No.7 平野 遼

対談:平成6年9月

司会・構成:土居 善胤


お話:
北九州市立美術館館長 谷 伍平氏
聞き手:
福岡シティ銀行 頭取 四島 司

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


あなたも、なかなか、厳(きび)しい顔ですね。

アトリエの平野 遼氏

司会

北九州出身の平野遼(しんにょうの点が2つの字)さんは闇に光を追う独特の抽象画で、注目された巨きな画家でしたね。
平野遼さんを詩人の松本伍一さんは「哲学するネコ」と…。

闇をおそれぬ眼をもった「哲学するネコ」と比喩しておられる。平成4年に65歳でなくなられましたが残念でしたね。
でも、あの人は、遼さんだけにしか描けない自分を見すえる絵を描き続けて、本源の闇に消えられた。ひたはしりの、絵ひとすじの人生でしたな。
世評なんか、どうでもよい事だったでしょうが、自分の絵を追求して、ついには世間に認めさせた。亡くなるぎりぎりまで筆をとって、闇の中の光を描きつづけた。いや凄(すご)いものです。

四島

大家になっても、画壇とか世間的地位には、目もくれず、画業ひとすじで。立派ですね。

不謹慎かもしれないが、平野遼の凄(すご)さを思うと、彼が老大家になって、世間にもてはやされる姿は見たくなかったな。緊迫の画業の最中に去られた。遼さんらしい去りかただったな。

谷 伍平氏 肖像
(1986)

四島

ふれあいの始めは。

昭和62年まで北九州市長をしていました。あれは辞める前の年の秋でした。北九州大学同窓会が、私に感謝状と肖像画を考えているから受けてくれという話がありましてね。
まあ、市長として当然の支援はしたが、とりたてて感謝されるようなことはしていない。肖像画など、おもはゆいからやめてくれと言ったが、もう手配ずみで描き手は平野遼さんだという。
平野さんも、谷の顔なら面白い。描いてみたい、と言っているんだそうな(笑)。少々偏屈な人だと聞いていたから、断って喧嘩になっても困るし、仕方がないと覚悟をきめて、小倉北区の黒原町のアトリエをたずねました。
住宅街の中にあって、階段をあがって玄関。右手がすぐにアトリエでした。案外広いアトリエで正面に大きなイーゼルがある。描きかけの絵や大作がところせましで、イーゼルの下は使い古しのチューブの山。一見、はきだめかと思ったが、そのままが遼さんの絵の構図だなとも思った。
闇に光を見る画家の発見創造の場にふさわしく、ここならバッハやベートーベンの音楽も、よくとけこむ。妙な静謐と光ぐあいで、初めて絵のモデルになった私を、落着かせる雰囲気がありました。
アトリエの壁に※ランボーと※ジャコメッティの写真がかけてあった。

  • アルチュール・ランボー
    フランスの象徴派の詩人。ヴェルレーヌとともに放浪。早熟天才で16歳で書いた「酔どれ船」以後、3~4年で筆を断ったが、近代詩に大きな影響を与えた。作品は「地獄の季節」「散文詩集」など。
  • アルベルト・ジャコメッティ(1901~1966)
    スイスの画家、彫刻家。キュービズムを経てシュールレアリスム運動に参加。人間の実存を凝縮したような針金のように細長い人物像が特長。代表作「男の顔」。

四島

“市長”を迎えた遼画伯は。

予想通りぶすっとした人で、愛想なし同士だから、余計始末に困る。
そして、そのままで、固くならないで、と言ってすぐに描きはじめた。タッチが早い。絵筆の、シャーシャいう擦過音がひびく。きつい視線で私を睨みつけながら、40分ぐらいして、はい、できました、だった。

四島

市長の忙しさがわかっていて、あの人ペースの親切だった…。

まあ、そうでしょう。見せてもらうと、もうあらかた出来あがっていて驚いた。仕上げにもう1回、30分ぐらい来て下さい、で終りでした。
奥さんにいただいた抹茶がおいしかった。アトリエの隣が茶室で、しっとりと和んでいる。

四島

それで、どんな話が…。

「私の顔を描きたいと聞いたが、このつらのどこに興味が」と訊いたら、画伯が、「いや、いろいろ噂を聞いて、貴方を描いてみたかった。しかし、それにしても、貴方、厳しい顔をしてますな」とやられた。
目つきの鋭い、厳しい顔だなと思っている相手から、そう言われたのには参ったですよ。
まあ、こうして、いい雰囲気のアトリエだな。いまどき珍しい、いい男だなと、好きになって帰った(笑)。
出来あがりが晴れがましかったが、その絵は美術館にあずけています。

平野遼・略歴

年代 年齢 できごと
1927 昭和2年 0歳 2月8日、大分県北海郡佐賀関町に出生。
1939 〃14年 12歳 戸畑男子高等小学校(現、沢見中学校)卆。
1954 〃29年 27歳 水野清子と結婚。
1957 〃32年 30歳 若松「ドガ」画廊で初個展。以後国内各地で個展。
1986 〃61年 59歳 池田二十世紀美術館、62年、北九州市立美術館で「平野遼の世界展」。
1987 〃62年 60歳 西日本文化賞受賞。
1990 平成2年 63歳 下関市立美術館で「平野遼展」
1992 〃4年 65歳 11月24日逝去。

子宮の闇に光を。

群像(1964)
〔北九州市立美術館蔵〕

四島

お2人の情景が、目の前に見えるようで、面白いですね。で、平野遼と言えば、闇を見つめた画家ですね。そこらへんから。

昭和62年、私が館長になってすぐに、北九州市立美術館で、「平野遼の世界展」が催されましたが、詩人の松永伍一さんがとてもいい詩をよせてくれました。

『平野 遼に』 松永伍一

息づくいのちに
ことばは要らない。
闇があればそれで十分だ。
歌さえ噛み殺している逆説の音楽堂
子宮よ。
さあ時がきた。
在るべきものを在らしめるために
外光のなかに押し出してくれ。
生誕の笛を吹かせてくれ。
たとえそこが黄昏の(港からさんずいを除いた字)であっても、
始源の闇 子宮よ。
その働らきによって
おまえは慕われるだろう。
在るものすべての母として、
まことの光の収納庫として。

四島

松永さんは八女出身の詩人ですね。平野遼が見つめた、あの心の奥底をとらえるひきこまれるような闇は、人類始源の子宮の闇ですか。

なるほど、生命の始源は、子宮の闇ですね。そして、なにがしかの人生で、また大地の闇に溶けていく。息づく生命をみたすために、子宮の闇を、凝視しなければならない。

四島

1篇の詩が、遼さんの絵を言いつくしている。さすがですね。

もっと分かりやすく言えば、あの大仏の胎内くぐりですよ。大仏さんのお腹の中をぐるぐるまわる。地獄も極楽もあるでしょう。目をつむれば、私たちにも闇の中にいろいろな光が見える。いろいろな世界が見えますね。

四島

で、谷館長さんのお好きな絵は

1964年制作の「群像」です。
鼠のような胴長の人間が2グループに分れてひしめいている。無力な人たちが群れることによって、いっそう望みを失いつつあるような不気味さを漂わしています。

四島

群像は北九州美術館にありますね。私は1972年の「壁」が好きですね。手をのばして壁につかまっている。越えられない絶望の壁か、それともはいあがろうとする希望の壁か。見方によって、その日の気分によってどのようにも見えるでしょう。構図も色彩も、簡の中に深みがある。自分の気持ちをとらえられたような、ひきつけられる人生漂泊者の絵ですね。
人生を見たとぎすまされた眼で、さらに“闇の中に光を”となると、どうしてもなまの絵を見なければ理解できませんね。平野遼さんの絵は美術館で常時見られるのでしょうか。

いま寄託をあわせると油絵37点、蝋画13点、デッサン81点と、合計131点あり、ひきかえながら展示しています。
絵が売れるようになるまで、若松の喫茶店のドガや居酒屋で、飲み代のカタにおいたり、遼さんの絵に惚れこまれたお医者さんがおられたり。そうそう新日鉄八幡の本事務所のホールの吹きぬけに、でっかい絵があります。地元で描きつづけた画家だから、気をつければ、案外周辺で見られますよ。

売絵を描かなかった遼さん

内藤武敏氏 肖像
(1984)

四島

画集や、展覧会の立派なカタログは、美術館や図書館で見られますね。でも、平野遼さんの絵はむつかしい。わからないという声も多い。

私にもむつかしい(笑)。
部屋を明るくする絵ではない。どちらかといえば、心で見る絵ですから、一見むつかしいですね。うまく説明しろと言われると困ってしまう。ただ、じっと見つめる以外ないですね。じゃあ、答えにならないかな。それじゃあ批評家の言葉をあげてみましょうか。

四島

闇から光を引き出すのですね(笑)。平野遼さんの絵の解説はたいへんでしょうが、でも、わりあいわかりやすい。語りかけてくるものがわかってきて、共感のペンになっているようですね。評論に知己をえるというのも、画家の徳分でしょうから。

まず、うちの美術展のカタログのあいさつから。
「余分のものをそぎおとした究極の形。人間社会の危機、矛盾といったものを、人間の形態、それも極めて抽象的な形に仮借した平野遼のイメージの世界」とあります。
松永さんは「生命をかけ、我身をけずってみつけだした絵。」
「闇があれば十分、闇が光の母。目に見えない奥の不可思議、いのちのうずき。」とあります。
美術評論家の林紀一郎さんは「夜の画家」。うちの山根学芸員は「深淵からの叫(さけ)び」と。
どれも、みな、うなずけますね。

壁(1972)
〔周防灘カントリークラブ
美術館所蔵〕

四島

やはり、ちょっと難しいな(笑)。

いろいろありますが、遼さん御本人の言葉でしめましょうか。
「わたしは、見えなかった形が、ある日突然見えてくる。たしかに見えてきたものだけを、わたしは描いていきたい」と。

四島

そのとおりでしょうね。ところで平野さんの絵は、抽象画と人物がほとんどで、風景画がありませんね。

売絵を描かなかったからかもしれませんね。遼さんのテーマは、自分の奥を、あの厳しい眼で追いつづける事でしょう。だから人物に一番興味があった。「人の顔は男でも女でも奥からつきあげてくるものがある。それを表現するのだ」とも言っていますから。

四島

だから、何かを追いつづけている谷市長の顔に、興味があった(笑)。

たしかに肖像画も多い。特に、内奥に何かを見つけた人の画は、次々と。北九州出身で俳優の内藤武敏さんの絵は何枚も描いています。
NHKのTVでしたか。内藤さんは「見る、見られる数日。燃焼できる時間。息づきながら私も共作」と言っておられましたね。多分、遼さんと内藤さんの内に、相通じ、また切りむすぶものがあったのでしょうね。

四島

奥さんもモデルに。編み物をされている奥さんの絵、いいですね。

10号の「編む女」、これは理屈ぬきですな。闇の光というより、滾々(こんこん)たる愛情と感謝かな(笑)。奥さんも、御宅の玄関にかけて、大事にされておられる。

四島

群像画も多いですね。

散歩の道すじで見た川底の廃棄物や、病院の廊下のスリッパの足跡が、群像の姿でよみがえったり。目にふれるもの全て、その奥にあるものを見出して、モチーフに昇華される。
遼さんの絵は抽象だといわれるが、御本人はその意識はないらしい。
彼の真骨頂は見たもの、見えてきたものを、失わないように絵にしてしまう。形はどうでもいい。生命をとらえればいい。一瞬の炎(ほむら)を。だから、タッチが早いし、なぞりがない。一筆一筆が生きているんでしょうね。

電気を切られて蝋画を

四島

独自の絵に蝋画がありますね。

蝋画は、たしか※ジャスパー・ジョーンズも描いているし、遼さんのオリジナルではない。ただ、遼さんは、独自に、まったく偶然から発見して、自分の技法に確立されたのですね。
東洋画のたらしこみ画法に通じるところもありますね。

ジャスパー・ジョーンズ
アメリカの画家。抽象表現主義を受け継ぐネオ・ダダを発展させ、身近な日常的物体を美術の文脈に取り入れて、その代表的画家となった。54年ごろからアメリカの国旗、地図、数字のような日常環境のなかにある複製のイメージを主題とし、60年代に台頭するポップ・アートの先駆となっている。

四島

その発見も、放浪時代の貧乏物語りからとか。

二十代の遼さんが、進駐軍の将校クラブを辞めて、神田の出版社で、梱包や集金で生活していた頃ですね。
家賃が払えず電気も切られている。
仕方がないからローソクの灯りでデッサンしていて、ふと面白いじゃないかと、水彩に蝋をたらしてみた。
水彩が乾かぬうちに蝋をすりこみ、塗って、またすりこむ。すると蝋に絵具がしみこんで、特異の効果がでた。それで20号の「やまびこ」を新制作派展に出品したら、入賞したのですね。

四島

よかった…(笑)。内を見つめて、トライ、トライなのですね。

自伝の1頁が自画像

自画像(1955)

四島

平野さんは心象をとらえる名手だけにきびしく自分をみつめての自画像が多い。これも遼芸術の極致でしょう。

自己凝視の所産ですね。
そのきびしい表情を松永さんは「外部が見えている深さそのままに、折り返して自分を見すえている“哲学するネコ”の一瞬の表情」といっておられる。
節目、節目というか、1つの展開をおえて収斂(しゅうれん)し、次を展望して自分を見つめる。悩み、沈澱する自分、あるいはそれは超克した証(あか)し。脱皮成長の一里塚、自伝の1頁。そして新たな出発の証(あか)し…でしょう。

四島

それが平野さんの自画像なんですね。そうした平野さんが、影響を受けたひとたちは…。

遼さんは学校も高等小学校どまりだから、絵の先生はいない。彼が師とした人はジャコメッティや※ルドン、そして詩人ランボー。愛読したのは評論家の小林秀雄と詩人の西脇順三郎。音楽はベートーベンバッハ。みな、自己凝視の親分ですね。

オディロン・ルドン(1840-1916)
フランスの画家・版画家。印象主義に批判的で作風は幻想的・神秘的。木炭画法や版画により白と黒の世界に沈潜。晩年、人物・花・神話的作品に華麗な色彩を花咲かせた。

四島

なるほど、ジャコメッティは、無駄を削って削りぬいた都会的知性の人ですから通じるものがありますね。
そうした自己追求が次第に認められて、個展も次々でしたね。

遼さんを認めて個展を開いたのは東京の南画廊が最初で、昭和32年、30歳のときでした。結婚後3年で、ようやく放浪生活に終止符を。特別の感慨だったでしょうね

四島

地域の人たちのサポートは。

厳密には東京の2ヵ月前に、青春の画論をたたかわした若松のドガでミニ個展を催しています。ドガの主人にすすめられたんでしょうね。玉井政雄さんや劉寒吉さん等、文学関係の人たちの知遇も励みだったでしょう。
そして東京の個展から、※シュールレアリスムの紹介者で抽象画の巨きな支援者だった滝口修造氏の知遇を受ける。これはローカルの画家だった遼さんにとっては、初個展とともに、胸の高鳴る思いだったでしょう。
それから、フォムル画廊日動画廊で東京や大阪や名古屋で次々に。九州でも各地で催されて39年に福岡、43年に八幡、60年に小倉、61年に池田二十世紀美術館、そして62年に北九州市立美術館、平成3年には下関市立美術館で催されています。
平野遼の世界が、中央でも地元でも、確たる評価を受けてきたのですね。

シュールレアリスム
1924年に起こった芸術思想。美術、詩、文学、政治など広範囲に想像力の解放と合理主義への反逆を唱え、人間の自由と変革を目指して、抽象芸術誕生に大きく影響した。

四島

個展に臨まれた遼画伯は。

やはり一家言ありです。
「展覧会で作品を目の前にすると、見えてなかったものがきちんと見えてくる」。
「終った後、画面の奥にひそんでいたものが急にとびだして『これじゃあ駄目だ』…」と。

四島

わかりましたよ。明日の芸術家か、現在どまりの芸術家か、が。現在に満足しない。現在を否定しているかどうかなんですね。

絵描きという修行者

アルチュール・ランボー

四島

ところで、よく、人即絵、絵即人と言われるでしょう。「平野遼の世界」の理解のために、人間、平野遼を。

学校にもゆけない。家庭のぬくもりもない。師にもつかず、独学で、徒手空拳で、自分の世界を築いた人です。終戦後しばらくは、復員のときもらった軍隊毛布1枚と絵具箱とイーゼルが全財産だったそうで、地底からの出発だった事がうかがえますね。

四島

防空壕を寝ぐらにしたり、電気をとめられてローソク暮らしだったり。底辺から画業確立まで、すべて自力で意志の強さに驚きますね。

絵をかくために生まれてきた、“絵描きという修行者”とも言われましたね。内に燃える絵への炎(ほむら)みたいなものが支えたのでしょうね。

四島

そのようなつよい人にもスランプがあったでしょうに。

スランプのときも、あの厳としたしかめっ面で、絶対に弱音をみせなかったでしょう。もちろん強い意志の人だったから、人にあたる事もない。見事ですが、奥さんの支えを軸に、絵を描きつづける事で、スランプを克服されたんでしょうね。

四島

芯の強い人だけに、逆境がかえって、たたかうバネだったかな。順境の画学生より、社会を広く深く見すえて画のこやしにされていますね。

本をよく読む人だった。なくなる直前まで、病院をぬけ出して絵をかいた人だった。若いときは、食べ物や寝ぐらがなくても、絵を描きつづけた人です。絵を描かねばならない。もうそれ一筋で。
内の追求に忙しくて、中央への出世コースや、世間へのおもねりなどに、まったく無関心。北九州の一角をふまえながら、視線は東京を越えてはるかの天空を眺めていた。
大柄でごついし、そういう視線だから、睨まれると緊張が走る。奥には優しい眼があり、話せばわかる人だったが、とっつきにくかった。まことに、誰もふみこまない未踏の闇に、光をもとめた画業の修羅でしたな。

四島

ずいぶんな惚れこみかたで…(笑)。
たしかにパーティのメインテーブルにいる老大家にはほど遠い。生涯変らない一途さには参りますね。

そのバックには、独学で、徒手空拳で、闇に光をみた。道をひらいてきた自信があったからでしょうね。
だからか、画家仲間とのつきあいに関心がないし、美術学校への批判は相当なものだったらしいですね。受験のためにデッサンの勉強をして、上手になった頃には、才能が涸渇してしまっている、とか。

四島

きびしいですね。
ただ、ある先生の御話では、美校だからデッサンの天才ならフリーパスすればいいものを、英語とか数学とかの総合点で駄目にする。天才は育ちませんよという話でしたが、共通しているようですね。

社会全般にも、通じる話ですね。

四島

平野さんは独学だから、ジャコメッティやランボーという世界の頂点を勝手に師としてしまわれた。
気苦労はいらないし、長所だけ汲みとればいい。いや、闇を見つめる眼だと、天国の天才たちと気軽に話しあえたかもしれませんね。

のめりこみかたも純粋だったようで。勉強は学校によらないのですね。

四島

そうした凄い人ですが、孤独の強さだけで業はなせないでしょう。かげに肖像画に描かれた奥さんが…。

それは、もう。清子夫人の献身が大きい。あの頑固のかたまりの遼画伯も、夫人の支えがあったから、思うままに生きられたのでしょう。

四島

平野遼さんの絵と人物がイメージできました。そこで、遼さんの放浪記を。

画ひとすじの放浪青春

遼さんは過去を語らない人ですから、放浪記はあまり知りません。で、それは手許の資料からです(笑)。
お父さんは大分県由布川村出身の植木職人さん。精練所があって銅景気にわいていた佐賀関へ来て、昭和2年にここで遼さんが生まれています。しかし生活できないので、半年もたたないで、北九州へ来て八幡製鉄の職人さんに。以来、遼さんのふるさとは北九州で放浪時代はおもに戸畑に住んでおられたのですね。
ところが、お母さんが3歳でなくなられる。お父さんは飲んだくれで酒ぐせがわるい。姉さん3人、兄さん2人だったそうですが、みんな家をとび出て、お父さんと2人暮らし。

四島

それで、学校もろくに…。

高等小学校までですが、あの頃はまあそれが普通でしたね。
しかし、飲んだくれの親父さんと2人暮らしで、みじめな少年時代だったようです。だからどうしても内向的になる。一家をなされたあとの。「子供らしい遊びをした事がない」という述懐がつらいですね。
小学2年頃から、外へ遊びに出るよりも家で絵ばかり描いていたそうです。親父さんが酔っぱらって眠ると、50銭玉をくすねて、古本屋で絵の描き方の本や、骨董品の目録などを買った。少年倶楽部で斎藤五百枝黒崎義介の挿絵の模写に夢中だったそうです。

四島

骨董品目録とは。

これは売出の目録で、和紙の二重製本だから、ばらして裏返しにすると、立派な画紙になったのだそうです。

四島

小学生で、いじらしいですね。

数学も運動もさっぱりで、絵だけが上手だった。戦前は年号が皇紀で、昭和15年は皇紀2千6百年で日本中が大さわぎでした。その記念に福岡日日(今の西日本新聞)が催したスケッチ大会で入選して嬉しかったそうです。

四島

やっと、ほっとしました。

戸畑男子高等小学校を卒業、この頃お父さんがなくなってお姉さんにひきとられている。御兄弟も戦死や病死で、晩年は姉さん1人だけだったそうで、血縁がうすいですね。

四島

それから画業放浪で…。

しばらく鉄工所にいて、若松の九州造船所に徴用される。姉さんの家から寮に移ってほっとしたそうで、寮では水彩画ばかり描いていた。
皆と出勤するが、途中でぬけ出して、部屋にかくれて絵を描いている。舎監も3度まで許してくれたが、4度目には憲兵隊に連絡されてしまう。工業地帯だから防諜のためにカメラもスケッチも禁止だったのでしょう。木や静物のスケッチだけだったので、竹刀(しない)でお尻を叩かれただけでゆるされた(笑)。

四島

そして軍隊に。

昭和19年に特別志願で、久留米連隊に入隊。通信兵だったそうです。
戦後は進駐軍のキャンプで似顔絵を描いたり、ポスターを描いたり、小倉の魚町で似顔絵描きまで…。
えらいのは、金がたまると東京へ。東京駅につくと、すぐに上野の美術館に直行だったそうです。

四島

みんなが闇取引に走っているときに、志が違うんですね。

切符も徹夜で並んで買う時代ですよ。上野の美術館で※松本竣介さんや※靉光(あいみつ)※さんの絵を見て、色の鮮烈さと、ひっかきまわす表現に圧倒されてしまう。実に、生活が、絵、絵、絵なんですね。
東京でも九段下の進駐軍の将校クラブや八重洲口で似顔絵を描いたり。1枚百円だったそうです。夕食代と木賃宿の宿泊料、一杯の酒代を稼ぐと、あとは気楽にスケッチしていたらしい。
どうにもならなくなると、また九州へ帰って、お金をためて上京。そのくりかえしだったそうです。

  • 松本竣介(明治45-昭和23 1912-1948)
    画家。東京生まれ。中学時代に聴覚を失う。二科を経て靉光らと新人画会を結成。第二次大戦後自由美術家協会に参加。白地に都市風景をモンタージュした作品など、透明な作風で戦後画壇に衝撃をあたえた。
  • 靉光(あいみつ)(明治40-昭和21 1907-1946)
    洋画家。本名石原日郎。広島県生まれ、上海で戦病死。十力丸、マティス・ゴッホ・ルオーを遍歴し、宋・元画へ傾斜。シュールレアリスムの作風で独創性の高い作品を描き人間の不安と鬱を表現。

四島

その絵画放浪で、奥さんをみつけられる。

進駐軍に接収されていた小倉玉屋のPXで古美術店をしておられたお父さんとの縁から、店の評判娘さんだった清子夫人と結婚されるのです。

四島

やっと闇に光をみつけられた。

今どき若い人には、とても考えられませんね。貧しいが愛がある(笑)。家中の反対に、奥さんが「私は金の卵を見つけたのです」と。
それから奥さんが極貧の遼さんに仕送りされる。遼さんの詩の手紙、ラブレターもなかなかのもので。純粋なカップルで胸を打たれますね。

四島

お2人のスイートホームは、当然アトリエで。

えゝ。小倉北区の熊本町の前のアトリエですね。好意の人がうちの土地があいているからという事で、建築会社の人が古材をはこんでバタバタと。屋根はスレートで、台所は大家さん宅という事だったから、いかに軽装備だったか想像できますね。
写真にとれば、その次のいまのアトリエも、そのまま闇を描くアトリエになってしまう。もう25年になるそうですが、その静謐が“哲学するネコ”の場にふさわしいですね。

四島

そのアトリエで一点一点に生命が感じられる作品をうみだされた。そして到頭、凝視しぬかれていた闇にかえって行かれたのですね。

巨きな体つきで、糖尿がちょっと悪いとは聞いていましたが、暮の11月に亡くなられたときは信じられなかったな。

絵の深み人生の深み

遼さんは、この世は子宮の闇から大地の闇への中継ぎと考えておられただろうから、死についての心構えもちゃんとされていました。

四島

どのように、ですか。

葬式は不要。誰にも知らせるな。やむをえない人には、1ヵ月後に知らせればいいと。遼さんの新聞の訃報記事がおくれたのも、奥さんが御遺志をきちんとまもられたからですね。
遼さんの意識はずいぶん先へ駆けぬけていましたが、生活態度はそう非常識ではない。人に迷惑をかけるなという事ではあるでしょうが、もっと深い意味なんでしょうね。
柩は遼さんが好きだったバッハのマタイ受難曲が流れるなかでおくり出されました。奥さんが遺言をよく守られ、墓碑も「平野遼ここに眠る」の簡潔さでした。

四島

森鴎外の「森林太郎之墓」を連想しますね。達人同士で。

遺言は遺言ですが、それでは私たちの気がすまない。それで12月12日に、美術館で、無宗教の「平野遼さんを偲ぶ会」をいたしました。
遺影に花を捧げるだけで、まあ遼さんもゆるしてくださったでしょう。まだまだ多くの画業を遺せる人が、65歳の若さでと、涙が出ましたよ。
そう言えば、日記にも凄烈な記がありますよ。
「あと1年で十分です。うやむやのまま消えたくない。明確な自己主張と表現を実現したのちに、誰も知らぬうちに死にたい」と。

四島

人生は重く、はかないですね。

糖尿や肝臓が悪かったのに、絵を描きに病院をぬけだしていた平野遼さん。絵に殉じられたのですね。

司会

今日は絵と人生の深みを感じる御話を。ありがとうございました。

多くの方が主人の絵をみせてくださいと

編む女 夫人(1980)

内田

御主人の遼先生はどんな方でした。

平野

絵以外は見向きもしない。私が知りあってから永別まで、すこしも変らない。本当に絵を描くために生まれてきた人でしたよ。

内田

遼先生がたいへんな貧窮のときに、御主人にえらばれて、御家族総反対だったとか。

平野

小倉玉屋のPXでポスターを描いていた平野と古美術店を開いていた父が知りあって、私も平野を知ったのですね。
私の家は9人兄弟で賑やか。平野は両親がなく兄弟はばらばら。絵のほうもお先まっくらでしたから、家族の反対も当然でしたね。

内田

それでも奥さんが先生と…。

平野

暗っぽい絵を描く平野のひたむきさに魅せられてしまって。無我夢中だったのでしょう。
ただ、安泰の将来なんてとても考えられない。それで、子供はすっぱり断念しました。私たちの子供は、平野の絵だと思いきめて…。

内田

おちついたアトリエですね。

平野

古いでしょう。もう25年になります。使いふるしのチューブの山もハーモニーの1部でしょうから、そのままに。平野が亡くなったいまも、たちかえって筆をとれば絵が描ける。生前そのままです。
前の熊本町(小倉北区)のアトリエは久野さんという方の土地を借りて、知り合いの建築家の方が古材をはこんで建ててくださった。屋根はスレートで玄関に入るとすぐアトリエでした。
台所までの余裕がないので、大家の久野さんのところで一緒でした。みんなが、軒が低い、暗い、ボロ家だと言うのです。大家さんも一緒に笑っていました。いまでも御恩は忘れませんよ。

夫人へ平野りょうの詩の葉書

内田

抹茶がおいしいですね。

平野

平野は、お茶が好きでした。朝おきてお抹茶で一服。午前中は大作を。お昼休みをゆっくりとって3時まで小品。またお抹茶でくつろいで、夕方までデッサンの日常でした。

内田

ご本がたくさんありますね。

平野

「好きな絵が描けて、好きな本と音楽があれば」と、よく言ってました。学歴は高等小学校までですが、難しい本もよく読んでいました。ランボーが好きで、小林秀雄さんの評論や西脇順三郎さんの詩を離しませんでした。

内田

画論やエッセーも、実に立派な文章で。

平野

負けず嫌いで、本好きだったからでしょうね。自分の考えをまとめるのは苦じゃなかったようですね。
絵を描くときはいつもCDをかけていました。ベートーベンの四重奏曲やモーツアルトやマーラー、バッハのマタイ受難曲、それから黛敏郎(まゆずみとしろう)さんの涅槃(ねはん)もきいていました。

内田

お好きな食べ物は。

平野

手のかからない人で、私の手料理の薄味が一番と喜んでくれました。
お酒は若いときから、貧乏だったので専ら焼酎です。ワインも飲みましたが、糖尿もあって最近は鹿児島の知り合いの方から送っていただく樽酎ばかり飲んでいました。

内田

外国へも奥さまと。

平野

平野が初めてヨーロッパへ行ったのは49歳のときでしたがもう10回以上も。いつも、私も一緒でした。
スペインや、ポルトガルや、ギリシャやモロッコ、シルクロード、いわばヨーロッパの田舎が好きで、古い日本のよさのようなものが残っていると喜んでいました。ジャコメッティが、ますます好きになったといってましたね。
主人は、カメラは持たずに、スケッチだけです。重たいスケッチブックを分けあって、私も肩にずっしりでした。

内田

たいへんでしたね。で、先生のご日常は近よりがたい感じでしたか。

平野

いいえ。芯は優しい、手間のかからない人でした。そうそう、散髪も私の役目でした。せっかちで十分ぐらいですまさないと機嫌がわるい(笑)。
散髪屋さんの私はバスや電車にのると、男の人の髪形が気になって、つい失礼にじろじろ見えたり、観察勉強したのですよ(笑)。

内田

御逝去が惜しまれますね。

平野

いまでも多くの方がお訪ねいただくのですよ。先日も、大阪の方が土・日曜に主人の絵がみたいと、その事だけでいらっしゃって…。
主人は、多くの方達の心の中に、生きているのだと、つくづく感じました。

内田

玄関に奥さまの絵が…。

平野

私が編み物をしている絵で、小品ですが私の宝物です。見なれた顔なので、数回ちょっと座っただけで、ささあと描いてくれました。
主人がのこしたたくさんの絵に囲まれていますから、すこしもさびしくありませんね。

内田

どうもありがとうございました。

平野遼の「言葉」

「平野遼の世界展」(北九州市立美術館)より

  • 川の流れと同じように表面だけを見ていると、あたかもそれが全体の動きでもあるかのように錯覚する。若い時は時流にだけ眼が向いて、それを追いかけることがすべてであるかのような状態が続く。いかに激しく流れても静かな底流が厳として存在する。そのことを知るのに数十年を経なくてはならなかったのだ。
  • 数年前座骨神経痛で病院通いをしていた時、診療室の床を見ているうちに、クレーが見えデクーニングやピカソが謎のように現れてくるのをおもしろく視つめていた。多くの人のスリッパが作り出した無数の線の中から浮かび出る型象である。
    原始人の線画と同じものが潜んでいるのを私は到る処で発見するのである。
  • 私は最近、蟻のような微小な存在として道を歩く…。そんな思いで事物を見る時、路傍の雑草も川底の廃物も巨大な密林秘境となり、大湿地帯にも化してくるのだ。
  • 私が古代人のような眼で見ることを繰り返して主張するのは、この世に生まれてはじめて絵を描く人の眼で見よう、ということであり、習うことも教えることもできない感覚の領域だからこそ、描かずにいられない人間の精神を持続せよ…と、自己に言い続ける独白に他ならない。

夫人の回想から

  • 目をつぶってうかびあがってくるもの、それを描く。
  • 「いい話をしとるんだ。録音しとけよ」
  • 「いてもいなくてもいい存在でいいか」
  • 「私は毎日絵具を見ているのだからきれいな色の服を着なさい」
    (遼氏はいつも黒の無地セーターでした。)
  • 死は突如としてやってくる。無念の思いをしないように、描きたいものを描いておかねば。