No.69 野見山朱鳥

対談:平成11年11月

司会・構成:土居 善胤


お話:
九州造形短期大学学長 田川市立美術館館長 谷口 治達氏
福岡県俳句協会会長 同人誌「円」主宰 岡部 六弥太氏
聞き手:
福岡シティ銀行 専務取締役 今田 賢勇

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


彗星のように出現した朱鳥

Profile:野見山朱鳥の歩み

木版画「曼珠沙華」

司会

2000年の今年は、野見山朱鳥(あすか)の没後30年で、福岡で「俳句と絵画 野見山朱鳥の世界展」が開催されたり、朱鳥へ熱い眼差(まなざ)しが注がれていますね。
朱鳥は戦後の俳壇に彗星のように現れた俳句界の革命児ですね。

岡部

私の師ですが、筑豊の直方(のおがた)をベースにして、地元の福岡や北九州はもちろん、全国へ独自の透徹した“生命諷詠”の朱鳥俳句を発信しつづけました。壮観でしたね。

今田

朱鳥先生は直方の南小学校から鞍手中学(現・鞍手高校)と、私の先輩ですが、直方の多賀公園に立派な文学碑がありますね。(以下敬称略)

福智山を背景に。
朱鳥51歳

岡部

碑の句は高濱虚子(たかはまきょし)が主宰する俳誌「ホトトギス」の巻頭句になった

火を投げし如くに雲や朴(ほお)の花

です。いわば彼の出世作で、朱鳥29歳の作品です。
朴はモクレン科の落葉樹で高さ20メートルぐらい。山地に自生して真っ白い花をつけます。純白の朴の花と、落日に真っ赤に染まった雲の鮮やかさを詠(よ)んだものです。
大きな風景のなかに、瞬間をしっかと見据えた朱鳥がいます。写生に徹し写生をこえた朱鳥の代表作ですね。

谷口

朱鳥は不世出の俳人として知られていますが、絵画や版画にも優れた作品を遺(のこ)しています。
赤や青や、多くの色彩が伸びやかに使われていて、ぴかっと光るものがある。シュールレアリスムを感じさせる意欲的な作品もあって、いかにも新しい俳句を作りだした彼らしい。
鞍手中学卒業と同時に胸を病んで、三年間療養生活をしますが、上京して設計の仕事をしながら、鈴木千久馬絵画研究所の夜間部で絵画の勉強をしているのです。
セザンヌや、ピカソ、ゴーギャン、シャガールらから近代画家まで、画集にのめり込んでいたようです。
このときに、筑後出身でのちに創元会創立メンバーの一人である倉員辰雄(くらかずたつお)らと知り合っています。
遺された意欲的な油絵や版画を見ると、朱鳥ファンには失礼だが、本来は画家になるべき人が、代償的進路の俳句に進んだのでは…。画家の道を歩めば一家をなしていたでしょう。
そうなれば、俳壇を震撼させた朱鳥は出現しなかった…(笑)。運命の神様は、味なサイの振り方をなさる。
虚子の令息の池内友次郎から、「俳句は決して小さな世界ではない。絵に集中すれば俳句はおろそかになる。絵と両立はできないから俳句一本にしぼれ」と言われたそうです。

岡部

棟方志功(むなかたしこう)らの版画ブームが起こった頃で、朱鳥は自分でも版画を彫っています。
「日本版画協会展」や、木版画を板画(ばんが)と称していた志功の「日本板画院展」に入選しています。板画院展には必ず通ると夫人に宣言したそうで、後年には版画集を3冊出しています。
私が菜殻火(ながらび)賞をもらったとき、賞品は志功の版画でした。
書も味がありますが、揮毫(きごう)はあまり好まなかった。だから色紙や短冊はあまり残っていません。
そういえば、あの人は、句会のときにいつも膝の上に指先を踊らせていました。今にして思えば、句を人指し指で膝の上になぞりながら、書の練習をしていたのですね。朱鳥の句は情念とリズムがひとつになっているのです。それだけ、言葉と文字を大切にしていたのでしょう。印象的な風景でした。

筑紫野の「菜殻火」

太宰府・都府楼址にて

今田

『菜殻火』は、朱鳥が主宰した俳句結社「菜殻火」の会誌ですね。菜殻火は、当時、筑紫野の代表的な風景だったのですか。

岡部

菜種油を採るために、昭和20年代まで、筑紫平野で菜種の栽培が盛んでした。福岡県の菜種の収穫は全国一だったのです。
時代が変わって今は失われた風景ですが、筑紫野の春は一面に菜の花畑の黄色い絨緞(じゅうたん)でした。梅雨前に刈り入れて積みあげ、振り棒で菜種の実をたたき落とすのです。大変な重労働でした。実をとったあとの殻を梅雨前にいっせいに燃やすのが菜殻火で、俳句に欠かせない夏の季題でした。
その頃は、住宅もまだ少なくて、筑紫平野が一望できる都府楼址(とふろうあと)が、菜殻火を見るのに一番いい場所でした。
夕闇迫るころから、菜殻を焼く炎が大きな火柱になって、いくつもいくつも燃えあがる。雲を赤く染め、煙が天にのぼり、菜殻の灰が金粉のように舞う…。

今田

筑紫野を真っ赤に染めて、壮大な風景が目にうかびますね。初夏の筑紫野の一番の風物詩だったのですね。

谷口

朱鳥はその菜殻火を、結社と俳誌の名にしたのです。今は失われていても、その情景が目の前に 蘇(よみがえ)る。いいネーミングでしたね。

幻想(1965年)

今田

誌名は、最初から「菜殻火」で。

岡部

いいえ。最初は俳誌「飛蝗(ばった)」に参加しています。それを昭和24年に「菜殻火」に改題して共同主宰するのです。

だが意見が合わなくなって、昭和27年に解散し、新たに福岡で新生「菜殻火」を発行するのです。朱鳥35歳のときでした。

谷口

「菜殻火」創刊号に朱鳥は、「新生菜殻火は今日より前進をつゞけます。私は、私を信じる人々と進み、私と共に俳句鍛錬を励む人々と進み、伝統を継承する新時代の俳句を創るための努力をつゞけます。菜殻火は消しませぬ。朱鳥」と鮮烈な決意を述べています。

岡部

一般に「菜殻火」というときはこの新生「菜殻火」をさしています。その号に載せた句に

阿蘇にふる雪より白く生きんとす
絶壁の氷柱見上げて決意する

があります。

谷口

「菜殻火」は九州で注目される結社となり、昭和45年の朱鳥他界の時には、若手俳人を中心に誌友が約700名という大きな勢力でした。

岡部

私は、太宰府の都府楼址で、朱鳥と菜殻火を見た時のことが忘れられません。
朱鳥のそばで見ていましたが、あの人は火柱となって燃えている菜殻火のそばまで走っていったかと思うと、引き返して、礎石へ飛び上がって見ている。そして、また、あちらへ。すこしもじっとしていない。
感嘆の声をあげて、子供のような喜びよう。率直な感性の人でした。

今田

情景が目にみえるようですね。朱鳥の門人の人たちは。

岡部

福岡県から九州各県、さらに全国にひろがって、朱鳥の口ぐせだった“個性を出せ”に応えて菜殻火山系を構成しています。
「菜殻火」は、朱鳥没後もひふみ夫人に継承され、本年1月が575号、3年先には50周年・600号を迎えられる。

今田

朱鳥の志が継承されて現在に。すばらしいことですね。

谷口

2000年は、年頭から没後三十年を記念して、俳句と絵画や版画の展覧会が開かれたり、新しい朱鳥発見の年になるでしょうね。

俳壇を震撼させた虚子の、一行の序

高濱虚子

今田

朱鳥の句が「ホトトギス」の巻頭句に選ばれた。それは、大変なことだったのですね。

岡部

さきの“火を投げし”の句と

なほ続く病床流転(るてん)天の川

の2句が、『ホトトギス』昭和21年12月号、通巻600号の虚子選雑詠巻頭句に選ばれたのです。
今は、700から800といわれる俳句結社があって、それぞれに俳誌を出していますが、当時は結社も少なくて、高濱虚子の主宰する「ホトトギス」の権威は絶大でした。

谷口

虚子は“花鳥諷詠(かちょうふうえい)”を唱えて、新しい俳句の世界を確立します。
新人の偉才を次々に発見して、俳句結社の「ホトトギス」を俳壇で揺るぎないものにしました。虚子は、日本中の俳人が仰ぎ見る存在でした。
その巻頭句に選ばれることは、全国の俳人の夢でもあったのですね。

岡部

当時は俳誌『ホトトギス』に、一句でも入選しただけで、俳人や親類縁者をよんで赤飯をたいて祝う時代でした。だから、600号の巻頭を飾ったということで“九州に朱鳥あり”と、全国の俳句愛好者に知られるようになったのですね。
それからも2回、前後3回巻頭を得ています。

われ蜂となり向日葵(ひまわり)の中にゐる
爪に火を灯(とも)すばかりに梅雨貧し
(昭和26年3月)

生まれ来る子よ汝(な)がために朴(ほお)を植(う)う
雪を来し足跡のある産屋(うぶや)かな、
(昭和28年7月)

椿之図(水彩)

谷口

すごいですね。巻頭に選ばれたのだから当然だが、いい句ですね。
画家になろうかと思った人ですから描写が非常に絵画的ですね。そうした並の俳人にない視点と切り口が、虚子には新鮮だったのでしょう。

今田

当時の虚子はすでに70代でしょう。その炯眼(けいがん)はさすがですね。

岡部

そして、さらに、第一句集『曼珠沙華(まんじゅしゃげ)』に、虚子から有名な序文をもらった。巻頭に1行。それが名文で重いんです。虚子をして、


曩(さき)に茅舎(ぼうしゃ)を失ひ今は朱鳥を得た。
昭和二十五年七月二十七日
鎌倉草庵高濱虚子

と言わしめたのです。
遡(さかのぼ)って、川端茅舎(かわばたぼうしゃ)の『定本川端茅舎句集』の序に、虚子が「花鳥諷詠真骨頂漢(しんこっちょうかん)」とおくって俳壇を驚嘆させたのは5年前のことです。茅舎と並記されたこの一行は全国の俳壇をまた震撼させました。
これで俳壇の朱鳥の地位が、揺るぎない不動のものになったのです。昭和25年、朱鳥33歳のときでした。

谷口

生前に出会いはありませんが、茅舎に傾倒していた朱鳥だけに、計り知れない嬉しさだったでしょうね。
虚子は一行の言葉で朱鳥の華麗な登場を言い尽くしている。さすがですね。

岡部

句集の後記に朱鳥は、「この一行の慈文を真実生きぬきたいと私は念願する。私は心の墓に『曼珠沙華』を彫り得た思いである」と、記しています。

西に朱鳥あり

木版画(天馬)

谷口

当時の俳壇では、「東に上野泰(うえのやすし)、西に朱鳥あり」と言われていました。

今田

すでに、大きな存在感があったのですね。

岡部

それから朱鳥は、あちこちの句会に招かれましたが、最初から選者として待遇されたそうです。
ところがその四年後、昭和29年の第2句集『天馬』に寄せられた虚子の序文は、前回と違って、長文で痛烈なものでした。その一節をみると、「異常ならんとする傾向は、愈々(いよいよ)激しくなって来て、私から見ると、具体化が不十分であるような感じがする」とあります。

谷口

虚子は奔騰(ほんとう)する朱鳥に、頭を冷やせとブレーキをかけたのかもしれません。大結社「ホトトギス」を主宰する虚子の、俳界操縦の常套(じょうとう)手法であったかもしれませんね(笑)。

岡部

句集の題は、炎暑の阿蘇を写生した

炎天を駆ける天馬に鞍を置け

の句からとっています。

谷口

天馬はギリシャ神話のペガサスですね。療養中に文学書や美術書を手当たり次第に読みあさった朱鳥には、身近な発想だったのでしょうか。
たしかルドンに、同じ情景を思わせる天馬の絵がありましたね。

岡部

天馬の句は、見方によれば、他の者には手も足も出ない作品だったかもしれない。だが、朱鳥は「見える者には見える、存在しないが、実在する」と平然でした。
「ホトトギス」の人たちの間で、いろいろ取り沙汰がありましたが、朱鳥は弁解めいたことは一言も言わず、序文をありがたくいただいて掲載しています。

谷口

朱鳥は虚子を敬慕していたが、平身低頭はしていない。

岡部

それから2年後、「菜殻火」創刊3周年記念号に虚子が寄せた祝いの句があります。

今年竹(ことしだけ)ぐんぐん伸びる類(たぐ)ひかな

です。

今田

つらい序文をあたえても、虚子にとって朱鳥は、かけがえのない弟子だったのですね。峻烈だが暖流も。いい師弟関係ですね。

岡部

そして4年後の昭和33年、朱鳥41歳のとき。「菜殻火」に虚子研究の連載を始めます。そのスタンスはいかにも朱鳥らしく、「偉大な虚子を見て彼の俳句を見るのではない。俳句を見てから虚子を見るのだ」と研究を始めたものです。
研究の底本は虚子の『五百句』『五百五十句』『六百五十句』で、研究用の『ホトトギス』は第1巻から保存してある九州大学図書館の蔵書を借りてきました。毎回数人の同人が虚子の句について、率直に言いたいことを述べるのです。

司会

当時としては、破天荒なことでしたね…。

谷口

生前の大虚子の句を「ホトトギス」の同人が公開の場で批評するなど、考えられない時代でしたからね。

岡部

朱鳥が鎌倉へ虚子を訪ねたとき「虚子研究を興味深く見ている。六弥太はよく顔を出しているな」と言われたそうで、冷や汗をかきましたよ。

谷口

広い選句眼と包容力、そして偉才を発掘し個性を伸ばす。もう虚子のような大物はいませんね。

今田

虚子を詠んだ句は…。

岡部

虚子は昭和34年(1959)に86歳でなくなりますが、朱鳥が万感の思いをこめた哀悼の句があります。

天日(あまつひ)を牡丹(ぼたん)覆(おお)ひしごとくなり

朱鳥が生涯師事したのは虚子先生だけだったのでしょう。『ホトトギス』への投句をやめ、虚子没後8年、朱鳥50歳の時には同人も辞しています。

朱鳥の横顔

木版画(天馬)

司会

ここで、朱鳥の生涯のおさらいを。

岡部

朱鳥の本名は野見山正男です。筑豊炭田で栄えた直方市で、呉服屋を営んでいた直吉・のぶの次男として、大正6年(1917)に生まれました。
南小学校から鞍手中学(現、高校)へ進み、芸術書や文学書、ボードレールの詩などを読みふける文学少年でした。陸上の運動選手でしたが、どうも病弱だったようです。
中学卒業と同時に胸を病み、3年間療養生活をつづけます。

谷口

そのころ、俳句の魅力を知ったのですね。

岡部

叔母さんが日本女子大学の教授だった野見山不二さんで、正男少年に俳句の本を与えて、作句を勧めたそうです。
それから俳句に興味を持って、高濱虚子や、綺羅星(きらぼし)のような門下の山口誓子(やまぐちせいし)、阿波野青畝(あわのせいほ)、水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)、高野素十(たかのすじゅう)らの4Sをはじめ、飯田蛇笏(いいだだこつ)ら名のある俳人の句集を読みふけって、俳句の世界にのめりこんだのです。

谷口

わけても茅舎に傾倒しました。「ホトトギス」の川端茅舎追悼号には強いショックを受けています。

岡部

療養3年で健康を回復して上京しますが、再発して帰郷。22歳から28歳まで、糟屋(かすや)の国立療養所の清光園と大牟田の銀水園で、6年間療養生活です。

谷口

そのころの話ですが、福岡で俳誌「冬野」を主宰しておられた河野静雲(こうのせいうん)さんが、筑豊へ俳句指導に行っておられた。朱鳥の非凡さを認めて、よく声をかけられていたそうです。

岡部

そのころ、朱鳥は虚子に句を見てくださいと手紙を出しています。蝌蚪(かと=オタマジャクシ)を詠んだ10句をおくると、そのうちの八つに二重丸がついて返ってきたそうです。
それで、虚子を生涯の俳句の師に仰ごう、専門俳人としてやっていこうと意識したそうです。
「ホトトギス」誌上に朱鳥の作品が最初に載ったのは、昭和17年3月号で、それから3年間療養所からの投句が続きます。

谷口

療養俳句は、当時の俳句界の一分野でしたし、朱鳥の句にひらめきがあったのでしょう。虚子は若い人達との交流を大事にしていたのですね。

岡部

この頃、面白い話があります。 朱鳥の兄さんの桔梗園(ききょうえん)さんも俳句が好きでした。それで兄弟が「ホトトギス」の入選競争をしたのです。入選に負けた方は俳句をやめると。朱鳥の勝ちでしたが、兄さんが句作りをやめられたかどうか(笑)。

今田

その句は…。

岡部

さて? 俳句界に躍り出た「ホトトギス」巻頭句以前の朱鳥の句は、句集に載っていないのです。

司会

だから、ますます、躍り出た感じなのですね(笑)。
ホトトギス派といえば、季語の“春一番”を“発見”された、小原菁々子(こはらせいせいし)さんとのふれあいは。

谷口

菁々子さんは朱鳥より10歳ぐらい先輩ですが、静雲のお弟子さんでいつも先生をたてておられたから、朱鳥と顔は合わせられても、あまり往き来はなかったでしょう。
小原菁々子、伊万里の森永杉洞(さんどう)、朱鳥の3人は、昭和24年に「ホトトギス」の同人となった同期生です。
菁々子さんは90歳を越えられましたが、お元気で俳句の指導をなさっています。

今田

朱鳥の療養生活は、延べ9年間も。普通の人間ならスポイルされてしまうでしょう。

谷口

随想の『純粋俳句』の冒頭で
「毎日一歩一歩進む者が結局勝である(略)。毎日一歩一歩進むことは最も骨の折れる仕事であるが、打ち込んでやればやれないことはない」
と言っています。
朱鳥は根気のいる辛い療養の日々を自分の“俳句大学”にしていたのですね。

岡部

その通りですね。そして、戦争中ずっと療養所でしたから、同じ年配の人たちの運命だった、兵役にも戦場にも無縁でした。だから朱鳥は、戦争についてはいっさい沈黙をまもっています。
昭和20年の終戦直前まで、数次にわたるアメリカ軍の空襲で、大牟田市内が全焼。療養所は閉鎖されて直方の実家へ帰り、そして終戦です。
結核も快癒して、翌21年、看護婦さんだったひふみさんと28歳で結婚します。平和な日本に、朱鳥の羽ばたく時が来たのです。
この年、12月に、「ホトトギス」の巻頭句に推され、俳句界に新しい彗星として登場するのです。

今田

敗戦直後で、廃墟の日本でしたが、朱鳥には大きな出発の年だったのですね。

岡部

ええ。そして27年に、35歳で俳句結社を結成し、俳誌新生「菜殻火」を発行。45年、52歳で病没。「菜殻火」はひふみ夫人に引き継がれ、2000年初頭で575号に達しています。

司会

手前ごとで恐縮ですが、私どももご縁をいただきました。
70余年まえに、当行の創立者は「興産一万人」をかかげて、一番電車で33年間通勤するなど、謹直な生涯を過ごしました。
居宅のたたずまいを生前のままに、「四島一二三記念館」としていますが平成10年10月に「菜殻火」同人の方たちが吟行にみえ、ありがたい句をいただきました。

頭取の遺品簡素に一葉落つ
ひふみ
銀行家遺品涼しきものばかり
春海

花鳥諷詠から“生命諷詠”

朱鳥の書 生命諷詠

司会

虚子は「花鳥諷詠」を俳句の基本としましたね。花鳥諷詠とは。

岡部

虚子が昭和2年(1927)に主唱した作句の理念で、自然とそれにまつわること(花鳥)を、写生を基本にしてひたすらに見つめ、とらえる。そして新しい俳句への挑みを“新”でくくったのです。

司会

朱鳥も師の道を。

岡部

朱鳥はそれを一歩進めて“生命諷詠?を唱えたのです。そして、「伝統の継承とは、人によって耕された土地の稔りを刈り取ることではない。自己がひとりで荒れ地を耕すことなのだ」と言っています。

今田

朱鳥にとって、それが、“生命諷詠”で…。

岡部

「写生とは生命を写すこと」だったのでしょう。
“生命諷詠”は「季題を通して永遠の生命にふれようとする詩精神である」と言っています。
“生命諷詠”を初めてかかげたのは昭和30年、「菜殻火」10月号の「俳句独語」欄で、朱鳥38歳のときでした。

司会

なにやら、静かな登場だったのですね(笑)。でも、生命諷詠のほうが、身近に感じますね。

岡部

虚子自身の句にも、立て前は別として生命諷詠の句が多いのです。よく知られている

春風や闘志抱きて丘に立つ

など、人事の句が多い。これはあきらかに生命諷詠ですね。

今田

凛々と、そして浪漫的ないい句ですね。で、花鳥諷詠と生命諷詠と、写生の姿勢にどういう違いがありますか。

岡部

あまり変わりませんね(笑)。
大切なのは奥の奥まで、ものの裏まで見通して写生することです。生命諷詠は、季題を通じて永遠の生命にふれようとする精神でしょうか。

司会

朱鳥の句は、彼の心象風景でもありますね。その精神にふれる、朱鳥の代表作を一句。

岡部

この句に、それがうかがえますね。

永劫の涯(はて)に火燃ゆる秋思(しゅうし)かな

生命を見据えた彼は、最期の句をたくさんつくりました。

絶命の寸前にして春の霜
つひに吾れも枯野のとほき樹(き)と
なるか

そして絶句が

腹水の水攻めに会ふ二月かな
亡き母と普賢(ふげん)と見をる冬の夜

谷口

病弱で生命の際(きわ)を生きていた人だから、単なる花鳥諷詠ではなく、生命諷詠と言いたかったのでしょう。
『助言抄』に「自分一人の声を聞いて進むことは孤独であるが、それ以外に神の声を聞く方法はない」とあり、自分を見つめつづけた彼の姿勢が尽くされているようです。
また多賀公園の文学碑「火を投げし」の背面には、「苦悩や悲哀を経て来なければ魂は深くならない」と。朱鳥ならではの言葉でしょう。
ピカソも、青の時代に友人の死や貧乏の中で「人生の悲しみや苦しみが芸術を作る」と言っている。通い合うものがありますね。

「ホトトギス」の4S

みこヽろにそひ咲く
さくらちるさくら
阿蘇山頂がらん
どうなり秋の風

司会

虚子門下の、天下に名を知られた4S、誓子、青畝、秋桜子、素十といった人たちとは。

岡部

虚子からみれば、4Sの次の時代を朱鳥に託す思いだったでしょうね。朱鳥は茅舎にいますこし欲しいのが人生観で、それを自分は追求する。芭蕉の道を行くのだと言っていました。
朱鳥にとって俳句は人生を見据え、芭蕉の生き方を見据えた、修行の道だったのでしょう。

谷口

芭蕉の旅を追って、150年ほど前に、直方の女流俳人、湖白庵諸九尼(こはくあんしょきゅうに)が芭蕉の足跡をたどる旅をしています。朱鳥の心境でもあったでしょうね。

今田

4Sの中で、朱鳥がとくに学んだのは。

岡部

それは高野素十です。そしていちばん傾倒していたのは川端茅舎ですね。
 素十の句は、

苗代に落ち一塊(いっかい)の畦(あぜ)の土

に見られるように、写生の究極を追い続ける作風です。ものの本質に迫って省略に省略をかさねて、最後にひとつだけを残す。それが写生の極致だという句風です。
茅舎は、朱鳥が俳句に志して最初に魅かれた人で、彼の代表作に筑紫野の菜殻火の句があります。昭和14年の句で、

筑紫野の菜殻の聖火見に来たり

があり、昭和十六年に、

朴散華(ほうさんげ)即ち知れぬ行方かな

の句を遺して、43歳で亡くなっています。療養中の朱鳥が24歳のときでした。

谷口

2人の交流が、生前になかったのが残念ですね。
茅舎は画家・川端龍子(かわばたりゅし)の弟で、岸田劉生(きしだりゅうせい)について画を習っていましたから、朱鳥と心情に共通点があったのでしょうね。

“愁絶”坂本繁二郎

司会

朱鳥は八女(やめ)に住んでおられた坂本繁二郎(さかもとはんじろう)画伯を敬慕していましたね。

谷口

坂本さんは昭和31年に文化勲章をもらっておられる。俳句では虚子を師と仰いだが、絵画では坂本先生をと、思っていたのでしょうね。

岡部

「菜殻火」の表紙は、朱鳥が描いていましたが、なんと、文化勲章の坂本先生に、2回も描いてもらっています。

谷口

すごいですね。坂本さんは、詩人の三木露風(みきろふう)と親交があって、露風の詩集の装幀をされたことがある。息子のような朱鳥から表紙を頼まれたとき、露風の面影を重ねあわされて、援助しようと思われたのでは。

今田

当代の超一流の先生の知遇を得て、最高の贅沢でしたね(笑)。

岡部

最初に繁二郎先生を訪ねた時、大先生が玄関まで送られ、膝をそろえて中座して一礼されたそうで、朱鳥は自然と真実を大切にされる先生の画風とともに、お人柄のぬくもりに魅かれたそうです。
私も一度一緒にお邪魔しましたが、歳の若い朱鳥が大先生に質問攻めで、はらはらしました。朱鳥の芸術眼の広さに目を見張りましたが、坂本先生がそれにいちいち丁寧に答えられる。横にいてほとほと驚きました。
先生は、リンゴを画くときは、リンゴの裏側が見えなければならない。凝視していると裏側が見えてくる。それが写生の究極である。写生は見えぬものを見ることだと言われる。

谷口

うなずけたのでしょうね。朱鳥もリンゴを句にするときは、重さとウラが読めなければならないと言ってます(笑)。
坂本さんも句を作られたが、句は青木繁のほうが上手でしたね。繁二郎ははるか年下の朱鳥に、俳句では一目おかれていたのかもしれない。

岡部

坂本先生がご病気のとき、病臥中の朱鳥は、ひふみ夫人を連れてお見舞いにいきたいとしきりに言っていたそうです。

谷口

昭和44年に坂本さんが亡くなられた時の追慕の句に、朱鳥の気持ちがうかがわれますね。

愁絶(しゅうぜつ)の眼を見ひらける大暑かな

岡部

その半年後に朱鳥も坂本先生の後を追います。療養中の彼は、この句を載せる遺作の第六句集に、『愁絶』の題をと遺言しています。

今田

胸をつく…。まさに“愁絶”を感じますね。

火と赤を愛した朱鳥

谷口

人は、特に芸術家は、自分の内に烈々と理想の火を燃やしています。それは、他人から見れば、まぼろしかもしれない。繁二郎の絵も、朱鳥の句も。
彼らはそのまぼろしを、ひたすらに写生で追い続けたのです。だから彼らは、内奥(ないおう)で連帯を感じ合っていたのかもしれない。

司会

まぼろしだから、朱鳥の世界には赤や火が似合うのですか。

谷口

代表作「火を投げし」の句も、句集の『曼珠沙華』も赤。そして彼が遺した油絵にも赤の色彩が多い。結社の名も「菜殻火」。こよなく愛していた菜殻火の情緒。
まさに火の作家ですが、凝視すればその奥に、多彩な色がある…。

今田

たしかに名前の朱も、深みのある赤で興味深いですね。
朱鳥の名の由来は。

岡部

中学卒業後の3年間療養生活で、彼は美術や文学の本を読みふけりましたが、朱鳥はその充電の所産ですね。
白鳳時代に、朱鳥(しゅちょう・686)の年号がありました。天武天皇が晩年に改元されたが、すぐに薨去(こうきょ)されてわずかに1年の年号でした。 
療養生活で本に明け暮れた日常だった彼は、『万葉集』にもなじんでいて、朱鳥の年号に魅かれたのでしょう。飛鳥の「あすか」から、朱鳥も「あすか」と連想を…。
奈良平野の南に飛鳥があり、南の固めを朱雀(すざく)といった。視覚では朱鳥の文字、聴覚ではアスカの音を好んで自分がつけた、と言っていますから、それでいい。

谷口

結果的に、火を愛(め)でる俳人として、彼にふさわしい、新鮮で見事な俳号として定着したのですね。

司会

岡部先生と朱鳥のふれあいは。岡部 私は「朝日俳壇」に投句して虚子先生に見てもらっていましたが、朱鳥に魅かれて、彼の懐へ飛び込んだのです。
俳壇の注視をあびて油ののり切った35歳の朱鳥に、太宰府で初めて会ったのは昭和27年で、私が25歳、もう50年近くも昔のことです。朱鳥は総髪で長身、目の澄んだ貴公子でした。
それから、朱鳥が主宰していた俳誌新生「菜殻火」の同人となって17年間師事しました。
昭和三十三年に最初の句集『道化師』を出すときは、未熟でしたが朱鳥の勧めで決心しました。
不世出の朱鳥との出会いを振り返れば、胸の高鳴る思いですね。いまも、「句の至らなさは、自分の至らなさだ」と、朱鳥に高所から指導をされているような気がします。

今田

そのように、いつまでも先生をひきつけている朱鳥の魅力は…。

岡部

朱鳥に師事するまでは、遊び心で俳句をつくっていました。だから日常生活から生まれた平凡な俳句ばかりで、深みに欠けていました。
俳句に文学として、また芸術として向き合ったことはあまりありませんでした。
朱鳥に学んだいちばん大きなことはその視線を身につけられたことでしょうね。もちろん、まだまだ至りませんが、師の朱鳥を思うことで自分をムチ打つことができます。

谷口

菜殻火を見る鍛錬会から始まった、菜殻火同人の鍛錬会もユニークでしたね。

岡部

鍛錬会といっても、スポーツではない。ユニークな俳句の吟行会でした。冬浪を詠む鍛錬会では、糸島の芥屋海岸へ行って、どんと押し寄せてくる冬浪の飛沫をあびながら、寒風の中で句をつくる。
英彦山(ひこざん)鍛錬会で台風にあったときなどは、吹き荒れている激風のなかで台風の句をつくる。
鍛錬でものを確かに見て、即座に、直感的に俳句をつくれと、まさに写生の極致でしたね。
例えば蟻なら蟻を、とことん見つめるのです。その表現が“ごとく”になる。いわゆる“ごとく俳句”で、

水飲みに兵士の如く蟻来(きた)る
蟻の列吹き飛ばしたる帚(ほうき)かな
大蟻の飛ぶがごとくに駆けりけり

蟻の句をつくるときには地面に顔をよせて、蟻の敏捷さを、見つめて、見つめて詠む。安易に句を決める“ごとく”でなく、彼の“ごとく”は観察の必然なのですね。
私淑(ししゅく)していた茅舎にも“ごとく俳句”が見られますね。

昇天の龍の如くに咳(せ)く時に

司会

朱鳥への批判も大きかったでしょう。

岡部

文学少年的だとか、心象的だとか、ある種の羨望と中傷もあったでしょう。厳しい声もあったようです。
だが病身の彼は、いつも生と死を見つめて、残されているエネルギーを一句一句に結晶したのでしょう。それを理解しないと…。

司会

躍り出た偉才の宿命だったかもしれませんね。

筑豊炭田のフィナーレ

野見山朱鳥の句碑

今田

朱鳥の句には、酒と恋の句は。なければ、ちょっとさびしい(笑)。

岡部

酒は肺結核で厳禁。飲めない体質でしたからね。でも一句…。

鮎食べて音のよろしき竹筒酒(かっぽざけ)

今田

いいですね。

岡部

身辺の句では、

天高く地に菊咲けり結婚す
蝶の恋まぶしきまでに昇りつめ
吾子(あこ)の吸ふ乳房よ雲の峯より張れ

「火を愛しやまぬ生涯…」

今田

やさしさが伝わってきますね。ほっとしました。
朱鳥の本拠の直方は、筑豊炭田の中心でしたが、炭鉱の句は。

岡部

その一つに貝島炭鉱を詠んで

さくら咲き露天坑底一草(ろてんこうていいっそう)なし

があります。

谷口

春爛漫の風景と露天掘りの底との対比。日本経済の復興を支えている坑夫たちへの、朱鳥の眼を感じます。

司会

直方は炭鉱景気で人がどよめいていましたが、その象徴のように遠賀川の水も赤かったそうですね。

今田

掘り出した石炭を、川の水で洗炭していましたから、赤茶色の水でした。炭塵が川砂の上にべたべたになって、乾くと燃えたりしていました。

谷口

そう言えば、直方近辺の出身で画壇の重鎮の野見山暁治(ぎょうじ)さんは、遠賀川を真っ黒に描いておられる(笑)。
遠賀川への暁治さんの、思い入れでしょう。

岡部

炭鉱マンだけでなく、ひろく全国の俳人たちに呼びかけて、集った1万5千余句の作品から炭鉱の生活から風物を詠んだ3400句を選び、炭鉱の自然と生活を、季節ごとに編集して、『燃ゆる石』と題した炭鉱俳句集をだしています。
昭和30年代は、すでにエネルギー革命で炭鉱の閉山が進められていました。今をのがしては、炭鉱の句は散逸してしまうから、今のうちに炭鉱を詠んだ俳句を集めておこうと、考えたのです。彼らしい着想ですね。

谷口

それは筑豊炭田のフィナーレを飾る貴重な遺産ですね。

岡部

社会的な関心や、地元への思い入れが、朱鳥の胸に燃えていたのですね。応募句の一つを紹介しましょう。

地の底にゐて元旦を嗤(わら)ひおり
藤本春秋子

採炭のために、晦日も元旦もなかった時代があったのですね。

司会

直方といえば、直方を代表する人物である貝島太助さんとは。すれ違いの年齢ですね。

今田

貝島さんは、一介の炭坑夫から先見と剛胆さで、筑豊御三家のひとつである貝島炭鉱を作りだした英傑で、地元の発展に尽くされました。
だが貝島さんは、朱鳥が生まれる前年の大正5年に亡くなっている。すれ違いが残念ですね。市に寄付された多賀町公園に、北村西望(きたむらせいぼう)作の立派な銅像が没後に立てられています。

谷口

多賀神社のそばにある、多賀公園の「火を投げし」の朱鳥の句碑と指呼(しこ)の間(かん)です。
石炭と文化、直方を代表する二人が、呼び合っているようです。

旅を愛し駆けぬけた人

北海道にて

司会

朱鳥の年譜を見ますと、病気と旅が目立ちますね。

岡部

肺結核を皮切りに、病弱だったのですね。社会人になっても病気がちで、生涯の3分の1は病臥だったようです。
句会と添削が主だったようで、あまりゆとりはなかったでしょうが、それでも旅にはよくでかけています。
第二句集『天馬』の発行から41年に慢性肝炎が発見されるまで、まるで憑かれたように、旅に出ています。

司会

近辺の句会はおいて、遠くは北海道まで、年譜を見ると延べ約120カ所も。積極的に各地を旅行しています。旅の句も多いでしょうね。

令息と愛猫の昼寝
(色紙)

岡部

旅に出ると、どこへ行っても、奥さんやお弟子さんによく便りを書いている。絵付きの句の便りで喜ばれたでしょうね。
宮崎で詠んだ句に、

秋風や日向(ひゅうが)は波の大き国
大卯浪(おおうなみ)青島びびとうち震ひ

があります。

今田

お話をうかがって、俳句界にひとつの革命を起こした野見山朱鳥の魅力を、今さらに知りました。自分のすべてを燃焼させた、あかあかと燃える巨(おお)きな人生だったのですね。

岡部

それにしても、俳句の新たな興隆期を目前に、52歳の若さで駆け去ったのが惜しまれます。

谷口
朱鳥が敬慕した虚子が、今すこし健在なら。朱鳥があと10年元気だったら、金子兜太(とうた)さんらと伍して、さらに目を見張る俳句の世界を見せてくれたでしょうに…。

司会

おしまいに、とりあげた句以外に、すてがたい朱鳥の句を10句ほど。

  • 逢ふ人のかくれ待ちゐし冬木かな
  • 曼珠沙華散るや赤きに耐へかねて
  • 金に父銀に母の名星まつる
  • あたたかや鳩の中なる乳母車
  • 裸の子這ふ父の島母の島
  • 日の歩み人の歩みや初詣
  • 秋風や書かねば言葉消えやすし
  • みなうしろ姿ばかりの秋遍路
  • 月光は天へ帰らず降る落葉
  • 生涯は一度落花はしきりなり
  • 初秋と思ふはるかだとも思ふ

司会

真っ赤な夕焼け雲を背景に、真っ白な朴の花が散ったのですね。まことに眩(まぶ)しい光芒を感じます。朱鳥の春の句で締めくくりましょうか。

うれしさは春のひかりを手に掬(すく)ひ