No77 栄光の野武士軍団西鉄ライオンズ

対談:平成19年3月

司会・構成:土居 善胤


お話:
野球解説者 稲尾 和久氏
聞き手:
西日本シティ銀行 頭取 久保田 勇夫

西鉄ライオンズの黄金時代

Profile:「西鉄ライオンズ」と、稲尾投手の軌跡

稲尾和久氏略歴

力投する稲尾投手

久保田

別府市民球場がオープンし、稲尾記念館が設けられる。
おめでとうございます。昭和三十年代に黄金時代を築いた西鉄ライオンズは、読売巨人軍を相手に日本シリーズ三連覇を果たした野武士軍団として、語りつがれています。
私たちの少年時代は、西鉄ライオンズとともにありました。
今日は、そのドラマの主役だった鉄腕投手稲尾和久さんに、栄光のライオンズのお話をうかがいます。

稲尾
西鉄ライオンズ」は、昭和二十六(一九五一)年に誕生した、九州福岡のプロ野球球団です。
平和台球場をホームグラウンドとして、疾風怒涛(しっぷうどとう)の二十二年。数々のドラマを生み出し、昭和四十七(一九七二)年に栄光の歴史を閉じました。そのロマンに、私も青春を燃やしました。

別府の神童稲尾少年

久保田

では、鉄腕稲尾投手の、野球少年時代のお話から。
稲尾さんは少年時代から、漁師のお父さんのお手伝いをして、舟を漕(こ)いでおられた。それが、後年の大投手の足腰を鍛えたのですね。

稲尾
父は漁師で、手漕ぎの小さな伝馬船(てんません)を持っていて、別府湾で一本釣りをしていました。
私は七人兄弟の末っ子ですが、兄たちが戦死したり独立したりで、後継者がいない。父は私を子供の時から舟に乗せて後を継(つ)がせるつもりでした。

久保田

その、頼りの息子さんが、プロ野球に入ると言いだして。

稲尾

ショックだったでしょう。遊びみたいな球打ちをして、飯が食えることが飲み込めなかったのです。
目の前には、せっかく神様が与えてくださった漁場の別府湾がある。漁を教えてやるから漁師になれと。

久保田

漁師を継がないと親不孝。親孝行をすれば、「鉄腕稲尾」は生まれない。困りましたね。
野球を始められたきっかけは。

稲尾

昭和二十四年、私が小学六年生の時に、別府の建設会社であった星野組が、火の玉投手と騒がれた荒巻淳(あらまきあつし)選手(のちの毎日オリオンズ投手)の好投で、都市対抗野球に優勝しました。
オープンカーはまだありませんから、ヒーローたちは飾り立てたトラックの荷台で手を振りながら、別府市内を凱旋(がいせん)パレードしました。キラキラと眩(まぶ)しくて。荒巻選手みたいな野球選手になりたい。その興奮がきっかけでした。

久保田

本格的には中学から。

稲尾

別府の中部(ちゅうぶ)中学校で、大分県の中学野球大会で優勝しました。
そして緑丘(みどりがおか)高校へ。そのころはまだキャッチャーでした。一年生の時、監督の首藤成男(しゅどうしげお)先生が投球力テストをして、お前も投げてみろと言われる。
そしたら、私が一番球威があった。よし、明日からお前が投げろと。それでピッチャー稲尾が誕生した。まあ、いい加減ですね。(笑)

久保田

先生が大投手稲尾の発見者で。

稲尾
先生は監督なのに、野球のことはあまり知らない。カーブはどう投げるのですかと聞いたら、「球をひねって投げたらカーブじゃ。いい投手を見てまねしろ」でした。(笑)
でも忘れられない恩人です。

久保田

あこがれの甲子園には。

稲尾

二年生の時エースで四番だったのですが、県大会でエラーが出て、大分の舞鶴(まいづる)に敗れ、翌年は準決勝戦で佐伯鶴城(さいきかくじょう)に敗れて、甲子園は夢と消えました。

西鉄ライオンズへ入団

久保田

そのころですね。別府に球(たま)の速い高校生がいると、スカウトの人たちの評判になったのは。

稲尾

西鉄ライオンズと南海ホークスから、アプローチされました。

久保田

そして、昭和三十一年に、西鉄ライオンズへ。お父さんも賛成で。

稲尾

当時はドラフトはなくて、選択も自由でした。親父はわしの舟で大阪へは行けんが、福岡なら山を越せばすぐ隣だと、西鉄に賛成しました。(笑)
そして、野球をやるならとことんやれ。三年たって見込みがなければ帰ってこい。みっちり漁を教えてやると。

久保田

契約金にびっくりされたとか。

稲尾

契約金は五十万円、月給は三万五千円でした。高校卒の初任給が五、六千円のころで、まだ五千円札も一万円札もない時代です。
スカウトの竹井清(たけいきよし)さんが、卓袱台(ちゃぶだい)に、現ナマで千円札の束を積まれた時は、親父もお袋も、あまりの嵩(かさ)に仰天しました。十八歳の私には、もちろん夢の金額でした。(笑)

久保田

今、思えば、稲尾さんの西鉄入団は、日本シリーズ三連覇の、壮大なドラマの序章でしたね。

稲尾

それで意気揚々と唐人町にあったライオンズの大円寺寮に入ったのですが、どうも勝手が違う。俺は契約金が五十万円だと胸をはずませていましたが、小倉高から入った同期の畑隆幸(はたたかゆき)君に、氷水を浴びせられました。夏の甲子園で準優勝と活躍した左腕のエースは、なんと十六倍の八百万円、月給も四倍強の十五万円。
桐生高田辺義三(たなべよしぞう)捕手も五百万と十万円で、私とはケタ違い。聞かなきゃよかった。(笑)

久保田

名うての先輩たちとは。

稲尾

大下弘(おおしたひろし)さん、関口清治(せきぐちきよはる)さん、中西太(なかにしふとし)さん、豊田泰光(とよたやすみつ)さん、右を見ても左を見ても、怖(こわ)い先輩ばかりです。
だが、緑丘高先輩の河村英文(かわむらえいぶん)さんが、目の細い私を「サイちゃん」と呼んで目をかけてくれました。

久保田

新人一年生のお役目は。

稲尾

もっぱら雑用係。そしてバッティングマシンもない時代で、手動式練習機と呼ばれながら、先輩たちにボールを投げる毎日でした。
練習では投球の距離も短い。中西、豊田さんら名うての強打者たちから、うなりをあげて返ってくる打球をかわしながらの、はらはらの毎日でした。
毎日三百球から四百球を、打者が喜ぶ「3ストライク・1ボール」の配球で、直撃されないように、打球を右に、左に、またフライをと、私流のコントロールを身に付けたのです。

左より豊田、稲尾、中西選手

久保田

危険と裏返しのハンディを逆手(さかて)にとって、最高の投球レッスンだったのですね。

稲尾

中西さんや豊田さんが、「お前の球(たま)は飛ばんから練習にならん」と言いだして、それが三原脩(みはらおさむ)監督の耳に入った。一軍に上げられるきっかけでした。

久保田

そして、即戦力でマウンドへ。

稲尾

初出場は忘れもしない、昭和三十一年三月二十一日。福岡の平和台球場で、大映スターズ(のちのロッテ)との開幕第一戦でした。
河村投手の先発で11対0。六回表からリリーフで登板。押さえ切っての初戦でした。
まだ高校を卒業したばかり。内心得意になってベンチにもどったが、なんの反響もなくてがっかり。(笑)
先発初勝利は、五月二十日、川崎球場での高橋ユニオンズ(現在のロッテオリオンズ)との試合でした。五回まで1安打、無四球、5三振。河村さんの救援で3対0の勝利でした。
その後はフル回転で、七月始めのオールスター戦までに八勝一敗でした。

久保田

それをきっかけに、鉄腕が火を噴いたのですね。

稲尾

その昭和三十一年は西鉄が南海ホークスと、パシフィック・リーグの覇権をかけて優勝争いをした年でした。杉浦忠(すぎうらただし)投手ほか、投打の名選手を擁(よう)して独特の采配(さいはい)で知られた南海ホークスの鶴岡一人(つるおかかずと)監督と、西鉄ライオンズの若武者軍団を率いた智将三原監督との名勝負が野球ファンを沸(わ)かせました。

久保田

九月八日に七ゲームも離されていた技(わざ)の南海を、若武者パワーの西鉄がじりじりと追い詰めて、手に汗握る争いでしたね。

稲尾

そして十月五日、駒沢球場で、連投の私が勝って王手。翌六日、後楽園球場の対阪急戦に勝って優勝を果たしたのです。
153試合目、残りは一試合というきわどい逆転のリーグ優勝を果たしたのです。いいチームに入って良かったとしみじみ思いました。
その激闘の九月から十月五日までの27試合に20回登場し、7勝2敗。この年21勝6敗で新人賞を獲得しました。ライバルは、慶応出身、高橋ユニオンズの佐々木信也(ささきしんや)さんでした。

久保田

そのころのことですね。
試合の雲行きが悪くなると、三原監督が、稲尾さんに聞こえるように、「ピッチャーの調子が悪い」と声をあげてブルペンに電話されていたとか。

稲尾

なにしろ、私も十九歳の若造です。くそっ、負けてなるかと思う。そこへ、「稲尾、リリーフしろ」。「よっしゃ」と闘志満々でマウンドへ。うまくノセられましたね。

久保田

情景が目に見えます。(笑)

稲尾

こんなことも。前日完投した私に、「ご苦労さん。どこで見るの。うん、記者席かカメラマン席…。じゃ、ベンチで見てもいっしょだな」と。

久保田

すでに、芝居は始まっている。

稲尾

五、六回に進んで、一、二点リードのとき、私の前に来て、あの独特の片足を前に出す「考える人」のポーズで、ブルペンに電話をする。始めはこそこそと話しているが、「そうか、駄目か。困ったな」と、そこらへんは大きな声。

久保田

智将の名演技ですね。(笑)

稲尾

私も、リリーフは誰かと気になって、のんびりとしてはおられない。
そこで、肩の凝(こ)りをほぐしておこうとブルペンへ。軽い練習で肩が温まってくるころ、コーチの川崎さんが「お前、ちょっと投げてみろ」となる。
「なんや、いけそうやなぁ。いくか」で、「リリーフ、稲尾」のアナウンスが流れるのでした。

久保田

勝てる状況をつくりだして、見事な采配ですね。

稲尾

野球評論家に、投手酷使の世界記録と書かれましたが、三原さんはまったく気にしていない。私も、「記録が伸ばせる。給料が上がる」と喜んでマウンドに立ちました。
いつも私を、投げたいという気持ちにさせてくれる監督でした。

久保田

南海を劇的に降(くだ)して、昭和二十九年に次いで、二年ぶりのパ・リーグ優勝でした。福岡が沸きましたね。
※昭和二十九年の日本シリーズは、中日ドラゴンズと戦い、3勝4敗と惜敗(せきはい)。

久保田勇夫

稲尾

大人にも子どもにも、みなさんに祝福されて、嬉しいくたくたでした。
雲の上の方だった、大分の大先輩にもお目にかかれました。ミズリー号でマッカーサーに降伏の署名をされた、当時の副総理の重光葵(しげみつまもる)さんを総理官邸にお訪ねしました。
足が不自由で松葉杖をついておられました。私に頬(ほお)ずりされて、「若い人はいい、若い人はいい」と、おっしゃったことが、忘れられません。
法王と言われた、日本銀行の謹厳な一万田尚登(いちまだひさと)総裁からは、笑顔で総裁室に迎えられ、刷り上がったばかりのピカピカの千円札をいただきました。

懐かしい平和台

稲尾和久 氏
昭和32年 全盛期の平和台球場
(西日本新聞社提供)

久保田

そこで、ちょっと、あのころの平和台球場のことを。野趣に富んだ懐かしい野外球場でしたね。

稲尾

ナイターでパッと照明灯がつくと、場外の大きな木に白ワイシャツの鳥がたくさん止まっていた(笑)。名物の「人のなる木」でしたが、南海とのリーグ戦から危険だと禁止されました。

久保田

あのころの平和台球場のスタンドは土盛りで、ベンチは板張りだった。ナイターでは、夜風が涼しく、外野席に寝ころんで、野球と満天の星を楽しめた。(笑)

稲尾

西鉄が巨人を連覇した時、三原監督が、日本一の球団の球場がこれではと、改造を主張して、鉄筋コンクリートのスタンドになった。
記者席や更衣室もできて、収容人数も、二万五千人から三万四千人に増えて、面目を一新しました。
だが、試合はまだお天気次第。安心して野球を楽しめるのは、百道浜(ももちはま)にドーム球場が建設された平成五年からですね。

西鉄ライオンズ 日本シリーズ巨人に三連覇

久保田

では、西鉄ライオンズのハイライト、三連覇のお話を。あの興奮と感激を再現してください。

稲尾

三原さんは、昭和二十四年に巨人の監督として二位阪急を大きく引き離して、戦後初の優勝をとげました。だが、同年、球友の水原茂(みずはらしげる)さんがシベリア抑留から帰国して、巨人に復帰。年末に監督となり、三原さんは権限のない総監督に祭り上げられています。

久保田

この時から日本選手権のドラマが始まっていたのですね。三原さんを監督に迎えた、西鉄球団は炯眼(けいがん)でしたね。

稲尾

詳しい経緯(けいい)は知りませんが、三原さんの自著『風雲の軌跡』に、「西鉄監督の依頼があった時、私はためらわずに巨人を去る決意をした。そして、関門海峡を越えながら、こころで叫んだ。『水原君、必ず君に挑戦する』」とあります。
セントラル・リーグの巨人とパシフィック・リーグの西鉄ライオンズが日本一の座をかけて戦った日本選手権は、三原、水原の怨念(おんねん)対決とも、巌流島(がんりゅうじま)の決闘とも言われ、日本中の野球フアンを沸(わ)かせました。
戦績を見てみましょう。(下表)
いちばん印象に残っているのは、西鉄が三連覇を達成した昭和三十三年、第三ラウンドの決戦ですね。
三原さんは、「巨人が二十八年に達成した、三連覇の記録に挑みたい」とコメント。
巨人の水原監督は、「二回の借りを、いやでも返さねば」と、意地でも負けられない勝負でした。

久保田

昭和三十三年の日本シリーズは、巨人に3勝0敗と押し切られてあとがない西鉄が奇蹟的な四連勝で三連覇を勝ち取りました。手に汗握るドラマでしたね。

★日本シリーズ初優勝の昭和三十一年
第一戦 巨人 4-0 西鉄
第二戦 西鉄 6-3 巨人
第三戦 西鉄 5-4 巨人
第四戦 西鉄 4-0 巨人
第五戦 巨人 12-7 西鉄
第六戦 西鉄 5-1 巨人
【優勝 西鉄4勝 巨人2勝】
★二連覇の昭和三十二年
西鉄は七、八月に14連勝と快調。強敵南海に7ゲーム差をつけてパ・リーグ優勝。巨人との対戦に。稲尾投手MVP。
第一戦 西鉄 3-2 巨人
第二戦 西鉄 2-1 巨人
第三戦 西鉄 5-4 巨人
第四戦 西鉄 0-0
(10回引き分け)
巨人
第五戦 西鉄 6-5 巨人
【優勝 西鉄4勝 巨人0勝】
★三連覇の昭和三十三年
杉浦投手の絶好球と、野村克也捕手ら強打者連を擁した南海に翻弄されて、西鉄はオールスター前に11ゲームの大差だったが、奇跡の逆転で、リーグ優勝を勝ち取った。
稲尾投手は二年連続MVPに輝いた。
第一戦 巨人 9-2 西鉄
第二戦 巨人 7-3 西鉄
第三戦 巨人 1-0 西鉄
第四戦 西鉄 6-4 巨人
第五戦 西鉄 4-3
(延長十回)
巨人
第六戦 西鉄 2-0 巨人
第七戦 西鉄 6-1 巨人
【優勝 西鉄4勝 巨人3勝】 (西鉄三連覇達成)

稲尾

第一戦は十月十一日、後楽園球場でした。
先発投手の私もまだ三年目ですが、巨人にも強敵が登場していました。

久保田

長嶋茂雄(ながしましげお)さんですね。

稲尾

シリーズ攻略のキーは、巨人軍入団一年目で、ホームラン29本、92打点の二冠に加えて、打率が二位の長嶋攻略でした。
一回裏、一塁走者を置いて、長嶋さんを迎えました。バッターが考えていることは目に現れるのです。ピッチャーは、目の動きから、瞬時にテキの狙いを読み取らねばならない。
だが長嶋さんはバッターボックスにボケーッと立っていて、目を見ても、構えを見ても、私のレーダーに感知するものがない。何を考えているのかさっぱりわからない。初めての、とらえどころのない得体の知れない相手です。
最初の打席でガーンと三塁打を打たれて、三連敗のもとになりました。打たれるはずのないコースを、打てるはずがない私の最高の決め球(だま)を打たれた。味わったことのない恐怖を感じていました。
後は、がたがたで、四回でダウン。打線も藤田元司(ふじたもとし)、大友工(おおともたくみ)投手のリレーの前に振るわず、2対9の大敗でした。

第二戦は十二日、前日に引き続いて後楽園球場で、私の登板はありません。初回に、打者一巡の猛攻を浴(あ)び、二試合連続の豊田さんのホームランもむなしく3対7で敗れました。

第三戦は、一日おいての十四日。平和台球場に巨人軍を迎えました。
私の先発で許した安打は3本。広岡達朗(ひろおかたつろう)さんの三塁打で一失点。
打線が藤田投手の好投の前に沈黙、0対1で敗れました。

久保田

〇勝三敗もう後がない。崖(がけ)っプチですね。
それからのライオンズの反撃がすごかった。全国の野球ファンを興奮の坩堝(るつぼ)に巻き込みましたね。

稲尾

第四戦は翌十五日の予定でしたが、十四日の夜からの雨で、一日延期で十六日になったのです。

久保田

その雨が、論議の的に。四回戦が雨で一日流れて、疲労の極限にあった稲尾さんに休養を与えた。ライオンズには恵みの雨でしたね。

稲尾

日本選手権となると、ファンが遠くは鹿児島や宮崎、熊本からバスで駆(か)けつける。だから、実施か中止かを、早く決める必要があったのです。
「この天気なら実施できる。なぜ、延ばすのだ」と、水原さんから三原さんに、厳しい電話があったそうですが、決定はコミッショナーで、三原さんに権限はない。「無理言うな」と、場外の舌戦がすでに始まっていたのです。
実は、内緒でしたが、そのころの私には、疲労がたまると、高熱が出る奇病があったのです。だから、私には、願ってもない休養の一日でした。

久保田

勝負の風向きが変わって、ライオンズの壮絶な巻き返しのドラマが始まったのですね。

稲尾

雨で流れた一日、私の頭の中では長嶋さんの名が走馬灯のように点滅していました。
テキは天与の感性で打っている。相手が無なのに、こちらが構えたのでは勝てるはずがない。じゃあ、こちらも何も考えずに、無で投げようと。(笑)
十六日の第四戦で、私は三度目のマウンドに立ちました。長嶋さんは、始めは犠牲フライ、二度目の対決では3対3の同点で迎えた五回裏でした。長嶋さんは、予想通りに自然体でなんの構えもありません。それならこちらもと、キャッチャーの日比野武(ひびのたけし)さんと相談して、ノーサインで投げて成功したのです。
豊田さんの2ホームランなどに支えられて完投。6対4の勝利で、貴重な一勝を勝ち得たのです。

劇的な逆転のドラマ日本中が興奮

久保田

いよいよ日本中を興奮させた、劇的な逆転劇のドラマですね。

稲尾

一勝三敗で迎えた第五戦は昭和三十三年十月十七日、もう半世紀前の話ですが、あの日を思うと、今も胸が躍りますね。
巨人は初回の与那嶺要(よなみねかなめ)さんの3ランで先制点を取り六回まで3対0。平和台球場の通路では、もはや巨人優勝と表彰式の支度が始まっていました。
これが野武士たちを刺激したのです。「まだ、試合は終わっとらん」と、憤激した中西さんが、七回に四球の豊田さんを一塁に置いて、右翼スタンドへ痛快な2ランを叩(たた)き込んだ。
2対3に追いついて、九回裏。後がないぎりぎりで、小渕泰輔(こぶちたいすけ)さんが三塁線へ二塁打。豊田さんのバントで三塁へ。中西さんは三塁ゴロで倒れましたが、老練な関口清治さんが、センター前に、同点延長のいぶし銀の快打を放った。

久保田

私は高校一年生で、ラジオにしがみついていました。十回裏に、今度は稲尾さんが、劇的なサヨナラホームランを。もう、興奮の絶頂でした。

稲尾

延長の十回表は、何とか三人で片付けましたが、実は八回から球威の衰えを感じていました。十回裏一死後、私の打席でした。長引けば負けるな。よしっと。そこで、大友さんの初球を、ままよ、とバットを振った。
カーンと気持ちのいい音が。それから大歓声が聞こえて、二塁塁審が手をクルクル回している。ホームランだと知りましたが、それからは白い雲の上をふわふわと飛んでいる感じでした。
ホームインの写真を見ると、三原監督や見知らぬ人が、一緒に走って、中西さんが迎えてくれている。
鳥打ち帽のその人は、興奮して乱入したお客さんでした。
まぐれ当たりの一発でしたが、お客さんが手を合わせて「神様、仏様、稲尾様、救いの神の稲尾様」と言われたとか。
翌日の新聞に大きな見出しになっていて、びっくりしました。

延長10回サヨナラホームランを放って
ホームイン(昭和33年日本シリーズ第5戦)

久保田

いや、本当に、神様、仏様、稲尾様でしたよ。(笑)奇蹟に近いことを生み出されて、ライオンズの集中力はすごいですね。

稲尾

もう後がない。土壇場(どたんば)で無我夢中だったからできたのですよ。

久保田

そんなものでしょうね。でも、それで勝負の流れが変わった。

稲尾

第六戦は、十月二十日。後楽園でした。中西さんが初回にレフトに2ランを決め、三安打完封で2対0。互角の三勝三敗に。私の完投でした。

久保田

第七戦は、いよいよ決勝ですね。

稲尾

五連投で完投しました。八回まで26回連続無失点、ついていました。
西鉄打線が火を噴いて中西さんが一回に右翼へ3ラン。五回に豊田、中西のヒットで加点。マークしていた長嶋さんに、九回裏にランニングホームランを打たれましたが、逆転の四連勝で、シリーズ三連覇を勝ち取りました。

久保田

そうして、日本中を興奮させた、男のドラマが終わったのですね。
福岡は、家庭でも会社でも、中洲でも歓喜の渦。だれもが、感動と興奮に酔いしれました。

胸躍る 二番 豊田 三番 中西 四番 大下

久保田

そのころの、西鉄ナインを思い浮かべるだけで、胸が滾(たぎ)りますね。

稲尾

日本シリーズ第二ラウンドのころ、天下の智将・三原脩さんの下で、最強軍団と言われた、西鉄ライオンズのレギュラーメンバーは次の面々でした。

一番 (中堅) 高倉照幸 (熊本工)
二番 (遊撃) 豊田泰光 (水戸商)
三番 (三塁) 中西太 (高松一高)
四番 (右翼) 大下弘 (明大)
五番 (左翼) 関口清治 (台北工)
六番 (一塁) 河野昭修 (修猷館高)
七番 (二塁) 仰木彬 (東筑高)
八番 (捕手) 和田博実 (臼杵高)
九番 (投手) 稲尾和久 (緑丘高)

久保田

この強力軍団のカードを手に、絶妙な「三原マジック」が展開されたのですね。

稲尾

若武者軍団の中心は同郷高松の先輩、三原さんにスカウトされて、四年前に振り分け荷物を肩に入団した中西太さんでした。
豪放なライナーが、ぐんぐん伸びて場外に消える。あきれた仲間や記者に、怪童と言われました。
三原監督は、「生涯に三度の大ホームランを見た。来日したヤンキースのベーブ・ルースと、カージナルスのスタン・ミュージアル、そしてのホームランだ」と言っています。

西鉄ライオンズ全盛期のベストナイン
左から高倉、豊田、中西、大下、
関口、河野、仰木、和田、稲尾

久保田

確か、平和台球場にその記念の標識が。

稲尾

バックスクリーンのテッペンに、記念の標識が立っていたのですが、球場が壊されてなくなりました。
天才中西は、また、たいへんな努力の人でした。あのすごいアーチの裏には、毎晩素振(すぶ)りを欠(か)かさない怪童の精進(しょうじん)があったのです。
「太が、やってるな」。空気を切る峻烈(しゅんれつ)なスイングが、宿舎の窓ガラスを震(ふる)わせました。

久保田

対比される豊田泰光さんは。

稲尾

水戸っポの強烈な個性で、無類の負けず嫌い。ここ一発の威力は天下一品で、三原監督に信頼されていました。
だが、昭和三十三年の第五戦九回裏で、関口さんの球史に残る同点打をセットしたのは一発屋の豊田さんが、自分を抑えたバントでした。
三原さんがつかつかと豊田さんに寄ってきて「君、何でいく」「決まっているじゃないですか。バントですよ」「そうかバントか、よろしく頼む」。
豊田さんの絶妙なバントで走者の小渕さんが三塁へ進んだのです。
この時、三原さんが、バントを指示すれば、つむじ曲がりの豊田さんは「クソッたれ、この好機にバントなんかできるか」とフルスイング?
ハズレだとジ・エンドでした。

久保田

大下弘さんには。

稲尾

巨人の川上哲治(かわかみてつはる)選手の赤バットとならんで、大下の青バットで知られる別格の存在でした。
ダンディで、男気があって、若い連中を連れて中洲にもよく出かけていましたが、いくら飲んでも、翌日は、定刻に、練習に参加していました。
三原さんが大下さんの掌(て)を見ると、ごつごつしていて、人知れずスイングに励んでいることが歴然。自己管理ができない選手に厳しかった三原さんが、大下さんには一目置いていました。

久保田

野武士軍団は猛者(もさ)ぞろいで。

稲尾

高倉照幸(たかくらてるゆき)さんは不動の一番バッターで、「切り込み隊長」として知られていました。頼れるヒットメーカーでレフトの守備は抜群でした。
河野昭修(こうのあきのぶ)さんは、地元の修猷館の出身。渋い守備の名手で、ナインの暴投もきれいにキャッチ。冷や汗の常習犯が助けられたことも再三でした。
仰木彬(おおぎあきら)さんは、新人の時から、三原野球の後継者といわれていました。その成果は後年、監督として近鉄や、オリックスに優勝をもたらしています。
キャッチャーの日比野武さんは打者の心理を読んで、私をよくリードしてくださった。
臼杵高の和田博実(わだひろみ)さんは、シーズンオフに課された素振り、鉄アレイ、ランニングの宿題を見事にこなしていて、三原監督をうならせました。鍛えた強肩で盗塁を阻みました。

久保田

豪放で、自分の役目を果たして、伝説を生み出す猛者ばかり。よくまた、集まったものですね。

稲尾

あのころは、二、三点取られていても、中西さんや豊田さんが「そろそろ、いくか」と声をかけると、「よっしゃ」で、ばんばん打って逆転する。

久保田

相手チームの投手を、震撼(しんかん)させたでしょう。

稲尾

ずば抜けた智将を監督にいただき、水爆打線といわれた強力な野武士軍団と、名キャッチャーに支えられて、若造の私が日本シリーズ三連覇に投げられたのは、ピッチャー冥利(みょうり)でしたね。

三原マジック

久保田

若武者軍団を駆使し、中西さんや、稲尾さんをプロ野球のヒーローに育て、宿敵巨人を破って、福岡に日本シリーズ三連覇をもたらした三原マジックの秘密は?

稲尾

野武士軍団の選手たちの個性を、ものの見事に把握していた。このことに尽きるでしょう。

久保田

部下の性格を把握して、長所をライオンズの勝利に結集された、三原監督ならではの掌握ですね。

稲尾

豊田さんは気が強いが中西さんは優しくて鷹揚(おうよう)。二人をうまく競わせて、チームに活力を生み出していた。見事でしたね。
たとえば、中西さんがタイムリーにヒットを打ってヒーローになるでしょう。翌朝のスポーツ新聞を見ると、三原さんが「中西は天才だ。見事に打った」と褒めている。だが、豊田さんが打っても「打って当たり前」と言う。
中西さんはハイになって、「おはよう」と上機嫌で入ってくるが、豊田さんは下向きながら「バカやろ、クソ親父が。ちっとも褒(ほ)めやがらん」と、ぶつぶつ言って入ってくる。

久保田

三原監督とサムライたち。目の前に見えるようですね。

稲尾

試合になると、中西さんは「ハーイ」と言って、コツンと打つ。豊田さんは「クソッ」と言ってガツンと打つ。(笑)
あの二人の使い方。三原マジックのエキスでしたね。

久保田

「アマは和して勝つ。プロは勝って和す。」
三原さんの言葉に惹(ひ)かれましたが、その機微の妙。ビジネスにも通じるものがありますね。
アマチュアはプロセスの美学ですが、プロのビジネスは結果を評価される世界。そのポイントを、適切に、余韻をもって。これ、三原さんならではの名言ですね。

稲尾

お互いが傷を舐(な)め合い、慰め合う集団は見た目には美しくても、危機には弱い。勝ち集団には競争が必要です。けだし至言ですね。

鉄腕 稲尾の秘密

久保田

それでは、鉄腕投手の秘密に迫りましょう。
三連覇の三年後、昭和三十六年に二十二歳で達成された年間四十二勝。これは全国の野球ファンを震撼させた記録でした。前人未到、そして後人の凌駕(りょうが)不可能の記録ですね。

稲尾

いや、どうも。私を超える人がでてきても、いまのローテーションでは無理でしょうね。
「やってやるか」と燃えていたからで、心も体も高揚しているときは、“よくも”と思うことができるのですね。

久保田

そのころは、振りかぶったときに、ご自分の状況がわかって、コントロールされたそうですね。

三原監督(右)と
鉄腕稲尾投手

稲尾

はい。ピッチャーマウンドからホームプレートまでは、十八メートル四十四センチ。そして、プレートの幅が三十四センチ、高さがバッターの脇から膝(ひざ)までの間に、球が少しでもかかればストライクです。
そのコースにボール三分の一個の出し入れができるのがプロの投手ですが、コントロールがなかなか難しい。
ところが四十二勝のころは、自分のボールが指から離れるところに、コントロール板があった。十八メートル先ではなくて、目の前にあった。ここで離せばアウトコースいっぱい、ちょっと高くすれば、アウトコース高めとか。
全部わかったのです。

久保田

まさに神わざで。すごい話ですね。精神、肉体、技術が、三位一体(さんみいったい)だったのですね。人智を越えた“鉄腕稲尾の極(きわ)み”ですね。

稲尾

でも、なぜですかねえ。すべてがわかったのはその年だけで、翌年はでてこないんですよ。(笑)

名うての猛者(もさ)たちと

久保田

名うての猛者たちが、稲尾さんに一発かましてやろうと、気負(きお)ってかかったでしょう。そのせめぎ合いから、名勝負が生まれたのですね。

稲尾

鍛えられましたね。彼らは、私の配球を絞って打ってくる。代表的なのは南海のノムさん(現「楽天」の野村克也(のむらかつや)監督)で、まさに、読みの対決でした。
並(な)みのバッターなら、読み取りは簡単です。だが一流になると違う。まして、ノムさんはだましの名手です。
ガーッと肩に力を入れているからアウトコース狙(ねら)いだなとインコースに投げたら、投げた瞬間にパッと体を開いてガーンと打ってくる。

久保田

手に汗握る対決ですね。長嶋さんのことはうかがいました。もう一人の強敵、王貞治(おうさだはる)さんとは。

稲尾

王さんと勝負したのは、昭和三十八年の二度目の日本シリーズの時でした。あの一本足打法のタイミングを、どうして外(はず)そうかと苦心しました。
いくら考えても、どこでタイミングを取っているのかわからない。
たまたま幸運にも、日本シリーズの前日に、テレビで「巨人優勝の足跡」を、特集していたのです。三塁側から撮(と)った王さんの打撃のスローモーションに、私の目は釘付(くぎづ)けになりました。
スイングに移る一瞬、王選手の目線が下を向いた。あれっ?
投手がどんな投げ方をしても、足を地につけてから、球を離すまでのタイミングは変わりません。
なんと、王さんの目は、ピッチャーの足を凝視しているのでした。ピッチャーが足を上げると自分も足を上げる。そこでタイミングを取っていたのです。
とっさに、大下さんの言葉を思い出しました。大下さんも、片足を上げる打法でしたが、「ピッチャーの足を上げるタイミングにうまく合わさないと、平凡な三塁フライになる」と。
「これだな」と、それで上げた左足を地に下ろす瞬間に、タメをつくる二段モーションにして、王さんのタイミングを外すことができたのです。昭和三十八年の日本シリーズでは、王さんを内野安打一本に押さえられました。

久保田

切磋琢磨(せっさたくま)する好ライバルをあらゆる角度から極め尽くす。まさに真剣勝負で。迫真のプロセスですね。

五年後に巨人と選手権

久保田

王さんと対決した昭和三十八年の日本シリーズで、西鉄は、激闘七回。今度は巨人軍にチャンピオンフラッグを献じましたね。

稲尾

西鉄の野武士軍団も、すっかり入れ替わっていました。大下さんは昭和三十四年に引退。三原さんは昭和三十五年に大洋ホエールズに移られ、河村さんも同年広島カープへ。三十七年オフに関口さんが阪急ブレーブスへ、小渕さんは中日ドラゴンズへ、次いで西村さんが引退、豊田さんが国鉄スワローズへ。野武士集団の解体を見るようでさびしかったですね。
こうした動揺の後で、中西監督を中心に、新戦力でリーグ戦を勝ち抜き、巨人と日本選手権を争ったのです。打力の中心は、ジム・バーマ、ジョージ・ウイルソン、トニー・ロイの外国人選手に移っていました。
試合は三勝三敗で、優勝は七回戦に持ち込まれ、巨人が18対4と大勝して、先年の雪辱を果たしたのです。
日本経済新聞社『私の履歴書・神様、仏様、稲尾様』の、七回戦の寸評に、「西鉄は連投の稲尾が、力尽きて打つ手無しだった」とあります。
巨人と西鉄ライオンズは、切磋琢磨の好ライバルでした。

ライオンズの栄光を今に…。

久保田

三原さんが日本シリーズ三連覇を成し遂げたのは、九州に住む人の特性かもしれませんね。
古くは、七百年前の建武時代に南朝(なんちょう)方に追われて、九州に逃れた足利尊氏(あしかがたかうじ)が九州勢の支援を得て、京都を奪回し、足利幕府を開くでしょう。
黒田藩開祖の黒田如水(くろだじょすい)も、本気で日本制覇を考えていたそうですね。明治維新で、革新の柱だった五卿(ごきょう)も、太宰府で雌伏(しふく)していました。

稲尾

九州人は、独立心が強くて、くじけない。孤独に耐える強さがある。
野球は投打が助け合うチームプレーですが、本質はソロのゲーム。バッターボックスに立ったら、マウンドに立ったら、自分一人。この一打、この一投は、誰も助けてはくれない。頼ってはいけない。個性と、協調と。野球は九州人の特性に合っているのです。

久保田

栄光のライオンズを振り返っていただきましたが、昭和三十五年に三原監督が大洋ホエールズに移られて…。

稲尾

三原監督の後を川崎監督。次いで、中西監督、豊田助監督、私の投手コーチと、青年内閣時代に。
そして、四十四年にギャンブルと絡(から)んだといわれる思いもかけない黒い霧事件が起きて、中西監督が辞任。私が現役を引退して監督に就任しました。
最初に、その話を聞いた時は、中西さんも私も耳を疑いました。
誘惑に負けた選手は永久追放になりましたが、まことに痛恨の極みでした。
昭和四十七年に、西鉄ライオンズは太平洋クラブライオンズとなり、二十二年の栄光の歴史を閉じるのです。

久保田

玄界灘に臨む福岡で、まさに疾風怒濤の二十二年でしたね。

稲尾

その後、球団は、クラウンライターライオンズから、西武鉄道グループに譲渡されて所沢へ移りましたが、地元から「福岡に球団を、ライオンズの夢をもう一度」の熱いラブコールが起こり、私も協調しました。
その声に応えて、ダイエーの中内(なかうちいさお)さんが、平成元年に杉浦忠(すぎうらただし)監督を迎えて福岡をホームグラウンドとする、ダイエーホークスを設立されました。
そして、田淵幸一(たぶちこういち)、根本睦夫(ねもとむつお)監督を経て、平成五年にドーム球場が完成。
平成七年ホームラン八五七本の世界記録を持つ王監督が招かれ、リーグ優勝二回(平成十一、十二年)。日本選手権優勝(平成十一年)。福岡に待望のチャンピオンフラッグがもたらされました。
その後、平成十六年に福岡ソフトバンクホークスとなり、引き続いて、王監督の采配で健闘中です。

久保田

福岡ソフトバンクの優勝が待望されてなりませんね。

稲尾

数々のドラマを生み出した平和台球場は、平成四年に使命をドーム球場に譲って消えましたが、外野スタンドの地下に、千数百年前に対外迎賓館であった鴻臚館(こうろかん)の遺跡が発見されて、新しい展望で再生しています。

久保田

「西鉄ライオンズ」の産みの親は、戦前戦後に活躍された西鉄初代社長の村上巧児(むらかみこうじ)さんで、たいへん尽力されたことが劉寒吉(りゅうかんきち)さん(作家・「九州文学」)の伝記で汲(く)みとれます。
また「戦後の混乱の中で、負けずに耐えている、九州の人たちに、元気を送りたい」という高邁(こうまい)な理念から設立されたと聞いております。

稲尾

村上さんは早稲田の学生時代、早慶戦のはしりのころからの熱烈な野球ファンで、同県人でもあり、孫年齢の私をいつも励ましてくださいました。西鉄最後のリーグ優勝を病床で聞かれ、喜ばれましたが、翌日他界されました。

久保田

お話をうかがいながら、西鉄ライオンズの大きな川の流れが、今も脈々と九州の大地に流れ、ソフトバンクの選手たちに、熱烈なファンに、つながっているのだと、思われてなりません。
懐かしい西鉄ライオンズを、目の前に再現していただきました。“神様、仏様、稲尾様”ありがとうございました。

稲尾和久 氏 略歴

昭和十二年六月十日、大分県別府市に生まれる。
別府緑丘高校から昭和三十一年に西鉄入団、その年21勝をあげ新人王。
以後昭和三十八年まで八年連続20勝。昭和三十六年にはシーズン42勝の日本タイ記録を樹立した。
また昭和三十一年からの西鉄三年連続日本一の原動力となった。通算276勝、MVP二回、最多勝四回、防御率一位が五回など。昭和四十五年に監督、のち中日コーチ、ロッテ監督も務めた。平成五年野球殿堂入り。

稲尾和久著「鉄腕一代」より

ド素人のスカウト陣

元、西鉄ライオンズ/スカウト部長
元、株式会社 マツダフクオカ 社長

中島国彦 氏

戦争から復員して、西日本鉄道に復職した私は、昭和二十六年に西鉄ライオンズの勤務を命じられ創立のときからかかわりました。
西日本鉄道の初代社長で、人望の厚い村上巧児さんが、戦後の福岡に明るい話題を提供したい、それは西鉄の使命だし、将来の宝になると、後の社長の木村重吉さんらとともに、プロ野球への進出を図られたのです。
戦前にあった西鉄の野球チームは、戦争の拡大で自然消滅していました。戦後、その流れを受けて復活したのが、社会人野球の「西日本鉄道チーム」で、昭和二十三年に都市対抗野球で優勝しています。
このチームが、二十四年の二リーグスタートを機に、パ・リーグの「西鉄クリッパーズ」となり、二十六年に「西日本パイレーツ」(西日本新聞が結成)と合併して、福岡のプロ野球「西鉄ライオンズ」が誕生したのです。
そうして、ずぶの素人の西亦次郎さんが球団社長に、竹井清さんと私がスカウト役になったのです。
当時の私は二十八歳。頼りない素人チームが、大下選手や中西選手を招いた三原監督に助けられて、稲尾選手ほかの球史を彩る、伝説のヒーロー獲得にあたったのです。
費用は惜しまないから、「最強の球団をつくれ」が至上命令でした。有力な情報があれば、どこへでも駆けつけました。
だが、これはと思う選手には、たいがいパ・リーグの覇者南海の息がかかっていました。私は、鶴岡一人監督が目をつけている選手なら、間違いないと執拗(しつよう)に食い込みました。
ある時、鶴さんから「おい国さん。お前は悪いやつじゃ。これはと思うと、すぐに西鉄が追っかけてきて、さらっていく。いい加減にせいや」と叱(しか)られました。
私が、「こちらは、ズブの素人。天下の鶴さんが狙っている選手なら、大丈夫だから食い込みますよ」と言うと、テキは大物で、「ああそうか」と笑っていました。
なにかしら、福岡に神風が吹いていたような、天の恩恵を感じずにはおられませんね。(談)

稲尾投手の快挙

元、「フクニチスポーツ」運動部長

河村尚二 氏

あのころ私は、「フクニチスポーツ」の運動部記者で、西鉄ライオンズの密着取材にあけくれていました。
ライオンズ全盛期のころは、スポーツ紙が飛ぶように売れたものです。稲尾投手の緑丘高校の先輩で、西鉄入団に一役買った河村英文さんが、「サイにシュートを教えたが、あまり身につかなかった。シュートをあまり投げなかったから、投手寿命を保てて、かえってよかったのだろう」と話していました。
私も、微妙なコントロールのスライダーが、鉄腕稲尾のベストピッチと思い込んでいました。
ところが、のちにご本人から、「私のウイニングショットは内角シュートだった」と聞かされてびっくりしました。記者もライバルも、スライダーが得意だと思い込まされていた。カミサマの本領を見た思いでした。
そう言えば稲尾投手を大の苦手としていたノムさん(野村克也選手)のヒトを喰(く)ったボヤキブシが忘れられません。
「稲尾が外角にスライダーを投げると、捕手が捕球する前に、アンパイアがストライクと言うんだ。バットを出しても届かない球がストライクだから、打てるはずがないよ」昭和三十六年の稲尾投手の42勝は、超人的な快挙で、日本新記録と発表されました。だがシーズン終了後、パ・リーグの山内以九士記録部長が、巨人のスタルヒン投手が戦前に42勝しているので、タイ記録だと訂正されたのです。
広島球場でオープン戦の時、そのニュースを稲尾投手に知らせると、「もう一、二勝ぐらいできたのに」と、さすがにショックだったようでした。彼の鉄腕なら十分可能だったでしょう。
これには後日談があって、のちに山内さんが記録を仔細(しさい)に検討して、スタルヒンは40勝とされたが、やはり戦前の記録はそのまま尊重してはと、42勝にもどしたのだそうです。スタルヒン投手と稲尾さんは、共に戦前戦後を代表する偉大な大投手ですね。三連覇の時、稲尾投手は353奪三振というシーズン最多奪三振記録を樹立しています。たいしたものです。(談)