No.74 幕末の〝博多っ子″稲光弥平 橋づくりと、陸奥(みちのく)/ひとり旅日記

対談:平成16年3月

司会・構成:土居 善胤


お話:
夜須(やす)町図書館長・博多文化研究家 稲光 勇雄氏
聞き手:
福岡シティ銀行 専務取締役 藤本 宏文

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


稲光弥平の時代

はじめに 風流人稲光弥平

司会

福岡市を、東西に分かって流れているのが那珂川ですね。
約150年前の幕末のころ、春吉の豪農、稲光弥平(いなみつやへい)さん[享和3年(1803)~明治6年(1873)]が、川のまん中に人工島をつくって。洪水でも流されない住吉橋を架けたのですね。

稲光

当時は洪水のたびに、住吉神社のある住吉と、西の春吉をつなぐ住吉橋、俗にいう〝お住吉さま参宮橋″が流されて、住民がたいへん困っていました。
それで弥平は、川のまん中に島を作れば、流れが二分されて、水勢を和らげられるし、橋脚がしっかりして、洪水でも橋が流れないだろうと考えたのです。

藤本

まん中に島をつくれば、背の高い橋が架けられて、流木もひっかかりませんね。

稲光

水勢を抑えるので、水かさは、増えたかもしれない。でも水はすぐ引くので、橋が守られた効果の方が大きいのですね。

司会

ところで、先生は弥平さんとご同姓ですが、ご一族で。

稲光

いいえ。でも、私の家も、春吉に住んでいましたから、遠祖は多分同じでしょうが、近世では無縁ですから、今日は公正に(笑)。

藤本

弥平さんは私財をなげうって。ハラのある人だったのですね。

稲光

春吉の豪農で大地主。藩の御用金(ごようきん)にもかかわっていました。

  • 御用金 藩の財政窮乏を補うために供出する金。

藩の公用で江戸や上方(かみがた)(京都・大坂)へも上(のぼ)っていたようで、見識が広く俳句の松尾芭蕉(ばしょう)[正保元年(1644)~元禄7年(1694)]に傾倒した風流人で、公共心の厚い人だったようです。
周辺や小作の人たちへ用立てていましたが、生活の苦しい人には、期限を延ばしたり金利を免除したりして、〝稲光銀(いなみつがね)″と評判でした。

藤本

弥平さんは代々の豪農だったのですか。

稲光

先祖は鞍手郡(くらてぐん)の稲光村のようですが、いつごろ博多へ出てきたのかよく分かりません。
身代は、彼の一代で築いたようで並みの人ではなかったのですね。

藤本

その弥平さんが、当時では晩年の58歳の時に、はるばると陸奥(みちのく)まで〝松島紀行ひとり旅″をしているのですね。

  • 以下、年齢は数え年。

稲光

その旅日記『松島道の記』が残っています。
行程は約4千キロ。瀬戸内(せとうち)は船ですが、それからは、ひたすら歩いて80余日のひとり旅。その見聞がとても面白いんです。

司会

発想が奇抜で志が高い。幕末の博多には、桁はずれなボランティアの先駆者がいたのですね。

その1 那珂川に、人工島。 自費で、「住吉橋」寄進。

那珂川の橋

司会

では、弥平さんが造った、人工島と住吉橋のお話から。

稲光

当時の山々は、水をためる広葉樹でおおわれていましたから、那珂川はいつも水量が豊富でした。

藤本

当時、那珂川(主流)には橋がいくつ架けられていたのですか。

稲光

河口から今の百年橋までの間に、西中島橋西大橋春吉橋住吉橋の4つの木橋しかありませんでした。
現在の那珂川は、鉄筋コンクリートの湊大橋那の津大橋須崎橋西中島橋西大橋であい橋春吉橋新橋住吉橋柳橋ほかと、百年橋までに15の橋があります。

藤本

今の昭和通りの中島橋が、武士の町福岡と、町人の町博多を結ぶ重要な大橋だったのですね。

稲光

中の島を挟んで東中島橋と西中島橋で、西中島橋のたもとには藩の橋番役が警護しているというたいそうな橋だったのです。

藤本

中島橋は川に大きな中州があって、自然に堅牢な橋脚が建てられましたね。手近に、人工島のサンプルがあったのでは。

稲光

考えられますね。春吉は福博(福岡部と博多部)のまん中で、住吉橋は中島橋に次ぐ、重要な東西の架け橋でした。
筑前の文人、奥村玉蘭(おくむらぎょくらん)[宝暦11年(1761)~文政11年(1828)]の『筑前名所図會』(ちくぜんめいしょずえ) 第3巻に、橋脚7本の住吉橋が描かれています。

藤本

住吉橋は、住吉神社正面の大鳥居に通じていて、住吉と春吉を結ぶ重要な橋だったのですね。

稲光

だがいったん洪水となるとよく流されたのですね。
とくに、天保(1830~1843)、弘化(1844~1847)年間には洪水が頻発しています。
土手を越す洪水は、大正から昭和初期になっても、たびたびだったらしく、作家の原田種夫さん[明治34年(1901)~平成元年(1989)]が書かれた「博多散歩」(博多ばってん・昭和52年12月号)に、「子供心に、洪水を恐ろしいと思わず、むしろ面白かった。タライを濁った水に浮かべ、それに乗って悪童たちと悪戯(いたずら)していた。
什器や、下駄などが、ぷかぷか浮いて流れて来た。那珂川の魚がいるに違いないと、タブ(手網)を出してきて、皆で濁り水の中をあせった(すくった)こともある」とあります。

司会

橋が流されても、藩も財政が苦しいので、すぐには架け替えられない。
それで当分は渡しの舟で。

稲光

住吉橋を渡って、両方の農民や町人が農作業や商いをしていましたから、日常生活でも、経済面でも大変な被害でした。
そこで弥平が人工島の奇抜なアイデアを考えて、設置の願いを出しますが、前例のないプランだし、藩の財政も苦しいから、藩庁はいい返事をくれない。それで、弥平は自力で架けようと決心するのです。

ボランティアの先駆者

住吉橋のスケッチ 稲光勇雄氏 画

稲光

住吉さんは、筑前の一の宮で、殿様が参詣される社格でした。最後の殿様の黒田長溥(ながひろ)は4回お参りしています。
参詣コースが、中島橋と住吉橋のどちらだったかは分かりませんが、参宮橋の架橋には大義があって、藩も放ってはおけない。思案投げ首のところへ、弥平の請願だったのです。

藤本

渡りに舟だったでしょう。

稲光

やっと認可され、那珂川のまん中に、前代未聞の人工島づくりに着工したのです。
途中で水が出てやり直し。でも弥平はひるまず、再トライして島をつくり、春吉と住吉から島へ架けた念願の住吉橋を完成させたのです。
時は、安政2年(1855)、稲光弥平53歳の壮挙でした。
殿様の黒田長溥が太刀1振(ひとふり)を与え、苗字帯刀(みょうじたいとう)を許して、弥平の功に応えています。

司会

苗字帯刀というと。

稲光

当時は、支配階級の武士以外は苗字をつけることが許されず、名前だけだったのです。
祖先の地名をとって苗字を稲光に。小刀を腰に帯びてもいい。武士並みの名誉を与えられたのです。

藤本

その大事業に、弥平さんが投げ出した浄財は。

稲光

資料が、何も残っていないので、それがよく分からない。橋銭を取るわけではないので、壮大なボランティアだったのですね。

司会

で、中の島の実体は。

稲光

大正から昭和初期の中の島について、少年時代に、ここで遊んでいた、原田種夫さんのリアルな描写があります。(「博多散歩」)
「川幅の4分の1ぐらいの島で、青草が一面に生えていて、木橋の欄干(らんかん)から飛び下りられた。
島に取り付けた橋の高さは1メートルくらいあった。
夏は、この島を休憩場所として、チャリンコ(メダカのような小魚)や、どんぼう(ハゼの1種の小魚)を追っかけた。
大人は、橋げたに綱を張って洗濯ものを干し、それが乾くまで涼しい風に吹かれながら、昼寝を楽しんでいた。
学校の戻りに、友だち大勢と欄干から飛び下りて、角力(すもう)を取ったりトンボ返りをしたりして遊んだ(略)。
秋になると、中の島のところで、障子洗いをするおばさんたちの姿が見られた。洗った障子を島の青草の上で乾かすのであった。」

中の島に埋められていた橋の記念碑

現在の住吉橋と記念碑

藤本

明治維新(1868)の激変がありましたが、今からせいぜい140年ぐらい前のことなのに、伝承だけで、詳細が残されていない。
弥平さんのために、口惜しいですね。

司会

住吉さんに何か記録は。
同時代の歌人として著名な大隈言道(おおくまことみち)[寛政10年(1798)~慶応4年(1868)]との、交流は。

稲光

お宮のことでないからでしょう。社史には見当たらない。
言道の住まいは、春吉から遠くない今泉です。1日約100首も日常の歌を詠(よ)んだ言道です。住吉橋の歌が発見されればいいですね。

藤本

新しい〝弥平発見″が、これからの楽しみですね。

稲光

だから、いま残っている住吉橋の記録は本人の弥乎が遺した記念碑だけなのです。
高さ約60センチ、幅約95センチ。奥行き約50センチぐらいのずんぐり石の表面を削って、実にシンプルな碑文です(台座を含め高さ110センチ)。

 天保弘化之間 天保弘化の間
 頻有洪水損橋 頻りに洪水有りて橋を損なうこと
 再三稲光弥平 再三なり稲光弥乎
 憂之安政二年 これを憂い安政二年
 春築此中嶋也 春この中の嶋を築きたるなり

司会

事実を簡潔に。誇るところが少しもありませんね。

稲光

そこで弥平さんらしい不思議なことが。せっかくつくった記念碑を、弥平は誰にも見られないように、中の島に深く埋めてしまうのです。

司会

矜(ほこ)りを内に。なかなかできないことですね。弥平のプライドが「つまらないことを」と、囁(ささや)いたのでしょうね。

稲光

それから13年たつと、明治維新で、黒田藩はなくなる。
弥平も、その5年後の、明治6年に、71歳で亡くなります。
だが、住吉橋は、彼の死後も健在で、明治から、大正、昭和の初めまで役目を果たしたのですから、大したものです。

藤本

弥平さんの記念碑も、誰にも知られないで、人工島の地中に、ずっと眠り続けていたのですね。

  • ちなみに、すぐ上手(かみて)に、渡辺与八郎らにより、チンチン電車が那珂川を渡る、電気軌道会社(後の西日本鉄道株式会社)の城南線が開通したのは明治43年。

稲光

ええ。昭和5年ごろ、鉄筋コンクリートの橋を架(か)けることになって、島が取り除かれたのです。
そうして、75年間地中に眠っていた碑文が発見され、弥平の貢献があらためて認識されたのです。
市が曾孫の稲光栄一さんから記念碑をもらい受けて、ゆかりの住吉橋の春吉側のたもとに設置しました。
添えられている案内のパネルに、「那珂川にかかる住吉橋は、洪水のたびに流失しました。
春吉に住む稲光弥平は、橋が流される原因を究明して、安政2年(1855)に、川の中央に人工島を築き、橋を架けて流失を防ぎました。
この石碑は、昭和6年(1931)に、その功績を永く顕彰するため、設置されたものであります。」とあります。
簡潔で、ボランティアの先駆者にふさわしい、いい案内ですね。

司会

だが車の交通の激しいところで、足を止めて、じっくり読んでいる人は少ない。残念ですね。
朱塗りの、近代的な住吉橋は、那珂川に欠かせない点景ですが、その背景に、志の高い、風流人の弥平さんの姿が浮かんできます。

その2 幕末の博多っ子 陸奥(みちのく)ひとり旅日記

松嶋道の記

司会

さて、次は弥平さんの松島紀行ですね。
5年前に洪水でも流れない住吉橋を造った、弥平さんならではの、ユニークな旅のよう。日記は興味津津ですね。

稲光

60歳近くの弥平が、80余日かけて実現した「陸奥(みちのく)・北陸ひとり旅」です。
なにしろ、携帯電話も、電報もない。現在確認ができない時代です。老齢だし、水盃をかわしての門立ちだったでしょう。

司会

昔の旅は人生を深め、家族の絆を深めたのでしょうね。
当時の博多の、町人文化代表の旅でもあって、興味深いですね。

藤本

それにしても、旅程80余日の見聞を、矢立(やたて)(現在の筆ペン)でよく克明にメモしていたのですね。

稲光

そのメモを基にして、帰郷後にまとめたのがこの『松嶋道の記』で、副題に「松嶋紀行百物語」とあります。福岡県立図書館に大切に保存されています。
半紙を2つ折りにして102帖(じょう)仕立てで、見事な達筆で記されていますね。遺(のこ)っているのは下巻だけで幻の上巻が発見されるといいですね。

司会

さて、いよいよ、弥平さんの旅立ちですね。

稲光

弥平が俳句仲間の遅流(ちりゅう)と博多を出発したのは、万延元年(1860)の春、陰暦2月半ば、現在の3月半ばです。開国か、尊皇攘夷かで、国中がたぎっていた時ですね。
嘉永6年(1853)に黒船騒ぎ、安政5年(1858)に安政の大獄があり、この年、3月3日の上巳(じょうし)の節句に、江戸城へ登城する大老の井伊直弼(なおすけ)が、水戸浪士に襲われる。
いわゆる「櫻田門外の変」ですが、そのころの黒田藩も同様で、加藤司書(ししょ)、月形洗蔵(つきがたせんぞう)らの勤皇派が登場し、勤皇か、佐幕かで、藩内がきな臭くなっていました。

司会

弥平さんは、旅の途中で桜田門の大変を聞いて、驚いたでしょう。

稲光

これで、関所の扱いが厳しくなっています。旅日記の端端(はしはし)に、時代のたぎりを感じさせられます。

司会

でも、憂国の、エキサイトした筆調はあまりない。苗字帯刀を許されていて、スタンスは温厚な保守派だったのでしょうか……。

稲光

2人は、黒崎の津(北九州市の西部)から船出しました。瀬戸内海を、伊予(愛媛県)、讃岐(香川県)と港づたいに。
そして紀州半島を廻って、お伊勢参りをして、尾張(愛知県)へ渡り、中山道(なかせんどう)を通って、陸路を下野(しもつけ)(栃木県)の宇都宮まで同行しました。
だが、ここで相棒の遅流が体調をこわしてダウンします。養生して京都で待ってもらうことにして、それからが、弥平さんの1人旅です。
遅流が、どういう人物なのか、身分も経歴も、ダウンの詳細もいっさいわかっていません。

藤本

遺っている旅日記は後篇ですね。3月2日の、宇都宮から記されている。それから遅流さんと別れてのひとり旅ですね。

稲光

この年は旧暦の閏年(うるうどし)で、その調整で、3月が2回続くのです。
3月2日から記されていますが、これは後の月の3月です。現在の4月半ばごろですね。

藤本

80余日の旅と言ってますが、宇都宮から松島までが5日間。松島から博多まで、帰途が36日かかっています。逆算すれば宇都宮まで、遅流との2人旅が40数日ですね。

稲光

往(ゆ)きに日数がかかっていますね。往きは伊勢路までが船旅、それから中山道(なかせんどう)ですが、帰りの北陸路のようにつらい雪道ではない。

藤本

往きは、発句(ほっく)仲間の遅流が道連れで、気分ゆっくりの旅だったのでは。もっとも、証人の遅流さんは途中で消えてしまって(笑)。

司会

さて、弥平さんの、出(い)で立(た)ちのスタイルは。

稲光

脇差(わきざし)(小刀)をおびていますが、供は連れていません。ご隠居さんのひとり旅といった、きさくな出で立ちだったでしょう。

藤本

弥平さんも『奥の細道』のひそみに倣(なら)おうとして、芭蕉の名句を引きながら、自分の句を配していますね。

稲光

それが、弥平のひそかな楽しみだったのでしょう。

 風流のはじめや奥の田植うた 翁

 長閑(のどか)さや心まかせの草むしろ 夏村

」は芭蕉、「夏村」は弥平の俳号です。ひとり旅の旅情が、そこはかとにじんでいてなかなかいい(笑)。ともに、陸奥(むつ)の旅へ向かった心境がうかがわれます。

司会

そのころ、同じ筑前(福岡県北西部)で、中間村(中間市)の小田宅子(おだいえこ)さんら、おかみさん4人衆の、従者2人を連れての愉快な旅日記『東路日記』(あずまじにっき)がありますね。

稲光

お伊勢から上方、そして江戸、日光まで足を延ばしての道中記で、作家、田辺聖子さんの、『(うば)ざかり花の旅笠』(集英杜刊)で評判になりましたね。
彼女たちも、国学者の伊藤常足(つねたり)に師事していた、和歌の教養の持ち主でした。
歌に魅(ひ)かれた宅子さんら女衆と、芭蕉の句に魅(ひ)かれた弥平老人のひとり旅。スタイルは違いますが、ほどほどに経済的に恵まれた商家や、豪農の、文化志向で共通項がある。
いわば百四、五十年前の生涯学習で、幕末のひとつの風潮だったのですね。

司会

お伊勢参りは、身近な風俗だったし、江戸へは武士が参勤交代で往復しますね。商家や豪農に、江戸までは身近な感じだったのでしょう。

稲光

そして、江戸と、京と、大坂には黒田藩の藩邸があった。いわば筑前事務所ですね。それに、弥平は、藩の御用金にかかわっていて、公用で江戸にも上っているようです。
だが、東北の白川(現在名称は白河)以北となると、遠い遠い遠国(おんごく)で、話はまた別ですね。

司会

では、ユニークな旅日記に戻って、弥平さんと一緒に、歩いていただきましょう。

ユニークな旅日記

稲光 勇雄氏
藤本 宏文

稲光

貴重な旅日記ですが、高齢で歩きづめ。すこし混乱もあるようです。弥平さんに御免ねがって、整理して話させていただきましょう。

( )内は現在の市町名です。

  • 3月2日~4日 宇都宮(市)~喜連川(きづれがわ)(町)~大田原(おおたわら)(市)~白河(市)~小田川(こたがわ)(現・白河市小田川)~本宮(もとみや)(町)~二本松(市)~桑折(こおり)(町)~藤田(現・国見町藤田)。

さて、ひとり旅の出発です。

いつ(ず)くにかたぶ(う)れ臥(ふ)すとも 萩の原
(芭蕉と別れのとき) 曽良(そら)

  • 曽良=河合曽良。江戸中期の俳人。芭蕉の弟子で、師の「奥の細道」行に随行。(1649~1710)

いつ(ず)くにかねふ(ぶ)りて
たふ(お)れ伏(ふ)せむとおもふ(う)かなしき
道芝の露(つゆ) 西行

同行の遅流と別れて、1人旅の出立となれば、弥平さんも心細そう。「奥の細道」の芭蕉と、漂泊の歌人西行(さいぎょう)[元永元年(1118)~建久元年(1190)]に、思いを馳(は)せています。

*そして、すぐに、
「ひとりとぼとぼ、みちのくの果て白川(白河)の関よりもはるかに遠き松島を心ざし(略)、あとや先なる行客(ぎょうきゃく)の中に、われとひとしき行脚(あんぎゃ)もあらば、同行の友とせんと心にもとめぬれど(略)
独行の人は、皆、若き農商の類(たぐい)にて、予(よ)が老足およびがたく、たまさか年老(としより)の人に出あい、よき道連れよと聲かけ、道すがらさまぎまな話しなとしかけみたれば、皆、近辺のものにて(略)、はかばかしからず
または、宿はずれの小店に休(やす)らい年齢の旅客もやと、心まちすといえども、これぞとおもう人も来(きた)らず」
当時のならいで、自分のことを、予と言っています。

藤本

なにやら、人恋しの弥平さんですね。

稲光

1人旅の寂しさを嘆きながら、
「実(まこと)や、同行の友あるは、なきにはまさるなれども、風雅に心とらむる身は、無雅なる道連(みちづれ)あらんより、ひとりあるきこそましならめとおもいかえ、その後は人をもとめず、心まかせにたどりつき」
と、1人旅の決意を固めています。
同宿の旅人に、松島の道中によい連れが、出会えないとこぼすと、「当今は世事不穏(ふおん)で」との返事。
身も心も、厳しい1人旅でした。

司会

歴史の大転換期で、世情も不安だったでしょう。

稲光

西国と違って、人口も少なかったのですね。那須の原あたりで、肥沃な土地が原野のままなので、どうしてかと尋ねると、関東から奥州にかけて、耕す人がいないので仕方がない。
どの家も貧しくて、子供を2、3人は育てるが、あとは間引(まびき)するからだとの答えに暗然としています。

藤本

筑前にはない、厳しい旅の現実に向き合うのですね。

稲光

越後(新潟県)も同様だったが、親鸞上人(しんらんしょうにん)の教化(きょうげ)で、この悪習はなくなったと、真宗信者の一面もうかがえます。

*白河の道すじで、娘さんが草餅で接待してくれる。上巳(じょうし)の節句の習いで、今年は閏年だから、2月つづけて餅をついてと和やかなことも。
*本宮の宿で、面白い記述があります。当時から、旅の決め手はガイドブックだったのですね。
「予、国元出立の時、大坂松屋源助殿発起せし浪花講(なにわこう)と号す『諸国宿駅定宿(じょうやど)の手帳』を需(もと)め、是を目当てに宿駅に止宿せし也。
五畿七道(ごきしちどう)(日本全国)城下宿駅の宿屋に浪花講と記したる看板を掛けたり。

  • 五幾=大和(やまと)、山城(やましろ)、河内(かわち)、和泉(いずみ)、摂津(せっつ)。七道=東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の総称

右、浪花講の常宿は、旅客の取扱念を入れ(略)、定宿帳所持の客は若し病気其(そ)の外、不慮の事有りても、宿主より手厚く世話する定法(じょうほう)也。
定宿の代が替り、旅客のあしらい悪しく、有之節(これあるせつ)は、看板を取り上げ他家に仕替(しかえ)る事也」とあります。
背景に当時の、お伊勢参り、上方見物のブームがあったのです。
当時の陸奥は九州から見れば言葉が通じない外国だったでしょう。

*「商人宿の母子(おやこ)に(略)、きょうの道筋事なとさまざま尋(たずね)るに、宿主女等が詞(ことば)予(よ)に通ぜず。再(ふたた)び前の事問返(といかえ)しけれ共(ども)、何さま、言葉通(つう)じかねしゆえ、予も又何の答もせざりければ、彼(かの)母子の者囁(ささやき)て、客人は耳遠きと見えたりと言馨(いうこえ)ほのかに聞えて、おかしくおもいながら、遠き国なれば、左(さ)もあるべし」
弥平さんも、難儀しています。

松島の壮観 言わんかたなし

  • 5日 白石(しろいし)(市)~岩沼(市)
  • 6日 岩沼(市)~名取(市)~仙台(市)~塩竈(しおがま)(市)~松島(町)

*瑞巌寺(ずいがんじ)ガイドの万年屋清左衛門(70余歳)は身なりが貧しいが、心清く道造りの功があって、殿様から褒美をもらった人。彼の話は(要約)
「昨夜は多数の客舎に客ひとりもなし。昨年は2度の大風で、当国も関東も凶作。
米価も高騰、安い時は100文で2、3升(1升は1・8リットル)だった米が、今は1升130文。当地見物も少なく、遠国(おんごく)よりご老体がはるばると来られたのは稀有(けう)のこと。夏に湯殿山(ゆどのさん)参詣のついでに松島見物はあるが、行脚体(あんぎゃてい)の人は見かけない」。

  • 芭蕉が「奥の細道」で、「抑此(そもそもこの)松嶋は扶桑(ふそう)(日本)第1の好景にして、凡(およそ)洞庭湖(どうていこ)に恥(はじ)ず」と言った松島です。

 朝よさを誰まつしまの片こころ 芭蕉

 松しまや鶴に身をかれほとときす 曽良

 春雨の晴れまつ嶋の片こころ 夏村

芭蕉の句に思いをよせてひたすらに晴れを願っています。

夜食後、宿の表2階からの景色眼(め)にさえて歌も。

 恋ならぬむねのつき雲はれやらず
 誰まつしまのひとり寝の床  夏村

と詠んでいます。

  • 芭蕉は「奥の細道」紀行では、あまりの絶景に眠れず、松島の句を読んでいない。この句は、松島へ行く以前に、あこがれの松島を詠(よ)んだものです。(「桃舐(とうし)」集)
  • 7日 松島瑞巌寺(松島町)~仙台(以上宮城県)泊

*あけて、翌朝、「壮観いわんかたなし。此好景を予ひとり見る事のいとおしく、故郷の友を恋しかりける。
されば、予が年ころの念願を、天も憐み給いてや。夜の間に、雨雲を払い、此(この)好景を見せ給うは、誠に天の賜(たま)もの也と、うれしさのあまり、只(ただ)呆然として、いうべき事もなけれど、矢立(筆ペン)の墨に水入(いれ)そえて

 まつ嶋やけふ(きょう)よりのちの夢のたね
 朧夜(おぼろよ)の影さへ廣し千松しま  夏村

足もともかるくふるさとへ

*帰途につく。
「漸(ようやく)故郷の方へ足をふみ向ける事やとおもえば、何となく、足もともかろく覚え、きょうはきのうにかわり、空もいとのどかに、道のぬかりも、はや春風にかわき、ふみこころよく、おのずから、心浮き立ち(略)。

 行春(ゆくはる)にさきもおくれぬ草の花
 いかでかよそに宮城(みやぎ)のゝ原  夏村

  • 8日 仙台笹屋(川崎町)

*「仙台。繁華の所を見んと訪ねしに、場所の辻、城下の真中。町家は2階造りで棟(むね)に鯱(しゃち)をあけ(げ)、櫓(やぐら)作り也。東西二里、南北一里」。
北国一の雄都、仙台の町の活気と偉容が目に見えるようです。
南口の入り口に藁葺(わらぶき)の米倉があり米俵が積んである。米は安いが、「俵の作りが粗略で、予が国の麦俵の如し」。筑前に軍配を上(あ)げている弥平さんです。
米俵は、帰途大坂(当時の表記)の御堂(みどう)本願寺前に、寄進で積んである筑前と肥後の米俵の見事さにもふれています。

  • 9日 笹屋山形(市)~赤湯(南陽市)

旅の不(ぶ)用心、怖(こわ)さもあります。同宿に身なりの悪い若い憎がいました。一緒に宿を出ましたが、足が早いので先にというが、どうも動静が気になる。
「彼(か)の僧、いまだ年若く、肌薄(はだうす)にていぶかしき体(てい)也。もしや、山深く入りて、予を途中に待ちうけ、路銀などをねだらんとたくみしも計るべからず。
そのときは是非に及ばず。少々は遣(つか)わすべしなど、思案しける」。峠にその僧はいず、数人の人が降りてきたので力を得た、とあります。

*無事に山形城下を見物し国境の番所で、番人に声をかけられた。
「珍しき人に逢(あ)う事かな。我、此所(ここ)に来(きた)り関を守る事、はや15年に及ぶに、是迄(これまで)筑前の者というをきかず」と。この人は72歳で、故郷の唐津が懐かしいとて、しばらく話し合った。
陸奥が、筑前からは、はるかの遠国(おんごく)だったことが実感されますね。

  • 幕末に唐津藩主水野忠邦は、老中として天保の改革を行ったが失脚して蟄居(ちっきょ)。継嗣の忠精が5万石に減封(げんぽう)されて、出羽山形に移された。この番人は、主君に従って山形へ移ったのだろう。
  • 10日 赤湯小松(川西町)~沼沢(小国町)
  • 11日 沼沢~(吹雪)~(米沢市)
  • 12日 真野[聖籠(せいろう)町]

*宿屋の亭主66歳、倅(せがれ)20歳、姉30歳ぐらい。他に客1人を交えて、5人で古歌談議を夜更(ふ)けまで交わす。この、清福は翌朝にまでわたっていて、
「予も、素(もと)より好む事なれば、いと面白く覚(おぼ)えし也。
翌朝、勝手に行き、亭主に向かい昨夜の歌物語いとおもしろく、旅中の憂(うれ)いを休(やす)めしなり。我も、好む道なればとて聞き伝えし古歌など、かたりきかするに、一々筆記し、又、亭主よりも予が心得にもなるべき事どもを語りける」。
庶民社会の、学問好きの風潮がうかがえます。

  • 13日 真野新潟(市)
  • 当時は真野から加治川をくだり、阿賀野川に出て信濃川を横切って新潟まで半日強の船便だった。
  • 14日 新潟内野(新潟市)~赤塚(新潟市)

吐き気、弱気
*「如法寺(にょほうじ)村、庄右衛門が家に、火井あり。昼夜も炉のごとく、火もえ出て、是を竹の樋(とい)にてとり、夜は灯火の代わりとなす。
又、クサウズ[草生水(くそうず) 石油のこと]の油とて、水と油の湧(わ)き出る池あり。此の水に芒(すすき)の穂を浮かし油を取り、かくま草(灸のもぐさのようなものか)を入れて煎じれば、ともし火によろし」。
これ、石油の話ですね。

疲れとりは白砂糖

松嶋道の記

稲光

また、この日は、よほど疲れたらしく、
「いまだ京都は150里の道をかゝえながら、今茲(ここ)に病いを受けては、独歩の旅、如何(いかん)ともすべき様なしとおもえば、心ぼそくおもいぬれて、弱気をだしてはいよいよ心のおくれ也と、我が気力を引き立て、かねて用意せし白砂糖を食して其夜は休みぬ」
当時は、白砂糖が、気力と、疲労回復の妙薬だったのですね。

  • 15日 赤塚寺泊(新潟市)~出雲崎(いずもざき)(町)
  • 16日 出雲崎柏崎(市)~鉢崎(はっさき)(柏崎市)
  • 17日 鉢崎今町(見附市今町)~名立(なだち)(町)
  • 18日 名立糸魚川(いといがわ)(市)~親しらず(青梅(おおみ)町)~市振(いちぶり)(青梅(おおみ)町)

*糸魚川で、加賀百万石、前田侯嫡男の道中に出会っています。参勤交代だったのでしょうか。
同勢がおいおいに到着して、人馬が多く、鑓具足(やりぐそく)の数が夥(おびただ)しい。宰領に人数を尋ねると、2千6百人との答え。さすがに仰山(ぎょうさん)なことで、天下第一の大大名で、先備えから後備(あとぞな)えに至るまで、勇ましき形勢也と感心しています。

*親知らず子知らずの難路、12里(約45キロ)を歩いて、左足の甲がはれる。帰国後、そこに小瘡が吹き出たので、武蔵(むさし)村(二日市)の温泉に入り、6月下旬~翌年2月まで薬用して本復した。
弥平は、この理由を
「予、愚考するに北国は海辺多き場所にて、常に生魚多く、野菜少なければ、日毎(ひごと)に生魚を食しけるゆえ、魚毒の為に小瘡を発しけるにや」と。

  • 19日 市振滑川(なめりかわ)(市)

*「加州(加賀藩)受け持ち、越中境の番所ほど厳重なりしは他になし。もっとも、このほど、彦根侯、不慮の騒動(櫻田門外の変)より江州路(近江(おうみ)の国・滋賀県)京地(けいち)近邊は、到る通路云々なりし也」とある。
篤農家弥平の関心は、農事暦の違いで、麦の穂の出が、紀州と北陸の滑川で40日の差があることなど、めぐる土地土地で、筑前との違いを嬉々として記しています。

  • 20日 滑川高岡(市)

*「魚津の沖海上に年々4月頃に蜃気楼(しんきろう)とて、楼閣のごときもの、霞(かすみ)の中に浮かび、樹林人物のかたちなど見える由、尤(もっと)もわずかの間にて、所の者も年々見る事難しとかや」。

  • 21日 高岡金沢(市)
  • 22日 金沢小松(市)~榾橋(いふりばし)(加賀市動橋町(いぶりばしまち))

*加賀藩(前田藩)は、毎年の酷暑のときに、白山(はくざん)の雪を、将軍に届けていたのですね。
「小松より南にあたり白山近し。至っての高山にて常に白雪絶えず。加賀侯より、年々6月朔日(1日)将軍家へ氷献上あり。
白山より江戸へ、行程100里を暑中に持ち越すに、解流(とけながれ)ざる事信じがたしと、或(あ)る人語りしが、此(この)山谷に幾年となく昔よりの氷ゆえ解けざるなるべし。併せて、近世は、江戸本郷邸中に氷室(ひむろ)ありとか聞きしが、如何(いかが)にや」。

  • 23日 榾橋大聖寺(加賀市の中心地)~細呂木(ほそろぎ)(現・金津町細呂木)~福井(旧名、北の庄)~淺水(あそうず)(福井市淺水町)
  • 24日 淺水西鯖江(にしさばえ)(鯖江市)~今庄(町)~半原(敦賀市葉原)(はばら)

湯ノ尾峠に茶屋が4軒あるが、疱瘡の守り札を出している家は、わずか1軒だったとあって、
*「しかるに、近年、種痘行われて痘鬼に諂(へつら)う人も、稀なるにや」と、幕末に、すでに、北陸の庶民たちの間に種痘が広く行われていたことが知られます。

  • 25日 半原敦賀(市)~梅津(京都市)~今津(町)~大溝(おおみぞ)(現・高島町)
  • 26日 大溝(舟)~坂本(大津市)~唐崎(大津市)~大津(市)~伏見(京都市)~、三条大橋豊後屋に泊。遅流は大坂で待つと伝言。

*逢坂の関跡を過ぎて、当時有名だった「走り井の餅店」で餅を買って、

 逢坂の関の名物立ち寄りて
 いまや喰うらん餅好きの客  夏村

  • 27日 京都見物(二条城、北野神社、西本願寺、御所、知恩院、祇園、稲荷、清水)伏見より乗船。船中泊
  • 28日 大坂八軒屋に着く。(筑前常宿葉村屋で遅流、先に帰ると伝言)
    夜、黒崎舟にのる。 船中泊

*旅好きの弁
帰国の船に乗って旅を終えた思いからか、旅好きの弁を記しています。「人間一生纔(わずか)50年なれども、生れ出(いで)たる地をはなれ得ずして、身を終(お)えるは、君と親との命ならんには是非(ぜひ)無けれど、さても生き甲斐なき事なるべし。
ひとたびは旅の水をも味(あじわ)い、皇国の広大なる陰陽の造化(ぞうけ)、寒曖の理(ことわ)りをたどり、勝地旧跡の変革にむかしを偲(しの)び、かつは貴賎貧富のけじめをわきまえ、見ず知らずの人と、枕をまじえ、おかしきふしもうき事も身のほどほどにつくしつくしてこそ、心も広くなりぬべし」。

*財にかんしても。
「財は天下の財。おのれをつつましやかにして、人に施す事をおしむべからず。
財と雪は、積もる程、道を失うとかいえり。天下融通の宝をあつめて動かさざるは、天下の罪人なり。さりとて、益なき事に費(つい)やし、捨つるも、おろかなきわみなるべし。(略)
ただ足る事を知り、身の分際を弁(わきま)え、財の余りあらば、世は持ち合いなる事を思い、人を救うにしかず」。
住吉橋寄進と、思いやりの弥平銀の根底を聞いている感じです。

  • 3月29日4月7日
    大坂より船-備前(岡山県)下津井(倉敷市)、備後(広島県東部)(とも)(福山市)、安芸(あき)(広島県西部)、御手洗(みたらい)(豊町)、かむろ(山口県・沖家室島(おきかむろじま)=平成16年10月から周防大島町)、室津(上関町)、周防灘沖で舟泊。
  • 7日 2時黒崎(北九州市)着船。
  • 8・9・10日 木屋瀬(こやのせ)(北九州市)に泊。川留りで連泊。
  • 11日 午後1時頃、川を渡り脇田(若宮町)に泊。(宿泊1人)
  • 12日 脇田~犬鳴谷(いぬなきだに)(若宮町)~二股瀬(ふたまたせ)(福岡市)~博多ロヘ。西門、石堂の橋流失。わたし舟で西門川を渡り未刻(みのこく)(午後2時頃)帰宅

弥平さんご苦労さまでした。

藤本

旅日記をふりかえれば、休養も、遊山(ゆさん)も、あまりしていない。体調を壊しての休息日もない。

司会

老人の弥平さんが、1日12、3里(約45キロ~48キロ)を、草鞋(わらじ)でひたすら歩いている。馬にのったり休養することもない。

藤本

意志にも、体力にも、参ったの感じ。脱帽ですね。

稲光

だから、その日数でと、旅を疑問視された向きも。
弥平はその点にも周到で、紀行の編集後記に、江戸にも行かず大坂に1泊もせず、足にまかせて国々を経巡(へめぐ)りしたまでと、記しています。
大雨に迎えられての帰郷で西門橋石堂橋も流されて、博多へは舟渡しでした。
だが、住吉橋は流れていない。自分が架けた橋を渡って、住吉さんへのお礼参りをすませている。

司会

弥乎さん、大満足だったでしょう。

稲光

弥平は、万感の思いをこめて、『松嶋道の記』を、簡潔に次の文章で結んでいます。

「万延元年申歳(さるどし)四月十二日、故郷へ帰り来て

 若葉してかへりぬ花の旅衣

長途、恙(つつが)なかりしも、神仏の御加護ゆえなれば、産(うぶすな)神社住吉宮に詣で、かつ老妣(ろうひ)(老妻)の墓に香花(こうげ)を供えなどし、旅のつかれつとなけれど、彼此(かれこれ)十日あまりたち

 旅人と見られて安き身なりとも
 かえりては憂(う)きやと(ど)の麦秋(ばくしゅう)

などと口ずさみて、筆をとどめぬ。」

藤本

この旅が人生の総仕上げで、完璧な終止符を打ちたかったのでしょうね。

稲光

それから明治維新の激変です。弥平は、名望家として、新時代に戸長(こちょう)を務め、明治6年(1873)に、実りの深い71歳の人生を閉じています。

  • ※戸長=明治初期の町村制実施以前に、町村の行政事務を行った。

司会

弥平さん、80余日の1人旅。本当にご苦労さまでした。
先生、貴重なお話を、ありがとうございました。

稲光弥平の陸奥ひとり旅

*旅中心得の事(一部略)

弥平さんの旅日記の補足ですが、当時の旅路事情がうかがわれて興味津々です。

一、故郷にては、たとえ尊き人たりとも、旅にてはとかくに、身を謙(へりくだ)り、道連泊(みちづれとま)り合(あわせ)の人に叮嚀(ていねい)にいたし、下座に居るべし。我が国の事と、身の上自慢すべからず。

一、身形(みなり)あしければ、宿をかさぬ事あり。且(かつ)道路の人、合宿(あいどまり)の人に、見侮(あなど)られる也。又あまり美服する時は、胡麻(ごま)の灰の難あり。中等のところを能(よく)心得(う)べし。

一、草鞋(わらじ)をよくよく吟味し、藁ふしを摘除(つみよ)け、念入りはくべし。少しいて工合あしくば、速(すみやか)になおし、あしきなりに暫時も過ごすべからず。

一、休泊にて出立(しゅったつ)のせつ、よくよくあとを見るべし。労(つか)れ強ければ、物を落すもの也。立出(たちいず)る時アトミヨソワカと唱(とな)うべし。

  • ※アトミヨソワカ=「あとを見よ」を経文らしくいった当時の慣用語。忘れ物をしないように、または物ごとの結果はどうかをふりかえれの意。

一、宿には一に便所。二に方角。三に戸じまり。これを見置くべし。紙入、腰さげ、其外(そのほか)手廻りの品取り揃え小包にいたし寝所の脇に置くべし。大小刀も同様にすべし。

一、行脚(あんぎゃ)用品々凡(しなじなおよ)そ左(さ)の通り。笠蓑。股引(またひき)。脚半(きゃはん)。足袋。水掛。木綿下帯。脇差、小束(こつか)(小刀)とも。三幅風呂敷。小とも。大綱袋。衣類、時に応じて。小柳行李(こやなぎこうり)。矢立。(一部略)。

  • ※三幅風呂敷 普通着尺(きじゃく)(小幅・尺36センチ)の3倍の大風呂敷。
  • ※旅日記は現代表記にかえております。

稲光勇雄氏 略歴

昭和16年(1941)福岡市中央区春吉に出生。西南学院大学卒。39年に福岡県文化会館図書部司書。58年に福岡県立図書館に転じ、平成13年副館長で退職。15年以降夜須町図書館長。日本図書館協会会員。西日本図書館学会会員。福岡地方史研究会会員。福岡古文書勉強会代表。九州国際大学司書講習講師。