No.78 博多が生んだ天才絵師西島伊三雄

対談:平成21年10月

司会・構成:土居 善胤


お話:
筥崎宮 宮司 田村 靖邦氏
イラストレーター 広野 司氏
聞き手:
西日本シティ銀行 会長 本田 正寛

絵は博多の宝物

Profile:西島伊三雄略歴

赤とんぼ

司会

私たちに身近な西島伊三雄さんのデザインは、まず、福岡市の地下鉄各駅のシンボルマークですね。

田村

天神は水鏡(すいきょう)天満宮から梅の花、箱崎宮前は大鳥居。西新は学園ゾーンだから鉛筆と万年筆を組み合わせてNと、しゃれたマークですね。

司会

童(わらべ)を描き、祭りを描き、博多を明るくした西島さんは、神様が戦後の博多にセットされた、百年に一人の天才絵師でしょう。

田村

確かに。同感です。

本田

銀行のこの応接室は、ご本人が設計された「西島ルーム」で、壁画に博多ぎ園山笠(ぎおんやまがさ)疾走の躍動感を活き活きと描かれています。私も、集団山見せで、先生と一緒に台上がりしました。忘れられない思い出です。筥崎宮(はこざきぐう)の宮司さんは、西島さんと深いお付き合いでしたね。

※筥崎宮(はこざきぐう)…延長元年(923)創建。祭神は応神天皇・神功(じんぐう)皇后・玉依姫(たまよりひめ)。宇佐神宮(大分県宇佐市)、石清水(いわしみず)八幡宮(京都府八幡市)とともに、古来から日本三大八幡宮の一つとして崇敬されている。福岡市東区箱崎1丁目22-1

田村

親交のあった父克喜(かつき)以来のご縁です。私は、昭和48年に、明治神宮の修行から帰ってからですが、たいへんお世話になりました。
お正月には、お参りに来られる西島さんに、お神酒(みき)を差し上げ、色紙に描(か)き初(ぞ)めをしていただきました。

司会

秋の放生会(ほうじょうや)の幕出しも、復活されましたね。

田村

放生会のとき、博多の町衆は、ごりょんさん(商家の奥さん)が腕を振るう料理の材料や炊事道具、酒や七輪などを長持ちに詰め、男衆が担(かつ)いで、「長持ち歌」を唄(うた)いながら、参道沿(ぞ)いの箱崎松原に繰(く)り出したのです。
娘さんは、この日のためにあつらえた新調の放生会着物(ほうじょうやぎもん)で、華やかで、楽しい野外の宴会でした。
ながく中止されていましたが、西島さんたちの博多町人文化連盟が復活させてくださった。
西島さんが描かれた意匠を凝らした幔幕(まんまく)が見事でした。現理事長、長谷川法世(はせがわほうせい)さんの幔幕もいい。

本田

五月の博多どんたく、七月の博多祗園山笠、九月の筥崎宮の放生会(ほうじょうや)。西島さんが描かれた博多三大祭りの絵は絶品で、博多の宝ですね。

田村

忘れられないのは、昭和53年、西島さんにお願いした筥崎宮の七夕揮毫(たなばたきごう)ですね。
両腕でやっと抱えられる、藁束(わらたば)の大きな筆で、貼り合わせた30畳ぐらいの和紙に「雨、雨、ふれふれ」と一息に。河童(かっぱ)さんまで配された。
福岡が大渇水の時でしたので、当意即妙のありがたい、七夕揮毫でした。

広野

先生は日本を代表するグラフィックデザイナーの一人でしたが、博多の祭りを描いては天下一品(いっぴん)で、自称通りに、「博多の絵師」でしたね。

司会

100年後にも、昭和と平成の博多を代表する絵師として語られる存在でしょう。

本田

西島さんは、お話がユニークでいつも人を惹(ひ)きつけられましたね。

田村

「お宮とお寺には、博多2000年の文化がある」と、よく言ってあったが、あの魅力丸出しのがらがら声で、西島さんがござるとパーティでもすぐわかった。(笑)

ポスター、童画、万博、町おこし

司会

広野さんは、西島さんが躍(おど)り出た飛躍時代のお弟子さんですね。

広野

私は、有田工業高校の図案科を昭和三十四年に卒業しました。
鍋底不況の時で、画家の伊藤研之(いとうけんし)先生とフクニチ新聞の玉井向一郎(たまいこういちろう)さんを通じて弟子にしてもらったのです。
アトリエでは四番弟子、最初から余剰人員でした。(笑)

司会

最初に言われた事は。

広野

田舎者で気の利(き)かない私に、まず、「毎日日記を書け」と言われた。赤鉛筆で書かれた励ましや注意をドキドキして読みましたよ。
新米弟子が、いつも聞かされた西島語録を挙(あ)げましょうか。
・アトリエの用意は、自分が描く気持ちになってしなさい。
・ファイトを持って、最低生活からスタートし、その中に喜びを発見しなさい。
・デザインは誤魔化しが利かない。笑われてもいいから、自分のものを描け。
・不平や不満から、明日の美を創り出すデザインは生まれない。
・仕事は他人のためではない。努力が、自分を幸せにする。
・仕事を通じて、世の中を、楽しく、明るく見なさい。
・あんたはセールス下手(べた)。絵で語れ。

田村

参ったな(笑)。いつも笑顔の西島さんだったが、きっとご自分には厳しかったのでしょう。

広野

先生は、博多山笠の躍動感を奔放自在の筆でリアルにとらえられていますが、それだけではない。
(か)き山笠の形や飾(かざ)り、しきたりから流れ(町内)のマナーまで、目につかないところをきちんととらえられている。
博多どんたくや、放生会も同様で、先生の絵が、博多三大祭りの見事な教科書になっています。

田村

確かに博多の教科書ですね。西島さんが描かれた「どんたく」や「山笠」や「放生会」の絵に博多っ子が惹(ひ)かれるのです。

広野

画面に数え切れない人が、描かれていますが、一人として同じ表情の人がいない。みんな活き活きと祭りに溶け込んでいるんです。すごいですね。

本田

そして、確立された西島童画がいい。いつ見ても見飽きない。

広野

童画の先生で知られていますが、本業は全国屈指のグラフィックデザイナーでした。

本田

37歳の時、アルゼンチンで催された「世界観光ポスター展」に出品した「唐津のポスター」がグランプリでしたね。周囲は驚いたでしょう。

広野

実はそのポスターの校正刷(ず)りを、私は自転車で印刷所へ運んだ記憶がある。懐かしいですね。

本田

ご本業で活躍しながら、博多町人文化連盟を軸に、博多を明るくする町おこしの名人だった。

広野

目を見張る活躍で、弟子の目にもスーパーマンでしたね。
だが、その陰には、基本を大切にする姿勢と、少年時代からの大変な努力、そしてここ一発のすさまじい集中力があったのです。

司会

なるほど。で、アトリエでは。

広野

いや、こわかったですね。(笑)
当時は観光ポスターコンクールがデザイナーの登竜門でした。先生がその作品に立ち向かっておられるときは、アトリエがシーンとして、鉛筆を走らせる音まで耳に入るようでした。
いったん取りかかられるとためらったり、描き直されることはなかった。
絵のフレームと人物の躍動が、頭の中で煮詰まり、完成されていたんですね。
それを一息に吐き出される。現出される西島世界の見事さ。こればかりは盗めるものではない(笑)。
弟子の私たちは、興奮と驚きで、ため息ばかりでした。

司会

毎日のお仕事は、まず手紙の返事からでしたね。

広野

朝の9時にはきちんと机について、返事のペンをとられていた。葉書にふだんの言葉で6、7行。それに、ちょっと赤トンボや青蛙を添えられる。1通2、3分。10通ほど書かれて、さあ、仕事でした。

田村

その赤トンボが味噌で、私はいつも電話で済ませていたが、葉書にすればよかった。(笑)

童画の源流

司会

ところで、おなじみの西島童画。独特のあのスタイルが生まれたのは。

広野

私が弟子入りした昭和三十四年には、まだできていなかった。
翌年、日本宣伝美術会に入られて、いやでも東京スタイルと勝負しなければならない。
そこで、これぞ西島と、あの独自の童画世界を生み出されたのでは。

本田

洒脱(しゃだつ)な仙厓(せんがい)さんの絵も、頭をかすめたでしょうね。

広野

自分を見つめ、自分と闘って、創(つく)り出されたのでしょうね。
ビリ弟子の私が机を片付けて帰るのですが、朝来て見ると、絵筆やラフスケッチが散らかって、昨夜の奮闘の跡が生々しかった。平気な顔で、飲んで回られながら、深夜のアトリエで孤独な戦(いくさ)をされていたのです。
胸をうたれましたが、先生の絵の具の混(ま)ぜ方などがわかって、いい勉強になりましたね。

司会

何でもぱっと、生み出していなさった西島さんがですね。

田村

童画のモデルは?

司会

令息の雅幸さんに聞くと、「親父自身です」と、明快でした。
深い理解者である西日本新聞の青木秀(あおきしげる)相談役(元社長)がじかに聞かれた西島さんの述懐があります。
「戦場の明け暮れに、過ぎ去った子供の頃をいつも思い出していたのが、その後の童画を描くキッカケになったような気がしてなりません」と。

※『西島伊三雄二等水兵スケッチ画帖 緬甸(ビルマ)』の序文から

田村

私も、西島童画の子供たちの遊びや表情が、少年時代のご自身の回想だと思っていました。
童謡を聴きながら、童画を描いておられたが、奥は深かったのですね。

司会

少年倶楽部』の愛読者で、田河水泡(たがわすいほう)さんの連載漫画、「のらくろ」や、島田啓三さんの「冒険ダン吉」川上四郎さんの水彩スケッチが好きだった西島さんです。
お元気な時に、童画誕生物語を、よく聞いておきたかったですね。

図案社の徒弟さんからスタート

司会

では、博多の絵師、西島伊三雄さんの歩みを追って。

広野

先生は大正12年(1923)5月31日生まれ。平成13年(2001)9月30日に亡くなられて、78歳の、完全燃焼のご生涯でした。
名前の由来は、お父さんが、博多にわか名人の平田汲月(ひらたきゅうげつ)さんに相談されて、付けられたそう。亥年(いどし)生まれで伊。兄弟の三番目で三。男だから雄。単純明快ですね。
おうちはもとの博多駅に近い「二○加(にわか)屋旅館」でした。
兄弟4人が御供所(ごくしょ)尋常小学校で、学校へ行く前に、掃除、水まき、神棚仏壇のお供えなどを分担。中元歳暮のおはぎ配り、おきゅうと売りもなさったと。 仲良し4兄弟で、「西島とは喧嘩をするな」が、腕白たちの合言葉だったそうです。(笑)

司会

三越デパートで催された「西島伊三雄童画の世界展」に、小学時代の通信簿や図画が展示されていましたね。

広野

体操と音楽が乙。その他は全部甲で、断トツの優等生でした。人参(にんじん)の絵はデッサンも彩色もいい。習字も一劃一劃(いっかくいっかく)を丹念に、そして勢いがあります。

田村

お客さんが、足を止めて、ため息をついていなさった。

広野

先生は何事にも、「まずは基本」でしたが、その片鱗は、少年時代の絵やお習字にも読みとれます。

司会

そして、図案社の徒弟さんに。 戦前は中学校に進学できるのは1割か2割弱。普通の家の子は、福岡男子高等小学校2年を卒業して社会人になったのです。

広野

印刷所に勤めるはずが、好きな絵の道で手職をつけた方がいいというお父さんの意見で豊田図案社に。

田村

それで、「博多の絵師西島伊三雄さん」が実現した。天晴(あっぱ)れなお父上ですね。

広野

仕事は掃除からお客さんのお茶接待、お使いまで。徒弟さんの初歩コースで、最初は絵筆はとらせてもらえません。
休みは月に2回。その日の小遣(こづか)いが50銭玉1枚。年季明けの数え20歳には、紋付き羽織、袴(はかま)一式に祝い金100円の取り決めでした。
年季が明けると、朝日広告社の社長さんがうちにこないかと。
お袋さんに心配をかけてきたからよろしくと頼んだら、給料が大学卒以上になったそう。晴れてサラリーマン絵師・西島伊三雄の誕生でした。

水兵さんの西島さんが草の葉や、赤チンで描いた「ビルマスケッチ」

司会

満20歳になると、徴兵検査が待っている。戦前の国民の三大義務は、義務教育と、納税と、徴兵による兵役(へいえき)の3つでした。検査は2番目の第2乙種合格でした。

田村

徴兵検査は、戦前の成人式ですね。これで、いつ赤紙(召集通知)がくるかわからない。

広野

高等小学校1年のときに、百道浜(ももちはま)から姪(めい)の浜(はま)までの4キロ遠泳に合格されていた。海軍なら鉄砲かついで辛い行軍をしないでいい。愛読漫画の「冒険ダン吉」でなじみの南の島にも行ける。
それで泳ぎが得意ですと言ったので、海軍に回された(笑)。翌年の昭和18年12月に召集されて、佐世保第一海兵団の水兵さんです。

司会

出征の時のお父さんの言葉が親心の、意味深で。
「伊三雄よ。お前は絵かきだから、右手を大事にしやいや。突撃のときは、左手で右手をかばって、突撃しやいや」と言いなさったとか。(笑)

広野

幸いに一度も戦うことはなく、駐屯していたビルマ、いまのミャンマーのメルギー島で終戦でした。

本田

その時ですね。西島さんの絵画史を飾る、「ビルマスケッチ」が生まれたのは。
※ビルマは旧国名。現在はミャンマー

広野

英軍の捕虜(ほりょ)になった先生は絵を描きたくて仕方がないが、画用紙も絵の具も何もない。
墨は持っていたので、黒檀の木をえぐって硯に。赤は医療用の赤チン、黄色はキニーネをすりつぶし、緑は草の液と工夫。紙は裏紙でも何でも。後には英軍のグルカ兵将校の似顔を描いて喜ばれ、工面してくれたそうです。当時、23歳。図案社の弟子修業だけとはとても思えない、立派な作品です。
引き揚(あ)げの時、リュックの背を2枚に合わせ、隠(かく)して持って帰られた。戦友に、30枚ほど分けられたが、残りの約50枚は、歴史の重みも加わって貴重な宝物です。

司会

その「ビルマスケッチ」を、当時の福岡相互銀行のロビーで展示させていただき、話題になりましたが、それだけではもったいない。
終戦記念の8月に、全国的な雑誌に掲載されて、陽(ひ)が当たればいいなと思ったのです。杞憂(きゆう)でしたが、西島さんの体調も気になって、終戦50周年まで待てなかったのです。
標的は『暮しの手帖』に絞りました。大判で活き活きしたカラーページと、丹念な編集で知られ、読み捨て雑誌ではない。発行部数も多い、元気印の家庭雑誌でした。
昭和60年の春、一面識もない編集部に、ご本人には内緒で、スケッチの写真や資料、画集満タンのばかでかい小包を送りました。手伝ってくれた女子行員に、当時騒がれていた小包爆弾みたいと冷やかされました。
すると早速に宮岸毅編集長から、丁重な承諾の電話でびっくりしました。
絵の素晴らしさと迫力が、終戦記念号に相応(ふさわ)しいと、名編集長が合点(がてん)されたのでしょう。

田村

よかったですね。

司会

こうして終戦45年に当(あ)たる、平成2年(1990)の『暮しの手帖』盛夏の8・9月号に、この貴重な「ビルマスケッチ」が特集されたのです。巻末の「編集者の手帖」に、“この号で、まずご紹介したいのは「ビルマのスケッチ」でございます”とあります。
そして、13年後の平成15年に、令息雅幸さんの編集による、決定版の『画帖「緬甸(ビルマ)」・西島伊三雄二等水兵スケッチ』(海鳥社刊)が出版されています。

二科展に彗星(すいせい)。そして日宣美へ

田村 靖邦氏

司会

終戦翌年の、昭和21年7月に帰国。焼け野が原の博多で、いよいよ独立ですね。

広野

九州のデザイン界に、「西島登場」を印象づけたのは、戦後間もなくの昭和26年に、先生が二科商業美術部門で特待賞を受賞されたことで、弱冠28歳の快挙でした。
戦後の復興期に入って、街に活気がわき、中央に負けないデザイナーの登場が期待されていました。
そこへ、この快ニュースです。福岡に待望の新星登場だったでしょう。

本田

でも、なぜ二科に。

広野

昭和26年に、二科の総帥(そうすい)東郷青児(とうごうせいじ)さんが福岡へ来られ、「商業美術部をつくったので参加しないか。君たちの作品が上野の美術館で展示されるよ」と入会を勧められた。

本田

二科会は、東郷青児さんの天衣無縫(てんいむほう)のパフォーマンスで、注目を浴(あ)びた芸術団体でしたね。

広野

尊敬していた画家の伊藤研之さんが福岡の二科の重鎮で、先生は、新設された商業美術部に入会します。
先生に続いて、九州の大部分のデザイナーが二科会に入りました。

司会

その年ですね。「宝くじ」のポスターで、大当たりを。

広野 司氏

広野

上野美術館で特待賞の作品を見て感慨無量だったそうです。
いかにも二科らしく、幹事の野間仁根(のまひとね)さんが、しわしわの百円札300枚を、手掴(づか)みのようにして、「ハイ、賞金」と渡されたそうです。
昭和30年、32歳で二科商業美術部審査員に就任し、昭和34年まで活躍。だが、二科が次第に物足りなくなり、翌35年に亀倉雄策さんたちの日本宣伝美術会に入会されるのです。

司会

亀倉さんは、4年後の東京オリンピックのポスターで世界に名を馳(は)せた大物デザイナーですね。

広野

グラフィックデザイン界の帝王的存在でした。日宣美を全国組織にしたい。残るは九州だけと、標的を西島伊三雄に絞られたのですね。
先生とともに、九州のデザイナーが、雪崩(なだれ)を打って入会し、日宣美の全国組織が完成したのです。

司会

その背景は?

広野

地方にいる私たちも、中央の高名なデザイナーに接し、刺激を受けられる。
公正なオープン審査で知られている日宣美賞にチャレンジして、自分の可能性を試される。図案屋からグラフィックデザイナーへの意識変換で、まさに黎明(れいめい)を迎えた思いでした。

田村

帝王、亀倉さんの標的が、博多の西島さんだったのは愉快ですね。

広野

先生は、まだ36歳。でも、大変な存在感です。

本田 正寛

司会

その頃聞いた話があります。亀倉さんが、「西島君。君が日本一偉いデザイナーだ」と言われたとか。
西島さんが面食らっていると、「私が都庁に電話しても、権威の象徴の美濃部都知事から返事は期待できない。だが君は市長さんから懇切な返事がある。こんなデザイナーは日本中にいない。君が一番偉い」と。
実力者である亀倉さんの絶妙のウイットに座が沸(わ)いたそうです。

広野

日宣美は、中央では、田中一光(いっこう)、杉浦康平和田誠横尾忠則さんらの新時代のヒーローを生み出し、九州では一匹狼のデザイナーたちに、情報の風通しがいい近代システムの窓を開いたのです。

司会

だが、反体制運動が起こって。

広野

時代の流れでした。8年後の昭和45年、先生も審査員だった審査会場に、ヘルメットの美術学生たちが侵入して妨害。審査は別会場で実施されましたが、ついに瓦解(がかい)。九州の私たちには励みの場が消滅して残念でしたね。

松本清張さんと同業だった

司会

平成21年は、推理小説に一時代を画した松本清張(まつもとせいちょう)生誕100年で沸(わ)きましたが、小説家になられる前の清張さんは、北九州の小倉にあった朝日新聞西部本社で図案の仕事をされていて、二人はデザイン仲間だったそうです。

広野

戦後の一時期、国鉄の観光ポスターコンクールが、デザイナーにとって、何よりの登竜門でした。
先生が最初に応募されたのは、門司鉄道管理局が昭和23年に募集した観光ポスターで、それをきっかけに担当の近藤重喜さんからデザインを依頼されていたのです。
近藤さんは、九州のデザイナーを支援された温厚な方で、『太陽とみどりの国九州を行く』の扉に、清張さんの入選作、「九州へ」のポスターを取り上げられています。
清張さんが審査について先生に問い合わされた葉書が残っています。

田村

清張さんと西島さんのご縁。天才同士で、愉快ですね。

司会

西島さんは新聞に、「松本清張さんの作品にはいつもストーリーがありました。この作品も、牛の向こうからだれかが出て来て、次の展開がありそうな画面です。
作家になられても、“点と線”“黒地の絵”というようなデザインらしい題名が多いことを見ると、やはり絵心が影響していると思います」と述べておられます。
さらに、西島さんは清張さんの出世作『点と線』の生原稿の一部を知人からもらっておられた。
平成10年、北九州市に「松本清張記念館」が誕生したとき、私の家にあるよりはと、寄託しておられます。

「九州に西島あり」万博騒動

田村

「九州に西島あり」と、全国に知られたのは、万国博覧会シンボルマーク騒動からですね。

司会

大阪万国博覧会は昭和45年(1970)に実施され、アポロ11号探検の成果である月の石の展示で評判に。国を挙げての大イベントでしたね。

広野

5年前の大晦日に舞い込んだ「財団法人日本万国博覧会協会・会長石坂泰三」さんからの一通の手紙から、その騒動が起こったのです。
シンボルマークの指名コンペの依頼状でした。著名なデザイナー10数名による指名コンペで、デザイン界の錚々(そうそう)たる人たちが審査員。九州では先生一人がシードされたのです。

田村

大変な名誉ですね。

広野

先生は、ここ一番の集中力を発揮。斬新で、重量感のあるユニークなマーク(右)を作り出された。
先生によれば、「対立している東西勢力や、男女が、手を取り合って調和し(下部)、新しい平和な世界(上部)を現出し支える。日本開催の意義を、上部の円に象徴した」とあります。シンプルで強烈な迫力。見事に特選に選ばれたのです。

本田

たいへんな壮挙でしたね。

司会

新聞の大きな話題となり、全国の注視を浴びました。
ところが、それに大物会長の石坂泰三さんから、わかりにくいとクレームがついて、再募集になったのでしたね。

広野

マスコミで賛否両論。私たちも、ハラハラしていました。
でもこれで、かえって話題が広がって、「九州に西島あり」と注目されるようになったのです。

司会

そのマーク騒動について当の西島伊三雄さんは、雑誌の談話で、「デザインという私たちの仕事が、いかに社会と直結したものであるかということを再認識しました。全国各地から多数の激励文を頂き、今回の体験は貴重なものでした。
今までの中央コンプレックスが、いくらか薄らいだようです。これからもあくまでわが道を行きたいと思っています」とあります。

本田

そして、松下電器の冷蔵庫のドアのデザインで、特選になられた。

司会

万博の石坂さんは東芝、今度はナショナルと続いてでした。(笑)

広野

道ばたの花が風に揺れているさまをシンプルにデザインした作品でした。応募2万余点。賞金120万円は、心身障害者を支援するための、「あゆみの箱」に寄付されています。

司会

その頃、佐賀大学の講師にもなっておられる。

広野

ある日、学生さんが豊田勝秋教授の紹介状を持ってアトリエにやってきて、特設美術部にデザイン科が出来るので、ぜひ先生に、ということだったのですね。
藤喜三太大野健一立山一則田副正成の四人でそれぞれの分野で活躍されました。
教え子の中から、初の大学卒の弟子も誕生しました。のちにジーエータップで活躍した土井国男さんで、アトリエの雑巾がけにもすぐに溶け込んでいました。
そのほか、オリジナリティを発揮していた平山喜丈(ひらやまよしたけ)さんや、いつも新風を運んでくれた伊勢川桂右(いせがわけいすけ)さん。がんばりやの野田俊介さん。そして、分け隔てなく、先生にしごかれ鍛えられた令息の雅幸さんらが、兄弟弟子で、それぞれに活躍していなさる。

田村

後に、福岡市の日本デザイナー学院の校長もされていますが、高等小学校卒業の西島さんが、国立大学の先生になられた。痛快な話ですね。

子供さんの似顔色紙が6千枚

司会

銀行も西島さんと、縁が深い。昭和30年代の初めごろですが、福岡シティ銀行(当時は福岡相互銀行)の四島司社長が友人の秀巧社印刷社長の間茂樹(あいだしげき)さんから、すごい人が出現したと聞いて、広報担当の私に銀行のデザインは西島伊三雄さんで、と言いなさった。
以来40余年のお付き合いでしたが、ささやかな提案が、西島さんとのキャッチボールで、輝くデザインに変身する。この人は天才だと思っていました。会うのが楽しみで、その日は朝からわくわくしていました。

本田

支店開店などのときに行われた、西島さんの「お子さんの似顔スケッチ」が、評判でしたね。

司会

30余年にわたって、色紙に延べ6千枚は描かれたでしょう。
北九州市でのこと。幼児を抱かれた若いお母さんが、「実は私も、先生に描いてもらった」と言われた。
思わぬ母子スケッチの実現でしたが、この時の西島さんの笑顔が忘れられません。西島童画の流れの一環に。爽やかな思い出です。

本田

西島さんの最初のテレビ出演にも銀行がかかわっていましたね。

司会

昭和35年に始まったRKB毎日テレビ「やあ、今晩は」でした。各界で活躍の方々にお話を聞く生番組で、聞き手は絶対に西島伊三雄さんと、強く推したのです。
だが、ディレクターは素人には無理と猛反対。しぶしぶ首実検に出かけた河原俊二さんたちが、熱烈な支持者に豹変し、味のある番組を作っていただいた。中島勉さんの迫真のセットも光って、愉快でしたね。
博多人形の名人小島與一さん、西鉄ライオンズの怪童、中西太さん。愛艇・メイキッス号で博多へ来られた森繁久弥さんらがゲスト。聞き手と即席スケッチが、博多弁丸出しの西島さんで、ローカル時間帯が消えるまで、1年3ヶ月続いて好評でした。
ついで、西島さんの早描きをバックにした「絵のおじさんの天気予報」がRKBとKBCのテレビで。これは4年間続いて、ホームぎんこうの絵のおじさんは、茶の間と子供たちの人気者でした。
銀行の窓口サービスに放映した、西島さんの「楽しい干支(えと)の年賀状」のビデオ番組も、20年近く続きました。さあ打ち合わせと、30分、すぐに録画。1時間ちょっとで完了。西島さんとの仕事は、あっという間に終わるのでした。

ゴルフと西島さん

田村

西島さんが60歳の時にスタートした「花なら蕾のゴルフ会」は、楽しいコンペでしたね。

司会

実は、西島さんはゴルフに猛反対でした。みんなが働いている昼日中(ひるひなか)に、ボールを叩いて遊んでいる。ゴルフをする人の気が知れないと。
だが、その西島さんが、とにかく一度と誘われて病(や)みつきに。なんとも可笑(おか)しかったですね。

田村

そして、毎春、「花なら蕾」コンペの主宰まで(笑)。でも、よかった。あの頃は体調不振で、気になって仕方がなかった。
それがゴルフを始めてすっかり元気になられた。君子豹変(ひょうへん)も、ときにはいい。ほっとしましたね。(笑)

西島流ゴルフ訓

司会

ゴルフでは、博多人形の西頭(にしとう)哲三郎さんとの愉快な話があります。

田村

名人同士で、どんな展開が?

司会

二人は子供さんの仲人まで互いにし合った親しい仲ながら、反面、きびしい競争相手でもあった。
ある日、西頭さんの様子がおかしい。一打ごとにズボンの右ポケットに手を入れて、何かを左のポケットに移していなさる。
一緒に回った人が、「あんた、何しよるとですな」と聞くと、「西島クンが、私のスイングが一つ少ないと茶々を入れた。絶対、間違えとらん。じゃけん、毎打、確かめよるったい」。
また、ある日。「西島クンはいいなあ。色紙にちょちょっと筆を走らすだけで銭になる」と西頭さん。
西島さんも負けてはいない。「なんば言いよんしゃあとな。あんたこそ、古い型に石膏ながして儲(もう)かっとる」。
二つとも酒席の伝聞ですが、負けず嫌い同士の好ライバル、ありそうな話と大笑いしました。

博多町人文化連盟

田村

西島さんがアイデアマンの帯谷瑛之介(おびやえいのすけ)さんや博多の文化や伝統に詳しい江頭光(えがしらこう)さんらと昭和48年に立ち上げた、博多町人文化連盟がいい。
豊臣(とよとみ)秀吉(天文5~慶長3・1536~1598)とわたり合った島井宗室(しまいそうしつ)と神屋宗湛(かみやそうたん)。そして黒田如水と長政の国づくりに貢献した大賀宗九(おおがそうく)と宗伯(そうはく)父子。戦国末期から江戸時代初期に活躍した豪商たちに思いを馳(は)せながら、博多の文化や、町おこしに励みたいと。博多ならではの見事な会ですね。

島井宗室(しまいそうしつ)(天文8~元和1・1539~1615)安土桃山時代・江戸時代前期の博多の豪商。朝鮮貿易に活躍。秀吉の朝鮮出兵の回避に尽力。博多津年寄の元締として黒田長政の福岡城築造に協力。茶人としても知られた。

神屋宗湛(かみやそうたん)(天文20~寛永12・1551~1635)祖父寿貞が石見銀山の開発で財を成す。秀吉の保護を得、朝鮮・中国両方との交易で巨利を得る。産業開発に努め、茶人としても知られる。

本田

博多の町おこしと、活力の原点の感じも。毎年実施されている「博多町人文化勲章」がユニークですね。

田村

西島さんが初代理事長で、多彩な活動がすっかり博多に定着している。
西島さんが宗室、宗湛、宗伯の三傑を、モチーフにデザインし、博多人形師の西頭哲三郎さんが気持ちをこめて作りあげた博多焼きの勲章を、博多の発展に尽くしている目立たない人たちにもらってもらおうという賞で、これまた、博多のこの会ならではの勲章ですね。

本田

「博多町家(まちや)ふるさと館」も。

広野

福岡市の文化と観光に役立てようと、平成7年に設立された「博多町家ふるさと館」の初代館長で、まさに適役でした。

田村

「博多町人文化連盟」も、「博多町家ふるさと館」も、今は『博多っ子純情』の著者、長谷川法世さんが引き継いで活躍しておられます。
そして、私も入れてもらった、町人衆の懇親会「叢匠会(そうしょうかい)もある。

司会

大正から昭和にかけて、以前に古老たちの博多を語る会がありましたが、月に1回集まって、現代版の楽しい勉強会をと、37歳の西島さんたちの発想で始まったのです。
博多弁の、「どうしょうかい」、「そうしょうかい」が、名称の由来だそうで愉快です。

田村

お盆過ぎには、キャナルシティ博多の水路で「叢匠会(そうしょうかい)のすこし遅れた灯ろう流し」が催されています。参加者それぞれに、好みの戒名を付けて。西島さんは「声濁音神出鬼没信士(せいだくいんしんしゅつきぼつしんし)でしたな。

司会

ご本業のグラフィックデザイナーとしての西島作品は身近なところに多いですね。
博多ラーメンの「うまかっちゃん」のネーミングやデザインも西島さんだし。

田村

とにかく “仲良く、元気に、博多のために”がモットーで、西島さんの周辺は、いつも博多の味と笑いがあふれていました。
酒席でお得意の歌は「長崎は今日も雨だった」。即席の踊り「潮来笠(いたこがさ)」には皆が腹を抱えて笑いましたね。

本田

いつも博多の和と集いの中にいなさった。博多どんたくや、博多山笠の海外への親善披露も、あの人がいなさると諸事スムーズで。不思議な個性とたいへんなスタミナ。まったく貴重な存在でしたね。
ボルドー、マレーシア、ニュージーランド、ハワイ、サンフランシスコ、上海と6回参加しておられるとか。福岡市のPRにたいへん貢献されましたね。

司会

この『博多に強くなろう』シリーズの誕生にも、西島さんがかかわっておられる。

昭和53年、西島さんの福岡市文化賞受賞を祝った席で、四島社長が「町人文化連盟で、博多学のシリーズをつくられませんか」と、もちかけたのが発端でした。
「いや、会にはそんな余裕はない。それは銀行でしてください。応援しますよ」と返されて大笑い。同席の私にお鉢が回って、現在の94号に至っています。

九州大学病院外来棟ロビーの有田焼壁画
「博多祇園山笠疾走の図」

田村

小料理屋「たまき」の一筆描きもよかった。店の白板にさっさと季節の風物を。「興至って筆を執(と)る」感じ。まさに絶品の博多歳時記でした。

広野


地下鉄薬院駅に近い九州電力のあかりの館(九電記念体育館そば)に「西島伊三雄童画の世界」が常設展示されていて、いつでも見られますね。毎年のカレンダーも先生の童画だし。

田村

あちこちにモニュメントがあって、博多の絵師西島伊三雄さんは、今も身近な存在ですね。

広野

大活躍の先生の陰には、決して表へは出られない奥さん静子さまの支えがありましたね。
私たち弟子にもよく気を使っていただいて。

田村

奥さんが亡くなられて、急に弱くなられたでしょう。奥さんに支えられての伊三雄先生だった。

本田

これまでお話を伺って、さらにつくづくと思いますね。
西島伊三雄さんの作品は、本当に、博多の、私たちの宝物ですね。

司会

それだけに、九州の若いデザイナーの励みのために、いつの日か、文壇の芥川賞のような、「西島伊三雄賞」ができればと思われてなりません。
身近な西島伊三雄さんのお話をふんだんに。ありがとうございました。

まぼろしのビルマ・スケッチ

元西日本新聞社会長
福岡文化連盟前理事長

青木 秀(しげる)氏

※『西島伊三雄二等水兵スケッチ画帖緬甸(ビルマ)』(海鳥社刊)に寄せられた序文より

五万英霊へはなむけ

「あの“まぼろしのビルマ・スケッチ”がようやく蘇(よみがえ)ったか」
西島さんの「ビルマスケッチ」の出版の話を聞いた時、私は思わずそう呟(つぶや)きました。もう40年近く前、出版寸前まできていたこの画集が、ついに日の目を見ることなく中断されたことが、忘れられなかったからです。
昭和39年10月の日付で書かれた西島さんの「まえがき」と「あとがき」が、今回そのまま使用されていますが、出版の喜びと同時に、ビルマ戦に散った夥(おびただ)しい戦友たちとその遺族への痛切な思いが行間に滲(にじ)み出ております。
そして「あとがき」の末尾は「ビルマで終戦になった同志として、この画集に当時の戦線の記録をお願いし、ビルマ戦線で散られた五万の英霊へのはなむけとしていただきました」という言葉で結ばれております。
「あとがき」の冒頭は「この画集を見ていると、実に平和で、これがあの時代の作品だろうかと言われ」という言葉で始まります。
本当に、そうです。50余点におよぶスケッチのすべてが、南国ビルマののどかな風物詩で、風景も、現地人たちの生活も、水牛や鶏たちも、作業にいそしむ兵隊たちも、作者の温かい眼差(まなざ)しに包まれて、おもわず微笑みたくなる魅力を湛(たた)えております。

遅ればせに同期の盃

西島さんは昭和18年12月1日、佐世保の第一海兵団に入団、ビルマ最南端のメルギー島の兵站(へいたん)基地で終戦を迎えます。英軍に降伏した部隊は長い収容所生活ののち、ムドン収容所に移され、ようやく昭和21年7月“ふるさと博多”にたどり着くのです。
実は私も西島さんと全く同じ日に、佐世保の相の浦海兵団に学徒動員で入営したのです。お互い海軍の同期生だったことを知るのは、ずっと後のことですが、遅ればせながら交(か)わした同期の盃のうまさは格別でした。

赤チン、キニーネで彩色

収容所で全く先の読めない不安や苦しみから逃(のが)れる何よりの手段が、絵を描くことでした。紙は英軍の現地人ゴルカ兵の似顔絵を描いて入手、赤は傷薬の「赤チンキ」、黄はマラリヤ用の「キニーネ」で、彩色画が描けたと喜んでいます。
こうした“極限状態”の中から生まれたのが、この画集なのです。一点一点が単なるスケッチではなく、いわば一期一会の対象との出会いであり、その短い時間こそが西島さんの“生きている証(あかし)”であったに違いありません。
そして西島さんの心を癒やした対象たちが、いま、私たちを癒やしてくれているのです。

最後まで絵筆離さず

そういえば、西島さんは病院でも、最後の最後までベッドで絵筆を離しませんでした。そして描線に少しの乱れもないことに驚嘆したことを思い出します。
昭和39年、他の戦記ものと一緒に出版することを断念された西島さんの真意に、あらためて敬意を表します。