博多と北九州の文化サロン
(博多の久保猪之吉・より江夫妻と北九州の曽田共助)

曽田共助さんは 言葉が少なかったが北九州に大きな種を蒔(ま)かれました。

曽田 共助 博士

曽田共助さんは、旧小倉市が、大正五年に、市立病院に耳鼻咽喉科を開設することになって、九州大学医学部から迎えたお医者さんです。
この分野で、日本一の権威だった有名な久保猪之吉博士のもとで、医学と共に文芸の薫陶も受けられた、名実ともに立派なドクターが小倉に舞い降りられたのです。
三年後に堺町に開院されましたがたいへんな評判で、日豊線の一番列車には、曽田病院行きの患者がいつも見られたそうです。
病院のすぐそばの、のちに日産コンチェルンを起こした鮎川義介さんの住宅を譲り受けて、居宅とされましたが、ここに文化人たちや各界の人たちが集まるようになって、小倉の文化サロンの趣でした。
うずもれている地域の伝統や、歴史や文化を掘り起こそうと、昭和八年に小倉郷土会をつくられ、機関紙『豊前(ぶぜん)によって貴重な文化遺産に灯をあてられました。
戦争で休眠状態でしたが、昭和二十七年の市制五十周年のとき、復活の提議があって、機関紙も「記録」と改題されて今日に至っています。
今は、曽田さんに「君、民俗学をやりたまえよ」と勧められた私が、世話人を引き受けています。
寡黙な方で、自分を語られることはまったくありませんでした。だがぽつんぽつんと口に出されることが示唆に富んでいて、周囲が傾聴していたのです。
そうして郷土会の人たちに、生きがいとなる仕事を蒔かれ、そして、実によくサポートされるのでした。

談「小倉郷土会」
世話人
馬渡 博親 氏

亡くなられて約四十年ですが、北九州に貴重な遺産をたくさん残されています。
門司新報は西日本で最初の輪転機印刷で、ハイカラだった門司を象徴する新聞でした。昭和十二年の終刊まで、四十一年間の綴じ込みを、翌年、当時の五百円で購入し、小倉記念図書館に寄贈されていました。
「あれ調べてみたら」と、神崎義夫さんにぽつんと言われたのです。
そうして眠っていた門司新報が「小倉経済年表」となって実を結びました。
幕末の激動期に、地方の庄屋の対応が見事に記された「中原嘉左右文書(県文化財)」が、曽田さんの示唆で現代に蘇りました。
米津三郎さんがまとめられた十二巻の『中原嘉左右日記』は労作で、西日本文化協会創立五十周年記念事業として発行されました。
小倉外事専門学校を母体にして、今日の北九州市立大学の創立に尽くされた功績は大きいですね。
柳田国男の民俗学に関心があって「島めぐりをやってみれば、おもしろいよ」、などなど。奇抜な発想に重みがついていました。
俳号は公孫樹で、横山白虹さんが主宰していた俳誌「自鳴鐘」が戦前の統制で発行できなくなると(現在復刊)曽田邸で一緒に「良夜句会」を催されました。
恩師の久保猪之吉博士の旧邸で詠んだ百日供養の句が

 (すが)しきままに
 春めけり あるがまま

絶筆が、ふるさと新潟の風景で

 雪の佐渡(さど)
 夕やけつつ海荒るる

軽い脳溢血で、晩年は医療を休止しておられましたが、郷土会の例会は枕頭で続けられていました。
郷土会長以外の肩書きはいっさいなく、文化の陰の支援に徹せられた清々しいご生涯でした。