「パリ時代の父、“歌人”の父」

東京にお住まいの日南の令孫・福本精一氏から、資料を拝借しました。日南の二女はると千枝が日南の眼鏡にかなった青年と結婚し、次女の婿で三菱銀行に勤務の栄氏が福本家をつがれています。故・栄氏の遺稿から省略して掲載します。

日南の友人、池邊義象のパリ時代の回想として。
  • 勉強時間の暇々には、夜々なるべく珈琲店、人よせ等の処に行き、語学の練習をやるという工合で過ごした。
  • パリ仕立てのモーニングに、洋杖を振り、四角刈りの頭髪で、少々肩を怒らしながら、かのマロニエーの樹陰などを散歩していたが、その状(ありさま)はすこぶるハイカラであった。
  • ヴァンドールにある、ナポレオン一世の墓に何遍となく参拝した。君は彼の墓裏に彫ってある遺言「余の死灰云々」の文は暗記しており、つねにそれについて一世に同情を禁じ得なかった。

※ナポレオンの遺言。我死なば骨をセーヌのほとりに埋めよ。愛してやまぬフランス国民の中に眠りたし。

大正十五年の「中央公論」新年号に掲載された斎藤茂吉の「明治和歌革新運動の序幕に至る迄の考察」から(一部省略)。

世の人々も、現代歌壇の人々も、福本日南を目するに歌人を以てせざるが如くであるが、日南は明治の新派和歌、特に正岡子規の歌に、ある影響を与えたように私は解するのである。

子規からパリの日南への歌

いたづきに我は臥しゐる仏蘭西の
玉の薹に君はすむとふ

  • いたづき-病床
  • すむとふ-住むという
  • 薹-座席

日南から病臥の子規への歌

しばし待て万葉十六茶漬飯
くひては語り語りては食はむ

  • しばし-しばらく
  • 万葉十六-万葉集巻十六
  • くひては-食いては

(日南と子規が交わした歌をあげて茂吉は)
「これらの歌を見ても、當時にあっては日南の歌の方が子規よりも先を歩ゐていた。
子規が俳句ばかりを作ってゐた頃、日南はすでに萬葉調の歌を作って居り、子規が巴里に送った歌よりも、日南が巴里から答へた歌の方が面白い。(略)
日南は歌の専門家ではないために、作歌からだんだん遠ざかってしまったけれども、明治三十年ごろには斯くのごとき作歌力を示してゐる。
特に和歌革新運動の潮流には居なかった姿ではあるが、(略)新流歌人の一種と見做して考察すべきものである」と述べています。