No.68 孫文と博多

対談:平成11年5月

司会・構成:土居 善胤


お話:
近代史研究家 石瀧 豊美氏
聞き手:
博多町人文化連盟理事長 西島 伊三雄氏
福岡シティ銀行 頭取 四島 司氏

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


孫文と魯迅

孫文と博多

司会

中国の国父と仰がれている孫文(そんぶん)先生(1866~1925)と博多、広やかなテーマですね。

石瀧

『阿Q正伝(あきゅうせいでん)』などの名作で、国際的な文学者として知られている魯迅(ろじん)先生(1881~1936)と、仙台との結びつきは有名で、小説「藤野先生」にも出てきますね。
清(しん)国の官費留学生時代に、文豪が一時東北大学の前身である仙台医学専門学校に留学したことは、仙台にはたいへんな恩恵でした。ところが、孫文先生と福岡の結びつきは、それよりはるかに深いのです。
史実回顧ですから、敬称を失礼しましょう。中国最後の王朝となった清朝(しんちょう)の反逆者で、日本政府も国際関係から冷遇していた不遇の孫文(号が逸仙(いっせん)、または中山(ちゅうざん))を、玄洋社(げんようしゃ)の侠気と福岡の炭鉱経営者の財力が守ったのです。

四島

中国革命を福岡の人たちが支援した。これはたいへんな事実ですね。

石瀧

戦後、半世紀の間、頭山 満(とうやまみつる)(安政二1855~昭和十九1944)が頭領だった玄洋社は極右の団体として、マスコミや学界から敬遠されてきました。
一部に真摯(しんし)な研究はありましたが、いわばアンタッチャブルの分野だったのです。

西島

だから孫文の中国革命にかかわった博多の役割を、地元の人たちもあまり知らないのですね。

お尋ね者が今や国賓

玄洋社墓地に詣でた孫文一行

石瀧

1911年(明治四十四)の辛亥(しんがい)(かのとい)の年に、革命軍が武昌で蜂起して革命に成功しました。いわゆる辛亥革命です。
指導者の孫文は、秦漢王朝から約二千年続いた専制の帝政を廃止し中国を人民の国家に導いた大革命家です。革命活動十七年、孫文、四十六歳のときでした。
この挙兵に、玄洋社の末永 節(明治二1864~昭和三十五1960)が日本人として一番乗りで駆(か)けつけています。
革命政権の南京臨時政府が発足し、翌年の民国元年(1912)に、孫文は中華民国臨時大総統に就任します。日本暦では、明治四十五年三月(七月に大正に改元)のことです。
ほどなく、袁世凱(1859~1916)に地位を譲り、翌年の大正二年二月十三日から三月二十八日まで、四十四日間、前、国家元首の栄光に包まれ、日本政府の賓客として来日します。
そのとき福岡へ来て、革命を支援した玄洋社や炭鉱経営者に感謝の気持ちを述(の)べています。

四島

中国二千年の歴史を変えた孫文は、礼節の人だったのですね。
以前のお尋ね者が今度は国賓です。孫文にも、支援者たちにも、無上の感慨があったでしょう。

石瀧

日本に亡命した孫文を支援したのは玄洋社や宮崎滔天犬養 毅、一部の炭鉱経営者と、限られた人たちでした。
今回は大違いで、宿舎は帝国ホテルで、博多まで特別列車。主要駅では万歳三唱で迎えられ、市長が表敬挨拶して歓待です。

西島

手のひらを返した歓迎ですね。

石瀧

当時、福岡にあった新聞は、九州日報と福岡日日で、両方とも西日本新聞の前身です。
"博多の孫文"を、福岡日日新聞でひろってみましょう。三月十四日に「孫氏と筑豊坑業家」の見出しの記事があります。坑業家は炭鉱経営者のことで、
「不日(ふじつ)(近く)、来県すべき中華民国孫逸仙(そんいっせん)氏歓迎に関し、曩(さき)に筑豊鉱業組合の名を以(もっ)て同氏を門司倶楽部(もじくらぶ)に招待の筈(はず)なりしも、旅程取急ぎのため右は中止し、安川、貝島、松本、麻生(あそう)、中野、伊藤、堀七氏の連合にて、来(きたる)十七日福岡着当日午後六時より東公園一方亭(いっぽうてい)に招待の筈(はず)にて…」と、炭鉱経営者の歓迎会が伝えられています。
十九日には「来福中の孫逸仙一行は昨日午前十時寺尾博士、安川敬一郎松本健次郎進藤喜平太氏等と共に旅館常盤館(ときわかん)を出(い)で、平岡常次郎氏の嚮導(きょうどう)にて博多聖福寺境内(しょうふくじけいだい)なる故平岡浩太郎氏の墓に展(てん)したるが、…」とあります。

四島

孫文への支援を惜しまなかった平岡は、中国革命の成功を見ることなく亡くなっていたのですね。

石瀧

明治三十九年に五十五歳で亡くなっています。次は大名町の中野徳次郎の別邸を訪ねたのち、西職人町の玄洋社を訪ねています。

西島

いまの中央区でNTTドコモ九州の本社ビルの前に、「玄洋社趾」の記念碑が残っていますね。

石瀧

玄洋社の社長は進藤喜平太(嘉永三1850~大正十四1925)でした。進藤は、縁の下の力持ちのような存在で表に出ず、政界から「九州武者所別当(むしゃどころべっとう)」と敬意を払われる重鎮(じゅうちん)でした。前の進藤一馬市長の父君です。
頭領の頭山満は、社長を人望のある進藤に任せ、東京で玄洋社の枠を越えた活躍をしていたのです。
このとき孫文は戸畑で安川敬一郎を訪ね、安川が設立した明治専門学校(現九州工業大学)で講演しています。 福岡では九州大学、大牟田では三井工業学校(三池工業高校の前身)で、学生たちに演説をしています。

四島

中国に専門の職業学校を作りたいと考えていたのでしょうね。

石瀧

孫文が揮毫(きごう)した暢達(ちょうたつ)な筆勢の書額が三池(みいけ)工業高校の校長室に掛けられています。  
「開物成務」、工業を専攻している学生たちへの、孫文の語りかけが汲み取れますね。

三井工業学校で揮毫した孫文の書

簡素な茶菓で接待

西島

玄洋社の歓迎ぶりは。

石瀧

世間は歓迎一色でしたが、玄洋社は平常とすこしも変わらない。福岡日日を見てみましょう。
「素朴なる冷(ひや)畳の上、座布団(ざぶとん)なく、卓子(テーブル)なく極(きわ)めて簡素なる酒茶の饗(あえ)ありしのみなるが、玄洋社式の飾(かざ)らず、繕(つくろ)はざる待遇振(ぶ)りは却(かえっ)て孫氏の悦に入りしが如(ごと)く、勤倹寡黙の孫氏も少(すくな)からず微笑を湛(たた)へつゝ、一同打寛(うちくつろ)ぎて談笑せり、…」と。

四島

真情を尽くした歓迎会の妙味が汲(く)みとれますね。

石瀧

私が注目するのはこのことで、見事ですね。
大方の歴史家が言うように、玄洋社の孫文支援が利権獲得のためだったらこの時こそと、恩を売りつけていい。孫文とこんなに親しいんだと腕を組んだり、写真に写ったりもできる。
ところが、それがすっかり逆なのです。なにもしなかった人たちが、大騒ぎをしているのに、孫文を支援しつづけた玄洋社は、畳の上に茶碗をひとつ置いただけの歓迎でした。

四島

真似(まね)ができない。古武士の風韻(ふういん)を感じますね。

石瀧

玄洋社は、座布団を使わないのがきまりでした。後年、高齢の安川敬一郎にだけ特例を設けましたが、隣国の前元首を迎えても、何も変わったことはなかったのです。

西島

市民の歓迎は。

石瀧

東中州にあった公会堂で、県主催の歓迎会が催されています。
出席者は官民各層で二百人でした。川路知事の挨拶のあと、孫文は(同行の上海(しゃんはい)民権主筆、戴天仇(たいてんきゅう)氏の通訳で)、「今回余(よ)(私)の貴国に遊ぶ(略)、今夕(こんせき)、此(この)福岡市に於(おい)て(略)盛宴に招待せられ、有力なる各方面の諸君と相会(あいかい)し、食卓を与(とも)にするを得るは、何よりの幸福なり。
由来(ゆらい)、帰国と吾国、殊に九州の地とは、遠き以前より密接なる因縁(いんねん)あり。吾国が貴国と交通を開くや、九州は実に最初の発源地、又最(もっと)も主要なる連絡地なりき。(略)
最近に於ける吾国の大事業たる革命に際しても、最も多大の援助力を貴国の人士、殊に九州の人士(じんし)に仰ぎたりき…(略)」と述(の)べ、同種同文の親善国ながら、これまで日本人民の思想が進歩的であったのに、中国人民は保守的であった。革命で進歩的思想を身につけ両国の差はなくなった。アジア将来の進歩のためには両国の協力が必要だと括(くく)って、感謝しています。

西島

九州とは、福岡と荒尾の支援を言っているのですね。

石瀧

そうでしょう。だが、同紙に、「不体裁(ぶていさい)な歓迎会」の記事もあります。
「福岡日日新聞記者足下(そっか)(殿)」で始まる投書で面白いですね。
「饗応の食物を見るに至りては、鮨(すし)と蒲鉾(かまぼこ)と刺身と其他一二種の肴(さかな)が大皿に盛られて卓上に散在。之(これ)に副(そ)ふて一陶(いっとう)の徳利あるのみにて 候 (そうろう)。料理代は一円の会費中(会場の花代、煙草代ほかを除けば)大概一人四五十銭位のものにて候(そうら)はん歟(か)」とあって、地方住いで粗食には慣(な)れているが、この粗末さには一品も口にする勇気がなかった。
福岡県民として、国賓の接待に恥ずかしい限りと、憤慨しています(笑)。

西島

シニカルな投書で…(笑)。
一円が高いのか、安いのか。県の援助もあったでしょうがまあ県民あげての歓迎だったことがうかがえますね(笑)。

孫文の支援者たち

四島

孫文を支援した人と言えば、宮崎滔天についで頭山満がうかびますが。

石瀧

二人と後に黒龍会を組織する内田良平(明治七1874~昭和十二1937)が代表的です。今の評価ではいちばん右にいるのが頭山と内田良平。いちばん左にいるのが宮崎滔天という図式になるでしょう。
戦後の史観では、滔天は無償の純粋な革命支援者だが、玄洋社の頭山や黒龍会の内田は利権獲得が目的だったとされてしまうのです。

四島

強大な洪秀全(こうしゅうぜん)の太平天国が鎮圧されたのは五十年前だし、蜂起した革命軍も清朝(しんちょう)の軍に次々と敗れている。孫文が革命に成功するかどうかは誰にも分からなかったでしょう。

石瀧

ええ。孫文も後年、「自分の生きている間に革命が成立するとは思わなかった」と述懐しています。
そのときに孫文を、一貫して支援しているのですから、これは利権問題以前の、志の分野の話だったのです。

四島

孫文の財政を支援した人たちも同様でしょうね。

石瀧

まず平岡浩太郎(嘉永四1851~明治三十九1906)と中野徳次郎、そして安川敬一郎(嘉永二1849~昭和九1934)ですね。三人とも炭鉱を経営している。安川は、当時の明治鉱業の社長ですね。

西島

大変な金額だったでしょう…。

石瀧

彼らの胸の中にたたまれたことで、具体的にはわかりませんね。
だが、革命軍を組織する資金です。武器だけでも、何万丁(ちょう)といる、膨大な金額だったでしょうね。

西島

成算のない革命資金を事業家の人たちがよく引き受けましたね。

石瀧

平岡と安川は玄洋社員でした。平岡は西南戦争で西郷軍に参加し、禁固一年の刑を受けています。安川の長兄は明治初年の福岡藩の贋札(がんさつ)事件で藩主をかばって死刑。次兄は、明治七年の江藤新平がおこした佐賀の乱に官軍として鎮圧に向い、三ツ瀬峠の戦で戦死しています。
時代の激動を身にしみて感じていた彼等は、士魂商才を地でいった人たちでした。中国革命に資金援助をするのはやはり志の分野だったでしょう。
辛亥革命後、中国との合弁企業を始めた安川敬一郎の述懐があります。
当時の金で、製鉄の漢冶苹公司(かんやひょうこんす)に約六百万円を投下しますが、契約が実行されず事業の見通しが立たない。彼は「全く無償で中国に贈与して手を引いた」と述べています。

司会

子息の(ひろし)氏が、「あれに投資したから、うちは貧乏になった。中国へ行くと、親父の七光りで特別待遇だ」と笑って述懐しておられました。

革命の出会い孫文と滔天 -『三十三年の夢』

宮崎滔天

司会

では福岡県民の大歓迎から時計の針を十六年もどして、中国革命を振り返っていただきましょう。孫文との出会いはまず、熊本県荒尾出身の宮崎滔天(とうてん)(本名 虎蔵明治四1871~大正十一1922)ですね。

石瀧

孫文はハワイやアメリカの華僑の支援で組織した反清(しん)組織、興中会の首領でした。
広東(かんとん)で一八九五年(明治二八)に反乱をおこして敗れ、イギリスに亡命しますが、清国公使館に監禁されます。送還されれば死刑です。  
香港の医学校時代の恩師カントリーらの救援活動が英国政府をうごかし、奇蹟的に釈放される。孫文はその顛末(てんまつ)、「ロンドン遭難記」を英文で発表して革命家として有名になります。
イギリス時代に後年の三民主義の着想も得たようです。

西島

そして、日本に亡命を。

石瀧

ええ。アメリカ、カナダをへて二年後に日本に亡命します。滔天は香港の同志から、革命家孫文のことを聞いて関心をもっていました。それで、横浜の亡命先へ孫文を訪ねるのです。
滔天は、新聞『二六新報』に掲載された「三十三年之夢」で、この時の情景を、リアルに述懐しています。
明治三十年九月のことで、彼が数えの二十七歳のことでした。
孫文は満州王朝への抵抗の意志を示して、弁髪をきり落としていました。
ハワイで少年期を過ごし、香港で西洋医学校に学んだ孫文は、頭髪をポマードでなでつけたモダンな紳士として滔天の前に現れたのです。
だが、髭面(ひげづら)で巨漢の滔天には革命家を英雄豪傑とするイメージがあるから、目前の紳士がなよっとして頼りない。
「余が予想せし孫文はかくのごときものにあらざるなり」と言っています。

  • 「三十三年之夢」は、明治三十五年一月三十日から六月十四日まで、百二十三回掲載。

西島

がっかりしたのですね(笑)。

石瀧

だが、中国革命について話せば話すほど、孫文の魅力に引きつけられていく。
そして「余は恥じ入(い)りて、ひそかに懺悔(ざんげ)せり。われ思想を二十世紀にして心いまだ東洋の旧套(きゅうとう)を脱せず、いたずらに外貌(がいぼう)によりてみだりに人を速断するの病あり。これがためにみずから誤り、また人を誤ること甚(はなは)だ多し。」と反省しています。
「孫逸仙(そんいっせん)のごときは、実にすでに天真の境に近きものなり。彼、何ぞその思想の高尚なる。彼、何ぞその識見の卓抜なる。彼、何ぞその抱負の遠大なる。しかして彼、何ぞその情面の切実なる。わが国(くに)人士中、彼の如きもの果して幾人かある。誠にこれ東亜の珍宝(ちんぽう)なり」と。

四島

革命に燃えた二人の若者が、喧々愕々(けんけんがくがく)と、論議しあっている情景が浮かんできます。英傑英雄を知る。惚れ込んでしまったのですね。

石瀧

孫文三十二歳。滔天が二十七歳です。それから十四年たって、革命成立を迎えます。

四島

回天の業を起こす人の出会いと若さ、感動的ですね。滔天といえば、有名な宮崎兄弟の一人ですね。

石瀧

長兄の八郎は、ルソーの民約論を教典に自由民権を唱え、西南戦争で西郷さんについて、二十七歳で戦死します。
次兄の民蔵(たみぞう)は土地の均等配分を主張して、アメリカ、イギリス、フランスを説いてまわりました。「井」の字を大きく書いた孫文の革命旗は、土地の平等を唱(とな)えた民蔵の影響ではないかと言われています。
すぐ上の兄、弥蔵(やぞう)は滔天に中国革命を吹き込みました。
時代の危機感をわかちもち、ユニークな思考で活動した兄弟で、荒尾の生家が、「宮崎兄弟記念館」になっています。

四島

明治を象徴する、ボルテージのたかい一家だったのですね。

たぎりの時代

四島

それにしても、宮崎滔天の『三十三年の夢』は、中国革命を語るには欠かせない書物ですね。

石瀧

彼と仲間が、いかに孫文を支援したかということが克明に書き遺(のこ)されています。そして、赤裸々(せきらら)に貧しい窮状をさらけ出していますね。
生活に困窮し、革命運動も思うようにいかない。それで、当時は蔑(さげす)まれていた浪曲界に身を投じ、周囲の反対を押しきって桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)に弟子入りする。そして、桃中軒牛右衛(とうちゅうけんうしえもん)と名乗ったのは有名ですね。

四島

革命に没頭する滔天と、家族たちの苦しさを切々と。文語体の記述が少しもブレーキにならない。

石瀧

「歴史」の「歴」は粘土に記されたもので、「史」は紙に記されたものなんですね。文字として書き残されてこそ歴史なのです。

四島

回天の歴史に立ち会った、このようにリアルで克明な回想を読むと、つくづく、滔天は同時代を記述した一流の歴史家なんだなと思います。

石瀧

ところが、同じように孫文支援に尽力した末永節はなにも書き遺していない。明治時代を代表する健筆家で、九州日報の社長だった福本日南 安政四1857~大正十1921)も同様です。だからこの本ではじめて、中国革命と彼らとのかかわりがわかるのです。
明治三十年に、孫文と末永節、内田良平、平山周(夜須郡・現、朝倉郡出身)らがフィリッピン独立運動のアギナルド将軍(1869~1964)を支援したこともこの本で知ることができる。
号を狼嘯(ろうしゅく)、オオカミがうそぶくと名乗っていた末永節が、日南をフィリッピン独立運動に誘(さそ)う一節がいいですね。
「狼嘯また余(滔天)を説いていわく。福本日南はわが同郷の先輩なり。彼、年すでに四十を越え、業 (なりわい)に筆硯(ひっけん)(文筆)のことに従うといえども、思うにこれその志にあらず。彼をいざのうて(誘って)この事に加(くわ)わらしめ、以(も)って死後の栄をになわしめては如何(いかん)(いかが)。
彼、また多少の名声を有するもの。豈(あ)にこの事に寸効なからずや(いいことではなかろうか)」と言うわけです。

四島

当時は「人生五十年」で、四十代が人生の完熟期だったのですね。

石瀧

みな二・三十代で、日南だけが四十代なんです。
「余(よ)その意を賛(賛成)して、これを孫君に謀(はか)る。孫君またその意を賛す。すなわち、狼嘯とともに日南君をその寓(ぐう)(家)に訪(と)い、秘懐(心の内)を吐露して賛成を求む。彼言下に快諾していわく。それは、いい死に場所じゃわいと」。

四島

福本日南という、明治を代表するジャーナリストが、四十を過ぎて革命に参加を勧められ、いい死に場所の一言で参加を決める。まだまだ、たぎりの時代だったのですね。

石瀧

念頭にあるのは、人生をいかに完結するかということだけなのです。 
この本は、中国でもベストセラーになって、毛沢東が愛読して滔天に手紙まで送っています。

西島

それで、滔天が左の席に座れるお墨付きになりましたね(笑)。革命支援で、ほかに書き残されたものは。

石瀧

革命は表だった活動ではない。いわば秘事なので記録が乏(とぼ)しいのです。新聞にもあまり載(の)っていません。
だが、末永節が遺した末永文書が市の博物館に寄託されています。彼は長命で、昭和三十五年に九十二歳で亡くなりました。遺族の意向で非公開だと聞いていますが、来翰その他、革命の歳月を物語る貴重な資料の公開が待たれますね。
父親の茂世(しげよ)は名を知られた学者で、明治になって筥崎宮の宮司に。兄の純一郎は明治論壇の中心であった新聞『日本』の編集長で学識の人でした。

四島

いろいろなタイプの人が中国革命を支援していた。玄洋社の一面の面白さでしょうね。

革命グループが合同

黄興

四島

滔天に続いて、頭山満らの中国革命を支援する人たちが登場するのですね。

石瀧

明治三十八年に、パリに滞在していた孫文が、決起を促(うなが)した滔天の手紙を読んで来日します。
東郷平八郎大将(後元帥(げんすい)(弘化四1847~昭和九1934))
の率(ひきいる)いる日本連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を破ったばかりの頃で、寄港地のアジアや中東諸国の人たちが、有色人種が白人に勝ったと大喜びしていました。
孫文は日本へ亡命しますが、清国政府のお尋ね者だから、日本政府も外交上滞在許可を出せない。

西島

不屈の孫文も困りますね。

石瀧

それで滔天と玄洋社の平岡浩太郎が孫文を、頭山と親交がある犬養 毅(いぬかいつよし) (木堂安政二1855~昭和七1932)のところへ連(つ)れて行き、援助を頼みます。
犬養は後に政友会総裁となり、総理大臣のとき、五・一五事件の凶弾に倒れる人物で、気骨の人として政界に隠然たる勢力を持っていました。
犬養が政府に圧力をかけ、平岡が孫文の生活と活動費を負担します。
1900年(明治三十三)に第二回の挙兵(恵州事件)を試みて失敗。苦難の歳月でした。

四島

その頃、明治維新で新しい国作りに成功した日本への憧れがあって、多数の学生が留学していましたね。
君主国だから安心と、清国政府が送り出した官費留学生たちが革命家になっていた。皮肉ですね。

石瀧

留学生は、三千名とも五千名とも言われます。
滔天と玄洋社の末永節が中国料理店の豊楽園で、在日留学生や革命家の間に信望の厚い黄興(こうこう)(1874~1916)を、孫文に引き合わせます。
黄興は湖南省の長沙(ちょうさ)出身で、官費留学生。日本名が中田車之助でした。
黄興は一九〇四年(明治三十七)に留学生を組織して革命結社の華興会を組織し、長沙で蜂起しますが、失敗して日本に亡命していました。同志の張継(ちょうけい)とともに、東京牛込の神楽坂(かぐらざか)で末永と同居していたのです。

四島

なんだか、明治維新の、西郷隆盛桂小五郎の薩長同盟を思わせる風景ですね。

石瀧

二人は革命団体の合同について語り合い、1905年(明治三十八)七月三十日、赤坂の内田良平の家に、在京の主な革命家を集め、秘密裡(り)に中国革命同盟会結成の準備会を開きました。
内田良平は平岡浩太郎の甥で、内田と末永とは夫人同士が姉妹でした。

西島

結束の絆(きずな)が固かったのですね。

石瀧

八月十三日に孫文の歓迎会が富士見楼で催され、会場にあふれる千五百名もの留学生が集まってきます。留学生たちの革命への熱意を試す、孫文の意図もあったようです。
そして八月二十日、赤坂霊南坂の代議士坂本金弥別邸で孫文の興中会、黄興の華興会、光復会の革命三派が合同して、革命の母体「中国革命同盟会」が生まれたのです。

四島

中国革命へ、大きな前進ですね。

石瀧

このとき革命綱領として採用されたのが、孫文の、民族、民権、民生の三大主義で、後の有名な三民主義です。
これまでは失敗につぐ失敗でしたが、初めて中国革命の成功が見え出したのです。
孫文が「全国の俊英を集めて、革命同盟会を東京に結成した日、私ははじめて革命の大業が自分の生涯のうちに成就(じょうじゅ)するであろうことを信ずるにいたった」と述べています。

四島

革命家孫文の実感だったでしょうね。

石瀧

そして、同盟会の機関誌『二十世紀之支那』を発行し、発行人に宮崎滔天、印刷人に末永節がなる。これを引継いだ『民報』は最大発行部数が五万部にもなったそうで、革命の進展に大きな役割を果たしました。

革命未だ成らず

頭山 満

四島

革命もなかなか多難でしたね。

石瀧

こうした苦労を経て、1911年(明治四十四)に辛亥革命が成功します。孫文の最初の広東の蜂起から十六年、各地でおこった約二十回の革命蜂起が次々と清軍に敗れています。失敗の連続でした。やっとかちとった革命臨時政府ですが、基盤が弱体な革命グループだけで、維持することは困難でした。北方軍閥の袁世凱(えんせいがい)と妥協せざるを得なかったのです。
頭山満は、袁世凱は信用できない、彼と組んでは後悔すると、強く忠告しています。結果はその通りになったのですね。
彼は、李鴻章(りこうしょう)(1823~1901)の北方勢力を引き継ぎ、テロと買収、権謀術数の限りを尽くして、軍閥にのしあがりました。辛亥革命では、南京の革命勢力を利用しながら、清朝の宣統帝(りこうしょう)を退位にはこんだ梟雄(きょうゆう)です。
臨時政府大総統になると、野望をむき出しに、南京勢力の壊滅にかかる。それで孫文や黄興が反袁で決起する。第二革命の蜂起ですね。
狡猾(こうかつ)な袁は、欧米日に手を回して借款(しゃっかん)を得(え)、この資金で新式の武器の提供をうけています。革命軍は、新装備の袁軍にあえなく敗退し、孫文も黄興もまた日本へ亡命です。

西島

革命の道は遠いですね。一年前は国賓でしたね。今度は。

石瀧

政府も、実業家も、一年前とは大違いの冷たさです。政府は、孫文の入国を認めない方針です。
この時も、窮地にたった孫文を、頭山が救います。頭山の頼みを受けた川崎造船所社長の松方幸次郎が、極秘に孫文を上陸させてかくまうのです。
一方、犬養木堂(毅)は、首相・山本権兵衛(ごんのひょうえ)の宅を訪ね、渋る山本に孫文の亡命を承諾させます。

西島

頭山、犬養、松方と、することが、桁外(けたはず)れに大きいですね。

石瀧

川崎造船所は、袁世凱の北京政府から軍艦の注文を受けていたそうで、松方の剛腹(ごうふく)さですね。このときの孫文の亡命費用は、安川敬一郎が引き受けたそうです。

四島

頭山満の影響力は、筑前玄洋社の枠をこえて、日本の要路を動かしていたのですね。

石瀧

孫文らの反帝制運動はまた時代の勢いとして盛り返します。いわゆる第三革命です。各地で革命軍が蜂起し袁軍の離反もあいついで、袁世凱は在位わずか八十三日で退位に追い込まれ、失意のうちに亡くなります。

四島

そして孫文が指導者につく。袁世凱は歴史のまばたきに過ぎなかったのですね。

石瀧

孫文も辛亥革命成立後一四年に、ガンで亡くなります。1925年三月(大正一四)六十歳でした。
国父と敬慕された孫文は、南京の中山陵に丁重にまつられています。
中山(ちゅうざん)という号は、日本滞在中、中山公爵家の表札から思いついて名乗った日本名中山樵(しょう)に由来したといわれています。
最後の言葉は、

革命尚未成功 革命は尚未(いま)だ成功せず
同志仍須努力 同志仍(な)お須(すべか)らく努力すべし

と壮絶な遺言でした。
その後の国民党、蒋介石(しょうかいせき)(1887~1975)と、毛沢東(1893~1976)共産党との内乱の末、1949年に中華人民共和国が成立します。孫文死後二十四年のことでした。

ラス・ビハリ・ボース

司会

孫文や玄洋社がフィリッピン独立のアギナルド将軍にも支援の手をさしのべています。彼らは民族の目覚めを、中国だけでなくて、アジア全体としてとらえていたのですね。

四島

そして頭山満は、一九一五年(大正四)、インドの独立運動の志士のラス・ビハリ・ボースも救っていますね。

石瀧

政府は英国政府の申し入れで、亡命してきたボースを国外退去にしますが、次の寄港地で英国に捕えられ、死刑になることが懸念される。
各方面に救助を求めますが、頼りにならない。このとき孫文が「ただ、頭山満を頼め」と言ったそうです。
指定の時間に頭山家を訪ねると、裏口から隣家の寺尾 亨(てらおとおる)(前東大教授安政五1858~大正十四1925)の家に逃がすのです。
そこには、玄洋社の杉山茂丸が車を用意していて、ボースを乗せて隠れ家に運んでかくまう。

西島

肝(きも)ったまが大きいですね。

石瀧

いつまでも出てこないので警察が確かめると、とっくに帰ったからいない。家捜(やさが)ししてもいいよです。
大物の頭山にそう言われれば、グーの音も出ない。「窮鳥 懐(ふところ) に入れば、猟師もこれを殺さず」で、日本政府を相手にしてでもかくまってやる。
頭山は酒を飲まず、そして約束にかたい。行動が損得抜きです。彼の支援は盤石(ばんじゃく)の重みでした。

西島

頭山さんの玄洋社が、政府もできないことをやってのけている。そういう義侠に厚い人たちがつい八十年前の福岡にいたのですね。

石瀧

背景には、欧米諸国によるアジアの植民地化への義憤がありました。アジアは一つになって、欧米の植民地主義を一掃しなければという危機感です。日本の独立維持が、アジア諸国の安全と結びついているという認識も大きかったでしょう。
彼らのかかげた「アジアはひとつ」が、戦前の大東亜共栄圏のスローガンにつながったと短絡した見方がありますが、これはうなずけない。
今はまったく失われている侠気が生きていたのですよ。幕末の日本も欧米の植民地にされる瀬戸際(ぎわ)だった。他国の難儀が見逃せなかったのです。

四島

人生を大きな理想に結びつけたい。当時の人たちの死生観もあったでしょう。

四島

明治維新から、まだ三・四十年しかたっていない。まだまだ、奔騰(ほんとう)の時代だったのですね。

自由民権から中国革命の支援

箱田 六輔

司会

「博多と孫文」と言えば、これまでアンタッチャブルであっても、玄洋社をはずしては語れませんね。玄洋社のおさらいを。

石瀧

玄洋社は、西郷さんが西南戦争で敗れた年の翌年、明治十一年に生まれた向陽社(こうようしゃ)が前身です。十二年に向陽義塾を併設し、十三年に玄洋社へと姿を替えます。
頭山満ら旧福岡藩士が、平岡浩太郎、次いで箱田六輔(嘉永三1850~明治二十一1888)を社長に結集して、民権伸長と国権確立を掲げました。箱田、頭山、平岡は玄洋社の三傑と言われています。
玄洋社が掲げた社則は、

第一条 皇室を敬戴(けいたい)す可(べ)し
第二条 本国を愛重(あいちょう)す可し
第三条 人民の主権を固守す可し

の簡明な三則で、国権回復と民権伸長を掲(かか)げました。これは、当時の政治結社共通のワンセットのスローガンで、社則第三条が民権の伸長ですね。

平岡 浩太郎

四島

薩摩長州の専制に対抗して、自由民権の結社が全国に生まれたのですね。民権は自由民権運動で国会の開設、民衆の政治参加の要求ですね。
明治十四年でしたね。きたる二十三年に国会を開設する詔勅が出て、民権運動に一応のめどがついたのは。

石瀧

そこで民権運動グループは、板垣退助(天保八1837~大正八1919)らの自由党、大隈重信(天保九1838~大正十一1922)らの立憲改進党に結集して国政に参画していく。華やかな政党時代となったのです。
玄洋社に政治的野心があれば、政党を組織して東京に本社を移し全国の同志と連携を保って、政界のヘゲモニーを取ろうとしたはずです。
だが、彼らは旧福岡藩士で社員を固めたまま、西職人町に本社を置いて動かない。平岡浩太郎だけが例外で、炭鉱を経営し、衆議院議員になります。だが大方は天下の浪人で、中国やフィリッピンや、インドの独立支援に駆け回っている。
幕末の勤王運動が明治初年の士族反乱へ、さらに自由民権運動を経て、アジア主義へと、系譜は連(つら)なっています。この点で、福岡の近代史は特異です。頭山満の率いる玄洋社の目は、ひろくアジアを捉(とら)えて、孫文たちの中国革命を支援したのです。
そのころの話です。博多で旅館をしている社員が、名島に屋敷を持っていました。孫文の革命支援に中国に渡るとき、屋敷を売り払って、その資金をまるまる持って駆けつけたそうです。

西島

いま、そんなことをすれば大変だ(笑)。最後のサムライたちの集団だったのですね。

石瀧

彼らにとっては、それがあたりまえだったのですね。宮崎滔天も同様で、奥さんや家はほったらかしで、孫文の革命にいれあげている(笑)。

西島

からっとしているが、それにしても、不思議な景色ですね。

石瀧

だから、彼らが革命支援に活躍したのは、日本国内の政治に絶望したからだ、という解釈もあるのです。 
私は、正義というか、誠というか、その活動の根底には、何よりも義があったと思うのです。玄洋社を政治結社だとだけ見るのは間違いだという私の根拠の一つは、ここにあるのです。

条約改正と玄洋社

司会

さて、もう一つのスローガンの国権の方は。

石瀧

徳川幕府が黒船の脅威からやむをえず欧米各国と結んだ不平等な安政条約の改正。いわゆる「条約改正」が国権確立で、これは国民の願いであり歴代内閣の最重要のテーマでした。
日本は形の上では独立国ですが、犯罪人が欧米人の居留地に逃げ込めば、日本の警察は踏み込めない。外国人の犯罪者は捕らえても、日本の法廷では裁けない治外法権(ちがいほうけん)がある。
さらに関税に自主権がなくて、輸入関税は相手国と協議して決めなければならない。これはたいへんな屈辱です。
井上馨(いのうえかおる)外相が、各国との改正会議をかさねました。外国人の裁判官を過半数採用して外国人の犯罪を裁く。土地の所有と居住権を、日本人と同様に認めるなどが骨子でしたが、世論の猛反対でつぶれます。
あとを継いだ大隈重信は、負けん気の強い人で、自分の手で改正実現をと意欲満満です。
彼は、改正を話し合える国からの交渉方式にかえ、外国人裁判官を大審院のみにするなど、井上方式の改正案をもとに実効をあげようとしました。
その極秘の改正案がロンドンタイムスに掲載され、新聞『日本』に訳出される。国を誤る屈辱改正だと、囂囂(ごうごう)たる非難が起こります。だが、強気の大隈は耳を傾けない。
それで、玄洋社の来島恒喜(くるしまつねき)(安政六1859~明治二十二1889)が、閣議から外務省にもどってきた大隈の馬車に、爆弾を投げたのです。大隈の条約改正案も、黒田内閣もふっとんでしまいました。
来島はその場で自刃(じじん)します。大隈は隻脚(せっきゃく)の政治家となり、後には内閣を組織します。
条約改正ができたのは、日清戦争の始まる直前、明治二十七年(一八九四)、陸奥宗光外相によってでした。

四島

その条約改正に陸奥が駐米公使に抜擢した、福岡出身の栗野慎一郎(嘉永四1851~昭和十二1937)が、大きな働きをするのですね。
しかし、不平等条約を維新後二十七年も押しつけられていたとは。

石瀧

近代化を進めていた日本でもそうでしたから、植民地同様だったアジア諸国の痛みがわかりますね。

司会

「天下の愕愕(がくがく)は君(くん)が一撃に若(し)かず」が、頭山満の来島への弔辞でしたね。騒然の中に微動だにせず、動くべきときあればその機を逸せず、一撃をもって天下の大勢を一変させる。
義のためにはなにをするかわからないと、玄洋社の隠然たるパワーを見せつけた結果にもなったでしょう。

石瀧

そうですね。でも、一方に玄洋社は、多彩な人たちの集団でした。
辛亥革命が成功して、福岡出身の東大教授の寺尾 亨は、盟友の頭山満とともに、孫文に中国へ招かれます。
それで、国際法の権威の寺尾が、憲法の草案を提示するのです。東大教授の身分でそういうことはできないから、辞職して新中国の門出に尽くしています。

西島

玄洋社というと、大陸浪人と見られることが多いのですが…。

石瀧

学識の高い人や、スケールの大きな人たちも集まっていたのです。

四島

財務面を支えた杉山茂丸(元治元1864~昭和十1935)も。

石瀧

杉山は先が見えるひとで、大正五年に関門トンネルの開設を申請しています。莫大な資金がかかるので、彼が生きている間には実現しませんが、昭和十四年に着工されます。
彼は三度首相になった桂太郎や、政界の切れ者だった後藤新平らをバックに、大きなプロジェクトに取り組みました。「政界の人形使い」とか、「法螺(ほら)丸」とか、あだ名されましたが、彼の先見性の勲章でしょう。
茂丸はこのごろ注目されている作家夢野久作(明治三1899~昭和十一1936)の父親です。

四島

そう言えば、頭山満に連なる人たちに、広田弘毅(後、首相。東京裁判で刑死明治十一1878~昭和二十三1948)、中野正剛(政治家、東条首相に対決し、自刃明治十九1886~昭和二十1945)、緒方竹虎(朝日新聞副社長、大臣歴任、自由民主党総裁明治二十一1888~昭和三十一1956)ら、一流の人物がいたのもうなずけますね。

石瀧

広田は外交官。中野は政治家。緒方は朝日新聞と、それぞれに表の人たちでした。頭山を敬慕していても、孫文を匿(かくま)ったり、他国の革命を支援したりすることは立場から出来ない。
頭山も、この人たちを巻き込むつもりはなかった。革命や独立運動の支援は自由な立場にいる玄洋社の、いわば浪人たちの仕事と、割り切っていたでしょうね。

西島

広い視野と独自の行動力がある頭山や、玄洋社は、地元のためには。

石瀧

それが…。彼らの視野は日本とアジアにあった。だから見事なほどに、地域エゴでは動いていませんね(笑)。
ただ、地域的な課題であった九州鉄道の敷設とか、九州帝国大学、八幡製鉄所の誘致、博多港湾の浚泄(しゅんせつ)など、公共的なことには、積極的に運動しています。
だから港湾、鉄道、ガス、電気の分野でも、玄洋社に連なる人たちがパイオニアとして尽くしています。玄洋社員は政治家だけではなかったのです。

四島

福岡開港百年で、そうした面でも、冷静な視点が必要ですね。

西洋開化で…博多山笠がピンチに

孫文と夫人宋慶齢

西島

福本日南らも、国粋主義者に数えられていますね。

石瀧

ここにも多分に誤解がありましてね。彼らが唱えた明治の国粋と、戦後批判されている狂信的な国家主義の国粋とは、意味が違うのです。
戦前は、天皇制中心の国体明徴(めいちょう)の国粋です。ところが、新聞『日本』に集まった人たちが明治時代にかかげた国粋は、政府が進めている欧化一本槍の風潮から、日本の良さを守ろう、日本文化と伝統を大切にということだったのです。

西島

知事が、市議会に山笠中止を申し入れたのも、そのころですね。当時は背の高い山笠で、よく電線を切っていたし、裸で尻をさらして走り回るのが野蛮な風習だと見たのですね。

石瀧

明治三十一年で、赴任したばかりの曽我部道夫知事が、博多の事情をよく知らなかったのでしょう。
知事の権限は絶大でした。困った博多っ子は、玄洋社系の九州日報の主筆だった古島一雄さんにすがります。
古島は、着飾った人間が上等で、裸の人間が下等だという証拠はない。着飾った紳士淑女の鹿鳴館(ろくめいかん)でのスキャンダルはなんだと言う論調で、山笠擁護論を展開します。

西島

それで、そろいの法被で、背を低くした「かき山」を担(にな)って走る、今の山笠スタイルになった。文明開化が、博多山笠までゆさぶったのですね。

石瀧

でも、明治政府にも政府としての事情があったのです。不平等条約改正には、日本が一流の文明国であることを、欧米人に理解してもらわなければならなかったのです。

四島

鹿鳴館もその選択肢のひとつだったのですね。

中国のすぐ隣り福岡

四島

やはり、福岡が昔から大陸の窓口で、隣りだったことが、革命支援の背景だったのでしょう。

石瀧

戦前まで博多では、むづがる子供を、「泣きやめんと、ムクリコクリが来るよ」と言って、あやしていました。私たちの世代の「人さらいがくるよ」にあたる言葉でしょうね。
蒙古をムクリ、高麗(こうらい)をコクリと言っていたのです。七百年前に元の襲来で大変な目に遭(あ)った。その恐怖感が忘れられなかったのですね。

西島

いいことも、つらいことも、博多の人は大陸に無関心ではおられなかったのですね。

石瀧

福岡藩が長崎の警備を、佐賀藩と一年交代で担当していたこともあって、常に海外に情報を求める意識があったと言えるでしょうね。
鎖国の江戸時代に、世界への窓は、長崎の出島に来航したオランダ人がもたらす情報だけだったのです。

四島

だから、黒田斉清(なりきよ)やその養子で幕末の激動期に殿様となった斉溥(長溥)(なりひろ)(ながひろ)は西洋事情に詳しくて蘭癖(らんぺき)大名と呼ばれたのですね。

石瀧

そうした背景で、国際緊張に敏感だった福岡に、玄洋社が生まれたのですね。

西島

今日は、スケールの大きな男たちばかりの話を聞きました。
話題を変えて、美人のお話を(笑)。
孫文夫人たち宋家の三姉妹は、映画にもなって評判でしたね。

石瀧

夫人の宋慶齢(そうけいれい)は1890年に広東(かんとん)に生まれ、1911年に孫文の秘書となります。一三年に日本へ亡命し、一四年(大正三年)に、孫文と日本で結婚します。二五年に孫文が亡くなると、国民党中央委員となり、国民党左派を率いて蒋介石に対抗します。
中華人民共和国成立後は全国人民代表大会代表、中華人民共和国副主席などを歴任し、1981年に亡くなっています。
姉は財閥の孔祥熈(こうしょうき)夫人宋靄齢(そうあいれい)、妹は蒋介石夫人の宋美齢(そうびれい)(1901~)、弟の宋子文(そうしぶん)は国民党政府の要人でした。
姉妹が、ついには敵対関係となる。激動の二十世紀のアジアを象徴する女性たちでしたね。

福岡さわやかな風土

司会

からっとした明治の群像のお話でしたが、玄洋社の頭山満は政府に反対する活動もたびたびでしたね。彼のスタンスは。

石瀧

頭山満は「名誉もいらぬ。金もいらぬ」という人間がいちばん恐ろしいと言っています。
また、船が沈もうとする時に、皆が片方に寄るといっそう傾く。だから自分は反対の方で頑張ると言っている。
こういう処世訓を、人は思想とは見なさないかもしれない。しかし、そうした覚悟を決めた生き方が、人を動かし歴史を作るのだという気がします。
名利を求めず、在野を貫(つらぬ)く気迫が、政府の要路にある人々には"無言の圧力"に見えたでしょう。
今風に言えば、玄洋社の背後にある人脈、ネットワークの広がりが、政府に拮抗(きっこう)させたのではないでしょうか。

司会

悲しい中国との戦いが、孫文没後十八年で起こりましたね。
頭山さんも老齢でしたが、中国に知己(ちき)の多かっただけに、解決にあたられる方法はなかったのでしょうか。

石瀧

玄洋社の頭山たちは日中不戦の立場です。悪化の一途をたどる軍部の専横を批判的に見ていたでしょうね。彼らなりに戦争を終わらせる努力もしていたようですが、実を結んでいない。そうした活動もつまびらかにされていない。残念ですね。

四島

孫文先生の魅力に魅(ひ)かれて、博多の先人たちが、アジアを視野に入れて、人生を燃焼させた歴史があったのですね。

石瀧

だから、孫文と玄洋社のかかわりを、はっきり正視しなければなりませんね。
日中親善は、真実を見つめることから始まるのだと思います。いまの風潮から見れば、不思議な気もしますが、福岡は爽やかな風土だったのですね。

司会

福岡はアジアの窓口であろうと努めています。深い 絆 (きずな)で結ばれていた「孫文と博多」のお話。どうもありがとうございました。