No.71 先駆者 ソロの志士 平野国臣

対談:平成13年3月

司会・構成:土居 善胤


お話:
近代史研究家 石瀧 豊美氏
聞き手:
博多町人文化連盟 理事長 西島 伊三雄
福岡シティ銀行 常務取締役 大内田 勇成

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


七年のヒラメキ

Profile:平野国臣 年譜

平野国臣像
(福岡市西公園)

司会

平野国臣(ひらのくにおみ)[文政11年~元治元年1828~1864]の銅像が西公園にありますね。意志の強い凛然とした面立ちで、堂々とした武士姿の偉容ですね。

石瀧

国臣の甥で彫刻家の田中雪窓(せつそう)が、大正4年に知人や肉親の話から見事に国臣を再現したのです。だが前大戦で武器や砲丸にするために、金属出陣で供出させられたので、戦後の昭和39年、国臣逝去百年にあたって、安永良徳(よしのり)日展審査員により再建されたものです。そして、生家の近くの地行西町に平野神社として祀られています。

司会

平野国臣は37年の生涯で維新史にきらめいたのは、晩年のわずか七年の燃焼なのですね。その7年のほとんどが、幕吏と福岡藩の盗賊方と新撰組に追われての逃走劇で、ハラハラばかり。

石瀧

薩摩と長州は、一藩勤王の大きなマグマなのに国臣は、福岡藩が佐幕派で頼れない。藩の勤王派はまだまだで、いわば一匹オオカミでした。

大内田

先駆者で、"ソロの志士"だった。悲劇の志士だが魅(ひ)かれますね。

チンチクどんの国臣

九歳のときから居住の住宅

西島

その平野国臣が、福岡でもあまり知られていない。明治維新を語るとき、一番のカードなのに。

石瀧

国臣を一言で尽くせば、明治維新の前夜に、福岡藩で最初に尊王討幕を唱えたことですね。大老井伊直弼(いいなおすけ)が勤王の志士を弾圧した安政の大獄(たいごく)以前に、討幕を唱えた人は寥々(りょうりょう)たるもので、国臣は維新の先覚者だったのです。

大内田

そして、すぐれた歌人で。

石瀧

よく知られている、 我胸の燃ゆる思にくらぶれば煙はうすし桜島山は、国臣の歌で勤王の歌人として知られている野村望東尼(ぼうとうに)との歌問答も、よく知られています。

司会

では、国臣のおさらいを。

石瀧

先祖は香椎宮の大宮司、三苫氏なので、自(みずか)ら大中臣朝臣(おおなかとみのあそん)と称して国臣と名乗ったのです。幼名が(み)の吉。世子の美濃守長溥(みののかみながひろ)(斉溥/なりひろ)に遠慮して乙吉(おときち)に変え、成長して国臣(くにおみ)、通称は二郎になります。福岡藩の足軽で六石三人扶持(ぶち)の平野吉郎右衛門(きちろうざえもん)の次男で、文政11年3月29日(1828年5月2日)、鳥飼八幡宮の近くの福岡の地行下町(中央区今川1丁目)に生まれました。

司会

明治維新の、四十年前ですね。

石瀧

足軽の家は、生け垣に珍竹(ちんちく)といわれた篠竹(ささだけ)をつかっていたので、チンチクどんと言われていました。チンチクどん出身には、後に憲法の制定に尽くし、日露戦争で平和条約の締結に活躍した金子堅太郎(嘉永6~昭和17年1853~1942)や、明治大正の言論人福本日南(安政4~大正10年1857~1921)らがいます。祖父が剣術好きの国臣の父に足軽平野家の株を買ってやった。その父親が平野姓のまま都甲(とこう)家の婿になったので、長男が都甲を名乗り、次男の乙吉が平野国臣となったのです。幼名乙吉はオッサンとよばれ、戦(いくさ)ごっこではいつも大将で、馬の股潜(またくぐ)りの名人だったそうです。

大内田

相当の腕白だった…。

石瀧

11歳のとき、重臣の大音権左衛門(おおとごんざえもん)の身辺を世話する侍童(じどう)になり、13歳で父の友人で鉄砲頭(がしら)だった小金丸彦六の養子となる。小金丸源蔵種徳(たねのり)ですね。漢学を亀井暘洲(ようしゅう)(南冥[なんめい]の孫)に、国学を青柳種春(あおやぎたねはる)(種信[たねのぶ]の二男)に学んでいます。また幼(おさな)なじみで修猷館(しゅうゆうかん)の教授だった正木昌陽(まさきしょうよう)から、得るところが多かったそうです。

西島

勤めの最初の役目は。

石瀧

普請方手付(ふしんかたてつけ)という土木営繕の下役でした。18歳で太宰府天満宮の楼門の修理係となっています。この年、弘化2年(1845)の冬、初めて江戸勤務に。諸外国の艦船が各地を脅(おびや)かしていましたが、江戸の日常は泰平でした。乏(とぼ)しい手当てに、

そふこふとしもくもくさんしたれども 鐘がなくてはならぬ世の中

※あれこれと工面をしたけれども金がなくてはならぬ世の中

と、歌人の卵が嘆いています(笑)。2年づめで帰国し、嘉永元年(1848)に、21歳で彦六の三女、16歳の菊と結婚しています。

勤王の目覚め 大島/江戸/長崎

「なつかしき聲も幽(かすか)に
遠山の影に姿をかくす雁(かり)かね」

司会

国臣の勤王の目覚めは。

石瀧

嘉永4年(1851)の春、24歳の国臣が、宗像三社の中津宮の営繕で玄海町の神湊(こうのみなと)から7キロ沖の大島に駐勤しました。その時、島にかくまわれていた薩摩藩士の北条(ほうじょう)右門(本名・木村仲之丞)に、勤王の感化を受けたのです。北条は工藤左門(井上出雲守[いずものかみ])らとともに、英明な島津斉彬(なりあきら)が四十歳を過ぎても世子のままなので、君主擁立をはかって、藩主斉興(なりおき)の逆鱗(げきりん)にふれました。いわゆる「お由良(ゆら)騒動」で、彼らは薩摩から養子に来ている長溥にかくまわれていました。
北条の自伝に「意気投合し、日夜国事を論じ、古学文詞(こがくぶんし)を談ず。国臣これより愕然と憤起、藩の役人となるを 潔(いさぎよし)しとせず」とあります。

西島

アメリカの水師提督、ペリーの来航がそのころですね。

石瀧

徳川250余年の天下泰平の夢をくつがえしたのは、嘉永6年6月3日(1853年7月8日)に来航したペリーが率(ひき)いる4隻の黒船でした。この年の冬、26歳の国臣が普請奉行(ふしんぶぎょう)の配下で2度目の江戸勤務になっています。ペリー艦隊は翌年も7隻で再来しています。攘夷(じょうい)か開港かと侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論もしたでしょうね。話題になった水戸藩の会沢正志斎(あいざわせいしさい)の『新論』を読んで感激し、「自(おのず)から非(ひ)を耻(は)ず、喫煙を絶ち武を練(ね)る」と、禁煙の決意を記しています。酒好きの国臣が酒は三盃(ばい)まで、ただし盃(さかずき)の大小は問わずと…。

西島

都合のいい自制ですね(笑)。

石瀧

2年の江戸勤務が終わって国臣は、義経袴(よしつねばかま)に鹿皮の鞘尻(さやじり)の刀の装いで、同僚と笛の合奏をしながら東海道を下(くだ)ったそうです。武士は鎌倉初期のスタイルが理想だと古制礼賛(こせいらいさん)をとなえ、藩内で「お太刀(たち)組」と冷(ひ)やかされてていましたから、それを実践したのです。

大内田

愉快だが、世情騒然の時に。

石瀧

安政2年には、28歳で長崎諸用聞次定役(ききつぎしょうやく)の配下となって、長崎へ赴任します。長崎は隣藩の佐賀藩と警備を交代に引き受けていて当番年だったのですね。私腹を肥(こ)やす役人や、英仏艦隊の無礼な態度に憤慨しています。

大内田

平野姓にかえりますね?

石瀧

安政4年の春、17年をすごした小金丸家を去って平野家にかえり二郎国臣と称します。徳川の民でも、黒田の家臣でもない。この国の民であるという、彼の勤王(きんのう)の志がうかがわれます。国臣30歳、妻の菊は25歳、9歳の長男と二人の女の子を残しての別離で、役所も退職しています。我心岩木と人や思ふらむ
世のため捨てしあたら妻子を

司会

そしてすぐに、藩中を驚愕させる事件が起きましたね。

石瀧

国臣が藩主長溥の行列に駆(か)け寄り、鎌倉時代の弓射武芸であった※犬追物(いぬおうもの)の復興を直訴(じきそ)したのです。

※騎乗の武士が犬を追って弓射する中世武士の鍛錬の一つ

西島

直訴は重罪でしょう。

石瀧

前代未聞(みもん)の珍事ですが、わが身を顧みず、所志を通そうとしたのは殊勝であると、わずかに蟄居(ちっきょ)一か月で罪を許されています。大内田 妻子の離縁と復籍も、養家と妻子に災(わざわ)いを及ぼさないようにとの気持ちからだったのでは…。

石瀧

この頃から、剃刀(かみそり)を使わない惣髪(そうはつ)体が国臣のヘアスタイルになりました。そして秋月の阪田九郎右衛門(くろうえもん)に1年間和学と※有職故実(ゆうそくこじつ)、武士の礼法を学んでいる。国臣によれば秋月に"留学"したのです。この頃すでに幕府討伐を唱(とな)えて師の阪田を驚かせています。

※朝廷や武家の古来からの礼式、法令、官職、故実など

脱藩上京…京は安政の大獄

司会

13代将軍の家定が病弱だったので次の将軍を誰にするか、いわゆる将軍継嗣(けいし)が当時の大問題でしたね。

石瀧

激動の時代に相応(ふさわ)しいリーダーとして、水戸の徳川斉昭(とくがわなりあき)の子、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推(お)す気運がたかまっています。尾張の徳川慶恕(よしくみ)、越前の松平春嶽(まつだいらしゅんがく)、薩摩の島津斉彬、土佐の山内容堂(やまのうちようどう)、伊予の伊達宗城(だてむねなり)らが慶喜の強力な支援者でした。

大内田

そして、井伊直弼の登場ですね。

石瀧

大老に就任した井伊直弼が独断で、勅許(ちょっきょ)をえないで日米通商条約を締結します。紀州の徳川慶福(よしとみ)を将軍継嗣に決めて家茂(いえもち)と改名、家定が亡くなると16歳の家茂を14代将軍につけ、慶喜を支持した諸侯と徳川斉昭に急度慎(きっとつつしみ)を、慶喜に隠居慎(つつしみ)を命じました。井伊が孝明帝を彦根に移すという風聞も聞こえてきます。薩摩藩主の島津斉彬は井伊の専横をとがめるため、三千の兵を率いて京に上(のぼ)り、朝廷の令旨(りょうじ)を請(こ)うて幕府の改革を促(うなが)そうと考えていました。天下の志士たちは固唾(かたず)を飲んで斉彬の上京を待ち望んでいたのです。斉彬の命を受けた西郷吉之助(隆盛)がその意を筑前藩主の長溥に告げ、北条と工藤らに上京をうながしています。

西島

斉彬が、志士たちの期待を集めたのは。

石瀧

勤王の志が篤(あつ)い名君として知られていた。薩摩の勇武。そして将軍家定の正室が斉彬の養女、篤姫(あつひめ)であった。こうした事から、斉彬待望が油然(ゆうぜん)と巻き起こっていたのです。

司会

その斉彬が、挙兵上京の大演習を総監した直後、安政五年七月に忽然(こつぜん)と急逝した。志士たちの落胆は大きかったでしょうね。

石瀧

そうした時代のうねりの中で国臣は八月に京に上ります。南朝の忠臣・菊地武時の碑文を公卿(くげ)に頼むことを口実にしていましたが、北條右門に、昔のことより生きた勤王をと説(と)かれて目が覚(さ)めるのです。

西島

碑文はどうでもよくなった(笑)。

石瀧

そして、勤王の志士・平野二郎国臣の活動が始まったのです。北條右門との縁で、西郷吉之助や吉井幸輔[後の伯爵友実(ともざね)]。伊地知龍右衛門(いじちりゅううえもん)[伯爵正治]有村俊斎[伯爵海江田(かえだ)信義]ら、薩摩の主(おも)だった志士たちを知り、梁川星巌(やながわせいがん)、梅田雲浜(うんぴん)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)[頼山陽の三男]ら、維新のエネルギーに火を点じた人たちを訪ねています。それからすぐに安政の大獄で、梁川は逮捕前にコレラで死亡しましたが、梅田、頼、吉田松陰(しょういん)、橋本左内(さない)らが幕府に捕(と)らえられる。国臣は31歳、時勢は切迫していました。

大内田

アンチ井伊の動きは。

石瀧

そのころ、水戸徳川藩には、孝明天皇の密勅(みっちょく)が下されていました。幕府の日米通商条約の無断調印と、尾張、水戸、越前三家の処罰を責め列藩とも群議評定して外国の侮りを受けないようにすべしとありました。志士たちは、その密勅を有力諸侯に下賜いただいて、井伊の専横を止めようと、斉彬の大叔父である黒田長溥に大きな期待を寄せたのでした。国臣は北条と相談して長溥に密勅受け入れを働きかけるために、急いで筑前に帰りました。

西島

脱藩の国臣が、殿様へは。

石瀧

国臣の身分では、殿様へ直接に建言はできません。工藤左門に頼り、側近の吉永源八郎に長溥への上申を依頼しましたが、うまくいかなかったようです。

月照、西郷錦江湾に入水

平野神社(福岡市中央区)

司会

そうして、月照事件ですね。

石瀧

そのころ、志士たちと公家(くげ)間を斡旋し、帝(みかど)の密勅の伝達にもかかわって、左大臣(さだいじん)近衛忠熈(このえただひろ)の信頼があつかった清水寺の僧、月照[名は忍向(にんこう)]が幕吏の追及を受けていました。近衛家から月照の保護を頼まれた西郷吉之助、有村俊斎(海江田信義)、北条右門が月照をかばって京を逃れました。西郷は根回しに先行しましたが、脱藩者の北条は薩摩へは入れない。護衛を国臣に頼んで、「平野欣然として領諾」と記しています。

司会

勤王の志士国臣が、歴史に登場するハイライトの舞台ですね。

石瀧

一行は月照と、修験僧(しゅげんそう)姿の胎岳院雲外坊(たいがくいんうんがいぼう)[国臣]、従僕の重助の3人で、阿久根(あくね)から8キロ離れた黒之浜にあがり、出水口(いずみぐち)の関所から薩摩へ入りました。鹿児島城下に入ったのは安政5年11月10日でした。京を出てから2ヶ月、福岡を発(た)って20数日、追手(おって)の追跡をかわしての逃避行でした。月照の歌に

都にて誰かあはれと思ふらむ
心づくしのはてをこす身を

京都町奉(まちぶぎょう)行の目明(めあか)しは国境で留(とど)まりましたが、福岡藩の盗賊方(とうぞくがた)は執拗に鹿児島城下まで追っていました。

大内田

斉彬が亡くなって保守的になっている島津藩にとっては、月照は迷惑な客人(きゃくじん)だったでしょう。

石瀧

幕府のお尋ね者ですが、盗賊方に身柄を渡せば、島津藩に縁の深い近衛家にさしつかえるし、藩内の勤王派が騒ぐ。といって、幕府に逆らって保護はできない。藩庁は窮余のあげく、西郷吉之助を呼び出して、月照一行を連(つ)れて国境の志布志(しぶし)か紙屋、または日向(ひゅうが)高岡の法華岳寺(ほっけがくじ)に潜(ひそ)むように。筑前の盗賊方には行方知れずと伝えると、申し渡しました。日向高岡は島津領ですが、幕府直轄の宮崎に近く、譜代(ふだい)大名である延岡・内藤藩の支領と接している。

司会

斉彬死後の政情の一変から、西郷さんはもはやこれまでと、月照との死を決心したのでしょう。

石瀧

安政5年11月15日、月明煌々の錦江湾でした。月照、西郷、国臣、重助、付き添いの阪口周右衛門(しゅうえもん)の5人が船に乗り、大隅(おおすみ)の福山浦を目指しました。酒宴となり、国臣が笛を奏(かな)で、月照が歌を詠(よ)み、西郷がうなずいてふところへいれました。舟が大崎の鼻に近づいた時、西郷と月照が抱き合って投身したのです。阪口がとっさに帆綱を切って舟を返し、2人を引き揚(あ)げましたが、すでに息が絶えていました。応急の手当てを尽くして、頑健な西郷だけが蘇生しました。すでに16日の暁天(ぎょうてん)でした。西郷の懐にあった享年46歳の月照の絶筆は

曇りなき心の月の薩摩潟(がた)
沖の波間にやがて入(いり)ぬる

大君の為にはなにか惜(おし)からむ
さつまの※迫門(せと)に身は沈むとも

※『平野國臣傳記及遺稿』では、「瀬戸」

藩庁は二人が死んだことにしたので、筑前の盗賊方も納得し、国臣はお構いなしで、従僕の重助を証人に引き連れて去りました。

大内田

脱走劇は悲しいフィナーレだったのですね。

石瀧

国臣は20日に鹿児島を去りました。大久保正助(しょうすけ)[後の利通(としみち)]と有村俊斎は夜道を重富[姶良(あいら)町]の宿に駆(か)け、五両の餞別を贈っています。国臣の義に感じ、盟友西郷の蘇生に感謝してのことだったでしょう。藩は西郷を菊地源吾と改名させて奄美(あまみ)大島に潜(ひそ)ませました。

西島

筑前の盗賊方は修行僧の雲外坊が脱藩した平野国臣だと後で知って口惜(くや)しがったでしょうね。

桜田門外の変、そのころの国臣

石瀧

国臣は、翌12月、2回目の脱藩上洛して、近衛家に月照の遺品と、入水までの次第を届けています。それから、頭を奴鬢(やっこびん)にし、風呂敷包みを背負った商人姿で備中連島(びっちゅうつらじま)[倉敷市郊外]の豪商三宅定太郎(みやけじょうたろう)を頼り、番頭となって潜みました。ついで、下関の白石正一郎を頼り、瀬戸物販売の支配を頼まれています。

司会

白石正一郎には、西郷隆盛から坂本龍馬(りょうま)高杉晋作をはじめ、維新のスターたちが、みな世話になっている。当時の情報センターで、維新史の裏面に欠かせない豪商ですね。

石瀧

毛利の支藩、清末一万石の物産方ですが、侠気のある人で国臣をよく守っています。その頃、江戸で、薩摩の有馬新七らと水戸の浪士が、大老伊井直弼の襲撃計画を進めていました。大久保らは事が成れば、薩摩藩をあげて朝廷の擁護に当(あ)たることを決意し、福岡藩との薩筑連合の策を立てて、長溥への建白を国臣に託します。国臣は、北条らと相談して筑前へ帰り、側近の吉永に長溥への建白をゆだねます。国臣は意見書で、「井伊襲撃が行われれば、斉彬公との情誼(じょうぎ)を考慮され、島津と一体になって朝廷を守護されたい。水戸勢は横浜の外人館や軍艦焼き打ちをはかるだろうが、外夷との戦争は愚策である。米価の高騰に備えて、大阪で手当(てあて)を。大砲は薩摩に頼み、代価は石炭を当(あ)てればいい」と述べています。長溥がこれを目にしたときは、井伊大老が襲撃された後でした。万延元年3月3日の桜田門外の変を国臣が知ったのは18日の事で、

所がら名も面白し桜田の
火花にまじる春の淡雪(あわゆき)

と詠(よ)んでいます。

目まぐるしい逃避行

石瀧

藩は、国臣が桜田事件をいち早く知っていたことに驚き、脱藩の身で建白に及んだことをとがめ、厳しく国臣を追及しました。

大内田

国臣に藩はつれない…。

石瀧

そして、逃走は続きます。薩摩へ入ろうとしましたが、大久保らはもっぱら勤王党の勢力を養成中で、政庁への刺激を避けたい思惑があって、入国はかないませんでした。だが、島津の志士たちは。国臣の人物をかっていました。薩摩の高崎猪之助[五六(ごろく)]が物産取扱にかかわった白石に送った書状に、国臣にふれて、「此の人物は中中衆並(なかなかしゅうなみ)にては無之(これなく)、吾党大に期望之事(きぼうのこと)も有之候間(これありそうろうあいだ)、何卒(なにとぞ)※乍自由御優遇被下度偏(ごゆううぐうくだされたくひとえ)に奉願候(ねがいたてまつりそうろう)」と述(の)べています。そのころ、国臣は肥後高瀬の医師松村大成(まつむらたいせい)を頼っていました。松村は宮部鼎蔵(ていぞう)や、轟 武兵衛(とどろきぶへえ)らと並び称される肥後勤王党の大物で、このとき国臣は蟄居(ちっきょ)中の真木保臣(まきやすおみ)[和泉(いずみ)]を訪ねて討幕を論じています。真木は日記に「国臣者戀闕(はれんんけつ)第1等人也」と記しています。闕は朝廷のこと。つまり勤王第1等の人であると高く評価しているのです。真木は久留米の水天宮の宮司で、小楠公(しょうなんこう)と称された勤王家ですから、国臣には最高の賛辞でした。

※[乍自由]勝手ながら の意

西島

お尋ね者の国臣を、次々にかくまう人が出てきて。当時の志士たちは腹がすわっていたのですね。

石瀧

強い連帯があったのですね。それも、武士だけでなく、豪商、神官、医師、庄屋、豪農と、その層が厚かったのです。彼らは勤王に、覇者の政治ではない日本の明日を見ていたのです。

司会

だから、背景のまったくない草莽(そうもう)の平野国臣が活躍できたのですね。「友有り、遠方より来る、また楽しからずや」は、志士たちの実感だったのですね。

石瀧

そして万延元年九月にまた薩摩へ。村田新八(天保7~明治10年 1836~1877・旧姓、高橋)の従僕となって出水口の関所を無事に通り、薩摩入りを果(は)たしました。

西島

念願の薩摩入りが、やっとかなって、ほっとしますね(笑)。

石瀧

村田は国臣を伊集院(いじゅういん)にとどめ、同志と図(はか)って国臣を保護するために鹿児島へ急ぎました。村田25歳。後に西郷隆盛に殉じ、その死を広く惜しまれた人材です。勤王派の大久保らは、西郷赦免と藩政改革に奔走中でトラブルを避(さ)けたい。また鹿児島へは入(はい)れません。それで大久保、堀、有馬新七らが国臣を海路、丁重に天草の牛深(うしぶか)まで送っています。

我胸の燃ゆる思にくらぶれば
煙はうすし桜島山

はこのときの歌で、「我胸の燃ゆる思」は勤王の志。煙の薄い桜島山は薩摩人の勤王の志が、自分とくらべると因循(いんじゅん)で薄いという皮肉で、国臣の悲憤がうかがえます。この年、筑前では鷹取、海津幸一、月形、中村、(ふじ)四郎ら勤王の志士たちが幽閉などの処罰を受けました。

司会

5年後には慶応元年の弾圧、いわゆる乙丑(いっちゅう)の獄で、彼らは切腹、斬首、流罪と根こそぎに処断されてしまいますね。

石瀧

次第に追及が厳しくなってきたので、国臣は手習いの師匠になって天草に身を隠(かく)しました。その間に島津久光(藩主茂久の父)に建白する『尊攘英断録(そんじょうえいだんんろく)』を編(あ)んでいます。漢文で七千余字の大作で、「雄藩島津が倒幕の旗を掲げて大阪城を奪い、東征して幕府を降し、民心を一にして外敵に当(あ)たらなければならない」という主旨でした。航海実習、罪人で八丈島開拓、上海(しゃんはい)・香港(ほんこん)で情報のキャッチ、帝都遷都etcと広範にわたっています。司会  そして、3度目の薩摩行ですね。

石瀧

文久元年12月。薩摩藩士伊牟田尚平(いむたしょうへい)と計り、福岡藩の重役からの飛脚(ひきゃく)だと偽(いつわ)って、難なく小河内(おごうち)関所を通過しました。鹿児島城下へ入り、久光へ『尊攘英断録』を上書しています。薩摩藩は大久保らの努力がようやく実って、翌春に藩主茂久(実際は茂久の父久光)を擁(よう)して京に上(のぼ)り、朝廷のために尽くすことを内定していました。薩摩が腰をあげて天下の変革に乗り出すのです。国臣は欣喜雀躍(きんきじゃくやく)の思いで肥後の松村の家に帰りました。

久光東上 寺田屋事件

国臣の書「尊攘」

石瀧

そのころ、志士たちは兵を率いた島津久光の上洛を、王政復古の時節到来と待望し、久光を迎えて事を挙(あ)げようと、意気盛んでした。だが、久光の真意は、京で朝廷と幕府の間を斡旋し、勅命を奉じて幕政の改革に当たろうというもので、志士たちの期待した討幕による王政復古とは違っていました。

大内田

公武一体路線で、討幕とは温度差がありますね。

石瀧

流罪(るざい)を許されて大島から呼びもどされた西郷は、志士たちの激発を抑(おさ)える役目を命じられ、下関の白石宅で国臣と会っています。西郷は下関で待てとの久光の命に反して、京へ上りました。久光上洛を幕府討伐の好機ととらえていた西郷は、志士たちの事前の暴発を抑(おさ)える気持ちだったようです

西島

好機到来ですね。

石瀧

国臣も、京に入って、近衛公を通して「回天三策」を朝廷にさしあげています。久光に献じた「尊攘英断録」を要約したものでしたが、孝明天皇が目にされたそうで、勤王家、国臣の名が天下に知られました。そのころ大阪へ着いた久光は、志士たちのフィーバーに驚き、鎮静の命に反したとして西郷を国元へ押送(おうそう)させ、徳之島(とくのしま)へ、そして沖永良部(おきのえらぶ)島へ流罪にします。

司会

そこへ秋月藩の海賀宮門(かいがみやと)が大変なニュースを。

石瀧

江戸に向かう福岡藩主黒田長溥が「京阪での尊王派の過熱を知って急いで久光を追い、
京都への立ち寄りは取り止めて、江戸への直行を勧める」という報せでした。

大内田

それは青天の霹靂(へきれき)ですね。

石瀧

国臣は長溥の久光への勧告を阻止するため、伊牟田尚平を誘(さそ)って西へ走り、東上する長溥を播州(ばんしゅう)[兵庫県]明石(あかし)の大蔵谷でとらえます。伊牟田が久光の使者と偽り、国臣が長溥へ一封の書を呈上します。

西島

決死の覚悟ですね。

石瀧

「久光公を迎えて、倒幕の義挙をあげようと志士たちが血気盛んである。長溥公も志を同じくして、両公ともに尊王に尽くされたい。勤王に因循(いんじゅん)な公の東上を、実力で阻止しようと言う志士も少なくない」と京阪の昂(たか)ぶりを披瀝したのです。

大内田

これを読んだ長溥周辺の狼狽(ろうばい)ぶりが目にうかびますね。

石瀧

一行は驚いて、藩主急病を口実に筑前へ引き返します。これが世に知られている大蔵谷回駕(おおくらだにかいが)です。

西島

一介(いっかい)の浪人が、筑前52万石の大守の参勤を止め、Uターンさせた。大変なことでしたね。

石瀧

国臣には衣服が与えられ、脱藩の罪もあいまいに行列に組み入れられて帰途につきます。途中での志士たちの不穏(ふおん)に備えて、国臣を優遇しているジェスチャーでした。だが、下関で藩船日華丸へ乗り込んだとたんに、脱藩の罪で捕(と)らえられてしまいました。

西島

うまく利用されたのですね。

石瀧

その時の国臣の歌が、

ゆるされつ又からまれつ悩むかな
風さだまらぬ松が枝(え)の蔦(つた)

こうして、安政5年8月に脱藩してから、まる4年の逃避行に終末をうって、獄舎の人となったのです。一方、討幕の旗を挙げようとたぎっていた志士たちの画策も、伏見寺田屋事件で潰(つい)えました。薩摩藩の有馬新七、田中謙助らは久光に決起を促(うなが)すために、「夜陰(やいん)に乗(じょう)じて京で兵を挙(あ)げ、幕府寄りの九条邸を襲い、京都所司代の酒井若狭守(わかさのかみ)を斬り、帝(みかど)に倒幕の詔勅を請(こ)い、王政復古を実現しよう」としたのです。久光は奈良原喜八郎大山格之助ら九名を、有馬らがこもっている旅宿の寺田屋へ鎮撫(ちんぷ)にさし向けますが彼らは説得に応じない。

大内田

それで悽惨(せいさん)な同志討ちに。

石瀧

有馬ら6人が上意討(う)ちで斬られ、田中謙助ら2人は重傷で自刃(じじん)。田中河内介や海賀宮門らは薩摩へ護送の途中で斬られ、久留米の真木和泉や土佐の吉村寅太郎らは藩にもどされました。

司会

悲惨な維新史の1ページですが、国臣は、長溥の帰国に従っていてこの災難をまぬがれました。

望東尼へこより文字の歌

神風を何うたがはん
さくら田の花さく頃の
雪をみるにも

石瀧

国臣は文久2年(1862)4月、福岡唐人町の浜側にあった桝木屋(ますごや)の獄に繋(つな)がれました。この時のちに勤王歌人として知られる野村望東尼(ぼうとうに)(文化3~慶応3年 1806~1867)が、歌をおくって慰めています。以降、国臣へ送った歌が25首といわれ、内20首がわかっています。望東尼は皇女和宮(かずのみや)の江戸への降嫁の盛儀を拝観し、伏見で長溥の江戸参勤の行列を見るつもりでした。"大蔵谷回駕"で望みはかないませんでしたが、国臣の勤王の思いに感銘し、帰福後桝木屋牢の国臣へ慰めの歌をおくりました。

たぐひなき聲になくなる鶯は
籠にすむ憂(う)きめ見る世なりけり

国臣の返歌は

おのづから鳴けば籠にも飼はれぬる
大蔵谷のうぐひすの聲

司会

有名なこより文字ですね。

桜田の名もおもしろし
打太刀の火花に交る
春の淡雪

石瀧

鶯にたくして、世の中にさきがけた人が大事なことを殿様に言上されたから、牢屋(ろうや)の憂(う)き目にあわれたのですねとの慰めに、私は大蔵谷で言上せずにはおられなかった。わかってやったことです、と言っています。獄中では、筆や硯が許されない。それで、獄中の粗末な紙で作ったこよりを字の形にして、米粒で別の紙に貼(は)りつけました。国臣発明の有名な"こより文字"で、国臣の勤王の思いは、切々と望東尼の心に伝わったことでしょう。1年間牢にいましたが、この間にこより文字で、尽志録ほか7篇11巻の著述をしているのです。食事は減らしてもいいから、筆硯(ひっけん)か読書をと、こより文字で請願しますが許可されない。

西島

そして母親がコレラで急死します。悲痛のあまり絶食数日だったそうで、胸が痛みますね。

石瀧

そのころ、攘夷決行が文久元年5月10日にと決(き)まり、志士たちへの風向きが変わっていました。そして工藤と北条が、国臣の功績を称(たた)え、大原卿を動かして、恩赦が福岡藩に申し入れられたのです。国臣はこのことを知って

霜雪に犯されなとて
打着せし衣そ母の
かたみなりける

浮き雲の晴れもやすると大空を
仰きて待つも久しかりけり
君が代の安けかりせばかねてより
身は花守(はなもり)となりけんものを

西島

因循な藩も、朝廷の意向を無視できなかったのですね。

石瀧

藩の評議で釈放となると

うづもれし深山(みやま)桜も時を得て
花咲ぬべくやゝなりにけり

藩は国臣を釈放と同時に徒罪方付(ずざいかたつき)の職に命じ、心付けとして米十俵を下付しています。

大内田

風向きが変わりましたね。

石瀧

国臣は肥後の松村大成への手紙に「最早逆磔之気遣(もはやかさはりつけのきづかい)も無之安心仕候(これなくあんしんつかまつりそうろう)」と述べています。

望東尼へこより文字の歌

平野国臣像

石瀧

藩は出獄早々の国臣に上洛して、重役を補佐することを命じました。国臣は出発の前夜、平尾の山荘に望東尼を訪ねて夜遅くまで語りつくし、歌を詠(よ)み合っています。

数ならぬ身は山風となりてだに
御光かくす雲をはらはむ(国臣)

一すじの心つくしの秋風に
いかでむかはむ夕立の雲(望東尼)

西島

語り尽きず、詠みつきずの一夜だったでしょう。国臣と望東尼の別れになったのですね。

石瀧

福岡藩が勤王の姿勢を見せたのは、国臣が釈放されてからのこの時期の半年と、元治元年の第一次長州戦争の収束(しゅうそく)のころ加藤司書(ししょ)らが活動した半年の2回でした。

司会

司書の華(はな)のときは、国臣は六角の牢で、志士の生涯を終っていました。

石瀧

司書は家老格、国臣は足軽の軽輩で、身分差が2人を阻(はば)んだのでしょう。筑前勤王を代表する2人のすれ違いが残念ですね。望東尼に見送られて6月29日に出発した国臣が、攘夷監察のため長州へ下ってくる正親町(おおぎまち)三条卿(維新後嵯峨家)を招こうと画策したりして、ようやく京都へ着いたのは8月9日でした。

司会

そのころの京は、朝廷の攘夷志向を背景に、久坂玄瑞(くさかげんずい)らにリードされた長州の勢いが盛んで、攘夷一色のフィーバーでしたね。

石瀧

孝明天皇が伊勢神宮と大和(やまと)の橿原(かしはら)神宮、春日(かすが)神社に攘夷親征を祈願する大和(やまと)行幸(政変で中止)を目前にしていました。久留米の真木和泉や筑前の中村圓太(えんた)、各藩の志士たちが京に集まり、大和行幸は討幕の点火であるとたぎっていました。

大内田

そのなかで、国臣は。

石瀧

朝廷は新たに設けた国事係の会議所に学習院をあてました。長州の桂小五郎[木戸孝允(たかよし)]、久坂玄瑞、肥後の宮部鼎蔵、土佐の土方楠左衛門(ひじかたくずざえもん)[久元]といった志士たちとともに、国臣が一員に選ばれたのです。学習院は、いわば攘夷実行臨時事務局だったそうです。

司会

やっと大中臣朝臣(おおなかとみのあそん)にふさわしいポストにつけたのですね(笑)。

石瀧

だがその平安も束(つか)の間(ま)で、怒濤(どとう)が押し寄せてきます。土佐脱藩の吉村寅太郎、那須信吾池内蔵太(くらた)や岡山藩の藤本鉄石ら約40人が公卿の中山忠光を盟主に担(かつ)いで、大和で討幕の義軍を起こします。いわゆる天誅組(てんちゅうぐみ)で、尊王攘夷の先駆けとして、五条代官を挙兵の血祭りにしました。朝廷は、大和行幸の前に過激な行動は慎むべしと、国臣を説得の使者に命じます。国臣が決起本陣の桜井に着いたのは代官所襲撃の後で、前後の相談をしているところへ、京都の大政変のニュースが届いたのです。

司会

朝廷の攘夷親征がふっとんだ8月18日の政変ですね。

石瀧

長州人と尊攘派の抜扈(ばっこ)を嫌悪(けんお)した薩摩と会津藩の謀議で行われた朝廷改革でした。過激な三条実美(さんじょうさねとみ)と国事係の公卿たちを排除し、中川宮と近衛卿を動かして公武合体を推めたのです。薩摩、会津、淀の三藩が疾風迅雷の勢いで皇居の守りを固め、長州藩の禁門(皇居の門、転じて皇居)守衛を解き、大和行幸と攘夷親征の評議にあたった三條たちの朝廷への参朝を停止したのです。朝廷のへゲモニーをにぎっていた長州と尊攘派の志士たちは、一夜にして立場が逆転しました。長州の久坂玄瑞や志士たちは、三條西季知(さんじょうにしすえとも)、三條実美、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、四条隆謌(しじょうたかうた)、壬生基修(みぶもとなが)、澤宣嘉(さわのぶよし)、錦小路頼徳(にしきのこうじよりのり)の七卿を奉じて、長州に落ち、再起を期したのです。これが、維新史に有名な七卿落(しちきょうお)ちです。

西島

そのとき、国臣は、大和の五条にいたのですね。

石瀧

21日に京へ帰りましたが、学習院の公卿(くげ)たちも退(しりぞ)けられていて、復命する所もありません。国臣も新撰組に宿所を襲われ、外出していて助かった一幕もあり、身辺に危険が迫っていました。

但馬義挙―六角牢に散る

桜と、国臣
(荻原一彦 氏)

石瀧

そのころ但馬(たじま)地方[兵庫県北部]は、風雲急を告げていました。孝明帝の大和行幸の機運に刺激されて、寺田屋事件の難を逃(のが)れた薩摩の美玉三平(みたまさんぺい)らが、勤王の農兵を組織して挙兵を計りました。いわゆる但馬挙兵ですが、大和義軍の天誅組と提携して倒幕の導火線となり、七卿と長州勢の決起をうながし、時世の逆転を期したのです。
国臣はその挙に参加し、急きょ長州へ下って、公卿の澤宣嘉を頭領に迎えて但馬へ急ぎました。このとき望東尼に送った訣別(けつべつ)の歌が

大王(おおきみ)にさゝげあましし我(わが)いのち
いまこそすつる時は来にけり

2人は播磨(はりま)[兵庫県の西南部]で、天誅組が幕府方の周辺諸藩の攻撃で壊滅し大将の中山忠光も行方不明だと知ります。国臣は解散して他日を期そうと説得しましたが、長州の河上弥市らが、断固決行と受け入れない。10月12日に生野(いくの)の代官所を占拠して気勢をあげましたが、出石(いづし)藩と姫路藩が鎮圧に出動して、澤宣嘉は近習(きんじゅう)とひそかに脱走しました。

西島

三日天下でまた失意の国臣ですね。なかなか天が味方しない。

石瀧

国臣は、頭領の澤が脱走した上は、敗北の戦いをしても仕方がない。他日を期して逃れようと、義挙は解散に決しました。福岡藩を脱藩して参加した藤四郎(ふじしろう)は播州街道突破を説き、無事に脱走しました。後に高杉晋作に頼まれて姫島に幽閉されていた望東尼を救けだした人物です。河上弥市ら11名は自決し、国臣は城崎(のきさき)へ逃亡の途中、出石藩救援の豊岡藩兵に逮捕されました。

司会

桝木屋の獄を解放されて、半年あまりでまた拘束の身ですね。

石瀧

豊岡藩から身柄(みがら)を引き継いだ姫路藩は盗賊と同じ扱いでした。それを憤慨する仲間に国臣は

菰(こも)きても※網代(あじろ)にねても大丈夫(ますらお)
の日本魂(やまとだましい)なに穢(けが)るべき

※檜や竹を細く削って編んだもの

大内田

志士の鑑(かがみ)ですね。

石瀧

国臣は、槍を連(つら)ね銃を肩にした百人に警護されて、京都へ護送されました。いかにも重要国事犯で国臣の名声がうかがわれます。こうして、元治元年1月17日、多くの志士たちが艱苦(かんく)をなめた六角の牢に入れられたのです。

司会

悪名高い六角の牢、扱いが気になりますね。

石瀧

7ヶ月拘禁されましたが、扱いはまずまずで、獄内で文を交(かわ)すこともできたようです。花を詠んだ歌に国臣の優しさが偲ばれます。「与力(よきり)同心など数多(あまた)して生野の事の始末問ひける序(ついで)に梅の花乞ひける時よみて出しける」とあって、

心あらば春のしるしに人知れず
※ひとやにおこせ梅の一枝

※獄

獄吏も梅の差し入れをしたそうです。天誅組の二十人が獄で処刑された時は、慟哭(どうこく)して

吹きおろす比叡の嵐のはげしきに
わかきの桜ちりも残らず

このとき獄外では、維新への激流がほとばしっていました。6月5日、近藤勇(いさみ)の新撰組が、大勢逆転を画策していた肥後の宮部鼎蔵(ていぞう)、長州の吉田稔麿(としまろ)ら20余人を襲撃した池田屋事件が起こりました。

司会

名のある志士たちが斬られ、捕らえられて…。明治維新が数年遅れたと言われる衝撃でしたね。

石瀧

その報が伝わると、かねて主君、毛利父子の朝敵の汚名をそそぎ、七卿の赦免を願って許されなかった長州の激昂が爆発して、福原越後(ふくはらえちご)、国司信濃(くにししなの)、益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)ら三家老が兵を率いて上京し、元治元年7月19日に会津、薩摩連合軍と蛤御門(はまぐりごもん)付近で激突しました。長州は敗退し、来島又兵衛(きじままたべえ)、久坂玄瑞は討死しました。世にいう"禁門の変"で、第一次長州征伐の発端になりました。

大内田

そして国臣が悲運の日を迎えたのですね。

石瀧

翌、7月20日、戦乱の中で大目付(おおめつけ)の永井主人正(もんのじょう)、東町奉行小栗下総守(しもふさのかみ)、西町奉行滝川播磨守(はりまのかみ)が話し合って、非常の場合で破獄があってはと、全員処刑ときめます。そして近藤勇に率いられた十数人の新撰組が、国臣らを槍で刺殺したのです。

西島

全員未決のままに。立場は違え、武士同士が志を掲げての戦いでした。汚点を残しましたね。

石瀧

国臣は37歳ながら、頭髪は真っ白で、憔悴して、70の翁(おきな)のようであったと言います。辞世は

憂国十年 東走西馳(せいち) 
成敗在天(てんにあり) 魂魄帰地(ちにきす)

みよや人嵐の庭のもみぢばは
いづれ一葉もちらずやはある

志をともにした真木和泉はその翌21日、天王山で腹を切って果てました。辞世は

大山の峰のいはねに埋(うづ)めけり
わが年月(としつき)の大和魂(やまとだましい)

司会

国臣も、司書も、周囲の群像も、維新の栄光に浸(ひた)れないで、次々に消えていきましたね。だから、福岡は"維新のバスに乗り遅れた。明治新政府に通用する司書がいたら、国臣がいたら"と、しばしば口にされてきたのですね。

石瀧

明治維新は、思想に共鳴し、思考が人を動かした革命でした。
" バスに乗り遅れた"は、思想に殉じた司書や国臣たちをおとしめるので、いやですね。

西島

そう言えば、明治時代にはバスはなかった(笑)。

司会

明治維新の輝きは、志を燃焼して散っていった流星群の光芒ですね。国臣を身近に。よいお話をありがとうございました。

  • ※歌の表記は、史伝として定評のある春山育次郎著『平野国臣傳』(昭和四年平凡社版)によります。
  • ※写真は春山育次郎著「平野國臣傳」と、平野顕彰会編集『平野國臣傳記及遺稿』と、荻原一彦氏提供による。

構成・文責
福岡シティ銀行 広報室 土居善胤