No.3 杉田久女

対談:平成4年8月

司会・構成:土居 善胤


お話:
俳誌個人誌「うつぎ」主宰 久女の長女石 昌子氏
聞き手:
福岡シティ銀行 常務取締役 本田 正寛

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


花衣ぬぐや纏(まつ)はる紐いろいろ

イラスト:竹中俊裕

本田

お元気ですね。

ええ、あちこち出かけるのが好きで、数年前まで自分で運転して出かけていました。でも運転に気をとられると、目がつかれて、これからは若い人に乗せてもらおうと思って、77歳で運転をやめました。

本田

ご判断がとても…。心身ともにお若い(笑)。御自分で俳誌「うつぎ」を主宰していらっしゃる。やはりお母さま、杉田久女の血なんですね。で、今日は久女の御話をおきかせください。いつ頃から久女は俳句に関心を持たれたのですか。

母の兄、赤堀月蟾(げつせん)が零落して失意の身を小倉の久女の家でいやしたときに俳句の手ほどきを受けたのですね。月蟾は俳人の渡辺水巴と親しく、俳書もいろいろ持っていて、それから久女が、干天に水をえたように俳句を吸収したのです。大正5年27歳。私が数え6歳のときですね。

本田

じゃ、久女の俳句の目覚めからご存知で…。

でも、遊びたいだけの子供ですから、芸術としての関心などありませんでしたよ。

本田

久女の句がホトトギスで、俳壇の注目を集めた頃は。

花衣ぬぐや纏はる
紐いろいろ

が大正8年で、私の9歳の頃ですからね。母の俳句が父や私の人生にかかわってくるとは夢にも思いませんでしたよ。

本田

東京日日、大阪毎日新聞が共催した「日本新名勝俳句」に応募して金賞になった有名な句が英彦山(ひこさん)を詠んだ

谺(こだま)して山ほととぎす
ほしいまゝ

でしたね。英彦山に足をはこび、あの神秘な幽邃(ゆうすい)境にとけこんで生まれた句ときいていますが、石さんもご一緒では。

いいえ、独りでいっていました。私と一緒だと、かえって気が散って句ができなかったでしょう。
昭和6年のことで久女のもっとも充実した頃の句ですね。翌7年には、ホトトギス同人に推挙されています。でも私は俳句なんて、あんな短くて、むつかしくて、面白くないものは御免だと思っていました(笑)。

本田

じゃあ、お母さまが俳句の世界でえらい先生だとは思っておられなかった…。

ぜんぜん(笑)。

杉田久女 略歴

高浜虚子門下。「ホトトギス」派の閨秀俳人として、大正中期から昭和初期にかけて俳壇に久女旋風をおこした。

杉田久女は本名久(ひさ)。明治23年5月30日、鹿児島市で赤堀廉蔵、さよの三女として出生。

父は鹿児島県庁から明治29年、沖縄県那覇庁へ。ついで明治30年台湾嘉義県、31年台北市に勤務。久は台北で小学卒後41年お茶の水高女を卒業。この間一家上京。42年20歳で画家杉田宇内(うない)(26歳)と結婚。夫の任地小倉に住む。

夫、宇内は愛知県西加茂郡小原村生まれ。杉田家は大庄屋をつとめた素封家で、祖父は県会議員と村長、父も村長をつとめた名望家で、宇内は長男として大切に育てられた。

愛知県第二中学校をへて東京美術学校(現、東京芸大)西洋画科の本科、研究科に進み小倉中学の絵画教師。

久女は才色兼備、書画にも秀でていた。明治44年22歳で長女昌子出生。大正5年次女光子出生。同年零落した次兄・赤堀月蟾(げつせん)が寄留。俳句の手ほどきを受ける。大正6年「ホトトギス」1月号の「台所雑詠」に初出句。

鯛を料る爼板(まないた)せまき
師走かな

ほか。5月、飯島みさ子邸の句会で?浜虚子にはじめて会い、長谷川かな女、阿部みどり女を知る。

大正7年、29歳で、「ホトトギス」4月号虚子選「雑詠」に

艫(とも)の霜に枯枝舞ひ下りし
鴉(からす)かな

大正8年30歳。毎日新聞懸賞小説に応募した「河畔に棲(す)みて」が選外佳作。代表句の1つ

花衣ぬぐや纏(まつ)はる
紐いろいろ

は、この年の作。大正10年斉藤破魔子、のちの中村汀女を知る。大正11年33歳の作が

足袋(たび)つぐやノラともならず
教師妻

同年、夫婦はメソジスト教会で受洗。橋本多佳子に俳句の手ほどきをする。昭和6年42歳。前年東京日日、大阪毎日新聞共催の日本新名勝俳句募集に応募した句、

谺(こだま)して山ほととぎす
ほしいまゝ

が帝国風景院賞金賞を受け俳壇の話題をさらった。昭和7年43歳で主宰誌「花衣」を創刊(5号にて廃刊)。7月ホトトギス投稿五句が雑詠巻頭となる。

無憂華の木蔭はいづこ
仏生会

昭和7・8・9年と雑詠巻頭句が続く。
9年6月45歳でホトトギス同人となる。(あふひ・立子・汀女・久女・より江・しづの女、らと)。

昭和11年47歳、門司に虚子の渡欧を見送る。10月、ホトトギス同人を除名される。12年に

虚子ぎらひかな女嫌ひの
ひとへ帯

の句がある。この年、長女昌子、石一郎と結婚。以後も「ホトトギス」への投句をつづける。昭和16年次女光子、竹村猛と結婚。昭和21年1月21日、太宰府の県立筑紫保養院で食料難のため栄養障害をおこし腎臓病悪化により逝去。愛知県西加茂郡小原村杉田家の墓地にほおむられる。享年57歳。戒名「無憂院釈久欣妙恒大姉」。

昭和27年、角川書店より「杉田久女句集」刊行。

昭和32年4月、松本市赤堀家墓地に分骨。墓碑銘「久女の墓」は虚子の筆。

宇内は昭和21年小倉中学を辞し小原村に帰郷、昭和37年、逝去。戒名、西信院釈慈光照宇居士。

母が哀れで

本田

でも、久女は長女の石さんのことをたびたび句にしておられるでしょう。

6つなるは父の布団に
ねせてけり

東風(こち)吹くや耳現わるゝ
うなゐ髪

うない髪はおかっぱの事ですね。私たちを見まもっている母の視線を感じます。
母が終戦の翌年に逝くなってから、久女の気持ちが次第にわかってきましてね。世間に容れられなかった久女が哀れで、哀れで。
娘の私が久女はこんな人でしたよと話しても、私が俳句がわからないでは誰も信用しない。それで勉強をはじめたのですよ。

本田

久女は俳句のためにはご主人や子供さんの世話も、ちょっとおいて…という所はあったでしょうが、世間にずいぶん誤解されているようですね。

「わたし、良妻賢母にはなれません」と、自分で言っていましたからね。主人を三ツ指ついてむかえるような、当時でいう家庭向きの良妻ではなかったが、その面があまりにも曲げられて伝えられている。いい句をたくさん残した母のために、娘の私が世間の誤解をときたいと思いましてね。
で、母の句を手はじめに俳句に没頭したのです。俳句は17文字。これは感性の世界で、思想は述べられない。のめりこんでみると、私には俳句が、どうもものたりなくなってくる。あんなやさしいものは誰でもできると思ったり…。
これ、やはり久女の俳句にふりまわされてるんでしょうね(笑)。

年頭に(昭和8年の日記抄)

  • 1、 習字短冊練習。
  • 1、 光子の学資の為め大(おおい)に節約、冗費をはぶき、むだな交際をはぶき、質実たるべき事。
  • 1、 他人の助力や援助を決して仰がず、同情をしいぬ事。訪問来往せぬ事。
  • 1、 何事も隠忍自重、独力独行。

本田

小倉中学の画の先生をしておられた御父上は。宇内(うない)先生は謹厳な方だったらしいですね。

どうも、父も、たかが17文字で何が表現できるかと思っていたのでは(笑)。芸大でしっかり美術を勉強している父から見ると、基礎の勉強も不十分な妻君が、主婦業のかたわらでやっているたよりないものに見えたのでしょう。

本田

それは大問題ですね(笑)。

そうですよ。戦前の亭主ですから中途半端な俳句よりも、主婦に徹しろと思っていたかもしれない。
親子で俳句を中心にうまく運営しておられるところもあります。うちはそうでなかった。そこが難しいの…(笑)。

本田

美術と俳句の葛藤ですか。ご夫婦だけに、そしてどちらも半端じゃないから大変でしたね。
そこらへん、御二人は悲劇だったでしょうが、それだけに小説のテーマにもなるんですね。

吉屋信子さんの評伝「底のぬけた柄杓」にとりあげられてから、俳壇や、地元や、ラジオ・テレビや、小説・演劇まで、久女のことが滅茶苦茶で悲しかったですね。松本清張さんの「菊枕」も、久女にはあまりにもきびしい作品でした。

本田

それらが次々と孫引きされて誤った久女像が世間を歩きだすのですね。
でも宇内先生に絵を習われた増田連さんが「杉田久女ノート」でその誤りを実に明確に指摘されている。石さんは内側から、最近は田辺聖子さんや澤地久枝さん、上野さち子さんといった方たちが、外側から久女像を描いておられる。次第に、ありのままの久女がよみがえってくるのですね。

そう。ありがたいですよ。死後、久女は小倉に受け容れられなかった。父も母も、それぞれ小倉の文化面につくしています。だのに逝くなってから、悪く扱われるばかりだったでしょう。

本田

そういう事もあったのでしょうね。
でも、いまは市が音頭をとって、久女を北九州の立派な俳人と、誇りにしています。時の流れが、久女をおおっていた濁りを洗いながしているのでしょうね。

戦前の北九州は軍国日本を支える工業の街でした。そして小倉連隊もあって、活発な男らしさの街だったでしょう。絵や、俳句にはあまり関心がなかったのです。
小倉中学の生徒や父兄も、数学や英語などの成績がよければいい。絵の点数なんて、まあどうでもよかったのでしょう。
それに、いまと違って、俳句もまだ一般の人にはなじみが薄かったでしょう。

本田

文化に遠い時代でしたね。

お人好しだった2人

杉田宇内・久女夫妻
と長女昌子
(大正5年頃)

母は父の絵にひかれて、結婚し、父が画家として芸術を追求することを望んでいたと思います。
でも三河の山奥で、庄屋育ちの父は満足していたのかどうかしらないが、現実への対応が2人共機敏とは思えない。中学教師に安住してもいなかった。俳句と画、最初から小倉に居住したというそのへんが、もつれのキーと感じます。

本田

久女の代表作の1つである有名な句の情景が浮かんできますね。

足袋(たび)つぐやノラともならず
教師妻

大正10年の「ホトトギス」掲載句ですね。当時、イプセンの「人形の家」が評判で、外の世界にとび出すノラが進んだ女のアイドルだったのですね…。
でも、この句が評判になって、宇内(うない)先生はあまり愉快じゃなかったでしょうが、私にはお名前通り気持ちのひろい御主人にみえますね。

父はおっとりで世間智には遠い人。母は祖父の任地について、琉球から台湾まで歩いていて世間がひろい。その2人が夫婦だからややこしくなったのでしょ(笑)。

本田

宇内先生は、小倉にこられてからあまり画をかかれなかったので…。澤地久枝さんの本では、芸大にある卒業制作の自画像が出色のものと紹介されていますが…。

人物などはときどき描いていましたよ。学校の講堂に歴代校長の肖像画がかかっていたので、父が描いたのもあった筈です。
前の谷市長さんが調べてくださったが、戦時中、軍が講堂を使用していて、そのときはずされて紛失したらしいの。なにしろ戦災にもあいましたからね。

本田

二科展や独立展など、画壇の流れに参加したり、ヨーロッパに行ったりはされなかったのですね。

中学の画の教師で生徒の奨学に専念していたのですよ。娘時代に、私もそこが不満で、父にちょっと反発した気分がありましたね。

本田

いまの時代なら美術の御主人と、俳句の奥さんで、誰もが羨む御夫婦ですのにね。

2人とも結婚するまで裕福な坊ちゃん嬢ちゃんで。母も世間智があるようだけど、実社会からちょっと浮いていて、娘の私から見ても、2人ともお人好しだったの(笑)。

本田

宇内先生は家が貧乏な生徒には、身銭を切って援助しておられたそうですね。

突然に虚子から破門

谺して山ほととぎすほしいまゝ

本田

で、久女にもどって、ひたすらに敬慕していた※高浜虚子に突然破門されるでしょう。俳誌(ホトトギス)昭和11年11月号で、この虚子との軋轢(あつれき)が、久女の一生をいっそう悲劇化しているんですね。

高浜虚子(たかはまきょし)(明治7-昭和341874-1959)
俳人・小説家。本名、清。愛媛県松山生れ。二高中退。正岡子規に師事。「ホトトギス」を主宰して花鳥諷詠の客観写生を説いた。「五百句」「虚子俳話」など。「俳諧師」「風流懴法」など写生文の小説でも知名。文化勲章。
(新村出編 広辞苑(岩波書店))

久女は虚子先生に全く心酔していました。手紙もずいぶん出しています。だから、久女は虚子に恋していたのだろう、それを虚子がうっとおしくなって…と、いう人があります。
虚子は当代一の人物ですよ。そんな事はとても考えられませんよ。
ただ虚子先生は、一面怜悧な面もお持ちだった。夏目漱石との間にもこんな話がありますね。
久女が可愛がっていただいた久保より江さん。九州大学の久保猪之吉教授の奥さんで、夫婦ともに歌人として知られていました。

本田

先生の自宅には文学青年が集まってきて、さながら福岡の文学サロンのようだったそうですね。

より江さんは松山のお生まれで、父上が裕福な炭鉱技師で出張ばかりなので、おじいさんの所にあずけられていました。
そのおじいさんの家の離れに漱石と正岡子規が下宿していて、そこへ虚子先生がよくたずね、お知り合いだったのです。
それぞれに名をなしてから、虚子は子規をたてていたそうですが、漱石は嫌っておられたと言います。ホトトギスの人たちが、虚子の前で漱石の話をすると機嫌が悪かったそうです。

本田

えらい人どうしも難しいですね(笑)。

漱石が「我輩は猫である」で有名になるでしょう。もともとこの小説は松山の関係から虚子が自分の句誌、ホトトギスに載せたものです。「ホトトギス」を足場にして、自分よりも世に出たというのが気にいらなかったのでしょうか。
私は小説と俳句のスケールの重みのちがいがあるというふうに思っておりますが、そこらへん微妙だったのでしょうね。

本田

虚子の怜悧さの一面なんですね。一家をなした弟子たちも、虚子門を離れていますね。水原秋桜子山口誓子日野草城など。
高弟が、次々と離れていっても、虚子のホトトギス山脈はゆらぎもしない。やはりたいしたものですね。
石さんが虚子に最初に会われたのは…。

いちばん最初は6~7歳のとき。母につれられて、長谷川かな女さんか飯島みさ子さんのお宅へうかがったときでした。偉い先生だからおとなしくしていなさいと言われて、お庭でとびはねたいのをじっと我慢していました。

本田

虚子が久女の墓碑銘も書いていますね。

おたのみに参りますと、こころよく引き受けていただきました。グリッとした眼で私を見なさったことを、よくおぼえています。いただいた「久女の墓」は先生らしい暢達ないい御筆でした。

本田

虚子も、仏となられた久女への哀惜の思いがいっぱいだったのでしょう。虚子の気持ちの中に後悔があったのかもしれませんね。

清張さんの「菊枕」のときも、「先生こんなに曲げられてしまって」と申しますと、虚子先生が「いえ、そんな事はありません。万々歳、大勝利です」と言われた。よくわからなかったけど、なに、こんなに曲げられているのに大勝利?(笑)。おかしいと思っても、大虚子にそんな事言えませんでした(笑)。

本田

虚子が洋行したとき、久女が門司に寄港した箱根丸を訪ねて会えず、艀(はしけ)でハンケチを振りながら見送ったそうですね。遠目にですが、あれが虚子にあった最後ですか。

その情景はそうではないらしくもあり…。あれは昭和11年でしたが、私にはちょっとわかりません。
そのちょっと前に、母が、「この頃、ホトトギスは私を疎遠にしている」と言った事があります。何故かがわからないいらだち、さびしそうでしたね。

本田

自分の城をおびやかす人たちを、虚子は高弟でも切っている。そのように見えますね。久女も、そう思われたのでは。

虚子先生はお嬢さんの立子さんをとても可愛がられ、また才能もかっておられました。立子さんが女流句誌「玉藻」を発刊される。これに久女は丁重な御祝いの文をよせ、寄付もしています。このことは玉藻の消息欄に載っていますが、吉屋信子さんは、久女が贈呈された玉藻を封も切らずに送りかえしたと事実無根のことを述べています。

本田

久女は自分の句誌も出してるでしょう。

立子さんに2年おくれで「花衣」を出していますが、5号で廃刊しています。まあ、そうした久女の存在と立子さんの世界、そこらが微妙な背景になっているかもしれませんね。

俳句、書、文、絵、四拍子そろって

本田

立子さんと久女は。

立子さんと久女は気安く話しあっていたようです。立子さんが「父が言っていたわよ。『俳句だけじゃ駄目だ。書と文章、三拍子そろってないと俳人とは言えない』って」。そんなことを母に語ったときかされたりしました。

本田

久女は文章も、そして書がたいへん立派ですね。

それに絵まで、4つそろっていましたね。だから俳句のことで久女を悪くいう人はいないんです(笑)。

本田

久女と俳句の話をなさった事は。

母の俳句についてなど、あまり口出しした事がありません。母は愉しそうでしたが、私はあんな難しいものには近づけない…と(笑)。

本田

久女をたいへんな人と思っておられたので…。

それが…。そうえらいとも思ってませんでした(笑)。母の趣味だと思ってましたから…。母の句に

傘にすけて擦(す)りゆく雨の
若葉かな

があります。うちの近所にポプラがあって、雨の日にその緑が傘にすけて見え、よくこんなところまで気がついて句にできるなと思いました。
でも母の句がたいしたものだなんて思いませんでした。絵をかいていたからか、父の影響か、色彩感覚はひかってました。

本田

久女が石さんに俳句手ほどきをされたことは。

ぜんぜんないと言ってもいいくらいで、ありのままを詠えといったと思いますが、。お前みたいな…と言ってよく母に笑われました。私の内に詩を感じなかったのでしょう。こちらも、あんな面倒なもの…と思っていたのですから(笑)。

本田

俳人久女を感じられたのはいつ頃からで。

母が逝くなってからです。悲しいけど、うちは父も母も、芸術問題が真先でいわゆる世俗の常識的に暮らしていなかった。
世間知らずというか、作品や芸術に自分たちの芯があって、こういったら得するとか損するとかいう世俗的なことにはあまり関心がなかった。

本田

じゃ、御家族4人で、何かをもとに話しあわれたことは。

一家団欒の話なんか、あまりありません。娘が2人いて、考えてみると不思議だけど…。

本田

句を考えながらの御台所で、久女の料理はいかがでした。

琉球や台湾の料理もあり、家庭料理はなかなかのものでしたよ。

本田

お酒のほうは。

父は好きなほう。母は酒飲みが嫌いでした(笑)。

本田

宇内先生は教育熱心だったのですね。

熱心でしたよ。生徒にとても絵の素質のある人がいて父もすすめたのでしょう。芸大へいって在学中に帝展に通り、卒業してフランスへ。ボナールに認められ弟子になったけど夭逝しました。
両親の嘆きを見て、もう口がくさっても生徒に、画家になれとはすすめないと。

本田

まじめな、生徒思いの先生だったのですね。

その父が、生徒からバネというニックネームをつけられました。本人は何とも思わないようだったけど、私は嫌でした。

本田

昔の中学の先生には、みんなついていましたよ。親愛をこめてでもあったのでしょうが。

私がお使いにいったとき生徒等にかこまれ、バネ、バネとからかわれて帰ったことがある。まあ、どこにでもいる悪ガキだけど、そんな事もあって母が野蛮さにいや気がさして…。

本田

まじめすぎる家庭の悲劇なんかな(笑)。では、家の中の空気は…。

おもたかったですね(笑)。
だから父母がやかましくて、小説を読んでると叱られたり。ちょっとでも帰宅がおそくなるとたいへんでした。
母が女の子は信仰が大切といって幼いときから、京町の湖月堂のところにあったバプテスト教会へやらされました。西南女学院の先生がうちによこしなさいとおっしゃったが、それでは父の監視網の中でしょう(笑)。
それで京都の同志社の英文科へはいりましたが、2年でやめてタイプを習って、中村汀女さんの御主人が横浜税関におられたので、そこへやとってもらいました。たしか昭和7年でした。

本田

その頃汀女さんは、俳句をつくっておられましたか。

まだつくっておられなかったですね。私は小倉にいれば小倉へ縁づけられる。だから遠くへ行きたかったのです。

本田

わるいお嬢さんで(笑)。

まあね。でも、まじめでしたよ(笑)。

本田

そして東京で御結婚ですね。

昭和12年で、母は虚子先生から破門されて機嫌の悪いときでした。怒りださないかとヒヤヒヤでしたが、祝いの句をつくってくれ、結婚の用意も十分にしてくれましたよ。
仲人をしていただいたのは、石の従兄で、勲一等の島村他三郎という立派な裁判官でした。久女が苦境にたっていたときで、この事は、久女が精神分裂なんかじゃない1つのあかしになるでしょうね。
そういえば妹の光子も小説家の深田久弥さんのお世話で、仲人は早大名誉教授の五来欣造という方でした。あの頃、どうして虚子先生が久女をああ悪く言われたのでしょう。どうしても理解できません。

やはり牡丹

久女の句

本田

久女の句でお好きなのは。

円通寺の句碑の句の

無憂華(むゆうげ)の木蔭はいづこ
仏生会

や、宇佐の句の

丹(に)の欄にさへづる鳥も
惜春譜

が好きですね。

本田

句碑と言えばいくつぐらい。

円通寺に2つ、堺町公園に1つ、英彦山に2つ、あと松本と三河ですね。英彦山高住神社の句は久女の筆跡がいくらさがしてもないので、私が書きました。

本田

久女も、さぞ御満足で。

いや、ですぎた事をと怒っているでしょうね(笑)。だいたい句碑の寿命は苔が生えたり、字が欠げたりで70年だそうです。
虚子先生は多いでしょうが、1人で2百ぐらいの人もいるそうです。とにかく、私、もう句碑はこりごり…(笑)。

本田

俳壇に大きな歩みをのこされた久女の句集は、石さんが出されたのだそうですね。

虚子先生に破門されてから、逝くなるまでの10年間は、久女と一家には悲愁の年月でした。
母は「逝くなっても、句集だけは出してね」と私に言っていました。それで、没後6年の昭和27年に、苦労しましたが角川書店から句集が出せたときはもうほっとしましたね。

本田

縁は続いていて虚子の句でかざられたとか。

ええ、題簽(だいせん)の「久女句集」の筆をとっていただき、序文と、そして、

思ひ出し悼む心や
露滋し
虚子

の句をよせていただきました。

本田

虚子は、久女の句をよき日々のころ「清艶高華」と評したそうですが、墓碑といい、句集といい、久女の俳句生涯が立派に完結されたものであることをしめすものですね。

ありがとうございます。

本田

久女の花衣の句に女性の優艶さを感じます。美人だったのでしょう。

そうも思いませんが、気持ちにいやしい所がまったくなかったですね。

本田

ながい間誤解されていた久女の復活のときがきてるのだなと思います。
御長女として、いま、久女の句をどのようにお感じですか。

俳句の底にある芸術性と文学性を感じています。久女の人間性の美しさが、滲んでいるように感じます。

本田

ではまとめとして、久女を花にたとえると。

そうね。やはり牡丹(ぼたん)でしょうね。