No.5 火野葦平

対談:平成5年5月

司会・構成:土居 善胤


お話:
文藝春秋編集委員 北九州参与 鶴島 正男氏
聞き手:
福岡シティ銀行 取締役 中原 二典

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


背を向けていた私

火野葦平 年譜

司会

火野葦平さんが亡くなられて、もう30年以上もたちましたね。

鶴島

葦平さんは明治40年1月25日のお生まれ。「糞尿譚」で芥川賞を受賞したのが数え年の32歳、終戦のときが39歳、亡くなられたのが昭和35年で54歳でした。※実際の誕生日は明治39年12月3日

中原

その葦平さんにすっかり魅せられていらっしゃる。

鶴島

そうなんです。火野葦平資料室のお守をしていますが、実はほとんど面識がない。むしろ批判ばかりしていました。

中原

ほほう、それは…。

鶴島

戦前の昭和18年の事ですが、小倉中学生のとき、大先輩の葦平さんが母校でフィリッピン従軍の講演をされた。兵隊服に巻脚絆(まききゃはん)、腕に報道班員の腕章という勇ましい姿でした。

中原

葦平さんは『麥と兵隊』『土と兵隊』『花と兵隊』の兵隊三部作で大評判の作家。学校の誇りだったのですね。

鶴島

そして豪放磊落(らいらく)、九州男児のイメージだったでしょう。ところがすっかりあがって額に冷や汗。その上ボソボソ声なんでガッカリしてしまった。

中原

それでどんなお話でした。

鶴島

それが話のほうは全然おぼえていない。わるいなあ(笑)。

教え子の三男の玉井史太郎さんに葦平さんは非常にシャイで照れ屋だったときいて納得しました。酒もビールしか飲まない。初対面の人には、まずはビールをと…、何杯かひっかけて、その勢いで話していたんだそうです。

中原

とても信じられませんね。しかし親しみも。人間みんな同じだなと。

鶴島

心の優しい人だったんです。人に頼まれるとノーと言えない。人の面倒ばかりみて、晩年は特に拒絶反応ゼロで、俗に扶養家族が50人と言われた。たいへんだったでしょうね。

中原

しかし驚きましたね。

鶴島

葦平さんが弟さんの奥さんに出した手紙に「僕は楽しいと思う日を1日として持ったことはない。悲しいときに笑っていようと思っているし、また、僕の表面は偽装されていて、僕が地獄の住人である事は容易にわからない。…僕の毎日は破滅と死だ」と。演技だとはっきり言っています。

大切な手紙

河伯洞書斎で

中原

葦平さんの本名は玉井勝則ですね。ペンネームの由来は。

鶴島

はじめは恋人や友人や弟さんの名を借用していたのです。『花と兵隊』の登場人物まで文学仲間ですものね。

「火野」は、奥さんの旧姓の日野から。葦平はヨシノさんからです。その頃、学生の間で愛妻や恋人を○○ベーと呼ぶのが流行っていたのでヨシベー。水辺の葭(よし)も葦(あし)も同じようなものだから葦平になったんですね。

中原

で、葦平さんとのつながりは。

鶴島

小さな不思議なふれあいなんですね。昭和28年にRKBから葦平さんの河童譚(はなし)「石と釘」を、子供向きに脚色してくれと頼まれたんです。

中学時代の日記から
写真は芥川龍之介

中原

葦平さんといえば河童ですね。

鶴島

のちに「河童曼陀羅」(かっぱまんだら)にまとめられていますが、生涯に河童の詩を12篇、小説を43篇書いています。
それで、当時若松高校の先生をしておられた山田輝彦先生に連れていってもらったのですが、執筆中で会えなかった。それで放送後に東京の鈍魚庵(どんぎょあん)へ葉書で礼状を出したのです。
「前略、先日御約束しましたプリントができましたので、別便で御送付申しあげます。まずい脚色で恐縮ですがおゆるし下さい」。世間知らずの失礼さで、いま考えると赤面ですね。

中原

なるほど。

鶴島

ところが葦平さんから丁重きわまる礼状がとどいた。これなんです。「拝啓、お手紙ならびに放送台本到着、拝見いたしました。たいへん面白く脚色されてゐまして、きっと子供たちがよろこんだ事と存じます。上京中にて、聞く事が出来ずに残念でした。どうぞ、いつでも、私のもの脚色して下さい。若松では山田先生とお出で下さったのに、失礼いたしました。御礼まで」と。

中原

「前略」に、「拝啓」…で。参りましたね。

鶴島

ガツンと頭を叩かれた感じでしたね。後年、私が整理していると、その一篇がでてきました。その中からひらひらと葉書がおちて、それがなんと、私が差しあげた生涯に1回の葉書だったのです。それから気がついてみると、宛名が鶴村正男様となっている。葦平さんの小説の登場人物に、*鶴某という名がよく出てくる、それで間違えられたのですね。

中原

アシヘイさんとツルムラさん、相性のいいひびきですね(笑)。

鶴島

その後、若松への汽車の中で一度お会いしましたが、挨拶するとウンウンという返事だけで…。

中原

とりつくシマがない(笑)。

鶴島

それから昭和45年に若松商業高校に転勤になり、図書館を任されたんです。館報を年2回出しているが、生徒たちは紙飛行機にしたりして誰も読まない(笑)。なんとかして家に持って帰らせたいと思いましてね。

ちょうどその頃、福岡の劇団「道化」から、金沢の百姓一揆を脚本にと頼まれて金沢へ参りました。

街を歩いていると、泉鏡花室生犀星徳田秋声五木寛之井上靖、歌人の折口信夫、哲学の西田幾多郎と、街中が文学の舞台なんですね。帰ってみると、若松も捨てたもんじゃない、葦平文学マップだと思いついた。

中原

金沢はいい旅になりましたね。

鶴島

そこで商高の生徒にイラストつきの火野葦平文学散歩地図をつくらせたのです。2人の生徒が熱心につくって新聞にも紹介され、大評判に…。

後に、市の予算がつき、葦平文学散歩の道標が25ヵ所できました。実際は街中が火野文学の舞台なんですが。まあ予算の関係ですね(笑)。

昭和48年にたまり場の喫茶店で夕刊を読んでいると、『北九州市予算きまる』の見出し。サブタイトルに『火野葦平書斎移転費25万円、小倉城に移転決まる』とあります。

葦平さんの河伯洞(かはくどう)がアパートになるという話もながれていましたからさすがにしんみりして、史太郎さんに電話したんです。「アパートの話はないが、市の人が小倉城へ移す資料をダンボールにつめている。一度見に来られませんか」と。それで48年の4月に初めて河伯洞の中に入ったのです。

胎内回帰願望

鶴島

この家は『麥と兵隊』の印税で、父親の玉井金五郎さんが葦平さんのために建てた家で、平屋建57.27坪。建築費が11,454円。昭和15年4月に完成しています。郵便葉書が2銭の頃ですから、豪邸ですよ。

葦平さんは戦友が命を投げ出して戦っているときに、そんな金で家などつくらないでくれ、と戦場から手紙を出しています。帰還後母親のマンさんにとりなされ、あとで自分好みの2階家をつぎ足しています。

まっ黒にぬられた階段をあがった8畳が書斎ですが、外光が遮閉されている感じで、すみずみに薄闇がただよっている。柱もベンガラ塗り、壁もグレーの暗い部屋で太陽のような九州男児のイメージとは、また全然ちがっていました。すすめられた座布団は葦平さんの座布団でした。

中原

資料室にその書斎が復現されていますね。若いのに新居を暗く。なぜでしょうか。

鶴島

17歳のとき自伝風の「思春期」という小説を書いています。その中に「暗やみにいると落ちつく。本を読むときには雨戸をしめてすこしあけておく。直射日光はカーテンか、風呂敷をぶらさげてふせぐ。雨のしとしとふる日、わが世界がやってきたと思う」というようなことを書いているんです。

中原

東京の鈍魚庵のほうは。

鶴島

阿佐ヶ谷ですがこれも同様で設計者に幽霊が出るような家を建ててくれと言っているんです(笑)。

異常な暗闇願望ですが、これはどうも母マンさんの影響だと思うんです。「母はクレオパトラよりも清少納言よりもすばらしい」と言った人ですから、たいへんなマザーコンプレックスだったに違いない。暗い所が好きなのは胎内回帰願望ですよ。きっと。

司会

それは小説家の火野葦平でなく、本人の玉井勝則かもしれない。火野文学は葦平と勝則の葛藤だったのかもしれませんね。

一篇の詩にひかれて

書斎(火野葦平資料室に復元)

鶴島

その時、史太郎さんが、ダンボール箱の中から古い手帳を取り出しましてね。表紙に「杭州(2)昭和12年12月~13年4月」と記されています。
芥川賞受賞の年で、杭州湾上陸戦から南京戦、そして杭州駐留になった頃ですね。兵隊三部作の『土と兵隊』の創作メモで、貴重な資料でした。
泥と汗にまみれ、筆記具も手近にあった鉛筆、色鉛筆、つけペン、ガラスペンといろいろで、前線の緊張を感じさせるものがありました。

中原

戦陣でよく書き続けられて…。

鶴島

どんなに疲れても「遺書のつもりで書く」と書いてありました。
その従軍手帖を、パラパラとめくっているうちに一つの詩が目に入ったんです。よく運命的に1本の赤い糸で結ばれていると言いますね。この詩にめぐり会わなかったら、私は葦平さんとすれ違いの人生でしたね。
「兵隊なれば兵隊はかなしきかなや、この春のひねもすを、いくさするすべにすごしつ」。
はじめは“人殺すすべ”だったのを、あまりに露骨と思ったのか、“いくさするすべ”に書きかえているんです。

中原

人間だなとほっとしますね。

鶴島

戦争協力の第一人者とされている人がこんな反戦詩を。ふるえましたね。
そして史太郎さんや葦平さんの弟さんの玉井政雄先生と相談しているうちに、葦平資料は、やはりゆかりの若松に…となったんです。

中原

よい決定だったですね(笑)。

鶴島

それで敗戦直後に演劇や文化活動をした人たちに声をかけましてね。新しい杉田久女像を発見した増田連(ムラジ)さんや、山福康政伊藤頼行渡辺隆蔵野依勇武(のよりいさたけ)さんたちで、みんな賛成してくれました。こうして「火野葦平資料館を若松につくる会」が発足したのです。

それから、葦平文学散歩地図を記事にしてくれた毎日の宍戸邦夫さんを思い出し、全紙でキャンペーンをと、まことにあつかましいお願いをして全紙にとりあげてもらいました。

鶴島

4月18日の搬出予定で16日の記事となった。ぎりぎりでしたが、予算まできまっていて考えなおしたのですから、行政もなかなかですね。

中原

それから13年かかって、昭和60年に火野葦平資料室が設立されたのですね。お骨折りでしたね。

鶴島

それからボランティアの方々のご支援で整理をつづけていますが、質量ともに膨大な資料で、私が生きている間に整理できるかどうか…(笑)。
坂口安吾夫人の「バー・クラクラ」や、草野心平さんの酒場「火の車」の開店案内状まであって、文壇の貴重な資料がいっぱいです。

中原

展示をみても同時代の作家の手紙がたくさんありますね。

文学の目覚めは初恋

中原

中学時代から文才が光って…。

鶴島

残っている手作りの私家本を見てもそれは十分うなずけます。ただ文学開眼というと、年譜では従兄が持っていた夏目漱石を読んでとありますが、どうもマユツバだなあ(笑)。
本人の書いた年譜をウノミにするのは危険だ、というのが通例で、私の見る所では初恋によってですね。
学校の体操がどうこうとか、平凡だった日記が、その頃から自分をみつめるものに変っている。米つぶ大の文字で、よくこんなに丹念に書けたなと感心してしまう。初恋が葦平さんの文学開眼だったのだと私は思います。

中原

相手の女性は。

鶴島

家の前の若松高女のお嬢さんです。志道静子(しどうしずこ)さん。2歳年上ですね。
ある日、マンさんが「勝則、映画見に行こう」と言った。10人兄弟なのになぜ長男だけと、いぶかりながらついていくと案の上、牡蠣船(かきぶね)に連れて行かれて「お前、向かいの静子さんに迷惑かけているそうやな」。「いや、そんな事はありません」。「そんなら言うが、静子さんがお前を傷つけまいと思って、『これからは姉弟の間になりましょう』と言ったのに、お前は『うちは兄弟は多いからそんなものはいらん』と言ったそうじゃないか」(笑)。
これでショックを受けて女性不信になる。さらに、そうした自分がいやになって自己不信に陥る。自殺しようとするが果たせない。
それから動物を飼いはじめる。猫や犬や亀、金魚、鶏、兎、そして蟻まで。空気銃で撃たれた雀を庭に埋め戒名までつくってやるんです。

中原

その延長が晩年のライオン「金剛彦太郎」になるのですね。男気が看板の金五郎さんは、そうした長男では不安で仕方がなかったでしょう。

鶴島

ええ。息子が「自分はヌラクラ者だ。玉井組のあとをつげる者ではない」と、17歳の時に書いた『思春期』に、述べているのですからね。屈折した心情がうかがえますよ。
玉井勝則は、そのときはじめて人生の深渕をのぞいたのですね。
※志道静子さんは昭和初年に病没。

金五郎とマン

金五郎・マン・
幼児は葦平

中原

葦平さんといえば河童ですが、お父さんの金五郎さんの影響だとか。

鶴島

金五郎さんが、子供たちに、いつも妖怪変化(ようかいへんげ)の話をしてくれたそうです。河童の手がのびて2里先のものを掴まえたとか、それが毎回新しくて。即席のつくり噺だったんですね。
畳何枚もの武者絵を画いて大きな凧をつくったりも。

中原

芸術肌でもあったんですね。『花と竜』の金五郎親分だけに面白いですね。で、玉井組のことを…。

鶴島

金五郎さんは松山市の郊外の温泉郡潮見村、マンさんは広島県比婆郡峯田村の出身で、門司で結婚し、若松で港湾荷役の玉井組を旗あげしたのです。

金五郎さんは沖仲仕の大将で、肩から腕にかけて竜の刺青(いれずみ)、左手首には桃の刺青と勇ましいものでした。市会議員になってからは夏でも長袖シャツでそれをかくしていたそうです。

政雄先生の書かれたものによると、タンスに日本刀がごろごろ、袖出には6連発のピストルがあったそうで、権益争いがいつ爆発するかもしれない。一面仁侠の世界だったのですね。

中原

葦平さんには、仁侠看板の生き方への反抗もあったのでは。

鶴島

それはフロイト心理学で文学を考えた高橋義孝先生にでもきかなけりゃわからないなあ(笑)。
兵営でレーニンを読んで除隊させられたのに、天皇観は別で、マンさんべったりなんですね。子供の頃東の方に足を向けて寝ていると、横で裁縫しているマンさんから物差しでピシャッと叩かれる。天子様へ足を向けて…です。

中原

幕末の勤皇の志士の母みたいですね(笑)。マンさんは荒らくれ男の仲仕たちの玉井組をかげで支えて。大きな人だったんでしょうね。

鶴島

優しい面も一倍で、戦地の葦平さんへ代筆でなく、自分で手紙を出したいと、孫に字を習っています。
昭和49年に丸柏デパート(現、若松井筒屋)で遺作展をしたとき、1ヵ所が人の山で流れがとまっている。そこにマンさんの手紙があって、泣いている人も多かったですね。
「おカあさんわなんにもカケないのです。たしやで はたラいてください。たべものにきをつけて びよきを セヌように い(の)ってをります ではまた
さよウなら カつのり カさんよりおこずカイにしなさい」
※( )内は編集で註記

中原

なにやら、野口英世博士のお母さんの手紙を思い出しますね。

鶴島

戦争中、焼夷弾が家に落ちたときは、女中さんと一緒にぬれむしろで消しとめている。気丈な人ですよ。葦平3回忌の昭和37年1月24日、追善供養のお経を聞きながら、亡くなっています。享年78歳でした。
人間には欲望と現実の2つの原理があるでしょう。
葦平さんの欲望原理はお父さんの金五郎さんから。しかし世の中を生きるためには守らねばならないコードがある。この現実原理はお母さんのマンさんから受けているんだと思う。

中原

葦平夫人良子さんは。

鶴島

葦平さんが若松の芸者だった徳弥さん(良子)と恋仲になり駆け落ちして。結婚のときは長男の闘志さんがおなかにいて、7ヵ月の身重だったそうです。
葦平さんの「節分の せめては妻のふりせんと 丸髷結へる女悲しも」の歌に、彼女にそそいだ愛情を感じますね。25歳と20歳のカップルでした。

玉井組の若大将

戦地葦平への母マンの手紙

中原

葦平さんは玉井家10人兄弟の長男で、期待も大きかったでしょうね。

鶴島

葦平さんが早稲田大学に入ると、金五郎さんは大喜びで毎月80円と学資もふんだんに送っています。
ところが葦平さんは、学校には年に1週間ぐらいしかいかないで、あとは文学書ばかり買って読みふけっている。
後年の事ですが秘書の仲田美佐登さんが、「先生の語彙(ごい)の豊富さには眼をみはりました」と言っていますが、この頃の乱読で養われたのでしょうね。

中原

恵まれた学生時代ですね。

鶴島

本ばかり買って、大学前の稲門書店の女主人が大学はじまって以来の学生さんだと言ったそうです。
金が足りなくなると質屋さんです。上客だから専用通帳まであった。90何円かたまって困っていたとき金五郎さんが市議団の北海道視察の途次に寄って笑って100円をおいていった。質屋の主人に、いい親父さんを持って幸せですね、と言われたそうです(笑)。

中原

途中で兵役ですね。

鶴島

昭和3年、23歳のとき、幹部候補生を志願して福岡歩兵24連隊に入営します。当時、学生の志願兵は兵役が1年で軍曹になり、少尉になる道がひらかれていたのです。
ところが営内で、ひそかにレーニンの『第三インターナショナルの歴史的地位』とか『階級闘争論』をかくし読みしていたのが見つけられて、伍長に降格されて除隊です。それで学校に顔を出すと籍がなくなっている。金五郎さんが除籍しているのです。

中原

伍長降格にハラを立てて…。

鶴島

いや。どうも息子を東京においておくと、ろくな事はないと、勝手に手続きしたのですね。
それで昭和4年に玉井組の半纏(はんてん)を着て沖仲仕の若大将(おやじ)になるんです。

中原

軍隊にいっているしニラミもきいたでしょう。

鶴島

面白いのはこのとき、金五郎さんが組合長をしている「若松港汽船小頭(こがしら)組合」発行の『若松湾小史』を編纂していることです。
洞海湾の記録で、友人でロシヤ文学者の中山省三郎(なかやましょうざぶろう)さんが簡勁な名文で小説以上と絶賛しています。

中原

マルクスエンゲルスの方は。

鶴島

古本屋を招んで、2、3000冊あった文学書を一掃して、マルクス、エンゲルス、ブハーリンなどの本や労働関係の本を手あたり次第に読みふけったのだそうです。
それだけでなく、上京して友人たちに文学廃業宣言をしている。滞在中、金がなくなって、妹の秀子さんから内緒の金をおくってもらっている。その礼状に「たらちねの父にはませどわがみちをはばみしひとをにくしとぞ思う」とつけ加えている。

中原

父子関係は難しいですね。

鶴島

ところが玉井組の若大将として腕をふるう事がおきるのです。

その頃の石炭の船積みは沖仲仕や陸仲仕にたよっていて、仲仕は約2,300人いたんです。ところが三菱が積込みを大型機械に変えることになって仲仕たちは生活できなくなる。それで洞海湾はじまって以来の大きな仲仕のゼネストとなり、葦平さんは労働組合の書記長として采配をふるうんです。

脱落防止のため仲仕たちを寺に缶詰。残された女房たちが父ちゃんオカズ代と泣いてくるので、お金をわたしたりしていたそうです。このストは仲仕側の勝ちになるんですね。

このとき、左翼劇場の滝沢修佐々木孝丸嵯峨善兵山本安英(やまもとやすえ)埴谷雄高(はにやゆたか)夫人、松本克平といった人たちがスト支援にかけつけていますね。

中原

すっかり若大将が板について。

鶴島

長男の重味ですね。玉井家は正月3日は子供達を床の間に座らせて子供正月をきちんとする家風でした。床の間の中心は長男の葦平さんです。

中原

子供の時から、長男でしばられている…。

「麥と兵隊」を祝って文筆仲間の主なき出版記念会
前列、左より河原重巳 阿南哲朗 原田種夫 矢野朗
一人おいて 葦平夫人ヨシノ 劉寒吉
女性の前に星野順一
その右 岩下俊作。
後列 ★岩下喜代光 ★原田磯夫の各氏。

鶴島

そうです。だから弟の政雄先生は、兄貴が長男でなかったら、どんなに輝いただろうかと言っておられる。私小説でも何でも、もっと広範囲にのびのび書けただろうということです。

長男だから流行作家になっても若松を捨てきらない。東京へ飛行機で往復して日航作家といわれていました。当時の飛行機は大きな会社の重役でないと乗れないぐらいのものでしたから、九大の高橋義孝先生と葦平さんは、日航の極上のお客さんでしたね。

今と違って若松から汽車、折尾で乗りかえて博多へ、それから飛行機で、たいへんだったのですよ。

中原

それなのに若松を離れない。親孝行の長男だったんですね。

鶴島

戦地から金五郎さんにあてた手紙には泣かされますよ。
「芥川賞をもらったからと言って、家業をなげだす事は決していたしませんのでご安心下さい」。また別便で「妹の秀子が兄さんに文学をやらせたいから、私が養子をもらって玉井家をついでもいいと言っているが、そんな事は絶対にいたしませんので、ご安心下さい」と言っているんです。

芥川賞受賞

中原

葦平さんの芥川賞受賞は大事件でしたね。

鶴島

苦節10年でやっとだった文学賞を地方の無名青年が受賞した。全国の文学青年に与えた衝撃ははかりしれないものがあったでしょう。
召集令状がきたのに、入営の前日まで同人誌『文学の会議』に載せる『糞尿譚』のペンをとっているので、母のマンさんが遺言なら私にも書いておくれと言ったそうです。

文筆仲間の壮行会で、いま書きあげたばかりの『糞尿譚』をみせ、「日本一クサイ小説ができた。読むから聞いてくれ」とそれを読みあげた。みんなゲラゲラ大笑いだったそうです。

葦平さん周辺の詩誌『とらんしっと』を中心とした詩人たちがこれから小説を手がけ、岩下俊作の『富島松五郎伝』、劉寒吉の『人間競争』、原田種夫の『風塵』と、芥川賞、直木賞候補が続出しました。葦平さんの受賞がなければ、「無法松」も生まれてこなかったかもしれません。

葦平さんの『糞尿譚』によって掘りおこされた福岡、北九州の文学風土は、一県で芥川賞、直木賞を独占するという、戦後の村田喜代子さん、白石一郎さんまでつながっているのではないでしょうか。

中原

またその授賞式が話題になったのですね。

鶴島

『糞尿譚』は、作者が地方作家でテーマが特殊。入営直前に完成した話題性に加えて、授賞式が戦地という事で芥川賞の興行価値は100パーセント。全国津々浦々に葦平さんも芥川賞も知られる事になったのです。

中原

授賞の使者が有名な評論家の小林秀雄さんだったことも。

鶴島

八幡市役所の税務課長だった清水吉之助大尉が中隊を整列させた授賞式もまた恰好のニュースでした。
ちなみに同年の直木賞井伏鱒二さんの『ジョン萬次郎漂流記』でした。

中原

いまでは、金五郎さん、マンさんをモデルにした『花と龍』のイメージの方が強いですね。読売新聞の連載小説で、日本一の大親分といわれた吉田磯吉さんも出てきますね。

鶴島

戦前の、民政党に非ざれば人に非ずと言われた時代の民政党の大ボスですね。反対の立憲政友会側の市会議員に出たのが玉井金五郎です。
「花と龍」は両親への鎮魂歌で、どうも吉田派が少々分がわるくなっている。まあ、仕方がないですな(笑)。

麥と兵隊

戦地葦平への
母マンの手紙

中原

葦平さんといえば、何といっても『麥と兵隊』ですね。

鶴島

50年前の作品ですが、今読み返してもいきいきしている。底流が人間性溢れる文学だからでしょうね。

中原

“徐州徐州と軍馬は進む”。軍歌の『麥と兵隊』も葦平さんですか。

鶴島

あれは葦平さんは辞退して、作詞は藤田まさと、作曲は大村能章(おおむらのうしょう)です。『麥と兵隊』は戦争協力の文学だとされているが、中にはこんな状景がある。

「中国兵の捕虜が掴まっているが、若松の近所の兄ちゃんに似ていて憎む気になれない」。

また、ある聚落で中国の農民から湯茶の接待を受けたが、部落長らしいゆったりした老人がいる。「あんた方は日本軍におもねって接待しているのか」ときくと、その老人が「私たちは日本兵であろうと、中国兵であろうと、一刻も早く立ち去ってもらいたいから接待してるだけだ」と言ったんですね。

あの時代にこういう事を書いている。すごいですよ。

中原

軍絶対の時代にですね。よく検閲にパスしましたね。

鶴島

いや。もっとひどいことを書いていましてね。それはさすがに削除されています。

『麥と兵隊』の終わりのほうでゲリラ容疑の中国兵を処刑する場面。そこだけは5、6行削除されています。そのあとに「私は思わず目をそらした。私はまだ自分が悪魔でない事を知って強く安堵した」とあります。

中原

『麥と兵隊』は各国で翻訳されたそうですが、そこらへんに…。

鶴島

うったえるものがあったのでしょうね。山形高等学校(旧制)の教授だったルイス・ブッシュさんが英訳され、それをもとに十数ヵ国で翻訳されたのです。戦後社会党で代議士になった加藤シズエさんも英訳されて、アメリカでよく読まれたらしい…。
すごいのは、あの『大地』の作者パールバック女史が絶賛している事です。

愛着ある中国が日本軍に進攻されているのはゆるせないが、この『麥と兵隊』を書いた若者の人間性に対する理解の深さには圧倒された、と。『麥と兵隊』を戦争協力だときめつけるのは、皮相的な見方なんですね。

中原

つい先般、朝日新聞社から出版されたドナルド・キーンさんの『声の残り』の第一章も『麥と兵隊』でしたね。おどろきました。

鶴島

あの方は本当の日本文学の理解者ですものね。日本文学で最初に読み、感動したのは『麥と兵隊』で、1954年(昭和29年)に編集された「近代日本文学選」(Modern Japanese Literature)に是が非でも火野の作品を入れろと主張されたそうです。

「おそろしい戦禍の只中にあってさえ、火野が見いだした、感動的で、人間味溢れる事件に打たれた。おかげで私は、まだその時期までは、至るところで勝ち誇っていた日本陸軍も、単なる戦争機械でなく、献身と同時に、恐れ、疑い、ねたみなど、ごく並の人間的弱さに満ちた反応を示す人々から成り立っているという、まことに当たり前な事実に、とくに感じいった事であった」とあります。

とにかく、戦争問題は難しい。戦争協力の十字架を背負って、戦後を生きてゆかねばならなかった葦平さんには、つらい日常だったでしょうね。

中原

出版社も新聞社も、戦後はまるで手の裏をかえしたように、なんとかしてかかわりを避けようと…。

鶴島

そうなんですよ。「敗戦による当然の帰結でしょうが、戦後は批判側の発言だけが妙に際立ち、いわば被告にあたる側のそれは、影が薄かった感をまぬがれ得ない。なによりも大部分の国民は敗戦というものを韜晦(とうかい)のうちに跨いできたのではなかったか」。これは『河伯洞発掘』に載せた私の感懐ですが…。

終戦、そして追放

中原

戦争中のヒーローだった葦平さんは戦後に追放される。まあ仕方がないですね。

鶴島

その追放理由書が、葦平さんの人間性を認める結果になっているんです。

「おおむねヒューマニズムに貫かれているが、こういう作品を書いて戦争に協力した」というような内容です。どうもキメテに弱いが、占領政策からすれば追放しなければならなかったのでしょうね。

ただ志賀直哉ほか錚々(そうそう)たる人たちが解除の嘆願書を出しているんです。

「火野は軍にこびて戦争を利用した男ではない。火野のような人間は戦後の日本に必要なのだ」という文意です。

中原

勇気のあるエールですね。

鶴島

作品を読みますと、戦争の傍観者ではなく、時流の渦中で悩み行動した事がひたひたと感じられます。

画家の向井潤吉さんのお話ですが、火野がインパール作戦の前線から竹の筏でやっと*後方にかえってきたら、またすぐ前線へという。任務は終わったじゃないかと言ったら、「いや、九州の部隊がいるんだ。俺は行かなきゃならん」とまた前線へ出かけていった。あのとき死ぬつもりだったに違いないと。

人間味あふれた優れた男が、あのぎりぎりの場で国家の運命に殉じようとしている。批判するにしろ、肯定するにしろ、遺された膨大な資料を整理して、その資にあてたいですね。

永遠の時の中に

中原

葦平さんの死はながく過労による突然死と思っていましたが、真実は自殺だったと。さびしかったですね。

鶴島

親思いの息子さんたちが、祖母のマン、母の良子にそれを知らせることにたえられず、カモフラージュされたようです。

亡くなられたのは昭和35年1月24日午後5時頃で、「心筋梗塞症」という発表でした。本当は致死量の睡眠薬を飲んでから、絶筆の時間をナイフで削って書き直したりされている。

大勢の人に囲まれ、とことん人の面倒をみた。華やかな生活と思われながら、まことに孤独な最期でしたね。高名な高利貸からの借金まであって。

自殺だったと発表されたのは、葦平さんの13回忌でした。母マンも、妻良子も亡くなってその時期に至ったのですね。

中原

粛然となりますね。

鶴島

いつだったか、高塔山火野葦平文学碑の前に3万円入った「志」とだけ書いた無記名の封筒がおいてあった。「先生御世話になりました。御返ししますよ…」と、なんとなくその気持ちが伝わってくるようでしたね。

中原

その一封を、葦平さんもよろこんで受けとられたでしょうね。

鶴島

文藝春秋に載った遺稿『ヘルスメモ』では「死にます。芥川龍之介ではないが、ある漠然とした不安のために」とありましたね。

『九州人』という雑誌に3年ほど『評伝火野葦平・(らんる)襤褸の人』を載せたんです。このタイトルが非常に評判が悪い。しかし私には、時代の犠牲者として、そのイメージを拭い得なかった。

中原

それで『襤褸の人』なんですね。

鶴島

1,000枚ほど書きつづった31回目の最後の原稿のとき、やはり感傷的になっていたんでしょうね。

「火野さんの枕もとでは、芥川賞でもらった記念の時計が鎮魂曲をかなでていたにちがいない」と書いたのです。

すぐに元秘書の方から抗議の手紙で、芥川賞の時計は故障していて、鎮魂曲を奏でるはずがないと指摘されました。距離をおいたと思っていても、やはりのめりこみ、文が走っていたんです。

中原

その時計は。

鶴島

スイス製のモバード、鉄ぶちの懐中時計ですが、それが遺品展の搬送のさい、紛失しているんです。ぜひ見つけ出したいですね。

司会

火野葦平さんの現(うつつ)の時は失われて、きざんでいたのは永遠の時なんでしょうね。それにしても葦平さんは鶴島さんに、一番の理解者を得たと思っておられるでしょう。真の理解者は身近にいるか遠くにいるかわからない。

鶴島

たいへんな魅力の人ですから、私が生身の葦平さんのそばにいなかった。距離をおいていたので、冷静に見えたのかもしれない。

近くだったら魅力のとりこになってしまっていたでしょうね。これからも私の葦平発掘を続けて参りますよ。

遺された1万5,000点余の遺品の中から、近代の日本人の精神史みたいなものが浮彫りされてくる予感みたいなものを感じてならないからです。

司会

人間、葦平さんを感じるいいお話を、ありがとうございました。