No.80 ひと恋し『筑紫(つくし)万葉』

筑紫は、万葉の宝庫。
万葉は心を叩く悦びの歌。
大宰帥大伴旅人と大宰の小弍家持が生みの親。

対談:平成26年2月10日

司会・構成:土居 善胤


お話:
高岡市万葉歴史館々長・奈良女子大学名誉教授 坂本 信幸氏
聞き手:
西日本シティ銀行 特別顧問 本田 正寛

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


万葉年表

生みの親は大伴家持

曲水の宴 坂井 幸子画

司会

万葉集(まんようしゅう)』は、八世紀の奈良時代に生まれた大歌集ですね。
大宰府政庁の高官(小弐)だった大伴家持(おおとものやかもち)(養老二?~延暦四・718?~785)が編纂した歌集だと知ると、親しみを感じます。

坂本

長官(大宰帥)(だざいのそち)だった父の大伴旅人(おおとものたびと)(天智4~天平3・665~731)も、大きく関わり、周囲には万葉歌人の山上憶良(やまのうえのおくら)や、沙弥満誓(さみまんぜい)らがいた。壮観ですね。

  • ※小弐(しょうに)=律令制で、大宰府政庁の帥(そち)(長官)、大弐(だいに)に次ぐ高官。

『万葉集』は、ながく勅撰歌集と考えられていましたが、江戸時代の国学者、契沖(けいちゅう)(寛永十七~元禄十四・1640~1701)が九百年間の定説をひっくり返して、「大伴家持私撰説」を唱(とな)えたのです。
現在では、数次の編纂過程を経て、おおむね、今の形の『万葉集』にまとめあげたのが大伴家持だろうといわれています。

本田

万葉集は筑紫(福岡県)にたいへん縁が深いのですね。先生にさらに、引き寄せていただければ。

坂本

万葉集は千二百年前の歌集ですが、現在でも新鮮です。では家持の代表的な、春の歌に浸(ひた)りましょう。

春の苑(その) 紅(くれなゐ)にほふ 桃の花
下(した)照(で)る道に 出で立つ娘子(をとめ)
(19・四一三九)

(春の園の紅色に咲いている桃の花の下の輝く道に、たたずむおとめよ)

  • ※歌の末尾の( )は、万葉集の「卷数」と、「通し番号」です。この「春の苑」は第19巻、四一三九番の歌です。

正倉院御物(しょうそういんぎょぶつ)の、「樹下美人図」を思わせる幻想的な美しさですね。

本田

当時の、雅(みやび)で闊達な空気を感じます。万葉集は身近なんですね。(笑)

四世紀から八世紀の約四五〇〇首を二十巻に

司会

万葉集の最初の歌は。

坂本

第一巻の始めの歌は、五世紀の雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)(第二十一代)の歌で、最古の歌は、四世紀頃の仁徳天皇(にんとくてんのう)(第十六代)の妃(きさき)、磐姫皇后(いわのひめのおおきさき)の歌です。
万葉集はこの歌から、奈良時代の天平宝字(てんぴょうほうじ)三年(759)元旦に大伴家持が詠(よ)んだ新春をことほぐ歌まで、四百年の間に詠まれた多くの歌から選んだ歌、四五一六首を二十巻にまとめた大歌集です。
けれども、本格的な万葉時代は、舒明天皇(じょめいてんのう)(第三十四代・在位629~641)からの約百三十年とされています。
では、舒明天皇が、大和の香具山(かぐやま)に登られての国見の歌を。

大和(やまと)には 群山(むらやま)あれど とりよろふ
天(あめ)の香具山 登り立ち 国見(くにみ)をすれば
国原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ 海原(うなはら)は
かまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島(しま) 大和(やまと)の国は
(1・二)

(大和にはたくさんの山があるが、とりわけ神々(こうごう)しい天の香具山に登り立って、国見をすると、竈(かまど)のけむりがあちこち立ち上(のぼ)っているのが見えるし、広い水面にはかもめが盛んに飛び立っている。ほんとうによい国だ。あきづしまこの大和の国は)

  • ※あきづしま(蜻蛉島)=日本、あるいは大和(やまと)の古称。

本田

学生時代に習った歌を思い出しましたが、万葉のドアを開ける朗々とした歌ですね。

坂本

これぞ、万葉と、胸が広がります。
そして、庶民の歌も多いのです。

本田

万葉集は天皇から庶民までの素晴らしい歌集なのですね。

坂本

天皇から皇后・皇子・皇女など皇室歌人の歌や、政治中枢にいた貴族たちの歌。宮廷歌人の歌のほかに作者未詳の官人たちの歌。東国の農民の歌。漁師の歌。さらに防人の歌もあり、女性の歌が多いことも、大きな特徴です。
詠(うた)われている内容は、

  • 宮廷の儀礼歌や、天皇の行幸(ぎょうこう)歌
  • 官人たちの旅の歌
  • 四季の推移や景物の歌
  • 大宮人の生活と心情の歌
  • 男女の恋の思いを詠(うた)った歌
  • 夫婦の愛情の歌
  • 農民や漁民の暮らしを詠った歌
  • 防人の思いを詠った歌

と多彩で、貴族も庶民も、実にのびやかに詠(うた)っています。

司会

以前に先生が監修されたNHKテレビの「日めくり万葉集」は、朝の楽しみの五分間でした。
朗詠の檀ふみさんが、万葉人のおおらかさが結晶した言葉だと。

坂本

まったく同感です。こんなに平明でおおらかな詩集は外国にはありません。日本人の誇りの文学ですね。

都府楼跡石碑

大宰府正殿跡

万葉集の由来と時代

坂本 信幸 氏

本田

そして、「万葉」の題名がいい。

坂本

「多くの言(こと)の葉」という説もありましたが、「葉」は「代」の意味。「万代の歌集」なのです。

司会

それにしても、権力を握った藤原氏にとって、万葉集はライバル大伴の厄介な遺産だし、都が荒れ果てた応仁(おうにん)の乱(らん)から、戦国時代と大変な受難の時代を経て、千二百年前の宝物がよく伝承されましたね。

坂本

それは、天皇の歌が多いからでもあったでしょう。伝えられた万葉集を公家(くげ)たちが次々に書き写して広がったのです。

司会

だが、当時はまだ平仮名(ひらがな)がありませんね。

坂本

だから、文字の意味とは直接に関係がない漢字の読み(音・訓)を借りて表現したのです。万葉集に多く用いられているので、万葉仮名といったのですね。
「波仮多」だったら博多とすぐ分かります。だがよく知られている大伴旅人の梅の歌、

わが園に 梅の花散る ひさかたの
天(あめ)より雪の 流れくるかも
(5・八二二)

が、万葉仮名の表記では、

和何則能尓(わがそのに) 宇米能波奈知流(うめのはなちる)
比佐可多能(ひさかたの) 阿米欲里由吉能(あめよりゆきの)
那何列久流加母(ながれくるかも)

となるのです。

本田

それも振り仮名なしで。これでは、とても読めませんね。

坂本

万葉仮名がもとになって、平仮名、片仮名が生まれたのです。これがルビのようなものです。

本田

ならば、私たちも親しまねば。

坂本

万葉人は、日常に謡(うた)っていたのですから、私たちもカラオケを楽しむように、気楽に口ずさめばいい。歌の意味は後回しでいいのです。

「万葉集が生まれた頃」の八世紀前後の歴史と、古代文学とのかかわりに、タイムマシンでさかのぼってみましょう。

  • 聖徳太子(しょうとくたいし)(~推古三十・574~622)は、万葉集より約百五十年前の方です。
  • 天智天皇(てんじてんのう)の大化の改新(大化元・645)は約百年前です。
  • 十九回実施された遣唐使派遣(けんとうしはけん)(舒明二~寛平六・630~894)は中ごろ。
  • 菅公さんの菅原道真(すがわらのみちざね)(承和十二~延喜三・845~903)は、百数十年後の人です。
  • 古代日本史の柱、『古事記(こじき)』(和銅五・712)と『日本書紀(にほんしょき)』(養老四・720)。そして『万葉集』(天平宝字三・759)は、前後半世紀の間に誕生した三大ロマンです。
  • 紫式部(むらさきしきぶ)の『源氏物語』は、約三百年後の十一世紀の初めごろ。万葉集との大きな違いは、源氏物語が平仮名で自在に表現できたことです。
  • 「歌集」では『古今和歌集(こきんわかしゅう)』が延喜五年(905)、または延喜十四年(914)、『新古今和歌集』が元久二年(1205)で、『万葉集』がずいぶん兄貴分です。

万葉歌のスタイル

司会

万葉集はスタイルもいろいろで。

坂本

句の文字数から「短歌」「長歌」「旋頭歌(せどうか)」「仏足石歌(ぶっそくせきか)」の四種に。
短歌」はおなじみの五七五七七の三十一(みそひと)文字。
長歌」は五七を繰り返して、最後を五七七で結ぶ形。そして短歌形式の「反歌(はんか)」が添えられる場合があります。
山上憶良(やまのうえのおくら)(斉明六~天平五?・660~733?)は子煩悩(こぼんのう)な父親でした。憶良が詠(よ)んだ長歌「子等を思ふ歌」の「瓜(うり)食(は)めば」の反歌がよく知られています。

銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も なにせむに
優(まさ)れる宝 子に及(し)かめやも
(5・八〇三)

(銀も、金も、珠玉も、どうしてすぐれた宝である子に及ぼうか)

司会

旋頭歌」は。

坂本

憶良に秋の七種(ななくさ)の花を詠んだ旋頭歌があります。

秋の野に 咲きたる花を 指折(およびお)り
かき数(かぞ)ふれば 七種(ななくさ)の花
(8・一五三七)

続けて、

萩の花 尾花葛花(をばなくずばな) なでしこが花 
をみなへし また藤袴(ふぢばかま) 朝顔(あさがほ)の花
(8・一五三八)

秋の七種を五七七・五七七と旋頭歌で詠んでいます。指を折りながら教えたのでしょう。

本田

春の七種は、「せり・なづな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ春の七種」と覚えていましたが、憶良さんが先輩でした。(笑)

坂本

仏足石歌(ぶっそくせきか)」は、奈良の薬師寺(やくしじ)にあるお釈迦(しゃか)様の仏足石のそばに残されていた、仏徳を讃える二十一首の歌の形式で五七五七七七。万葉集に一首だけあります。

―感性のスタイルでは―

司会

万葉集では、恋の歌、親子の歌、自然を詠む歌など、さまざまな人生のシーンが詠まれていますね。

坂本

内容による表現では、「相聞(そうもん)」「挽歌(ばんか)」「雑歌(ぞうか)」の三つに分けられます。相聞は男女間を中心として、個人の心情を伝える歌で、兄弟や親族、友人との交流も含まれます。
まず、久住山を詠った恋の歌から。
万葉の頃の名は、「朽網山(くたみやま)」でした。

朽網山(くたみやま) 夕居(ゆふゐ)る雲の 薄れ去(い)なば
我(あれ)は恋ひむな 君が目を欲(ほ)り
作者未詳
(11・二六七四)

(朽網山に夕方かかっている雲が薄れていったら、私は恋しくなるだろう。あなたに逢いたくて)

万葉人は、「逢いたい」を、「あなたの目を見たい」と表現したのです。
老いらくの恋もあります。大宰大監(だざいのだいげん)(大宰府の第三等官)の大伴百代(おおとものももよ)の、

事もなく 生き来(こ)しものを
老(お)いなみに かかる恋(こひ)にも
我(あれ)はあへるかも
(4・五五九)

(平凡に生きてきたのに、年老いてから、こんな恋にあえるとは)

司会

「挽歌」とは。

坂本

人の死を悼(いた)む歌です。「挽」は、「挽(ひ)く」で、もとは野辺(のべ)送りで柩(ひつぎ)の車を挽きながら謡(うた)う歌を意味しました。
挽歌といえば、歌聖柿本人麻呂が亡くした妻を偲ぶ「泣血哀慟歌」が知られていますが、憶良のわが子「古日(ふるひ)」を詠んだ悲しみの歌に胸をうたれます。

……白玉(しらたま)の 我(わ)が子古日(ふるひ)は 明星(あかぼし)の
明くる朝(あした)は しきたへの 床(とこ)の辺(へ)去(さ)らず 
立てれども 居(ゐ)れどもともに戯(たはぶ)れ
夕星(ゆふつづ)の 夕(ゆふべ)になれば いざ寝よと
手を携(たづさ)はり 父母(ちちはは)も うへはなさがり
さきくさの 中にを寝むと 愛(うつく)しく しが語らへば……
(5・九〇四)

(……白玉のようなわが子古日は、朝になっても床の辺りを離れず、立ってもすわっても共にたわむれ、夕方になれば、さあいっしょに寝てよと手を取って、「お父さんもお母さんも僕のそばを離れないでね。真ん中でぼく寝るんだから」と、かわいらしく言うものだから)

本田

子ども古日の描写が涙を誘いますね。

坂本

都府楼の背後の大野山を詠んだ憶良の「日本挽歌」の反歌もいい。

大野山(おほのやま) 霧(きり)立ち渡る 我(わ)が嘆(なげ)く
おきその風に 霧立ち渡る
(5・七九九)

(大野山に霧が立ち渡る。わたしの嘆く息吹きの風で霧が立ち渡る)

これは憶良が、妻を亡くした旅人の気持ちを汲んで、献じた挽歌です。嘆きの息が、霧となって大野山にかかる、と古代人の発想ですね。

司会

「雑歌」とは。

坂本

「雑歌」は、「相聞」と「挽歌」のどちらにも入らないさまざまな歌です。これも憶良の「貧窮問答の歌」が知られています。社会派歌人、憶良の面目躍如ですね。

風交(ま)じり 雨降る夜(よ)の 雨交じり
雪降る夜(よ)は すべもなく 寒くしあれば 
堅塩(かたしほ)を 取りつづしろひ 糟湯酒(かすゆざけ) 
うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに(略)
我よりも 貧(まづ)しき人の 父母(ちちはは)は飢(う)ゑ寒(こ)ゆらむ 
妻子(めこ)どもは 乞(こ)ふ乞ふ 泣くらむ 
この時は いかにしつつか 汝(な)が世は渡る(略)
(5・八九二)

(風に雨の夜、雨に雪の夜は、どうしようもなく寒いので、堅塩を少しずつつまんで口に入れ、酒粕を溶いた酒をちびちびすすって、咳(せ)きこんでは、鼻汁をすすり(略)
私よりも貧しい人の父母は、飢え、寒がっているだろう、妻や子どもは物をせがんで泣いているだろう。こんな時はお前はどんなにして世を渡っているのか)

長いので略しますが、続く反歌で

世の中を 厭(う)しとやさしと 思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば
(5・八九三)

(この世の中を辛(つら)く消えいりたく思うけれども飛んでいってしまうこともできない。鳥ではないのだから)

と結んでいます。
憶良は、遣唐使の一員として唐の長安に渡り、世界の文化に接した、当代きっての国際人、文化人でした。筑前の国守(今の福岡県知事)になりますが、広い視点から民の窮状(きゅうじょう)に心痛の思いだったでしょう。

司会

万葉集には、おおらかな恋の歌の一方ではシリアスな世界も詠(うた)われているのですね。

犬養孝さんの『万葉の旅』 ―北の涌谷(わくや)から、南の鹿児島まで―

司会

「筑紫(つくし)」は福岡県の古代の名称で、九州を指す言葉でもありますね。万葉学の泰斗(たいと)、犬養孝(いぬかいたかし)先生(明治四十~平成十・1907~1998)が書かれた『万葉の旅』で、筑紫を詠んだ万葉歌が多いことを知りました。

坂本

この名作は、犬養先生が万葉の故地を丹念に歩いて確かめられた。大変なご労作です。

司会

で、詠まれている万葉風土は。

坂本

北は宮城県の涌谷(わくや)(宮城県遠田郡涌谷町)と新潟県の弥彦山(やひこさん)(西蒲原郡弥彦村)から、南は最南端の鹿児島の黒之瀬戸(くろのせと)(長島町と阿久根市の間)にまで及びます。
涌谷は日本で初めて金を産出した所として有名です。東大寺の大仏の鍍金(めっき)は、涌谷の金でかなえられたのです。聖武帝(第四十五代)は喜悦して、年号を「天平感宝元年」に改元された。当時越中守(えっちゅうのかみ)だった大伴家持は「陸奥(みちのく)の国より金を出(いだ)せる詔書を賀(ほ)ぐ歌」を詠み、その反歌で

天皇(すめろき)の 御代栄(みよさか)えむと 東(あづま)なる
陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲く
(18・四〇九七)

(天皇の御代が栄えるであろうと、東国の陸奥の国の山に黄金の花が咲いた)

と詠っています。

司会

『万葉の旅』の地名数は。

坂本

題詞と歌と注記に出てくる地名は延べ約2900。同じ地名を整理して約1200です。
万葉歌が一番多いのは都があった奈良県で736。近畿圏全体では1271です。
ついで、富山県が95、福岡県で69、四番目が静岡県と続きます。(佐賀県26、長崎県13、ほか合わせて九州では123)

筑紫は万葉の宝庫

本田 正寛

本田

筑紫に万葉歌が多いのは「遠朝廷(とおのみかど)」と言われた大宰府政庁※があったからですか。

  • ※大宰府=古代の大和朝の対外交渉から使節との対応および西海道(九州)の総管府として設置された。長官の帥(そち)、次官の大弐(だいに)・少弐(しょうに)のもと、官人約五百名。中央政府と九州各国との間に置かれた特別行政府であった。

坂本

そして大伴旅人を囲む歌人たちがいた。大宰府は万葉の宝庫ですね。
旅人が大宰帥に任じられたのは、六十四歳の時。旅人を迎えて、山上憶良や小野老(おののおゆ)、沙弥満誓(さみまんぜい)ら、官人や僧の筑紫歌壇が出現したのです。
旅人が、赴任早々に同伴の妻を亡くします。それで旅人と家持(当時十歳)親子の世話をするために筑紫へ下ってきたのが、旅人の妹である大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)で、彼女もすぐれた歌人でした。
高齢の旅人が妻を亡くした悲しみの一首が、

世の中は 空(むな)しきものと 知る時し 
いよよますます 悲しかりけり
(5・七九三)

(世の中は空しいものだと思い知った今こそ、いよいよ益々悲しく思われることだ)

万葉集巻五の冒頭にあるこの歌を契機に、筑紫歌壇が展開されたと言ってもいい歌です。
息子の家持は、この少年時代の三年と、後に、大宰の少弐としての三年。合わせて二回約六年大宰府にいました。旅人と家持は、大宰府とたいへん縁の深い親子ですね。
万葉歌が富山県に多いのも同様で、少壮の家持が二十七歳で越中守となり、五年間越中の歌人たちとふれあったからで、「越中歌壇」と称されています。
旅人が大納言(だいなごん)に昇進して帰京する時に、国防のために築かれた水城(みずき)に立って詠んだ筑紫での最後の歌もいい。

ますらをと 思へる我(あれ)や
水茎(みづくき)の水城(みづき)の上に 涙拭(なみだのご)はむ
(6・九六八)

(ますらおと思う私が水茎の(枕詞(まくらことば))水城の上で涙を拭(ぬぐ)うことか)

道の脇で見送る人たちの中にいた、児島という女性の歌に応えた歌です。

  • ※水城は対外防衛の要として天智三年(664)構築。平成二十六年(2014)は構築千三百五十年にあたります。

坂本

筑紫野市阿志岐(あしき)が、古代の「蘆城駅家(あしきえきや)」で、大宰府の官人たちがそこまで旅人を送り、別れの宴を催した。その送別の歌が残っています。

韓人(からひと)の 衣染(ころもそ)むといふ 紫の
心に染みて 思ほゆるかも
麻田陽春(あさだのやす)(4・五六九)

(韓人が衣を染めるという紫の色のように、心に深くしみてあなたのことが思われます)

送別歌に、筑紫名産の染料や皮膚病の薬になる紫草が詠み込まれて、洒落(しゃれ)てますね。
名産といえば、次の歌も。

しらぬひ 筑紫(つくし)の綿は 身に着(つ)けて
いまだは着ねど 暖(あたた)けく見ゆ
沙弥満誓(さみまんぜい)(3・三三六)

(筑紫産の真綿は、まだ身に付けて着たことはないけれども、暖かそうに見える)

博多祇園十四番山笠(ソラリア)の飾り山は
見送りの面が、小嶋慎二氏作
「大宰府花咲筑紫万葉
(だざいふにはなさくつくしまんよう)」
(平成二十六年)

本田

筑紫の真綿は当時の貴重品で。

坂本

『続日本紀(しょくにほんぎ)』の記述から推定すると、毎年90トン近い真綿が大宰府から平城京(へいじょうきょう)に納められていたのですね。
その大宰府で、官人たちが日常や宴(うたげ)で歌を競ったのです。太宰府に万葉歌碑が多いのもうなずけますね。

―志賀(しか)の島―

司会

福岡市の志賀島を詠んだ万葉歌も。

坂本

志賀島は、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印発掘の地で知られていますが、万葉集にもよく詠われています。
巻七、「羈旅歌(きりょのうた)(旅の歌)」に

ちはやぶる 金(かね)の岬(みさき)を 過ぎぬとも
我(われ)は忘れじ 志賀(しか)の皇神(すめかみ)
作者未詳(7・一二三〇)

(恐ろしい難所の金の岬は過ぎたけれども、私は忘れまい。志賀の海神のご加護を)

があります。
宗像市鐘崎の金の岬の沖の瀬戸(せと)は、古くからの海の難所で、志賀海神社(しかうみじんじゃ)の神に無事を祈って舟を漕いだのです。
憶良の挽歌にもあります。

志賀(しか)の山 いたくな伐(き)りそ 荒雄(あらを)らが
よすかの山と 見つつ偲(しの)はむ
(16・三八六二)

(志賀の山の木をひどく伐らないでおくれ。荒雄のゆかりの山として偲びたい)

対馬に食料を運ぶ老齢の船頭に頼まれて対馬に向かい、難破して死んだ志賀島の漁師・荒雄を追悼した歌です。

司会

筑紫は万葉の宝庫ですね。その括(くく)りに旅人の歌を。

坂本

では、私の好きな酒の歌を。

験(しる)しなき ものを思はずは 一杯(ひとつき)の 濁(にご)れる酒を 飲むべくあるらし
(3・三三八)

(甲斐もない物思いをするくらいなら、一杯の濁り酒を飲むべきであるらしい)

司会

旅人さんの風韻ですね。

  • 註 「万葉歌碑」(2014年現在)
    • 太宰府市に27基(大宰府万葉会「万葉歌碑めぐり」)。筑紫野市ほかの周辺をあわせて30基を超える。太宰府ゴルフ場には、各コースに万葉ほかの名歌が記されている。
    • 福岡市の歌碑は、志賀島の10基ほかで17基。
    • 梅林孝雄氏の好著『福岡県万葉見て歩き』(海鳥社刊)によれば、福岡県内の万葉歌碑は102基であった(2004年)。

万葉の歌人たち

司会

家持に次いで、万葉集の代表スターたちを。

坂本

では、古今和歌集で「歌の聖(ひじり)」と称された柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)から。
人麻呂の歌は万葉集で、長歌19首、短歌75首を数えます。(ほかに「人麻呂歌集」出の歌が、長歌2首、短歌330余首、旋頭歌35首あります。)
中でも軽皇子(かるのみこ)(第四十二代文武天皇)が宇陀(うだ)(現、奈良県宇陀市)の阿騎野(あきの)に宿られた時に詠んだ歌が有名です。

東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて
かへり見すれば 月傾(かたぶ)きぬ
(1・四八)

(東の野に陽炎の立つのが見えて、振り返って見ると月は西に傾いている)

この歌は、持統六年(692)の冬の日とされていますが、画家の中山正実さんが、持統六年十一月十七日と推定し絵にされた。
それでゆかりの宇陀市は、旧暦のこの日の早朝に「かぎろひを観る会」を催しています。

司会

人麻呂さんは大宰府でも。

坂本

万葉集に「柿本朝臣(あそみ)人麻呂、筑紫国に下(くだ)りし時に海路にて作る歌二首」があります。その一首は、

大君(おほぎみ)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)と あり通(がよ)ふ
島門(しまと)を見れば 神代(かみよ)し思ほゆ
(3・三〇四)

(大君の遠く離れた政庁として通う海峡を見ると、神代の昔が思われる)

その人麻呂と『古今和歌集』で並び称されたのが山部赤人(やまべのあかひと)で、富士山を詠んだ歌がよく知られています。

司会

世界遺産に登録されて、赤人の歌がよく引用されましたね。

田子(たご)の浦ゆ うち出(い)でて見れば
ま白(しろ)にぞ 富士の高嶺(たかね)に
雪は降(ふ)りける
(3・三一八)

(田子の浦を通って打ち出て見ると、真っ白に富士の高嶺に雪が降っている)

本田

万葉には天皇の歌も。いまも新春の歌会始がありますが、伝統が伝えられているのですね。

坂本

万葉初期には、天皇や皇子・皇女もすぐれた歌人でした。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、後の天智天皇(第三十八代)の歌がいいですね。

わたつみの 豊旗雲(とよはたくも)に 入日(いりひ)見し
今夜(こよひ)の月夜(つくよ) さやけかりこそ
(1・一五)

(大海原(おおうなばら)の上にたなびく瑞雲(ずいうん)の豊旗雲に入日(いりひ)を見た、今夜の月は明るくさやかであってほしい)

これは、皇子が斉明天皇(さいめいてんのう)の西下(さいか)(斉明七・661)に随行したときの、「中大兄三山歌」と題された長歌の反歌です。

本田

大化の改新を成した、凛然(りんぜん)の気を感じますね。

坂本

ついで天武天皇(第四十代)の歌に

よき人の よしとよく見て よしと言ひし
吉野よく見よ よき人よく見
(1・二七)

(よきひとが よいところだと よく見て よいよと言った この吉野をよく見よ。よき人を よく見て)

ヨキとヨシが繰り返されたリズムがいい歌です。大海人皇子(おおあまのおうじ)時代の雌伏(しふく)の地であった吉野を讃えたのですね。
その吉野に、天武天皇の皇后だったのちの持統天皇(じとうてんのう)(第四十一代)が行幸された時に、高市黒人(たけちのくろひと)が献じた歌に

大和(やまと)には 鳴きてか来(く)らむ 呼子鳥(よぶこどり)
象(きさ)の中山(なかやま) 呼びそ越ゆなる
(1・七〇)

(大和ではもう鳴いてからきたのだろうか。呼子鳥が象の中山を鳴きながら越えている)があります。

黒人は人麻呂より少しあとの歌人ですが、山部赤人に繋(つな)がる叙景歌人の祖とされ、旅の歌人とも言われています。
万葉集に18首の短歌があり、

旅にして もの恋(こひ)しきに 山下(やまもと)の
赤(あけ)のそほ船(ぶね) 沖を漕(こ)ぐ見ゆ
(3・二七〇)

(旅先にあって物悲しい思いでいる時に、山すその、朱塗りの船が沖の方に漕いでゆくのが見える)

が知られています。海山の青と舟の赤との対照に、旅愁を漂わせた名歌です。黒人や赤人が叙景歌人と称されるのに対して、叙事歌人・伝説歌人と称されるのが高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)です。
長歌の「葛飾(かつしか)の真間娘子(ままのをとめ)を詠(よ)む歌」が知られています。これは伝説を詠んだ歌で、

鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国に 古(いにしへ)に ありけることと 
今までに 絶えず言ひける 葛飾の
真間の手児名(てごな)が 麻衣(あさぎぬ)に 青衿着(あをくびつ)け
ひたさ麻(を)を 裳(も)には織(お)り着て 髪だにも
掻(か)きは梳(けづ)らず 沓(くつ)をだに はかず行(ゆ)けども
錦綾(にしきあや)の 中に包(つつ)める 斎(いは)ひ児(こ)も 
妹(いも)に及(し)かめや 望月(もちづき)の 足(た)れる面(おも)わに
花のごと 笑(ゑ)みて立てれば 夏虫の
火に入るがごと 湊入(みなとい)りに 船漕(ふねこ)ぐごとく
行(ゆ)きかぐれ 人の言ふ時(略)
(9・一八〇七)

(東(あずま)の国に、古(いにしえ)にあったことと今日までたえず言い伝えられてきた話だが、葛飾の真間の「手児奈」が、麻の服に青い襟を縫い付け、麻だけで織った裳を着て、髪さえもくしけずらず、沓(くつ)さえ履かずに歩いていても、錦や綾にくるまれた箱入り娘でも、この娘に及ぼうか。満月のようなまん丸の顔で、花のように微笑んで立っていると、夏虫が火に飛び込むように、船をふためき漕ぎ集まって来るように、寄り集まって男たちが求婚するとき)

 反歌

勝鹿の 真間(まま)の井(ゐ)を見れば
立ち平(なら)し 水汲(く)ましけむ
手児名し思ほゆ
(9・一八〇八)

(葛飾の真間の井を見ると、いつもここに立って、水を汲んだという手児名が偲ばれる)

少し略しましたが、「真間」は千葉県市川市。入水(じゅすい)した伝説の美女を詠った長歌で、描写の妙にひかれます。

本田

万葉集の長歌は、今のルポルタージュの役目も。興味深いですね。
なにか示唆(しさ)を受ける歌は。

坂本

沙弥満誓の

世の中を 何に喩(たと)へむ 朝開(あさびら)き
漕(こ)ぎ去(い)にし船の 跡なきごとし
(3・三五一)

僧侶の作者が、世間の無常を詠った歌です。
だが、旅人の「酒を讃へる歌十三首」のすぐ後に置かれている。私には「朝開き」がキーワードで、「朝だ。お開き。さあ帰ろ」と。

司会

万葉集へのスタンスが、気楽になりました。(笑)

坂本

まあ、どの歌でもいい。三回口ずさんでください。万葉人のリズム、万葉人の気持ちになりますよ。

梅と桜

司会

万葉時代は、花といえば梅だったのでしょう。

坂本

さきに旅人の梅の花の歌をあげましたが憶良の梅の歌もよく知られています。

春されば まづ咲く宿(やど)の 梅の花
ひとり見つつや 春日(はるひ)暮らさむ
(5・八一八)

(春になるとまず咲く家の梅の花を、ひとり見ながら春の日を暮らすことであろうか)

これは天平二年(730)正月十三日に旅人が催した梅花の宴の歌です。
梅は中国からの外来植物で、まずは大宰府で栽培された。それが天満宮の梅にまで繋がっているのでしょう。

司会

では、桜は。

坂本

桜も、よく詠まれています。万葉集に「梅」を詠む歌は119首。「桜」は46首。「花」だけで「桜」をさす場合もあります。梅は主に白梅、桜は山桜ですね。
桜の歌も、最初に挙(あ)げた「春の苑」の作者の家持さんに頼みましょう。

桜花 今そ盛りと 人は言へど
我(われ)はさぶしも 君としあらねば
(18・四〇七四)

(桜が今が満開だと人は言うけれど、私はさびしくてなりません。あなたと一緒でないので)

そして、赤人にも。

あしひきの 山桜花(やまさくらばな) 日並(ひなら)べて
かく咲きたらば 甚(はだ)恋ひめやも
(8・一四二五)

(あしひきの(枕詞)山の桜の花が、幾日も続いてこのように咲いていたら、ひどく恋しくは思わないだろう)

いい天気に満開の桜花。万葉人の風流ですね。

東国から防人(さきもり)たち

司会

万葉の時代は、大陸の緊張に対峙(たいじ)しなければならない緊迫の時代でも。

坂本

その役目を担ったのが、万葉集の一面を彩る防人(さきもり)たちです。
果敢(かかん)な東男(あずまおとこ)が、防人に動員され、彼らは手弁当で難波津(なにはづ)(大阪)に集合。それから先は舟で筑紫へ。対馬などの海岸線の防衛に配置されたのです。
動員は二千人と言われ、三年の任を果たしてまた東国へ帰ったのです。
参加ではない。徴用されたのです。痛惜(つうせき)の思いを歌にのこしています。

司会

いわゆる防人哀歌ですね。

坂本

では、防人の歌を。

我(われ)が妻も 絵に描(か)きとらむ 暇(いつま)もが
旅行く我(あれ)は 見つつ偲(しの)はむ
物部古麻呂(もののべのこまろ)(20・四三二七)

(私の妻を絵に描き写す時間が欲しい。そしたら旅行く私はそれを見て妻を偲ぼうに)

紙が貴重品の時代です。板に描いた絵だったかもしれません。

韓衣(からころむ) 裾(すそ)に取り付き 泣く子らを
置(お)きてそ来(き)ぬや 母(おも)なしにして
他田舎人大島(をさたのとねりおおしま)(20・四四〇一)

(韓衣の裾に取りすがって泣く子らを残し置いてきたのだ。母親もいないのに)

司会

そこで、ひとつ。気になることを。大伴氏は上古以来、朝廷と国を守る武門の家柄でしょう。
防人を動員し、内外に備えているときに、武門の棟梁が、文雅に没頭していていいのでしょうか。

坂本

なるほど。だが養老四年(720)の隼人(はやと)の乱の時には、旅人が「征隼人持節大将軍」として鎮定しています。
家持には、一族の浮沈をかけたたいへんな時に詠んだ雄雄(おお)しい「族(うがら)を喩(さと)す歌」(20・四四六五)があり、その反歌には

剣大刀(つるぎたち) いよよ研(と)ぐべし 古(いにしへ)ゆ
さやけく負(お)ひて 来(き)にしその名そ
(20・四四六七)

(剣大刀をますます研ぎ澄まさなくてはならぬ。昔から汚(けが)れなくさやかに受けついできた武門の大伴の名であるぞ)

武人の誇りを詠っています。

司会

旅人も家持も、柔弱でなく雄雄しいリーダーだった。いや、ほっとします。(笑

遣唐(けんとう)・遣新羅使(けんしらぎし)と荒海

司会

筑紫万葉といえば、遣唐使(けんとうし)や遣新羅使(けんしらぎし)一行の歌も多いですね。

  • ※「遣唐使」は、「遣隋使」のあとを継ぎ、唐の制度と文物吸収のため、舒明二年(630)から九世紀までの264年間に、十九回任命。十五回渡海した国家プロジェクト。使節ほか100人から500人が4隻の帆船で渡航。吉備真備、空海らが、文化と制度を持ち帰った。山上憶良も渡唐している。唐の衰運とともに菅原道真の建議で中止。
  • ※「遣新羅使」は、天武初期から奈良時代末に二十二回派遣。日唐途絶の折も大陸との窓口の役目を果たした。

坂本

これは遣唐使節の一員のわが子へ、母親の歌です。

旅人(たびひと)の 宿りせむ野に 霜降らば
我(あ)が子羽(は)ぐくめ 天(あめ)の鶴群(たづむら)
(9・一七九一)

(一行が仮寝する野に霜が降れば、天の鶴の群れたちよ。わが子をあたたかい羽で包んでおくれ)

名誉だが、安全の保証はない。母親には大ショックだったでしょう。歌碑は、五島列島にあります。

司会

遣新羅使節一行の歌は。

坂本

天平八年に派遣された、新羅使一行の一人である土師稲足(はにしのいなたり)の歌です。筑紫(つくし)の館(たち)(鴻臚館の前身)で詠んだ歌です。

神(かむ)さぶる 荒津(あらつ)の崎に 寄する波
間(ま)なくや妹(いも)に 恋(こ)ひ渡りなむ
(15・三六六〇)

(神々しい荒津の崎に寄せる波のように、絶え間なく妻を恋い慕い続けることであろうか)

この歌碑は福岡市の西公園にあります。※右下写真
彼らが出発した港は、西公園下の海岸にあったとされ、大宰府の外港でした。古くは那の大津と呼ばれ、古代博多の名称でもありました。

韓亭(からとまり) 能許(のこ)の浦波(うらなみ) 立たぬ日は
あれども家に 恋ひぬ日はなし
(15・三六七〇)

(韓亭の能古の浦波が立たない日はあっても、家を恋しく思わない日はない)

土師稲足の歌碑
(福岡市中央区西公園)

福岡市西区宮浦の唐泊(からどまり)に仮泊した遣新羅使の一人が、能古の島の浦波に寄せて、妻を恋い慕った歌です。
天平八年の遣新羅使の安倍継麻呂(あべのつぐまろ)も帰国途中に対馬で病死しています。

本田

対外使節には厳しい悲痛な旅だったのですね。

坂本

客死(かくし)した人の慰霊は、己(おのれ)の旅の安全を祈ることでもあったでしょう。

博多生まれの大津の皇子

司会

筑紫万葉を伺いましたが、ほかに博多に縁の深い万葉人は。

坂本

それは、もう大津皇子(おおつのみこ)です。
百済(くだら)救援で那の大津と呼ばれた博多に下っていた大海人皇子(のちの天武天皇)の第三皇子として出生。万葉集に悲哀のページを遺しています。
当時の皇子や皇女の命名は、養育した氏族名を付ける方法と(草壁皇子(くさかべのみこ)は日下部(くさかべ)氏が養育)、生地の名を付ける方法があり、博多の那の大津で生まれた皇子に、大津の名が付けられたのです。
母は天智天皇の皇女大田皇女(おおたのひめみこ)で、持統天皇は大田皇女の妹です。
大津皇子は天武天皇の死後、謀反の罪をきせられ、二十四歳で自害させられた悲劇の皇子で、今も涙を誘われます。

百伝(ももづた)ふ 磐余(いはれ)の池に 鳴く鴨を
今日のみ見てや 雲隠(くもがく)りなむ
(3・四一六)

(百伝ふ(枕詞)磐余の池に(皇子の邸の近くの池の名)鳴いている鴨を見るのは、今日限りで私は逝くのか)

本田

神功皇后(じんぐうこうごう)ゆかりの歌も。

坂本

御名は息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)です。福岡市東区の香椎宮は、神功皇后が夫の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の神霊を祀ったのが起源で、大伴旅人や万葉歌人小野老(おののおゆ)の参拝の折の歌があります。

時つ風 吹くべくなりぬ 香椎潟(かしひがた)
潮干(しほひ)の浦に 玉藻刈(たまもか)りてな
(6・九五八)

(沖からの風が吹きそうな気配になった。香椎潟の潮の引いた浦で、今のうちに玉藻を刈ろう)

当時はすぐに磯だったので、参拝後に海藻取りを楽しんだのでしょう。
唐津市の鏡山に伝わる伝説の歌もよく知られていますね。

遠(とほ)つ人 松浦佐用姫(まつらさよひめ) 夫恋(つまごひ)に
領巾振(ひれふ)りしより 負(お)へる山の名
作者不詳(5・八七一)

宣化二年(537)、任那(みまな)救援の命を受けた大伴一族の大伴狭手彦(おおとものさでひこ)が、土地の娘佐用姫と恋仲に。出陣の舟を、佐用姫が鏡山から領巾(ひれ)を振って呼び返そうとした伝説から、鏡山を領巾振山(ひれふりやま)と呼ぶようになったと伝えます。

司会

「ひれふり展望台」から、日本三大松原の虹ノ松原が一望ですね。

万葉集と鴻臚館

天満宮楼門 坂井 幸子画

司会

那の大津と言えば、その時代の大陸の使節を迎えた筑紫の迎賓館、「鴻臚館(こうろかん)」の場所が確定したのも万葉歌からでしたね。

坂本

この話は、地元の貴方が……。

司会

どうも。その仔細は、本シリーズ44号、専修大学の亀井明徳先生のお話「鴻臚館」に尽くされています。
場所は今その町名はありませんが、江戸時代に、現博多区の蓮池あたりにあった官人町と推定され、大正時代までの通説だったそうです。
その説を、九州大学医学部の、古代史と考古学に詳しい中山平次郎教授が、「遣新羅使節一行」が詠んだ万葉集の歌の展望を参考に否定。平地の官人町では歌の情景を展望できない。高台からの展望だと断定されたのです。
鴻臚館は、迎賓館ですが、遣唐使や遣新羅使など、対外派遣の要人たちも利用していたのです。

坂本

参考にされた情景描写は

志賀(しか)の海人(あま)の 一日(ひとひ)もおちず 焼く塩(しほ)の
辛(から)き恋(こひ)をも 我(あれ)はするかも
(15・三六五二)

(志賀の海人(あま)が一日も休まず焼く塩のように、からい恋さえ私はするのだ)

志賀(しか)の浦に 漁(いざ)りする海人(あま) 家人(いへびと)の
待ち恋(こ)ふらむに 明かし釣る魚(うお)
(15・三六五三)

(志賀の浦で海人(あま)たちは、家人が待ち焦(こが)れているだろうに、夜通しで釣っている魚)

可之布江(かしふえ)に 鶴(たづ)鳴き渡る 志賀(しか)の浦に
沖つ白波 立ちし来(く)らしも
(15・三六五四)

(司之布江に鶴が鳴き渡っている。志賀の浦に沖の白波がたってきたのだろう)

と、されている。たしかに高台からの望見であることがうなずけますね。

司会

中山博士は、鴻臚館の場所は福岡城址の一角の高台で、当時の兵営内と論証。発掘で卓説が実証され、歴史学界を震撼させたのでした。
現在は、福岡城址とともに、福岡市の大切な宝として、記念構想も進展しています

坂本

日本の歴史にかかわる大発見を、万葉集がもたらした。愉快ですね。

本田

鴻臚館と、万葉集にそんな深い関係があるとは。いや、驚きました。
使節一行、家持さん、中山教授に、感謝しなければ。

万葉集最後の歌は家持

坂本

『万葉集』の最後の歌である大伴家持の巻20の四五一六番が詠われたのは、天平宝字三年(759)、正月一日でした。
家持はその前年、因幡国(いなばのくに)(鳥取県)に左遷され、任地で初めて迎えた正月元旦の歌だったのです。

新(あらた)しき 年の初(はじ)めの 初春(はつはる)の
今日(けふ)降る雪の いや頻(し)け吉事(よごと)
(20・四五一六)

(新しい年の始めの初春の今日降る雪のように、もっともっと積もれ良い事)

この年の正月は、元旦と立春が重なる「歳旦立春(さいたんりっしゅん)」。加えて、豊年の瑞兆(ずいちょう)とされる雪が降っている。
家持は時に四十二歳。左遷の不遇の中にあって、目出たさずくめの歌で、『万葉集』を締(し)め括(くく)っているのです。

本田

家持の心事の清々しさにうたれますね。

坂本

家持は、万葉集編纂の中心人物であるとともに、レパートリーの広い最多作者で、万葉集の一割以上477首が彼の歌です。

司会

万葉のスーパー歌人ですね。そして編纂者としての辛苦も。
巻中一首の左注に、「進(たてまつ)る歌の数十二首。ただし、拙劣(せつれつ)の歌は取り載(の)せず」とあります。
(20・四四〇三)

坂本

それは、防人や農民の歌までひろく目を通したからで、中には方言もあり、理解できない歌もあったでしょう。

司会

編纂者、家持さんの、苦衷のつぶやきですね。
それにしても、万葉集の大伴家持の存在感はすごいですね。その後の歌は。

坂本

万葉集編纂後、生を終わるまでの二十六年間の家持の歌は一首も遺っていません。
家持は衰退する名族、大伴氏を頭領として支えながら、延暦四年(785)に、数えの六十八歳で逝(な)くなります。
大伴氏も古代史の表舞台から消えていきました。

司会

なんとも……。藤原氏専横の犠牲になったのですね。

万葉を朗々と詠おう

本田

だが、万葉集は、日本人の心に残っていますね。

坂本

たしかに。一例ですが、私が手伝っている「高岡市万葉歴史館」のある高岡市(富山県)では、毎年「万葉まつり」が開かれています。
全歌四五一六首から好みの歌を、全国からの参加者や幼稚園児までが、万葉姿で、ステージで朗唱するのです。

司会

太宰府市でも、天満宮が催されている「曲水の宴※」と、大宰府万葉会の「梅花の宴※」がありますね。

  • ※「曲水の宴」平安時代の大宮人が、曲水に酒盃を浮かべ、自分の前に流れてくる前に歌を詠んだ故事にちなみ、大宮人に扮した名士と十二単(ひとえ)の姫たちが曲水で歌を詠む。太宰府天満宮が毎春三月第一日曜日に、梅花の下で催されている優雅な行事。
  • ※「梅花の宴」大宰帥・大伴旅人が、天平二年一月十三日に催した有名な梅花の宴にちなみ、毎春二月、市民が旅人や憶良に扮して万葉歌を詠う、現代版「梅花の集い」。大宰府万葉会主催。

坂本

ともに、奈良時代の文雅を現代に。素晴らしい催しですね。

司会

お話をうかがって、万葉の心を感じています。先生が万葉集に惹(ひ)かれるものを結びに。

坂本

喜びも、悲しみも、恋も、自然とのふれあいも。素直な気持ちを歌にしている。それにうたれるのですね。

本田

人間がありのままに躍っている。

坂本

そうです。戦時中に、戦陣に動員された学徒たちの多くが、持参を許される一冊に岩波文庫の『万葉集』を選んだと聞きます。
明日が分からぬ日々に、どのページを開いても、語りかけがある。何よりの支えだったでしょう。
私にとって万葉集は、折々の気持ちにこたえてくれる、優しい話し相手なのだと思っています。

司会

本日は、心に沁みるお話を、ありがとうございました。

万葉集から

あかねさす 紫野行(むらさきのゆ)き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る
額田王(ぬかたのおおきみ)(1・二〇)

(紫草の野を行き、標を張った禁野を行って、野守が見ているではありませんか。あなたが袖をお振りになるのを。)

紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎(にく)くあらば 人妻(ひとづま)故に 我(あれ)恋ひめやも
大海人皇子(おおあまのおうじ)(1・二一)

(紫草が照り映えるように美しいあなたを憎いと思ったら、人妻であるのに、私はこんなに恋しく思いましょうか。)

我(あれ)はもや 安見児(やすみこ)得たり 皆人(みなひと)の 得かてにすといふ 安見児得たり
藤原鎌足(ふじわらのかまたり)(2・九五)

(私はなんと、安見児を得たぞ。皆が得がたいと言っている安見児を得たぞ。)

あしひきの 山のしづくに 妹待(いもま)つと 我(あれ)立ち濡(ぬ)れぬ 山のしづくに
大津皇子(2・一〇七)

(あしひきの)山のしずくで、あなたを待って私は立ち濡れてしまった、山のしずくで。

我(あ)を待つと 君が濡(ぬ)れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを
石川郎女(いしかわのいらつめ)(2・一〇八)

(私を待ってあなたが濡れたという、(あしひきの)山のしずくになれたらよかったのに。)

来(こ)むと言ふも 来(こ)ぬ時あるを 来(こ)じと言ふを 来(こ)むとは待たじ 来(こ)じと言ふものを
大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)(4・五二七)

(来る来ない 来ない来る じれったい。もう待ちませんよ。)

ここにありて 筑紫(つくし)やいづち 白雲の たなびく山の 方(かた)にしあるらし
大伴旅人(4・五七四)

(ここ奈良にあって、筑紫はどちらの方角だろう。白雲のたなびいているあの山の方角であるらしい。)

一二(いちに)の目 のみにはあらず 五六三(ごろくさむ) 四(し)さへありけり 双六(すごろく)の頭(さえ)
長意吉麻呂(16・三八二七)

(説明は不要でしょう。万葉の人たちのゆとりでしょうね。)

石麻呂(いしまろ)に 我物申(われものまを)す 夏痩(や)せに 良しといふものそ 鰻漁(むなぎと)り喫(め)せ
大伴家持(16・三八五三)

(石麻呂に私はものを申し上げる。夏痩せによく効くと言いますぞ。鰻を捕って召し上がれ。)

父母が 頭掻(かしらか)き撫(な)で 幸(さ)くあれて いひし言葉(けとば)ぜ 忘れかねつる
防人 丈部稲麿(はせべのいなまろ)(20・四三四六)

(父母が頭を撫でながら、無事で居ろ、と言った言葉が忘れられない。)

坂本 信幸(さかもと のぶゆき)氏 略歴

奈良女子大学名誉教授。前・万葉学会会長。高岡市万葉歴史館館長。1947年高知県生まれ。専門は上代国文学。研究テーマは万葉歌人の研究、万葉の作品論。編著に『万葉拾穂抄Ⅰ~Ⅳ』『万葉事始』『セミナー万葉の歌人と作品』(全12巻)など。また、歌集に『雪に恋ふ』がある。

協力

大宰府万葉会
代表 松尾 セイ子氏
〒818―0118 太宰府市石坂二丁目七番十九号
TEL 092・922・7328

本篇の「万葉歌」は、「新篇 日本古典文学全集」(小学館刊)の「万葉集四巻」に準拠しました。

  • *人物の年齢表記は数え年です。
  • *点字訳と小中学生の読者のためにルビを多用。