No.70 福本日南

対談:平成12年1月

司会・構成:土居 善胤


お話:
近代史研究家 石滝 豊美氏
聞き手:
福岡シティ銀行 副頭取 井上 雄介

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


ベストセラーの『元禄快挙録』

福本日南の歩み

元禄快挙録

司会

明治から大正時代まで、日本の羅針盤の役割を担った一人である福本日南のお話をうかがいます。
言論人であり歴史家であり、たいへんな先覚者でしたが、地元の人にすっかり忘れられている。不思議ですね。

石滝

日南の代表作は『元禄快挙録(げんろくかいきょろく)』で岩波文庫(上中下)で手にとれます。
赤穂義士の忠臣蔵を扱ったものですが、それまでは庶民の楽しみであった浄瑠璃とか歌舞伎の世界で、虚実ない混ぜでした。

井上

幕府に遠慮して、歌舞伎では主役の大石内蔵助(くらのすけ)が大星由良之助(おおほしゆらのすけ)に。史実から離れていても、民衆が共感して当たり狂言でしたね。

石滝

歌舞伎や、浄瑠璃で語られている忠臣蔵は真実ではない。それで九州日報(西日本新聞の前身)の主筆兼社長に招かれた日南が、忠臣蔵の真相はこうだと、『元禄快挙録』を明治41年8月11日から42年9月7日までの間、295回にわたって九州日報に連載するのです。

井上

浅野内匠頭(たくみのかみ)の刃傷(にんじょう)事件から赤穂義士の仇討ちの後日談まで、事件の全貌を見事にとらえた国民的ロマン。その「忠臣蔵」の決定版が福岡で生まれた。愉快ですね。

石滝

それが評判になって、中央雑誌の『文章世界』に転載され、さらに明治42年の12月に、東京本郷の啓成社から、菊判823ページ、2円12銭という、当時では破格の大著になって発売され“洛陽の紙価を高めた”のです。さらに大正3年には、東亜堂書房から『(元禄)快挙真相録』が出る。

井上

日南先生、自信満々ですね。それぞれの評価は。

石滝

最初の『元禄快挙録』の方が歴史文学として評価が高いし、読み物としても面白い。岩波文庫も明治文学全集もこちらをとっています。

井上

義士録の名著が、どうして福岡で生まれたので。

石滝

それが面白いのです。日南のそばにいた雑賀鹿野(さいがろくや/本名・博愛)という人の回想では、明治40年ごろ、日南は足に腫れ物ができて新聞社に出社できなかった。退屈だから図書館の本をと頼まれ、雑賀が担(かつ)ぎ込んだ本の中に漢文の義士録が数冊あった。それを読んで、だれにも読まれる忠臣蔵の決定版を自分が書こうと決心したらしい。

井上

足の腫れ物から名著の『元禄快挙録』が生まれたわけで(笑)。でも、福岡住まいでは、資料集めにご苦労が…。

石滝

日南は後に、不便な地方でわずかの資料で快挙録を書いたが、東京で多くの資料を見ても、当時の見解に大した謬(あやま)りはなかった。ひそかに満足していると言っています。

司会

「忠臣蔵」は、最初は歌舞伎にとりあげられて…。

石滝

いいえ、浄瑠璃です。元禄15年(1702)の赤穂義士の仇討ちから約50年後の寛延元年(1748)に、竹田出雲(いずも)らが浄瑠璃に脚色して大阪の竹本座で上演する。この「仮名手本(かなでほん)忠臣蔵」が大評判になり、同年12月に歌舞伎で上演されてまた大評判。 「忠臣蔵」とよばれて大当たりの狂言になったのです。

井上

討ち入りから約200年たって『元禄快挙録』がでる。忠臣蔵は、日南が中興の功労者ですね。

石滝

忠臣蔵ブームとなり、忠臣蔵と言えば福本日南ということになったのです。
博多では崇福寺(そうふくじ)で義士会が催され、帰京すると、日南を幹事長にして中央義士会に発展するのです。高輪(たかなわ)の泉岳寺にはその功績をたたえた記念碑が建てられています。

井上

『元禄快挙録』が日南の歴史文学者としての声価を、不動のものにしたのですね。

日南のプロフィール

平野国臣銅像
(福岡市・西公園)

司会

では、日南のプロフィールを。

石滝

日南は安政4年(1857)五月に当時の地行下町(現・中央区今川1丁目)に福岡藩士福本泰風(たいふう)と母 冬の長男として生まれます。母の実家は日高姓です。
泰風は江戸在勤の時に平田鉄胤について国学を修め、平野国臣(ひらのくにおみ)と親交のある勤王家でした。筑前勇敢隊に参加して東北征討に加わり、福岡藩が新政府から北海道の二郡の管理を命じられると自ら望んで赴(おもむき)きました。
後に日南が北海道開拓に志したのは、父親の感化が大きかったでしょうね。幼名は(ともえ)で、後にと改めます。号が日南で、歌号は利鎌舎(とがまのや)です。
日南が生まれたのは、唐人町から西新へ行く幹線道路沿いにある鳥飼八幡宮のちょっと手前でした。
左側に平野国臣(文政11年ー元治元年/1828ー1864)を祀(まつ)った平野神社があって、国臣の生誕地はその南側。日南の生家はその2、3軒隣でした。

井上

幼少期の日南は、維新前夜に非命にたおれた国臣から非常に感化を受けたでしょう。

石滝

ええ。国臣は日南より29歳年上で、幕吏(ばくり)に京都の六角の獄で刺殺されたとき日南は8歳です。そして、明治維新のときが12歳。
筑前勤王の代表だった国臣に心酔し10代のころに彼の歌を書き写して「国臣歌集」をつくっていたそうです。
そして北海道に移住した弟の安田巌城(がんじょう)が編んだ国臣歌集に、日南が序文を書いている。兄弟の国臣への打ち込みようがうかがえます。

井上

日南の歌好きは国臣の影響があったのですね。こういう人は、きっと子供の時から神童で(笑)。

石滝

ええ。藩校修猷館(しゅうゆうかん)の先生だった正木昌陽(しょうよう)の塾で学び、日南と金子堅太郎が神童といわれていたそうです(笑)。
書は鋭角的な独特の個性のある見事な書体で、若い頃から、「正気(せいき)の歌」で有名な藤田東湖(とうこ)の書をまねれば、充分通用すると言われていました。

井上

そのころに民権の本も。

石滝

20歳のとき、後の東京大学法学部につながる司法省法学校に学びます。フランス語による官吏養成学校で新知識と歓迎されたのでしょう。福岡の磊落(らいらく)堂から『普通民権論』を出版しています。

井上

そうして和漢洋の教養を身につけた、明治を代表する言論人、福本日南が形作られたのですね。

石滝

だが、折角の学校でしたが賄い征伐を起こして退学になる。

井上

初期の旧制高校で、よくあった事件ですね。元気の一つのはけ口で。

石滝

ある時、手違いで寮の食事が半分ぐらいになった。平生の不満が爆発し、学生が学校側に強硬に抗議をする。それが薩摩出身の校長排斥運動にまで発展し、日南ら強硬派十六名は意気軒昂で謝らないから到々退学処分です。

井上

その中に、後の原敬(はらたかし)や…。

石滝

日南の同志となる陸羯南(くがかつなん)や漢詩人の国分青※1(こくぶせいがい)、正岡子規(まさおかしき)の叔父の加藤拓川(たくせん)(恒忠)たちがいました。
原敬は、後に政友会総裁から総理大臣になり、平民宰相といわれて、薩長藩閥の一敵国となります。
羯南と日南は日本新聞によって、薩長藩閥批判の論陣を張る。藩閥からすれば、虎を野に放ったわけで、皮肉な結果ですね
※1 がんだれに圭

司会

それから広範な活動が始まるのですね。なかなか捉えにくい日南を理解するために、初めに彼のプロフィールをまとめていただくと。

石滝

第一は、史論家としての活躍です。
陸羯南らと始めた中央の新聞「日本」…、これからは「日本新聞」と呼ぶことにしましょう。この新聞と、主筆兼社長に迎えられた福岡の「九州日報」を背景に、自由な論陣を張っています。
「忠臣蔵」のスターの堀部安兵衛(ほりべやすべえ)が新発田(しばた)藩出身ということで、後年には「新潟新聞」にも関係しています。
そして、『元禄快挙録』『直江山城守(なおえやましろのかみ)』などの史伝も多い。
 第二は、北海道やフィリッピンへの開拓者としての情熱です。
 第三は、孫文の中国革命運動への参加と支援。
 第四は、歌人としての日南です。あまり知られていないが「日本新聞」時代には正岡子規の先生格でした。 第五は政治です。明治41年に福岡から憲政本党で、衆議院議員に1回当選している。対馬から出馬を頼まれて出たが、これは惜敗。

井上

ジャーナリストとも、政治家とも、文学者とも言えない。さまざまな視点をもっていてレッテルを張りにくいが、一流を極めてマルチ型。とても魅力がある人物ですね。

日南を支援した筑前の先輩たち

司会

幕府が海外渡航の禁制を解いた幕末の慶応3年と、維新早々の明治4年の2回にわたって、殿様の黒田長溥が藩の俊英を海外留学させますね。
日南はその選に入っていない。なぜでしょうか。

石滝

二期生には、後に憲法制定に功があり、ハーバード大学の学友ルーズベルト大統領との縁で、日露和平にも活躍した金子堅太郎や、財界の大物になる團琢磨(たくま)らがいる。彼等とほぼ同世代ですが、このとき日南は選ばれていません。
だが、第一期生の井上良一(よしかず・嘉永5~明治12/1852~1879)と、松下直美(なおよし)には、たいへん世話になっているようです。
井上良一はハーバード大学法学部を日本人留学生で最初に卒業した人物で帰国3年後に、25、6歳で東大教授です。
前途洋々でしたが、幼少で渡米しているので漢学の教養がない。逆のカルチャーショックからノイローゼになり惜しいことに自殺する。その失意のときに日南がよく看病をしたそうです。
日南を学費が支援される司法省法学校へ斡旋した松下直美は大審院判事などを歴任し、四代目の福岡市長になって九州帝国大学の福岡招致に尽力した人です。
フランス語の素養があり、スイスで勉強しましたから、明治政府がフランス法を取り入れたときに貢献することになります。
最近、三宅桃子さんの論文で、松下直美と日南の意外な縁を知りました。
明治20年。31歳の福本日南がアジア事情を探ろうと上海に出かけますが、ここで事件が起こる。日南の部屋へ侵入した盗賊を誤って斬り殺してしまう。過失致死ですね。
上海で裁判になったが、日本での裁判となって長崎へ送還される。日南は自分の一生もこれでおしまいだと悲観して、夫人へ遺書まで書いている。
長崎の裁判所には、松下直美が赴任していて、弁護士の尽力もあって正当防衛で無罪判決になっています。

夢と消えた“百万人の士族を北海道へ”

石滝

司法省法学校を退学した翌々年の明治13年に、日南の姿は北海道にありました。24歳でした。 当時の日本の脅威は、北から虎視眈々(こしたんたん)と南下を図っていた帝政ロシアでした。

井上

心ある国民は、みなその危機を感じていたのですね。

石滝

日南は維新の結果、余計な存在となって、意気消沈している士族回生の道を北海道に求めたのです。それで明治十三年に単身で北海道へ渡り、調査旅行をするのです。
そして、一に殖産により国の財源を増やす。二に南下するロシアに対して北の守りとする、“北鎖(ほくさ)”ですね。三に旧士族に生業を与え誇りを取りもどす。一石三鳥の策として北海道開拓を提案し、“百万人の士族を北海道に”というスローガンになるのです。
そして政府に支援資金を出させていますからすごい。日南24、5歳のときです。

井上

彼も若いが、日南のプランに共鳴して資金を出す政府も若い。

石滝

だが一行の要に資金を乱用した人がいて、移住した人たちの生活まで危ぶまれ、計画がしぼんでしまう。
日南も移民の人たちや同志から嫌疑の目を向けられて、北鎖の大きな夢が挫折するのです。

井上

人も、国も、たぎっていたのに残念でしたね。

石滝

あの時代に、北海道の重要性を説く言論人は多かったでしょうが、事前の調査をし、漢文体の北海道紀行『北門時事』を出版し、政府を動かすまでに至っている。こういう人は、他にはいなかったと思いますよ。

フィリッピンへ。菅沼貞風との出会い

菅沼貞風から日南への手紙

井上

日南の魅力は、行動のスケールの雄大さですね。大きく方向転換をして次が南進ですね。

石滝

北海道の夢が破れて、日南の夢はフィリッピンへ飛ぶのです。当時はスペイン領でしたが、アメリカがキューバをめぐっての戦いに勝って、のちにアメリカ領になる。
そのころアジアへもドイツの勢力が拡大を見せはじめ、スペインの勢力はじり貧の時でした。

井上

そうした国際情勢をにらんでのフイリッピンですね。

司会

そうしたときに、盟友、菅沼貞風(すがぬまただかぜ)の登場です。感動的ですね。

石滝

貞風は「ただかぜ」と読みますが「ていふう」でも「さだかぜ」でも通用しています。
菅沼貞風が「貴方はフィリッピンに志があるそうだが」と訪ねて来たのは明治21年の夏で、日南32歳、貞風24歳のときです。外交や貿易の意見をかわし、その場で意気投合するのです。
そして翌明治22年に、貞風は教師の将来を捨て、日本新聞に論陣を張っていた日南とマニラへ渡るのです。

菅沼貞風

井上

たぎりの時代でしょうが、日南と貞風の行動はダイナミックですね。

石滝

貞風は平戸出身で、海外貿易がフリーだった中世の空気の余韻を吸って育っていたのかもしれない。人間に及ぼす風土の影響を感じます。

井上

貞風は有名な『大日本商業史』の著者として知られていますね。

石滝

ええ。これは担当教授が舌をまいた東京大学の卒業論文でした。 上古時代から、徳川鎖国までの貿易通商の沿革を、なんと350万言(原文通り。400字原稿用紙で8800枚)の大論考に結晶させたのです。
引証が正確で、論断が明快。まさに一世の大著述で、日南は「一校挙げて驚嘆せざるはなし」と言っています。

井上

そりゃ、先生も学生も仰天したでしょうね(笑)。

石滝

貞風は慶応元年(1865)生まれ。幼名貞一郎で、成年になって貞風と改名しています。生家が貧しいので、昼は郡役所に勤め、夜は旧藩主の松浦(まつら)伯爵が興した猶興(ゆうこう)書院で学びました。
そのころ、大蔵省が貿易沿革史編纂のために史料を長崎県に求め、県は北松浦郡役所に、古貿易港平戸の史料を蒐めさせたのです。
それを貞風が担当してまとめたのが『平戸貿易史』です。これは後年の『大日本商業史』の源流となった著作で関係者を驚嘆させました。
こうしたことから、旧殿様からの学資支援で東京帝国大学の文学部古典科に学ぶのです。たいへんな勉強家で、学生間で「貞風の正科は図書館。余暇は講義」と評判になるほどでした。
『大日本商業史・付平戸貿易史』は『新日本図南之夢』とともに没後に注目されて刊行され、日南が序文を書いています。

井上

どちらも名著で、たしか岩波文庫に。

石滝

ええ。『新日本図南の夢』が戦前に岩波文庫になっています。
そうして日南とともにフィリッピンへ渡った貞風は、マニラ滞在4ヶ月で調査と研究を一応終え、帰国しようとする直前に、コレラにかかって、25歳の若さで急死するのです。
日南らと前夜遅くまで、貿易発展や移民の論議をかわしたばかり。そのとき、両親が高齢だし、弟はまだ幼少だから、帰国したら両親のために生命保険に入ろうと言ったそうで、泣かされますね。
その夜半に発病し、明け方に急逝です。手を握り、最後を看取った日南の悲嘆が察せられますね。
両親への弔文に、「幾千里隔絶の地にありて此の訃音にお接しなされ候 御心情に思い到り候(そうろ)へば、更に終天(しゅうてん)の御憾(うら)みもさこそと存じ奉(たてまつ)り候」とあります。
日南は貞風の気持ちを汲んで、マニラを見下ろすマッキンレーの丘に葬(ほうむ)り翌年友人たちと立派な墓碑を建てて貞風の霊をなぐさめています。

井上

それにしても、九州平戸出身の、稀にみる優れた人の夭折が惜しまれますね。

石滝

それでフィリッピン計画はひとまず中止です。行動に移そうとした矢先だけに、痛恨の挫折だったでしょう。 日南は友人たちと、墓碑から遺稿の出版、伝記執筆と、貞風の遺風を伝えることに専念するのです。

井上

日南の対外への炎(ほむら)は、そのまま消えたのですか。

石滝

いいえ。11年後に、中国革命の支援となってまた燃え出します。
宮崎滔天(とうてん)の『三十三年の夢』[岩波文庫・東洋文庫(平凡社)]によれば、玄洋社の末永節(みさお)の誘いで日南は孫文を支援して、中国革命に身を捧げる決意をしています。
末永節が滔天に、同郷先輩の福本日南は40歳をこえている。文筆で名声を得ているが、本来の志ではないだろう。この挙(きょ)に彼を誘って、死後の名誉となる機会を与えてはどうかと、すすめるのです。
次の一節が、日南の真骨頂をよく伝えています。原文を見てみましょう。「余(滔天)、その意を賛(賛成)して、これを孫君(孫文)に謀る。孫君またその意を賛す。すなわち、狼嘯(ろうしょう・末永)とともに日南君をその寓(家)に訪(と)い、秘懐(ひかい・心のうち)を吐露して賛成を求む。彼、言下に快諾していわく『それは好い死に場所じゃわい』と」。
だが、このときの蜂起、“恵州起義(けいしゅうきぎ)”は、失敗に終わる。辛亥革命が成功し、中華民国が樹立されるのは、さらに11年後のことです。

井上

「好い死に場所じゃわい」。明治人日南の、真骨頂ですね。  それにしても、北の北海道から南のフィリッピンヘ、さらに中国へと、振幅が大きいですね。

石滝

南に移民の適地を求め、北からの危機を鎖でとざそう。その危機感が常に日南の脳裏にあったのです。

井上

それが、先生が日南の行動理念をくくられた「南進北鎖」ですね。

フィリッピンで日南の号?

福本日南へ贈られた
孫文の写真

司会

そしてフィリッピンで、日南の号が生まれたとか。

石滝

「日南」の号の由縁(ゆえん)を雑誌『文章世界』に聞かれて、彼が歌を添えて答えている「日南の号」という文章があります。

きのふまで南に見つる天(あま)つ日※1
北のみ空にけふ※2仰ぐ哉(かな)

※1 天つ日ー太陽
※2 けふーきょう

随筆集『日南草廬(そうろ)集』に載っていますが、北回帰線を南に八度越えているので、ホテルの窓から太陽を北天に仰いで驚いて詠(うた)ったのです。
そして号を「赤日緯南之人」、次に省略して「赤日緯南」に。さらに縮めて「日南」になった。日蓮宗の高僧日蓮、日朝、日朗らの流れをくんで罪障消滅のいい名だと自賛しています。
だがこれは、ちょっとおかしい。

井上

それはどうして?

石滝

実は、私は日本新聞の復刻版を読み返しているんです。するとフィリッピンへ渡る前に日南居士の名で、著書 『フィリッピーヌ群島に於ける日本人』の広告が、載っている。日南は単純にフィリッピンが日本の南ということで、南方に関心をもちはじめたときにそのまま号にしたのではないでしょうか。

司会

偉い人につきものの…。日南ミステリーですね(笑)。

「日本新聞」

陸羯南

石滝

こうした活動の間に、明治22年2月11日、当時の紀元節の日に大日本帝国憲法が発布される。
そして、その日に、陸羯南らにより西欧追随の欧化主義に対して国民主義を主張して、日本新聞が創刊され、日南は編集主宰格の記者として羯南を助けるのです。

井上

ライバルに、優れた歴史家でもある熊本出身の徳富蘇峰(とくとみそほう・文久3~昭和32/1863~1957)がいますね。

石滝

蘇峰は、2年前の明治20年に“政治、社会、経済、文学の評論雑誌”と自称した『国民之友』を創刊し、平民主義をかかげて「日本」のよいライバルでした。

井上

「日本新聞」が、注目されたのは、「ロンドンタイムス」がスクープした日英不平等条約の改正案を、いち早く翻訳して掲載したからでしたね。

石滝

明治22年のことで、大隈重信外相がひそかに進めていた条約改正でした。 日本新聞でその内容を知った国民の間に、国辱的な改正案だと反対意見が高まります。そして、閣議からもどる大隈外相の馬車に、玄洋社の来島恒喜(くるしまつねき)が爆弾を投げるのです。
来島はその場で自殺し、大隈さんの片足とともに、黒田清隆内閣も条約改正も吹っとびました。日本新聞の記事がきっかけになって、世論の怖さを政府にありありと見せつけたのです。
日本新聞は文章が硬いから、読みやすくしろと読者から注文がくる。だが主筆の陸羯南は、理解できる人だけが読んでくれればいい、変更の意志なしとつっぱねる。威風堂々ですね。

井上

当時のオピニオンペーパーは、威張って商売ができたのですね(笑)

石滝

遠慮なく国政を批判して、10年のあいだに、30回、延べ230日もの発行禁止を受けながら泰然としています。
凛然たる姿勢の主筆兼社長の陸羯南のもとに、福本日南から古島(こじま)一雄鳥居素川(そせん)、三宅雪嶺(みやけせつれい)といった論壇の雄が控えている。
特に明治29年、30年は、日南が言論人として一番充実していたときで、日本新聞の論壇を三宅雪嶺と折半していた趣きがあったそうです。
だから日南のフランス遊学の壮行会には、学界言論界から超一流の錚々(そうそう)たる人たちが駆けつけて大盛会だったそうです。明治31年で、日南が42歳でした。

野人の大学者 南方熊楠との出会い

南方熊楠

井上

『英雄論』の著者らしく、ナポレオンと豊臣秀吉を崇拝していますね。

石滝

ええ、だからフランスでは、ナポレオンの墓に参っています。

ボナパルト冠なげうち去りしより
 百年経たり秋風の前に

ボナパルトーナポレオン 冠ー王冠

1年半のフランス遊学で、彼が日本新聞に寄せた「巴里だより」は、今読んでも文学、美術から、政治、軍事評論まで、多彩で飽きがこない。
軍事ニュースも具体的なデータをあげて、生き生きとした記事を送っています。

井上

ヨーロッパ諸国の動向が日本の命運にかかわるだけに、国民の関心が深かったのですね。

石滝

日南の「巴里だより」が好評だったのは、フランス語が堪能だったこともありますが、むしろ彼の観察眼と、吸収力のすごさによるのでしょう。彼の眼は冷静で、決して悲憤慷慨(ひふんこうがい)調ではない。

井上

さすがですね。そしてロンドンで、野人の大学者、南方熊楠(慶応3~昭和16/1867~1941)に会ったと…。
熊楠は粘菌学の世界的権威で、日常を構わない行動でも知られている民間の大学者ですね。

石滝

独学で英仏独ほか数か国語マスターしたすごい人で、学問の範囲も広範でした。
大英博物館で日本書籍目録作成や東洋資料整備を担当しながら、権威のある「ネーチャー」誌に寄稿した36篇の研究発表が掲載されて、ロンドンでは知られた存在でした。
日南は、熊楠に引きずられて彼の部屋へいったが、あまりの汚さにあきれた。だが、書籍と植物の標本が一室をうめていたのには感心したそうです。
また、熊楠のアドバイスが愉快です。ロンドンの街角には必ずパブ(飲み屋)があるから、毎日違う店を飲み歩け。そうすれば、イギリスの国民性がよくわかると。

井上

いいアドバイスで、日南先生はさっそく実践に…(笑)。

石滝

酒豪・日南の雷名は町角の居酒屋にとどろいていたので、日南は、そのお返しに、熊楠に「角屋(かくおく)先生」とあだ名をつけた。それを南方が気にいって、俺のあだ名は日南がつけたとご機嫌だったそうです。

森鴎外へ一矢

日南歌稿

井上

日南は福本誠が本名で、素直な名前ですね。

石滝

初めの名は巴(ともえ)で、改名したのです。この時代の人たちは、名前に深い意味づけをしたのです。
日南は和歌をたしなんで、国学の素養がありますから、ま(真)こと(言)の意と音から、誠にしたのだろうと推察しています。
博覧強記で該博な知識があり、自説に絶対の自信をもっていましたから、異説に挑むこともしばしばでした。
世にいう「黒田騒動」は、藩主忠之の身勝手な所業で、福岡藩52万石が改易(取り潰し)されるのを防ぐために、家老の栗山大膳が先手を打って主君の幕令違反を幕府に訴えて、福岡藩と主君を守った大芝居とされています。
おおむね大膳忠臣説ですが、悪臣説もあり、評価がさだまっていません。 森鴎外の「栗山大膳」はどちらかというと、忠之の側から事件を描いていますが、主君に追い込まれた大膳の苦しい立場も認めています。
これに対して、すぐあとに発行された日南の『栗山大膳』は、徹底して大膳を擁護しています。鴎外の忠之=聡明説を退けて、むしろ大膳を文化人として高く評価する立場です。
そして巻末に、鴎外本への疑義を列記し、資料を使いながら資料を吟味していない。誤った資料を使いながらそれに気づいていない。それが問題だと厳しい指摘です。
その中で栗山大膳の名前を分析し、考察しているのが面白い。大膳は諱(いみな)が利章で、字(あざな)が子文(しぶん)。諱と字に文と章を分けている。栗山大膳は学識のあるなかなかの人物だと言うのです。

諱ー武士身分の者が成人してつけた通称とは別の本名。ふつう2文字。
字ー漢学を学んだ人たちが、本名以外に付けた別名。

井上

思わぬ強敵出現で(笑)。相手が日南だけに鴎外先生も困ったでしょう。日南は歴史家で森鴎外は小説家で…。痛み分けでしょうね(笑)。

“万葉”志向の日南の歌

我宿

石滝

生家が日南のすぐ近くだった勤王の志士の平野国臣は、すぐれた歌人でした。鹿児島の桜島を詠んだ歌、

我が胸の燃ゆる思(おもい)にくらぶれば
煙はうすし桜島山

はよく知られていますね。

井上

私の胸に燃えている勤王の志に比べれば、桜島の煙も薄いものだと。

石滝

一般にそう解釈されていますが日南の読みはもっと深いのです。
幕府に追われている勤王僧の月照(げっしょう)を守って、西郷隆盛とともに薩摩を頼ってきたのに、薩摩の応対は冷たい。

井上

2人はもはやこれまでと錦江湾に身投げをする。すぐに助けあげられるが僧月照は絶命している。西郷さんの悲運の時代ですね。

石滝

それが国臣の1回目の薩摩入りです。国臣は三度薩摩を訪れているのですが、春山育次郎の『平野国臣伝』では、この歌は万延元年(1860)、二度目の入薩の折のものだとしています。
このとき国臣は足止めされて鹿児島城下へ入れず、はるかに桜島を遠望して歌ったのだろうと言っています。要するに、桜島に仮託して、薩摩人の勤王の志は低いと国臣が慷慨している歌だというのが、日南の解釈なのです。
日南は、折々に心に浮かんできたことを、自然に詠んでいる。だから国臣の気持ちが読めたのでしょう。
日南はパリ遊学中に「匈牙利(ハンガリー)美人に逢いて」という歌もあります。

君とならば駱駝(らくだ)の上に鞍並(な)めて
沙華拉(サハラ)行くとも我は厭(いと)はじ

ロシア皇帝のニコライ2世の主唱により、オランダのハーグで催された第1回万国平和会議を詠んで、

人を殺す火筒 金弓山を爲す
マキヤベリズム何日の日か已まん

火筒ー鉄砲 金弓ー大砲か?

日南が渡仏した翌年の1899年に、国際平和維持のために26ヶ国の代表がオランダのハーグに集まりました。
第2回は1907年に、44国が参加。国際紛争平和的処理条約と毒ガス禁止宣言を決めたものの、軍縮は失敗でした。
各国代表が国際平和を討議しているが、実際は各国とも人殺しの大砲や鉄砲が山をなしている。マキャベリズムはいつ終わるのだろうか…。厳しい眼光で見据えた現実を、カタカナ入りのモダンな表現で率直に歌っています。
歌は作るのではない。気持ちのままに出てくるものだ。紀貫之らが編んだ「古今和歌集」のような技巧をこらした歌はよくない。
すべからく、万葉調に返るべきだ。 万葉の古語をまねるのではない、万葉の心を学ぶのだ、というのが日南の主張で、なまなましい時事の歌を詠んでもスタンスは崩(くず)れない。

井上

なんだか、正岡子規の短歌改革論を聞いているようですが。

石滝

その通りです。日南は日本新聞では子規の先生格で、病臥の子規をたびたび見舞っており、歌の交歓もしています。
斎藤茂吉(さいとうもきち)が称えたようなのびのびとした歌が日南の魅力ですね。子規が万葉復古にまだ思い及ばなかった明治20年以前に日南は万葉志向の歌人だったのです。

井上

面白いですね。種を蒔いた日南はすごいですが、短歌改革の大事業は子規が成した。それでいいのでしょうね。

石滝

愉快な歌があります。「九州日報」の主筆兼社長として福岡にいたころ、住まいは那珂川に近い住吉神社の前の池のあたりでした。川をはさんで春吉です。それで、

我宿は那珂(なか)の流れをなかに見て
春は春吉住めば住吉

那珂ー那珂川

井上

洒脱で面白いですね。フランスのエスプリと、万葉の率直さですか。

石滝

本人も気に入って、折々口にして周囲をなごませていたそうです。

文豪日南

井上

日南のタイプは、現代でいえば海音寺潮五郎さんや、司馬遼太郎さんですね。明治、大正を代表する誇りの人物ですが、地元で忘れられている。残念ですね。

石滝

『元禄快挙録』に代表される彼の著作が、長い間、文学のジャンルでも、歴史のジャンルでもなかった。
だからこれまで、日南の全体像をとらえる研究が、あまりされてなかったのですね。
それが、戦後の昭和47年に発行された筑摩書房の明治文学全集で、『明治歴史文学集(二)』にとりあげられて相応(ふさわ)しい評価を受けたのです。
解説に収められた、九州日報時代に身近にいた大熊浅次郎の「文豪福本日南先生の十周年を追懐(ついかい)す」(昭和6年12月、『筑紫史談』)と、雑賀鹿野(さいがろくや)の「文豪としての福本日南翁」(昭和11年7月『伝記』)では、どちらも日南に“文豪”を冠しています。日南没後10年を経ての追懐が、戦後の変化のなかで評価されて再掲載されている。日南に歴史文学の側から光があてられたのでした。
大熊浅次郎は福岡の郷土史研究のリーダーで、福岡商工会議所の重鎮。大正時代に世界一周をした視野の広い人です。
雑賀鹿野(博愛とも称す)は九州日報時代の、“自称日南の一番弟子”です。
西郷隆盛や幕末から明治にかけて活躍した衆議院議長の杉田定一(鶉山・じゅんざん)や、代議士大江卓(たく)(天也・てんや)の膨大な伝記を遺し、清廉潔白な人としても知られています。

井上

歴史に、ジャーナリズムを持ち込んだのが、日南の斬新さだったのでは。

石滝

なるほど。日南の文章は、同じパターンの繰り返しがないので、読む度に新鮮で飽きがきませんね。
しかも必ず資料の根拠を踏まえている。歴史上の豊臣秀吉や黒田如水(じょすい)や栗山大膳を論評しながら、現代への風刺をはさんでいる。
日本の行く手を眺めている日南の眼には、逼迫している日本の問題が目白おしで見過ごすことができない。だから、65年の生涯が、トライと蹉跌(さてつ)の繰り返しでした。

日南の文章作法

司会

日南の文章は、とても魅力がある文体だそうですね。

石滝

日南の周辺にいた、雑賀鹿野の日南評を見てみましょうか。

日南は謹厳な人で、机に向かうときはいつも羽織袴姿で正座し、美濃十行罫紙(けいし)に筆で記していた。 幕末の開明派で知られた佐久間象山(しょうざん)が奉書紙でなければ、書簡をしたためなかった気位(きぐらい)が日南翁にもあったとして「平生、『文は最初の一句が大切である。劈頭(へきとう)掲げきたる一句によって、その全文の好悪妙拙が分かるのだ』と語っていた」。 最初の一句が気にいらないと美濃罫紙を書いては捨て、書いては捨てで、もったいない。 だが、二行目に移るとあとは水の流れるようで、一字も消さず、削らず、加えず、まことに清爽な原稿だった、 と語っています。

井上

努力もあったでしょうが、天才ですね。

石滝

雑賀の回顧にこんな話があります。歴史家は識・学・才の三才を兼ね備えた者でなければ、真の史家とはいえない。これらを備えた代表者は『史記』をのこした司馬遷であると言って「『識』は透徹せる史眼を言ふのであって評する人が評せらるる人物より優れていなければ、この眼識は出て来るものではない。
第二の『学』はひろく史書を 渉猟(しょうりょう)することで、一言一行の微(び)も之を軽んじてはならぬ。
第三は『才』、即ち文才で、人物を表現し事物を叙述するには、目の當り之を目睹(もくと)するの(目の前でありありと見るような)文章を必要とする。
三才その一を欠いても史家とはいひ難い」。日南翁はこの三才の兼備具有者であった、と雑賀は続けています。
文章の書き方について、「翁はつねに、文章は六分で筆を止めよ。充分に意を尽くそうと思うと、必ず書き過ぎる。近ごろの文人は、充分どころか十二分に書こうとする。こんな文章はウルさくて読者に飽かれる」と。
読者の想像の余地を残せということでしょうね。

洒脱な平等主義

「パリ時代の父、 "歌人"の父」

福本日南と芳夫人

井上

日南はなかなかのバックボーンの持ち主ですが、その根底の思想は。

石滝

それは、彼の血肉になっているフランスの人間平等思想ですね。
法のもとでは万民平等でなければならない、原則を逸脱してはならないという平等で、日南は近代思想の洗礼を受けた人物にちがいありません。

司会

亭主関白の時代でしたが、平等主義の日南先生は。

石滝

奥さんの名は芳、明治21年に日南と結婚。外部活動の華やかな日南に内助を尽くし、日南より2年早く大正8年に亡くなっています。
雑賀鹿野の回想では、奥さんは、内助を尽くしながら意見をはっきり言われる人だったらしく、似合いのカップルだったようです。
日南が選挙に出馬した時、将棋に凝っていて何番も、何番も。周りがはらはらするので、奥さんが将棋盤を取り上げて書生に斧で割らしてしまう。
すると、日南は平然と、新しい盤を買ってきてパチリパチリ。

井上

たしかに、似合いのカップルで面白い。

石滝

日南は、父思い、母思いで、奥さんと2人の娘さんを大切にしたそうです。2人の娘さんは、日南が見込んだ有為(ゆうい)の青年に嫁がせています。
選挙といえば彼の随筆「興来録(こうらいろく)」に、奥さんとのやり取りがあって面白い。これから日南の女性観を推測しましょうか。
明治41年、九州日報の社長のとき、政友会と対立する立場の憲政本党から衆議院選挙に出ると決めたときの文章です。

井上

奥さんが亭主の出馬に口をはさめる間柄は、当時の夫婦間では珍しいことでしょうね。

石滝

「5月4日の事なりき。意を議員の一候補たるに決し、まさに自薦状を草せんとす(衆議院議員に立候補しようと決心し、支援の依頼状をつくろうとした)。
細君、包丁を投じ、襷(たすき)を脱し、台処より登りて、書斎に進み、襟を正して長揖していわく(奥さんが、台所から包丁をおき、襷をはずして書斎に来て、お辞儀をしていった)。
夫子(ふうし)の戦を好み給ふこと、一に何ぞ此(ここ)に至るや(あなたが戦いを好むことはしっていたが、どうして選挙にまで出るんですか)。既に棋戦(きせん)に飽かず。更に又政戦を試みんとはし給ふ歟(か)。聴せ給はん歟。(将棋にのめり込んだまま、その上に、また選挙にでて戦おうとしているのですか。どういう御料見かお聞かせください)。
我曰く、承けたまはらん(意見があるのならうけたまわろう)。細君、乃(すなわ)ち説を進めて曰く。夫子の棋局に対し給ふや、羽書(うしょ)前後に至るも省(かえり)みず。賓客左右より談ずるも覚(さと)らず、五局、十局、二十局、譬(たと)へば貪眠(どんみん)の人の如く、一切万事夢中とならせらる(あなたが将棋を始めると熱中して、急用の知らせが次々にきてもとりあわず、大事なお客様が話しかけても上の空。そして五局が十局、二十局になり、まるで眠りをむさぼっている人のようで、いっさいが夢中になってしまう)。
斯(か)くし給ふ所を以て、同時に政戦(せいせん)に臨ませられんには、好機は頻々(ひんぴん)逸脱して、其後頂(そのこういちょう)を示さんのみ(こんな調子で選挙に出馬されると、好機は次々にかけ去って見えるのは後ろ姿ばかり。落選してしまいますよ)」と言っています。

井上

日南先生の痛いところをチクリと。でも何となく、ユーモアがありますね。

石滝

どうも亭主関白ではないようですね(笑)。

望みは“日南日本史”の構築

井上

日南は、彼なりに成すべきことを成しとげて、亡くなったのですか。

石滝

彼は、日本歴史を、私史局を設けて自分の史眼で再構築したかったのです。その意味では志半ばでしたね。

司会

徳富蘇峰の『近世日本国民史』に対比できる歴史の宝庫が生まれたでしょうに、残念ですね。

石滝

日南は古代史にも関心があったようです。大宰府や、古代の博多、磐井の乱の石人石馬(せきじんせきば)。そういったものへの関心ですね。
もうひとつは、日本民族はどこから来たかということで、そのルートに南方からという仮説を持っていたようです。日本主義者だが、大和民族オンリーといったステレオタイプの史観ではなかった。フィリッピンなど、海外への関心が深かった一つの背景かもしれませんね。
大正10年の春、千葉県の大多喜中学校で講演中に脳溢血で倒れ、9月2日に65歳で亡くなり、東京の青山墓地に葬られています。

井上

いまどき見られない、たぎりの人を追懐しました。  巨(おお)きな人、日南が、身近な人に感じられます。時代が日南を呼びもどしているんですね。

司会

そのきっかけをつくられているのも先生で。

石滝

相手が巨きすぎますがそれだけに体当たりする喜びも大きいですね。
終わりに、フィリッピンの独立運動や孫文の辛亥革命に、日南と協力した末永節の日南評でくくりましょう。
「(日南先生)は文士にして政客たり。政客にして学者たり。学者にして詩人たり。其全人格は寧(むし)ろ詩人に属す」。
末永は結局、日南は詩人であった、ロマンチストだったと言うのです。

司会

巨人・福本日南のいいお話をありがとうございました。