No.66 原田大六

対談:平成9年11月

司会・構成:土居 善胤


お話:
地域文化研究家 深野 治氏
聞き手:
前原市長 春田 整秀氏
福岡シティ銀行 副頭取 中 脩治郎

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


前原が生んだ考古学界の巨人

原田大六 年譜

日本一の大銅鏡
内行花文八葉鏡

司会

このところ北は青森の三内丸山遺跡と、南は鹿児島上野原遺跡。山陰では出雲(島根県)の加茂岩倉遺跡荒神谷遺跡で大量の銅鐸が発掘され、ビッグニュースがあいついでいます。
地元の前原市には、日本一の大銅鏡が発掘された平原遺跡があります。その発掘と整理・復元に専念された原田大六さんの業績が改めて思い出されますね。

春田

先生は昭和60年に亡くなられましたが、大学アカデミーにつかず、独学で大学や博物館の先生方をうならせる学説を次々発表された日本考古学界の在野の巨人でしたね。

原田大六の名がクローズアップされたのは。

深野

決定的になったのは、昭和40年におこなわれた前原市有田の平原遺跡の発掘調査で、原田さんが日本一の大銅鏡を発見されてからですね。 福岡県教育委員会の発掘調査団が組織されて、先生は主任さんでした。先生が整理・修復された39面の青銅鏡は、千とも数千ともいわれる鏡の破片で出土しました。そのほか鉄素環頭大刀琥珀蛋白石の丸玉丁字頭付瑠璃勾玉など目を見張るものがぞくぞくと出てきたのです。

春田

それで卑弥呼への関心もあって古代の王の墓だと、注視をあびたのですね。

深野

原田さんは、そうした多数の出土品と古代の文献や神話を融合して、筑紫倭国の女王の墓だとする結論に達せられたのです。平原弥生遺跡の古墳は、それまでの古墳時代の定説より200年もさかのぼる弥生後期(2世紀半)のもので、東西14メートル、南北18メートルの方形古墳でした。 発掘された無数の鏡の破片から、原田さんが銅鏡を見事に整理して修復されましたが、その中の4面は直径が46.5センチもあって、これまで誰も見たこともない我が国最大の青銅鏡でした。その文様の形式から「内行花文八葉鏡」と名づけられ、学界を瞠目させたのです。原田さんはこの発掘に、該博な古代史、万葉学、考古学、神話の知識の集積とユニークな発想を加えて、伊都王国のロマンを現出されたのです。 そして、満々の自信で考古学のページを書き換えられ、アカデミズムに論争を挑んで少しもひるまれなかった。

要領よく、器用に生きる風潮の世の中だけに、大六先生ぐらい堂々と吠えられるのは爽快ですね。まさにケンカ大六の面目躍如で…。

出雲の銅鐸出現を予言

恩師
中山 平次郎氏

春田

前原市の誇りの方ですが、実はご生前にお目にかかった事がない。たいへん偉い怖い先生と聞いていまして。考古学に縁がない私は、怖くてお訪ねできなかったのですよ(笑)。それがまことに残念です。

深野

ケンカ腰の強い方で、学界でも煙たがられていましたからね。 だが、フクニチ新聞の糸島支局長だった黒岩弘記者は、克明な取材と報道で信頼されていました。文化欄を担当していた私が最初にお目にかかったのは、昭和38年でした。2冊目の本の『磐井の叛乱』(河出書房)がたいへん好評なので新聞の書評欄にと取材に伺ったのです。三十数年も前の事で、原田さんは眼光烱々、論理整然、弁舌苛烈で狷价な方だと聞いていましたので最初はびくびくして訪ねましたよ(笑)。でも打ち解けると、いい先生でほっとしました。

春田

妥協や曖昧を許さない厳としたものがありましたから、先生を奇人と思っている人もいるようです。でも学説も生き方も一筋ピンと通されていて、前原には先生のファンが多いんですよ。

深野

論争がお好きで、呵責なく舌鋒鋭く、相手を論破された。論敵にはコワイ先生ですが、門外漢の私たちなら黄泉の国の大六先生も笑って見逃していただけるでしょう(笑)。

春田

出雲に大量の銅鐸が出土して、これでは日本一の大銅鏡を持つ伊都国・前原の青銅器文化の本家の座が、ゆらぐのではと気になりました…。だが専門家に聞いて、銅鏡文化圏と銅鐸文化圏にはそれぞれに違いがあるのだと聞いて安心しました(笑)。

深野

原田さんは昭和55年に出された『銅鐸への挑戦』で、出雲神話の中心的存在の大国主命の系譜が、銅鐸の系譜だと喝破されていますから、その推測が当たったのですね。この『銅鐸への挑戦』は、考古学と文献学の橋渡しを初めてした、たいへんな著作だと言われています。それまで大方の考古学者は、古事記と日本書紀を作り話と無視していたようですね。原田さんは、『古事記』と『日本書紀』を研究されて、この本でその蘊蓄をフルに活かされている。原田さんの恩師の中山平次郎先生は万葉の歌から鴻臚館址をつきとめられましたね。現代の考古学者が、古事記、日本書紀、万葉集の文献を引用しだしたのは中山・原田両先生の登場に負うところが大きいようです。

中学生から考古学へ

貨泉 青銅製

深野

原田さんの学説では、銅鐸は馬の首につける鈴のようなものが発展したのではなく祭祀の道具でもない。銅鐸そのものが神様なのです。滋賀県の野洲町で出土した高さ134.5センチの現存最大の銅鐸は、大国主命 をシンボライズしたご神体そのものだと明言されています。

それでは銅鏡はどうなりますか。

深野

銅鏡は太陽(日神)の御神体と考えられていたようです。銅鏡と銅鐸、この二つの文化圏の相克があったのですね。

そこらへんを、もう少し…。

深野

約200年前に、国宝の金印が志賀島で発見されましたね。金印の由来は、後漢の歴史書である『後漢書』で明白ですが、そのあとの『魏志倭人伝』に倭国大乱とある。日本に大きな戦乱があったということですね。原田学説では、その大乱は銅鏡を信奉するアマテラス(天照大御神)と銅鐸を祀るオオクニヌシ(大国主命)との二大青銅器文化圏の争いであったとされている。銅鏡文化族の筑紫倭女王国が大国主の率いる銅鐸文化族に勝って大和に移り、大和朝廷になった。これが『古事記』と『日本書紀』の神話の背景に読み取れるということなのですね。

司会

文献と歴史と考古学の、該博な学殖に支えられた大胆な学説ですね。では、在野の巨人の、面目躍如たる大六先生のプロフィールを。

深野

大六先生はお名前通りに大正6年生まれですね。測量士をされていたお父さんが古代史に興味をおもちで、大六少年を近所の古墳へよく連れて行っておられたそうです。原田さんはたいへんな文才ですが、中学生時代から作文がずば抜けていたそうですね。「栴檀は双葉より芳し」で、先生が「これが盗作でなければ君は天才だ」と言われたとか。考古学に目覚めたのは旧制の糸島中学(現・糸島高校)時代で、安河内隆先生の指導を受けて、あちこちの遺跡を発掘し、収集品を整理して学校で展示されていました。その熱心さに校長先生が感心して、一室を提供された。それが今も母校に残っている「郷土博物館」の前身なのです。後に高校では稀有の、博物館法で定められた博物館として認められることになったのです。

春田

製図のほうでも光って…。

深野

大学は家の事情で断念しなければならない。でも東京で勉強したい。父親の反対を押しきって、歴史学者になる、と上京される。勤められたのが津上製作所で、仕事が精密機械の研磨や、図面をひくゲージラッピング工だったのです。少年時代に芽生えた古代史への興味と、お父さんから手ほどきを受けた計測法、職場の図面作りなどの技術が、後年の勉強と結びついて原田大六独自の研究法に発展したのでしょうね。

春田

原田さんは自学自習の人ですが、あらゆるチャンスからしっかり学び取ったという点でも、たいへんな努力家だったことがわかりますね。出土品の模写や図面作成も、丹念な筆で驚きます。製図屋さんよりも生き生きと、そして緻密なんですね。

深野

そして、サラリーマン生活2年で、昭和13年から兵役です。兵営でも勉強を続けた原田さんの本は、「原田文庫」といわれて、古参兵も手を出さなかったそうです。

鴻臚館址を実証された中山博士との出会い

深野

終戦の翌年、昭和21年に中国から復員して中山平次郎博士に弟子入りされる。博士は糸島中学で原田さんに古代史の目を開かせた安河内先生が、九州大学時代に師事された方でした。それからの原田さんの勉強ぶりがすごい。30歳をこえていましたが、中山先生のお宅に9年間通いつめ、板の間に正座して講義を受けられている。その努力が最初の論文、原稿用紙で1,000枚の労作となった『日本国家の起原』に実を結んだのです。歴史はその時代の生きた社会を復元することだ」という信念に裏打ちされた学説で、文献の歴史と、考古学を統合した視点がユニークですね。中山先生が「君も専門家になったね」と言って喜ばれたそうで。もっともこの論文は、学界の事情がからんですぐには発表できず、出版されたのは25年たった昭和50年でした。この成果の概略は、それより早く昭和29年に東大出版部から『日本古墳文化│奴国王の環境』として出版されています。

中山博士は、万葉集の歌を調べて鴻臚館を平和台球場の中、もとの福岡城内だと比定(確かな資料を比較検証して行う推定)された方ですね。

深野

九大医学部の病理学の先生で、本来はお医者さんですが、奴国の中心地の発見者として知られていました。九州大学在職時代から考古学の研究に打ち込み、各地の遺跡を探索して、新しい見解を次々に発表し、中央の学界から注目されていました。

司会

鴻臚館に次ぐ、博士の新しい発見とは?

深野

大正6年(1917)、志摩町御床松原で弥生土器とともに古代中国の王朝である「新」の貨幣「貨泉」を発見されたのです。「新」は約2,000年前に、中国の前漢を奪った王莽(前45~後23)が興した王朝で、その貨幣が弥生土器と一緒に出土したことから、弥生時代が西暦1世紀前後の時代であることが実証されたのです。それまでは学界でも、先史時代は旧石器から新石器になり土器時代を経て金属器の時代になったと、ごくおおざっぱに把握されていただけです。それを中山先生が、弥生人は石器とともに金属の道具も使っていた、金石併用時代であったと主張された。今では考古学の定説になっています。

大胆な卓見だったのですね。

深野

そして、お二人の卓見は、出たとこ勝負の推論ではなかった。よく開発途中で偶然に古代の遺品が出てきて発掘が始まるでしょう。だがお二人は違う。中山先生は鴻臚館址を、原田さんは平原の倭国王墓のありかを、かねてから推論しておられた。

司会

するとお二人は確信犯?…(笑)、なんですね。

深野

えゝ。両先生にとって、発掘は意識と推論の結果だったんですね。

春田

中山先生が原田先生にいつも言われていたことは、「暗記は不要。大切なのは君がそこをどう考えるか…だ」ということでした。一言でいえば「不教の教えだった」と、原田先生が恩師を回想された「心の墓標」で述べられています。

深野

そして、200年前の筑前に、大学者の青柳種信(明和3~天保6・1766~1835)がいたことが幸運でした。種信は江戸中期の人で、柳園と号していました。彼は『柳園古器略考』をはじめとする一連の著作に、同時代に発見された三雲遺跡鑓溝遺跡の銅鏡の記録を丹念に遺していたのです。鏡そのものは散逸して現存しているのは1面だけなのですが、当時は壇ノ浦合戦で入水された安徳天皇の三種の神器の一つではないかと噂されていたそうです。

春田

すばらしい教師と、最高の学者と、先人の記録に恵まれていた。原田大六先生は、古代日本の歴史に光をあて、日本一の大銅鏡を発掘するために、天がこの前原に送り届けた特別の方という気がしますね。

サイショク主義のケンカ大六

司会

戦後、大陸から復員して研究一筋でしょう。で生計の法は。

深野

そのころの原田さんは、自分で八無斎と称しておられたようです。土地も無い。家も無い。金も無い。資料も無い。書物も無い。学歴もない。妻も無い。職も無い…。無い無い尽くしの八無斎というわけです。初めは、小学校の先生をされていた実姉の森田タイさんが、ずいぶん面倒をみられたようです。昭和31年に、原田さんは39歳で、小学校の先生だったイトノ夫人と結婚される。それからは安心して考古学に専念されたでしょうね。

春田

奥さんはお元気で、先生の遺された学説や遺跡や研究資料を大切に守っておられますよ。

深野

いつだったか、出版祝賀会の祝辞で、三一書房の竹村一社長が「原田大六君はサイショク主義者なんだよ」と言われたらしい。先生は研究一筋で、生活は小学校の先生だった奥さんにおんぶとなる。すなわち妻を食って生きているんだよと(笑)。そして、イトノ夫人に、内助の功賞だと言って、ネックレスを差し上げられたそうです。見事なユーモアに会場はわいたそうですが、奥さんは、見事に先生をたすけられて、賢夫人でしたね。

春田

そして先生は、大学の先生たちもずいぶん食われたようで(笑)。

深野

率直に、激しい気性でしたからね。「今の考古学は考がない古学だ」とか、問題発言がつぎつぎで。周囲ははらはらされたでしょうね。

司会

まさにケンカ大六 で。誰が名付けたのですか。まいったなの困惑の気持ちと敬意をこめてぴったりで…。

深野

どうもフクニチ新聞糸島支局にいた河村房保記者らしいのですが、言い得て妙というか、すっかり関係者の間に定着したのですね。ご本人は苦笑されたでしょうが、まんざらでもなかったのでは(笑)。

春田

ケンカ大六の真骨頂が発揮されたのは、先生が昭和44年に出された『邪馬台国論争』ですね。それで、これまでの学説を徹底的に批判されたのですね。

深野

でも、ひとこと弁護しますと、日本の考古学は若い学問で、まだ確固とした学説が無かったのです。考古学が実際にスタートしたのは明治の後年から大正にかけてで、学界全体が試行錯誤の連続だった。必然的に論争は激しくなり、その風潮は昭和の戦後になってからも続いていました。象牙の塔のアカデミズムに対して、最初に在野の森本六爾笠井新也といった真摯な研究者たちが強烈なパンチを放った。それが刺激となって古代史学研究が前進したのです。

司会

だから、本流ではない医学者の中山博士、在野で独学の原田大六といった人たちにも、活動のフィールドがあったのですね。

深野

明治10年に発見された有名な東京・品川の大森貝塚も、専門外の動物学者であるアメリカ人、E・S・モースによるものでした。明治17年に東京の弥生町で弥生式土器を発見した坪井正五郎博士は東大の人類学の先生でしたが、別に意識的に発見されたわけではない。稲作と青銅器を特徴とする弥生時代が、古墳時代に先行していることを力説し、在野の「考古学会」を組織した学界の革命児・森本六爾は、奈良県の小学校の代用教員でした。邪馬台国のありかで、先駆的な卓見を発表した笠井新也も、四国の中学の先生でした。

そうした在野の研究家たちが、所説を学界に認めさせるのは…。

深野

もう自説を引っ提げて中央に真剣勝負を挑む以外に方法はない。笠井論文も、実に激しい調子で論争を挑んでいます。相手がリングにあがらなければ無条件に勝ちです。リングにあがれば徹底的に論破する。文献史学、神話学、遺跡研究を駆使して構築した原田学説も同様で学界に認めさせるには、論争が不可欠だったのでしょう。ケンカ大六のニックネームで、原田さんを特殊な人格視するのは適切ではありませんね。

春田

先生は既成の権威に独自の理論構成で敢然と挑まれました。頑固でしたが英姿颯爽というか、一筋の生き方に魅かれるものがありましたね。

深野

原田さんは論争を挑まれましたが、間違っていたらいつでも兜 を脱ぐと、はっきり宣言していました。姿勢は激しかったが、ケンカを売って、それでよしとする方ではなかった。私たちの取材にも自分の話を確かめながら話される感じでしたものね。鋭い舌鋒でしたが、人間的には非常にナイーブなものをお持ちでしたよ。子供が、何かを好きで好きでたまらない。その姿勢で一生を貫かれた。そういう印象でしたね。

ドルメン発掘と沖ノ島調査

司会

考古学界で原田大六の名が知られるようになったのは、支石墓群の発見からでしたね。

深野

昭和24年32歳のときに怡土村(現・前原市)で日本で初めて支石墓を発見されてからですね。3年後には前原の志登で、支石墓群が発見され、国指定の史跡になっています。支石墓は巨石墳墓の一種でヨーロッパではドルメンと呼ばれています。大きな天井石を数個の支柱役の石で支えている朝鮮から伝来した墓のスタイルです。

春田

ドルメンは大陸との関わりを知る上で重要な手がかりですね。

深野

そして昭和26年には、朝倉郡三奈木村(現・甘木市)の遺跡を加藤新吉村長の家に住み込んで調査し、出土品を修復して「三奈木歴史館」を整備されています。

村長さんがすばらしい人を「発掘」されたのですね(笑)。

春田

そうした実績を見込まれて、次には 海の正倉院 といわれた宗像神社沖ノ島の遺宝の発掘に大きくかかわられるのですね。

深野

昭和29年から33年にかけて沖ノ島調査が2回おこなわれています。原田さんが37歳から41歳にかけてのときで、九州大学から鏡山猛先生や、気鋭の岡崎敬先生らの学者が参加しました。沖ノ島は、日本と古代の中国や朝鮮との交流史を解き明かす貴重な資料の宝庫で、※約3万点の出土品が一括して国宝や国の重要文化財に指定される重要な調査でした。その報告論文は、記録も図面も調査委員だった大六先生がほとんど独力でハンドライティングでなさっている。あの頃、そうしたことをできる人は原田さんだけだったでしょう。その成果は『沖ノ島』(昭和33年)『続 沖ノ島』(昭和36年)の2巻に完結し発行されています。考古学界と古代史研究への貴重な貢献でしたね。

春田

宗像出身で宗像神社に崇敬の厚かった出光佐三さんの支援もあって実に立派な本ですね。

みかん畑から銅鏡の破片、日本一の大銅鏡を復元

鏡の整理作業中の
原田大六

そこでいよいよ、日本一の大銅鏡との出会いですね。

深野

昭和40年1月18日。当時19歳だった井手信英さんが、有田字平原の農地にみかんを植える溝を掘っていたら、銅製品の破片が出てきた。これは古代の鏡ではないか、それなら大六さんが詳しかばいということで、原田大六さんの登場となったのです。

司会

なにやら、200年前に志賀島で金印を発見した、甚兵衛さんと亀井南冥の話を連想しますね。

先生が登場しなければそのまま掘りかえされていたかもしれない。間一髪セーフでした。井手さんに理解があったことがなによりもよかったですね。

深野

原田さんが、遺跡の存在を予測していた地域だったのですね。福岡県教育委員会による平原遺跡発掘調査となり、原田さんが調査主任として緊急調査に当たられたのです。48歳の壮齢で意欲満々だったでしょう。 このとき、今は亡き糸島高校の大神邦博先生が調査員となってたいへん努力されています。調査がスタートした日は雪の舞う寒い日でしたが、糸島高校の生徒が、その後は前原中学、怡土中学の生徒たちと、300名が水洗などの辛い作業に協力しました。そうして、2月4日から5月17日までの発掘の間に、目を奪う古代王国の遺品が続々と出てきたのです。なにより驚かされたことは、銅鏡39面が無数の破片の状態で出土した事でした。その白眉が直径46.5センチという、日本最大の四面の大青銅鏡だったのですね。

ばらばらに砕けていた無数の鏡の破片から、あの見事な銅鏡をよく整理し復元なさったものですね。

深野

その技術は、たいへんなものです。師匠の中山先生が古代奴国遺跡の須玖岡本の出土品を復元されていますから、そのノウハウを学んでおられただろうし、青年時代のゲージラッピング工の経験が役立っています。

それにしても、発掘、整理、復元と気の遠くなるような作業ですね。

深野

まず発掘現場の見取り図をつくり、その上に出土した破片の位置を記入し、一つずつ番号をつけていく。こうした克明な出土状況表を、何層にもわけて作るのです。そして破片はひとつひとつ寸法を測り、記録と番号をつけて整理するのです。そして出土品とマップを照合しながら、断片のカーブや紋様を一つ一つ観察してつないでいくのです。

気の遠くなるような想像を絶した根気のいる作業ですね。大六先生でなければ誰もできなかったでしょう。

司会

その復元で、シンナー中毒にかかられたとか。

深野

出土した神聖な青銅鏡を、原田さんは自宅の復元室で、一人で黙々と磨いておられたそうです。厳粛な情景が目に浮かびますね。

春田

先生はケンカ大六で連想されるような大酒飲みではなかった。でも、それから酒をやめられたようです。

日本一の大銅鏡

銅鏡片群出土状態

それで39面の銅鏡復元までどれぐらいかかったのですか。

深野

原田さんは2面の大銅鏡と一部の鏡を接着して復元されていますが、ほかの鏡も破片を整理しきれいに組み合わせて39枚の銅鏡を蘇えらせられました。発掘から4年後に、福岡市の井筒屋デパートで催された「伊都国王墓展」で公開展示されていますから、数年間は整理と復元に専心しての生活だったのですね。

大銅鏡は4面でしたが5面あるという話も。一つの鋳型で5面できるそうで、あと1面が伊勢神宮の八咫鏡 ではないかと。

深野

原田さんは文献と実測から、大銅鏡すなわち八咫鏡論を唱えています。

その大鏡ですが、どのような役割だったのでしょうか。

深野

原田説では、大鏡は太陽を神と 崇める倭女王国の権威と神性の象徴だったのですね。古代人が鏡に写した奥深い想いについて、原田さんは真澄鏡(マソカガミ)の例をあげています。これは美しく澄み切るまで磨きあげた鏡のことですが、普通の万葉集の解説では枕詞あつかいですまされています。しかし万葉集を深く研究した原田さんは、マソカガミを枕詞や序詞なんかで片付けるわけにはいかない。鏡は神の霊であり、人間の魂の象徴である。まして伊都国の大鏡は太陽神の霊徴で、生者も死者も支配する力をもつ王権の象徴だとしているのです。

春田

古代人にとって真澄鏡は、王が行う太陽や神や天の祭祀、豊年祈願、子孫繁栄、鎮魂、長寿、死骸呪縛、遠行帰還の祈願に欠かせない神器だったのだそうです。

司会

水鏡に顔をうつしていた当時の庶民にとって、鏡は手のとどかない神聖なもので、その神秘さが倭国王の神性も高めたのでしょうね。

深野

初期の赤銅の鏡はアカガネ色でした。それが精錬と研磨の技術の発達によって、真澄の青銅鏡になった。この真澄鏡をえて、倭国の女王の権威が確立したのではないでしょうか。

謎を秘めた鏡の破片

司会

発掘された銅鏡は全部めちゃめちゃに壊れて、鏡の破片だったのですね。どうしてでしょう。

深野

古墳から出土する鏡は完全な形で出土することが多いのです。割れているのも土圧のためですが、平原遺跡の鏡は39面がみなバラバラの破片で、土圧によると推定されるのは数面にすぎないのです。女王が収穫を前に、台風などの災害がないように神殿にこもって祈り続けていたところ、神殿が台風の直撃を受けて倒壊して女王がみまかり、壁面の鏡も壊れたのではないかと推測されています。

春田

大日 貴(オオヒルメノムチ)が男装し、玉を身につけ39面の鏡をかざって神殿にこもり神に台風退散を祈った。そこへ巨木が倒壊して生命を絶たれた。宝玉は散り、鏡は粉々になったと…。最近では、何らかの人為的なアクションがあったのではないかと言う説もあります。復元した銅鏡に欠落部分がかなりあってそのカケラが存在しないからです。だが、これは、原田説では、カケラを鋳直して他の鏡を鋳造したのだろうと推測されています。

いずれにしても、平原遺跡が原田さんによって発掘され、膨大な破片から見事に日本一の大鏡を復元されたのですね。壮大なロマンですね。

深野

はい。平原遺跡を発掘すると、女王の遺体を納めた割竹形の木棺が一の鳥居(址)の礼拝方向と一致し、東南東にある日向峠と一直線に結ばれていたのです。秋の収穫のころ、朝日が日向峠から射しこみ、陽と陰が一直線に結ばれる。さらに、墳墓の方向は春分秋分の日の出の方向で、高祖山を向いた二の鳥居(址)の方向は苗代時の日の出の位置だったのです。古代人の祈念の厳粛さにうたれますね。原田さんは、王墓の方向が弥生時代の農耕暦を告げる意味があるのだと推測しています。

春田

それから39面の鏡をめぐって、中央の先生たちや行政とのやりとりがはじまるのですね。

深野

平原遺跡の発掘調査に、県と国が30万ずつ計60万円を出しましたが、原田さんは私費を投じ、無償でたいへんな苦心の末に、発掘と整理復元をされた。それがやっとできたところで、何もしていない中央の先生方が研究のために銅鏡を東京に送れと言う。そんな連中に簡単に出せるかと。このケンカは筋が通っていますね。

司会

それで世界最大の銅鏡が、前原市「伊都歴史資料館」のお宝に収まっているのですね(笑)。

深野

少々の経緯がありましてね。初めは史跡出土品の収蔵室で修復をしておられたのです。ところが収蔵室は公共建物だから、個人の占有はいけないとクレームがついた(笑)。それで原田さんは自費で、自宅に復元室をつくって復元されたのです。

時代が変わって出土品の全てを前原町、今の前原市に無償で譲られたのですね。でも国になら2億円と言われたとか、言われなかったとか(笑)。

春田

郷土から出てきたものは郷土の前原にというお考えだったのでしょうね。今では前原市が誇れる一番の宝もので、出土品が一括して平成2年に国の重要文化財に指定されています。

「実在した神話」と、卑弥呼

春田

先生の学説には、日本神話が大きな比重を持っていますね。

深野

はい。でもそこのところ、一般にちょっと誤解があるようですね。原田さんの本を読んでも、神話が事実だとは書いてありません。本のタイトルでいえば、『実在した神話』と言っておられるんです。これは何かというと、神話は架空のフィクションではない。記録がなかった古代のことが、神話の形を借りて口づたえで語られているのだ。だから、神話の中に古代史の謎を開く鍵がある。遺跡と、文献と、神話を照合していくと古代史が見えてくると実証原田説を展開されるのです。

司会

そういう意味で、大六先生は神話の中身を否定されなかったが、神話そのままを信用されたのではない…。

深野

あくまで出土品に語らせるために、神話とつきあっておられたんですね。古代は、政治権力は神から与えられたと信じられていた。その思想は中国にもエジプトにもあった。それが神話なんだよと言っておられるのです。そこで、原田さんが存命であれば、きっと市長さんに要望があると思いますよ。「倭国王の墓は自分が発見した。王が政務をとった都も前原にある。政庁は細石神社の東側あたりである。それを発掘してほしい。それで、日本古代史最初の首都が伊都国にあったことが立証される。市長さん頼みますよ」と。日本最古の都は藤原 京でも飛鳥の京でもなく、伊都国にあったと。この実証が先生の夢ですね。

春田

そこらへんは住宅で、それはなかなか大問題で(笑)。いま、国と市と学界との連携プレーで、三雲南小路、鑓溝あたりを大規模に発掘しています。前原市はつねに考古学的に注目をあびているようです。原田先生の念願だった夢が、現実になる日が早く来るかもしれませんね。

深野

ところで、原田学説では伊都こそ国の「まほろば」ですが、3年前の市に昇格のときに、伊都市にと言う声はなかったのですか。せめては駅名に伊都駅でも欲しかったですね。

春田

市民の声もありますから、駅名を「伊都国前原」と改名した方がいいかどうかアンケート調査をして、関係方面と折衝していくつもりです。

伊都国となると、卑弥呼が気になります。

深野

卑弥呼は、原田学説によると一人ではない。ヒミコはすなわち「日の御子」です。太陽の妻として君臨する女王の位階名で、少なくとも3人の日の御子がいたとされています。支配者の位の名前で代々受け継がれている。

なかなか複雑ですね。

深野

原田説は新鮮で大胆ですから、はじめて聞くと驚きますが、よく聞くと明快です。最初の日の御子はこの伊都国にいて平原弥生古墳に埋葬された人物で、実名が玉依姫、神格化されてオオヒルメノムチ(大日 貴)またの名を天照大御神であると。この事は、大六先生が亡くなられた後に刊行された大著『平原弥生古墳 大日 貴墓』に論拠が集大成されています。

では『魏志倭人伝』に出てくる卑弥呼は、もちろん九州説でしょうね。

深野

それが、意外にも近畿説なんです。原田さんの本『卑弥呼の墓』『卑弥呼の鏡』をみると、卑弥呼は『日本書紀』や『古事記』で第七代天皇と伝える孝霊天皇の娘ヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)で、墓は奈良県桜井市の箸墓だと。笠井新也説に賛同しています。原田さんは、九州人だから九州にこだわるということはないのですね。

がっかりですが、大六先生の学説ではしょうがない…(笑)。

ケンカ大六から"伊都国王"へ

司会

ところで、原田さんは生涯「ケンカ大六」だったのですか。

深野

12年前に68歳で亡くなられましたが、晩年には平原遺跡の発掘調査における弥生文化研究の功献が高く評価されていました。その功績をたたえて、マスコミが捧げた愛称は、「伊都国王」に昇格していました(笑)。

国王への道はたいへんでしたね。雌伏を成長のバネに。実証をふまえた独創の強み。この時代が生み出した反骨の人だという思いがします。

深野

原田さんが口すっぱく言われていました。考古学者は遺跡の出土品に、国文学者は上代文学に、神話学者は神話だけにこだわる向きがあるが、これではいけない。文献と、上代文学と、伝承された神話。それらを考古学の発見と総合的に結びつけ、研究して、はじめて古代の暮らしがわかる。考古学は、学際的に広範に、勉強しなければならないと。原田さんの言葉に「私はエジプトの絵文字を解読したシャンポリオンを夢み、ホーマーのオディッセイからトロヤを発掘したシュリーマンに憧れた」という述懐があります。その憧れを実践したのが、原田大六さんの真骨頂ではないでしょうか。

春田

そうした広いスタンスで古代史学界を震撼させた先生の発言ですから説得力がありますが、論争相手の先生方には思わぬ強敵出現で…。

司会

相手が相手だから困られたでしょうね。その分の悪い役目を負われた中央の先生方は。

深野

いや、この方々も、日本のあけぼの時代を広い視野でとらえて、立派な歴史体系を作りあげておられます。高名な論敵たち、例えば京大の上田正昭さんや梅原猛 さんたち。この人たちは、主張の違いについては批判されるが、原田さんの主張そのものを全面否定する人はいないんですよ。原田さんはケンカ大六で、先生方にケンカを売った形になっています。しかし結果として、広い土俵でアカデミーの大先生たちと横綱勝負ができたわけですね。

その勝負は…。

深野

勝敗がどうこうでなく、決着がついていないと言うことでしょうね。

大六先生は異端視されていても、日本考古学会の会員でしょう。

深野

えゝ。44歳のときに推薦されています。考古学会も原田さんを無視することはできなくなっていたし、アカデミズムとのケンカは論争ですから、会員になられたのでしょう。

三笠宮も大六学説にご関心

結婚写真
(片山摂三氏撮影)

深野

原田さんの学の広さといえば、その一例が万葉集まで勉強ずみです。最初の本は昭和48年に出された『万葉集発掘』。二番めの本は49、50年に出された『万葉集点睛』上下二巻です。万葉の歌と考古学的実証を結びつけた研究が実に奥が深い。万葉研究者として、見事に一家をなしておられます。

それがみな独学で。そして、古代の九州の英雄『磐井の叛乱』も…。

深野

大六先生の古代史の間口の広さを感じますね。考古学者の本は、だいたいあまり売れないんです。ベストセラーになった宮崎康平さんの『まぼろしの邪馬台国』や、松本清張さんの『古代史疑』もありますが、考古学の本は、だいたい初版で3,000部ぐらいの世界ですね。だが原田さんの本は初版で3万部。そして加筆した新稿が出ています。他の本もだいたい万単位ですからこの道の専門家の本としては異例ですね。

大六先生が、「妻食主義」だけではと気がかりでしたが、すこしほっとしましたよ(笑)。

深野

ご結婚は、九州大学教授だった古野清人先生の媒酌でした。

春田

奥さんの旧姓が原田イトノさんで、まことに縁深くご同姓でした。

深野

新婚家庭は四畳半の一間だったそうです。それからスタートして、永年の蓄積が本になり、まとまった印税が入った。万葉集の本を出されたころですが、奥さんと一緒に万葉研究の旅で大和へ行ったと年譜にあります。この大和旅行は、もしかしたら、遅ればせの十数年たっての新婚旅行だったのでは…。

ケンカ大六先生の一面ですね。なにかしら、胸にジーンときますね。

春田

先生の学説のピラミットの背後に奥さんの支えがあった。貴重な「妻食」にあまんじられていた方がいらっしゃったのですね。

深野

エピソードですが、昭和44年にフクニチ新聞社が伊都国王墓展を福岡の井筒屋デパートで開催したときに、三笠宮殿下ご夫妻がお見えになって熱心に見学され、翌日は前原の遺跡までお運びになりました。

春田

あの展覧会は、当時のフクニチ新聞の前原支局長だった黒岩弘さんの尽力で実現したらしいですね。今もイトノ夫人がたいへん感謝しておられるそうです。

深野

そして、開催日が近づいてから大六先生が、皇族の方がどなたか来て頂ければと言い出された。それで、駄目で元々とフクニチ新聞の東京支社からお願いしました。執事の方が急に言われてもとの返事で、あきらめていました。ところが、それが宮のお耳に届いて、御自分からぜひ行きたいとおっしゃった。古代オリエント学者だった宮が、平原弥生古墳から出土した大鏡と原田学説に、興味をお持ちだったのでしょうね。

司会

地元の学界とは。

深野

あまり円滑ではなかった。むしろ仲が悪かったですね。アカデミズムと野人の独学、だいたいうまくいくはずがない(笑)。

司会

考古学に一史観を打ち立てられた松本清張さんとは。福岡県同士だし同じ古代史仲間で…。

深野

清張説に批判はお持ちでしたが、松本さんのおかげでジャーナリズムの世界でも活躍することができるようになったと言っておられる。案外にシャイなところがあったですものね。

司会

お二人とも不遇な条件を克服して世に出られた点で、深いところで共感があったのでしょうね。

日向峠の方を向いて大六先生の銅像

伊都歴史資料館
名誉館長
原田大六像

司会

先生の支援者は?

春田

結婚の媒酌をされた九大の古野清人教授(後の北九州大学学長)や神田慶也九州大学学長、そして写真撮影が縁で親交のあった九州産業大学の片山摂三教授等がバックアップされたのですね。

深野

地元紙や放送の記者たちも。超個性の魅力にひかれて、周辺がいつも喧々咢々でしたが、地元の糸島新聞が原田さんの卓見を無名時代から載せ続けました。大六先生には何よりのエールだったでしょうね。それから、地元の後援会(会長友納健氏)から出されている740ページもある『原田大六論』があります。これは千数百回の記事、論評三百篇と、原田さんの関係記事が全部網羅してあってあたたかい本ですね。

前原市立
伊都歴史資料館

原田さんの顕彰は。

深野

「永年にわたる考古学の研究発掘と啓発の功績」にと、西日本文化賞が昭和53年に贈られています。先生の師である中山平次郎博士は、昭和25年に「古代の博多の歴史地理学的研究」で受賞されている。同じ分野で師弟の受賞は珍しいですね。

春田

先生が発掘された平原遺跡の出土品を主に展示されている「伊都歴史資料館」が完成したのは、その9年後の昭和62年で、先生をたたえる何よりの記念碑になりました。

司会

平原遺跡の発掘品が、見事に展示されていますね。特に、日本一の4面の大銅鏡をふくむ39面の銅鏡が圧巻ですね。説明もとてもわかりやすくて。

春田

建設計画の時、先生は入院しておられました。そのとき、小金丸俊光さん(現・志摩町助役)が「初代館長は原田先生を措いて他にはない」と力説された。先生はベッドの上でとても喜ばれたそうです。残念なことに、完成前に亡くなられたので、霊前に名誉館長をお贈りして気持ちを尽くさせて頂いたのです。

記念館の前庭に、名誉館長・原田大六先生の銅像がありますね。眼光炯々で、厳しい在野の考古学者の面構えが実に良くでている。しかし朴訥さがあふれていて、野端で会うお百姓さんのようで、"今日は、大六さん"と声をかけたくなります。

春田

先生が私達に、伊都の国が大和朝廷以前の日本の中心だったのだと話しかけておられるようです。

司会

発掘された平原女王の棺が日向峠に向けられて葬られていたそうですが、大六先生の視線も日向峠の方を眺めている。像を仰いでいて胸があつくなりました。先生もご満足でしょうね。
当時の三嶋兵藏町長と九州大学の神田慶也学長による台座の碑文がいい。
大六先生の偉大さが簡潔に見事に記されて、「碩学学びの力 知識の光り皆美し 敬慕の念とどまるところなし」とあり、読みほれてしまいましたよ。

平原弥生古墳の出土品は大鏡だけでなく、セットで出土したいわゆる三種の神器の勾玉と宝剣も一緒に伊都歴史資料館に展示されている。実にすばらしい展示ですね。

春田

福岡市のすぐとなりで車ですぐですから、多くの方に古代の筑紫倭国の首都であった伊都王国ロマンにふれて頂きたいですね。

深野

原田大六先生は考古学と古代史の広範で深い見識、発掘品の調査研究の確かさ、そして見事な復元力と、トライアングルを備え、学際を超えておられた。

春田

そして広く深い研究成果を、誰が読んでも感動する表現力で、今も私達に話しかけておられるのです。

深野

それでは雑誌「新評」の中の、原田さんの"歴史に対する並々ならぬ愛情"鋸鳥羽で、この話を終わりましょうか。
「人間には血も涙もあるとよ。血が流れとるとたい。涙流すんだ、悲しい時は。喜怒哀楽の波にもまれる中におる人間が、どうして冷静になれるとですか?冷静になった歴史なんて世界中どこにあるとですか?歴史には苦闘があり、苦痛も、喜びも、怒りも、悲しみもあらゆることがあるとです。真実の歴史というものは、血も流せば涙もこぼすっていうんだよ...」と。

司会

前原が生んだ、日本の巨人だったのですね。いいお話をありがとうございました。