No.1 「安川・松本家のひとびと」

対談:平成3年12月

司会・構成:土居 善胤


お話:
株式会社 安川電機名誉会長 安川 寛氏
聞き手:
福岡シティ銀行 頭取 四島 司

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


「これからはお前さん、英語だよ」

イラスト
西島伊三雄 画

四島

安川グループは北九州で、日本に大切な企業を、次々とおつくりになりましたね。

安川

祖父の安川敬一郎が、炭坑を手がけたのがはじめです。

四島

敬一郎さんは学問で身を立てられたかったらしいですね。

安川

はい。祖父は学問好きでいつも漢籍の本をかかえていたので、”青表紙”とからかわれていたらしい。
小身でね。黒田藩の30石の藩士、徳永省易の4男で、安川岡右衛門に16歳で婿入りし、4女の峰(祖母)と18歳で結婚しています。藩命で明治2年に京都へ。翌年の3月に徳川家が移っていた静岡へ留学しています。

  • 漢籍の本は青色の表紙が多かった。
安川敬一郎 氏

四島

維新でドジをふんだ黒田藩が、藩の俊秀たちを留学させて将来をかけたのですね。

安川

そこで勝海舟にあっている。「これからはお前さん英語だよ」と、洋学をすすめられて上京するのです。

四島

大物にあったのですね。そして黒田藩の贋札事件が起きるのですね。

安川

ええ。明治元年から3年までは、不作つづきで、百姓一揆が各地でおきるし、どの藩も東北の戦いに兵を出して財政が遍迫してどうにもならない。それで贋札(太政官札の)をつくって急場をしのいだりしたのですね。
そこへ、太政官からもと大村藩士で剣士として知られている渡辺昇がのりこんで現場をおさえる。証拠品をもって小倉へ行ってしまうのです。

四島

黒田藩は親幕派だったので、見せしめにされたと言われていますね。藩知事の、前の殿様の長知(ながとも)さんも罷免されて、宮様の有栖川熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)にかわる。大事ですね。

安川

藩の西郷さんにとりなしをたのんだり、いろいろしたらしいが、大がかりな現場証拠をおさえられているのでどうにもならない。
結局、大参事の立花増美や權小参事になっていた長兄の徳永織人等5人が東京で斬首になるのです。斬首は表向きで、本当は切腹だったそうです。おそらく、日本で最後の切腹だったでしょうね。

四島

明治4年ですね。そのとき敬一郎さんは…。

安川

織人の遺髪をもって帰郷しますがやりきれなかったでしょうね。すぐ上京して、翌年には福沢諭吉先生の慶応義塾に入っています。
それで、後年の事になるんですが、面白い話があるんですよ。東京で実業家の会合に出る事があった。ある人がじろじろ見ていて「お前は、ドガシコじゃないか」と言ったそうです。
英語の先生に、How much is it? を訳せと言われて「それはドガシコぞ」と言った(笑)。それでみんなわからん(笑)。それでドガシコが敬一郎のあだ名だったそうです(笑)。

四島

佐賀の乱でもお兄さんが…。

安川

三兄の幾島家をついだが、明治7年の佐賀の乱に官軍少尉で鎮圧に向うのですが、三ツ瀬峠の戦で彈にあたって戦死してしまう。

四島

兄弟4人の内、2人が犠牲に。たいへんな時代ですね。

安川

残るのは松本家に入った次兄と敬一郎だけです。敬一郎は徳永、松本、幾島、安川の四家の生計をはからねばならない。それで、学問をすてて福岡に帰るのです。

はじめは狸掘りの炭坑から

四島

たいへんな決心ですね。それから炭坑を。

安川

ええ。次兄の松本潜が手がけ、三兄の幾島徳が専任していた穂波郡相田炭坑と遠賀郡東谷炭坑を敬一郎が引き受けて四家の生活基盤にする事になるのです。

四島

松本家はどうして炭坑を。

安川

養子になった潜の祖父にあたる平内という人が黒田藩の勘定暴行で、石炭専売の制度をつくったのですね。そういう事で石炭とかかわりの深い家だし、潜が筑豊の嘉麻郡と穂波郡(のち合併して嘉穂郡)の大区長(郡長)をしていたので、炭坑に関心があって入手したのでしょう。経営は幾島徳があたっていました。

四島

炭坑といっても、まだ石炭が必要な産業がありませんね。

安川

ヤマも狸掘りでね。販売先も製塩業が主だったそうで微々たるものですね。
それに明治7年は雨ばかりで販売先の製塩業が振るわない。石炭が売れなくて困りきったらしいが、博多の酒造家の加野惣平という人が、人柄を見こんで資金を援助してくれたらしい。

  • 狸掘り:山の中腹など、炭層の露頭部分を手掘りした原始採掘法。狸の穴ににているので、この名がついた。

四島

敬一郎さんは、その恩を終生口にしておられたそうですね。
そうしているうちに明治10年には西郷さんの挙兵でしょう。

安川

友人の武部小四郎(たけべこしろう)、越智彦四郎(おちひこしろう)等が西郷隆盛の挙兵にあわせて決起する計画だったのですね。どうもそれをさけたのでしょう。明治10年に北九州の芦屋に住んでいて郡長をしていたし、芦屋は遠賀川の下流で石炭販売に都合がよかったのでしょう。

芦屋いちの悪そうもん、健次郎

松本健次郎 氏

四島

この頃から敬一郎さんの二男の健次郎さんの名が出てくるんですね。芦屋一の”悪そうもん”だったとか。

安川

そうらしいね(笑)。
大漁を祈る蛭子さんの首に、殺した蛇を2、3匹まきつけたり…。

四島

ずいぶんの”悪そう”ですね。

安川

松本潜の息子の魚足(なたる)と敬一郎の長男の澄之助が、相ついで夭折するのです。この2人は学問もあって、みんなに好かれ、のちのちまで惜しまれています。
健次郎は芦屋中学が廃校になって福岡中学に転じますが、卒業を前に急性脚気にかかる。敬一郎が心配して、脚気治療に特効があるという太宰府の病院に入院させています。
回復してから上の学校へ行きたかったらしいが、敬一郎がうんと言わない。澄之助の夭折にこり、脚気病みの二男に、勉強よりも安心な実業をと思ったのでしょうね。
電灯会社や紡績会社の設立で石炭の需要がふえて、人手が1人でも欲しかった。あれやこれやで神戸支店へ商売見習いにやられるのです。

四島

そのとき、英語を勉強されたのですね。それから上京がゆるされている…。

三代つづくクレイグ・アトモア家との友情

安川

上京して物理学校(東京理科大学)に入っています。この間に1年志願兵になり、明治23年には伯父松本潜の養子になって娘の静子と結婚しています。

四島

そしてすぐにアメリカ留学ですね。結婚早々の奥さんをのこして、当時の人の心意気はすごいですね。

安川

敬一郎が商売上で、維新の元勲たちと交流のあるあの有名なトーマス・グラバーと親交があったので、いろいろ便宜を計ってもらい、アドバイスを受けたようです。グラバーの紹介状で、アメリカへ渡るチャイナ号に同船していたアーネスト・サトーを訪ねたりしています。

  • アーネスト・サトー
    英国人。パークス公使をたすけ、薩長側について、維新成立のかげに大きな足跡をのこした

四島

明治維新もついこの間といった風景ですね。

安川

アメリカではペンシルバニア大学で経済学を勉強しています。

四島

そのとき、クレイグ・アトモア家とのおつきあいが始まるのですね。

安川

彼と親友になり、のちには彼の家に寄宿しています。アトモア家は上級の下といった暮し、敬虔なクリスチャンでした。
アトモア家には弟である私の父の清三郎も留学して世話になっています。健次郎は逝くなるまで、月に1回ぐらいは文通していました。晩年には未亡人と令嬢を日本へ招いて歓待しています。現在もアトモア家とは親交が続いています。

四島

"情誼"の厚さを感じますね。帰国されると事業の第一線に。

安川

明治26年、23歳で帰国します。
明治24、5年と大不況で、まだ基盤ができてない安川は資金面も弱い。大変な状況の中で健次郎は父の片腕になって石炭販売の第一線にたとうと決心するのです。

グループの本拠明治鉱業へ

四島 司

四島

そして、門司に安川松本商店を開かれるのですね。
作家の劉寒吉さんは、世に○○兄弟会社はあるが、親子名の会社はない。なんとも嬉しい社名だといっておられますね。

安川

知らない人は兄弟と思ったらしい。

四島

で、基盤の炭鉱ですが、明治鉱業はいつ。

安川

明治13年に小規模ですが、高雄伊岐須の両坑を。19年に明治炭坑第一坑となる大城炭坑を、そして22年に玄洋社の平岡浩太郎さんと赤池炭坑を共同経営をはじめ、29年に大阪資本と明治炭坑株式会社を設立しています。

四島

筑豊御三家へのステップですね。

安川

平岡が政治活動で忙しいので、赤池の経営は敬一郎が担当していました。ところが、平岡が別に共同経営していた豊国(ほうこく)炭坑を買いとらなければならなくなって資金がいる。それで安川に赤池の持分を引き受けてくれということで、明治34年に40万円で買いとっています。
同時に明治炭坑の大阪資本の持分を買いとって、赤池と明治を敬一郎が所有する事になるのです。

四島

明治鉱業の基盤ができたのですね。

安川

ところが資金面がたいへんで、敬一郎がさんざん交渉して、日本銀行の高橋是清山本達男さんから15万円限度の手形割引の承諾をえて、いっぺんにゆとりができるのです。

四島

そして、明治37、8年になって日露戦争ですね。健次郎さんも従軍されている…。

安川

日清・日露と2回召集を受けています。日露戦では英語が話せるということで大本営府に配属され、アーサー・マッカーサー中将(ダグラス・マッカーサーの父)の奉天視察を案内したりしています。

四島

敬一郎さんは、戦後の明治39年に親友の平岡浩太郎さんがなくなって、翌年豊国炭鉱を引き受けられますね。

安川

豊国は坑内爆発で220名の犠牲者を出して、三井から借金してその管理下にある。平岡の遺族は炭鉱継続の意志がない。敬一郎は遺族の生活を守るため、三井に買取交渉を熱心にやっています。
ちょうど、明治専門学校の話が進んでいるし、明治紡績設立のときでもある。体がいくつあってもたりないときですが、それらを健次郎と清三郎にまかせ、再三上京して、三井と交渉するんですね。

四島

そこらへんが違うんですね。スタンスが高い所にあって…。そして、また大爆発なんでしょう。

安川

40年7月に364名の大犠牲者がでるんです。三井は再度の爆発でいや気がさしている。結局、「債権は減額するから、安川さん、あんたがやってくれませんか」という事になったのです。

  • 敬一郎日誌。「平岡の救済は亦(また)余において傍観しあたはざる事情の存するあるを以て、むしろ余は奮ってこの大難物を背負い、各債務の償還を全うして後、本坑興廃にかかはらず、平岡家に対し80万円の支払を覚悟せるなり」

四島

たいへんなときに友情と義心のあつさ。士道を背景に明治人の気骨を感じますね。
結果的には、この決断が、安川さんの飛躍の基盤になるのですね。

安川

復旧には健次郎が陣頭指揮であたりました。幸い、密閉がうまくいき、1年半で復旧が完了しました。
その間に、赤池・明治・豊国の三つをあわせて、明治41年1月に資本金500万円の明治鉱業株式合資会社が設立されました。敬一郎が社長、健次郎が副社長、清三郎を加えて3人が無限責任社員でした。

  • 大正八年に明治鉱業株式合資会社を明治鉱業株式会社に組織変更。

さきがけて炭鉱の近代化に

安川 寛 氏

四島

明治鉱業は日本の発展と戦後の復興をはたして昭和40年代に消えましたね。筑豊炭田が日本経済の発展にはたした役目は大きいものがありますね。
で、すこし炭鉱の事を。炭鉱近代化に松本健次郎さんが率先されたのですね。

安川

明治初年の炭坑はひどいものでね。坑主にかわって納屋頭が坑夫を宰領し、その上に総元締の大頭領がいた。度胸もあり、腕力もあって、荒々しい坑夫たちを心服させていました。採炭を請負い、坑夫の散逸を防いでいましたが、坑夫の人権など考えられもせず、喧嘩沙汰は日常でね。
そうした中で敬一郎が納屋制度の廃止を打ちだすのです(明治32年)。

四島

生命をかけた決断だったのですね。

安川

暴動になりましてね。しかし、大頭領の山田という人が敬一郎に心服していたので、身を張って支持してくれておさまった…。

四島

炭鉱近代化の歩みに、忘れてならない一コマですね。

安川

健次郎がまた山札制度の廃止をうちだすんです。

四島

山札とは…。

安川

坑夫の給料を坑主が、自分のところでつくった山札で渡していました。きめられた販売所でした使えない。そこは坑主や頭領のイキがかかっていて2重搾取でね。よそで使えないから逃亡もふせげたのでしょう。

四島

それはひどい。

安川

敬一郎が筑豊石炭鉱業組合の総長でしたが、その機関誌に、健次郎が山札廃止論をのせる。「若い私は、義憤を発して…」と言っていますが、これがまたもめて…。結局は廃止しましたね。
それから健次郎が力をいれたのは石炭販売の正常化です。神戸支店のとき、納入計量でベテランの悪い連中に煮湯をのまされている。正しいと思った事は三井三菱にも屈せず、販売網をまもり、正常化につとめました。
健次郎がのちに、炭鉱関係から一般の公職まで、いろいろかつぎあげられたのは、こうした姿勢があったからでしょうね。

四島

”月が出た出た”の田川炭鉱。三井のドル箱も安川さんのヤマだったとか。

安川

明治31年の事ですね。田川炭鉱が売り出されたので入札したところ、開きがなくて結局入札した三社の共同経営になったんです。
しかし共同経営だからうまくいかないので三井鉱山に155万円で売却している。それが三井のドル箱の大炭鉱になったからよかったが、敬一郎には別の感慨があったでしょうね。

若築建設から黒崎窯業

四島

明治鉱業をベースに、いろいろの会社がうまれますね。
九州発展に大きくかかわった安川さんの歩みをひとまとめに…。

安川

最初は石炭輸送を川船のかわひらた(舟ヘンに帯)から鉄道にかえようと筑豊興業鉄道会社の発足に参加した事ですね。麻生太吉さんらとともに、よく一国一城の坑主たちをまとめ、三菱の支持もとりつけています。

  • かわひらた
    通常で長さ約12メートル、巾2.5メートル、深さ6―70センチ、底の平たい小舟で帆をはり、約4トンの石炭を積んで遠賀川を下った。明治28年の最盛期には7,000艘の艘が上下したという。

四島

石炭運送の効率化ですね。

安川

明治24年に若松と直方開通、26年に直方・小竹間、つぎつぎ敷設(ふせつ)され、30年に九州鉄道株式会社に吸収され、40年に国有になっています。遠賀川のかわひらた舟の詩情はなくなったが、鉄道が筑豊炭田を産業に結びつけたのですね。

四島

八幡製鉄の誘致も。

安川

石炭は筑豊炭田が引き受けるから、製鉄工場を八幡にと、貝島、麻生と協力して運動するんです。
日清戦争のあと、ロシヤ、ドイツ、フランスの三国干渉で、講和条件で得た遼東半島を清国へ返したでしょう。国をあげて、国力を強くするために製鉄所設置が望まれていたのですね。
健次郎は懐旧談で「貝島、麻生と協力して政府に両院に、或は民間の有力者にと説得して廻ったあの熱心さには、自分の父親ながら実に敬服の外はなかった」と述べています。

四島

金子堅太郎さんが農商務省次官で、製鉄所設立委員長だったのも幸いでしたね。

安川

そのようですね。八幡に決まって祝杯だったでしょうが、このとき製鉄原料炭として、四家の生計を守ってきた高尾炭坑の譲渡を要望された。品質試験で最適というのです。国のためと涙をのんだがそれと潤野をあわせたのが後年の日鉄ニ瀬炭坑です。

四島

紡績業も。

安川

明治から大正にかけて紡績業が花形だったのですね。
明治41年に健次郎が代表になって、戸畑に明治紡績合資会社をつくりました。昭和15年頃には精紡機13万錘、自動織機340台で、綿糸、綿布、化繊糸をつくっていた。残念だが戦争中の企業合併で、のちの敷島紡績(現、シキボウ)に統合されてしまいました。

四島

若築建設の前身、若松築港株式会社も敬一郎さんがかかわっておられるんですね。

  • 明治21年に創立された若松築港会社は、昭和40年に若築建設株式会社となった。

安川

筑豊石炭の積出しには若松港の整備が一番だと、石野寛平という人を社長におし、麻生太吉貝島太助さん等と協力し、八幡製鉄の援助もえて推進したのです。

四島

東京湾の整備から、総合建設業まで、たいへんな優良会社ですね。黒崎窯業の設立にも…。

安川

これは敬一郎がかねてから考えていた日中合弁企業、九州製鋼会社の関連事業として、溶鉱炉の桂石煉瓦の自給をはかるために松本健次郎が大正6年に設立したのです。

夢と消えた、日中合弁製鉄事業

安川

大正4年に横浜正金銀行頭取の井上準之助さんが敬一郎を訪ねて見えた。
八幡製鉄に銑鉄を供給している中国の漢冶萍(かんやひょう)煤鉄公司が銑鉄増産をはかり、溶鉱炉を増設しているので、日本に合併で製鋼工場を建設したいと言っている。安川が引き受けてくれないかと言う話です。
敬一郎は中国のためにも日本のためにもなることだからと、乗り出すことを決断するのです。

四島

金もうけだけではない。敬一郎さんの大きなお気持ちを感じますね。

安川

それが失敗でしてね。健次郎がアメリカへ行って機械も買ってきた。工場も大正9年にできましたが、肝心の銑鉄が入ってこない。どうも計画が杜撰(ずさん)で全く見込みなしと分ったんです。

四島

敬一郎さんは御無念だったでしょうね。

  • 敬一郎は「一身一家の私業に非ざるなり。一は我国のため緊急の鉄を供給し、二は隣邦に対し親善融合の第一歩を進めんとするものなり」と言っている。

安川

晩年の仕事で、精根をかたむけてましたからね。健次郎も口惜しかったらしく、晩年にもよくくやんでいましたね。いや、あれで安川は貧乏になった(笑)。

四島

工場のほうは。

安川

昭和9年に日本製鉄に引き受けてもらい、八幡製鉄第四製鋼工場になってほっとしました。

四島

でもその流れで黒崎窯業が生まれ、立派な会社になっていますね。
八幡製鉄と提携して耐火材総合メーカーにそだちましたね。安川の手は離れていますが、全国トップクラスの会社に育ち、ファインセラミックスも有望で、健次郎も喜んでいるでしょう。

第五郎と安川電機

安川第五郎 氏

四島

で、名誉会長の安川電機は、いまはやりのロボット製造で、たいへん注目されていますね。

安川

安川電機は敬一郎のすすめにより五男の第五郎が二人の兄健次郎、清三郎と共同で興したんです。
第五郎は明治45年に東大電気工学科を卒業して、日立に1年ほどいて、アメリカへ渡り、ピッツパーグのフェスティングハウス社に入社しています。1年ぐらい一介の職工として働いたようですね。
面白いのは、敬一郎が「お前は将来何をするのか」ときいた。第五郎が「電気関係の会社をつくりたい」と言った。「それはいい。それで資金は。」「親父の遺産をわけてもらってやりたい。」「馬鹿言え。お前にやるのは仕事と借金だけだ。」と言ったそうです(笑)。
健次郎と私の親父の清三郎、第五郎の3人が手弁当で用地をさがし、いまの黒崎に工場をきめたのだそうです。第五郎がピッツパーグ工場で尊敬されていた酒井安治郎という人をつれてきて、工場づくりをたのみました。
合資会社で大正4年に設立。第五郎が代表社員でした。

  • 大正八年に株式会社に変更。

四島

はじめは注文生産ですね。

安川

どこからも注文がくるはずがない(笑)。それで当初は明治鉱業の機械をつくってたべていた(笑)。そのうち九州水力電気(九州電力の前身)の柱上変圧器を一手に引き受けるようになって、息をつきました。
しかし、なかなか利益が出なくてね。やっと好転したのは18年目の昭和8年でしたよ。

四島

生みの苦労がながかった(笑)。

安川

17年間、赤字で苦労した事が第五郎を大きくした。そういう人もいますよ(笑)。
当時の専務で、私の従兄の安川泰一が、昭和3年に小型モーターの仕込生産をはじめましてね。これが基盤をつくったんですね。

四島

安川の目玉商品で。モーターの安川時代をつくられたのですね。

坂本繁二郎さんの”天下一品”

坂本繁二郎さんの”天下一品”
坂本繁二郎画伯が描いた
「モートル」

四島

話は変わりますが、名誉会長の応接室に、坂本繁二郎さんの有名なモーターの絵がありますよね。

安川

昭和25年頃だったな。会社の40年史をつくる事になって、巻頭に坂本さんのモーターの絵をのせたいと言いだした人がいて、八女にお住まいの先生に頼みにいった。先生は「モーターなんか見た事がない(笑)。サンプルを持ってこい」と言われる。
それで何種類か持っていったら、「1つをおいていけ」と言われる。私は、そんな話忘れてしまっていたら、翌年できたから取りにこいと……(笑)。

四島

繁二郎さん独特の淡いトーンですね。モーターが、静物の絵になって呼吸をしている。

安川

頼んだほうも頼んだほうだが、画かれた先生も大先生だ(笑)。これは”天下一品”で我社の社宝ですよ。

四島

いまなら、繁二郎さんのロボットの絵になるんでしょうね(笑)。

安川

絵と言えばようわからんが、棟方志功(むなかたしこう)さんのカレンダーも社員が言い出して、あたったな。

四島

社員の誰かが言いだしてですか(笑)。いいですね。

安川

お宅もそうでしょうが(笑)。
高級印刷でよくできてるから(笑)、ある人が箱にいれて箱書きしてくれと志功さんの所へ行ったらしい。
志功さんは面白い人で、「それは安川さんの所へ行って頼みなさい」と言いなさった(笑)。
あの人はひたむきでしょう。「芸術家はもっと余裕をもちなさいよ」と、私がいらん事を言ったら、妙な絵を画きだした。何かと思ったらフクロウの絵で、なるほどフクロウは超然として、余裕があるような、ないような(笑)。

四島

ロボットとは、いい所へ目をつけられましたね。

安川

モーターは他の機械を動かすだけで、次第にものたりなくなってね。芯になる、将来性のある、特性を活かせるものがほしかったんですよ。

四島

いまは工場向きのロボットでしょうが、ビルの窓を拭くロボットとか、家庭用にもいろいろに。。

安川

いろいろと考えられますからね。

四島

お話をうかがっていると、安川さんが手がけられた事業は、みな産業の基幹の部分で、ずいぶん社会に貢献していますね。根底に高い志があって、どの会社にもできない事をなさって…。

会津士魂の明専総長山川健次郎

九州工業大学
(もと、明治専門学校)

四島

明治専門学校(現・九州工業大学)をおつくりになったのも、そうですね。

安川

日露戦争のとき、軍需景気で明治鉱業が思わぬ利益をあげましてね。それに出資していた筑豊興業鉄道が、国有になって、公債が交付された。400万円ぐらい余剰金ができてそれを社会に返したい、国の将来に役立つ人材をつくりたい。まあ、敬一郎の武士の部分がさせたのでしょうね。そうして明治42年に開校しています。

四島

赤池炭坑を入手されたとき、学校をつくられてますね。
敬一郎さんの学校への思いは早くからなんですね。

安川

技術を持った中堅幹部を育てようと明治35年に赤池鉱山学校をつくっています。中学卒の学力が資格で、採鉱、冶金、土木、機械を教え実習させる。食費、被服費支給の二年制でした。

四島

当時では画期的な事でしたね。

安川

それが惜しい事に第1期生が卒業してすぐに、坑内爆発があって継続できる空気ではなくなった。2年生も繰上げ卒業で中止でね。
まあ、学校をつくる事は、敬一郎がずっとあたためていた夢だったのですね。

四島

敬一郎さんの手記をあつめられた撫松餘韻(ぶしょうよいん)を拝見しましたが、その中にかかれている子孫に与うの言葉がすごいですね。
好業績に感謝の言葉を述べられたあとで「余はこの天恵を私して、子孫を怠慢に導くを欲せず。故にいささか従来の事業に対する資金の過剰を見るや、明治専門学校を創立して、天恵に報ゆるの微衷(びちゅう)をつくし、また幾多の新事業を起して汝等に業務を与へ、いたずらに財を擁して飽暖の慾をほしひままにするなからしめんとせり」。
そして、「本業以外の動産の全てを投じて、我が国最急の需要に応ずべく、科学的専門教育機関の設立を決行せり。明治専門学校これなり。これ一には我が事業を既倒に救ひし天恩に報恩するの微衷に出でしもの。二は資力の余裕を存するは後進者怠慢の原因たるをおそれたるによる」とあります。
敬一郎さんの志の高さを感じますね。そしてその夢を、前東大総長・山川健次郎さんに話されたのですね。

安川

山川さんは白虎隊で知られる会津戦争の生き残りで、若い時にアメリカへ留学し、人物、識見申し分ない。
東大総長を辞められたばかりで、望める最高の人だったでしょう。明専総長をつとめられたあとは九州帝国大学の学長になられました。

四島

よく九州まできてもらえましたね。

安川

敬一郎の熱意が先生を動かしたのでしょうね。工業教育の重要性を痛感しておられたし、アメリカ留学の体験から、これで実業家の教育事業へ関心をたかめる風潮が生まれればいい、そう考えられたようです。

四島

スパルタ流で、なかなかきびしい校風だったようで。

安川

当時ですから、朝は全員冷水まさつ、兵式体操で始まったそうです。
普通の専門学校より1年多い4年制でした。全員入寮、そして先生方の住居も学内に建ててね。師弟がつねにふれあえるように考えていました。最初の1年は教養、あとの3年で工学知識という方針でした。

四島

学生も各地から。

安川

定員130名に志願者は200人以上あった。関東からの受験生を、遠くまでご苦労さんと周囲を案内したり、入試成績1番の生徒を表彰したり(笑)。

四島

のどかでいいですね(笑)。学校の設計は、東京駅を設計した辰野金吾さんですね。

安川

明専の教授もされましたし、この西日本工業倶楽部の建物も辰野さんの設計ですね。
山川先生は、当代一流の先生をえらばれ、技術を身につけたジェントルマン養成を願われた。これは、敬一郎の考えている事とぴったりですね。

四島

で、建設費は。

安川

戸畑に用地を求めて、建設費80万円、基本金330万円でした。

四島

いまのお金にしたら、物価指数も違いますが、生活も質素な時代ですから1千億以上の感覚でしょうね。そして、年々充実されて…。

安川

ええ科目もふえました。何より当時の工業専門学校は蔵前にあった東京高等工業ほかわずかの官立校だけでしたから、年々優秀な生徒が受験して学校の評価も高まりました。

四島

その後、国立に移管されましたね。

安川

第一次大戦後の経済不況に当面してね。八幡製鉄のストで溶鉱炉の火が消えたときだった。
学校の発展維持が次第に困難になってきたので、学校の将来のため、そっくり国に献納したんです。
そのとき国は3年制にという話だったのですが山川先生のご尽力もあって、ユニークな四年制でのこったので、敬一郎もほっとしたでしょう。

四島

しかし、敬一郎さんは断腸の思いだったでしょうね。

安川

そうだったでしょうが、学校の将来が確保できて安堵もしたでしょうね。

四島

山川さんが校名を「安川専門学校」にと言われたのを敬一郎さんが反対されて、明治専門学校になったのだそうですね。

安川

自分の名前を出す気持ちはなかったでしょう。

四島

立派な学校をおつくりになって、大学としてますます充実している。敬一郎さんもご満足でしょう。

先生一人でスタートした明治学園

四島

学校といえば明治学園も。

安川

あれは明専の先生方の子供、それに私たちのために明治43年にできたもので、最初は明専の附属小学校でした。
開校のときは先生が1人、生徒が15、6人で、たしか6年生は一人だったな(笑)。

四島

のどかな話ですね。

安川

それが、明治鉱業の本社が戸畑にできて5、60人にふえた。それから近所が開けて学校の形になった。
戦争が終って、中学を併設したが、戦後のインフレで学校経営もなかなか困難になってね。どこかへ譲ろうという話になった。
最初は西南学院と話があったが、カトリック協会の方から熱心な話があり、校名、校章もそのまま、建学の敬一郎の気持ちも尊重して維持するという事で、昭和24年に一切をノートルダム修道会におゆずりしました。西南学院へおわびに行ったが、あの時はつらかったな(笑)。

明治を代表する英国風建築の西日本工業倶楽部

西日本工業倶楽部
(辰野金吾博士設計)

四島

ところで、この西日本工業倶楽部は松本健次郎さんのお宅だったのですね。明治の代表的な英国風西洋建築で立派なものですね。

安川

健次郎は子供が15人いましたから、このぐらいないと(笑)。
明専ができて2年後の明治44年にできました。
明治鉱業の副社長や明治紡績の代表、そして明専の校長もしていた健次郎が、自宅と明専を訪れる要人たちの迎賓館兼用に建てたのですね。

四島

白い外壁に緑も木部の対照がすばらしい。
壁にかかっている大きな更紗(さらさ)が有名な和田三造さんの作品ですね。

安川

南蛮絵更紗の「海の幸」と「山の幸」でしょう。大正時代に画伯が一年間ここにいて画いたもので、窓のステンドグラスもそうですね。

夫婦節而天地和。
風雨節而五穀熟。
安川敬一郎氏の書

四島

近代洋画家が画いた、これだけ大きい絵更紗の名品も珍しいですね。歳月のくすみが、また奥ゆきになっていますね。国の重要文化財になっているこの建物とよくマッチしていますね。

安川

重文は今日出海さんが文化庁長官のとき、指定してくれたんです。

四島

いつから西日本工業倶楽部に。

安川

健次郎も、明治鉱業の社長だった長男の幹一郎も東京へ行ってしまって誰もこちらにいない。この大きな家があき家で処置に困った。
ちょうど北九州の工業経済の団体をつくろうと、八幡製鉄副所長の安永渡平さんと話していた。それでこの建物をその根城にしたらと話してね。とんとん拍子で西日本工業倶楽部ができた。健次郎もあっさりしていて、家具や什器一切をつけて”安くていいよ”とゆずったんです。
製鉄の角野尚徳さん(副社長)が中心になって金を集められたが、「お前さんが言いだしっぺだから、面倒をみろ」と、初代の理事長を仰せつかってしまった(笑)。それで大勢の人が集まれるように手をいれたり、苦労しましたよ。

天皇お泊まりの日、停電でキモが冷えた

四島

子供の頃、よくみえてたのでしょう。

安川

健次郎は、私たちを見るとすぐにつかまえて転ばしたり、相撲をしたりよく遊んでくれましたよ。
いまの日本館の庭が芝生で、いまはやっているゲートボールもよくやっていましたな。

四島

その頃からですか。

安川

アメリカでやっていたのを健次郎がもってきたのでしょうね。

四島

内外の賓客もよく泊まられて。

安川

昭和28年にルーズベルト大統領夫人も泊まっています。でも、いちばんのお客様は、昭和天皇でした。昭和33年だったな。
一部屋つぶしてバスをつけたり、部屋と廊下の証明が足りないというので、九電さんが電灯を増設し、そのためのトランスを電信柱につけたりした。ところが停電になってあわてたな(笑)。

四島

それはたいへん。

安川

陛下がこの前で、戸畑の提灯山笠をごらんになる時だったのでよかったが、キモが冷えたよ(笑)。
九電の人が気になって電信柱にのぼっていた。いっぺんに電気をつけて、トランスが過熱しだした。それでスイッチを切ったらしい。
陛下は何もご存知なかったが、小倉から九電の人がとんでくるし、いやたいへんだった(笑)。

四島

ここで結婚式をするのが若い女性の夢だそうですね。

安川

評判がよくてね。倶楽部の財政もうるおって、たすかっていますよ。

敬一郎の「論語漫筆」

孫 文(1866~1925)

四島

いろいろとありがとうございました。ここで安川家の人たちのプロフィールを。お祖父さんの敬一郎さんは論語を座右の書にされていたそうですね。

安川

忙しいのに、論語はよく読んでいたようです。別に宗教に熱心ではなかったが、儒教にはひかれたんですね。
大正7年に70歳で引退し、昭和9年に86歳でなくなりました。没後に手記と日記をまとめて「撫松餘韻」を発行しました。撫松は敬一郎の号ですが、論語漫筆と題した546頁の手記がのっています。大正4年から昭和5年まで、15年に筆をとったものです。

四島

ちょっと拝見しましたが、とても漫筆どころではない。論語を引用して、時勢を論じ、国家の将来を語っておられる。格調高い文体で簡明なのに驚きますね。明治人の、一流の人の、漢学の素養というのは、たいへんなものだなと思いました。
いちばん最後の章が、「子曰。(しのたまわく)知者不惑(まどわず)。仁者不変(かわらず)。勇者不懼(おそれず)」。これはそのまま敬一郎さんにふさわしいなと思いましたよ。

安川

いや、敬一郎が恐縮しているでしょうよ。

孫文の中国革命を支援

四島

敬一郎さんは中国革命の父、孫文をずいぶん支援されたのですね。

安川

玄洋社の頭山満さんが、宮崎滔天(みやざきとうてん)にたのまれて、孫文先生を官憲からまもった事はよく知られていますが、頭山さんとも親しかったので、先生の日本亡命のときお世話したのですね。
うちに泊まられた事をおぼえています。明専で講演もされたらしい。まあ、こうした事が中国の人たちに感謝されてね。敬一郎は中国の恩人ということで、おかげで孫の私も中国大連市の名誉市民だ…(笑)。

四島

相撲がたいへんお好きだったそうですね。

安川

朝倉郡から出た名横綱の梅ヶ谷の大ファンだったらしく、立会いを日記にもくわしく書いて、勝ってよろこび、負けて口惜しがっています(笑)。場所のあった回向院(えこういん)は木戸御免だったようです。

四島

母里太兵衛福島正則から呑み取った名槍日本号。いま福岡市博物館の目玉の一つですが、敬一郎さんが所持しておられたと…。

安川

誰かが、買ってくれということで、家にあったが、黒田さんの所がいちばんおさまると献上したんですよ。

四島

晩年に、功労が大きいと男爵をおくられましたね。

安川

あれも固辞したらしいが、どうしても受けないかなくなってね。じゃ、私一代にしてくれと、世襲なし、一代男爵で受けています。

四島

そこらへんも敬一郎さんらしいですね。ところで敬一郎さんといえば健次郎さんですね。こんなに息のあった親子も珍しいですね。
健次郎さんはどんな方でしたか。

安川

喜多流の謠をやってたので、声が大きかったですね。

四島

広田弘毅さんや中野正剛緒方竹虎さんをよく支援されたそうですね。広田さんに、「お前さんの英語はなっとらんから、もっと勉強しろ」…と言われたとか…(笑)。

安川

とにかく敬一郎と表裏一体で、よくサポートした人でしたな。

四島

早くから外国へ目がひらけて、英語がお上手で。

安川

よく外国へ行ってましたね。それも船が好きで、昭和38年に93歳でなくなりましたが、86歳で三男の馨と船でアメリカへ行っています。

四島

アメリカの鉄道王ハリマンが、日露戦後の日本がえた満州の鉄道を自分に敷設させろと言ってきた事件でも。

安川

日本は戦争で資力を使いはたしていて、満州に鉄道を敷設するまではとても手がまわらない。それで桂首相は承認の覚書を渡したのです。
しかし、満州鉄道をハリマンと共同経営する事は、ロシヤの侵略を排除しながら、アメリカの進出を認める事になる。通訳をした健次郎はそう考えて、講和会議から帰国した福岡出身の山座円次郎(やまざえんじろう)にその顛末を話し、山座が全權の小村寿太郎に話して、その取りきめをくつがえしてしまう。

四島

いまは過ぎ去った夢の話ですが、あの時点では、健次郎さんが国益をまもられたのですね。

父・清三郎と叔父・第五郎

四島

お父上の清三郎さんは、学者はだの方だったそうですね。

安川

昭和11年に58歳の若さでなくなっています。地味な存在でした。

四島

明治鉱業、明治紡績、また安川電機の初代社長もされていますね。堅実に事業の固めをなさったんですね。
小説家の水上瀧太郎(本名・阿部章蔵。「大阪の宿」などの名作で知られる)はお母様のお兄さんだそうですね。

安川

子供の頃、浅草につれていってもらうとき、ある型の電車でないと乗らないとダダをこねたが、その電車は走っていない。大学生の章蔵がなだめすかしてつれていってくれましたね。

四島

第五郎さんは東京オリンピック組織委員会会長をされたし、九州山口経済連合会をつくって会長と、中央でも地方でも大きな足跡をのこされましたね。日本原子力発電株式会社の社長にも。周囲がお膳立てしてシャッポにすえると実によくおさまる。不思議な徳のある方でしたね。

安川

第五郎は、福岡の九州芸術工科大学の設立にも期成会会長にされて、中央への顔が役立ったのでしょう。

四島

明専をつくられた敬一郎さんの血が第五郎さんに流れているんですね。中野正剛、緒方竹虎さんとは親友でしたね。

安川

スロースターターで、修猷館中学も2回失敗して3回目に入っている。それで緒方竹虎さんとは同級生になる。お互いに生涯に得たものは大きかったでしょうね。

四島

柔道できたえた体で、尺八を愛用されて。風格もそなわってましたね。

安川に流れているもの

四島

安川電機製作所を名誉会長が引き受けられたのは、いつからですか。

安川

昭和19年からです。私は、はじめは大学を出て航空研究所へ入ったんですよ。祖父の気持ちの中に第五郎が電気、お前は飛行機を…と、いうのがあったかもしれませんが、2・3の人に相談したら、みんな反対であきらめたらしい。

四島

戦時中でしたからね。海水淡水化も考えられたでしょう。

安川

専売局の人から、実験は成功した、安川で具体化しないかという話があってね。石炭はいつかなくなる。淡水化の副産物でいろんなものがとれる。やってみるかと研究所をつくったが、金ばっかりかかって見通しがつかない。時期尚早でやめたが、やめてよかった。

四島

安川さんはトライ・トライですね(笑)。そうして、安川電機製作所の社長になられて…。

安川

47年に第五郎の次男敬二にゆずり、今は菊池功です。昭和30年まで第五郎は会長でした。

四島

名誉会長さんはいろいろと公職もたいへんでしょうね。九州生産性本部をつくられたし、福岡経済同友会の代表もながく、それにスポーツ関係も。いまは北九州商工会議所の会頭さんですね。

安川

まあ、なんやかや。祖父敬一郎からの血かもしれません。

四島

そして工学博士でいらっしゃる。何の御研究でしたか。

安川

いや若いときは、いろいろやりましたからね。

四島

トライの安川電機の名誉会長さんにはふさわしい(笑)。
そして、とてもお元気ですね。

  • 平成三年九月に株式会社安川電機に社名変更

安川

明専の冷水摩擦をみていて、子供のときからしています。だからあまり風邪もひかない。

四島

20年代に評判だったNHKのラジオドラマ「えり子とともに」の作家の内村直也さんの奥さんが、敬一郎さんのお孫さんだそうですね。

安川

敬一郎の長女初子の主人で明治鉱業の専務だった堀内敏堯の娘、冨子です。安川、松本の暮らしぶりをドラマにずいぶんとりいれたらしい。

四島

アメリカ大使をされた安川壮さんや、ピヤニストの安川加寿子さんもいらっしゃる。政界では社会党の代議士をながくされた松本七郎さん。
経済、文化、外交、政治の各面で、安川山系の方々はたいへん活躍しておられますね。

安川

松本家の娘は3人も修道尼になっている。どうも安川はまじめすぎるのかな(笑)。人数が多いから、まあいろいろだね。

四島

いや、長時間いいお話をうかがいました。近代産業の興隆ステップの中で、安川家・松本家ほど姿勢の正しい歩み方をされた企業家集団はないでしょうね。

司会

明治、大正、昭和、三代を通じて九州の経済と文化に大きな福音をもたらされました。ますます御元気に、御活躍をお祈りいたします。