No.04 風雪265年 小倉城物語

対談:平成4年10月

司会・構成:土居 善胤


お話:
郷土史家 九州国際大学教授 米津三郎氏
北九州市立歴史博物館主査 永尾正剛氏
聞き手:
福岡シティ銀行常務取締役 別府正之

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


戦国動乱の小倉

小倉城略年譜

細川忠興画像

別府

小倉城は、勝山城、指月城(しげつじょう)、勝野城、湧金城(ゆうきんじょう)、鯉の城などいろいろの優雅な呼び名があるようですね。

永尾

ただ、いまの城のところかどうかはよくわかっていないんです。

米津

古い記録はいろいろありますが、小倉城として、私たちのイメージにうかぶのは毛利元就(もうりもとなり) が築かせた平城(ひらじょう)ですね。だいたい今の城と八坂神社のあたり。大友宗麟(おおともそうりん) と元就が北部九州の争奪戦をやっていた時代です。中国5カ国(周防(すおう)・長門(ながと)・安芸(あき)・備後(びんご)・石見(いわみ))を平定した元就は謀略にもたけていて、宗麟の重臣高橋鑑種(たかはしあきたね) を口説いて寝返らせ、岩屋城と宝満城(太宰府)で宗麟に反旗をあげさせ、毛利の大軍が九州に上陸します。このとき毛利がいまの小倉城のところに、平城をつくったのです。そうして九州北部に毛利の旗色が強くなっていくのです。

別府

宗麟は……。

米津

宗麟も負けていません。かねてかくまっていた毛利の旧主筋になる大内義隆の叔父の大内輝弘を周防に上陸させ、毛利の後方を撹乱させます。
毛利は国もとが大変で九州どころではないので中国へ引きあげます。高橋鑑種(あきたね)も岩屋・宝満を退去し、毛利の持城の小倉城にはいります。また大友の勢力が拡大しますが、それも束の間で、今度は、天正6年(1578)、に北上してきた島津に宗麟は日向耳川で大敗、以後じわじわと攻められる。

別府

ねをあげた宗麟が豊臣秀吉にSOSをたのむのですね。

米津

秀吉は天下の勢力です。軍勢20万を率いての九州出兵天正15年(1587)に島津は降伏し、領地は本拠の薩摩、大隅、日向の三州に削減され、秀吉の九州支配が確立します。
そのとき、小倉城は秀吉の子飼いの森吉成にあたえられます。
吉成は地元勢の高橋・宇都宮等の第一軍をひきいて、軍使や治安に活躍し、※企救(きく)、田川の2郡、6万石の城主となります。

※企救-現在の小倉南北区、門司区一帯の旧名称

小倉城主であった高橋鑑種の子、元種は日向延岡で5万3千石を与えられています。
新たに小倉城主になった森吉成は、毛利勝信と改名しています。

別府

なぜ毛利姓に。

米津

対岸の毛利は西海の大勢力ですから、気をつかったのでしょうか。天正15年に秀吉の口ぞえで改姓しています。

別府

その毛利も短命で。

米津

勝信は秀吉の信任があつく、朝鮮の陣では八道司令官の一人として奮戦し、蔚山(うるさん)籠城の加藤清正救援に活躍したりしています。
秀吉没後、徳川家康石田三成との関ヶ原の戦いになります。
このとき石田支援に出陣しようとしていた勝信は、中津の黒田如水(くろだじょすい) に不意をつかれて攻められて退散。戦後改易され、子の勝永とともに土佐の山内一豊(やまのうちかずとよ) に預けられ、11年後の慶長16年に病没しています。

別府

小倉領主としての勝信に見るべきものがありますか。

永尾

資料がのこっていないのでよくわかっていません。菩堤寺の本就寺(ほんじゅうじ)を建てたこと。富田屋や菊屋ほかの大商人がいて城下町らしいかまえがあったと思われること。キリシタンを保護し、秀吉に追放された高山右近の家来たちがいたことなどなどがわかっているぐらいです。
武人というより経世家だったようで、戦乱の時代には向かなかったのではないでしょうか。

別府

その息子の勝永が、土佐を抜けだして、大坂の陣で勇将として活躍してますね。

永尾

真田幸村後藤又兵衛とともに勇名をとどろかせました。勝永は徳川方で後に小倉城主になる小笠原軍を討ち破り、藩主小笠原秀政、と長男の忠脩(ただなが) 親子を討ち死にさせています。最後は豊臣秀頼の介錯をして自刃しています。

別府

なにか小倉にからむ因縁を感じますね。

”唐風”で評判

細川忠興 花押
Tada uoquiの
ローマ字印

勝信のあとに小倉城主として入部するのが細川忠興(ほそかわただおき)[(永禄6年(1563)~正保2年(1645)]ですね。

米津

関ヶ原合戦慶長5年(1600)の論功行賞で丹後宮津11万石から、豊前と、豊後(ぶんご)の国東(くにさき)、速見(はやみ)両郡の内を合わせて、30万石の領主として忠興が入国するのです。実高が約39万9千石あったそうですから、大栄進ですね。
忠興は、はじめ、筑前52万石に栄進した黒田長政が拠(よ)っていた中津に入りました。

別府

小倉へ移ったのは……。

永尾

翌、慶長6年に検地をおこなって、家臣に地行地を配分し、弟の興元(おきもと)を小倉にいれています。
ところが、その興元が出奔してしまう。それで、忠興が小倉にはいる決意をしたようです。

米津

九州の玄関口で筑前、豊後、田川への分岐点の要衝である。細川は外様(とざま)大名ですが、徳川の恩顧をえている。海峡をはさんで毛利氏の押さえの役目を充分に意識したでしょうね。毛利は8カ国112万石から周防、長門の2国36万9千石におとされ、徳川に怨みを抱いている雄藩ですから。
また隣藩黒田藩が国境ぞいに支城を次々つくっているので、その対抗意識もあったでしょうね。明敏な忠興は紫川河口を港として、外国貿易もと考えたでしょうね。

別府

家康は、島津、加藤、毛利の備えに、忠興と長政を。なかなかの名人事ですね。

米津

九州は島津義久、加藤清正、鍋島直茂、黒田長政、細川忠興と、智勇兼備の外様の名将ぞろいで、家康の配意がうかがわれますね。後には立花宗茂も復活させている。

別府

で、いよいよ本格的な小倉城築城ですね。

米津

忠興が縄張り(設計)して、入国して2年目の慶長7年(1602)に工事にかかり、12年まで5年間かけての大工事でした。

米津

西は板櫃川(いたびつがわ)。東は寒竹川(かんたけがわ)を掘削して砂津川をつくり、東西の外濠に。南は濠を掘り、北は海をいかして、水の防御ラインをしきました。
そして城内となる外曲輪(そとぐるわ)、東西2キロメートル、南北1.3キロメートルを石垣と深い濠で囲みました。そして曲輪の中にも幾重にも濠をめぐらせています。
天守閣をみると堀から石垣の高さが18.8メートル、そして4層5階の天守閣の高さが28.7メートル。合わせると47.5メートルの高さです。
当時は平家(ひらや)だけですから、そそりたつ天守の偉容は目を見張らせたでしょうね。石垣は足立山から切り出した野面石(のづらいし)で、その風格は忠興自慢のものでした。

永尾正剛氏

永尾

忠興はこの天守にも一工夫しています。4層と5層との間に屋根ひさしがない。そして5層が4層より外に張り出している。1層から4層までが白、5層は黒ぬりで、この工夫は天守閣をさらに大きく、威容ある名城に見せたでしょうね。

別府

唐風(からふう)だと評判になったとか。

米津

唐風というと中国や朝鮮の工夫ということですね。

別府

忠興はバテレンの宣教師も保護していますから、南蛮の工夫もふくめてではないでしょうか。いまでいう超近代的という評価が、〝唐風″なんでしょうね。
同時進行の福岡城も、長政が朝鮮の役で見てきた堅城晋州城(しんしゅうじょう)を参考にしていて、加藤清正に褒められています。それぞれに唐風、近代知識をきそったのでしょうね。

永尾

ところが、※黒田は、徳川に遠慮して天守閣をこわしたと思われる資料が近年でてきましてね。ここらへんに両者の徳川との距離が見えるようですね。一所懸命に領地を守るために長政には長政の苦衷があったのですね。

別府

築城コンクールとなった。戦国を生きぬいた名将がお互いに英知をしぼったのですね。

※東京大学出版会の「大日本近世史料-細川家史料」による

濠と門 城下町に工夫

米津三郎氏

別府

で、天守に次ぐ特徴は。

米津

やはり濠ですね。東側は、足立山系から紫川に流れる寒竹川の、中途から海へ掘削していまの砂津川をつくり、外濠としました。
この外濠と紫川の間が竹藪の多い荒地をきりひらいた東曲輪(ひがしくるわ)です。紫川から西が西曲輪です。こうして外濠と、紫川、天守閣下の内濠と3段がまえです。西は板櫃川を外濠にしてその内側、三の丸、二の丸、内濠と5重に、西北の海岸側は溜池を補強する。北側は海と西曲輪に3重の濠。西曲輪の南側は外濠から三の丸、二の丸、内濠と4重の濠でかこみました。

別府

濠、濠、濠ですね。

米津

さらに万全を期して、東曲輪は砂津川の三本松付近に大きな水門を設けました。敵が攻めてきたとき、この水門をとじると寒竹川の水があふれて、動きがとれなくなるように考えていました。
この水門は西曲輪では板櫃川の流域の平松浦の地蔵橋のところにも設けられていました。

永尾

万全の備えですね。さらに三の丸に高い石垣。そして藩主と藩中枢の本丸・二の丸にもそれぞれ濠を設け、幾重にも防御しています。
そしてそれぞれに厳重な門が…。本丸南東に表正門の大手門、南西に裏門の搦手門(からめてもん)と。

米津

大手門を入ると玄関で、その前に槻門(けやきもん)があり、大手門と槻門の両扉から入れるのは英彦山(ひこさん)の座主(ざす)。家老と開善寺、宗玄寺、広寿山、成願寺の住職や求菩提法主(くぼてほっす)と桂女(かつらめ)は槻門の片扉から。家老以外の藩士は搦手門から登城していました。
門は全部で48、門の上や諸方に配置した櫓(やぐら)が148。そして矢や鉄砲のため、櫓や石垣に3271もの狭間をもうけています。
門には勢溜(せいだま)りの広場を設けて、敵がそこへ集中したところへ、狭間から鉄砲や矢をあびせるのです。

別府

門が重要な砦なのですね。

永尾

外濠の大門は10でみな桝形門(ますがたもん)です。
桝形門は外側に高麗門(こうらいもん)、内側に櫓門(やぐらもん)があり、その間に桝形の広場がある。高麗門から突入した敵兵は、櫓門でさえぎられ、桝形の広場にたまる。そこへ門と櫓の狭間から失と鉄砲をあびせるという訳です。
もっとも、これはどの城の築城様式にも見られます。まあ当時の築城の常識でした。

別府

門にはお寺をつけたのでしょう。

永尾

門司口に徳蓮寺、富野口に真淨寺、中津口に大隆寺を建立していますが、それぞれ砦の役目もはたしたのでしょう

別府

城の中心の本丸が藩主家族の住居ですね。

米津

と同時に藩の政庁が設けられています。家臣群は西曲輪の二の丸、三の丸に。東曲輪は町人と陪臣(家臣の家来)たちの居住区。後には藩士も住むようになりました。
万一の籠城にそなえて、家臣群や領民を吸収するため、外濠に囲まれた総構えは広くとり、本丸、二の丸、三の丸をせまくしていました。

永尾

東曲輪がいまの小倉の中心なんですね。
新開地ですから都市計画もフリーで、北から博労町(ばくろうまち)、京町、米町(こめまち)、大坂町、鍛冶町、堺町、円応寺(えんのうじ)筋、小姓町、紺屋町(こうやまち)、古船場町(ふるせんばまち)とつらねました。南北の筋では紫川ぞいに、宝町、その東の船場町、魚町、鳥町。そして常盤橋下の川口を本土への渡航口にしています。

小倉城郭と街道への門

8万人の敵を防げる

別府 正之

別府

そうして城下町が碁盤の目に形成されたんですね。

永尾

それが曲者で、四ツ角がずれていて、見とおしがきかない。ところどころは袋小路。町民の町も城防衛の視点でつくられています。

別府

紫川に当時は橋もなかったんでしょう。

米津

紫川には河口付近に大橋(常盤橋)、外濠の接点に豊後橋の2つだけでした。武士や町民はたいへんだったでしょうね。
このように防御本位の縄張りでしたが、忠興の構想は広大で、西は愛宕山から清水山の台地、東は赤坂台地から足立山塊まで含めて小倉城を考えていたようです。

別府

城下全体が大工事でしたね。

永尾

そうです。忠興の城づくりは単に城だけでなく、城下町全体をつくりあげる壮大な都市計画でした。

別府

その壮大なマスタープランが本丸防御の一点に収歛されて、〝一所懸命"。いかに外敵の攻撃から領土を、その核の城を守るかに集中されていましたね。すべては城主のためで、領民の安寧は、平和な領国経営になっての考えですね。
それにしても領主の絶対権限には驚きますね。武士も、領民も、神官も僧侶も命のままに……ですね。

永尾

戦乱が治まって、やっと平和な生活になった。天守閣は領民の平安を守ってくれるあかしに思えたかもしれませんね。

別府

なるほど、そうでなければ、百姓、町民がお城と仰ぐ親しみが生まれませんね。
それほど万全を期して、忠興はいったいどれぐらいの敵を想定していたのですか。

村田応成画
「豊国名所」の内東魚町

永尾

戦いの規模が秀吉になって様変わりをしましたね。九州出兵が20万人ですが、これは天下をひきいての軍勢です。小倉城が天下を相手にすることはないので、忠興は城兵1万人で8万人の敵まで防げると言っています。たいへんな自信ですね。

別府

忠興の〝一所懸命″がひしひしと感じられますね。小倉城はずいぶん評判になったでしょうね。

永尾

そうらしいですね。美作(みまさか)・津山の藩主・森忠政がひそかに藩士を城下に忍(しの)ばせて探らせています。舟にのって城の見取り図を描いているところを、現行犯でとらえられる。普通なら討首ですが、津山城は幕府の普請(ふしん)だったからでしょう。この武士を引見して森殿へと板にかいた図面をわたし、その上、築城のポイントまで助言しています。
それから豊後日出(ひじ)藩主木下延俊(きのしたのぶとし) に請われ、縄張図をかいておくってもいます。

別府

なかなかやりますね。おおらかで(笑)。

忠興は"一所懸命"の名人

米津

戦国乱世を生きぬいてきた自信からでしょうが、忠興はなみの猛将ではなかったのですね。
父親の幽斎藤孝は足利将軍義輝に仕え、信長、秀吉、家康の時代を生きぬいている。『古今和歌集』の秘事を伝え、関ヶ原戦では、西軍に包囲されて居城田辺に籠城しましたが、その死を惜しむ後陽成天皇の勅命で開城しています。
子の忠興もその血を受けついで、勇将ながら能、和歌、連歌に長じ、茶の湯では利休七哲の一人とされる、たいへんな文化人でした。

別府

そう言えば夫人が有名なガラシャ夫人ですね。

米津

明智光秀の娘ですね。秀吉の光秀謀殺の後も夫人を守り通しているのですから大したものです。夫人は関ヶ原戦前夜に、三成方の兵に囲まれ大坂屋敷で果てましたが、その死後を丁重に葬った神父セスペデスを小倉へ招いて布教をゆるし優遇しています。ガラシャの命日には盛大なミサを行い、恩赦をし、教会に寄付をして、心中はキリシタンだとまで言っています。

永尾

もっとも、のちに徳川がバテレン禁制を強くうちだすと、即応もしている。家老の加賀山隼人(かがやまはやと) も処断するし、天正少年使節の中浦ジュリアンも長崎へおくり処刑でしょう。
視野が広く、文事にもあかるい。教養もある。しかし家を守る〝一所懸命″が全てに優先した。多くの家臣と家族を抱える藩主の宿命ですね。

別府

祗園祭も忠興が……。

永尾

そうです。忠興が祗園祭も導入しています。また朝鮮の陶工により上野焼(あがのやき)を興しています。
第一級の武将であり、そしてまた第一級の文化人だった。大名間で重きをなしたはずですね。

別府

どうも、いろんな事を、隣藩の黒田長政と張りあったのではありませんか。

永尾

お互いに父子二代そろっての名将同士で、ともに乱世を生きぬいている。幕府の覚えも目出たい。領国引きつぎでトラブッていて、国境もいりくんでいる。すぐ、のどくびの若松や黒崎は黒田領ですからね。張り合いの条件が見事にととのっていますね。

別府

そうして名城小倉城と整然とした領民約1万人の城下町ができるのですね。で、その頃の小倉藩の武士や領民はどれぐらいだったのでしょう。

永尾

家臣数は800余人で、家族を入れると3千人を上回るでしょう。領民の方は、豊後国の国東(くにさき)郡と速見郡の一部まで領土ですから、12万人前後と思われます。

別府

その丹精した完成品も25年後には国替で手放さなければならない。

米津

幕府の外様取りつぶし政策で肥後の加藤家が二代忠広のとき寛永9年(1632)につぶされますね。
忠興は隠居していて、家督をついでいる忠利が肥後54万石の大守になります。忠興は83歳まで長命でしたから、このときは70歳です。大栄転とはいえ25年かけてつくりあげた城と城下を離れるのは、複雑な心境だったでしょう。

永尾

もっとも、忠興の書状を見れば、細川には何度も転封のうわさがあったことがうかがわれます。転封を望まないが、幕府でやむをえないなら、毛利領地の長門・周防か黒田領地の筑前なら「極上々」、肥後は船の便が悪いから、「中吉」程度に考えていたようです。
一倍の感慨があったでしょうが、幕命とあれば仕方がない。幕命にいさぎよく従い、整然と移りました。

九州総目付の小笠原

小笠原忠真画像と花押

別府

そして、今度は小笠原ですね。

米津

家光の命で寛永9年(1632)譜代大名の小笠原忠真(おがさわらただざね) が播磨明石10万石から、15万石に加増されて、入国します。それから明治4年の廃藩置県まで240年の小笠原時代となるのです。

別府

細川30万石が15万石に大分減りましたね。

米津

いや、中津や杵築が小笠原一族にそれぞれ分割されたのですね。小笠原は徳川家との因縁が深い。国替えにあたって、家光は忠真に、九州目付の役目である、異変があれば即刻知らせろと、親しく命じています。小倉の重要さがいっそう認識された感じですね。

別府

小笠原氏のことをもうすこし。

米津

小笠原氏の祖先は源氏の正統・武家の頭梁とされている八幡太郎義家の弟の新羅(しんら)三郎義光の子孫ですから、武家としてはたいへんな家柄です。
甲斐の武田と小笠原に分かれ甲州巨摩(こま)郡の小笠原村に住み小笠原姓となります。そして信州伊那郡に移り、南北朝のころ信州の中央部に進出し、以後代々深志(長野)に住み、足利幕府の弓馬礼法の指南役でした。

別府

礼法の小笠原流は、もともと武士の礼法なのですね。

米津

そうです。もとは弓馬の法です。天文22年(1553)に小笠原長時武田信玄に攻められて浪々。子の貞慶(さだよし) が家康に仕え深志領主にかえりざき地名を松本に改名します。
次代秀政の夫人が家康の孫娘(長男信康の娘)で古河3万石、関ヶ原戦後、信州飯田で5万石、ついで松本で8万石に。信玄に追われて家康にひろわれ、2代で8万石の殿様になるんです。

別府

波乱万丈ですね。

米津

いえ、まだまだです。元和元年(1615)の大坂夏の陣で、小笠原勢は大坂方の毛利勝泳の猛攻にあって藩主秀政と長男忠脩(ただなが)が討死、次男忠真(ただざね) [慶長元年(1596)~寛文7年(1667)]が重傷という大傷手を負います。

別府

その毛利勝永が、関ヶ原戦で西軍について小倉城主を追われた勝信の子でしたね。

米津

そうです。戦後の論功行賞で一族の忠勤を賞され、忠真が家をついで播磨(はりま)国明石(あかし)で10万石。寛永9年(1669)には小倉15万石となる。実高は20万石あったそうですから、たいへんな好遇です。
そして、播磨龍野六万石の長次(忠脩の子)が中津8万石に。忠真の弟忠知(ただとも) が杵築4万石、次弟松平重直が摂津三田3万石から豊前龍王で3万7千石に。

別府

一族合わせると30万7千石で、ほぼ旧細川領が小笠原一族に委ねられたわけですね。よっぽど幕府に信用されてたんですね。

永尾

小笠原を九州の玄関口に九州総目付の役割で配しましたが、この時期に徳川の全国制覇が完成したんだといえますね。

別府

天草の乱寛永16年(1635)のときの殿様も忠真でしょう。

米津

そうです。大坂夏の陣から20年で、大坂に参陣した忠真ですから、出陣も手なれたものだったでしょう。8千人を出動させています。隣藩、黒田藩は2万人を出しています。
入国のとき家光から直々に声をかけられている忠真は、この乱でも将軍上使の心づもりで、という指示がでています。まあ、そういった事もあって、乱後、天草四郎時貞の首を小倉で獄門にしています。

再建した城も33年で炎上

別府

小笠原氏は、城のほうは。

永尾

殆ど細川の遺構のままですね。小笠原10代230年は、天草の乱の出兵を除いて平和の時代で、城下町の整備と街道(かいどう)の整備につとめています。

別府

街道整備は寛永12年(1635)参勤交代(さんきんこうたい)が始まって、緊急のプロジェクトだったでしょうね。

永尾

小倉起点の長崎街道が整備され、筑前六宿(ちくぜんむしゅく)の黒崎や木屋瀬宿(こやのせじゅく)も次第に賑いはじめました。

別府

小笠原の10代に名君は。

永尾

特筆するほどではありませんが、4代忠総(ただふさ) のとき犬甘(いぬかい)兵庫を登用して、藩の財政改革に成果をあげています。5代の忠苗(ただみつ) が京都の学者石川麟洲を召しかかえて藩校思永館(しえいかん) をおこしています。

別府

新田や産業開発、炭田、金鉱、港湾も手がけていますね。

米津

さきほど再建の話にでた6代忠固[文化元年(1804)~天保14年(1843)]のとき困った事もおきています。当時の殿様は江戸城に登城すると家格と禄高で控えの間が違っていました。小笠原は15万石で帝鑑(ていかん)の間(ま)詰めだったのですが、忠固は一格上の溜(たまり)の間(ま)詰めになりたくて大運動をやるんです。老中も溜間詰めからということもあったでしょう。

別府

大運動というと。

永尾

老中や幕閣幹部への賂(まいない)です。莫大な金がいる。そのためにまた豪商からの借入れと寄付、藩士の献金と、家臣も領民も大迷惑だったでしょう。それでも天保6年のたいへんなときに実現していますから殿様の執念はすさまじいですね。

米津

その忠固が溜の間詰めとなって喜んだ2年後の天保8年(1837)1月に、城内塩切場からの失火で天守閣と本丸が焼失しています。
このごろは各藩ともに財政が窮迫し、武士貧困、農村荒廃が問題化し、老中水野忠邦の天保の改革が行われていた頃です。前年には幕府から信濃美濃の堀川工事を命じられ3万両工面したばかり。城の再建は頭のいたい事でした。

別府

殿さまの忠固さんもついていない(笑)。

永尾

城の再建に豪商たちから1万3千両を250年年賦、秋の米担保で銀1400貫(2万3千両)を借用しています。不足分は銀礼2、120貫(3万5千両)を発行し竣工のときは万屋(よろずや) 7千両、飴屋6千両を筆頭に2万5千両の祝金を集めている。
さらに、幕末にはどうにもならなくなって、家老の島村志津摩がたまりにたまった借金を集めて250年払いにしてしまいます(笑)。

別府

すると、まだ130年のこっている。進行中ですね(笑)。
豪商には〝格式″ばらまきの強制寄付、領民は年貢増徴、労力提供で、お城再建はたいへんな負担でしたね。

米津

そうした苦心のやりくりで、2年後の天保10年に再建しています。しかし、どうしても、天守閣までは手がまわらない(笑)。

永尾

その資金も大変ですが、すでに戦いも籠城も考えられない平和の時代で、天守閣の役目もなくなっていたのでしょう。
折角再建した城も、わずか33年の寿命で、幕末の戦で小倉藩は長州の奇兵隊に敗れ、みずから火を放って、香春(かわら)へ撤去しています。

永尾

それから100年経って、戦後の昭和34年に鉄筋コンクリ一建の天守閣が再建されるんですね。

別府

そして城内に、立派な北九州市庁や、図書館ができています。藩庁は市庁、藩校は図書館……。時代が変わってお城の変遷にも感慨がありますね。

小倉戦争で"落城"

小倉城下 紫川河口常盤橋辺の風景
「西国内海名所一覧」の部分
五雲亭貞秀画

別府

泰平の時代が過ぎて幕末に小倉藩は受難を迎えますね。長州の奇兵隊に敗れ、城を焼いて撤去していますね。
地理をみると、小倉は九州の情報を全部キャッチしてもいい場所ですね。
そして海をはさんで対岸は時代の変化にピンピン対応した長州です。四国連合艦隊の下関艦砲砲撃も目撃しているでしょうに。どうして小笠原の対応はぬるかったのでしょう。

永尾

幕府の権威が絶対という意識が抜けなかったんですね。藩をこえて日本全体や世界へ目を向ける人物もいなかった。
それに反して長州の桂小五郎高杉晋作には日本を見ている目があったでしょう。攘夷から開国へ見事に転進する。昨日の敵の薩摩と同盟を結んで討幕へ、小倉藩の武士たちには想像もできない事だったでしょう。

米津

毛利は年賀会で藩主が家臣に関ヶ原を忘れるなというのが恒例の家ですから、その違いでしょう。

永尾

禁門の変で会津薩摩に敗れた長州に幕府が第1次征討をする。長州は主戦派三家老を切腹させて滅亡をさけるのですが、高杉のクーデターでまた討幕派が勢力をえる。
第2次長州征討となり、将軍家茂(いえもち) も大坂へ西下する。長州はまた存亡をかけた戦争になるのですが、薩長同盟で薩摩は参軍せず、かえって軍艦、武器の購入で支援してくれる。

別府

幕府艦の大島砲撃で戦争となるのですね。今度は長州が、芸州、石州、小倉口と三方で圧倒的に強いんですね。

永尾

軍師に大村益次郎をおき、武装も洋式調練の軽装、鉄砲も元込式と進んでいるのに、寄せ集めの幕府軍はまだ火縄銃が主で、意識は鎧甲(よろいかぶと)で戦うつもりでしょう。
長州は国がつぶれるかどうかと必死ですが、小倉の方は第1回征長の実績と、幕府の威力を信じて気楽だったようですね。家茂将軍の出馬がさらにその気分をあおったんですね。
幕末小倉藩の事情が手にとるようにわかる豪商、中原嘉左右(なかはらかぞう) の日記でも、息子や領民が今度も勝ちいくさ間違いなしと気楽に従軍している事がうかがえます。嘉左右も陣中の息子に好物をとどけたり、気楽なものです。

別府

ところが戦争は大敗に。

米津

坂本龍馬(さかもとりょうま) が汽船・乙丑(おっちゅう)丸で長州船を指揮して門司沖から小倉陣地へ砲撃し、高杉晋作の奇兵隊や報国隊の敵前上陸を支援しています。この初戦で小倉勢は総くずれになっています。

永尾

この上陸戦が手際よくいったらしく、龍馬は国もとの兄、権平に「頼まれて拠(よんどころ)なく、長州の軍艦をひきいて戦争せしに是は何事もなく面白きことにてありし…」と書います。

米津

小倉藩は門司、田野浦、旧門司、大里に4千の兵を配置しましたが、薩軍は薩長同盟で兵をおくらない。出兵の諸軍も戦意がうすい。肥後細川勢が小倉富野・延命寺方面で意地を見せたぐらい。そこへ悪いことに、将軍家茂が大坂で急死の情報が入る。出兵の各藩は浮き足たって引き揚げるのです。

別府

総指揮官の老中、小笠原長行(おがさわらながみち) も。

米津

同じ小笠原でも、この人は唐津藩の世子です。卓越した人物で世子の身で老中におされています。この人も将軍死亡の報をきいて急きょ長崎へ軍艦で行ってしまう。この人の唐津小笠原は、小倉藩祖忠真の弟忠知の子孫で、縁があったんですね。

別府

そうなると小倉城は独力で長州と戦わなければならない。

米津

悲惨な事になりました。死亡した藩主忠幹(ただよし) の喪を秘し、幼い4歳の豊千代丸(後の忠忱(ただのぶ) )を擁しての戦いですからなおさらだったでしょう。小倉藩兵だけでは城を守れない。執政小宮民部が、長州にわたすよりはと、慶応2年8月1日(1866)城と城下に火をつけて焼きはらってしまう。そうして小宮は藩主家族を肥後藩に託し、藩庁と家臣団を田川郡の添田、のちに香春に移します。

別府

そのとき、忠興の考えていた、板櫃川の水門をしめて敵を水びたしにする策は役立たなかったのですか。

米津

時代が変わって、武器が変わり、その威力はもうなかったのでしょうね。

義を重んずるの挙動、特筆して可なり

別府

それにしても、8万の敵兵を支えられると豪語できた小倉城が1千人たらずの奇兵隊と支援の艦砲で敗退する。時の流れを感じますね。

米津

でも小宮民部が城を焼いたことを、幕府も良策とほめているんですよ。小倉藩は島村志津摩が指揮をとり、城南の各地と下曽根・狸山付近で戦っています。4カ月間抗戦しましたが、大勢いたし方なく翌慶応3年1月、長州と講和し、小倉は長州預かりとなります。藩庁は田川郡の香春から、京都郡(みやこぐん)の錦原(にしきばる)(今の豊津)に移ります。

別府

〝小倉落城″、悲愁を感じますね。

米津

小倉戦を指揮した山縣顆狂介(のち有朋)は、のちの「懐旧記事」の中で、「九州で忠節を幕府につくしたのは小倉藩だけである。城が焼かれ、領地は占領されたが、尚死力を尽して累世の幕恩に報い、勢尽き、計窮してここに至れること、実に義を重んずるの挙動なりというべし。他日徳川幕府のために史を修むる者あらば、これを大書特筆して可なり」といっています。

司会

さすがに山縣で、焼失した小倉城へのはなむけの言葉でもありますね。


米津三朗(よねづさぶろう)氏略歴

大正11年生まれ。九州専門学校高商科卒。
郷土史家、九州国際大学法経学部教授。
主な著書に、『中原嘉左右日記』(全12巻、翻刻、校注)、『明治の北九州』『北九州の歴史』(共著)、論文に、「幕末維新期における小倉藩」などがある。
平成6年逝去。享年72歳。

永尾正剛(ながおまさのり)氏

昭和22年生まれ。
昭和49年九州大学文学部大学院博士課程卒。
北九州市立歴史博物館主幹。
行橋市文化財調査委員・福岡教育大学非常勤講師ほか。
専攻は近世社会史で、庶民生活史・史料学を目指す。著書、『郡典私史』ほか。

※細川関係写真は財団法人永青文庫承認済