No.73 博多と北九州の文化サロン
(博多の久保猪之吉・より江夫妻と北九州の曽田共助)

対談:平成15年2月

司会・構成:土居 善胤


お話:
福岡市総合図書館 和泉 僚子氏
聞き手:
福岡シティ銀行 専務取締役 本田 正寛
談話
「小倉郷土会」世話人 馬渡 博親氏

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


九大にイノ・クボあり

Profile:久保猪之吉、より江/曽田公孫樹 年譜

仙涯の書 耳鳴
「徳を行ふは猶耳之鳴るがごとし」

司会

大正時代から昭和初期にかけて、福岡と北九州の文化サロンの主として知られていた、久保猪之吉(くぼいのきち)博士・より江夫妻と、門下生だった曽田公孫樹(そだこうそんじゅ)(共助)さんのお話をうかがいます。
はじめに、福岡の久保夫妻から。

和泉

久保猪之吉(明治七年~昭和十四年・一八七四~一九三九)は九州大学の耳鼻咽喉科を創立した医学博士で、歌人、俳人として知られました。
自宅がいわゆる久保サロンで、大正から昭和の初期にかけて、より江夫人と共に、福岡の文化の向上に尽くされました。
より江夫人は俳人として著名で、正岡子規(まさおかしき)や夏目漱石高浜虚子(たかはまきょし)、泉鏡花に可愛がられ、歌人の柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)や、俳人の竹下しづの女たちと親交があり、久保サロンの主でした。

本田

そして、お二人の夫婦仲がとてもいい。このシリーズで夫妻を取り上げるのは初めてですね。
写真を見ると、猪之吉博士はカイゼル髭の立派な紳士で。

和泉

代表的な明治エリートの風貌ですね。藤沢周平さんの名作、歌人の長塚節(ながつかたかし)を描いた『白き瓶(かめ)』では「鼻下のひげがいかめしい沈着な風貌をした医師」とあります。

司会

九州大学医学部の久保記念館の前にある胸像も凛として、男惚れする表情でいいですね。

和泉

これからは、敬称なしにさせていただいて。久保猪之吉は明治七年(一八七四)に、福島県二本松市に生まれています。
父の久保常安は、明治維新で幕府側の奥羽連合に加わった旧二本松藩士です。二本松藩(丹羽氏十万七百石)の武士たちは、兵力銃器が圧倒的に優勢な薩摩・長州・土佐の官軍に城を焼いてまで抗戦して、幕府三百年の恩義に報いました。

本田

博士の一族に死傷者も。

和泉

二人の叔父が戦死しています。そういう背景も、博士のバネになっているでしょう。
貧窮の中で小学校時代から頑張り屋でした。幼い弟を背中に背負い、手には教科書と、ちびた鉛筆を持って、勉強に励んでいました。
担任教師の熱心な勧めで、福島県に一校しかなかった※1福島県立尋常中学校を受験。不合格なら酒屋の丁稚奉公(でっちぼうこう)という条件だったそうです。

  • ※1 翌年中学が増設されて、二年生から現・安積(あさか)中学に名称が変更。

司会

野口英世博士を彷彿(ほうふつ)させますね。福島県生まれで、同世代で。

和泉

安積中学では成績抜群で、クラスの首席。英語、数学、国文、図画、そして体操が九十点以上の成績で、後年、理科系(医学)と文科系(短歌)の両面に活躍する片鱗を見せています。
そして旧制、第一高等学校から東京帝国大学医科大学に進み、明治三十三年(一九〇〇)十二月に卒業。翌三十四年一月に同大学耳鼻咽喉科教室の岡田和一郎教授のもとで副手、そして助手に任命されます。
明治三十六年(一九〇三)五月に、松山出身の、宮本正良の長女、十八歳のより江と結婚。そして翌六月に耳鼻咽喉学研究のためにドイツへ留学します。

本田

官費留学は、たいへんなエリートで。より江夫人も一緒に。

和泉

いいえ、単身赴任だったでしょう。そして、フライブルグ大学のグスタフ・キリアン教授に学んでいます。
教授は、直達鏡の検査や、形成手術などの医療技術を完成させた、耳鼻咽喉学界の世界的権威でした。

本田

小柄の博士は、ドイツの大男どもの中で、小人といわれていたとか。

和泉

日本の医学を担(にな)う気概にあふれた、カイゼル髭の、凛としたイノ・クボの姿は、いつも研究所にありました。
学識と研究熱心さに脱帽したドイツ人たちは、愛称イノ・クボに敬意をこめて、"ドクトル・ヘン"と呼んでいたそうです。ヘンはドイツ語で小さい、"小人の賢者"でしょうか。
後年、愉快な話があります。"イノ・クボのもとで学びたい"と、ドイツから若い研究者が九大に来ているのです。"逆留学"で、これはビッグニュースだったでしょうね。

本田

それだけ、研究すれば、いよいよ晴れの帰国ですね。

和泉

明治四十年(一九〇七)一月に三年間の研鑽を終えて帰国すると、すぐに京都帝国大学福岡医科大学(九州帝国大学の前身)の耳鼻咽喉科初代教授に任命され、医学博士になって福岡へ赴任するのです。英姿颯爽、三十三歳の新進ドクトルでした。
そして昭和十年(一九三五)の退官まで二十八年間、九大教授として研究と後進の育成にあたります。
*大学は大正八年(一九一九)四月一日に九州帝国大学医学部。昭和二十二年(一九四七)十月一日に九州大学医学部となって現在に至っています。

本田

期待も大きかったでしょう。

和泉

九州大学で耳鼻咽喉科を開設早々に、日本で初めて気管支鏡を用いて異物を摘出するのです。「九州大学に"イノ・クボ"あり」と、名声がとどろいたそうです。

司会

それにぴったりの話が、二本松市の「ふるさと人物史」にも。
自由党総裁の板垣退助(天保八年~大正八年・一八三七~一九一九)が、いつか定かでありませんが、猪之吉の診察を受けるために訪れたということです。
板垣退助は、明治維新の戊辰(ぼしん)戦争で、二本松藩を降伏させた官軍の総督府参謀で、博士の心中は複雑な想いだったでしょう。老齢で耳が遠くなっていた板垣に、

久保「この耳はもうダメだなあ。年が年だから」
板垣 大きな声で「バカを言うな。俺には昨年子供ができた。まだ若い」と突っぱねた。
久保 すかさず「それは最後に老化するところだ」
板垣「うーむ」とうなって引き上げた。

周囲から、「さすがイノ・クボ」と笑い声が起こったそうです。

医学も、短歌もパイオニア

久保博士著『鼻科学』

本田

愉快ですね。研究の方は。

和泉

耳鼻咽喉と気管食道の分野で画期的な業績を挙げています。

  • 人体内腔観察の内視鏡を導入。
  • 明治四十年(一九〇七)に、日本で初めて気管支鏡で異物を摘出。
  • 日本で初めて食道直達鏡検診。
  • 日本初の無響室を作り、聴覚の研究を開始。"音声言語障害治療科"の創設。
  • 新しい手術法の考案。鼻や耳の整形手術。平衡機能の研究。
  • 著書、『鼻科学』三巻ほか。

司会

九州大学耳鼻咽喉科の小宮山教授に貴重な、『鼻科学』を見せていただいたのですが、すらすら読めて名文ですね。「鼻科学の歴史」から始まって。
「医学の歴史は、人類の歴史と軌(き)を同じうす。殊に鼻は顔面の中央にありて、容貌を整ふるに大関係あるが故に、太古にありても、外鼻に関する治療及手術は比較的進歩したるが如(ごと)し。耶蘇(やそ)紀元前三千五百年に生息せし埃太(えじぷと)人種も、既に外鼻の矯正法を有したる事、発掘せられたる墓石の碑文によりて明らかなり(略)。

本田

文芸の素養がある医学博士だったのですね。

和泉

システム対応も早くて。
「日本耳鼻咽喉科学会」の「福岡県地方部会(後の九州地方会)」を東京、大阪と同時に明治四十二年に立ち上げ、昭和三年(一九二八)に、医学専門誌『耳鼻咽喉科』(現、「耳鼻と臨床」)を発刊して、医学徒に研究発表の場を提供しています。
この雑誌は、より江夫人が編集を手伝ったという説もあるそうです。

本田

見事な内助の功ですね(笑)。博士の名声を慕って、患者も次々に…。

和泉

九大病院は権威ある教授たちの診療が受けられるので、国内はもとより、アジアの各地から患者のラッシュでした。その人たちのために、門前町ならぬ"院前ホテル"や旅館が大繁盛だったようです。

本田

そして、惜しまれて。

和泉

昭和十年二月に大学を定年で退職して、東京に帰り聖路加(せいろか)病院顧問に就任しています。
還暦を迎え退官をひかえての一句。
 わが生の行路新(あら)たなり草紅葉(くさもみじ)

それに和して夫人が
 ふりかえる路幾すぢや草紅葉

来(こ)し方を振りかえっての身にしみる句ですね。
そして、猪之吉博士は昭和十四年(一九三九)十一月十二日東京麻布の自宅で病没。享年六十四歳で、東京の青山墓地に葬られています。
より江夫人は二年おくれて、十六年五月十一日に五十七歳で亡くなっています。

久保記念館

本田

博士を偲ぶよすがは、

和泉

九州大学医学部の正門を入って、すぐ左の道の名称が「久保通り」で、新設された「医学部百周年記念講堂」の手前に、博士の門下生の寄金で昭和二年四月に設置された「久保記念館」があります。
前に博士の胸像と、そばの駐車場の奥の方に歌碑があります。若き日に留学したドイツで詠んだ歌です。
 霧ふかき南独逸(どいつ)の朝の窓
 おぼろにうつれ故郷の山

本田

博士は、いまも九州大学に生き続けて…。

和泉

記念館は、博士が日本で最初に使った内視鏡や、ドイツから持ち帰った医療器具と貴重な学術書。前野良沢(まえのりょうたく)と杉田玄白(すぎたげんぱく)が翻訳した『解体新書』。そして、創設以来の診療記録、各種標本が展示され、日本では他に例のない耳鼻咽喉科の「博物館」となっています。
内視鏡はNHKの人気番組「日本人の質問」に登場した、咽喉学会のお宝なのだそうです。

司会

その久保記念館が、この春リフレッシュされて、設立当時のままに新鮮に蘇っています。
九大医学部も、今は博士の孫弟子か曾孫弟子の世代ですね。先人を大切に、素晴らしいですね。

和泉

イノ・クボを迎えられたかどうかで、九州大学の医学部の充実、そして福岡の文化水準が、十年ぐらいは違っていたと思います。

本田

福岡に九州大学と、旧制・福岡高等学校ができて、当代一流の知識を福岡に迎えられたのです。誘致に尽力した先人たちの先見の確かさを今さらに思いますね。

文化人 猪之吉 -出勤は人力車で-

司会

博士は、傑出した医師で歌人で。時代に必要な人には、天は二物を与えるのですね。

和泉

猪之吉の文化面をたどると足跡の見事さに驚かされます。まず最初が短歌で、明治の国文学者で短歌革新の先駆者で知られる落合直文(おちあいなおふみ)に師事してます。そして、尾上柴舟(おのえさいしゅう)や中学で同級の服部躬治(はっとりもとはる)らと、和歌革新の「いかづち会」を結成して、その綱領の筆をとります。
 いもうとは軒(のき)の葡萄(ぶどう)を指さして
 熟せむ日までとどまれといふ

この歌が、与謝野晶子(よさのあきこ)に新しい歌への希望を与えたと言われます。
東大生の猪之吉が、歌壇の大家たちと渡り合い、正岡子規の根岸短歌会や、与謝野鉄幹(よさのてっかん)らの新詩社結成に刺激を与えたと言われるほどで、猪之吉の先駆性を物語っています。
すべては学生時代の活躍で、それから歌壇の表面からゆるやかに身を引いて、医学に専念するのです。
本業の医学で輝く事跡を挙げているし、俳句も、大正十一年に上京したとき、宴席で即詠した
 煽風機に卓上の花の萎(な)え易(やす)

が、高浜虚子の耳に入って、『ホトトギス』の雑詠欄に載(の)せられるのです。
より江夫人の影響で、大正末年から、「ゐの吉」の雅号で虚子に師事し昭和五年までに『ホトトギス』に約百三十首掲載されているそうです。

本田

句集があるのですね。

和泉

唯一の句集『春潮集』で、昭和七年に、耳鼻咽喉科開設満二十五周年を記念して、七百句を自選しています。
前書きに「妻に勧められて俳句を始めた。感謝して妻に捧げる」とあります。
 ダリア切って器(うつわ)ちいさき恨(うらみ)かな

亡くなる前年の句
 紅梅の枝むきむきに日を吸へる

もいいですね。
蝶や高山植物の研究家としても著名です。日本のチョウ・ガ(鱗翅)標本の基礎をつくった一人と評価されています。
 食堂の花襲ひ来し山の蝶

本田

何をやらせても、一流の人だったのですね。研究や手術の合間に一句。風流ですね。
夫妻の日常は、優雅だったらしいですね。

和泉

明治から大正にかけての帝国大学教授は、社会の尊敬に値する日常が保証されていたのです。
立派な家に住み、二、三人の女中さんがいて、サラリーも市長さんの給料ぐらいあったんでしょう。
毎年夏は雲仙の九州ホテルに避暑して、ゴルフも楽しんだよう。クラブも、本場のセントアンドリュースで揃えています。
福岡日日新聞のマイクロフィルムを見ていましたら、当時評判だった「公人・私人」という消息欄に、「久保教授夫妻は明日から雲仙、九州ホテルに」と載っている(笑)。

本田

ふるきよき時代でしたね。大学へは。

和泉

自宅の赤坂門から学校の箱崎まで人力車でした。
幌(ほろ)をつけた車の中で、猪之吉教授は俳人の「ゐの吉」になって、ひたすら句作に没頭していたのです。

本田

時間もゆっくり流れていたのでしょう。

和泉

それでも、結構忙しかったようですよ。
博士は、文芸に明るく、社会現象にも関心があってスタンスも広かった。新聞記者には、談話を取りやすい気安い教授だったでしょう。
森鴎外(もりおうがい)が亡くなったとき、猪之吉が福岡日日新聞に追悼文を載せています。博士の令名は、文学の世界でよく知られていたのでしょうね。

司会

俳人の竹下しづの女も、より江夫人をよく訪ねていたそうで。

和泉

それで、面白い話が。
虚子が主宰する『ホトトギス』の巻頭句に選ばれたしづの女の句が、
 短夜(みぢかよ)や乳(ち)ぜり泣く児(こ)を須可捨焉乎(すてつちまおか)

育児と家事に追われながら芸術性を求めた、中産階級の女性たちの叫びが、俳壇を沸(わ)かせました。
その彼女が幼な子を連れて久保邸を訪ねたとき、ピアノがあり、公園でしか見られないブランコが庭にあって。あまりの暮らしの水準の相違に仰天(ぎょうてん)するんですね。
それで、自分もこの子を九州帝国大学に進ませて、教授にするんだと内心に思う。そして、後年、その夢が実現するのです(笑)。

本田

句にふさわしいなあ(笑)。著名な患者も次々に…。

和泉

大正五年に、袁世凱(えんせいがい)打倒に貢献した中華民国(当時)の蔡鍔(さいがく)将軍が来日して診察を仰いでいます。
七年には、べストセラー『出家とその弟子』の著者、倉田百三(くらたひゃくぞう)も。

本田

九州帝大教授のイノ・クボの名は、アジアで一番高名な耳鼻咽喉科のドクトルだったのですね。

漱石の招待状を持って長塚 節が

歌人 長塚 節

司会

そうして、長塚 節(ながつかたかし)(明治十二年四月三日~大正四年二月八日・一八七九~一九一五)が現れるのですね。

和泉

歌人猪之吉を語るにふさわしい客人の来訪でした。
明治四十五年四月二十四日。喉頭(こうとう)結核にかかったアララギ派の歌人の節(たかし)が、夏目漱石の紹介状を持参して、九州大学耳鼻咽喉科に、猪之吉博士を訪ねて診断を仰ぐのです。
漱石が松山時代に、より江夫人の母の実家に下宿していた縁から、節を猪之吉に紹介したのです。
そのへんの情景は藤沢周平さんの名作『白き瓶』で汲(く)み取れますね。

長塚 節の書

本田

漱石との関係は。

和泉

長塚節は茨城県岡田村の大地主の長男ですが、家運が傾く中で正岡子規の門に入って短歌を学び、写生文や小説も発表していました。
それが、朝日新聞に招聘(しょうへい)されていた夏目漱石の目にとまったのです。
「小説欄に新人を」が持論だった漱石の推薦で、明治四十三年(一九一〇)六月から節の名作『土』が朝日新聞に百五十一回にわたって連載されるのです。

司会

漱石の小説、『門』に続いて、プロレタリア文学の走りのような『土』が。当時の一般読者になじんだのですか。

和泉

『土』のあらましは、女房に先立たれ、二人の子供と老父をかかえた勘次が、小作料にあえぎながら、家族の生活を守るために、田畑仕事の合間に利根川の工事の人夫となる。北関東の自然を背景に、貧しい小作百姓の生活を克明に描いた作品です。
新聞社はいい顔をしなかったそうですが、農村文学の嚆矢(こうし)となった傑作で、節の名を高めました。
その長塚節が、当時では不治の難病だった肺結核に侵され、喉頭結核まで進んでいる。

本田

漱石は節をなんとかして助けたい。そこで、咽喉科の権威で、より江の主人である猪之吉がひらめいたのですね。

和泉

節は猪之吉の診断を受けたのち、西国から奈良、京都を五か月巡遊して帰郷。翌大正二年三月、二回目の診察を受け、出雲を旅して帰郷。翌大正三年六月に九大病院に入院、八月退院して日向、青島を旅。九月に帰福して、東公園平野屋旅館から大学病院に通い、博士の診療を受けます。
そして大正四年一月に再入院。官費入院は猪之吉の気づかいでした。看護婦さんが挿(さ)してくれた花を見て
 牛の乳をのみてほしたる罎(びん)ならで
 挿すものもなき撫子(なでしこ)の花

そして、二月八日に、久保博士と主治医の曽田共助らに看取(みと)られながら亡くなりました。享年三十七歳。夭折(ようせつ)の天才歌人でした。
入院から逝去のぎりぎりまで、「アララギ」に「鍼(はり)の如(ごと)く(一~五)」を連載しています。
そのひとつがよく知られている
 白銀(しろがね)の鍼打つごとききりぎりす
 幾夜はへなば涼しかるらむ

観世音寺の歌碑になっている絶唱も。
 手を当(あ)てて鐘はたふとき冷たさに
 爪叩(つまたた)き聴(き)く其(そ)のかそけきを

司会

ストレプトマイシンで、結核が治癒されるようになるのは、まだ四十年ぐらい先のことで…。

和泉

当時の喉頭結核の治療は、喉頭の患部を焼灼していたそうで痛々しいですね。
節は、「日本一の先生に治療していただいて幸せだ」と言っています。より江を、姉とも母とも慕っていたようで、より江に宛(あ)てた約百枚の胸を打つ葉書が残っています。

博多の文学サロン 久保邸

本田

二人はとても仲のいい夫妻で、人や団体の世話をよくしておられた。"久保サロン"もその一環だったのですね。福岡の文学サロンだったと言われる久保邸は、どこら辺だったので。

和泉

東公園の近くから、大正六年に、赤坂門の今の新しい読売新聞社ビルのところに越してからです。
敷地五百八十四坪で、赤煉瓦の塀に囲まれ、木が茂っている大きな屋敷でした。
近くに筑豊の石炭王といわれた※1伊藤伝右衛門(でんえもん)の屋敷がありました。伝右衛門夫人の白蓮((火ヘンに華)子(あきこ))とより江は親しくて便利だったでしょう。
サロンといえば上流階級の社交場を連想しますが、夫妻は文学青年たちを隔(へだ)てなく迎えていたようです。
子供がいないこともあって、行儀見習いの若い女中さんを、とても可愛がっています。

  • ※1 この頃の伊藤邸は、世に言う赤銅(あかがね)御殿でなく、以前の邸。

司会

同人誌『九州文学』の原田種夫さんが山田牙城(がじょう)さんと、久保邸を訪ねて、猪之吉博士が支援した文芸誌の『エニグマ』の第一号を見せてもらった時の、感激を伺ったことがありました。
冬の寒い日で、庭のバラが見事だったそうです。立派なティーカップで、コーヒーか紅茶をいただき、九州日報編集長で詩人だった加藤介春が言う「お菓子のように美しい人」に歓待されて、文学青年たちはぽや~んとなって、さぞ感激したのでしょうね。

本田

そのころは、まだ、文学が上流社会のものという認識が一般で。

和泉

帝大教授がホスト役という香りがなんとも言えなくて。地域の文化が萌(も)えはじめたころだったのですね。
原田種夫さんらは、それを踏み越えて、次の新しい地方文化の旗手になっていく。九州文学の、夜明けの時代だったのですね。

司会

そのころ、中央からの文化人も、久保サロンへしきりに。

和泉

高浜虚子が福岡へ来ると、久保邸に泊まっていました。
より江が「明日、虚子先生が見えるわよ」と言うことで、福岡の俳句愛好の人たちが久保邸に集まります。
俳人たちにとって、虚子は神様のような存在ですから、虚子がくつろぐ久保邸はキラキラの文化サロンだったでしょう。

本田

旧制福高の名物教授だった秋山六郎兵衛(ろくろべい)さんとは。

和泉

福岡高校ができたのは大正十一年で、秋山さんの活躍は昭和に入ってから。対象も大学生と旧制の高校生で、すれ違いのままですね。

司会

東中洲の中洲大橋のたもとにあった喫茶店のブラジレイロが、文学青年のたまり場でしたが。

和泉

ブラジレイロができたのは昭和九年です。猪之吉はすでに高齢で接点は薄いですね。

本田

夫妻とも、体はあまり丈夫ではなかったのでしょう。

和泉

福岡市総合図書館が所蔵しているより江書簡を見ると、「旦那も具合が悪くて寝ています」とか、「病弱で私は社交家ではない」と書いています。
でも来客は多かったようで、地域の文化サロンとして、博士夫妻のホスト、ホステスの役目もなかなか大変だったでしょう。

より江夫人の文学と作品

後列左より尾上 柴舟 与謝野 寛 金子 薫園 斉藤 茂吉 佐佐木 信網 久保 猪之吉
与謝野 晶子 小池 重

本田

それでは、猪之吉博士を、立派に支えられたより江夫人を。

和泉

より江(明治十七年~昭和十六年・一八八四~一九四一)は、旧姓宮本で、猪之吉より十歳下。松山市で生まれました。
少女時代は、父親の仕事の関係で、母の実家の上野家に住んでいました。
上野家の離れに、松山中学で英語を教えていた夏目漱石が下宿し、日清戦争で従軍記者だった正岡子規(まさおかしき)が病気で帰国して転がり込んでいました。
より江は、上野家の孫娘で、当時十二歳。ときどき従姉と共に、漱石の部屋で行われていた俳句会に出ていました。小さい筆を持って、端(はし)っこに座っていたそうで可愛い風景ですね。
小学校の先生も常連で「今日は忙しいから出席できない」といった伝言もよく引き受けていたそうです。
漱石が熊本の第五高等学校教授となって松山を去るとき、横地松山中学校長と、俳人の村上霽月(むらかみせいげつ)とより江が、三津浜(みつはま)港で漱石の船を見送っています。

本田

少女時代の漱石との縁が、それから終生続くのですね。

和泉

明治三十二年(一八九九)上京し府立第二高等女学校に入ります。明治三十六年に漱石がロンドンから帰ってくると、千駄木(せんだぎ)の夏目邸を訪ねていたようです。
漱石はイギリス留学から帰国して作家として活動していました。漱石に可愛がられ、有名な人たちの風貌にも接しています。

本田

女学校を卒業して、すぐに渡欧前の猪之吉博士と結婚ですね。

和泉

当時はそれが普通だったのですね。博士が帰国して夫妻で福岡へ来られる。それから本篇の活躍が始まるのです。
大正七年ごろから俳誌『木犀』の選者、清原枴堂(きよはらかいどう)と『天の川』の吉岡禅寺洞(よしおかぜんじどう)に師事して本格的に作句を始め、高浜虚子の門に入り、『ホトトギス』の同人になります。

本田

若い時の写真を見ると、より江夫人はふっくらと、可愛い感じの方ですね。夫人が、自分の句誌を主宰するようなことは。

和泉

恵まれた環境で、おとなしい性格だったから、文芸で自分を主張する気持ちはなかったようです。
でも手紙などを読むと、かなり気が強い面がうかがえて(笑)。文化サロンのホステスとして、申し分ないしっかり夫人ではあったようです。

本田

より江夫人の句風は。

和泉

教授夫人で恵まれた静かな日常でしたから、句はお嬢様か奥様風の作風で、久女のように人生の襖脳(おうのう)には遠いのです。
でも『より江句文集』を見ると、今でも通用する、感覚の新しい俳句が多い。恵まれた日常からの柔らかな幸福感が彼女の特徴ですね。
 土手につく花見づかれの片手かな
 (たもと)より比叡の薊(あざみ)や旅ころも
 猫の子のもらはれていく袂(たもと)かな
 (うたげ)果てて※1まかるひとりに薔薇(ばら)の雨

  • ※1 まかるー退出する

俳句だけでなく、歌もこなしましたが、句文集や随筆集『嫁ぬすみ』に見られように、優れていたのは、多分、彼女の文章だったでしょう。
虚子も、なんとなく、文章でと勧めていたようですね。

本田

では、夫妻の評価は。

和泉

昭和四年(一九二九)に改造社からでた『現代日本文学全集』の三十八巻の「現代短歌集/現代俳句」集」に、猪之吉は短歌、より江は俳句で、夫妻が取り上げられています。
福岡の人たちは、改めてサロンの主に脱帽したことでしょう。
登場している俳句の女流は、長谷川かな女本田あふひ杉田久女、そして久保より江の四人です。最初に評価されたのは短歌の猪之吉でしたが、より江の俳句のほうが声価が高いようですね。
大岡 信(おおおかまこと)さんの「折々の歌」により江の句が取り上げられています。
ねこに来る賀状や猫の※2くすしより

  • ※2 くすしー医師

白蓮夫人としづの女

本田

歌人として知られた柳原白蓮が、すぐそばの伊藤伝右衛門屋敷の夫人だったのですね。のちに世間をあっと言わせた世紀の恋のヒロインです。

和泉

筑豊炭田の石炭王といわれた伊藤伝右衛門はひとかどの人物でしたが、炭鉱一筋の風雲児だけに、歌や文学の話し相手ではない。
だから、より江や文学仲間と、話が合ったのですね。

和泉

林真理子さんの『白蓮れんれん』で、白蓮が、うちの主人は無学ですからと、より江に話すところがありますが、実際に「ご主人が文学に理解があって、あなたは羨ましい」と言っていたそうです。

司会

小説に、久保夫妻がよく出てきますが、白蓮の夫妻への視線がちょっとクールで、どうも(笑)。

和泉

文学仲間にもう一人、野田もえ子さんが。ご主人が鉱務関係のお偉い方で、筑豊炭田をひかえて、たいそう権勢のある方だったらしい。
三人は傾秀(けいしゅう)夫人として博多で評判だったのです。
そのころ、白蓮が、皆を驚かすことになるからと、より江に話していたそうです。世間を騒がせた宮崎竜介との"世紀の恋"が進行中で、やがて白蓮と伊藤伝右衛門の仲は破綻(はたん)となります。
俳句で知り合った杉田久女も、主人の宇内(うない)さんと葛藤(かっとう)があったようだし、虚子からは「ホトトギス」同人を除名される。久女が猪之吉の句集『春潮集』の披露か、送別会に招かれて、とても羨ましがったと書きのこしています。。

司会

もうひとりの、俳句の竹下しづの女とは。

和泉

彼女とふれあって、より江は、ほっとしたのでは。いっそう俳句にのめりこんでいくのです。
それを裏付ける、しづの女宛てのたくさんの書簡や葉書が、遺族から福岡市総合図書館に寄贈されています。

北九州市の文化サロン 曽田公孫樹邸

若き日の曽田公孫樹

司会

福岡の久保夫妻の邸(やしき)のように、北九州の文化サロンだったのが曽田共助(公孫樹・明治十八年~昭和三十八年・一八八五~一九六三)さんの邸(やしき)ですね。
高浜虚子が九州吟行で、北九州小倉にある橋本豊次郎・多佳子夫妻櫨山荘(ろざんそう)に招かれたとき、曽田共助さんが地元の文化人代表の役割で迎えています。

和泉

曽田共助は、久保猪之吉の教え子で、九大医学部の耳鼻咽喉科で猪之吉の助手をしながら、長塚節の主治医を務めました。
小倉で評判の病院を開きましたがかたわら北九州の文化サロンの役目を果たしていました。

本田

松本清張さんの芥川賞受賞作『或る「小倉日記」伝』に登場する医師白川慶一郎のモデルになっている人物ですね。

和泉

白川医師は、三万冊に及ぶ蔵書の整理を口実に、不自由な体で小倉時代の森外の研究をしている主人公の田上耕作を支援するのです。

本田

曽田病院は小倉駅のすぐ近くの堺町で、評判の、大きい病院だったそうですね。

和泉

曽田は明治十八年十月二十日に、新潟県柏崎で出生。柏崎中学、仙台の旧制第二高等学校をへて、九州大学で、耳鼻咽喉科の久保猪之吉教授に師事しています。
文芸雑誌『エニグマ』の編集にかかわり、歌人で名作『土』の作者だった長塚節の主治医となって、猪之吉と共に臨終を看取っています。
大正五年に小倉市立病院の耳鼻咽喉科開設に当(あ)たりますが、これが北九州の人になるきっかけでした。
大正八年に堺町に曽田耳鼻咽喉科医院を開業、名医として評判で、北九州を代表する病院でした。

本田

当時は、地域の文化のリーダーを、お医者さんが担(にな)っていたのですね。

和泉

人格、教養、地位で身近なお医者さんが、いちばん信頼できたし、パトロン的存在で(笑)。

本田

ご活躍は…、

和泉

柳田国男の民俗学に傾倒していて、旧豊前(ぶぜん)地区の民俗芸能、伝説、伝承などの研究と支援に力を注ぎ、俳号公孫樹で俳句にいそしみました。
地元の文化に目をつけようと、昭和八年ごろ「小倉郷土会」が生まれ、曽田は会長になって会員たちの研究や発表を支援しています。
北九州市立大学の設立推進にあたり、北九州の文化の向上に、多方面にわたって尽くしました。

司会

「廿一(にいち)会」は。

和泉

森鴎外(もりおうがい)が、明治三十五年三月二十六日に小倉を去りますが、二十一日に行われた送別会の席で、せっかく芽生えた文化の灯を消さないようにと言われ、その鴎外の声に応えて、その日を記念して「廿一会」が誕生したのだそうです。
公孫樹は、森鴎外の遺跡保存にも尽力しています。

初めての文芸誌 エニグマ

エニグマ

司会

博士が出された文芸雑誌『エニグマ』は、幻の同人誌ですね。

和泉

大正二年(一九一三)に、多分、福岡で最初に出た文芸雑誌ですが、今はほとんど残っていない。
猪之吉が、スポンサー兼発行責任者でした。

司会

以前に劉 寒吉(りゅうかんきち)さんらと『九州文学』を起こされた原田種夫さんから、当時の文学青年がこの雑誌にふれていかに発奮したか、いかに羨望の的であったかということを、実感込めて伺いました。
原田さんによれば、題名の※1エニグマは、英語で「謎」ということでしたが。

  • ※1 エニグマはラテン語からの言葉で、英語はENIGMA、謎、不可思議の意。AN ENIGMAが慣用。

和泉

非常にハイカラで、いかにも九州帝国大学の先生がつくっている雑誌という雰囲気ですね。
初号は大正二年二月に発行。表紙は石刷りのエジプト王妃像で日本で最初に紹介されたものでした。
発行に参画した曽田共助の述懐では二年ぐらいの間に十五、六号を発行したそうで、大正四年一月号まで確認できます。

本田

ほぼ月刊誌で。博士やお弟子さんたちで、よく発行できましたね。

和泉

頼りになる助っ人がいたのです。弱冠二十七歳で九州日報の編集長になった加藤介春(かいしゅん)で、シェークスピアの翻訳で名高い坪内逍遙(つぼうちしょうよう)の推薦でした。
猪之吉は介春と親交を結んでいて二人の顔の広さで、詩人の相馬御風(そうまぎょふう)、川路柳紅(かわじりゅうこう)、歌人の若山牧水(わかやまぼくすい)、柳原白蓮、紙塑(しそ)人形作家で歌人だった鹿児島寿蔵(かごしまじゅぞう)らといった錚々(そうそう)たる連中を寄稿者に迎えたのです。
地元の福岡日日、九州日報の記者の投稿もあり、グローバルな感覚で文学同人誌のレベルをはるかに越えて、まさに新風。ハイカラな文学誌の登場でした。
巻頭は猪之吉博士の論文で「詩人サールス」、加藤介春の詩、若山牧水の歌、より江も「鸚鵡姫(おうむひめ)」と題した歌、医学面では、フロイトの学説「未婚婦人の夢」ほかの心理学の論文。歴史面では「九州史研究の必要及びその方法」や「博多湾の研究」があり、福岡に来演した、松井須磨子(まついすまこ)の評判まで。

本田

いや、多彩ですね。

和泉

ユニークで資料的価値があるのは、精神科の榊 保三郎(さかきほさぶろう)教授を中心に結成された九州大学フィルハーモニーの音楽会の記事が載(の)っています。九大フィルの記事では最も古いでしょうね。

本田

まさに、これぞ文化、これぞ文芸で(笑)。

和泉

若山牧水などと同じ雑誌に掲載されることは、寄稿の同人には何よりの励みだったでしょう。
約百ページで、医学関係者以外の執筆が約半数を占めていました。ぎらぎらした、真剣そのものの同人誌とはまた別段のゆとりでしたね。

本田

発行のそもそもの発端は。

和泉

曽田共助が書き残したものによれば、「医学部の学生が、自分たちで文学同人誌をつくろうとなって、何時とはなしに文学に対しなみなみならぬ関心を示し、中央にも連(つなが)りのあった少壮の久保先生並(なら)びに夫人がこのグループの核心になっておられる様(よう)に感じ、又(また)実際中心になって頂いたのであるが誇りに感じていた」「東公園のおすまいの頃であるから随分久しいことである」とあります。

司会

年譜を見れば博士が三十八歳のころ、また長塚節を診ていたころですね。『エニグマ』は福岡市総合図書館で見られるのですか。

和泉

それが現物は、日本近代文学館にある一巻二号(大正二年三月一〇発行)と小郡市の「野田宇太郎文学資料館」にある一巻十二号(大正二年十二月一五発行)の二冊だけなのです。
福岡市総合図書館にあるのは、創刊号から終号とされている大正四年一月までのコピーの綴本ですが、欠ページや欠号があり、最終号も終刊の記事がないので疑問です。
大正五年二月に創刊されている文芸誌『みなと』は、より江や『エニグマ』の執筆者が多数参加しています。『エニグマ』が『みなと』にバトンタッチして、消えたのではないでしょうか。

本田

惜しいですね。

和泉

猪之吉ら編集陣が、豊かな階層の医師たちで、自分たちで読んで満足していて、売り込みや宣伝には関心がなかったのでしょうね。

本田

それだけに、純粋だったのでは。ぜひ探し出して、市の図書館に全冊そろえてほしいですね。

司会

でも愉快なことがあって。久保博士が ※2プラーグ(プラハ)の産婦人科医で、詩人として知られていた「詩人サールス」という論文を載せているのですが、これが後の「ベルリン日報」(Berliwner Tagesblatt)に紹介され曽田さんの回想では、「その文中で、『エニグマ』は、日本の大文学雑誌の一つとして紹介されていて、私たちを当惑さした」とあります(笑)。

  • ※2 プラーグ(プラハ)ー久保の論文や曽田の回想では、「オーストリア、プラーグの詩人カサールス」とある、一九一八年、第一次大戦の終結によりオーストリア・ハンガリー帝国からチェコスロヴァキア共和国が独立したので、プラハはチェコスロヴァキアの首都となった。

和泉

愉快な話ですね。
原田種夫や山田牙城らは、一昔前の先輩たちの快挙に目を見張ったのでしょう。
『エニグマ』は、『九州文学』を含めて、後年の文学活動の淵流のひとつでもあったと言えるのではないでしょうか。

司会

原田さんに伺いましたが、「エニグマ」に次ぐ文芸誌「みなと」の創刊号の巻頭に、イノ・クボ博士の歌、
 大天地(おおあまつち)春の光にみちぬらし
 生あるものは皆よみがえれ

があるそうです。博士の生涯をいろどった前向きの姿勢がうかがえて凛々としたいい歌ですね。
福岡と北九州に、医学と文学のあけぼのをもたらした先達たちは、地域の文化を育てた、爽やかな文学サロンの主でした。
興味あるお話をありがとうございました。

曽田共助さんは 言葉が少なかったが北九州に大きな種を蒔(ま)かれました。

曽田 共助 博士

曽田共助さんは、旧小倉市が、大正五年に、市立病院に耳鼻咽喉科を開設することになって、九州大学医学部から迎えたお医者さんです。
この分野で、日本一の権威だった有名な久保猪之吉博士のもとで、医学と共に文芸の薫陶も受けられた、名実ともに立派なドクターが小倉に舞い降りられたのです。
三年後に堺町に開院されましたがたいへんな評判で、日豊線の一番列車には、曽田病院行きの患者がいつも見られたそうです。
病院のすぐそばの、のちに日産コンチェルンを起こした鮎川義介さんの住宅を譲り受けて、居宅とされましたが、ここに文化人たちや各界の人たちが集まるようになって、小倉の文化サロンの趣でした。
うずもれている地域の伝統や、歴史や文化を掘り起こそうと、昭和八年に小倉郷土会をつくられ、機関紙『豊前(ぶぜん)によって貴重な文化遺産に灯をあてられました。
戦争で休眠状態でしたが、昭和二十七年の市制五十周年のとき、復活の提議があって、機関紙も「記録」と改題されて今日に至っています。
今は、曽田さんに「君、民俗学をやりたまえよ」と勧められた私が、世話人を引き受けています。
寡黙な方で、自分を語られることはまったくありませんでした。だがぽつんぽつんと口に出されることが示唆に富んでいて、周囲が傾聴していたのです。
そうして郷土会の人たちに、生きがいとなる仕事を蒔かれ、そして、実によくサポートされるのでした。

談「小倉郷土会」
世話人
馬渡 博親 氏

亡くなられて約四十年ですが、北九州に貴重な遺産をたくさん残されています。
門司新報は西日本で最初の輪転機印刷で、ハイカラだった門司を象徴する新聞でした。昭和十二年の終刊まで、四十一年間の綴じ込みを、翌年、当時の五百円で購入し、小倉記念図書館に寄贈されていました。
「あれ調べてみたら」と、神崎義夫さんにぽつんと言われたのです。
そうして眠っていた門司新報が「小倉経済年表」となって実を結びました。
幕末の激動期に、地方の庄屋の対応が見事に記された「中原嘉左右文書(県文化財)」が、曽田さんの示唆で現代に蘇りました。
米津三郎さんがまとめられた十二巻の『中原嘉左右日記』は労作で、西日本文化協会創立五十周年記念事業として発行されました。
小倉外事専門学校を母体にして、今日の北九州市立大学の創立に尽くされた功績は大きいですね。
柳田国男の民俗学に関心があって「島めぐりをやってみれば、おもしろいよ」、などなど。奇抜な発想に重みがついていました。
俳号は公孫樹で、横山白虹さんが主宰していた俳誌「自鳴鐘」が戦前の統制で発行できなくなると(現在復刊)曽田邸で一緒に「良夜句会」を催されました。
恩師の久保猪之吉博士の旧邸で詠んだ百日供養の句が

 (すが)しきままに
 春めけり あるがまま

絶筆が、ふるさと新潟の風景で

 雪の佐渡(さど)
 夕やけつつ海荒るる

軽い脳溢血で、晩年は医療を休止しておられましたが、郷土会の例会は枕頭で続けられていました。
郷土会長以外の肩書きはいっさいなく、文化の陰の支援に徹せられた清々しいご生涯でした。