No.76 走れ“アロー号”

対談:平成17年10月

司会・構成:土居 善胤


お話:
株式会社 矢野特殊自動車 社長 矢野 羊祐氏
聞き手:
西日本シティ銀行 会長 本田 正寛

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


模型飛行機大会で金賞 運命の出会い

Profile:矢野倖一 年譜

矢野倖一
(昭和43年11月叙勲記念 76歳)

司会

今日は、福岡の誇りであり宝である、アロー号のお話を伺います。
アロー号は、大正五年(一九一六)に、お父上の矢野倖一さん(明治ニ十五~昭和五十、一八九ニ~一九七五)、当時二十三歳の倖一青年が、作り出された自動車で、現存する日本最古の国産車ですね。
今年はアロー号誕生から足かけ九十年、倖一さんが亡くなられてから三十年に当(あ)たります。そこでアロー号誕生の物語から…。

矢野

アロー号は、手作りの車ですが、自動車の基本要件は、全部満たしていて、九十年前の福博の街を時速五十キロ近くで走りました。
そして、今でも走れます。

本田

物語の発端は、お父上である当時十九歳の矢野倖一青年が、模型飛行機大会で最高賞をもらったことから始まるのですね。
当時、青年はまだ、福岡工業学校(旧制)機械科の四年生で…。

矢野

西日本新聞の前身である福岡日日新聞の主催で、明治四十五年(一九一二)四月二十日に、当時の城内練兵場で催された大会ですが、審査員の日野熊蔵少佐が光っている。

本田

日本初の飛行に成功した日野大尉(当時)ですね。

矢野

審判長が福岡歩兵第二十四聯隊長の横地長幹大佐で、審査員は県の関係者や、福岡工業学校の藤川勝丸校長ほかの顔ぶれです。

司会

アメリカのライト兄弟が初めて飛行に成功した明治三十五年(一九〇二)から十年目。徳川好敏大尉と日野大尉の日本初飛行から二年目で、当時の、空への熱い期待が読み取れますね。

明治四十三年(一九一〇)十二月九日、代々木練兵場で、徳川大尉が、フランスのアンリ・フォルマン複葉機で約三千メートルを。日野大尉がドイツのグランデ単葉機で約千メートルを飛行したのが日本初飛行の記録でした。

矢野倖一少年とエンジン付き
模型飛行機

矢野

多数の参加でしたが、ゴム巻きのプロペラ機ばかりで、エンジン付きの模型飛行機で参加したのは倖一だけでした。
その模型飛行機を手にした写真が残っています。二百回転・四気筒・十二分の一馬力の手製エンジンをセット。工業学校三年生のときでした。
だが、期待を集めたエンジン機は、倖一の手を離れた途端に、数メートルで草むらにダウンです。

司会

せっかくの努力が水の泡で。

矢野

だが、与えられたのは、なんと最高の金賞で、副賞がイーストマン・コダックのカメラだったのです。

本田

青空に舞うゴム飛行機を差し置いて、ダウンしたエンジン機を金賞に。飛行機時代の夜明けを告げるハプニングだったのですね。

矢野

空へのあこがれは、 豊前市出身の飛行機発明の先駆者である矢頭(やず)良一(明治十一~四十一、一八七八~一九〇八)という人の、空想科学小説に夢中になって芽生えたと言っていました。宇宙船が登場する宇宙戦争で、挿絵の写真が残っています。
模型飛行機大会から数日して、和服の風格のある紳士が人力車で福岡工業学校を訪ねて、校長先生に矢野少年に会いたいと言われる。
紳士は、明治十年の西南戦争の軍需品輸送で、財をなした村上義太郎さんでした。
「新聞を見て、君の素晴らしい着想に感心した。飛行機も大切だが、これからは自動車の時代だ。
どちらもエンジンだから、まず自動車を作って、飛行機に変わればいい。援助は惜しまないから、一緒に自動車を作ろう」と、少年には夢のようなお勧めでした。

本田

そのころは、炭鉱主の伊藤伝右衛門(いとうでんえもん)さんらが舶来の自動車を乗り回していたでしょうが、庶民にはまったく縁のない存在で…。

矢野

倖一が村上翁は百年先が見える人と言っていましたが、日本の道に合った、誰でも乗れる国産の小型自動車を作りたい、というのが、村上さんの信念だったのですね。

本田

この機縁で、アロー号が誕生し、特殊自動車の御社が生まれたのですね。

矢野

村上さんが六十四歳、倖一が十九歳。運命の出会いでした。

本田

ところで、そのお宝の模型機は。

矢野

親戚が「学業(がくぎょう)に励め」と模型機を取り上げて、近くの小学校へ寄付してしまった。どう処分されたことか。晩年の父がとても残念がっていました。

フランス車 ド・ディオン・ブートン

矢野

村上さんは、日露戦争でロシア軍が旅順で伝令車に使っていたフランス製の一人乗りの三輪車※1ド・ディオン・ブートンを、友人の※2金子堅太郎さんのあっせんで手に入れておられた。
単気筒前進二段のプリミティブな車で、それを、二人乗りの四輪車に改造して、走らせてくれと言われる。そして親しかった斉藤鉄工所[現・昭和鉄工(株)]の斉藤一さんの協力を得て、今の博多駅近くのニンジン畑にあった工場を自由に使わせていただき、七人の職工さんまでつけてもらったのです。

  • ※1ド・ディオン・ブートン・トライシクル(三輪車)
    パリの侯爵アルベール・ド・ディオンが技士のジョルジュ・ブートンと共同で製作した自動三輪車。
  • ※2金子堅太郎は福岡藩出身の明治政府の要人。明治憲法の成案作りで伊藤博文を助け、ハーバード大学で親友だったアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領を動かして日露講和に貢献。藩校の修猷館を修猷館中(現高校)として再興。本シリーズ43号に『金子堅太郎』がある。

矢野

藤川校長先生の助言もあって、村上さんの勧めに従いました。家が米相場で失敗して、自立を考えていたこともあったでしょう。
村上さんは、資料を買えと、五十円を下さった。丸善で資料を探しましたが、参考にできるのは、イギリス製小型自動車の写真など数点の資料だけでした。
三・五馬力の単気筒エンジンとトランスミッション以外はほとんど手直し。ラジエーターチューブは一本一本銅管を巻いて作り、作業は新しい車を作るのと変わらなかったそうです。

司会

その年、年号が変わりますね。

矢野

半年後の大正元年の暮れに改造が完了しました。丸ハンドルと折りたたみ式の幌(ほろ)に、ランプやラッパも付けたしゃれたスタイルで、どうにか走れるようになりました。

本田

わずか半年で、すごいですね。

矢野

だが、あちこちで、エンコして、村上のブリキ自動車と冷やかされたそうです。(笑)

本田

その後の、ド・ディオン・ブートンは。

矢野

後に分解されて、エンジンは農業機械の動力に転用されたそうです。

福岡工業学校二年生時代の
矢野倖一少年

司会

果敢(はか)ないカーライフでしたが、この改造を踏み台にして、四年後に「アロー号」が誕生したのですね。
で、ちょっと気になりますが、車に取りつかれて、倖一さんの学校の成績は。

矢野

三年生のときの表彰状に、「前学年中、品行端正学業優等ナリトス 仍(よっ)テ其賞トシテ進講録一部ヲ授与シ之(これ)ヲ表彰ス」とあります。(明治四十三年四月十一日付)
だが、その後に、タイプで「之ヨリ学業、少々低下」と付記してあって気になる。(笑)

科学への目覚めが精米機

本田

倖一さんは、子供の時から科学少年だったので…。

矢野

家が福岡県の北の、芦屋の造り酒屋で、廻船(かいせん)問屋の舟がよく着(つ)いていたそうです。酒蔵の長男ボンボンは、お土産に玩具や本をよくもらっていたそうで。時計はすぐに分解して、叱られたそうです。
叔父がガソリン発動機を使って近所で精米業をしていました。精米機で籾(もみ)から米ができるのが面白くて仕方がない。幼児の時から精米機の前にちょこんと座って、飽きずに見ていたそうです。

本田

アロー号を生み出した倖一さんの、科学への目覚(めざ)めが精米機だった。愉快な話ですね。

矢野

中学は、父親から近くの東筑中学を勧められたが、どうしても福岡工業学校の機械科へ行くといって聞かなかった。

本田

精米の動力から、村上さんとの出会いまで、アロー号を生み出す布石が着々と打たれていたのですね。

アロー号の支援者 村上義太郎

アロー号のシャーシーを前に、
村上義太郎翁と矢野倖一青年(大正4年)

本田

アロー号の誕生を支援した村上義太郎さんは、今の博多では、すっかり忘れられていますね。

矢野

明治大正時代の福岡の発展に、大きな貢献をされた人です。
維新の動乱のとき、木更津(きさらづ)に滞陣していた福岡藩の二十一歳の村上さんたちが、彰義隊(しょうぎたい)討伐に参加するために、兵糧弾薬を馬の背に積んで上野に駆(か)けつけると、すでに戦いは終わっていて、迅速搬送の要を痛感したそうです。
そのあと大阪で、藩の勤王(きんのう)のリーダーである早川勇から、これからは実業報国の時代だと教えられ、福沢諭吉(ふくざわゆきち)が著(あらわ)した『西洋事情』を読んで、目からうろこの落ちる思いだったそうです。
そこで、手始めに大阪の車力組の元締めから、車力(荷車)の製造、運営のノウハウを学びました。
帰郷後、「万物輸送所」を起こし、福岡から鳥栖(とす)、久留米、甘木、柳川までの物資の回送にあたっていました。
明治十年(一八七七)の西南戦争で、西郷軍と政府軍が田原坂(たばるざか)で激戦をしていた時に、銃や弾薬を積んだ御用船が続々と博多湾に入りますが、遠浅の上に荒天続きで、艀(はしけ)で陸揚(りくあ)げができない。困り果てた司令官が、田原坂まで搬送を引き受ける者はいないか、謝礼はいくらでも払うと言いだす。
その大仕事を引き受けたのが村上さんで、当時三十歳。船を、入り江で海が穏やかな、福岡西部の今津湾へ回航させて陸揚げし、車力を動員して田原坂へ運んだのです。
馬に載せて運ぶ仕事を奪われた馬方が各所で道を阻みましたが、人力で通れば文句はなかろうと、人夫たちに荷台を持ち上げさせて、馬方たちの前を通ったそうです。これで莫大(ばくだい)な報酬を得て、事業の基盤を築いたのです。

司会

それにしても、西郷軍敗退の一因が村上さんの武器回送だったとは。福岡藩の旧藩士たちが、西郷さんに呼応して兵を挙げて処刑されますね。その「福岡の変」の直後だけに、歴史の皮肉を感じますね。

矢野

村上さんは、その今津浜がよほど気に入ったようで、のちに一万トン級の船が接岸できる、※1築港計画を立てています。

※1その趣意書には、築港により「荒涼たる、寒村(かんそん)は忽(たちま)ち現然たる殷富繁盛(いんぷはんじょう)の一大都会と変じ九州の地は〈略〉東洋の重鎮となり茲(ここ)に世界の商権を集中し…」とあります。

だが、日清戦争後の経済不況のため、この計画は日の目を見ませんでした。

本田

博多湾の燈台(とうだい)も。

矢野

明治十六年に、博多湾の下対馬小路(しもつしましょうじ)の浜に、長崎のグラバー商会から、フランス製の強力な反射鏡を取り寄せて、燈台を設置しました。
博多湾は遠浅のために、夜間の入港は危険で、沖合(おきあい)に投錨(とうびょう)していたのです。建設費の七千円を今後六十年間入港船から徴収することが物議を醸し、紛糾の末に手放しています。
博多燈台は後の官立燈台制度の実施に伴い廃止されました。

司会

そのレプリカが、福岡市博物館に置かれていますね。

矢野

村上さんは、博多駅に鉄道が敷かれた時、駅前の人力車の権利を一手に引き受けたり、明治二十四、二十五年ごろから、三十年に電燈がつくまで博多の家々にガス燈を灯(とも)した人でもあります。
垣根を越えた展望ができる人で、茂登子(もとこ)夫人を通じて、大正六年に開校した、現在の※2福岡女子大学である福岡県立女子専門学校の創立にも支援を惜しみませんでした。

※2日本最初の公立女子専門学校で、詳細は本シリーズの『福岡女子大物語』(No.48号)をご参照ください。

夫人は、文久三年(一八六三)生まれ。当時の安場保和(やすばやすかず)知事が、藩士の娘を東京に進学させたがそのうちの一人で、御茶の水高師を家庭の事情で中退の後、横浜フェリス女学校を卒業して女子教育に専念しました。
三十四歳の時、村上さんと結婚して福岡高女、福岡高等師範に勤めました。
歌への造詣(ぞうけい)が深く、福博財界の名士クラブだった共進会の婦人部のリーダーでもありました。福岡婦人会会長として、社会奉仕に努め紫綬褒章を受けています。
義太郎さんが亡くなられた時、翁を偲んだ次の歌があります。

わが胸に生きて十年(ととせ)を君はあり
独(ひとり)ならずとひとり慰(なぐさ)む

義太郎さんは、大正十一年(一九二二)四月三十日、七十五歳で逝去。茂登子夫人は、昭和二十六年(一九五一)七月十七日、八十九歳で亡くなられました。お二人は、博多の聖福寺(しょうふくじ)に眠っておられます。

本田

博多開化の先端を切って、わが道を行かれた村上さんは、茂登子夫人に支えられて、幸せな方だったのですね。

矢野

倖一は「村上翁は、博多の発展に大きく貢献された方だから、顕彰したい」と常に言っていました。
アロー号は、村上さんと倖一の二人三脚の証(あか)しで、村上さんは、日本の自動車産業のパイオニアの一人だったのですね。

名前から“矢”をとって、アロー(ARROW)号

ド・ディオン車を改造して作った
幌型自動車と村上義太郎翁

司会

ではいよいよ、アロー号のお話を。

矢野

ド・ディオン・ブートンの改造を踏み台にして、翌年、福岡工業を卒業すると、アロー号の製作にとりかかります。大正二年(一九一三)の八月、倖一が二十歳の夏でした。

司会

でも何もかも初めてで。

矢野

タイヤと、プラグと、マグネットだけは、外国製品に頼っていますが、そのほかは、全部工夫しての国産車です。
溶接技術もまだ不十分だったので半田付(づ)けで丁寧に仕上げています。
三年の苦心の末に、やっと出来上がりましたが、どうしてもエンジンがかからない。頭を抱えましたが、ちょうど第一次世界大戦の青島(ちんたお)作戦で捕虜になったドイツ人が、福岡に収容されていて、その中にベンツの技師、ハルティン・ブッシュさんがいたのです。
陸軍の許可を得て見てもらうと、キャブレターがおかしい。上海(しゃんはい)で売っているから紹介しようとのこと。
それで倖一が上海まで行って、英国製のゼニスのキャブレターを買ってきました。代金が四二円六〇銭。往復船賃が十六円だったそうです。
取り替えると、快調なエンジン音で、手作りのアロー号が走りだしました。

本田

そして、実にいいネーミングですね。

矢野

苦心して作り出した、手作りの自動車に、倖一は名字(みょうじ)の矢をとってARROW、アロー号と名付けたのです。自分でも気に入っていました。

本田

国産車の先端を切って放たれた一筋の矢。新鮮な意気込みを感じますね。

司会

振り返って、整理してみますと。

矢野

フランス車ド・ディオン・ブートンの改造に取りかかったのが、福岡工業四年生の明治四十五年(一九一二)、十九歳。
完成が同年、(大正元年)暮れの十二月です。(明治四十五年七月三十日、大正に改元)
工業学校を卒業して、アロー号に着手したのが、大正二年八月で二十歳。完成が大正五年(一九一六)八月二十四日で二十三歳でした。
アロー号は、・四人乗りの水冷直列二気筒・一〇五四cc・一五馬力・ギアボックスは前進三段、後進一段・時速約五十キロの性能です。全長二五九センチ・幅一一六センチ・重量二七二キロ。コンパクトでも、ちょっと誇らしいですね。

本田

デビューは。

矢野

大正五年の秋に、大正天皇ご臨席で陸軍の大演習が筑紫平野で行われ、統監部の直属カーとして、角田書記官を乗せて演習地を走りました。
翌日は、天皇の九州帝大行幸があり、倖一の運転で、眞野九大総長や中原工学部長、そしてアロー号製作でお世話になった岩岡教授を乗せて、先頭の行列にも加わりました。

本田

晴れの舞台でしたね。

矢野

それが、翌日は暗転。警察に呼びつけられて、得体の知れない車で、万一事故があったらどうするのかと、大目玉を喰(く)らったそうです。(笑)
倖一は、栄光のアロー号に、スポンサーの茂登子夫人を乗せて急坂の八木山峠を上っています。だが、途中でエンコして冷や汗ものだったらしい。(笑)

司会

車の登録は。

矢野

大正六年(一九一七)八月に、自家用自動車として福岡県に登録し、この手作りカーに「F-36」のナンバーが付けられました。自動車の夜明けの時代にふさわしい若い番号で、倖一が常に自慢していました。

ハンガリーの切手にも 今は市の博物館に

ハンガリーの切手にも登場(1975年)
快走アロー号 運転 矢野倖一
(傘を差しているのはお孫さん)

司会

そして外国の記念切手にも。

矢野

一九七五年にハンガリー(MAGYAR)のオートクラブの七十五周年で発行された記念切手、クラシックカー六枚セットにアロー号が入っていてびっくりしました。

本田

アロー号が、世界で公認されているのですね。で、アロー号を運転なさいましたか。

矢野

私も何度も運転しています。時速五十キロは瞬間的には出ますが、私の感じでは、今は、四十キロ強でしょうか。
倖一も頼まれるとよく乗っていたようで、六十歳ぐらいの時、知人の子供さんたちを乗せて、快晴の博多の街を走っている写真が、学習研究社の「二年生の学習」に取り上げられています。
昭和四十三年九月十五日(当時)の敬老の日には、NHKの依頼で七十六歳の倖一が、五十二歳のアロー号に乗って、大濠公園をドライブしています。
新聞記者にかこまれて、「喜寿の日を間近にひかえて、自分でつくった車を運転するなんて、最高でしょうね」と声をかけられ、「ああ、私の秘蔵の愛車だからね。まだまだ、若い人たちには負けられん。これからも大いに頑張るよ」と言って、再びハンドルをグイと握り締めたとあります。

本田

なかなかの活躍ぶりですね。そして、今は博物館に。

矢野

平成五年(一九九三)に、後に福岡市の助役になった私の同級生の井口雄哉(いぐちゆうや)君が来て、新設の博物館にアロー号を寄付できないかとの話です。だが、これだけは、いくら友人の頼みでも聞けない。(笑)
それなら寄託制度がある。博物館で大事に保管するし、市民にも喜んでもらえるとのことで、承知しました。
そうして博物館の大正コーナーに展示されましたが、国宝の「金印」とともに、博物館の目玉として国外に発信されているそうで恐縮しています。

アロー号の特徴 九州帝大の先生も“助っ人”に

博多の街を走るアロー号・矢野倖一運転
学習研究社刊「二年生の学習」
(昭和37年11月号)に掲載

矢野

NHKの取材陣から、自動車業界の人たちまで、アロー号のエンジンを作る技術が福岡にあったのかと半信半疑だったようです。
それで、九州帝国大学(現・九州大学)工学部の岩岡教授の指導をいただいたこと、北九州に官業の八幡製鉄や工場群があって、周辺技術が蓄積されていたこと。市内に※1昭和鉄工などの優れた鋳物吹き上げの技術があったこと。今で言う産学一体のトライができたことを話して、なるほどと了解されたのでした。

※1昭和鉄工株式会社(当時は、斉藤鉄工所)の『百年史』に、明治天皇ご巡幸の折に製作されたお召し列車のラジエーターと、アロー号のボディーの写真が載せられています。

本田

当時の、権威ある九州帝国大学の教授にお願いすることは、一介(いっかい)の倖一青年にとってはたいへんな重荷だったでしょう。

矢野

村上さんは陰で配慮をされていたかもしれないが、倖一に「国民の税金で学問をしてもらっているのだから、国民のためになる国産車の製作に知恵を借りるのになんの遠慮もいらない。誠意と礼儀を尽くしてお願いしなさい」と言われたそうです。

本田

事を成す人の、ひとつの見識だったのですね。
肝心のエンジンもそうした努力から生まれた倖一さんの設計で。

矢野

はい。ピストンリングの、リングをどうしてはめたのか、不思議ですが、エンジンから部品まで倖一が九大の先生や、専門家の知恵を借りながら作ったのでしょう。
「熱心にやれば、できないことはない」がモットーでしたが、青年時代の、父、倖一のたぎりが伝わってくるようです。

(1)エンジン焼きいれの秘密

司会

では、あらためて、アロー号の特徴を。

矢野

亡くなる二年前に『カーグラフィック』の記者が父に密着取材しましたが、ギアの硬度を保つ焼入れの話にびっくりしていました。
昭和六十年の「科学万博―つくば'85」では、アロー号が、NHKのテレビシリーズ「筑波への道」に取り上げられましたが、取材陣が驚いたのも、やはりエンジンの焼き入れ技術でした。

本田

というと、日本刀の技術か何か…。

矢野

ええ。究極の鍛造である日本刀を仕上げる焼き入れに、みそを使う工法があるそうで、アロー号もエンジンのボディーの鍛造の焼き入れに、みそを使っていたのです。

本田

車にみそ。そりゃ、驚きますね。倖一さんは、福岡市の東の芦屋町の出身ですね。桃山時代ごろから珍重されていた蘆屋釜(あしやがま)の伝統を感じますね。

本田 正寛

(2)四人乗りは四人で抱えられる車に

矢野

まず第一に軽量です。ボディーのフレームに合わせて金網を張り、その上に名古屋の張り子の虎の一閑張りをまねて、和紙を何度も張り重ね、柿の渋で防腐処置をして、雨天に備えてアルミ箔(はく)でカバー。この作業に二カ月かかっています。
倖一の軽量化は徹底していて、四人乗りの車は、四人で持ち上げられる重量に、二人乗りなら二人で、オートバイは一人でと言っていました。

本田

それなら、製作費も安い。ガソリンも節約できて、排気ガスも減らせる。田んぼに落ちても引き上げられる。(笑)

矢野

街の道をふさがないし、駐車も簡単と、いいことばかり。さらに万一の事故に備えて、激突緩和のために、弾性のある車体に留意していました。

(3)ホーン

矢野

ホーンは、手押し式と、足踏み式の二つを付けています。近くへは手押し、遠くへは足踏みで警報を鳴らしていました。
手押しでポッポーと鳴るクラクションは、ゴム製の特殊品ですが、風化していて、替えがない。観光地で走っている人力車のものに似ているが、ちょっと違っていて、探しているのですよ。
足踏みの方は、マフラーの途中にホイッスル(汽笛)を取り付け、排気ガスを利用して鳴らす仕組みです。
ホイッスルの名が、またしゃれていて、ナイティンゲール、夜の鶯(うぐいす)です。

本田

ポッポー。牧歌的でしゃれてますね。

矢野

足踏み式はもうひとつあって、ペダルを踏むと、マフラーの先端に付いているフタが開閉して、排気ガスが出る仕組みです。
噴射とまではいかないが、ポーと鳴るたびに、車に勢いがつくのです。坂を上るときに使ったようです。カットアウトリレーといったらしいが、考えていますね。

(4)工夫したライト

矢野

愉快なのは照明です。今のように便利なバッテリーがないから、ヘッドランプ二個にカーバイトのアセチレンガスを利用しています。尾灯は石油ランプです。

本田

筥崎宮(はこざきぐう)の放生会(ほうじょうや)でおなじみだった、夜店のランタンですか。

矢野

ええ。カーバイトを筒に入れて、水を注ぐとガスが発生し、点火すれば発光します。
尾灯は真鍮(しんちゅう)で筒を作って、前面が赤色ガラスです。昔懐かしい夜汽車の尾灯みたいで、ちょっと情緒的。工夫したライトでした。

(5)操作指示は紐と糸巻きで

矢野

そして、各パーツへの操作指示は紐(ひも)を使って、滑車代(が)わりに裁縫の糸巻きを利用しています。

本田

今ならコンピュータですね。それが紐と糸巻きですか。

矢野

今の車との大きな違いは、ぺダルでしょうね。今はノークラッチですが、その前はアクセル、ブレーキ、クラッチの順でしたね。
統一規格もないころで、取り付けも好みのまま。アロー号はアクセルが真ん中にあって、ブレーキのつもりで踏むと飛び出してびっくりです。(笑)

矢野 羊祐 氏

(6)アロー号の価格と部品の数は

本田

アロー号の製作費は。

矢野

一、二二四円七五銭と記録されています。外車が一台、優に買えた金額だったでしょう。

本田

銭単位まで克明に。倖一さんのきちょうめんさがうかがえますね。

矢野

いちばん経費のかかっているのは、職工さん七人の給料の二三四円三一銭。次が、グッドリッチ・タイヤチューブの百十六円で、工業学校の工作機械使用料の四円五〇銭も計上されています。
卒業後も、母校が倖一に便宜を図ってくださったのですね。

本田

今の価額に換算しますと。

矢野

NHKの番組で東京へ送る時に、保険額をいくらにと聞かれたが分からない。結局、国宝扱いでと、二千万円ぐらいでしたね。
父は米の値段で換算していましたが…。

司会

それは、原価で。プラスアルファの価値が大きい。計算のしようがありませんね。それから、今の車は、部品が数万点とか言うでしょう。パイオニアのアロー号は。

矢野

数えたことはないが、がっかりするぐらい、シンプルでしょうね。(笑)

司会

それにしても、北九州の工業パワーや、筑豊の炭鉱資本がアロー号を踏み台にして、自動車産業に乗り出す機運がなぜ起こらなかったのでしょう。

矢野

炭鉱が石炭輸送用に、海軍が陸戦隊用にと倖一の特装技術に関心を示しましたが、乗用車への機運はありませんでした。

(7)私の秘密

矢野

アロー号では、忘れられない話があります。
NHK大分放送局のテレビ放送開始記念で、昭和三十五年九月七日、人気番組の「私の秘密」が大分から全国に放送され、アロー号が「日本に現存する最古の国産車」というタイトルで登場しました。
高橋圭三さんの司会で、物知り博士の渡辺紳一郎、藤原あき、藤浦洸(ふじうらこう)の三人と、ゲストが推理を競う番組で、まだ民間放送もない時代の全国の茶の間を、同じNHKの「ジェスチャー」と二分する好評番組でした。
担当の人たちも、福岡にそんな車があるとは半信半疑だったそうですが、これで、アロー号の存在が広く知られるようになったのです。
スタジオで、私がカメラの前まで運転して、アロー号は全国の茶の間に健在ぶりを見せました。

司会

アロー号も、忙しそうですね。

矢野

昨年は、トヨタ自動車の「※2車づくり百年展」に、現存国産第一号のアロー号をということで、要請を受けて出品しました。東京の交通博物館からも声がかかっています。

※2「トヨタ博物館」十五周年記念企画展「国産車一〇〇年くるま意外史」(二〇〇四年3/30~7/4)

パイオニア車の勢ぞろい

本田

“現存最古の車”がアロー号の勲章でしょうが、パイオニア車の順位では。

矢野

厳密に言えば日本で三番目の国産カーなのです。
第一号は、明治四十年(一九〇七)に、自動車輸入業の吉田新太郎さんと、技師の内山駒之介さんが作った東京の「タクリー号」。第二号が明治四十二年に東京で作られた「国末(くにまつ)号」。第三号が大正五年の「アロー号」となっています。

本田

国産車の先陣争いですね。

矢野

でも、それは後で分かったことで、倖一は、第一号に遅れを取っていたことも、第三号であることも知らなかった。

司会

ホームページでは、「タクリー号」に次いで、第二号の説も…。

矢野

黎明期(れいめいき)のことで、どうもよく調べないと…。

本田

ご謙遜(けんそん)ですね。(笑)
倖一さんはご機嫌のいいときに「飛行機はジェットになり、汽車は電車になったが、自動車は変わらない。格好(かっこう)は良くても、中身は私のアローと、同じじゃないか」と言われたとか。(笑)
アロー号は基本的な機能が現在の車と変わらなくて、今も走らせることができる。
福岡で生まれた、現存最古のアロー号に、クラウンを冠してもいいのではないでしょうか。

独立して…それからの二人

本田

それからの、村上さんと倖一さんは。

矢野

自動車の本場のアメリカへ留学の話もあったようですが、まずは実務をと、福岡に進出した外車を扱う梁瀬(やなせ)自動車商会博多支店[現在の(株)ヤナセ]に入社しました。
弱冠二十五歳でしたが、修理部門の責任者で主任として迎えられ、中等学校卒業で月給三十円と破格の待遇だったそうです。
熊本県庁からの依頼で、シヴォレー一トントラックをダンプボディーに改造してから、同様の注文が次々に来たそうです。次第に営業のことも分かってきて、実家の実情もたいへんなので、一年半ほどで独立したのです。

本田

村上さんとの車作りの夢は。

矢野

独自の道を歩むことになりましたが、新しい特殊自動車の分野に挑み、大正九年には、日本初のダンプカーも仕上げていますから、村上さんの期待にお応えできたのではないでしょうか。
そのころ、母の栄(さかえ)と結婚し、母の実家に借りた福岡市春吉の千平方メートルの敷地で、「関酒場機械部矢野オート工場」の看板を上げました。

司会

自動車工場に酒がついた社名で、今なら許されませんね。(笑)

矢野

外車トラックを石炭の搬送車にと、炭鉱からの改造依頼が続いて、まずは順調なスタートでした。
事業発展とともに、昭和十一年博多区の美野島に移り、十七年に「矢野特殊自動車製作所」に社名を変更。四十一年に東区の上和白へ。五十五年に現在の新宮町に移っています。
戦時中は、海軍の軍需工場に指定され、陸戦隊向けの車両の製造や補修を請(う)け負(お)いました。
戦後は、占領軍に接収されないかとびくびくでしたが、アメリカ軍の車両修理をするシビリアンモータープールを依頼されてほっとしました。さっそく、待合室や事務所は天井から塀までペンキを塗られ、トイレも水洗に。すっかりアメリカ風のハイカラな自動車工場になって、びっくりしました。

キャディラック二台と交換を

矢野

そこまでは良かったのですが、アロー号にたいへんな難題が降りかかりました。
板付司令官がたいへんなカーマニアで、アロー号を見て、アメリカに持って帰って大切にするから、ぜひ譲ってほしい、代価は言い値でいいし、キャディラック二台と交換してもいいと言われる。

本田

占領下で進駐軍絶対の時代ですから、困りましたね。

矢野

かけがえの無い宝だからと訳を話して、勘弁してもらいましたが、司令官がいい人だったので助かりました。
キャディラックは夢の車で、途方も無い高級車でしたから、二台と交換と言われて、アロー号を見直した感じでした。(笑)

戦後、新しい開発に

本田

それから、倖一さんは戦後の自動車業に、特殊な道を開かれたのですね。

矢野

特殊自動車は倖一にと、各種ダンプから冷凍輸送車、アスファルトローリー、空港給油車、車両運搬車など、オリジナルな改造や、製作の話が次々に持ち込まれました。
だが、どんな難しい要望にも、倖一は絶対にノウと言わない。寝食を忘れて、考え、工夫して、結局はそれに応(こた)えていました。

司会

冷凍運輸で知られている福岡運輸さんからも、富永シヅさんの日本最初の冷凍車の相談を受けられて、見事に開発されていますね。富永さんはご本で、たいへん感謝されていますね。

趣味と日常

「交通」から「行通」へ

司会

倖一さんの日常は。

矢野

あれもこれもと工夫する人で、車のことに熱中すると、食事も上(うわ)の空。お弔(とむら)いに空(から)の香典袋を持って行ったり、お祝いの二度届けも。お袋がいつもはらはらしていました。
車に縁がないわけではありませんが、ひところ「交通」の字句改正に夢中になっていました。
いつごろでしたか。ポンペイ遺跡を訪ねて、妙なことに感心して帰ってきました。車両の轍(わだち)の跡が残っている石畳の道路を写してきて、千九百年前のポンペイでは車道と人道が、整然と区別され、人道が少し高くなって車を遮っている。
これが、道路計画の基本で、どんな小さい道でもこうしなければ交通事故は減らないと言っていました。なにぶん、四十、五十年前の話です。
また、“まじわり通る”の「交通」の文字がいけない、“行き通う”の「行通」に変えるべきだとの信念を持って、「行通は自然の理なり。ルールなり。故にその表現は行通であらねばならぬ」と力説していました。
そして、交通安全の懸賞論文に応募し、二等に入選して悦に入っていました。
病膏肓(やまいこうこう)に入るですが、ついには人通りの多い三差路の塀に、「交わりない“行通”へ」と、字句改正のスローガンを大きな看板にして掛けだしたのです。隣が交通安全の本家本元の警察で、署長さんがさぞびっくりされたでしょう。

本田

確かにオリジナルで。その反響は。

矢野

新聞に街の話題で大きく紹介されたので満足したでしょう。
久留米大学の交通医学の先生が、面白いと関心を示されて、学会発表に引用されたそうで、これは望外のフロックでした。
ほかにも、「歩道」は「人道」にと言っていました。

メカいじり カメラから八ミリ映画 etc…

矢野

カメラが、生涯の趣味でしたが、小学生の時、父親に買ってもらってから病みつきでした。
少年時代からの数十冊のアルバムは、撮影の月日と説明が、タイプライターできちんと添えてあります。

本田

そのころは、DPE屋もない。現像や焼き付けも暗室で自分でされたのでしょうね。

矢野

若い時からライカマニアで3A・3C・M3を次々に手に入れ、ドリルで穴を開けたり、いろいろ工夫して楽んでいました。
戦後、ダンプカーの事故が相次いだ時期がありましたが、日本で初めてダンプを作った倖一は黙っておれず、民謡黒田節の替え歌で、「ダンプ子守唄(こもりうた)」をつくって、安全運転を呼びかけていました。
晩年は、気の合った九州産業大学の中村学長さんたちと、海外旅行に熱中していました。工場では、なにかと口うるさいので、若手の連中に、丁重に敬遠されていたのかもしれませんね。(笑)
昭和二十五年でしたか、ある日、カトリック教会の深堀大司教がお見えになって、美野島の工場の隣の四百五十坪の空き地を、施療院建設に寄贈してもらえないかと申し込まれました。倖一は、別段、クリスチャンではありませんが、申し出を受けています。
昭和五十年の秋十月十二日でした。
昭和天皇がブラジルご訪問からお帰りになった時、まだビデオはなかったので、最先端のコダック社製トーキー付き8ミリ撮影機をセットして、テレビニュースを撮(と)るのだと張り切っていました。
だが、本番でメカの調子が悪くなって慌てたのでしょう。高血圧だったので、家族も気を付けていたのですが、電池を差し替えようとして倒れたらしく、孫が発見して病院に運びましたが、十月十六日に亡くなりました。
エンジン付きの模型飛行機に挑んだ少年時代から、メカいじり一筋で、ものづくり八十三年の生涯を閉(と)じたのです。

母・栄

矢野 倖一 夫人(栄さん)

司会

お母さん、倖一さんのご夫人は。

矢野

矢野栄といいます。春吉にあった醸造業の関酒屋の末娘で、私の子供のころは、筑前国(ちくぜんのくに)筑紫那珂川村大字(おおあざ)春吉、関酒造店と、古風な屋号の看板が掛かっていました。長女と末娘の間は年が離れていて、母が嫁ぐころには家運が少し傾いて苦労したようです。
大正十一年十一月に、倖一と結婚しましたが、さっぱりした肝っ玉母さんで、会社の人たちに慕われていました。ものづくり一筋の父に仕えて、会社の経理と経営に、なにより人への気配りの行き届く人でした。
戦前・戦中の軍需要景気の中で、地元の経済界の人たちが、どういう意図があったのか、倖一の技術を生かして新しく矢野特殊自動車の航空機関係の会社をつくる計画が持ち上がりました。
話が進んだところで、母が主人は何になるのですかと聞くと、技師長にとの答えでした。とたんに母が、「阿呆らしい、やめた」と言って、計画がご破算になったことがありました。(笑)
昭和二十六年には、会社が激しい労働争議に巻き込まれて、たいへんな危機にさらされました。
この時も、母が、後に社長になって会社の発展に尽くされた赤司新作さんに惚(ほ)れ込んで、見事に争議を解決しました。
ものづくり一筋の父を、大事なところで支えた母は、昭和四十一年に、父に先んじて亡くなりました。享年、七十歳でした。

矢野語録

本田

では、終わりに、アロー号を作り出された矢野倖一氏の、ユニークな日常の信条、いわば「パイオニア語録」を。

矢野

語録というものではありませんが、本人が口癖のように、申しておりましたことを。

  • 群(む)れるな。
  • ものづくりにできないということはない。どんな困難があっても、やりぬく。不可能ということは言わない。
  • 一生懸命にやっていると、お天道(てんとう)さんは見ていてくださる。
  • 巡(めぐ)り合(あ)いを大切にしないといけない。
  • 堅実が一番。
  • 人に頼むときは、誠心誠意で。
  • 食事の差別はいけない。誰とでも、同じものを。
  • ものづくりは自然に従うこと。無理をすると、ショートする。
  • 酒は生(き)で飲め。天が造ってくれたもの。造る人の心がこもっている。

    ※本人は、酒を飲みませんでしたが、私たちが水で割っていると、いつもこう言って叱っていました。

  • 温故知新

    ※ものづくりにはこの姿勢が大切だと口癖のように言っていました。

日常は作業服でしたが、思わぬところでしゃれていて、絹のガウンや、ベレー帽は、丸善で一流品を買っていました。

司会

すばらしいお話をうかがいました。では、最後に敬意を込めて翁と呼ばせていただきましょう。自動車のパイオニアの、矢野倖一翁とアロー号のお話を、ありがとうございました。

  • 写真は矢野羊祐氏より提供[矢野倖一小伝(走れアロー号)矢野羊祐著がある]