No.72 博多と宗を結びつけた 華僑 謝国明

対談:平成14年1月

司会・構成:土居 善胤


お話:
福岡大学 名誉教授・兵庫大学 教授 武野 要子氏
聞き手:
福岡シティ銀行 頭取 四島 司

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


はじめに

謝 国明像
(承天寺開基壇那)

司会

NHKドラマの北条時宗に北大路欣也さんの演ずる謝国明(しゃこくめい)[生没年不詳、十三世紀中期に活躍]が出てきて大活躍でしたね

武野

彼は博多に居留して、中世博多の日宋交易(にっそうこうえき)を彩(いろど)った傑出した人物です。
だが、彼が僧、円爾(えんに)[弁円・聖一国師1202~1280年]のために、「承天寺」(じょうてんじ)を建立(こんりゅう)したのは、約760年前の仁治(じんに)二年(1241年)です。彼が交易の綱首(ごうしゅ)[後記]として活躍したのは、元寇の数十年前で、ちょっと時代がずれるようです。
ドラマ性をもたせたのですね。

※元寇文永の役が文永十一年(1274年)、弘安の役が弘安四年(1281年)

四島

でも、当時の町家や店通りが見事に再現されて、七百数十年前の生き生きとした博多の表情がよく出ていました。

武野

あの当時の活力は、二十一世紀の福岡市がイメージしている、アジアに向かって開かれた博多の原点でもあったのです。

日宗貿易 博多はカルチャーハーバー

司会

謝国明が活躍していた中世とは。

武野

そうですね。日本の中世は鎌倉、南北朝、室町、戦国時代の、十二世紀末から十六世紀後半までをさしています。
中世の貿易相手の中国は、南宋から元(げん)、明(みん)。隣国朝鮮は高麗(こうらい)から李朝朝鮮の時代ですね。

奈良、平安時代から武家社会が成立するまで、七、八世紀から十一、十二世紀までが古代。安土桃山、江戸時代が近世。明治維新から第二次大戦終戦までが近代、以降が現代です。

四島

日本と当時の南宋(以下、宋)との交易品は。

武野

日本が宋から輸入した大半は陶磁器や銅銭で、そのほか織物や古典の本や仏典。そして香辛料などでした。
当時の日本では銅銭がつくられていなかったので、宋から輸入した銅銭はたいへん重宝(ちょうほう)されたのです。

四島

反対に、宋への輸出品は。

武野

砂金、流黄(いおう)、水銀、木材、刀剣、漆器、漆(うるし)などです。
金を輸出していたというと、えっと思われるでしょうが、世界地図にまだ南北アメリカが存在しない時代で、当時の日本は世界屈指の産金国だったのですね。
それで元(げん)のフビライを動かして、日本侵略を決意させたというマルコポーロの黄金伝説も生まれたのでしょう。
また、鋭利な日本刀は特に評判がよかったそうです。

四島

そして宋との交易で忘れてならないのは、文化の渡来ですね。宋は当時の世界国家で、ここに花開いた文化が博多に到来した。
さらに日本の仏教と社会生活に大きな影響を与えた禅宗が伝えられたこと。この影響は大きかったでしょうね。

武野

きらきらの文明が、宋からの貿易船で博多に渡来したのです。博多は、日本のカルチャーハーバーだったのですね。

四島

元寇のとき、元軍がなぜ博多攻略に固執したのか…。
博多は国権の象徴である大宰府の外港であり、日本の玄関口です。フビライにとっても、まず博多だったのですね。

綱首は貿易船のリーダー

司会

謝国明が綱首(ごうしゅ)だった…。聞き慣れない言葉ですが?

武野

綱首は、博多に居住した中国の宋人の資本家のことです。
綱司とも、綱首ともいうのですが「綱」は、本来は貨物を輸送する組織を意味し、ひらたく言えば貿易船を意味したようです。だから、綱首は貿易船のオーナーですね。
宋人の綱首たちは、資本を調達し提供して船を作り、積み荷を集める。そして船長として航海と交易の采配を振り、日宋貿易を大きく取りしきっていました。
わけても謝国明は別段の存在で綱首たちのリーダーだったようです。
向こう側の宋の貿易港の寧波(にんぽぉ)[浙江省・杭州の近く]にも息のかかった貿易業者をおいて拠点を確保していたでしょう。

四島

じゃ、ツーカーの交易で。華僑(かきょう)同士と思えばいい。

武野

そうです。現在の華僑も同様で、東南アジアに溶(と)け込んで現地の経済を牛耳(ぎゅうじ)っているでしょう。謝国明は華僑のリーダーだったのです。

四島

謝国明のほかには。

武野

国師の経歴がはっきりしているのは、弟子の鉄牛圓心が承天寺の塔頭(たっちゅう)四徳院で、国師の年譜を作っているからですが、その『東福開山聖一(しょういち)国師年譜』に、帳四綱の名があります。
彼は唐から帰った円爾の肖像を画家に描かせて、円爾に賛(さん)[絵に寄せる言葉]を書いてもらっています。

※塔頭(たっちゅう)_禅宗の大寺の中にある小寺院

四島

綱首たちの円爾への賛仰(さんぎょう)ぶりが窺われますね。

武野

他にも王昇、丁淵、張寧、張公、張国安、張英といった名前が見えます。
彼らがどれだけの規模を持っていたかはわかりませんが、謝国明はこうした宋人の有力綱首たちの代表格だったのです。
宋船も、平安末期ごろから政府直轄の荒津や袖(そで)の港だけではなく、有力な公家(くげ)や寺社が領有していた荘園(しょうえん)の今津や箱崎、香椎、宗像(むなかた)に自由に着岸して取り引きするようになっていますから、謝国明らの活動もいっそう広範になっていたでしょう。
謝国明が音頭をとれば、博多居留の綱首たちや、有力な寺社の資本参加も円滑で、船団を組む貿易プロジェクトがスムースに構成できたのでしょう。
謝国明は当時の日宋貿易のリーダーで、統括者といっていいのでしょうね。

文化も、戦いも、船が

四島

日本は島国だから当然なのですが、仏教も、美術も、お茶も、みなお隣の中国や朝鮮から船がもたらしたのですね。

武野

えゝ。元寇のように大変な災難も船がもたらしましたが…。
当時の、宋の交易船は、浙江省の寧波(にんぽぉ)あたりの技術で造られていました。

四島

いつでしたか、韓国の全羅南道の新安沖で、深さ二十メートルの泥の中から、沈没船が発見されて話題になりましたね。

武野

1975年でした。積み荷の荷札の木簡に、元の年号の至治三年(1323年)と明記された貿易船が発見されたのです。
当時から675年前、承天寺の建立から約80年。元寇の弘安の役から約40年経ったころに沈没した元時代の貿易船でした。
海底の泥の中に埋まっていたので船の下半分の構造がそのままに遺され、積み荷も往時のままに海底に眠っていたのです。

四島

すごい陶磁器が 蘇(よみがえ) って。

武野

あっといわされたのは、積荷のすごさでした。何と青磁器が9842個、白磁器が4926個、陶器1989個。そして銅銭が、約800万枚も出てきたのですから、度胆(どぎも)を抜かれましたね。
陶磁器は皿、碗、花瓶、香炉などの高級品ばかりで、たいへんな宝船でした。
船は竜骨をつけた中国式のジャンク船構造で、二つの帆をつけていました。長さ34メートル、幅11メートル、甲板からの深さ3.7メートル。船倉は7つの隔壁ルームで浸水に耐えられる設計でした。
危険なプロジェクトですが、一回の搬送で投資の百倍近い利益を生み出したそうです。
荷札の木簡(もっかん)で、荷主は承天寺の本山である、京都の東福寺だとわかりました。火災にあった東福寺の再建資金調達のためだったそうで、さらに驚いたのは、実務をとっていたのが承天寺の塔頭(たっちゅう)の釣寂庵(きんじゃくあん)だったのです。

四島

残念な結果で、どうなったのでしょうか。
その沈船の規模から、その約80年前の謝国明らが活躍していた日宋貿易船の規模も想像できますね。

謝国明が承天寺を建立

四島

謝国明は博多の中世史を 彩(いろど) るとても気になる人物ですね。

武野

中国の臨安府、つまり浙江省杭州の人で、日宋貿易のヒーローと言っていい人物でした。 記録が残っていないので、生年はわかりませんが、鎌倉幕府の九州探題(たんだい)だった大宰小弐(だざいしょうに)の武藤資頼(むとうすけより)・資能(すけよし)親子や、出資家の筥崎宮や宗像神社などの信任が厚い宋商の綱首でした。
*小弐は官職名。鎌倉幕府の九州統治を任されて、九州探題の役にあった武藤氏は代々官職の小弐を踏襲したので、小弐が通姓として定着した。

四島

物産の交易だけではない。禅宗の渡来にも貢献していますね。当時の仏教は、文明の象徴でもありましたから、日本への文明東漸(とうぜん)に大きな役割を果たしたのですね。

武野

日本で初めて国師号を与えられた聖一(しょういち)国師[円爾(えんに)]の渡宋を支援していて、人を見る眼(め)があり、先の読める人でした。そして、円爾が帰国すると、彼のために承天寺を建立したことで知られています。さらに寺を維持するための寺領として、筥崎宮から野間、高宮、原村を買って寄進しています。

司会

承天寺は、今では想像もできない広大な寺域の禅寺だったのですね。

武野

聖福寺に匹敵する(あるいは次ぐ)大伽藍(がらん)で、博多っ子が目を見張ったことでしょうね。

四島

寺院建築のノウハウは。

武野

宋人の技師が設計して日本人の工と共同して、寧波(にんぽぉ)あたりの建築様式で建てられたのでしょうね。

四島

建築自体がたいへんな文化の交流ですね。円爾と謝国明の出会いは、日本にとっても、博多にとっても、幸運でしたね。

武野

そうして建った承天寺が、七年後の宝治二年に火災にあっています。円爾はすぐに京から博多へ駆(か)けつけますが、それを喜んだ謝国明が一日で十八の殿堂を建てたと伝えられ、翌建長元年に完成しています。承天寺の建立は、日宋文化の交流でも特筆すべきことで、文化史上で大変な功績ですね。

四島

国際情勢に精通し、禅にも帰依(きえ)していた奥の深い国明ですね。もしかして、無準(ぶじゅん)師範に師事していたのでは。

武野

あり得る話ですね。円爾とともに径山(きんざん)の無準師範のもとで、禅をくんでいたかもしれない(笑)。

司会

国明は、どうして円爾をそんなに身を入れて支援し、また師事したのですか。

武野

円爾の人物、学識、志に感じて支援したのでしょうが、国明自身が禅を信仰していたのです。だから宋の禅宗の第一人者である無準師範の薫陶を受けた円爾を、支援しようと考えたのでしょう。

板渡しの墨蹟

承天寺山門と庫裡
(福岡市博多区博多駅前)

四島

円爾と国明の無準師範への思い入れ、裏返せば二人の信頼関係は国宝になっている「板渡しの墨蹟」でも知られますね。

武野

径山の無準師範の万寿禅寺が火災にあって消滅する。そこで円爾と国明は計り合って、再建のために、千枚の桧の板を送り届けるのです。

四島

当時の、頼りない木造船で隣国の寺の復興のための木材を。壮挙ですね。

武野

このとき無準師範が円爾に書いてよこした礼状が残っていて、国宝になっています。770年前の、いわゆる「板渡しの墨蹟」です。礼意をつくし、着荷の状況を簡明に述べた名筆です。だが、折角復興した径山の万寿禅寺がまた焼ける。二人は、また復興の桧板を送っています。

四島

半端(はんぱ)ではない。頭が下がる思いですね。

武野

承天寺を建てたころ、教義の相違からか、天台宗でスタートした円爾が禅宗の高僧になっていることへの反発からか、天台宗である大宰府の有智山(うちざん)の衆徒が円爾を襲撃して殺そうと、険悪なことになりました。

四島

そのとき、国明は。

武野

円爾を櫛田の自宅にかくまって、身の安全を守っています。僧兵を抱える有智山に対抗できるのですから、国明のパワーを感じさせられますね。幸いなことに、朝廷は有智山衆徒の要望を退(しりぞ)け、かえって承天寺と崇福寺を官寺に指定するのです。官寺になれば誰も手が出せない。朝廷の聖一国師(円爾)への信頼と期待が汲み取れますね。謝国明は博多に溶け込んで、喜捨(きしゃ)を忘れない人だったようで、こういう話も伝えられています。当時は飢饉で、暮れになっても飢えている人が多かった。それを見過ごしにできない謝国明が、大晦日に承天寺で切りそばをふるまって喜ばれた。これが暮れの年越しそばの縁起だとも。

四島

中国から南海まで世界の海を駆けめぐっていた、肝の太い海商の謝国明ら綱首たちと、時代の教師だった円爾とのいいコンビだったのかも知れませんね。

小呂島と国明の妻

謝国明の墓
墓塔は楠の根本に巻き込まれた
と伝えられている

司会

その謝国明の生い立ちや、綱首となる背景などわからないのですか。

武野

彼の死後に、元軍が来襲した文永の役で博多の町が焼きはらわれてしまいます。ずっと飛んで戦国時代になると、大内、大友、島津、毛利らの、有力武将による争奪戦で、博多は焼野が原に。博多は戦国大名の垂涎(すいぜん)の的で博多を制した者が、九州の覇者と認められたのでしょう。

司会

お宮やお寺も焼けて、博多の中世の資料とともに謝国明の資料も煙と消えたのですね。

武野

だからわずかに残っている断片資料をつなぎ合わせて、彼の人間像を描くしかないのです。だが、彼が博多に日宋貿易の本拠を置き、日本人の奥さんを持っていたこと、日本名を謝太郎と言っていたことまではわかっています。

司会

NHKの大河ドラマでは、太郎は国明の息子の名でしたが。

武野

あれはドラマを盛り上げるためのフィクションですね。国明のような渡来人がいちばん信頼できるのは奥さんですから、現地妻は当時の一般的な風習だったでしょう。日本妻がいたことは、国明没後の建長四年(1252年)と五年の鎌倉幕府の文書に記されているのです。小呂島の地頭と称していた謝国明は、どういうわけなのか、どうも宗像神社に利用料を払わなかったらしい。国明亡き後に小呂島を占有していた三浦種延という人物も、役料を払わないので神社側が幕府に訴えているんです。鎌倉幕府の九州探題である小弐資能がこの処理にあたっていますが、三浦は国明の未亡人の尼と小呂島の利権をめぐって争論中で応じられないと、もめている記録です。それが毛利家保存伝来文書に、きちんと残っているのです。彼らの是非はわかりませんが、日宋交易の有力な綱首だった国明のパワーと、スポンサーだった宗像宮などの微妙な関係が見えるようです。

四島

博多から四十キロの玄界灘に浮かぶ小呂島は、交易にも嵐の避難にも役立ったのでしょうね。で、どちらに軍配が。

武野

わかりませんが、どうも国明の未亡人の尼の形勢が、悪かったのでは…(笑)。

司会

謝国明は生年不明、没年は弘安三年(1280年)十月七日と伝えられていますが、この文書から、もっと以前の文永の役(1274年)の二十二年前には亡くなっていたことがわかりますね。

武野

NHKの「北条時宗」では国明が大活躍でしたが、あれもドラマのフィクションでしたね。資料は少ないのですが、当時の日宋貿易を支えた綱首の中では、謝国明の存在が抜きんでてはっきりしています。やはり、突出した国際商人だったのでしょうね。

大楠さん

司会

JR博多駅のすぐ近く、堅粕橋のそばに「大楠さん」がありますね。謝国明の墓所であると。

武野

謝国明の墓を、三抱えか四抱えもある樹齢七百年の大楠が包みこんでいたそうですが、終戦前後の近火で楠が枯れました。今は枯木の幹でかこまれ、新しい楠の木が植えられています。約170年前の天保時代に、青柳(あおやぎ)種信が編集した「筑前国続風土記拾遺(ちくぜんのくにぞくふうどきしゅうい)」に楠の木に囲まれた記述があり、仙崖和尚(せんがいおしょう)の筆による供養塔も建てられています。博多の町民が、七百数十年間、国明のお墓を大切に祀(まつ)ってきたのですね。

※所在は福岡市博多区駅前一丁目251-4

禅とお茶の栄西

四島

七、八百年前の貿易地図が浮かんできますが、博多には円爾の前に「聖福寺(しょうふくじ)」を開いた有名な明庵栄西(みょうあんようさい)[永治一年~建保三年(1149~1215年)]がいますね。

武野

謝国明や円爾の半世紀前のお坊さんで、博多にとって忘れてはならない方です。宋に渡って禅の臨済宗(りんざいしゅう)を修め、日本臨済宗の開祖となった名僧です。建久二年(1191)に、福岡県と佐賀県の境にある脊振山で、茶の種子を播いて日本で初めて茶の栽培をしたことでも知られていますね。

※臨済宗・唐の臨済が始め、鎌倉時代に栄西が伝えた。公案によって衆生を救い教化(きょうけ)する禅宗の一派。

四島

名僧が、産業開発にも。

武野

当時の僧は、仏教だけでなく社会全般にわたって、教師の役割も果たしていたのです。

四島

栄西は宋へ二回(1168・1187年)渡っていますね。

武野

そこが彼のすごさです。二度目は四十七歳のときで、当時ではすでに晩年で隠居を考える年齢ですよ。その歳で臨済宗の奥義(おうぎ)を究(きわ)めるために、生きて帰れる保証がない宋に再び渡る。その志の高さに頭が下がりますね。最初の帰国で、京の仁和寺(にんなじ)領だった怡土(いと)の庄(しょう)の港だった今津(福岡市西区)に「請願寺」を開いています。それから香椎宮のそばに「建久報恩寺」、二度目の渡宋から帰国して1195年に、博多に日本最初の禅宗の寺である「聖福寺(しょうふくじ)」、そして筥崎(はこざき)に「興徳寺」、鎌倉で「寿福寺」、京都で天台、真言、禅の三宗一致の「建仁(けんにん)寺」を建立しています。

四島

聖福寺の建立には、有力な支援者がいたのですね。

武野

やはり宋人の綱首たちや、鎌倉幕府を代表する小弐氏らの武士たちが帰依(きえ)して、その支援で建立できたのでしょう。栄西のころは、日本での禅宗の揺籃期(ようらんき)で、彼の弟子となったのが、禅宗の曹洞宗の開祖である道元[正治二年~建長五年(1200~1253年)]です。

司会

次々となじみのお坊さんが出てきましたが、ちょっと整理していただくと。

  在 世 渡 航
最澄 767~822年 唐 804~805年
空海 774~835年 唐 804~806年
円仁 794~864年 唐 838~847年
法然 1133~1212年  
栄西 1141~1215年 宋 1168~1168年
宋 1187~1191年
親鸞 1173~1262年  
円爾 1202~1280年 宋 1235~1241年
道元 1200~1253年 宋 1223~1227年
日蓮 1222~1282年  
一遍 1239~1289年  
蓮如 1415~1499年  

武野

最澄から日蓮まで、約四百年かかっていますが、二回渡航は栄西だけですね。名僧がずらりと並んで壮観ですね。

聖一国師 無準師範について参禅

無準師範墨跡(写)
禅院題字 選仏場(承天寺)

四島

聖一国師は、博多と縁の深いお坊さんですが、博多の人ではないのですね。

武野

ええ、円爾は駿河(するが)の国、いまの静岡県の藁科(わらしな)に生まれて、五歳から仏門にはいり、久能山の尭辧(ぎょうべん)に師事しています。円爾は禅の曹洞宗の開祖である道元と同世代の人です。近江(おうみ)[滋賀県]の園城寺おんじょうじ[天台宗]で剃髪(ていはつ)し東大寺[華厳宗]格で受戒。上野国(こうずけのくに)[群馬県]から鎌倉と禅の修業に行脚(あんぎゃ)し、さらに禅を究めるために渡宋を決意して博多へ下るのです。二年待機して、謝国明の支援を受け、後に承天寺の土地を寄進する鎮西探題の小弐氏との縁も、深まったのでしょう。

四島

宋に渡ることは、生命をかけたプロジェクトですね。

武野

まずは支援をしてくれる綱首をさがして、格好の船便を探さねばなりません。

四島

国師のような英才も、スポンサーがつかなければ、海外留学がかなえられなかったのですね。

武野

渡航実現までの二年間は、謝国明らの綱首たちにとっても、高僧発見の貴重な期間だったかもしれませんね。

四島

母国である宋の文明を日本に伝え、活躍してくれる人材を見つけることは、根無し草である渡来人の綱首たちにとって、博多に根をはるいちばん確かな事業だったかもしれませんね。

武野

円爾は綱首たちに、寺を寄進するから修行を尽くせと、励まされていたかもしれません。徳を積んだお坊さんだから、私たちは没個性で考えがちですが、遭難や困難を覚悟して渡航する円爾の勇気は、元の大軍に立ち向かう鎌倉武士と変わらなかったでしょう。

四島

そう考えると、明日を見つめている円爾の姿が、鮮明に目に浮かんでくる。ひとつの時代の夜明けのような、清冽な風が感じられて愉快ですね。

武野

そして、1235年(嘉禎元年)に宋へ渡るのです。

司会

だがせっかく渡った宋は、たいへんな国難を迎えていたのですね。

武野

当時の中国は、揚子江から北が、女真族(じょしんぞく)の「金(きん)」を滅ぼしたモンゴル族、後の「元」で、「金」に江南に追われた漢民族の「南宋」と、揚子江をはさんで対峙(たいじ)していました。日本に文明をもたらした文治国家の南宋の命運は、勇猛なモンゴルに押されて風前の灯火(ともしび)でした。国情騒然のときでしたが、円爾は南宋の末期を飾った名僧、浙江省径山(きんざん)の無準師範(仏鑑禅師)について禅を修めています。寺の名を興聖万寿禅寺といい、南宋を代表する五つの寺(五山)の中で第一位の格式を持っていました。円爾は、仏鑑禅師と称され崇敬をあつめていた無準師範に修行が認められて、日本に帰り、禅を広めるようにと奨められます。そして最初の自分の寺にかけるように、帝王の庇護を受けるに違いないと「勅使万年崇福禅寺」の題字を与えられるのです。そうして在宋六年で、仁治二年(1241年)に多くの経典を持って帰国し、承天寺の開基となったのです。

承天寺開山

承天寺開山禅院題字
勅賜承天禅寺
(国宝 京都 東福寺)
徳川家康公帖
(承天寺)

四島

帰りも海が荒れて大変だったと。

武野

五月一日に明州の定海県を三隻で出発しましたが、暴風雨のために二隻は沈没し、円爾の船だけが高麗に避難し、やっと七月に博多へ着くのです。このとき筥崎(はこざき)八幡宮に身の安全を祈念して助かったので、帰国後、筥崎宮にお礼参りをしたと伝えられています。それから、毎年正月十一日に承天寺の住職が寺内の住職を従えて筥崎宮へお礼参りする「筥崎諷経(ふぎん)」が行われているのです。

四島

運もよかったですね。交易でも、修行でも、当時の粗末な構造の船で宋に往来することは、本当に命がけだったのですね。

武野

帰国した国師を開山に迎えて、博多に承天寺を建立したのが謝国明で、国明を開基檀越(かいきだんおつ)というのです。もちろん他の綱首たちの協力もあったでしょう。土地を提供したのが当時の鎌倉幕府の鎮西探題だった小弐資頼(子息の資能の説も)、これが捨地檀越(しゃちだんおつ)です。

司会

円爾の帰国を、二人の弟子が待っていたのですね。

武野

一緒に宋へ渡り三年いて、先に帰国していた弟子の、湛慧(たんえ)と栄尊(えいそん)です。湛慧は太宰府の近くの横嶽山に崇福寺(そうふくじ)を開き、栄尊は肥前(佐賀県)の水上山に万寿寺を開いていて、師の円爾の帰国を待って開堂式を行っています。円爾は湛慧の寺に、無準師範から最初の寺にかけるようにと言われた「勅使万年崇福寺」の額を掲げ、同寺の寺名になったのです。
*崇福寺は慶長五年(1600年)に筑前に入国した黒田長政により、藩主の菩提寺として、同年、博多区千代町の現在地に移されています。
そうして、いよいよ謝国明と小弐氏の支援で、円爾が承天寺の開山になるのです。円爾は、径山の無準師範にこのことを報じて、自分の寺にかける書を依頼しています。海を渡って届けられた「勅賜承天禅寺」の墨跡は大変な名筆で、本山の東福寺で所蔵されています。

四島

豪壮な夏祭りの博多山笠も、円爾の聖一国師が始めたのだと。

武野

当時、博多で疫病(えきびょう)がはやったので、円爾が施餓鬼棚(せがきだな)にのって、若者に博多津中を引き回させ、甘露水を振りまいて疫病退散を祈願したのが、博多山笠の起こりだという伝説になっていますね。国師は、出家を志した最初は天台宗を修行しているので、平癒の祈祷(きとう)をされたのでしょう。そのほか饅頭(まんじゅう)や饂飩(うどん)、蕎麦(そば)、羊羮(ようかん)の製法まで、正一国師が伝えたとされていますね。博多織の始祖といわれる満田弥三右衛門(みつだやざうえもん)も、国師と親密な人でした。国師とともに宋へ渡って織布技術を持ち帰っているのです。

四島

国師の一世紀半まえに、水田灌漑や数々のご利益(りやく)で、大師伝説を遺した弘法大師空海がいます。円爾は、宋で七年修行、大徳の無準師範の認可を受けた高僧です。数々の国師伝説も、救世(ぐせ)を願った庶民の、高僧円爾への帰依の証(あか)しだったのでしょう。

武野

当時の、傑出したお坊さんは仏教はもちろんのこと、お医者さんであり、文学者であり、社会福祉から産業振興まで、社会全般にわたって、文字通り百科事典のような存在だったのですね。

四島

で、国師は博多にずっとおられたのですか。

武野

いいえ。三年ぐらいです。 宋帰りの名僧として知られた円爾は、朝廷の実力者だった藤原(九条)道家から、京へ上(のぼ)ることを命じられます。そして、京と鎌倉で公家と武士の帰依をうけながら、道家の建てた東福寺の開山になっています。

京都と、鎌倉と、博多の禅

司会

博多は栄西が開基の聖福寺(しょうふくじ)[建久六年・1195年創建]、瑞乗坊湛慧(たんえ)が開基の崇福寺(そうふくじ)[仁治二年・1240年創建]、聖一国師の承天寺(じょうてんじ)[仁治三年・1241年創建]と三つの禅宗のお寺がありますね。禅とお寺のおさらいを。

武野

禅は六世紀ごろ、達磨(だるま)さんで知られている達磨大師が、インドから中国に渡って教えた仏教の一派です。座禅を組むことで、仏教の真髄が体得できるという教えです。達磨が中国の梁(りょう)の武帝の尊崇を受け、少林寺で壁に向かって九年間の修行をします。いわゆる"面壁(めんぺき)九年"で悟りを開いた話は、よく知られていますね。只管打座(しかんたざ)、ただひたすらに座禅を組むことで心を澄まし、心の安定と統一をはかり、宗教的叡智に達しようという奥の深い修行が特徴で、中国から伝わった当時の新しいカルチャーでした。

四島

禅の区分に京都禅とか鎌倉禅とか、博多禅とか言いますね。その違いは。

武野

日宋交流のベースである博多の風土によくなじんだのが博多禅で、庶民の生活に溶け込み、町を一つに結ぶ祭りや行事にまで浸透しています。鎌倉禅は、当時の国政の要の地であった鎌倉の武士階級に根付きました。元の侵攻を逃れて日本に亡命した宋の禅僧たちが、鎌倉幕府に保護されて、武家文化培養の一役を担ったのです。京都禅は京に定着した宋の亡命僧たちが、公家の保護を背景に、修行を中心にした教義をたてて、南北朝以降の禅宗隆盛の基幹となったのです。

四島

禅宗も、それぞれの土地柄にあったスタイルがあるのですね(笑)

宋へのレクイエム

四島

十三世紀の日本と宋、博多と宋を結ぶ接点に、聖一国師の円爾と謝国明がいたのですね。日中友好のキーマンとして彼らの像が鮮明に浮かんできました。そして、限りなく文明を送り届けてくれた宋。元に滅ぼされた文化国家の宋に、つくづくとレクイエムを捧げたくなりますね。

司会

多くの先生方のご研究で、中世の博多学に光があたり恩沢に浴しています。中世の博多のヒーローたちに、さらに蘇ってほしいですね。今日はいいお話をありがとうございました。

宗金は日本人

司会

謝国明は博多に居留した宋の商人、いわば華僑でしたが、中世貿易を飾るもう一人のスターに「宗金」がいますね。

武野

謝国明は十三世紀中期の人ですが、宋金は、約二百年あとの十五世紀中期に活躍した博多の商人です。中央政権は、鎌倉幕府の北条氏が滅んで足利室町時代で、四代義持から義量(よしかず)、義教(よしのり)、義勝、八代義政のころでした。隣国朝鮮は高麗(こうらい)から李朝に。中国は宋から元に、そして明(みん)に変わっています。

四島

宋金とは…。中国人のような名前で錯覚しますね。日本人なのでしょう。

武野

はい。そもそもは、禅宗大応派の拠点である博多の妙楽寺の僧で、妙楽寺の貿易を取りしきっていたのでしょう。だが、彼の生い立ちはよくわからない。藤原姓を名乗っていますが、箔をつけようとしたのでしょうね。東大の田中健夫教授によれば、応永年間(1394~1428年)の山科教言(やましなのりとき)という公卿(くげ)の日記に、"円福寺の僧宗金"あるいは"宗金上座(僧の取り締まりをする僧-敬称)"というふうに、宗金の名前が出てくるので、公卿の山科家と特別の関係があったのかもしれません。

四島

お宮やお寺が、海外貿易を担(にな)っていたことは、謝国明の時代から変わっていないのですね。

武野

えゝ。ただ十五世紀に入ると将軍の足利義満が幕府財政の財源確保のために、率先して明との貿易に力を入れだしたのです。形は貢ぎ物を捧げる朝貢貿易で、明から割符(わりふ)をもらう、いわゆる勘合貿易(かんごうぼうえき)でした。次第に大内氏などの有力大名が参加し、かたや日宋貿易のように、私貿易も盛んに行われていたのです。

司会

勘合貿易の仕組みを、もうすこし…。

武野

明は他国との交易にあたり認可の印として勘合符(かんごうふ)を発行し、それを二つに分けて半分ずつを分かち持ったのです。相手国の貿易船はこれを明に持参し、保存の半分と台帳の照合を受けて、初めて正式に貿易の交渉がおこなえる仕組みでした。明は室町幕府へ、百通の割符を与えたそうです。文字は「日本」で、「日」を明が、「本」を日本側で持っていたのです。

四島

面白いですね。九州の剽悍(ひょうかん)な海の男たちが、群(む)れをつくって朝鮮や中国の沿岸を荒らしていた倭寇(わこう)や、政府の収入に結びつかない私貿易を抑(おさ)える狙いがあったのでしょうね。

武野

倭寇は、明の悩みの種でした。高麗の滅亡の一因とも言われるぐらいに迷惑な連中でしたから、勘合貿易は明にとっても、室町幕府にとっても、歓迎だったのですね。

四島

勘合符貿易は幕府の認可だけに、九州探題が力を持っていたのでしょう。

武野

室町幕府は、鎌倉幕府の例にならって、幕府に代わって、政務、財務、軍務を代行させるために九州探題を置いていました。当時の探題は渋川氏でしたが、宋金はうまく取り入っていたのでしよう。

朝鮮交易のヒーロー

四島

どの時代にもある官民癒着ですね。

武野

だが、探題の配下であった彼がその地位をかなぐり捨てて、妙楽寺の僧宗金ではなく、商人宗金として独立する事件が起こるのです。今から約六百年前の応永二十六年(1419年)に李朝(世宗)朝鮮の軍団が、船二百二十七艘に一万七千人の大群を乗せて、倭寇の根拠地だった対馬(つしま)を襲ったのです。剽悍(ひょうかん)な九州の海人が、対馬を基地として、朝鮮や明の沿岸を襲っていた。それへの復讐だったのです。いわゆる「応永の外寇」で、明の来攻の噂もとび、幕府を震撼させました。

四島

元寇から140年。対馬はまた大変だったのですね。

武野

だが守護の宗氏がよく対応して、侵攻軍は、十日間の占拠で引きあげました。幕府は来寇の真相究明のために、妙楽寺十二世住持(じゅうじ)の無涯亮倪(むがいりょうげ)を正使に、帰化人陳外郎(ちんういろう)の子で幕府に仕える平方吉久を副使とし、九州探題渋川氏の使者を加えて朝鮮に派遣しました。

四島

特派大使ですね。当時の外交交渉は、僧侶の役目だったのですね。

武野

寺院の住持は、知識人で、国際情報にも明るい。妙楽寺は貿易にも詳しいので、特派大使に選ばれたのでしょうね。朝鮮の世宗は、使節一行に倭寇の根拠地を叩いた対馬襲撃の理由を説明し、帰国する一行の見送りとして回礼使(かいれいし)宗希※1(そうきけい)を日本に派遣するのです。このとき入洛(じゅらく)[入京]する宗希※1一行と、室町幕府の間をとりもったのが妙楽寺の宗金で、その役目を見事に果たしているのです。

※1王へんに京

四島

見事にとは。

武野

時の将軍は四代の義持で、彼は花の御所といわれた金閣寺を造った先代の義満に批判的で、勘合貿易にも身を引いた姿勢でしたから、歓迎ムードではなかったのですね。その中で、宗金は幕府の有力者の斡旋に力を入れ、将軍義持への回礼を無事にすましているのです。

四島

並大抵の力量ではありませんね。

武野

さらに、帰路についた宗希※1一行が瀬戸内海の蒲刈島(かまかりとう)[広島県]の沖で海賊に襲われたのです。このあたりは、海賊の根拠地でした。このとき宗金が、とっさの機転で銭七貫文を渡して通り抜け、無事に使節を帰国させたのです。

四島

宗金は瀬戸内海の海賊たちに顔がきく存在だったのですね。

武野

もしかしたら、気脈を通じていたのかもしれませんね(笑)。

四島

この事件は、彼が李朝政権に食い込む大きなきっかけになったのでしょうね。

武野

これから、宗金は探題配下の、妙楽寺の僧の地位を捨てて、博多の商人として、独立するのです。朝鮮側は宗金の望みをかなえて、応永三十二年(1425年)に、正式の朝鮮貿易商人であることの証(あかし)である名前入りの「受図書人(じゅとしょにん)」の銅印を与えています。

蘇れ宗金

四島

宗金はなかなかしたたかですね(笑)。

武野

その後も、朝鮮の使節をねんごろにもてなしたり、日本の事情を知らせたりして、今で言えば日朝親善に努めています。

四島

すると、宗金の記録は朝鮮にも残っている。

武野

そうです。このころの朝鮮との貿易の記録は、李朝二代の世宗から三代の文宗にわたって、三十一年間記録されています。その中に、「僧宗金、石城商宗金(石城ー 博多)、筑州府石城県藤氏宗金、日本筑州(筑前)石城管事宗金、石城小吏宗金、富商石城府宗金などの名称が、毎年のように見られるのです。

四島

それは「受図書人」の資格に相応しい貿易商人で宗金の勲章ですね。石城府代官とは。

武野

石城府は博多の代官という意味ですね。つまり、後年の博多年行事にあたります。年行事は、博多町人の自治の代表ですから、博多年行事の淵源を宗金に求められるかもしれませんね。宗金は、博多一円で政治、経済面で深くかかわり、九州探題の渋川氏や、管領斯波(かんれいしば)氏の代行的な役割を果たして、先の読める人だったのですね。正長元年(1428年)には、博多を支配した新興の大友宗麟に接近しています。渋川、斯波、大友、少弐氏らの下請け貿易を随時に行って、巨きな利益を得たのです。そうした実績から、永享三年(1431年)には将軍足利義教の使者として、朝鮮に渡っています。

四島

すごい眼力と、活躍ぶりですが、文化面の貢献は。

武野

1450年、李朝三代の文宗即位の年に、宗金は仏典の大蔵教の下賜を朝鮮政府に願い出て、善山府の得益寺が所蔵していた膨大(ぼうだい)な大蔵教(だいぞうきょう)の下賜をうけています。

※大蔵経─仏教経典のすべて。経蔵、律蔵、論蔵の三蔵のほかそれらの注釈書を網羅したもの。

四島

それだけのことがかなえられるのは、大変な信用と財力があったということでしょうね。中国の明との貿易は。

武野

遣明船にも関係しています。永享(えいきょう)八年(1436年)に、天瀧寺の住持、竜室道淵を正使とする船で明に渡り、皇太子から緞子(どんす)二十匹、絹四十匹を与えられています。

司会

海外へ飛躍した博多のヒーロー宗金の、胸のすく活躍ぶりを知りましたが、私たちは、宗金のことをあまりにも知らなかったですね。彼がどのような表情の、どんな心情の人間だったのか、私生活も知りたいですね。

武野

彼の没年は康正元年(1455年)ですが生年がわからないから、何年の生涯だったかもわからない。身辺の資料は皆無で、私たちが想像する以外にはありません。九州大学名誉教授の長沼賢海氏は「宋金は足利将軍に近侍した外交官兼豪商、またの名は大海賊の首領」と、明快に裁断されています。遠隔地貿易のこの時代は、海賊と正規の貿易業者の区別がつけにくいのですね。

四島

博多が生んだ快男児の宋金ですが、それでは多分にダークですね。困ったな(笑)。

司会

では、彼の中世の博多に果たした役割、日本歴史への影響を総括していただいて、幻の宋金にさようならしましょう。

武野

当時の商取引は、陸は山賊、海は海賊の危険を念頭においていないと、成り立ちませんでした。すなわち、自衛権なる武装が彼等の取引を保証していたのです。だから、今の観念で黒白を決めることはできませんね。宋金も限りなく海賊に近い面があったでしょうが、彼は李朝朝鮮や明と博多をつなぐ面で大きな仕事をし博多を中世の第一級の国際都市へレベルアップ豪商でした。この評価でいいのではないでしょうか。

司会

今日は、博多の中世に躍り出た、二つの彗星の光芒にふれました。ありがとうございました