一日百円だったそうですから、なかなかのものでした。
材料は各自持参もありましたから、いい収益で…。

西島

いい伝統ですが、涙ぐましいですね(笑)。

岡崎

在校生は教育宝くじを天神で売ったり、ダンスパーティーを開いたり。
私も女専を卒業したばかりでしたが、支援価額で仕入れた化粧品や、鍋や蒸し器を売ったりと、先輩の方々と懸命に走りまわったものです。
食糧統制の厳しい時代でしたからバザー用の小豆を農村へ買い出しにいって駅で取り締まりのお巡りさんにヤミだと差し押さえられ、懇願して取り戻したり。涙の物語もあったのですね。
「宮城道雄大演奏会」を催し、森脇憲三先生の指揮で、在校生のコーラスも。その上、演劇部は真山青果の「生田川」と「アルルの女」の公演で十万円の収入をあげています。
景気のいい筑豊の炭鉱では出張公演にご祝儀をぽんと一万円、柳川公演で五千円と。

西島

エライなあ。本職が顔負けですね(笑)。

岡崎

そうして、次第に支援が固まっていったのですね。
戦後の財政窮乏のなかで、県も多大の出費をしてくださいました。福岡財界からも大きな支援をいただけたのです。ありがたいことでした。

いよいよ昇格

いよいよ大学昇格ですね。

岡崎

もと九州大学総長の奥田譲先生を初代学長にお迎えして、昭和二十五年四月二十四日に大学第一回生の入学式が催されました。

西島

多くの人の熱意と支援が結集して、福岡県を代表する女子大が誕生した。感動のシーンだったでしょうね。

岡崎

新入学の学生も学校側も来賓も、皆さん、四年制の福岡女子大学の船出に感慨深いものがあったでしょう。胸が震えるものがあったと思います。
第一回生は英文学科、国文学科、生活科学科の学芸学部百十五名で、第五回生からは文学部と家政学部の二学部に。
平成七年から英文、国文の二学科をもつ文学部と、家政学部の改組により、環境理学、栄養健康科学、生活環境学の三学科をもつ人間環境学部との二学部制になっています。

そして大学院もできましたね。

岡崎

大学院は平成五年に設置されました。そして平成九年に設置された英文学専攻の博士課程は、九州の国公立大学では九州大学についで二番目です。文学部では国文学専攻で修士課程、英文学専攻で修士と博士課程です。

文字通り、福岡県を代表する女子大になったのですね。

全クラス登場のすごいアルバム

同窓会
「筑紫海会」70年誌より

七十年記念誌のアルバムがすごい。全クラスの卒業生が登場ですね。

岡崎

『檍が原から香住丘へ・筑紫海会七十年の軌跡』と題しましたからに
は女専から女子大の全クラスの写真を記念として集めたいと思いました。
大正十五年に卒業された女専の第一回生八十三名から、平成七年卒業の女子大四十二回生、大学院第一回修了生まで、七十年にわたる約九千人の写真です。

西島

本当にすごいですね。お世話役の熱意もひしひしと。

岡崎

途中に戦災があり、戦後の外地からの引き揚げや天災と。女専の方は写真をなくされた人が多くて、全部そろえるのに、一年半もかかったんですよ。

西島

編集委員の人たちは大変でした
でしょう。

岡崎

スタイルも、フォーマルな卒業記念写真から、修学旅行、遠足、体育祭といろいろです。
和装から洋装へ。女専スタイルの変遷もうかがえますよ。

戦時色から復興時代もはさんで現在へ。記念写真の女子学生の服装の変遷が社会の変化を物語っているようで、興味深いですね。

岡崎

でも何よりも、第一回生の写真の中に、お元気な方がいらっしゃる。そして九十歳で七十余年前の学生時代を回想して対談をなさっている。素晴らしいでしょう。

西島

アルバムで、お祖母ちゃんや、お母さんの、若かりし日の美しいお姿を発見される方も多いでしょうね。

司会

女専から女子大へ流れている大きな流れの深みを、この写真で感じますね。感動しました。
いいお話を、ありがとうございました。

アジアの基幹となる女子大に

お話:福岡女子大学
学長 徳本 鎮 氏

*この大学には、私学によくある創立者の銅像がありませんね。

そうですね。福岡女子大には、創立にかかわった人の銅像も伝記もありません。
女性に高等教育の場をと、福岡の女性たちが、県の支援と地域の人たちの協力をえて、七十五年前に生みだした福岡女子専門学校が大学の前身です。創立に灯をともされた人、尽力された人たちへの感謝を忘れてはいけませんが、その方々の献身は、現在の女子大の姿に結晶されています
当学を生み出したものは、いわゆる大正デモクラシーを背景に明日を展望した福岡の女性のロマンと、それを包む地域の連帯でした。大学そのものがすばらしい銅像なのです。

*女子大の誇りを。

前身の福岡女専が全国公立女専のトップを切って創立されたことです。
だが私は、それとともに、女専や女子大の卒業生たちが、社会の各層でリーダーとなって、堅実に地域の軸を支えていることをあげたいのです。
戦前から戦後までは教壇に立つ人が多く、近年はひろく各層にわたって活躍しています。職場であれ、家庭であれ、卒業生が織りなしている世界が、社会の核として立派に輝き、機能しているのです。
その証は、卒業生の皆さんが、青春を謳歌し、こころざしを燃やされた母校に限りなく誇りを持たれていることで、同窓会「筑紫海会」七十年の結束を見てもうなずけます。

*女子大の、今後の役目は。

二十一世紀に通用する女性のリーダーを育てていくことです。
これからは、アジアの時代です。アジアを中心とする汎太平洋各国の大学と親密な連携をとりながら、男女共生時代の女性の幸福に寄与できる研究を交わしていきたい。またそのための学部、大学院を増設したい。清新な情報を発信して、アジアの基幹の女子大学でありたい。
そして、九州の国公立大の中で、九大についで認められた大学院(博士課程)の機能をフルに生かしながら、福岡の明日に役立ちたい。それが、二十一世紀の、福岡女子大学の姿だと思っています。

(聞き手 編集 土居善胤)

福岡女子大学同窓会「筑紫海会」
20歳代から90歳代までの全卒業生の“生き方・考え方”アンケート

福岡女子大学の同窓会「筑紫海会」創立70年に当たり、20歳代から90歳代までのすべての卒業生を対象にした、オール世代の女性の「今の意識」がまとめられました。自主性のある女性の意識調査だけに、時代相が明白に読み取れるようです。

※92ページにわたる裾野の広いレポートですが、ご了承をいただいて、ポイントのみを要約しました。

「学生時代を振り返って」 「現在の生活・これからの私的生活」
  • 大学への志望理由
    • 公立なので経済負担が少ない 42.5%
    • 勉強がしたかったから 32.0%
    • 自宅通学ができる 28.4%
  • もっとも印象に残っていること
    • 友人との交流 27.0%
    • 次いで、演習・ゼミ 15.1%、サークル活動 15.0%、先生 11.8%の順。
  • 就職
    • 戦前の卒業生 63%
    • 戦後の卒業生 90%
    • 戦前は女は家庭の時代だけに63%は注目される
    • 初就職「昔教員、今民間企業」の傾向。20代では教員 10.7% 民間 66.8%
  • 仕事を辞めた理由
    • 結婚、出産 56.5%
    • 子供の世話、老人の介護、夫の転勤 66.9%
    • 20年以上最初の仕事に従事 12.5%
    • 初就職「昔教員、今民間企業」の傾向。20代では教員 10.7% 民間 66.8%
  • 現在収入のある仕事についている 47.1%
  • 卒業後新たに資格を取った人 44.4%
    • 仕事に必要だから 39.3%
    • 趣味教養として 37.2%
  • 社会活動をしたことがある人 52.3%
    • できればしたい 27.3%
    • リーダー的役割をした人 44.5%
  • 現在、だれと暮らしていますか
    • 30~50歳 夫と子供と 約60%
    • 55~74歳 夫婦二人で 48%
    • 75歳以上 一人で 37%
    • 70歳以上 息子とその家族と 14%
    • 娘とその家族と 11%
  • 高齢期での生活は
    • 夫婦だけで暮らし、一人になったら一人で暮らす 46%
    • 一人になったら子や孫と暮らす 24%
  • 老後の介護は
    • 病院等の施設 33%
    • 娘 23%
    • 夫 20%
    • ホームヘルパー 17%
    • 息子の配偶者 2%
  • 子供の教育は
    • 男の子 大学院 30% 4年制大学 60%
    • 女の子 大学院 14% 4年制大学 71%
  • 結婚後の姓は
    • どちらでもいいが夫婦同姓 60%
    • 夫婦別姓がいい 15%
    • 夫の姓がいい 13%
  • 次の分野で男女平等と思いますか
    • 平等でない 社会習慣 68% 職場の昇進 67% 政治活動の場 61% 賃金待遇 50%
    • 平等になりつつある 法律諸制度は 54% 学校教育 49% 家庭内 46%
  • 人生で一番悩んだこと
    • 特にない 20%
    • 仕事 16%
    • 子供 10%
  • 人生で一番強く喜びを感じた対象
    • 子ども 28%
    • 家庭 18%
    • 仕事 13%