No.75 「黒田藩、300年物語」始祖如水・藩祖長政から最後の殿様黒田長溥まで

対談:平成16年7月

司会・構成:土居 善胤


お話:
郷土史家 吉永正春氏
藤香会 藤金之助氏
聞き手:
福岡シティ銀行特命顧問 四島司

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


福岡のルーツ

黒田300年、年譜

藩祖 黒田長政

司会

「福岡」を語るとき、「博多」で代表させることが、よくありますね。

吉永

遣唐使以来千年の博多にくらべれば、黒田藩の300年は、新参でちょっと分が悪い。

黒田氏の入国した慶長5年(1600)から、廃藩置県が実施された明治4年(1871)まで、272年間、筑前52万石を治めた黒田藩は、町人の町博多の顔をたてた藩政を行いました。

四島

近世の舵を取った黒田300年を、冷静に見直さなければなりませんね。

司会

それでは、黒田藩300年をひらたく振り返ってください。始めにルーツをさがして、黒田氏の発祥から。

吉永

黒田氏は第59代宇多天皇にはじまる近江(おうみ)(滋賀県)の佐々木源氏の流れで、京極氏を称した氏信の孫の源判官(みなもとのほうがん)宗清が近江の伊香郡の黒田邑(むら)に住んだところから、黒田姓を名乗ったと言われています。
代々、京極家(きょうごくけ)に仕えましたが、宗清の5代の孫高政が軍令違反で黒田邑におられなくなって、永正(えいしょう)8年(1511)に備前(岡山県東部)邑久(おく)郡の福岡邑(むら)に移ります。

福は幸い、豊か。岡は広いで市(いち)が立つ街道の要衝でした。長船(おさふね)で知られる名刀の生産地でもあり、鍛冶屋千軒と称された活気のある町でした。その繁盛は、時宗(じしゅう)の開祖である一遍上人(いっペんしょうにん)の絵図でも知られます。
今は、岡山県の東部邑久(おく)郡長船町福岡で、清冽な吉井川が流れる、おだやかな町です。

吉永

それでは『黒田家譜(くろだかふ)』でルーツ福岡を締めましょうか。
「城の名を福岡と号す。これは長政の先祖、黒田右近大夫(うこんたゆう)高政、下野守(しもつけのかみ)重隆父子、ともに備前の国邑久(おく)郡福岡の里の人なれば、その本(もと)を思い出(いで)て、先祖の住所の名を用いて名づけ給う」。

※以下「 」内は黒田家譜からの引用。

そして重隆が、主家赤松家の騒乱を避けて、大永(たいえい)5年(1525)に播磨(はりま)(兵庫県の南西部)の姫路へ移ります。

そこで広峰(ひろみね)大明神の祈祷札に添えた家伝の目薬、玲珠膏(れいしゅこう)が大当たり。「いかなる眼病にも効(き)かずということなし。隣国までも聞き伝えて、門前市(いち)をなす騒ぎ」となります。

吉永

重隆は、頼まれると質物(しちもつ)(担保)を取らず、金利も4割5割の時代に、2割の低利で用立てました。返せなければ折々の労役でいい。自然に家の子郎党が増えていったのです。

重隆を庇護した大百姓の竹森新兵衛も家来になる。その子の新次郎は、石見(いわみ)と称した黒田二十四騎の1人です。
重隆の子の満隆(みつたか)は、守護職赤松の実権を握っていた御着(ごちゃく)城主の小寺政職(こでらまさもと)に仕え、養女を妻として小寺職隆(こでらもとたか)と改名。客将の待遇で、子が幼名万吉、後の黒田藩の始祖黒田官兵衛孝高(くろだかんベえよしたか)で隠居して如水(じょすい)です。

智将 官兵衛孝高

始祖・如水

司会

始祖・如水の登場で、黒田300年の曙(あけぼの)ですね。

吉永

鷹狩りで職隆宅へ立ち寄った、主君の政職が、接待にでた16歳の万吉の振る舞いに感心し、80石を与えて近習(きんじゅ)にとりたてます。
初陣(ういじん)で手柄をたてて官兵衛(かんべえ)の名をあたえられ、22歳で家老になる。政職の姪と結ばれ、官兵衛は御着の本城、職隆は姫路城を、親子で守りました。そして永禄11年(1568)に、黒田52万石の藩祖となる、松寿(まつじゅ)、後の長政が生まれます。

四島

その頃の備前と播磨は、織田と毛利の対決前夜で風雲急ですね。

吉永

小寺の使者、官兵衛は、織田信長に姫路城を提供すると伝え、息子の松寿を人質に差し出します。

信長は上機嫌で名刀〝圧切(へしきり)″を与え、羽柴筑前守(はしばちくぜんのかみ)秀吉が毛利討伐の総大将として、姫路城に入ります。

吉永

ところが、豪勇で知られた伊丹(いたみ)の荒木村重が、毛利側に寝返るのです。家臣が、敵方の石山本願寺に、米を送っていた事が発覚して、窮地に立った村重の選択でした。

司会

そこで、親交のある官兵衛が村重の有岡城へ説得にいく。

ところが、有無(うむ)を言わさずに、竹藪と溜池に囲まれた牢に、放りこまれる。ともにクリスチャンだったから、殺さなかったのでしょう。
信長は、官兵衛が帰ってこないので、裏切ったなとかんかん。松寿を殺せと言う。それを、秀吉と、参謀の竹中半兵衛(たけなかはんベえ)がかくまうのです。

吉永

如水は、有岡城落城のときに忍び込んだ家臣の栗山備後(びんご)(大膳の父)や、母里太兵衛(ぼりたへえ)、井上九郎右衛門[周防(すおう)]らに救いだされます。髭(ひげ)ぼうぼう、虱(しらみ)と皮膚病で見るも哀れな如水の姿に、さすがの信長も落涙したそうです。
それから、旧姓の黒田にかえり、秀吉の名参謀として、官兵衛の大活躍が始まるのです。
天正8年(1580)に、官兵衛は、秀吉の軍監として播磨で、初めて1万石を与えられます。

四島

信長が、明智光秀(あけちみつひで)に討たれた本能寺の変(天正10年)情報に、官兵衛が、ご運の到来と秀吉を励ましたとか。

天下を取った秀吉の陰(かげ)に、いつも官兵衛がありました。
秀吉は毛利と和睦し、疾風のように兵を返して光秀を討ち破ります。つづいて、柴田勝家を破った(しず)ヶ岳(だけ)の戦い(天正11年)で、長政は奮戦して、450石をもらっています。
天正15年(1587)島津征伐により、官兵衛は、豊前六郡で中津12万石の城主となります。

吉永

官兵衛は情報駆使の名人で、中津藩主時代は、大坂、備後の鞆(とも)、周防(すおう)(山口県)の上(かみ)の関(せき)に、藩の早舟を用意し、中央の情報をリレーさせていたそうです。官兵衛は天正17年に、家督を長政に譲りのちに如水と号します。秀吉に認められ、恐れられた官兵衛の見事な引き際(ぎわ)でした。

四島

関ヶ原合戦のときは、九州で天下を狙った大勝負をしていますね。

吉永

城内の蓄財を払い出して、3千6百人の浪人を集め、加藤清正と連携を取りながら、西軍の留守城を次々に開城させて、北部九州を平定。
そして、大友再興の軍を起こした宗麟(そうりん)の子大友義統(おおともよしむね)を、石垣原(いしがきばる)(別府市)の激戦で破っています。如水は、関ヶ原合戦が持久戦になると読み、その虚を衝(つ)いて、天下を取る魂胆だったと言われています。だが、関ヶ原合戦が半日で終わる。時に55歳。筑前に移って隠居生活に入ります。

司会

その頃の如水は。

吉永

太宰府天満宮の鳥居のそばに1年間暮らし、関ヶ原以後、立場の悪い鍋島や大友、島津に頼まれて、家康へのとりなしをしています。天満宮は、前国主小早川隆景が戦火で焼失した本殿を再興して、社領1千石を寄進しました。如水、長政父子も、諸堂や回廊を建立し、2千石の社領を寄進しています。
慶長7年(1602)、城内三の丸の隠居所に移り、藩士の子弟たちを相手にしたり、客人や老臣たちと風雅と懐旧の閑日月をすごしています。
慶長9年(1604)伏見で病没。享年59歳。家臣の殉死を固く禁じ、栗山備後に伝来の合子(ごうし)の甲(かぶと)と胄(よろい)を与え長政の後見を遺託。辞世の歌は

思いを(お)く言(こと)の葉なくて ついに行(ゆ)く
道はまよは(わ)じ なるにまかせて

藩祖長政

長政愛用の
黒漆塗桃型大水牛脇立兜
(くろうるしぬりももがただい
すいぎゅうわきたてかぶと)

如水の血を受けた藩祖長政も、戦略と武勇に長(た)けて、戦国武将の典型でしたね。
彼と離反した後藤又兵衛(ごとうまたべえ)が、細川忠興(ほそかわただおき)に長政攻略法を訊(き)かれて、長政は常に陣頭に立っているから、数十丁の鉄砲隊で、先頭武者を一斉射撃すればいいと言ったそうですが、それぐらい勇猛だったのですね。

「名槍日本号」

司会

その頃のことですね。母里太兵衛が、福島正則から、名槍日本号を飲みとったのは。

秀吉が伏見に城を建てたので、大名たちも伏見にあつまってきました。そのとき、太兵衛が、長政に命じられて正則を訪ねる。すぐに一献(こん)遣(つか)わそうとなる。太兵衛が主命で飲めませんと断ると、飲め、飲めば所望のものを遣わす。それで、大杯に注がれた酒を、一気に飲み干して、正則が秀吉から拝領の大身の槍「名槍日本号」を飲みとるのです。
豪快な話で筑前今様(ちくぜんいまよう)に歌われて、黒田武士の名を高めました。

JR博多駅前の
黒田武士の像

飲め飲め酒を飲みこみて 日の本一のそのやりを
とりこすほどに飲むならば これぞまことの黒田武士

今は
酒は飲め飲め飲むならば
飲みとるほどに飲むならば これぞまことの黒田武士
となっています。いわば福岡のコマーシャルソングで、よく歌われています。
それから270年たって、黒田長溥(ながひろ)の命令で、加藤司書(かとうししょ)が第1次長州征伐を、穏当に収束させたときにうたった〝皇御国(すめらみくに)の武士(もののふ)は″もよく知られています。

司会

関ヶ原合戦のヒーローは、長政ですね。

吉永

徳川269年の天下を決定づけた、日本史上最大の決戦でした。東軍が約10万2千、西軍が8万5千。その勝敗は、小早川秀秋の東軍への内応で決しました。
これは長政の画策で、戦略にも武勇にも長(た)けた戦国武将の典型でした。関ヶ原の功で、筑前太守になったのは慶長5年、33歳のときでした。

「舞鶴城築城」
貝原益軒

司会

さて、いよいよ舞鶴城といわれる福岡城の築城ですね。

吉永

長政の筑前入国は慶長5年(1600)で、今の東区の名島城に入りました。
立花氏の出城を、小早川隆景(こばやかわたかかげ)が手を加えた要害でしたが、52万石の城下町には狭隘(きょうあい)で、東に片寄りすぎている。そこで新たな城造りが急務となり、貝原益軒の『黒田家譜』によると、候補地は4箇所ありました。

  • 住吉 博多に近く、山に遠く、三方に開けた土地だが、要害ではない。
  • 箱崎 前が海で左右が川の要害。砂地のため土功(土木)に便。しかし、東に多々良川、西に那珂川で大敵を受ければ、水攻めの患(わずら)いあり。
  • 荒津山 (今の西公園)三方が海で岸が高い。南方に堀を掘れば要害だが、海中に突き出ていて、周囲に武士、工商を集められない。
  • 福崎 家譜では「名島より2里(約8キロ)坤(ひつじさる)(西南)の方、那珂郡警固(なかぐんけご)村の近所、福崎という処、如水、長政の心に叶いし故(ゆえ)、城地を見立て経営して、山に拠(よ)りて、城を築き、郭(くるわ)をかまえ、四方に湟(ほり)をほり回し要害をかたくしたまう」とあり、慶長6年に着工し完成に7年かかっています。

司会

そして、この城下町のネーミングが福岡でした。だが、備前福岡時代はわずかの十数年です。如水、長政父子の父祖の地福岡への思いがいかに大きかったかうなずけますね。

城は、北に博多湾、西は草ケ江の入江(大濠公園)、東と南には堀を巡らせました。博多の守りとして石堂川(いしどうかわ)沿いに、砦(とりで)となる12の寺を配しています。石垣の石は、名島城や平尾、高宮の古墳から運びました。

吉永

軍師如水の縄張りで、大小47の櫓を構える、堂々たる福岡城が、慶長12年(1607)に完成したのです。

四島

城の東から因幡町(いなばちょう)(天神地区)にかけての肥前堀が昭和23年の国民体育大会で、埋められて「国体通り」になりましたね。

城のほうが紺屋町堀、東のほうが肥前堀でした。関ヶ原戦のとき、去就(きょしゅう)がはっきりしなかった鍋島藩は、如水と長政の口利(くちき)きで領地没収を免れました。それで堀を掘って謝意を示したのです。

※後の慶長13年の佐賀城総普請(ふしん)のとき、黒田藩は北堀の普請をしている。

福岡城跡潮見櫓

司会

そこで、問題の天守閣ですが、従来の説では、幕府に遠慮して造らなかった。天守が籠城(ろうじょう)に無用の時代となって造らなかったとも。

四島

近年になって、存在説が有力に。建てられたが幕府へ配意して壊したのだと。

吉永

細川藩の史料を保存している、永青文庫(えいせいぶんこ)から、細川忠興が、父の幽斉に宛(あ)てた書状の中に、黒田が天守を取り除いたという記載が、発見されて、話題を呼んだのですね。
だが、天守のことが、益軒の『黒田家譜』にも、博多の古文書にも出てこない。考証されて、威容の福岡城を仰ぎたいですね。

四島

長政は父、如水の名を辱めない名将でしたね。

吉永

平時は倹約を旨とし、食事も一汁二菜。「贅沢をするな。見栄を張るな。大きな屋敷を構えるな」の3則が幕末まで維持された藩祖の遺訓でした。
毎月、中老以上を集めて催した、異見会は、よく知られています。君臣ともに、怒らない、他言しない、意趣を含まないと確約して、藩政への意見を自由に語らせたのです。

特筆すべきことは、彼の博多戦略でしょう。島井宗室(しまいそうしつ)[天文8年(1539)~元和元年(1615)]、神屋宗湛(かみやそうたん)[天文22年(1553)~寛永12年(1635)]、大賀宗伯(おおがそうはく)[?~寛文5年(1665)]ら、博多の豪商たちを取り込み、松ばやし(のちの博多どんたく)も復興して、彼らの協力を得ながら、博多のエネルギーを、領国経営に吸収した。筑前太守の経輪(けいりん)を感じさせられますね。

吉永

元和(げんな)9年(1623)、長政は将軍宣下を受ける3代将軍家光の先遣として京に上り、関ヶ原を訪ねています。人生最後の旅に格別の感慨があったでしょう。8月4日、京で56歳の生涯を閉じます。病気は食道癌か、胃潰瘍だったらしい。

司会

遺言で、三男の長興(ながおき)に秋月5万石、四男の高政に東蓮寺[直方(のおがた)]4万石を与えていますね。

吉永

だから、黒田52万石ですが本藩は43万石。後に直方藩を吸収して幕末まで47万石でした。

黒田騒動 2代・忠之と栗山大膳

2代忠之

司会

さて、次は2代・忠之(ただゆき)、問題の殿様ですね。

吉永

大名の1番の関心は、後継ぎが一国を維持できる器量の持ち主かどうかでした。長政は、長男忠之の粗暴な性格が気になる。それで三男の長興に家督をと決めて、忠之に書状をおくります。
1、2千石の田地をあたえるから百姓になるか。
2、1万両を与えるから京、大坂で商人になるか。
3、千石の知行を与えるから、一寺を建立して僧侶になるか。
いずれかを選べと、厳しい指令です。後見役の栗山大膳は、辱(はずかし)めを受けるのなら切腹をと、毅然とした対応を勧めます。
そして、600石以上、2千石未満の藩士の嫡男を、荒津山の沖の鵜来島(うくじま)に集め、聞き入れられなければ全員切腹するとの血判状をとって、長政に忠之の襲封を懇請するのです。
藩の中核の若侍全員の嘆願とあれば、長政も聞かないわけにはいかない。廃嫡は取りやめになります。

それで、大膳が忠之へ諫書(かんしょ)を出すのですが、これが飲酒の心得、早寝早起きの勧めと、子供をさとすような内容で、若殿は頭にくる(笑)。
長政は、大膳に忠之の後見を頼んで亡くなりますが、忠之は次第にうっとうしくなってくる(笑)。
そこで能吏の倉八十太夫(くらはちじゅうだゆう)に目をかけて、200石の近習役を、わずかの間に1万石の重臣に取り立てる。戦陣を駆け抜けた大膳たちには許せないことで、十太夫は〝君側(くんそく)の姦(かん)″でしかない。

四島

戦国以来の武断派と、※元和(げんな)偃武(えんぶ)以来の文治派の能吏との相克で止むを得なかった。これが黒田騒動の背景ですね。

※偃武=武器をひつぎに納めて使わないこと

藤金之助氏

黒田騒動は忠之が殿様になって10年目におこりました。福島正則や加藤忠広といった、豊臣に縁のある大名が、あまり明確でない理由で改易されている。忠之の行状では取り潰しを免れない。万一、自分が討たれれば、それを理由に藩の改易になりかねない。
それを憂えた大膳が、忠之の非を幕府の日田代官、竹中采女正(うねめのしょう)に提訴する。そうなれば、公事となって、忠之は手を出せない。また采女正の父の竹中半兵衛(はんべえ)に長政(萬寿)が助けられている。その縁から、幕閣への配意を読んでいたのではないかと言われます。

吉永

訴状は、忠之が、幕府禁制の大船、鳳凰丸(ほうおうまる)を造った。新規に足軽200人を抱えた。家光の弟、駿河大納言忠長(するがだいなごんただなが)の謀反(むほん)に加担したといったもので、老中土井利勝邸で行われた評定で叛意はないと無罪。
ただし、筑前の太守にあるまじき不行跡と、家中騒動に及んだ咎(とが)で領国を取り上げる。だが、父祖の功に免じ、改めて筑前52万石を宛行(あてが)う、という名判決でした。
森鴎外(もりおうがい)の『栗山大膳』では、「右衛門佐(うえもんのすけ)(忠之)に逆意があるように申し立てたのは、右衛門佐の自分に対する私(わたくし)の成敗を留めるためであった。もし、あのままに領国で成敗(せいばい)せられたら自分の犬死には惜しむに足(た)りぬが、右衛門佐は御取り調べも受けずに領国を召し上げられたであろう。この取り計らいは憚(はばか)りながら武略の一端かと存ずると言うのである。役人席には感動の色が見えた」とあります。
大膳は、盛岡の南部藩預かりとなったが、150人扶持を与えられ、五里四方の出歩き自由と、寛大な判決。まだ42歳の壮年でしたが、藩の改易を免れ、名誉も与えられて、満足して62年の生涯をおくったでしょう。十太夫は高野山へ追放です。

司会

評定が言いわたされるまでの約1年、藩士たちは気が気でなかったでしょう。大膳は忠臣か、奸物か。論議がわかれますが、忠臣蔵(ちゅうしんぐら)の大石内蔵助(おおいしくらのすけ)のエールがきいていますね。

内蔵助は、「自己の悪名をかえりみずに、主家を守った、栗山大膳殿には、はるかに及ばない」と言ったそう。大膳忠臣説の決定打でした。

島原大変と長崎警備御番

吉永正春氏

司会

忠之の治世(ちせい)で、もうひとつの大変が島原の乱ですね。

吉永

黒田騒動が終わって、ほっとしたのもつかの間で、4年後の寛永14年(1637)に、肥前島原と、肥後天草の領民約2万8千人が、島原の原城にたてこもりました。
厳しい年貢取り立てに苦しむ農民と、弾圧されているキリシタン、そして関ヶ原合戦で主家を失った小西家の浪人が結束して、16歳の益田四郎時貞、通称天草四郎を総大将に、幕府に反旗をひるがえしたのです。

幕府から派遣された板倉重昌が、佐賀、久留米、柳川、島原四藩の兵を率いて攻めますが、三方が海、正面が沼地の要害にこもった、一揆の士気が盛んで敗退。追い詰められた板倉は、寛永15年(1638)元旦、先頭に立って、総攻撃をしますが、鉄砲玉にあたって絶命。
その後、総大将を命じられた老中の松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)は、知恵伊豆と称された人。全九州の大名を動員し、黒田蒲の老臣、黒田美作(くろだみまさか)の提案で干殺(ほしころ)し策(兵糧攻め)をとります。

司会

このときの出兵数は。

吉永

島原に近い隣国の鍋島藩が3万5千人、細川藩が2万3千5百人。黒田藩は1万8千人で、総勢12万4千の軍勢が城を囲み、一揆勢(いっきぜい)の食料が底をつくのを待って、2月27日に総攻撃をかけます。

黒田騒動で、幕府に借りがある忠之は、奉公の見せ所と、藩をあげての奮戦でした。黒田藩の兵站(へいたん)を引き受けたのは、大賀宗伯でした。

吉永

28日午前10時、細川勢が時貞の首をあげて、島原の乱が終結しました。
捕らえられた一揆勢、1万8千人は老若男女を問わず、全員斬り殺されて無残でした。
島原の乱は、幕府に、鎖国の必要性を痛感させます。平定の翌年、寛永16(1639)年に、オランダ、中国の明(みん)と朝鮮の3国だけに、長崎の出島での交易を許し、ポルトガル船の来航を禁止して、徹底した鎖国となる。そして翌年、交易継続の依頼に来航したポルトガル使節等を、通告通りに処刑してしまう。
ポルトガルの報復に備えるために、幕府は寛永18年(1641)に、黒田藩にその年の参勤交代を免じて、長崎警備御番を命じます。翌年から、佐賀、鍋島藩との交代で、藩士約千百人を派遣。この役目は、幕末まで続きました。
藩主もオランダ船の来航する4月と、帰帆(はん)する9月の2回、長崎に出向きました。正保4年(1647)のポルトガル使節再渡来の警備では、島原の乱の1万8千人に次ぐ、1万千3百人も送り出しています(総勢5万人)。

四島司

そのときですね。開戦になれば、藁束でポルトガル船を焼き討ちにと、大賀宗伯と伊藤小左衛門(いとうこざえもん)が藁葺きの民家を買って、忠之を助けています。
長崎警備御番は膨大な出費でしたが、当時は雄藩の誇りであり、開明な殿様と士風を生みだしました。

司会

黒田騒動のあとは、懸命につとめていて。忠之暗君説は巷説本の影響ですか。

吉永

森鴎外はお綱さん事件や、空誉上人(くうよしょうにん)などの巷説をのせた『箱崎釜破故(はこざきふばこ)』を信ずるに足りない俗書と一蹴しています。

彼の不運は、あまりにも、始祖の如水、藩祖の長政が偉大だったことですね。名君入りは無理としても、暗君のレッテルははずしましょうよ(笑)。

吉永

忠之の治世は、元和9年(1623)から、承応3年(1654)まで、32年間でした。福岡城内で、53歳の生涯を閉じています。真言宗に帰依していたので、殉死した6人とともに真言宗の東長寺に葬(ほうむ)られています。

3代・光之と「南方録」の立花実山

3代・光之

司会

3代・光之(みつゆき)は忠之の長子で、80歳まで長命の殿様ですね。

吉永

寛永5年(1628)生まれで、承応3年(1654)、27歳で家督をついで34年間の治世です。善政も多く名君の1人でしょう。
上米(あげまい)の廃止。藩が財政急迫で藩士の禄高から、天引きして借り上げていました。上米の廃止は実質的なベースアップで歓迎されたでしょう。
年貢を計る入りの枡は容量が大きく、藩が支給する出の枡は小さく不公正だった。それを、同じ京枡に統一。
ドル箱だった櫨(はぜ)の植栽をすすめ天和(てんな)2年に小石原焼を興している。
荒戸の船着場を整備して、兵庫の鞆(とも)、赤間の関(下関)、長崎と並ぶ、大坂以西の良港のひとつにした。
百道松原に紅葉八幡(もみじはちまん)を勧請(かんじょう)し、神領百石を寄進(現在は、早良区高取)。

家臣にも恵まれましたね。全国に知られた大学者の貝原益軒(かいばらえきけん)[寛永7年(1630)~正徳4年(1714)]と、茶道「南方流」の宗匠とされている立花実山(たちばなじつざん)[明暦元年(1655)~宝永5年(1708)]、そして領内に『農業全書』の宮崎安貞がいました。

四島

貝原益軒は、幕末に渡来したフォン・シーボルト[1796~1866・来日文政6年(1823)~文政12年(1829)。再来日安政6年(1859)~文久2年(1862)]が日本のアリストテレスと激賞した大学者ですね。

吉永

益軒は19歳で忠之に仕えたが、忌避されて浪人。27歳で光之に見出されて再出仕(しゅっし)。4代の綱政にも仕えて、恵まれた生涯を85歳で閉じています。博学で、実証を下敷きに構築した学系で、代表作とされている『黒田家譜』と、『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』『大和本草(やまとほんぞう)』(日本の薬用になる動物、植物、鉱物の一切をのせた)の3作のほか、『養生訓(ようじょうくん)』『菜譜(さいふ)』『女大学(おんなだいがく)』(和俗童子訓のダイジェスト版)などのベストセラーで知られています。

司会

身辺には立花実山が。

実山は、藩の重臣の家柄で、知力、胆力に優れた人物でした。利休高弟である南坊宗啓(なんぼうそうけい)が師の口伝(くでん)を詳細に書きとめ、それを7巻に編成した[文禄2年完(1593)]秘録『南坊録(なんぼうろく)』を書き写して、利休の茶の真髄を現代に伝えた、茶道南方流の宗匠として知られています。
既に「覚書(おぼえがき)」「會」「棚」「書院」「臺子(だいす)」の5巻を筆写していた実山は江戸へ参府の途中、大坂で、堺の茶人、納屋宗雪(なやそうせつ)から借りた「南坊録」の残り2巻「墨引(すみびき)」と「滅後(めつご)」を、夜を徹して筆写し、主君の光之も筆写を心待ちしていたそうです。

吉永

文化面でも、優れた殿様だったのですね。その半面に、世子、綱之の廃嫡。博多の豪商、伊藤小左衛門の処刑の暗い影がありますね。
寛文7年(1667)8月、対馬の鰐(わに)の浦に時化(しけ)を避けて入港した船から大量の禁制の武具が発見され、船主は、糸割符商人(いとわっぷしょうにん)(生糸の輸入業者)の伊藤小左衛門と分かった。
長崎警備で藩の面目を守った小左衛門だが、長崎警備御番の体面から密輸の現行犯は許せない。それで、小左衛門らは磔(はリつけ)、幼い子供まで処刑。膨大な資産を没収します。

光之は後年まで、小左衛門の処刑を悔やんでいたそうです。博多出身の末次平蔵(3代)も延宝4年(1676)に、手代の密貿易が露見して流罪にされています。

吉永

そして後継者で悩んでいます。長子の綱之の酒乱を懸念して、延宝5年(1677)に廃嫡。直方藩を継がせていた次男の長寛を呼び戻し、綱政と改名させて、世子とします。

司会

綱之の廃嫡は、第2の黒田騒動といわれているそうですね。

4代・網政

吉永

光之は元禄元年(1688)に4代・綱政に家督を譲りますが、20年後に、光之が80歳で亡くなると暗雲がたちこめるのです。
翌年の宝永5年7月、幽閉されていた綱之が急死し、剃髪して寺に入っていた綱之の補導役の実山に嘉穂郡鯰田(かほぐんなまずだ)での入牢(じゅろう)が言い渡され、その年11月に足軽たちに撲殺されたと伝えられています。太守光之を支えた優れた人物、茶道史にのこる実山の悲惨な最期でした。
綱政は文化人で、狩野永真(かのうえいしん)に絵を習い、夢で見た菅公の像を描いて、天満宮に寄進し、自筆の絵馬を各神社に奉納しています。正徳元年(1711)に逝去。53歳でした。
昭和25年5月、崇福寺の黒田家の墓地改修で、綱政のミイラ姿が現れて話題になりました。長崎で学んだ筑前の医師たちは、ミイラの技術を、マスターしていたのですね。

貝原益軒と『農業全書』の宮崎安貞

5代・宣政
6代・継高

司会

綱政の時代には、貝原益軒に匹敵する農学の大学者、宮崎安貞が出ていますね。

吉永

彼は芸州広島の人で、正保4年(1647)、25歳の時に、福岡へ来て、忠之に仕え、山林奉行になります。だが、すぐに辞めて、農業研究に没頭します。

諸国を回って、農業の実態に触れ、研究をかさねて、農民の所得向上にも陽をあてています。筑前怡土(いど)の周船寺(すせんじ)の女原(みょうばる)に住み着いて、『農業全書』10巻を著します。
該博な内容に共感した益軒が「本邦農業の権与(けんよ)(はじまり)なるべし」と序文を書き、兄の楽軒(らくけん)が付録の1巻を献じています。全巻が、益軒の本を出している京の柳枝館から出版されて、ロングセラーになり、海賊版まで現れました。
安貞は初版を手にして、元禄10年75歳でなくなっています。黄門で知られる水戸光圀(みとみつくに)は、1日も手放せない本と激賞しています。

四島

それだけ評価された益軒や、安貞を、藩は別段厚遇もしていないでしょう。不思議ですね。

司会

のちの天保時代には歌人大隈言道(おおくまことみち)もいますね。

吉永

1日100首、見るもの、思うことを歌につくった。東の橘曙覧(たちばなあけみ)と対比される存在です。

ことなくば、花のもとにて暮しなん
帰るさまには 月も出ぬべし

司会

次は5代・宣政(のぶまさ)です。正徳3年(1713)27歳で殿様になります。

吉永

なぜか、この人は、35歳で隠居し、江戸屋敷で60歳まで生きていた。6代・継高(つぐたか)は、幼名菊千代。直方藩主長清(ながきよ)の長男です。福岡藩はこの時から幕末まで、代々養子さんです。享保4年(1719)襲封し、明和6年(1769)治之(はるゆき)に譲るまで治国51年にわたりました。直方藩は跡継ぎがいなかったので、父の長清が亡くなると、継高の本藩に吸収されて廃藩になります。

享保(きょうほう)の大飢饉(だいききん)は継高の時代ですね。享保14、16年(1729、1731)は不作、17年(1732)は大水害。それに蝗(いなご)や、葉虫、茎虫の被害で、平年作47万石が、たったの7万石しか穫(と)れなかったのですから大変です。
餓死10万人といわれますが、藩の人口が35万人ぐらいですからあり得ない。藩の記録は死者千人ぐらい、飢え人9万人とあります。亡くなったのは貧民層で哀れです。飼料がないから、牛馬もばたばた。狂犬病ははやる。地獄絵だったでしょう。

吉永

博多では西浜町、福岡では魚町浜で粥の炊き出し、藩は荒戸の浜でお救い米を渡しました。わらべ歌に歌われている「つんなんごう つんなんごう 荒戸の浜までつんなんごう」は哀切です。
このとき継高は、8代将軍の吉宗にならって設けた目安箱の訴状を取り上げて、「用心除(ようじんよけ)」の制度を設けています。田1反について、米3合。
畑は1反につき大豆3合。市中は戸ごとに応分。武士は百石について米5升の備蓄をして、飢饉に備えたのです。

司会

ほかにいろいろと。

吉永

街道の労役と馬の提供は、農民の義務でしたが、料金は天領、譜代大名領、外様大名領の順に差がつけられていて不公正でした。交通量が増えて、農繁期の農民の負担が大変です。幕府にねばって、大幅ダウンをのませている。農民には大福音だったでしょう。

藩祖長政の「異見会」を復活。継高は「君臣和合の型(かたち)は、これにすぎたるものはあらじ」と言っています。宝暦4年(1754)に造られた藩主の別荘友泉亭は、維新後、役場になったりしましたが、今は、市民の憩いの場です。
名の由来は
世にたへ(え)ぬ あつきもしらずわき出(いづ)る 泉を友と結ぶ庵(いおり)は」。

久世三位通夏卿(くぜさんみみちなつきょう)

東の修猷館 西の甘棠館

吉永

一橋家から徳川宗尹(むねただ)の子11歳の隼之助を養子に迎え、明和6年(1769)7代・治之(はるゆき)に。領民に慕われましたが、天明元年(1781)30歳で逝去。治世13年でした。遺言で学問所(修猷館と甘棠館)の設置という大きな贈り物を残しました。

次も養子で四国丸亀の京極家から高幸を迎え、天明2年、29歳で、8代・治高(はるたか)に。だが治国1年に満たずに亡くなる。9代・斉隆(なりたか)は、徳川民部卿治済(みんぶのきょうはるさだ)の第3子で6歳の幼君、11代将軍家斉(いえなり)の弟です。
天明3年、藩は儒臣の竹田定良(たけだていリょう)と亀井南冥(かめいなんめい)に東西学問所の設立を命じます。
「諸士仲間(しょしなかま)に恥をわきまえず、心得(こころえ)違(ちが)い出来候根元(できそうろうこんげん)は、多くは稽古事(けいこごと)をも心がけず、自由に暮し候(そうろう)ゆえ文盲懦弱(もんもうだじゃく)にて道筋存(みちすじぞん)ぜざることより事(こと)起こり申す儀(ぎ)にて候」とあって、学問所で、びしびし仕込んでくれと命じています。現代にも通じるようで(笑)。

吉永

そして天明4年(1784)1月、大名町の上の橋に竹田が開いたのが東学問所の「修猷館(しゅうゆうかん)」。同2月に亀井は城西の唐人町に西の学問所「甘棠館(かんとうかん)」を開所しました。藩校ですから、入学資格は武士の子弟で11歳からの義務教育でした。神官、医師の子弟も許されました。

司会

両方の意味をひらたく、どうぞ。

吉永

そのままにしか、仕方がありませんね(笑)。「修猷」は中国の古典、「尚書(しょうしょ)」(書経(しょきょう)の別名)の「微子之命(びしのめい)」にある「践脩蕨猷(せんしゅうけつゆう)」からの引用。
「蕨(その)猷[みち・有徳仁慈(ゆうとくじんし)の君主といわわれた殷(いん)の湯王(とうおう)の道]を践(ふ)み脩(おさ)む」の意で難しい。
「甘棠」館も、負けてはいない(笑)。「詩経(しきょう)」召南篇(しょうなんへん)の「蔽芾甘棠勿剪勿伐」からの引用で、「蔽芾(へいはい)たる甘棠(かんとう)剪(き)る勿(なか)れ伐(き)る勿(なか)れ」と読む。周の文王(ぶんおう)の子で、名君といわれた召伯(しょうはく)は村々を回って民衆の声を聞いて訴えを裁(さば)いたが、迷惑をかけないように、いつも蔽芾たる(こんもり茂った)甘棠(ヤマナシ)の木の下で、野宿をした。それで人々は蔽芾たる木を伐ってはならない。召伯さまが泊まられる木だから、とうたった。
甘棠館は仁慈の人が集うところとの意も、南冥先生の苦心のあとですね。

四島

う~ん。どちらも深いなあ(笑)。

司会

東西の違いは。

修猷館は、貝原益軒と同じ朱子学派、甘棠館は萩生徂徠(おぎゅうそらい)の古典学派。どうも、南冥の方が活動が派手で人気があったらしい。ところが、幕府が、朱子学以外を異学として禁じてしまう寛政異学の禁で、甘棠館は、廃止となったのです。

吉永

だが、南冥先生は金印で名を残しましたね。天明4年(1784)の2月23日、志賀島の甚兵衛さんが、水田に溝を掘っていて大きな石の下から金印を発見した。南冥は100両まで出すから譲れと交渉したが、藩庁におさまる。
後漢書(ごかんじょ)」の「東夷伝(とういでん)」にある「光武賜以印綬(こうぶたまうにいんじゅをもってす)」と推定して、「金員弁(きんいんべん)」を著し、「漢委奴国王」が、今の定説では「カンノワノナノコクオウ」だが「カンノヤマトノコクオウ」と読んでいる。

斉隆(なりたか)は病弱だったので、寛政7年19歳でなくなる。老臣任せで、直接の治世はゼロですね。

吉永

次は生まれたばかりの赤ちゃん松次郎が継いで、ギャット殿様と言われた10代・斉清(なりきよ)です。
藩内では、ひそかに易儲事件(えきちょじけん)とささやかれていたそうです。斉隆の子の出産まで喪を秘していたが、生まれたのが姫だったので、ひそかに秋月藩主長叙(ながのぶ)の三男秀五郎とさしかえたというのです。
斉清は生まれると同時に黒田藩主で在位40年ですが、維新への胎動の時にふさわしい、開明的な殿様でした。

司会

文化文政時代は江戸文化が頂点に達したころですが、長崎にフォン・シーボルトが来ていますね。

吉永

ようやくナポレオンの支配を脱したオランダが、日本学を深めるために文政6年(1823)に第1級の知識人、シーボルトを送り込んだのです。
シーボルトは医学、動物学、植物学、地理に詳しく、長崎の鳴滝塾(なるたきじゅく)で医学を教えました。彼に学んだ福岡藩の、武谷元立(たけやげんりゅう)、百武万里(ももたけばんり)らが、大浜で、筑前最初の人体解剖をしています。

殿様の斉清が、長崎御番巡視の時に、養子の長溥とともに会っている。斉清は本草学(ほんぞうがく)(博物学)に詳しかったので話がはずみ、鳥類の博識にはシーボルトが驚いたのでは。
斉清は、長崎護衛の責任者として、シーボルトから海外事情をさらに知りたく、学問の喜びと両立したのでは。殿様とドクター、いい交友だったのですね。

最後の殿様 11代、長溥

最後の殿様
11代・長溥

司会

さて、最後の殿様は11代・長溥です。維新前後の激動期の殿様ですから簡単には言い尽くせませんね。
幸いに、本シリーズの20号で、地方史家柳猛直さんに『学問好きの最後の殿様・黒田長溥』を、伺っています。詳しくは、参照していただくとして、長溥さんのエキスを。

吉永

豪傑殿様で知られた、島津重豪(しげひで)の九男で、幼名桃次郎。文化8年(1811)生まれで、文政5年(1822)、12歳で斉清の養子となり、斉清が眼病のため40歳で隠居したので、天保5年(1834)、24歳で黒田藩最後の殿様になります。

四島

実父、養父とも、シーボルトに面識があり、長溥も、再来日した彼と親交を持っている。大名家の開明度では、ちょっと比べようがない。

嘉永6年(1853)にペリーが来航して、その対応を幕府が諸侯に諮問しますが、長溥の意見書は現実的開国論を展開して、群を抜いた明快な論旨で幕閣を感嘆させたといいます。

吉永

賢君、島津斉彬(なりあきら)を外から支え伊達宗城(だてむねなり)や、老中首座の阿部正弘と親しい。そして、実の姉が11代将軍家斉(いえなり)の正妻です。長溥が天(朝廷)幕(幕府)親和を、ポリシーとしたのもうなずけますね。
第1次長州征伐を加藤司書(かとうししょ)に命じて、穏当に収束させたときまでが長溥の華(はな)で、勤皇倒幕の怒涛には1歩身を引きました。

平野國臣(ひらのくにおみ)や乙丑(いっちゅう)の変(へん)で失った加藤司書たち、新しい日本を担う勤皇派を、維新前夜に失ったのは、痛恨のことでした。
だが、天誅と称して、藩の要臣や商人の殺害をはかる僭越な行動が許せず、処断は、殿様の我慢の限界だったのでしょう。

司会

そして維新後は、保守派の要人たちの責を負っての最期を見とどける。

吉永

時代の変遷の中に、戊辰戦争で東北から北海道まで藩兵を派遣する。その膨大な財政負担をカバーするために藩政が行ったのが秘密の太政官札の贋造でした。
他藩も同様でしたが、諸藩への見せつけのために、責任者5人断罪の過酷な処断でした。そして、廃藩置県の前夜に、藩知事、12代・長知が罷免されたのです。

長溥ら、藩主一家が東京へ発つ日、沖の藩船環瀛丸(かんえいまる)へ向かう船が岸を離れたとき、万に近い見送りの群衆から、号泣がおこったそうです。その日は、明治4年(1871)、 8月23日。長政の筑前入国から、272年。黒田氏の筑前での歴史が閉じられたのです。
それから明治6年に筑前をおおった農民一揆の竹槍騒動と、明治10年の福岡の変
最後の殿様もつらいお役目でした。激動の中に、ひとり、大きな孤独感のなかにあったのでは。

むすびに

司会

黒田300年を総括して。

吉永

1番には、やはり為政者の黒田藩が、町人の町博多との融和を図った300年だったことでしょうね。

苛歛誅求(かれんちゅうきゅう)の藩政では、なかったし、殿ご乱行の奢侈(しゃし)もなかった。
福岡藩の友泉亭は、岡山の後楽園、金沢の兼六園、水戸の偕楽園、高松の栗林公園、熊本の水前寺公園と比ぶべくもない。
修猷館高校(旧制中学)は、7代治之の遺志で生まれ、11代長溥の熱意を受けて、金子堅太郎の奔走で蘇りました。

吉永

最後の殿様は、藩の俊英を欧米に留学させて、明治日本の興隆に尽くしました。
ハーバード大学の学友、セオドア・ルーズベルト大統領を動かして、日露戦争の講和締結に尽力し、旧憲法の草案作成にかかわった金子堅太郎。
不平等条約改正に尽力し、特命全権公使として、イタリア、アメリカ、そして日露開戦前のロシアとの交渉に力を尽くした栗野慎一郎(くりのしんいちろう)。
マサチューセッツ大学で鉱山学を学び、三池鉱山に入社(1年後に三井鉱山となる)、三井合名会社理事長として、貿易、金融、ほかの全般を統括、日本経済の重鎮として活躍した団琢磨(だんたくま)。
日露戦争で革命派を支援して、内部の撹乱(こうらん)を図り、勝利の陰に明石ありといわれた明石元二郎(あかしもとじろう)。
そのほか、多くの俊英を海外へ留学させて、新日本の建設に役立たせています。

そういえば、黒田奨学会も、90年間地道に業績を引き継がれ、すでに700人以上の有為な郷土の若者が世に送り出されているそうです。明治維新の傑物、勝海舟が、筑前の人間に、「あんたとこの殿様が1番出来だよ」と言ったそうです。
長溥から、江戸藩邸の蘭書の勝手持ち出しを、許されていた義理はあったでしょうが、苦労人海舟ならではと、うなずけますね。

司会

黒田藩の終焉(しゅうえん)に立ち会ったのは、伊勢の藤堂藩から養子に迎えられ、明治2年2月に家督を譲られた12代・長知(ながとも)ですが、実際の最後の殿様、長溥で、結びます。
一息に300年を、ありがとうございました(笑)。

吉永正春(よしながまさはる)氏 略歴

1925年東京に出生。
旧制豊国商業学校(北九州市門司区)卒業。
現在歴史研究家として活躍。主な著書に『筑前戦国史』『九州の古戦場を歩く』『九州戦国の武将たち』『戦国九州の女たち』『筑前戦国争乱』『九州戦国合戦記』。その他多数の著書。
本シリーズにNo.20「戦国武将と博多」No.51「加藤司書」を話されている。

藤金之助(とうきんのすけ)氏 略歴

1927年、福岡に出生。
西南学院卒。
フクニチ新聞代表取締役、綜合広告社社長を経て、黒田家藤香会会員。
黒田藩史を研究。