No.79 九州大学医学部のきらめく博士たち

対談:平成23年8月20日

司会・構成:土居 善胤


お話:
九州大学医学史研究家 医学博士 佐藤 裕氏
聞き手:
西日本シティ銀行 取締役専務執行役員 光富 彰

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


九大100年 医学部は108年(平成23年 2011現在)

九州大学病院と神の手

司会

新装なった「九大病院」の正門を入ると、左側の青空に浮かぶ大きな神の手にのった人物の彫刻に目を見張りますね。

佐藤

世界的な彫刻家であるスウェーデンのカール・ミレスの「神の手」で、彼の最終作品だそうです。
医学部創立75周年の時、当時の九大病院長だった第二外科の井口潔(きよし)教授の発起(ほっき)で設置されたものです。

光富

人間の運命は神の掌(てのひら)に。いかにも象徴的ですね。
そして、今年(2011)は「九州大学百年」でおめでたいですね。

佐藤

医学部以外の学部は、福岡市西方の新天地、「伊都(いと)キャンパス」へ大移動です。医学部は伝統の馬出(まいだし)地区にとどまって病院を一新。九州大学は新しい飛躍の世紀を迎えました。

会津士魂の初代総長 山川健次郎博士(嘉永7年 1854~昭和6年 1931)

山川健次郎総長

司会

伊都の新キャンパスには、九州大学初代総長の山川健次郎さんの胸像が、会津若松市から贈られていますね。

佐藤

郷土史研究家で、会津若松に魅せられた柏木隆之助氏のご尽力で、九大100年を祝って寄贈されたのだそうです。
山川博士は明治維新の戊辰(ぼしん)戦争で、徳川幕府に殉(じゅん)じて花と散った会津白虎隊(びゃっこたい)の一人でしたが、15歳の若年だったので決死隊からはずされて、明治を迎えられた。
明治4年(1871)、岩倉具視(いわくらともみ)、木戸孝允(きどたかよし)、大久保利通(おおくぼとしみち)らの「岩倉遣米欧使節団(いわくらけんべいおうしせつだん)」に随行する海外留学生の一人に17歳の健次郎が選ばれてアメリカへ渡り、名門イェール大学で物理学を専攻します。

司会

女性も選ばれていますね。

佐藤

健次郎の妹で、後に公爵(こうしゃく)陸軍元帥(げんすい)大山巖(おおやまいわお)の妻となる13歳の山川捨松(やまかわすてまつ)や、また後に津田塾を開く8歳の津田梅子も参加しています。
留学3年目の明治7年に、政府の留学生削減で、健次郎が帰国せざるを得なくなったとき、アメリカ人の友人の富豪の伯母が、国家(日本)のために尽くすと一札(いっさつ)いれることを条件に学費を支援してくれたそうです。
そうして学位を取得し、翌8年に帰国しました。

光富

志が触(ふ)れ合う時代。いい話ですね。

佐藤

山川は、後に九州大学の初代総長に就(つ)くのですが、新興日本を支えた人の経歴の華麗さに圧倒されます。
帰国後明治12年に、東京大学物理学の日本人で初の教授、ついで東大初の理学博士、そして理科大学長を経(へ)て、明治34年、48歳で東京帝国大学総長に。
明治40年6月に、当時の炭鉱業の雄(ゆう)であった明治鉱業を背景に安川敬一郎が創設した明治専門学校(開校は明治42年。現、九州工業大学)の総裁に招聘(しょうへい)されています。
学校設立の一切(いっさい)を任(まか)せられた山川は、アメリカ留学で体感した私学の社会貢献の理念と、新興日本の背骨となる専門教育のエキスを、明治専門学校に結晶したのです。
そうして4年、明専の基盤を固めた上で、明治44年に発足した九州帝国大学の初代総長に就任しました。入学式の訓示は、切々と語りかけた名訓示で、その一節「修養がなければ、完全な士(し)と云(い)ふ可(べ)からず」は、さぞかし学生の胸を搏(う)ったことでしょう。
ついで大正2年(1913)から9年まで、再び東大総長に就き、当代屈指(くっし)の士魂(しこん)と英知の人物として、敬慕(けいぼ)されました。

光富

新時代に船出する九州大学を担うには、まことにうってつけの大人物だったのですね。

  • *戦前の帝国大学は東京、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋の7校。ほかに京城、台北の2帝大があった。

九州大学病院 正門

九大医学部の前身 福岡医科大学の誕生

大森治豊博士銅像

司会

そして、「神の手」の彫刻の左手に、フロックコートに威儀を正した銅像が目に入りますね。

佐藤

九州帝国大学創立の8年前、明治36年(1903)に創立された、京都帝国大学の第二医科大学である福岡医科大学の初代学長となった大森治豊(おおもりはるとよ)博士で、新装なった九大病院を見守っています。
理想に燃えた篤実(とくじつ)な学究者で、医学部の私たちは、今も敬慕しています。

光富

山川健次郎と大森治豊。九大の黎明期(れいめいき)に素晴らしいお二人を迎えて。九州大学の歴史の厚みですね。

佐藤

「九州に大学設置」の報が流れると、福岡と熊本や長崎の間で、熾烈(しれつ)な誘致合戦(がっせん)が繰り広げられましたが、結果は福岡に迎えることができて、福岡が九州の雄都となったのです。

光富

振り返ると、福岡県は産学誘致で成功していますね。
北九州工業地帯の核となる官営八幡製鐵所(せいてつしょ)の開業は明治34年で、九大の前身、福岡医科大学誕生はその2年後の36年ですね。

佐藤

製鉄と大学の誘致、この大プロジェクトには、日露戦争の講和斡旋(あっせん)に、アメリカのルーズヴェルト大統領を動かした、福岡出身の金子堅太郎(かねこけんたろう)の尽力があり、さらに石炭産業ほか地域挙(あ)げての熱(あつ)い支援があったのです。

司会

当時の先人の炯眼(けいがん)と尽力の賜物(たまもの)ですが、全国で何番目の大学ですか。

佐藤

そこで、ぜひひと言(こと)も(笑)。
本年創立100年を迎えた九州大学は、明治44年に先発の医科大学と、新設された工科大学が統合して、九州帝国大学となったのです。
だから法令上は、明治40年に創立された東北帝国大学についで、4番目の帝国大学ということになります。
しかし、その前身の福岡医科大学が福岡県立病院を母体にして、京都帝国大学分科大学として設立されたのが、明治36年ですから、本当は日本で3番目の国立大学なのです。
これは、医学部卒業生の私たちの共通認識であり、プライドです。

  • *明治30年の勅令209号に「京都帝国大學ノ第二医科大學ハ之(これ)ヲ福岡ニ置ク」、「京都帝国大學福岡医科大學ト称ス」とある。
佐藤 裕 氏

光富

医科大学設置の反応は。

佐藤

新進気鋭の教授陣でスタートした京都帝国大学福岡医科大学は、名門高校の注視の的(まと)となりました。特に2回生は、旧制一高の俊秀がドイツ語教授の勧めもあって、福岡医科大学に馳(は)せ参じたのです。

司会

さぞ、壮観だったでしよう。

佐藤

私はアメリカのミネソタ州の人口10万人ほどの小さな都市、ロチェスターにある有名な「メイヨー・クリニック」を連想します。
1846年にアメリカに移住したイギリスの外科医、ウイリアム・メイヨーが長男ジェームズ、次男チャールズとともに、ミネソタの、小さな町で開いたささやかな病院が評判となって、人が集まってくる。町の人の支えとなり核となって、全米屈指のメディカルタウンに発展したのです。
創立当時の福岡医科大学と、福岡市のつながりにも、それを感じます。
「福岡医科大学を日本のメイヨー・クリニックに」。大森学長の胸の中には、この思いがあったでしょう。

夏目漱石の紹介で歌人、長塚節が九大病院に

司会

飛行機も関門トンネルもない時代に、アララギ派の有名な歌人で、小説「土」の著者として知られた長塚節(ながつかたかし)(明治12年 1879~大正4年 1915)が、はるばる福岡まで来て、久保猪之吉(くぼいのきち)博士の治療を受けていますね。

佐藤

夏目漱石(なつめそうせき)の紹介状持参だったそうです。漱石は、松山時代に、下宿先の縁で幼かった久保夫人のよりえを知っていましたし、九州大学のイノ・クボの名は全国に知られていたので、節の治療を、ドイツ帰りの信頼できる久保博士に託したのでしょう。
節が福岡で詠(よ)んだ代表歌の歌碑が、稲田通りに近く、ここで豊臣秀吉(とよとみひでよし)が千利休(せんのりきゅう)に茶を点(た)てさせたという“釜掛(かまか)けの松”の碑のそばにあります。

 しろがねの鍼(はり)打つごとききりぎりす
 幾夜(いくよ)はへなば涼しかるらむ

司会

節と同じく、帝大のエライ先生に診てもらえるとあって、病院前は、診察待ちの患者さんの宿が立ち並(なら)んでいたそうですね。

佐藤

国内だけではなく、中国や東南アジアの名士たちが、アジアで一番信頼できる病院で有名教授の診断を受けようと、福岡へ来ていたのです。

医学部の通りに名を冠した6人の博士たち

大森通りの碑

光富

医学部構内に、九大医学部の声価を高めた、大森博士ら、「6人の博士の名を冠した通り」がありますね。味のある通り名ですね。

佐藤

昭和40年(1965)に病理学の今井環(いまいたまき)教授を委員長に発足した「史跡保存委員会」により、大森、久保、宮入、田原、稲田の「五つの通り名」が、翌41年3月に決(き)められたのです。
だが、当時は顕彰碑的なものはなく、「橋本通り」もありませんでした。

司会

「橋本病」が、まだよく知られていなかったのですかね。

佐藤

そこで、杉岡洋一元総長が卒後40年にあたる平成10年に、同期の燦燦会(さんさんかい)(昭和33年卒)の人たちに呼びかけ、また第一外科田中雅夫(たなかまさお)教授の要望もあり、福岡医科大学第1回生である橋本策(はかる)博士の名を冠した「橋本通り」が生まれたのです。
そして、各通りに偉大な先達6人の「通り名」と、「業績」を記した、すっきりした顕彰碑が建てられたのです。

司会

そして、郭沫若(かくまつじゃく)さん(1892~1978)の記念碑も。

佐藤

「通り名」ではありませんが、燦燦会が、医学図書館の玄関横に郭沫若さんの顕彰碑を建てられています。
郭さんは、1923年に九大医学部を卒業し、日中戦では、抗日戦の文化リーダーに。新中国成立後は、副総理、中国科学院長などに就かれ、日中友好と文化親善に尽くされました。
医学者にはなられなかったが、大きな国医でしたね。

司会

九大の誇りである博士たちを、通り名に。素晴らしいことをなさいましたね。でも、これから、ノーベル賞を受けられる先生方は……。その通りは大丈夫ですか。

佐藤

通りの余裕は十分にあります。早く、実現してほしいですね。(笑)

医学図書館と同窓会誌「学士鍋」

光富 彰

光富

医学部の入り口から左へ「久保通り」「大森通り」「橋本通り」、右に曲がって「宮入通り」、中央に「田原通り」、クロスして「稲田通り」と壮観ですね。

司会

その「宮入通り」からちょっと入ったところにある「医学図書館」で、先生が九大医学史を寄稿されている同窓会誌『学士鍋(がくしなべ)』を拝見しました。
お世話になっている安部宗顕先生(1952九大卒)から、医学部の歴史なら、『学士鍋』の編集委員でもある佐藤先生に伺うように勧められたのです。

佐藤

恐縮です。私は外科医ですが、九大医学部の先人の歩みに惹(ひ)かれまして……。

光富

佐藤先生は、メスとペンを自在にこなして、九大医学部の貴重なスポークスマンでいらっしゃる。
同窓会誌が『学士鍋』とは、味のある誌名ですね。その由来は。

佐藤

開設された医科大学は、地元の馬出(まいだし)に溶(と)けこんでいたので、第1回生の卒業は、町内挙(あ)げての祝賀気分だったと伝えられています。
卒業生58名が、馬出から市内へ提灯行列をして、医学部の運動場に用意された豚汁の大鍋(おおなべ)を囲(かこ)んで、教授と学生が一緒に祝杯をあげ、その大蓋(おおぶた)に皆で署名をしたのです。

司会

古き、よき時代ですね。

佐藤

それが恒例となり、豚汁は消えましたが、今も署名用の大蓋だけは用意されて連綿と続いているのです。
それで同窓会誌の誌名になったのですが、医学部同窓会が主催(しゅさい)する卒業祝賀会も「学士鍋」と呼ばれています。

医科大学の初代学長 大森治豊博士(嘉永5年 1852~明治45年 1912)

大森治豊博士

司会

では「通り名」の六博士のお話を。まず、福岡医科大学の初代学長である大森治豊(おおもりはるとよ)博士から。

佐藤

博士は東京大学医学部第1回生(明治12年卒)で、卒業と同時に福岡医学校の教師として着任、福岡市の中洲にあった県立福岡病院の院長を経て、明治36年(1903)に福岡医科大学の初代学長となるのです。
先生は独特の手術法、消毒法を生み出し、優秀な外科医を育てました。
県立病院長時代には、産婦人科医の池田陽一博士とともに、全身麻酔と最新技術の防腐法を駆使した、日本で最初の近代的帝王切開手術を行いました。
こうした医学史に残る画期的な近代手術を積み重ねて、県立福岡病院の声価が高まり、大学誘致に有利に働いたと言われています。
大森博士は、博多区千代町の崇福寺(そうふくじ)で静かに眠っておられます。

司会

佐藤先生は、九大の医学史を足でも確かめておられる。大森行脚(おおもりあんぎゃ)もなさったとか。

大森通りと顕彰碑

佐藤

はい。大森学長の故郷は山形県で、蔵王山(ざおうざん)のふもとの上山市(かみのやまし)です。
歌人の斎藤茂吉(さいとうもきち)(明治15年 1882~昭和28年 1953)とともに、郷里の二大偉人として、敬慕されています。
上山松平(かみのやままつだいら)は3万石の小藩ですが、上山城には立派な顕彰の展示があり、「外科医学の先駆者で、福岡医科大学学長などを歴任。上山藩医大森快春(おおもりかいしゅん)の長男」と記されています。
隣接した市民会館の庭には、蔵王(ざおう)山系を見はるかす胸像と、九州大学医学部同窓会による「帝王切開百周年」の記念碑がありました。

九州大学病院キャンパス 6博士の「通り」マップ

医学と文化の久保猪之吉博士(明治7年 1874~昭和14年 1939)

久保猪之吉博士

司会

では、通り名にもどって、九大病院の入り口から左へ入ってすぐの「久保通り」から。

佐藤

久保猪之吉(くぼいのきち)博士は、今の福島県二本松市の出身で、父君(ふくん)は明治維新の戊辰(ぼしん)戦争で、幕府側について奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)に加わった二本松丹羽(にわ)(10万石)の家臣でした。
久保は抜群の秀才として知られ、第一高等学校から東京帝国大学医科大学へ、そして明治36年耳鼻咽喉科研究のために、ドイツのフライブルク大学に留学します。
研究熱心で大学では、「ドクトル・ヘン」と親しまれていました。大男たちに混(ま)じった「小男の賢者」といったイメージの愛称だったそうです。
明治40年に帰国。すぐに京都帝国大学福岡医科大学の耳鼻咽喉科教授に任じられ、九州大学に同科を創立したのです。
博士の学殖の深さを示す愉快な話があります。「イノクボのもとで学びたい」と、医学の本場のドイツから若い研究者が逆留学してきたそうで、さぞ話題になったことでしょう。
ドイツから持ち帰った最新式の食道内視鏡で、日本初の異物摘出をして、九大にイノクボありと、広く全国に知られたそうです。

司会

夫妻ともに、一流の歌人で。

佐藤

よりえ夫人は少女のころ松山で正岡子規(まさおかしき)や漱石に可愛がられたそうで、歌や俳句で知られていました。
また自宅が伊藤伝右衛門(いとうでんえもん)に近く、よりえ夫人は白蓮(びゃくれん)夫人と、歌を通じて親しかったようです。

司会

お宅には文学の香りがあって、博多の文学青年がよく訪ねていました。
文学誌『九州文学』を主宰された作家の原田種夫さんによると、夫妻は文学青年を歓待され、久保邸はさながら博多の文化サロンだったそうです。

佐藤

久保記念館のそばには、若き日に留学したドイツで詠(よ)まれた

 霧ふかき南独逸(どいつ)の朝の窓
 おぼろにうつれ故郷(ふるさと)の山

の歌碑と、胸像が設置されています。

  • *改造社刊『現代日本文学全集』38巻『現代短歌集/現代俳句集』に、猪之吉は短歌、よりえは俳句で載せられている。

光富

「久保記念館」とは。

佐藤

九大耳鼻咽喉科創立20年記念日に、門下生たちにより設置され、大学に寄附された、「日本初の医学博物館」ともいうべきものです。
医学部の「百年講堂」の前にあり、ドイツから持ち帰られた日本最初の食道内視鏡をはじめ数々の医学器機。学術書、診療記録、標本、そして前野良沢(まえのりょうたく)と杉田玄白(すぎたげんぱく)が翻訳(ほんやく)した『解体新書(かいたいしんしょ)』が展示されています。

司会

医学部へは、まだ車もない時代ですから、博士は赤坂門の自宅(現、読売新聞社)から馬出の大学病院まで、人力車で通(かよ)われていたとか。

佐藤

大森学長も須崎から人力車。田原博士は今泉から天神へ歩き、ちんちん電車だったそう。のどかですね。

橋本病を発見した橋本策博士(明治14年 1881~昭和9年 1934)

橋本策博士

司会

六博士の中で、世界的に著名な方はどなたですか。

佐藤

それは、橋本策(はしもとはかる)博士です。海外からの照会も多いですね。

光富

私どもにはあまり馴染(なじ)みのない方ですが、どんな経歴の方で。

佐藤

三重県(みえけん)の伊賀市出身で、三高から、京都帝国大学福岡医科大学に入学。第1回卒業生で、卒業と同時に三宅速(みやけはやり)教授の第1外科に入局しています。
そして、卒業して4年目、明治44年30歳の年に、「甲状腺のリンパ腫様(しゅよう)変化に関する研究」を日本外科学会で発表。ついで翌年、ドイツの外科系の医学誌『Archiv für Klinische Chirurgie』に発表されました。これが後に「橋本病」と呼ばれるようになる病気の発見だったのです。

司会

日本人の名前が病名に。すごい発見ですね。だが、私たちにはその甲状腺からして判(わか)らない。(笑)

佐藤

一口で言えば、甲状腺が腫(は)れて機能が低下するのが「橋本病」です。
甲状腺は、のど仏の下のところにある縦(たて)4センチ、厚さ1センチ、重さ15グラムぐらい、羽根を広げたような形で気管を被(おお)うように存在するとても小さな臓器です。
ところがこれが、大変な役目をしていて、食べ物に含まれているヨードから、発育を促(うなが)し新陳代謝(しんちんたいしゃ)を盛んにする「甲状腺ホルモン」をつくっているのです。
これが多過ぎても少なくても困る。簡単に言うと、多いと「バセドー病」、少ないと「橋本病」になるのです。

  • *バセドー病は1840年に、ドイツのカール・フォン・バセドーにより発見された。症状は甲状腺の腫れや、眼球突出、動悸(どうき)の激しさなど。
  • *橋本病は1911年に発見。症状は、甲状腺のはれや、疲労感、体重の増加、皮膚のかさつき、脱毛など。

佐藤

これらの甲状腺疾患は女性に多い原因不明の病気でしたが、博士の発見で病態解明の窓が開かれたのです。
博士は、その後、ドイツに留学しますが、第1次大戦の勃発(ぼっぱつ)で帰国。父君が逝去(せいきょ)されたため、35歳で医院を継いでいます。

光富

研究を続けてほしい方が……。

佐藤

郷里の要請も強かったのでしょう。「ドイツ帰りのエライ博士に診てもらえる」と評判になり、伊賀一帯から京都、奈良、さらに滋賀県からも患者が押しかけたそうです。
惜しいことに昭和9年(1934)、腸チフスで、54歳の生涯を終えられます。

光富

天下の名医が、チフスで。

佐藤

抗生物質がない時代で、名医もチフスには勝てなかったのです。
自分が発見した疾患に「橋本病」と名が付くことも、世界の多くの患者や、医学会から感謝され、賞賛されることも、知らないままに他界されています。
橋本病は代表的な臓器特異性自己免疫疾患ですが、橋本病の名が使われた始めは、昭和6年に、アメリカの甲状腺疾患の専門医グラハム博士が橋本病をとりあげた論文からでした。
だが、当時はあまり注目されず、私たちが認識したのも、戦後にアメリカから逆輸入されてからでした。
九大第一外科で橋本策の30余年後輩(昭和16年卒)にあたる、鹿児島大学の秋田八年(あきたはちねん)名誉教授が、博士の功績を広めるために、大変尽力されました。

日本住血吸虫の「中間宿主」を発見した宮入慶之助博士
(慶応元年 1865~昭和21年 1946)

宮入慶之助博士

司会

宮入慶之助(みやいりけいのすけ)博士は日本住血吸虫の中間宿主(ちゅうかんしゅくしゅ)である「宮入貝」を発見して、ノーベル賞の候補にも。「宮入貝」、あまり馴染(なじ)みませんが。

佐藤

博士の功績にちなんで名付けられた淡水産の小さな貝ですが、この貝が「日本住血吸虫(ジストマ)」の「中間宿主」であることを、宮入博士と鈴木稔(すずきみのる)助手が解明されたのです。
宮入博士は長野県出身で、東京帝国大学医科大学を卒業。衛生学研究のためにドイツへ留学。帰国後、京都帝国大学福岡医科大学の衛生学教授として着任しています。

  • *日本住血吸虫は、小腸から肝臓につながる「門脈系」に寄生し赤血球を食べて生存。症状は、かゆみ、発熱、腹水、肝硬変、視力障害など。

光富

日本住血吸虫。血を吸う悪たれでこわいですね。(笑)

佐藤

博士は、それが「中間宿主」の貝に寄生して育ち、それから泳ぎ出て皮膚(ひふ)から人体に入ることを突き止められたのです。

司会

ならば、住血吸虫の撲滅はこの宿主を殲滅(せんめつ)すればいいと。罪のない宿主の貝には気の毒ですが。(笑)

佐藤

水路をコンクリートに造り変えたり、殺貝剤でこの貝を駆除(くじょ)することで、日本の河川から吸虫を閉(し)め出すことができたのです。
なお筑後川流域では、戦後に連合軍寄生虫部長として赴任したハンター博士の、数次にわたる殺貝剤散布の協力も忘れられません。
こうして永年、筑後川流域や山梨県の農業や淡水漁業の人たちを苦しめていた風土病がほぼ撲滅(ぼくめつ)されたのです。

光富

博士の着眼の見事さ、そして鈴木助手との結束の賜物(たまもの)ですね。

佐藤

宮入貝の発見で、住血吸虫に悩んでいた、中国の揚子江(ようすこう)流域や、アフリカでも、中間宿主が発見され、住血吸虫症の予防や制圧が進んだのです。
これがノーベル賞候補に挙(あ)げられた大きな理由だったでしょう。
博士は日本学士院会員に選ばれ、大正14年(1925)退官。昭和21年(1946)逝去。享年82歳でした。

ワイル病の病原体を発見した稲田龍吉博士
(明治7年 1874~昭和25年 1950)

稲田龍吉博士

司会

稲田通りの稲田龍吉(いなだりょうきち)博士も、難病の病原体を発見して、ノーベル賞候補だったと。「ワイル病」、またこれもわかりませんが。

佐藤

ワイル病は、「黄疸出血(おうだんしゅっけつ)性レプトスピラ」という螺旋状(らせんじょう)の細菌の感染によるもので、どぶ鼠(ねずみ)などが保菌しており、尿で汚染された水や土にヒトが触(ふ)れて、皮膚や口から感染するのです。
症状は急性の熱発ですが、軽症だとすぐ回復します。ときに黄疸(おうだん)や腎(じん)障害などを起こして重篤(じゅうとく)になりますが、大抵は抗生剤で治癒(ちゆ)します。

司会

ご経歴は。

佐藤

稲田博士は名古屋の出身。一高から東大医科を卒業。3年間ドイツに留学。帰国して京都帝国大学福岡医科大学内科教室の初代教授になります。
大正4年(1915)に、井戸泰(ゆたか)助教授と協力して、ワイル病の病原体を発見して、疫学、臨床や予防などの総合研究を完成させたのです。
また、九大生理学の石原誠教授と協力して、日本で最初の心電図の記録にも成功しています。
その後、稲田博士は東大に移り、稲田内科を創設します。九大の内科は、協力してワイル病の研究にあたった井戸博士が継ぎましたが、惜しいことに腸チフスで急逝されます。
なお、胃十二指腸潰瘍(じゅうにしちょうかいよう)の臀部圧診点(でんぶあっしんてん)等で有名な第三内科の初代の小野寺直助教授は、稲田門下の一人です。
稲田博士は、優(すぐ)れた人格と識見を備えた該博(がいはく)な知識の人で、昭和19年(1944)に文化勲章を受賞。昭和25年逝去。77年の生涯でした。

ペースメーカーの父 田原淳博士(明治6年 1873~昭和27年 1952)

田原淳博士

司会

通りの博士たちの中で、よく知られているのは、「ペースメーカーの父」といわれる田原淳(たわらすなお)博士では。心臓拍動のメカニズムの解明はノーベル賞に匹敵(ひってき)すると……。

佐藤

心臓病患者の命綱である「ペースメーカー」は、田原博士の発見した「心臓拍動のメカニズム」に基づいて開発され、多くの心臓病患者に大きな恩恵となっています。

光富

そして、通りの六博士の中で、ただひとりの九州人なので、親近感がありますね。

佐藤

さらに、博士は私の故郷の先輩なのです。
田原博士は、大分県東国東郡(ひがしくにさきぐん)安岐町(あきまち)(現、国東市)の庄屋を務(つと)める中嶋家の10人兄弟の長男で、伯父である中津の開業医、田原家の養子に迎えられます。
大変な秀才で、一高に首席入学。ついで東京帝国大学医科大学を卒業。養父の春塘(しゅんとう)は淳に、身代をなげうつ覚悟で、私費留学をさせたといわれています。

光富

養父の度量がなければ、ペースメーカーも生まれなかったのですね。

佐藤

明治36(1903)年1月、横浜を備後丸(びんごまる)で発ち、約40日でべルリンへ。
留学先をドイツ中部のマールブルク大学と決め、新進の病理学者として注目されていたルドヴィヒ・アショフ教授(1866~1942)の下につきます。
教授37歳、田原30歳の気鋭の師弟コンビでした。
そして教授に、当時のドイツ医学会で注目されていた「肥大心臓が心不全を起こすのは、心筋細胞間の結合組織の炎症による」とする新説の検証を命じられたのです。
博士は、保存されているアルコールやホルマリン漬(づ)けの心臓を、2~15マイクロメートル(1マイクロメートルは1000分の1ミリ)の薄さにスライスして、膨大(ぼうだい)な数のプレパラート(標本)を作り、これを光学顕微鏡(けんびきょう)で、来る日も来る日も徹底的に調べたのです。
ところが、いくら調べてもそうした炎症が認められない。それで博士は、医学の本場で重視されていた新説を「誤り」と断定したのです。

光富

極東から来た一介(いっかい)の留学生の、真摯(しんし)さと勇気、さすがですね。

佐藤

そうした丹念な検証を続けて、明治39年に、羊の心臓で拍動を生むメカニズムが解明されたのです。
心臓拍動(はくどう)の司令塔は、右心房(うしんぼう)の筋壁(きんぺき)にある洞房結節(どうぼうけっせつ)で、博士はそこから発信された拍動指令の電気信号を心室に伝える大きさ2、3ミリの心筋細胞からなる結節を発見したのです。
これが「田原結節(たわらけっせつ)」と呼ばれるもので、この結節を含む「刺激伝導系」の発見によって、「心臓拍動のメカニズム」が解明され、世界の医学者をあっと言わせたのです。
この発見により、心臓学説の主流であった、心臓の拍動は神経の命令によるとする「神経原説」が完全に否定され、神経とは関係なく、筋肉が動かしているとする、「筋原説」の正しさが立証されたのです。
心臓学界100年の論争に決着を着けた大ホームランでした。

光富

それを孤立無援(こりつむえん)の日本人の留学生が成し遂げた。痛快な話ですね。
そして、「ペースメーカー」が開発されたのですね。

佐藤

ペースメーカーは、「田原結節を含む刺激伝導系」のメカニズムを根拠に、一定間隔で心臓に微細電流の刺激を与え、人工的に心臓を拍動させるもので、博士の発見がなければ存在しなかったでしょう。
だから、田原博士がぺースメーカーの開発者ではありませんが、「ペースメーカーの父」と讃(たた)えられているのです。

司会

当時の田原博士は。

佐藤

まだ30代そこそこですね。日露戦争(明治37年 1904~38年 1905)勝利の翌年の快事で、明治日本の興隆の意気込みを感じます。
同年帰国。早々に福岡医科大学に招かれて病理学教室の助教授に。そして明治41年に、36歳で第二講座の教授に就任します。
福岡との縁が生まれたのは、第一講座教授であった中山平次郎博士(明治4年 1871~昭和31年 1956)が斡旋(あっせん)されたように聞いています。
渡欧の船の備後丸で、二人は一緒でしたが、3年後の帰国も偶然に同じ船だったそう。奇縁ですね。

司会

中山平次郎博士は、中世の博多史に光をあてられた方ですね。

佐藤

博士は、後に考古学界に転じられ、大宰府政庁時代の、対外迎賓館(げいひんかん)であった鴻臚館(こうろかん)の址(あと)を、当時の平和台球場の中と比定(ひてい)(比較して推定すること)され(後年の発掘調査で立証)、また志賀島(しかのしま)から出土した国宝「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印の出土場所と時期の推定など、輝かしい業績で知られています。

光富

両博士は医学と考古学で、素晴らしい成果を挙(あ)げられたのですね。

佐藤

田原博士は大正3年(1914)に、田原結節発見の功績で学士院恩賜賞を受け、昭和6年(1931)に開設された別府温泉治療学研究所(通称温研)の初代所長に就任。
昭和27年逝去。栄光に包まれた80年の生涯でした。
旧住居は天神の、岩田屋とソラリアビルの間の道を南に約100メートル行ったところにあり、九大病理学教室同門会による「心臓刺激伝導系発見者 田原淳先生住居之址」の碑があります。

司会

博士は日常に無頓着で、昼のメニューが毎日同じものでもおかまいなしで、周囲を呆(あき)れさせたとか。

佐藤

天神西通りに開院されている令孫、村山暁(さとる)先生のお話では、種子を蒔(ま)くとき、メジャーで等間隔(とうかんかく)に測って穴を掘り、ピンセットで種をきちんと植えられていたと。

光富

博士の人柄がうかがえて、ユーモラスですね。

  • *参考図書 東京女子医科大学名誉教授 須磨幸蔵著 『ぺースメーカーの父・田原淳』梓書院刊。

アインシュタインとの交流 内臓外科の名手 三宅速博士
(慶応3年 1867~昭和20年 1945)

三宅速博士

司会

六博士のお話をうかがいましたが、先生がほかに関心を寄せられている博士は。

佐藤

私が所属していた九州大学第一外科の創設者で、アインシュタイン博士と親交があった、三宅速(みやけはやり)博士です。
出身は、徳島県美馬(みま)郡穴吹村(現、美馬市穴吹町)で、地元の外科医三宅玄達(みやけげんたつ)の長男です。
福岡医科大学の初代学長だった大森治豊博士が、大学の外科を分担させるために、東大後輩の三宅速を選び、明治37年(1904)10月14日に着任。ここに三宅の「第二外科」が誕生したのです。(大森退官後は三宅外科が第一外科に)
九大のみならず、広く日本外科の基礎をつくり、本邦初の脳腫瘍(のうしゅよう)摘出にも成功。胆石手術は700例、胃がん手術は1600例にも及び、「内臓外科の名手」として知られました。

光富

そして、あの、アルベルト・アインシュタイン(1879~1955)との船上での出会いですね。

佐藤

大正11年(1922)秋、アインシュタインは43歳。エルザ夫人とともに、出版社の改造社の招きで、日本郵船の北野丸に乗船し、日本へ渡航の途にありました。その船中にノーベル賞決定の報が届いたそうです。

司会

そして、その同じ船に。

アインシュタイン博士

佐藤

欧米医療事情視察を終(お)えて帰国中の三宅速、55歳(満年齢)の姿があったのです。
船中でエルザ夫人から、主人の体調が悪いのでと診察を頼まれ、流暢(りゅうちょう)なドイツ語で懇切(こんせつ)に診察しました。
幸いに軽症でしたが、懇切な処置に恩義を感じたアインシュタインが、福岡の大博劇場で講演した後、九州大学を訪問、そして博士の家を謝意を表して訪ねています。

司会

福岡講演は、当初の予定にはなかったのですね。

佐藤

香港まで出迎えた改造社の山本社長に、アインシュタインが是非(ぜひ)福岡へ行って三宅教授宅を訪ねたいと要望。それで急遽(きゅうきょ)、講演スケジュールの最終に繰り込まれたのだそうです。

光富

二十世紀を代表する巨人は、律儀な人だったのですね。

佐藤

これで、二人の友情はさらに深まりました。東西の英知が、信頼の絆でかたく結ばれたのです。
なおこの折、アインシュタインはドイツの楽譜店(がくふてん)で知り合った九大フィルハーモニー・オーケストラの創始者、榊保三郎教授宅も訪ねています。

司会

それから21年経って、戦争末期に悲惨(ひさん)なことが。

佐藤

博士は、岡山大学の外科教授であった長男の(ひろし)博士宅に疎開(そかい)していました。昭和20年(1945)6月28日深夜から翌未明にかけて、B29の空襲を受け、防空壕(ごう)に避難していた夫妻を、焼夷弾(しょういだん)が直撃したのです。享年80歳でした。

光富

なんとも、お気の毒ですね。

比企寿美子著『アインシュタインからの墓碑銘』より

佐藤

令息博博士は、戦後九州大学の教授として招かれ、父の速博士が創立した第一外科を再興されました。
速博士の霊をなぐさめるために、博教授がアインシュタイン博士に夫妻の死を伝え、墓碑銘(ぼひめい)を請(こ)われたのです。

司会

その仔細(しさい)は、令孫比企寿美子(ひきすみこ)さんの著『アインシュタインからの墓碑銘』(出窓社刊)に詳しく、胸を搏(う)たれますね。

佐藤

ふるさと徳島の美馬(みま)市穴吹町舞中島の光泉寺にある速博士の墓碑には、アインシュタイン博士からのドイツ語の墓碑銘が刻まれています。
送られてきた墓碑銘はタイプ印字でしたが、博教授の2人への思いから、生前に届けられた多数の手紙の文字から1字1字振り当(あ)てて、肉筆の墓碑銘にされたそうです。
天国のお二人が、笑って握手しておられるでしょう。

九大フィルハーモニーオーケストラの創始者 榊保三郎教授
(明治3年 1870~昭和4年 1929)

榊保三郎教授

司会

九大フィルハーモニーオーケストラの創始者榊保三郎(さかきやすさぶろう)博士は、福岡の文化に大きな種子を蒔(ま)かれましたね。

佐藤

音楽面での榊博士の功績は年々、輝きを増しています。百年前に、九大の医学教授が福岡の音楽界に黎明(れいめい)をもたらしたのです。
榊教授は、東京出身で東大医科大学卒、3年間ドイツに留学し、明治39年(1906)、福岡医科大学精神病学講座教授に就任。同四十二年に、「九大フィルハーモニー会」を生み出されたのです。

司会

ドイツ留学中に、ヴァイオリンの名器ガリアノを入手し、自分で弾(ひ)いておられたとか。

佐藤

それだけでなく、高価なオーケストラの名器を次々に自費で購入して、学生交響楽団の九大フィルを支援、初代の指揮者でもあったのです。
俗にいう特診事件で退官されたことが惜しまれますが、全ては、九大フィルの高価な楽器購入に充(あ)てられていたということです。
今年、アクロス福岡シンフォニーホールで催された「九州大学100周年記念 九大フィルハーモニー・オーケストラ定期演奏会」(平成23年6月27日)では、天国の榊博士も曾孫(ひまご)弟子たちと共演されたことでしょう。

  • *参考図書 半沢周三著『榊保三郎と九大フィル 光芒の序曲』葦書房刊。

医祖 ヒポクラテスの木と天児民和博士(明治38年 1905~平成7年 1995)

天児民和博士

司会

医学に無縁ですが、医祖ヒポクラテス(前460頃~前375頃)の言葉「医師ニシテ哲学スル者ハ神ニ近シ」に惹(ひ)かれています。
九州大学医学部整形外科学の、天児民和(あまこたみかず)教授が、キャンパスに、「ヒポクラテスの木」を植えられましたね。そこらへんのお話を。

佐藤

天児博士は、神戸市出身で、九大医学部を昭和5年に卒業。先代教授神中正一(じんなかしょういち)先生の薫陶を受けた整形外科学の権威で、九大総長の杉岡洋一博士ほか多くの逸材(いつざい)を育てられました。
別府にリハビリテーション施設「太陽の家」をつくって、身体障害者の社会復帰に尽力した中村裕(なかむらゆたか)博士も教授の支援を受けています。
こわい先生だったそうですが、凛(りん)とした厳(きび)しさの中に、医学者としての信念が光っていて、後進に大変敬慕されました。
ヒポクラテスは、古代ギリシャの医師で、観察と経験を重んじ、当時の医学を集大成したことから、医学の祖とされています。

光富

そう言えば、お医者さんから「ヒポクラテスの誓い」をうかがったことがあります。

佐藤

彼がギリシャの神アポロンと全ての神に誓った「ヒポクラテスの誓い」9カ条は、医者の服膺(ふくよう)すべきモラルとされています。

  • ヒポクラテスの誓い
    • 生涯を通じて、純粋と神聖を貫き医術を行う。
    • 自由人であると奴隷であるとを問わず隔てなく、不正を行わず、医術を行う。
    • 他人の生活の秘密を厳守する(ほか略)

医学図書館のまん前にある「すずかけコーナー」に、天児博士が記された由来の碑が置かれています。

ヒポクラテスの木
ギリシャのコス島にスズカケの巨木があり、この木の下で西暦紀元前400年ころ、医聖ヒポクラテスが医学を教えたと伝えられています。
新潟の蒲原(かんばら)宏博士夫妻がわざわざコス島に渡りその木の実を採取して帰られ八株を育てられました。
そのうちの1株を貰い受け、この木と共に本学が発展することを祈念し、ここに定植いたしました。
1973年11月14日 寄贈者 天児民和

世界に知られたスギオカ方式手術の杉岡洋一総長
(昭和7年 1932~平成21年 2009)

杉岡洋一総長

司会

近年、惜しまれた方では、杉岡洋一元九州大学総長がおられますね。

佐藤

杉岡元総長は、広島市出身。昭和33年(1958)に九大医学部を卒業。ペンシルベニア大学に留学し、平成5年に九大医学部長、平成7年から13年まで九大総長でした。
整形外科の権威で大腿骨治療では、再手術の可能性が高い「人工関節」を排し、自然活性力を活かした画期的な「大腿骨頭回転骨切り術」を生み出された。この方式は「スギオカ方式」として世界に知られています。

司会

手術される総長さんで。

佐藤

そして、九大総長として、「キャンパス移転」という、100年に1度の大仕事の采配(さいはい)を見事に振るわれました。
医学部は、本学の伊都への移転とは一線を画し、培(つちか)われた実績と患者の利便性から、現地再開発と決められていました。杉岡総長は周辺の圧力にとらわれず、この方針を着実果敢に推進されました。
また九州芸工大の吉田将(すすむ)学長と連携して、両大学の統合を実現。特性を活かし、大学の厚みと展望をひろげられました。
若輩(じゃくはい)の私が言うのもはばかられますが、深い見識と信念のある、変換期に相応(ふさわ)しい、器の大きな総長でした。

光富

私も西日本新聞に連載された聞き書きシリーズの『常識を超える一医学者の軌跡』(聞き手は玉川孝道氏)に毎朝感銘を受けました。掲載終了前に亡くなられ、粛然としましたね。

司会

「通り」に名を遺(のこ)された六博士を軸に、九大医学部のロマンを逍遥(しょうよう)して、九州大学100年、九大医学部108年の重みをあらためて感じました。
ありがとうございました。

本篇は

  • 九州大学大学文書館大学史資料室長
    折田悦郎教授に資料面の監修をいただきました。
  • 安部宗顕先生(九大(医)昭和27年卒)。
    玉川孝道氏(九大(法)昭和38年卒。もと西日本新聞社副社長)。
    柏木隆之助氏(郷土史研究家)にご支援をいただきました。
  • *人物(日本人)の年齢表記は数え年です。
  • *点字訳と小中学生の読者のためにルビを多用。

佐藤 裕(さとうひろし)氏 略歴

昭和28年大分県杵築市出生。53年九州大学医学部卒業、第一外科(現臨床腫瘍外科)に入局。外科指導医・専門医資格を取得し現在に至る。あわせて医学史研究30余年、日本医史学会評議員。平成15年医学部創立100周年「百年史」の編集に関わり、医学部同窓会誌『学士鍋』編集委員。現在、糸島市誠心会井上病院勤務。