No.6 松本清張

対談:平成6年3月

司会・構成:土居 善胤


お話:
文藝春秋編集委員 北九州参与 藤井 康栄氏
聞き手:
福岡シティ銀行 常務取締役 別府 正之

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


清張先生との30年

松本清張 年譜

別府

今日は松本清張さんのお話で、たのしみです。藤井さんは、文藝春秋で清張さんのお仕事を長年されたことで知られていますね。

藤井

「週刊文春」編集部へ異動になり、デスクから「君、清張さんを担当してもらうよ」と言われてからもう30年。ふりかえると、あの巨きな、気難しいところもたくさんあった先生が、よくおつきあい下さったものだと思います。

別府

藤井さんが清張文学の支えに、かけがえのない方だったからでしょう。それにしても清張文学は、最後まで噴火を続けた大山系でしたね。

藤井

本当に驚嘆にあたいするエネルギーですね。推理小説を社会派として立派なジャンルに高められました。そして文学だけでなくノンフィクションをはじめ考古学、歴史、美術、評論と、大山系を築かれた。82というお歳でしたが、なお中道に倒れられたという気がしてなりません。まだまだたくさんの仕事を予定されていましたから。

別府

ご逝去が惜しまれますね。ところで清張文学にとって、44歳までいらっしゃった北九州時代のウエイトは、どのように意義づけをなさいますか。

北九州時代が清張さんのマグマ

藤井

清張文学の根底は、北九州時代のマグマの蓄積ですね。雌伏時代といえるこの時期の先生の勉励、充電は、それはもうすごいですよ。

別府

じゃあ、そのあたりのお話から...。半生の記を読みますと、清張さんの少年時代はたいへんな貧乏物語で、苦労されたのですね。

藤井

半生の記は、先生の唯一の自叙伝です。短文はともかく、本格的に北九州時代のことを書かれたものは、ほかにはありません。
少年期は父親の仕事が不安定でしたから、いちばんどん底の時をとらえると、ずい分つらい日々があったのですね。でも私は、先生の貧乏物語には、多分にグラデーションがかけられていると思っています。決して誇張というのではなくて、あの自叙伝そのものが一つの作品なんですね。松本清張の世界(文藝春秋)の臨時増刊号に写真館で写した幼時の写真がのっていますが、これは明治44年のことですよ。
文藝春秋のOBの人たちにききましても、「その頃、写真屋さんで撮ってもらった写真なんかわが家にはないよ」と言います。そのころ写真館で記念写真を撮ってもらえるなんて、社会全体からみれば、全くのレアケースなんですね。

別府

水兵さんの服装のもありましたね。

藤井

日露戦争のあとですから、東郷元帥の人気で、水兵さんが受けていたのかもしれませんね。
どうも先生の意識の中の貧乏と、日本全体の客観的貧乏とは、かけはなれていたんだと思いますよ(笑)。

別府

じゃ、すこしフィルターをかけて読まないと・・・(笑)。

進学できなかった無念さ

書斎の松本清張氏
(平成元年・文藝春秋提供)

藤井

高等小学校どまりで、中学へ進学できなかったのは、骨身にしみる無念さだったでしょうね。

別府

頭はいい、成績もいい、向上心も人一倍の少年が中学へ行けなかった。口惜しかったですね。

藤井

しかし、環境に勝つか負けるかは、その人次第なのですね。先生のそれからの頑張りは、その無念さの上に培養されたのだと思います。

別府

社会派推理小説の土壌にどっぷりつかっておられたわけで・・・。

藤井

マクロで見ますと、先生と同学年の日本の子供は義務教育の尋常小学校6年だけの人が33.7%、高等小学校へ進む人が58.4%です。中学へ進学する人はわずかに7.9%。よほど裕福な家の子供でなくては進学しなかった。高等小学校までがもっとも普通で、それでみんな社会に出ていったのです。
「おしん」の育った農村なら、さらに進学率は低かったでしょうね。小倉は北九州工業地帯の中心都市で進学率も高かった。それだけ無念さが増幅されたのでしょう。

別府

それにしても、清張さんには中学にも大学にもいってもらいたかった(笑)。しかし平穏に中学へ進まれてたら、点と線にはお目にかかれなかったのですね。

藤井

一高も東大もスイスイで、政府の高官か大学者になられたかもしれない。しかし日本国民には大きな不幸でしたよ(笑)。
高小卒で月給取りになると、おきまりコースは給仕で、先生はモーターで知られていた川北電気という会社の小倉出張所の給仕になりました。お父さんが生活安定には給料取りと、強くすすめられたのですね。
その頃の辛さと言えば、「中学校に入った小学校時代の同級生に途中で出遇うことだった。私は詰襟服を着て、商品を自転車に載せて配達する。そんなとき、4、5人づれで教科書を入れた鞄(かばん)を持つ制服の友だちを見ると、こちらから横道に逃げたものだった」と書いておられます。

別府

その気持ち、わかりますね。

藤井

こういう強烈な自意識の少年がとびこんだのが、サラリーマン社会の底辺に位置する給仕という仕事です。社会通念では給仕が当然でも、先生の意地の根っこになったコンプレックスをあおったのですね。
だから、学歴コンプレックスは清張先生理解の第一歩だと思いますよ。その無念さが、いっそうの向学心となって大きな実を結んだのですね。「学歴の克服」こそが先生の生涯を貫いた闘志の根源だったと思います。そして「人生には卒業学校名の記入欄はない」という自信に満ちた結論に達するのです。
ただ、お父さんには生涯その事が痛みだったのでしょう。「おまえを上の学校に行かせんじゃったでのう、こらえてくれや」と晩年に言われたそうです。

新聞は1面からと、お父さん

別府

お父さんはどんな方で。

藤井

父親の峯太郎さんは鳥取県のいまの日南町のお生まれ。田中姓でしたが米子の松本家の養子になって、17、8歳で広島に出奔し、書生や看護雑役夫をされています。
そこで、広島の農家の娘で紡績の工員をしていたお母さんの岡田タニさんと知りあって結婚されるんです。
やがて、日露戦後の炭鉱景気に沸いていた北九州へこられ、対岸の下関にも住まわれます。清張先生の小学校入学は下関の菁莪(せいが)尋常小学校です。
翌年小倉に移ります。お父さんは米相場をしたり、橋の上で塩鮭(しおざけ)や鱒(ます)の立売りをしたり、それから飲食店と、転々だったようです。お父さんは学歴はありませんがたいへんな政論好き。床屋政談だったのでしょうけど、数種類の新聞をとっていてすみからすみまで読み通し、新聞は1面から読めと、先生に話していたそうです。

別府

新聞をとってない家が多かった時代でしょう。お父さんはずいぶんインテリだった(笑)。

藤井

そういえば、清張先生は新聞好きでしたが、お父さん譲りなのかもしれませんね。

別府

火野葦平さんのお父さん、金五郎さんも学問はない方でしたが、いつも寝物語りに創作噺をして葦平さんたちにきかされたとか。なんだか似通っていますね(笑)。

藤井

作家と父親、この関係には共通項があるのかもしれませんね。

別府

そういえば、林芙美子さんも北九州の門司生まれ。彼女も貧乏物語の放浪記がスタートで、似通っていますね。

藤井

当時の北九州は新しい工業地帯として魅力があり、多くの人を引き寄せたのでしょう。

別府

清張も、葦平も、芙美子も、北九州へおしよせた時代の波の落とし子なんですね。

藤井

中学へは行かせてもらえなかったが、ご家族の愛情に包まれて育たれた。長年、先生をみつめていた私には、これはもう、確信と言えます。
とくにひとりっ子だったのでお祖母さんに可愛がられたんですね。先生はお父さんが養子ですからお祖母さんと血がつながっていないんです。でも、とても可愛がられていたようで、「坊のことはババが守ってやるからな」と、いつも言っておられたそうです。
体操が苦手で、それより木陰で絵を描いているほうがいいような内向的な少年でしたから、お祖母さんはなおさら心配だったのでしょう。

別府

家族の愛情に包まれて・・・、ほっとしますね(笑)。

藤井

幼少時に肉親の愛情に包まれて世に出た人と、そうでない人とは、その人の感性の体温が違いますね。学歴とか、豊かさとかの事だけでなくて。
この人は大事に育てられた方なんだなと思う事がよくありましたよ。先生はものすごく親思いでご両親に、ひとこともうらみごとらしい事を言っていませんね。「学歴の克服」という文章の冒頭で、「私は貧乏の中に育ったが、家は赤貧洗うが如しという程ではない。両親は小さな餅屋をしていたが、後に飲食店を営んだ。しかし上級の学校に進学させてくれる余裕はなかった。こういう家庭は案外多いのではないかと思う」と述べていらっしゃいます。

別府

ご両親への思いやりもこめて、淡々とですね。

小倉時代の、重要性

藤井

だいたい、先生は過去をふりかえられない前向きの方でしたから、ご家族にも私たちにもあまり小倉時代のことをお話しにならなかった。だから、小倉時代を知る手がかりは半生の記くらいで、清張論を書く人はみなこの本にたよっています。
しかし先生は作家ですから、作品には当然、小倉時代の体験がいろいろに反映されています。ストレートにお書きになることがあまりなかったというだけのことなのです。
だから小倉時代の思い出が忌わしいという事ではない、と私は思っています。先生は過ぎ去ったことや、懐古話はまったく興味ない方で、関心があるのは、これからの仕事だけなんですね。
だから私が小倉時代に話をもっていっても、すぐにいま考えている作品の構想に返ってしまう。

別府

未来タンクがよっぽど大きい方だったんですね。

藤井

あえて、昔話に水をむけると、急にご機嫌が悪くなる(笑)。でも、小倉時代のこと、清張文学の源流をちゃんときいておくべきだったと、後悔しています。

別府

だんだん清張文学のマグマが見えてきた感じですね。

藤井

私は、小倉時代の清張先生を見る尺度として、5つの時期に分けられると思います。
第1は、高等小学校を卒業して川北電気小倉出張所の給仕になる大正13年、15歳まで。
第2は川北電気が倒産して給仕をやめる昭和2年、18歳まで。
第3は、お母さんに「手に職をもて」とすすめられての、高崎印刷所から島井オフセット印刷所にかけての印刷職人時代、昭和12年、28歳まで。
第4は、毎日新聞九州支社の、嘱託から、雇員、正社員となり、戦争をはさんで昭和25年、西郷礼で小説家としてみとめられる41歳まで。
第5は、新聞社に勤めながら、文学を志し、或る「小倉日記」伝で芥川賞を受賞して、昭和28年に44歳で上京されるまでですね。

別府

なるほど。で、半生の記はどこらへんまでを。

藤井

黒地の絵のテーマになった朝鮮戦争のとき、小倉の米軍キャンプで黒人兵脱走騒ぎがあった昭和25年までで、すべて北九州時代ですね。

ローアングルは印刷職人時代に

明治42年12月誕生
(文藝春秋提供)

別府

じゃ、順を追って。給仕さんの次は、印刷所の職人さんですね。

藤井

3年勤めた川北電気が倒産したので、印刷職人になられたのです。19歳でした。一人前になるまでは、年下の少年に追いまわされる日常だったようです。その頃を「遅れてきた職人のつらさを、まぎらわしてくれるのは文学だった」と言っておられます。
やがて、職人として実力をつけ、その上、意匠デザイン、広告文、いまでいう広告コピーまで才能を発揮するようになる。

別府

清張さんが、広告コピーやポスターのデザインを。愉快ですね。

藤井

学歴を気にしなくてもいい実力社会に、やっと定着されたのです。
先生の文学はローアングルの視点と言われますが、この頃の生活で自然に身につけられたのですね。それがどれだけ先生の財産になったか、計りしれないものがあります。

別府

清張文学の底にながれている反骨精神もこの頃に。

藤井

そう思っています。
雑談していて若い作家のスランプにふれるとき、「あの人は実社会の経験がないからね」とあっさり言われる。
学生作家でもてはやされた人は世の中がわかっていない。作品を大きくする力が弱いんだ。だから、行きづまるんだよ、とおっしゃった。先生のお気持ちの中に、苦労をして社会を見てきた私だ、負けるものかという自負が見えていましたね。

別府

そのあふれる自信はどこから・・・。

藤井

半生の記を読んでいて、ああこれかと納得しました。小倉時代の修業と体験が先生の自信の根幹になっているんですね。

いつもポケットに岩波文庫

別府

文学修業もその頃からですか。

藤井

給仕時代に、お使いに行くでしょう。そこで待たされるのが、とても嬉しかったという少年だったのですよ。いつも、ポケットに岩波文庫をしのばせていて、その間にだれにも気がねなく読めるからなんです。
少年時代から青年時代にかけての先生の読書、いや濫読はすごい量なんですね。あの抑制のきいた文体も、その頃の実体験で、身につけられたのでしょう。
「どんな時代にも、本を読むのが好きであった」と書いていらっしゃいます。「表紙の切れた岩波文庫が、私の絶望を救った。文学書を読む事によって、自分が救われたと信じている」とも。
「人間、どんなときにも、何か心のより所をもつ事が大切だ。私は、いつかは小説家に・・・」と、当時の希望を思い出して語っています。

別府

心のより所は文学で。職業はどうあれ、文学へ一筋道だったのですね。

藤井

しかし半生の記で、「私は小説家志望ではなかった。20歳前後のころ、多少そういう気持ちはあったが、これはその年ごろだと誰しもあることで、とるに足りない」とあっさり言い切ってもいるのです。
また、芥川賞受賞の言葉では、「若い時からの文学志望者でない自分には文学修錬の苦労の時代がなかった」とも言っているのですね。

別府

となりますと、どちらが清張さんのお気持ちで(笑)。一種の韜晦(とうかい・自分の才能などを包みかくすこと)ですか。

藤井

それで、考えこんでしまうのですが・・・、あれだけの大作家に、文学修業の時代が本当になかったのか。私は先生の言葉通りではないと思います。
それを解く鍵は、やはり先生の小倉時代を深く見つめることにあるんでしょうね。

朝日新聞の広告意匠時代

清張氏が描いた九州観光ポスター

別府

じゃ、人知れず小説を書いておられたのですか。

藤井

その頃、八幡製鉄や東洋陶器の文学好きな人たちと交際されるようになって同人誌に芥川龍之介の影響を受けた作品を載せたことがあったそうです。

別府

印刷職人さんの時代ですね。その頃、アカ容疑で拘束されていますね。

藤井

これも先生を語るときには、はずせないエポックメイキングな事件ですね。
「昭和4年の3月中旬のある朝、私の家に刑事が来て、まだ私が寝床にいるところを引っぱられた。両親はおろおろした。私は木綿の厚い丹前を来て小倉警察署の2階に行った。(略)。何のために引っぱられたかさっぱり分からなかったが、多少の心当たりはあった。というのは八幡製鉄所の文学仲間が非合法出版の「戦旗」の配布を受けて読んでいたから、八幡署の特高にマークされていたのである。その往来から、私もグループの一人だと思われてつかまえられたのだとは思っていた。あとで家宅捜索をしたが、私の貧弱な本棚からは何一つ彼らの餌になるようなものは発見されなかった」とあります。そして十数日間拘留されて釈放されましたが、刑事がしつこくお父さんをたずねてきていたそうです。
お父さんは驚いて、先生の蔵書を全部焼きすてて、読書を禁じたということです。

別府

ひどい時代ですね。だけど、その事が、また清張さんのローアングルの視点を深めてあったのでしょうね・・・。

藤井

そうかもしれませんね・・・。

ポスター審査結果の照会

別府

そして小説家として登場されるために、次の朝日時代が用意されているんですね。

藤井

朝日新聞が小倉に支社をつくることになり、先生は見ず知らずの朝日の支社長に手紙を書いたのです。それがきっかけで、朝日の仕事をするようになり、広告意匠係として嘱託から雇員、そして社員になられるのです。

別府

新聞好きのお父さんは、息子が朝日の社員になって、鼻たかだかだったでしょうね。

藤井

そうでしょうね。しかし朝日新聞は人材を集めた高学歴社会ですし、仕事も花形の記者ではない。気分としていわれのない差別を感じられたようです。

別府

何かのお酒の会のとき、部長さんが若手をねぎらって、一人一人に酌いでまわりながら、清張さんをすっとばした・・・と(笑)。

藤井

たしかに、しっかりと書いてありますね。口惜しかったんでしょうね。

別府

えらい人に書かれると、動かせない事実になって、部長さんは大失策でしたね。

「民俗学辞典」と「ライカ」のカメラ

「点と線」原稿

別府

しかし朝日新聞の広告の意匠を担当されたのは意義深いですね。広告全体を構成する役目で、なにやら小説の構成にも通じるでしょうから。

藤井

そうかもしれませんが、忘れてならないのは、作家修業はともかく、この時代にたいへん勉強されているんですよ。
例えば民俗学。これも生半可じゃないんです。民俗学辞典などをちゃんとそろえて勉強しているのです。

別府

その頃、同僚から汚れ松と言われていたそうですね。古靴下を机の引き出しにポン。それがたまって臭いぷんぷんだった(笑)。

藤井

汚れ松でも、靴の底がちびていても、背広がくしゃくしゃでも、朝日の一介の社員で、せまい自宅の部屋に民俗学辞典などをそろえて、直接、仕事と関係のない勉強をしていた人がそんなにいるとは思えない。
お金のかけかたが普通の人とちがっていた。大家族をかかえての生活で、普通の人ならとてもあんなに本は買いませんよ。

別府

志が高かったんですね。

藤井

せまい部屋の中は本ばかり、押入れの中もギッシリの本でした。その写真もありますね。
そして、英語も独学で勉強していらした。のちの海外取材でも、それが役立っています。

別府

すごいですね。

藤井

それだけじゃないんです。ライカのカメラを持っていたのですよ。ご自分の研究のために必要だったのでしょう。戦前のライカは富と地位のシンボルでした。これはすごいですよ。もの書きでも学者でもない。記者でもない。広告の版下書きの人が、こうなんだからその姿勢に感動しますね。後年の松本清張はやはり突然出現したのではないのですよ。
民俗学辞典におされている「松本蔵書」の蔵書印が、本当に輝いて見えましたね。
先生には、洋服やおしゃれよりもっともっと大事なものがあったのですね。この蔵書印を発見したとき、先生にとって、九州時代がいかに大切だったかと、つくづく納得できたのです。

坂口安吾が清張推理山脈を予言

別府

そして、西郷札で小説家志望に。

藤井

「週間朝日」の「百万人の小説」募集に応募されたのが西郷札なんですね。1等30万円の賞金ほしさに応募したんだと、はっきりおっしゃってます。
戦後のタケノコ生活で、みんな生活苦にあえいでいましたからね。3等入選で、賞金10万円をもらうのです。もうすこし上位でもという話もあったが、朝日の人だからこれでとなったそうです。

別府

当時の10万円は大金で。よかったですね(笑)。で、そのテーマは。

藤井

西郷札は西南戦争のとき西郷軍が発行した軍票ですね。先生が百科事典をめくっていて、西郷札のことを知り、小説にとあたためていらしたのです。
事典で得たわずかな知識をふくらませて、義理の妹に対する恋情と官員の主人の妬みを、政府補償の噂を背景に見事に構成されて、一息に読まされます。

別府

そして或る「小倉日記」伝で芥川賞を受賞します。

藤井

身体の不自由な青年が、森鴎外に魅せられ、彼の小倉日記の欠落部分を、乏しい日常の中で母親にたすけられながら埋めていく。大方の空白を埋めたときに病死。死語、まもなく欠落の小倉日記が発見されるのです。
ぐいぐいと引きつけられながら、人間の行為の空しさに、うちのめされる傑作です。清張先生の内奥にあった実存主義的な思想が見えます。

別府

その或る「小倉日記」伝は、はじめ直木賞候補だったとか。

藤井

先生は雌伏時代がとても長かったのですが、非常に強運の方なんですね。
この小説が載ったのが三田文学で、編集の木々高太郎さんが載せたものです。先生は慶応には全然縁がない方ですよね。
それが直木賞候補になったところ、銓衡委員の永井龍男さんがこれはむしろ芥川賞候補作にと言われた。それで芥川賞の審査にまわされたのです。次の年から芥川賞も直木賞も同日審査になったので、幸運でしたね。
そして坂口安吾さんは選評で「この文章は実は殺人犯人をも追跡しうる自在な力があり、その時はまたこれと趣きが変わりながらも同じように達意巧者に行き届いた仕上げのできる作者」であると思ったと、その後の清張先生を見事に言いあてておられます。

別府

すごい洞察力ですね。

強運のひと。かげに努力と好奇心

藤井

ともかく、先生は強運なんですね。

別府

ご葬儀のとき、令息が「父は努力の天才です」とおっしゃったそうで、胸を搏(う)たれました。

藤井

先生は「努力することは嫌いではなかった」とも言ってらっしゃいます。人の何倍もの努力が先生の強運を支えていたんですよ。

別府

芥川賞作家になられてから、東京本社へ移られますね。

藤井

それから点と線黒のシリーズを皮切りに、津波のような清張ブームが続きました。
私が先生の担当になったのは芥川賞受賞から10年目の昭和38年でした。先生は「週刊文春」に小説を連載中でした。
最初はびっくりしましたよ。気難しい先生という噂、編集者泣かせと聞いていましたので、ヤレヤレと思いましたね(笑)。
でも、これまで続いて・・・。どこかで相性がよかったのか。なにより仕事のやり甲斐のある方でしたから、私も一生懸命伴走したんでしょうね。

別府

その清張さんはあふれる好奇心の持ち主だったそうですね。

藤井

知識欲が人一倍旺盛で、好奇心のかたまりでした。
しかし、それ以上に理解力がすばらしい方でしたよ。あらゆることに挑戦し、それぞれの分野を自分のものにしてしまう。それはすごいパワーでした。
対象が易しかろうが難しかろうが問題ないんです。難解な地球物理学でも、果敢に挑戦する。関心をもたれると本を読んだり、専門家にきいたりして、納得ゆくまで吸収されるんです。
ご自分では好奇心ではなくジャーナリズム感覚だと言ってらっしゃいましたね。

別府

実に多面体ですね。

藤井

ご自分でペンをとる時間がないときは「これで特集したらどうかい、うけるよ」と、編集のアイデアを提案される。そんな事、もうしょっちゅうでした。

別府

昭和52年に博多で行われた邪馬台国シンポジウムでは、見事な構成で、司会をされましたそうで・・・。

藤井

江上波夫先生、井上光貞先生らの大学者を相手に、先生方の発言を立派に交通整理して、「清張の邪馬台国シンポジウム」を成功させました。あれだけの学者と何の遜色もなく渡り合える作家は、いないでしょうね。しかも、古代史にどれほど通暁しているか、頭脳明晰を示したシンポジウムになりました。

別府

何をなさっても一流だったのですね。

長電話と取材ノート

別府

ところでたいへんな長電話だったとも。

藤井

疑問があると、学者にでも、作家にでもすぐに訊きただされる。私なんか、もうしょっちゅうで、長電話の被害者でした。

別府

電話だけですか。

藤井

いいえ。いまどこそこにいる。ちょっときてくれ、とホットコールです。こちらの都合を申しあげると、まあいいじゃないか、急ぐんだよ。それで会議中でもなんでも、もう社内了解の優先事項でした(笑)。

別府

藤井さんが駆けつけられて昭和史発掘が成立したのですね(笑)。

藤井

それは・・・。
でもときどき面白い事をおっしゃる。「最初に会ったのはどこか覚えているかい。」「石神井のお宅へ同僚とうかがったときですか」。「ちがうよ」。首をひねっていると、「文春の文士劇の楽屋だよ。君が『日本の黒い霧を書いている先生が、こんなことをしていていいんですか』と言った。それで、次から辞めたよ」とおっしゃる。
新入の女子社員は先生方の接待役で楽屋番だったのは事実ですが、いくら生意気ざかりの私でも、こわい先生にそんな事とても言えませんよ(笑)。
「お辞めになったのを、私のせいになさらないで下さい」と言いましたが(笑)、「いや、君が言ったから辞めた」と譲らないのです。

別府

さすがに大作家で(笑)。
ところで清張さんのあのすばらしい、推理小説のヒントはどこから出てくるのでしょうね。ご一緒に取材旅行などされていて、いかがでした。

藤井

小説に出てくる地名や人名は、旅で拾ったものが多いですね。ヨーロッパ取材の時も、ほんとに観察が行きとどいているのに感心しました。部屋へ戻るとていねいに取材ノートをつけられる。私のほうもいろいろなものをカメラに収めておきます。犬をつれた奥さんの散歩、なんでもない川の流れ、工事中のペンキ塗り、これはと思ったらなんでもパチパチ撮りまくる。
アルバムに整理してさしあげると、なんでもない写真が小説の風景として活き活きと甦ってくるんです。
先生には旅先の平凡な風景も、そのまま取材対象だったんですね。

先生は“いらち”のたち

別府

口述筆記の時もあったのですか。

藤井

ええ。あまりに多忙で、とうとう書痙(しょけい)にかかって、ペンがとれなくなったんです。
たいへんな仕事量ですから、手がいう事をきかない。それで昭和史発掘のころも口述筆記がありました。

別府

口述であれだけ立派なものが。不思議ですね。

藤井

口述自体がきちんと構成されていましたし、校正がまたパーフェクトでした。だから、ご自分で書かれるのと変わりなかったですね。口述の名人でした。

別府

清張さんとは、いつもどんなお話を。

藤井

ほとんど、仕事の話ばかりでした。人の噂や銀座話など、下世話の話を喜ばれる方もいらっしゃる。でも先生は、そちらの話はあまり好まれなかった。もっとも私が相手では仕方がなかったのかもしれませんが、いつも仕事の話だけでいっぱいでした。

別府

清張さんとウマがあわれたのは。

藤井

それは自分ではよく分かりません。ただ、ノンフィクションの仕事では、私は先行取材型でした。先に先にと資料を用意しないと、注文が出てからではとうてい間に合わないのです。
私は学生時代から近現代史を専攻していましたから、とくに昭和史発掘には身がはいったのでしょうね。
だいたいこの次にはこの資料がいるなという予測はできましたから、自分でプランをたてて事前に用意していました。
夜、電話がかかるんです。「○○の資料がいるんだが、探してよ」。私が、それなら、となりの部屋のどこそこにありますよ、というあんばいでした。

別府

息があったいいコンビだったのですね。

藤井

先生が気ぜわしい“いらちのたち”そして私が“心配性”なのです。用意しておかないと、とても気がかりなのです。いざとなって人に会ったり、資料を探したりではとても間に合わない。準備がととのっていないと、レベルの高い作品を書いていただくことができませんよね。とにかく夢中で走ってたんです。
よく、「○○についてどう思うか」とおたずねになる。お答えするとたいがい「うん」とおっしゃる。
そういう点では、ものの考え方とか評価などで一致することがとても多かったと思います。でもたまには首を横にふって、「それにはにわかに承服しかねる」と茶目っ気たっぷりにおっしゃる。

別府

「それには承服しかねる」ですか。いいなあ(笑)。清張さんと、藤井さんとのキャッチボールですね。

まっ赤なゲラ

別府

校正もきびしかったそうで。

藤井

ゲラがまっ赤でした。初校も再校もまっ赤。印刷所泣かせでしたね。

別府

藤井さんは間にはいられて、たいへん・・・。

藤井

それがそうでもなかったのです。
コツがあって、昭和史発掘のときは、私は先生から誰よりも早く原稿をいただきました。だから何回もまっ赤になりましたが、校了が他の人より早かったのですね。
印刷所の人たちも、それが分かっていて、まっ赤な校正も大目に見てくれていました。
そしてなにより、訂正されればされるほど文章が輝いてくる。前とはくらべものにならないのです。だから納得できるのです。

別府

外の作家の人たちとのおつきあいは・・・。

藤井

あっさりしたものでした(笑)。そんな時間があれば、自分の仕事がしたい。時間がもったいない、という方でしたから。

別府

出版社とは。

藤井

連載が終わると御礼に料亭にお招きしますね。そこまでは、おつきあいと思っていらっしゃる。二次会もまあ仕方がない。しかし、30分ぐらいでさよならでした。

別府

それはまた、味気ない(笑)。

藤井

とくに、肩のこる地位の人と儀礼的に同席されるのはおいやだった。大作家になられても、いつまでも庶民でしたよ。
宴会でも、二次会でも、先生は仲居さんやホステスさんにさっそく取材です。生国から、言葉の事などしつこく。とても宴席ではありません(笑)。

別府

状況が目に見えるようですね。そして、それをメモされて・・・。

藤井

いいえ。ときにはあとで克明にメモされることもありましたが、その場ではほとんどされませんでしたね。頭にプリントしておられたのですね。

別府

メモ魔かと思っていましたが・・・。津波のように次々と小説を書かれた清張さんにも、スランプはあったでしょう。

藤井

締切に追いかけられて、とてもそのひまがなかったでしょうね。ペンが走らない事もあったでしょうが、気分転換の名手でした。
ちょっと15分寝かしてくれ、とおっしゃって車の中でも熟睡です。そしてぴったり15分で起きて、さあ仕事です。
書斎では、ペンをおいて別の原稿にとりかかられる。それで結局、両方ともうまくいってました。

葦平さん、芙美子さんとは

取材旅行のあいまに
(昭和49年)
文藝春秋提供

別府

同じ北九州市出身の火野葦平さん、林芙美子さんも同時代の方ですね。

藤井

葦平さんが明治40年生まれ、清張さんが42年生まれ、芙美子さんが36年生まれですね。同じ北九州市出身なのに、同時代の方という気がしません。お二人と活動の時期がずれているんですね。

別府

調べてみますと、葦平さんが糞尿譚で芥川賞を受けられたのが昭和13年で数えの32歳。芙美子さんの放浪記が昭和5年で同じく28歳。清張さんの芥川賞が昭和28年で数えの45歳ですね。

藤井

そういえば、清張先生と太宰治は同い年なのです。太宰治は戦後の昭和20年代の人というイメージ、先生は30年代からで、とても同年代の人とは思えませんね。それぞれ活躍時期がずれていたんですね。

司会
このシリーズで小倉に縁の深い俳人の「杉田久女」をとりあげました。清張さんの菊枕は久女をモデルにした初期の傑作ですね。でも、これまで発表された久女研究をみると、どうも久女が気の毒な感じです。とくに彼女が大阪毎日新聞の日本新名勝俳句で金賞になった「谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま」の句。英彦山(ひこさん)で一心不乱に作句に没頭している彼女を画家が見て「その姿には一種の妖気が漂い、画家は顔色を変えて宿に逃げ帰った」と表現されている。その描写が久女像に定着してしまった。読者には小説とモデルの“はなれ”を、なかなか汲みとれませんからね。

藤井

その時代の事はよくわかりませんが、小説家は自分の関心で造型しますから、モデル問題は難しいですね。

別府

評論家とはどうでしたか。

藤井

あまりいい関係とはいえなかったですね。「なぜ私がこれを書くのか、それを理解してくれない」と、歯がゆい思いをされていたようですね。評論家に対しては、小説の中でも辛辣な表現が出てきたりしました。
原稿ができるたびに私たちにどうかときかれる。執拗に訊かれる。毎度のことなので、担当編集者はみんな音をあげていましたね。「それはもう昨日お話ししました」などと、私もよくやっていました。
ポイントがずれると、コミュニケーションがくずれるような気がして、一種、真剣勝負みたいな緊張感がありましたね。先生の場合、ただほめればいいというのとは、ちょっと違うのです。強いて言えば、「理解」ということでしょうか。相手が分かっているかどうかの確認のための作業かもしれません。核心に触れあえれば、前に向かう大きなエネルギーを生み出せるというような感じですね。

別府

本当は批評家にもわかってほしかったのでしょうね。

藤井

そうでしょう。批評は文芸を育てるのに大切ですが、初期の作品に批評家がどうも冷たかったんでしょうね。

別府

新しいジャンルに跳び出た一匹狼だから、批評家もあしらいかねて・・・。

藤井

だから流れをみてというところもあったでしょうね。同人誌出身なら、出自がはっきりしていて書きやすかったでしょうが、周囲も戸惑われたんでしょう。
しかし、何よりの幸せは、読者に圧倒的に支持された事ですね。

別府

「一番好きな作家」に選ばれたりして・・・。その意味では初期の作品からツイていて、幸運な作家ですね。

ありがたい謝辞にビックリ

別府

昭和史発掘の資料集に、藤井さんへの謝辞がのせられていますね。

藤井

あれにはびっくりしました。
一般に本の後記には編集者への謝辞が書かれることが多いですね。ところが先生はそれをほとんどされない方なんです。
その先生がどうして・・・・・・と、みんな驚いたんです。

別府

君とのパートナーシップでできたんだよ、とおっしゃってるんですね。で、その内容を2・26事件研究資料Ιのあとがきに、「本巻に収められた関係資料はすべて藤井氏の捜索蒐集に成る。のみならず、校正にあたっては、まず肉筆手記の判じがたい文字の解読からはじめ、その正確を期すために厖大な関係資料にいちいち当たった。その労力と学術的な良心には心から敬服する。」とありますね。

藤井

それにはちょっと事情がありまして。Ι巻が増刷になると決まった時、先生は当初の希望どおり“共編”としておもてに名前を並べたいと強く主張されたので、再版から本のかたちが変わりました。それで、私は「あとがき」を削除してしまいましたので、それはI巻の初版本にしかないのです。でも、その後また2・26事件3巻本の前書きにも懇切な謝辞をいただいて、恐縮しました。先生とかかわった編集者はたくさんいるのです。前代未聞のことで、私だけがそんなに果報者でいいのかどうか。

多分ケムたかったお父さまで

別府

大作家、清張さんのご日常は。

藤井

時期によって違うのでしょうが、晩年はいつも着流しで、帯をひきずっておられました。ヘビースモーカーで、煙草の灰をまきちらして。身辺をかまわない方でした。

別府

藤井さんとファッションについて話されたり・・・は。

藤井

ぜんぜんでしたね。ただ小説のモデルの服装についてはよくきかれました。なにを着せようかと。

別府

お酒はだめだったのですか。

藤井

甘党で全然お飲みになりません。私は嫌いな方ではないので、勝手にいただいていました(笑)。
よく九州のお菓子の話が出ましたよ。小倉の旦過(たんが)市場ではじめて羊羹を1本買ったときの話。カルカンやボンタン飴、小城羊羹。

別府

趣味や気ばらしは。

藤井

さあ・・・。なによりも仕事が趣味の方でしたからね。運動もなさらないし。そうそう、ときどき古本屋さんやパチンコに出かけておられましたね。それと、たまに深夜のドライブも。ゆうべあのへんを見て来たよ、とおっしゃって。すべて作品につながるのですけどね。

別府

ご家族には。

藤井

私はプライベートに部分にはあまり立ち入らない性質なのですが、「いいだろう、今日は食事を」とおっしゃって、奥でご家族と一緒にいただいた事もありました。
そういうときもすぐに仕事の話になってしまう。こちらが居間を占拠しているのに、すぐテレビがうるさいなんて言われて、奥さんが見ている野球放送を切ったりされる。本当に困ってしまいましたよ(笑)。
でも、昔は芥川賞を受けた或る「小倉日記」伝の原稿を、どうだいと、奥さんに読んできかされたそうです。最近うかがってびっくりしました。

別府

お子さんやお孫さんには。

藤井

ケムたいお父さんだったかもしれませんね。あのお顔で、いつも仕事が頭にあって・・・・・・。息子さんたちは、逃げまわっていたのではないでしょうか(笑)。

別府

巨人を親父さんにもつのも、たいへんでしょうね(笑)。

藤井

息子さんたちには淡泊でも、お孫さんには別。ある日、どなたも出てこられないので、仕方なくお部屋をのぞいてびっくり。あの先生が、お孫さんを背中にのせてハイドーです。お馬さんをしている。思わず夢を見ているのかと思いましたよ(笑)。
成人されたお孫さんのお話には、いつもうんうんと笑顔でした。若い編集者にも、すこしはあの笑顔をわけていただいたら・・・(笑)。

別府

清張さんがだいぶん身近になりました。そこで藤井さんがお考えの清張文学の魅力を。

藤井

小説は面白くなければ駄目だ、というのが先生の持論でした。勿論、純文学を含めてです。たしかに、先生の作品はどれを読んでも面白いのです。推理小説が好きでなかった私がここまで伴走できたのも、やっぱり「面白い」からでしょうね。もっとも私にとっては、つくりあげるプロセスもとてもおもしろかったのですけれど。
それから、今日、いろいろとお話ししたように、先生の人生すべてからほとばしる「迫力」ですね。それが、投影して作品に輝きを与えているのです。
この間、初対面の40代の女性に言われました。「苦しいとき、落ちこんでいるとき、いつも力づけていただいた」と。清張作品を支えて下さった読者の肉声は、担当編集者にとっても大変うれしいものでした。先生の貧しかった少年期、苦しかった青年期-小倉時代の原点がこうして作品に力を与え、多くの読者を魅了しつづけ、人々に勇気を与えるという連環となるのでしょう。

別府

これからの読者のために藤井さんがすすめられる10冊を。

藤井

むつかしい質問ですね。今日、話に出ただけで、いくつになりますか?半生の記西郷札或る「小倉日記」伝日本の黒い霧昭和史発掘点と線黒地の絵菊枕・・・・・。これだけでもう8本ですよ。初期の短編はどれもすばらしいし、大作もまだたくさんあります。黒い画集ゼロの焦点波の塔無宿人別帳砂の器火の路・・・・・・。もう、私としては、松本清張全集を、というより仕方ありませんね。

北九州に清張記念館

別府

北九州市に清張記念館が計画されて、藤井さんも委員でいらっしゃる。

藤井

先生は日本の清張先生ですから記念館は東京にという声もありますね。単なる文学記念館なら川端康成谷崎潤一郎菊池寛と、たくさんあるでしょう。
清張先生のは、どこかひとつ違うものでないと、先生を理解できませんからね。それには先生が育ち、生きてこられた昭和という時代を、清張文学の母体である北九州の風土でとらえ、検証する以外にありません。だから清張記念館はご生地小倉のこの北九州市が一番ふさわしいと思うようになりました。

別府

今日はふるさとの誇りの、巨きな清張さんを、身近な存在にしていただきました。ありがとうございました。