No.9 末松謙澄

対談:平成7年7月

司会・構成:土居 善胤


お話:
日本近代史研究家 玉江 彦太郎氏
聞き手:
福岡シティ銀行 常務取締役 別府 正之

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


一枚の写真

末松謙澄 年譜

司会

一枚のこの写真から、お話をうかがいましょう。この写真は今日の主人公末松謙澄(すえまつけんちょう)が数え歳二十四・五歳のときですね。

玉江

明治十一年か十二年に、ロンドンの英国公使館で上野景範公使をかこんでの写真です。
官途について三・四年目。時の実力者の伊藤博文に目をかけられて、一等書記官見習で渡英したばかりですね。

別府

一人一人が新生日本を背負っている面(つら)がまえがいい。明治日本の夜明けを感じさせる風が吹いていますね。見ていて飽きない。
それぞれに、後年は活躍を。

玉江

大臣や公使、日銀総裁や実業界と活躍していますね。

司会

明治維新の薩摩長州の人たちの事はよく知っていても、地元出身で活躍した人たちの事はあまり知らない。今日の末松謙澄はその典型でしょう。

伊藤博文
(天保十二1841~明治四十二1909)幼名俊輔。長州出身。公爵。松下村塾に学び維新に活躍。憲法制定に参与。首相、組閣四度。枢密院議長。貴族院議長に歴任。日清戦争講和全権大使。ハルピン駅で暗殺された。

一流のひと

末松謙澄

玉江

慶応二年、徳川幕府の第二次長州征伐のとき、小倉藩は長州の奇兵隊に攻めこまれて城を焼いて京都(みやこ)・田川郡方面に敗退しますね。俗に御変動と呼ばれる丙寅の役(へいいんのえき)ですが、かつての幕府だから維新になってどうしても分が悪い。
その中から、末松謙澄は躍り出ている。新政府に入って一流の外交官となり、ロンドン時代に世界最初の『源氏物語』の英訳出版をして、いまも読みつがれている。政治家となり、最初の文学博士となり、逓信・内務大臣を歴任して伊藤博文の知恵袋となる。
国の興亡をかけた日露戦争では、英国で日本支持の世論を高め、その功績で子爵に列せられている。
小倉藩の出身では、陸軍に奥保鞏(おくやすかた)元帥(弘化三1846~昭和五1930)が出ていますね。この二人が歴史にのこる活躍をした巨きな人物です。謙澄が編纂した『防長回天史』は毛利藩の維新史をこえて、広く維新正史としての評価が高まっています。そして四度総理大臣になる伊藤博文の次女・生子(いくこ)の婿にもなっている。

英国公使館の庭で(明治11年4月~12年6月の間)。
上野景範公使(前列中央)。
富田鉄之助(後の日銀総裁、前列右端)
末松謙澄(後列右端)。

別府

まことに壮観ですね。ではその末松謙澄の出生から。

玉江

今から百四十年前の安政二年に、豊前国京都郡前田村(現、福岡県行橋市)の大庄屋、末松七右衛門房澄)と母伸子の四男として生まれています。男女五人ずつの十人兄弟でした。
幼名を千松線松とも言います。のちに謙一郎、さらに謙澄とあらため、「のりずみ」のつもりが皆が「けんちょう」と呼ぶので、サインもK.Suyematsuに。号は青萍(せいひょう)、青い水草の意です。父の七右衛門は臥雲の号を持つ歌人でした。

別府

幼時から学問尊重の家風の中に育ったのですね。大庄屋の坊ちゃんで、大事にされて…。

玉江

でも幼いときから鼻っ柱が強かったようですね。頭を剃「そ」られるのが大嫌い、それで寝ているときに剃ったら、癇癪をおこしては生「は」やしてかえせと周りを困らせたようです。

別府

勉強のほうは。

玉江

十一歳のとき村上仏山という漢学者の塾、水哉園(すいさいえん)に入門しています。同年、二十四人の入門者がおり、筑前筑後、遠くは肥後あたりからも来ていたほどですから、仏山は名声が聞こえた大先生だったのです。

別府

そして漢詩がまた絶品とか。

玉江

仏山先生の影響が大きいのですね。御変動のどさくさで家が暴民に焼き打ちにあって、一家離散になる。
そのとき仏山先生が線松少年を自分の家に引きとり、戦乱のおさまるまで7カ月間親身の面倒を見てくれる。この間の感化は大きかったでしょうね。

別府

数えの十二歳の頃ですね。人物をつくるのは、幼少期の試練が大切なのかなあ(笑)。
父臥雲の国学、仏山の漢学、上京しての洋学と、やはり時代が必要とする人物は、時代が育てるんですね。

生涯の友高橋是清

司会

謙澄が青雲の志を抱いて上京したのは明治四年、十七歳のときですね。

玉江

大庄屋も焼き打ちにあって、四男坊主の上京までは、とても手がまわらなかったでしょうね。後年「学ブニ常師ナク、居スルニ定マル処ナシ。落魄シテ都門ニ過スコト数年」と述懐しています。
上京して開明派の漢学者として知られた大槻盤渓(おおつきばんけい)(享和元1801~明治十1877)や、洋学者の近藤真琴(天保二1831~明治一九1886)の攻玉社(こうぎょくしゃ)の塾にも通い土佐出身の顯官、佐々木高行(後侯爵)の書生になっている。これから運命の出会いが始まるのです。

攻玉社
攻玉社は近藤真琴が、外国の石(洋学)を砥石にして玉(大和魂)を攻「みが」くということで塾名とした。福澤諭吉慶応義塾中村正直同人社と並んで明治の三塾の一つ。海洋学の専門塾で、日清、日露戦を指揮した将星たちは攻玉社出身が多い。

別府

興味津々ですね。

玉江

明治新政府は、西洋に追いつくことが一番と、たいへんな高給で外人教師を招聘(しょうへい)していました。その一人がアメリカ宣教師フルベッキです。
開成学校(のち大学南校→東京帝国大学)の教師で、教育、法律、行政に献策。岩倉遣外使節派遣、徴兵令、学制制定への貢献が大きかった人です。
この人のところに、のちの日銀総裁、総理大臣の高橋是清(たかはしこれきよ)がいたのですね。佐々木の令嬢静衛(しずえ)がフルベッキの娘さんに英語を習いにくる。そのお伴が謙澄で、高橋が話しかけて懇意になった。
その頃、東京師範学校が設立され、官費学生を募集しました。謙澄はその難関をパスするのですが、是清が君は広い天地で活躍する人だ、先生でしばられるなと辞めさすのです。
それから、謙澄は漢学、是清は英語の交換授業を始めるのです。レッスンは最初からパレーの万国史だったそうで、すごいものです。

別府

明治の若者の意気溌刺(はつらつ)さが感じられる風景ですね。

玉江

高橋是清は後年、その風貌からダルマ蔵相と親しまれますが、昭和十一年の二・二六事件で陸軍若手将校の凶弾にたおれます。謙澄より一歳上で、ともに十八・九歳の出会いです。
ところが師範中退で佐々木夫人がおかんむり。官費のいい学校に受かったのに、辞めるような我儘者は世話できない…と。それで高橋のところに転がりこむのです。

別府

それでは交換授業は成果があったでしょうね(笑)。

玉江

そのときに謙澄は退学記念写真を浅草の写真館で撮っているから意気軒昴たるものですね(笑)。

※攻玉社
攻玉社は近藤真琴が、外国の石(洋学)を砥石にして玉(大和魂)を攻「みが」くということで塾名とした。福澤諭吉の慶応義塾、中村正直の同人社と並んで明治の三塾の一つ。海洋学の専門塾で、日清、日露戦を指揮した将星たちは攻玉社出身が多い。

「この御仁は」と伊藤博文

謙澄の山岳父となった
伊藤博文

別府

それはそれで生計の方は(笑)。

玉江

そこで二人の着想がいい。明治開化で次々と新聞が発刊されているが、外国事情をのせている新聞がない。フルベッキ先生の所には英米の新聞がたくさん来る。特にロンドンの絵入新聞は面白い。あれを翻訳して売り込めば商売になると。
これは名案だと売り込みにまわったが次々と断られて、やっと岸田吟香(きしだぎんこう)東京日日新聞が買ってくれた。甫喜山景雄(ほきやま)という人が君等は一カ月いくらで暮らせるのかときくので、五十円だと答えたら月々五十円をくれたそうで、愉快ですね。
その縁で明治七年に東京日日新聞の日報社に入社するのです。高橋も文部省の役人になっていて彼の芝の家に同居し激論を交わす。それがペンネーム笹波萍二の社説となったのです。

別府

田舎出の若者が自力で道を拓いた。ほっとしますね(笑)。

玉江

それが数えの二十歳ですからね。
ところがすぐに福地源一郎(桜痴)が主筆として入社するのです。福地は長崎の人で、幕府の外国方に出仕して遣外使節に随行し、新政府の岩倉遣外使節にも同行している。明治を代表する言論人です。
謙澄はあんな大物がきたのでは、自分の前途がないから、辞めようと言いだす。是清は「大物が入れば師事すればいい。それだけ君の前途がひらける」と激励するのです。

別府

もつべきはよき友ですね(笑)。

玉江

福地は紙面一新をはかって、社説欄を設け、二十歳の謙澄を執筆者に抜擢する。「笹波萍二」の誕生です。
そして彼の書いた*「元老院批判」「教務省廃止論」などが、ときの権力者伊藤博文や、山縣有朋(やまがたありとも)の目を引くのです。

別府

明治という若い時代のたぎりを感じますね。

玉江

入社早々の頃でしょうが、東京日日の首脳の回顧では、ハイカラ謙澄は弁当に牛乳をかけて食べていたそうで、不思議な事を思ったそうです。
福地は、謙澄をつれて銀座へよく食事に出かけていました。あるとき、官員馬車がとまり、先生と声がかゝる。声の主は伊藤博文で、二言三言。そして「この御仁(ごじん)は」ときく。
福地が豊前出身で論説の末松謙澄と紹介。伊藤は笹波萍二の論説に関心をもっていたし、隣国豊前人に親しみを覚えて「遊びに来られよ」と誘うのです。

別府

決定的な運命の出会いですね。その博文もまだ、三十五・六歳ですね。

玉江

博文は訪問した謙澄を歓待して、ストックホルムで買ってきた「ローマ史論」を記念にくれる。それから山縣有朋ともつながるんです。

別府

長州出身の二人は、自分たちが攻めこんで、城の焼滅、幼主をかついでの敗退となった、小倉藩への償いの気持ちも…。

玉江

あったかもしれませんね。
山縣有朋とも「給料を倍出すから俺の所へ来い」「福地への恩義があるから、それはできない」。そうした問答があってさらに目をかけられたそうです。

別府

そのふれあいから謙澄が官途につくのですね。

玉江

明治八年十二月二十八日の事で新聞人笹波萍二の活躍はわずかに二年でした。
そしてすぐに江華島問題解決のため、黒田清隆全権を補佐する井上馨に随行して渡韓し、修交条約の起草に加わります。二十一歳、出仕して翌日の渡韓です。驚きますね。
謙澄の記によればこのとき、井上が近々英国へ派遣されるので「足下同行の意アルヤ。アラバ随行セシメン」と言う。謙澄は「小子洋行ノ志此ニ年アリ。閣下モシ随行ヲ許セバ豈(あに)之ヲ辞センヤ」と随行を頼むのですね。
ところが、なしの礫(つぶて)で、井上は外の人間を連れて行く。約束違反だと面白くないのでたてつくが、いくら鼻っ柱の強い謙澄でも相手が、伊藤博文の盟友井上では歯がたたない。(笑)。

  • 山縣有朋
    (天保九1838~大正十一1922)長州出身、前名狂介。陸軍元帥、公爵。松下村塾に学び、維新に活躍。徴兵令を制定。内相、首相を歴任。日清・日露で功をたて、後に枢密院議長。元老として権力をふるった。
  • 井上馨
    (天保六1835~大正四1925)通称聞多「もんた」。侯爵。長州出身。維新に活躍。外相、農相、内相、蔵相を歴任。後年元老。

西南の役へ

別府

それから明治十年の西南役ですね。

玉江

征討総督本営付を命じられる。山縣有朋の引き抜きですね。有朋の幕下に入った謙澄は得意の健筆をふるいます。
城山にこもった西郷さんへあてた山縣有朋の降伏勧告状は情理を尽くした一世の名文ですが、謙澄の筆になるとも言われています。

司会

このあたり、司馬遼太郎さんの名作『翔ぶが如く』でも圧巻で、〈「辱知生(じょくちせい)山縣有朋、頓首(とんしゅ)再拝、謹デ西郷隆盛君ノ幕下ニ啓ス。有朋ガ君ト相識(し)ルヤ、茲(ここ)ニ年アリ。君ノ心事ヲ知ルヤ蓋(けだ)シ又深シ」という文章ではじまっている。
格調はかならずしも卑(ひ)くなく、後年、冷酷と老獪(ろうかい)をもっておそれられた人物とおなじ人間が書いたかとさえ疑われる。山縣は年まさに四十であった。多少の若さを残し、多少の感傷とみずみずしさを残しつつ、暮夜、幕営の灯のもとで、西郷を想う気持の昂(たかぶ)りを懸命に抑えつつ書いている光景が、目にうかぶようである。〉(文藝春秋刊)とありますね。

玉江

勧告文を続けましょうか。「窃(ひそ)カニ有朋ガ見ル所ヲ以テスレバ、今日ノ事タル、勢ノ不得已(やむをえざる)ニ由(よ)ルナリ。君ノ素志ニ非ルナリ。有朋能(よ)ク之ヲ知ル。」(略)
「君が人生ノ毀誉(きよ)ヲ度外ニ措(お)キ復(ま)タ天下後世ノ議論ヲ顧ミザル而巳(のみ)。嗚呼(ああ)君ノ心事タル寔(まこと)ニ悲シカラズヤ。有朋、コトニ君ヲ知ル深キガ故ニ君ガタメニ悲シムコトマタ切ナリ。」(略)「ソレ一国の壮士ヲ率イテヨク天下ノ大軍ニ抗シ劇戦数旬百敗撓(たゆ)マザルモノ既ニ以テ君ガ威名ノ実ヲ天下ニ示スニ足レリ」(略)
「願ハクバ、君早ク自ラ図(はか)リテ一ハコノ挙ノ君ガ素志ニアラザルヲ明ニシ、一ハ両軍ノ死傷ヲ明日ニ救フ計ヲナセ。(略)故旧ノ情有朋切ニコレヲ君ニ翼望(きぼう)セザルヲ得ズ。書ニ対シテ涕涙(ているい)ノ如ク、イワムト欲スルコトヲモ悉(ことごとく)スアタワズ。君幸二少シク有朋ガ情懐ノ苦ヲ察セヨ。涙ヲ揮(ふる)ウテ之(これ)ヲ草ス。書、意を悉(つく)サズ。頓首再拝」とあります。
司馬さんによれば、「山縣はこの手紙をさきに人吉の段階で書き、それを多少あらたに筆を加えたらしい」とあります。
有朋は歌人、散文家としても出色の人でしょう。そして周辺に謙澄が補佐していた。一幅の絵がうかびますね。

ロンドン八年

別府

次が先生の著書、ロンドン時代の『若き日の末松謙澄』になるのですね。

玉江

大正九年に謙澄が亡くなってから丁度六十年目の昭和五十五年に謙澄の書簡が多数発見されました。
行橋市前田の末松本家で、当主喬房(たかふさ)氏夫人の幸子さんが明治二年建築の古い土蔵を整理していると、美濃紙に包んだ書簡の束が出てきた。表に「英国在留、末松謙澄通信書、明治十一年二月より」とあり、十二年七月までの十六通で家郷への便りだったのです。

別府

それを先生が整理され、背景をそえて『若き日の末松謙澄』の本として発表なさったのですね。英国派遣は伊藤博文の配慮なのでしょう。

玉江

そうでしょうね。明治十一年一月二十九日、英国公使館付一等書記官見習となる。英仏歴史編纂方法の研究も指示されています。数え年二十四歳。西南役も終わり、統一国家の前途と、自分の役割に青年謙澄は胸の高鳴るものがあったでしょう。
赴任にあたり伊藤博文は五十ポンドの餞別をしています。当時一ポンドは五円で邦貨二百五十円。博文の給料が月五百円だったそうですから、破格の餞別でいかに博文が謙澄に期待していたかがわかりますね。

別府

飛行機のない時代で、ロンドンまでの航海は大変だったでしょう。

玉江

明治十一年二月十日横浜港を出航。香港、シンガポール、セイロン、コロンボ、スエズ溝(十年前一八六九年にスエズ運河は開通)、を経てマルセーユ港に三月二十七日着。パリを経てロンドン着が四月一日で五十一日間の長旅です。

別府

英国滞在はいつまでで。

玉江

十九年四月帰国まで八年間です。博文への手紙は到着早々の四月末に、イギリス・ロシアの険悪情勢の分析報告をしていて有能ぶりを発揮したようです。
父、臥雲への書翰は実に克明で、ゆきとどいた内容ですが、渡英の翌十二年に臥雲、兄・房恒、師の仏山の訃報がとどくのです。

別府

帰ろうにも帰れない。たまらなかったでしょうね。

玉江

そうでしょうね。上野公使のあとは切れ者で後に文部大臣になる森有礼(もりありのり)です。
英国政界はディスリレーグラッドストーンの応酬時代、ヨーロッパはビスマルクの登場で、新日本の方向をどこにえらぶか、菊池大麓(きくちだいろく)穂積陳重(ほづみのぶしげ)馬場辰猪等、日本学生会の俊秀たちと喧喧諤諤(けんけんがくがく)の論議を交(か)わしています。
合間には欧州各国の探訪と意義ある充電の歳月だったようです。

別府

単なる外交官でなくマルチの活動ですね。資金は潤沢でしたか。

玉江

普通の留学生は年千円支給されていたそうですが、謙澄は千五百円でもたりない。
それを三井物産、徳川家、前田家がサポートしています。国の人材のためには資金を提供する美風があり、恩にきせず、受けても節を屈しなかった。明治初期の風は清爽(せいそう)ですね。

別府

大学はケンブリッジ大学ですね。

玉江

バチェラー・オブ・アーツ(文学士)、マスター・オブ・ロー(法学修士)を受けています。

別府

勉強もしっかりしたのですね。国内への眼は。

玉江

不平等条約改正にあたっての井上馨外相の方針を徹底的に批判している。憲兵制定の不可を主張したり日本政府批判も猛烈で、支持者の伊藤博文をはらはらさせたようです。
なんやかんやで、帰朝命令も噂されました。福地桜痴が心配して、いつでも帰ってこい。身柄は俺が引きうけると書翰(しょかん)をおくったりしているほどです。

『源氏物語』を英訳出版して世界へ紹介

別府

『源氏物語』も翻訳したそうで。

玉江

ロンドン時代に特筆する一面は文化面での活躍でしょうね。その第一が『源氏物語』の英訳です。
明治十五年にロンドンのトルプナー社から「“Genji MonoGatari, the Most celebrated of the classical Japanese Romance”」の題名で出しています。四十八帖全訳でなく十七帖を。
これは源氏物語が外国に紹介された第一号で、参考書もとぼしい外国での著作だけに労作でした。ウエリー訳の源氏物語より、実に四十三年も前のことです。英語界の権威の岡倉由三郎が、平明な文で相当の佳訳とほめています。
明治二十七年には丸善から翻刻版が出され、一世紀たって昭和五十年に現代風に装幀を変えて、チャールズ・タトル・カンパニーから新書版も出ました。息の永い名著ですよ。

別府

驚きましたね。

玉江

いや、まだまだ。「源義経・ジンキス汗説」を聞かれた事があるでしょう。

司会

ええ。頼朝の追討を受けた義経が生きのびてモンゴルへ渡り、ジンギス汗になったと。東北に流布されている伝説?で、西郷さん生存説と同じく一種の英雄待望論ですね。

玉江

その伝説をうまくとりあげたのが謙澄です。明治十年頃の日本は、ヨーロッパでは殆ど知られず、中国の属国ぐらいに思われていました。
それで日本の威名アップにそのフィクションを思いついた。源義経を蒙古風に訛るとゲンギギャンでジンギスカンに近い。うん、これだと(笑)。明治十二年に『成吉斯汗』(じんぎすかん)を英文で出版しているんです。

別府

ジンギスカンが義経だとは…。ヨーロッパの人たちはおどろいたでしょう。

玉江

驚いたのは西欧人だけではなく、日本人の内田弥八も(笑)。彼はこの本をロンドンで読んで興味を持ち、日本語に訳して、『義経再興記』がベストセラーになっているんです。
この二つは英文ですが、自分の本領の漢詩の面でも、ロンドンから指示して、西南役従軍の漢詩五十篇を集め『明治鉄壁集』を出版しています。

別府

後年、日本で最初の文学博士になる素地は充分ですね。

玉江

在英中に中国の、古学略史、古文学略史、ギリシャ古代理学、ギリシャ古代哲学の本を。さらにトーマス・グレーロード・バイロンパーシー・シェリーの詩を漢詩訳して郵便報知新聞に載せたりしています。

別府

まるで文化使節の役割ですね。

ホニーモーン

英訳出版「源氏物語」(明治15年)

別府

謙澄が帰国するのは

玉江

明治十九年三月で、出国して八年ぶりです。

別府

一度も帰国していないのですね。ロンドン八年を総括しますと。

玉江

一、新興国日本に必要な情報のキャッチと伝達。二、世界の中心であるロンドンの視野と見聞から政府政策への献言。三、日本が文化国である事を知らせる(現在のPR)。四、日本に相応しい西欧文化の吸収。五、総括して帰国後政府の要人として国造りの役目を担い推進するための勉学、でしょうか。

別府

さて、いよいよ帰国ですね。

玉江

帰国するとすぐ内務省参事官に。当時の総理大臣は伊藤博文、内務大臣は山縣有朋で、ウエルカム万全の陣容ですね。
翌年三月には内務省懸治局長、そして二十一年六月七日、日本最初の文学博士に任じられています。

別府

他の博士たちは。

玉江

文学博士は、末松の外は加藤弘之中村正直重野安繹(しげのやすつぐ)等六名。
法学博士は穂積陳重等四名。理学博士は山川健次郎菊池大麓等四名。医学博士は高木兼寛、小金井良精(こがねいやすゆき)といったいずれも新日本の一分野を担った錚錚(そうそう)たる面々です。

別府

帰国後に結婚も。

玉江

伊藤博文の次女生子と明治二十二年に結婚しています。末松は数えの三十五歳、生子は二十二歳でした。
旧小倉藩の一部の人たちが敵方の娘を嫁にするとはと非難しましたが、末松は、「敵将の娘を人質にとったと思えばよかろう」と笑ってとりあわなかったそうです。
愉快なのは、東京で挙式のあと二人で山口まで旅行しますが、同年五月三日の東京日日新聞は、末松が「ホニーモーン」した事を伝え、新婚旅行と訳しています。これを日本最初の新婚旅行だという人もいますね。

司会

坂本龍馬が祇園の美妓おりょうをつれて薩南へ旅したのを、最初とした話もありますね。もっとも、彼らは西欧風ホニーモーンではない(笑)。で、活躍の方は。

玉江

明治二十二年に憲法発布。翌二十三年の第一回衆議院選挙に福岡懸第八区から立候補して、征矢野半弥(そやのはんや)と争いました。
征矢野は翌年福岡日々新聞(現・西日本新聞)の社長になる人で、豊津藩校育徳館出身。末松は私塾水哉園出身で、官学と私学、士族と平民の対決で注目を浴びたそうです。以後続けて三回当選しています。
後に征矢野の紹介で末松の『防長回天史』の編纂を手伝うことになる堺利彦は自伝で「末松と云えば仏山塾出身の先輩ではあるけれども伊藤博文の婿として藩閥官権の代表者である。それが多年民権自由の功労者たる征矢野さんを圧倒するとは何事だろう。」と憤慨したと言っています。
明治二十五年、第二次伊藤内閣の法制局長官に就任、謙澄三十八歳のときでした。
ついで男爵、貴族院議員、三十一年に第三次伊藤内閣の逓信大臣、三十三年に第四次伊藤内閣の内務大臣に就任、伊藤の知恵袋と言われました。

別府

明治三十七・八年の日露戦争でまたロンドンへ。

玉江

ケンブリッジ大学卒で英国の要路に知人の多い末松を派遣してイギリスに日本の立場を訴え、支持世論を喚起させたのです。日英同盟がロシアと戦う日本にとっては何よりの支えでしたから、大きな役目だったのですね。

司会

一方、アメリカへはハーバード大学卒の筑前出身の金子堅太郎を派遣し、親日興論の喚起と学友ルーズベルト大統領に平和締結の呼びかけを工作させていますね。

玉江

郷土出身の二人の活躍ですね。その功で明治四十年に金子は伯爵、末松は子爵を与えられています。
ついで帝国学士会員、大正七年には法学博士と、官界、学界の頂点を極めたのです。

門司港開発に貢献する

家族とともに。左から
謙澄、春彦、生子、沢子(明治30年代)

別府

地元への貢献は。

玉江

視野がオール日本でしたから、あまり具体的には。でも門司港開発に力を貸した事は大きいですね。
福岡懸知事・安場保和(やすばやすかず)
が企救(きく)郡長・津田維寧(これやす)
、京都(みやこ)・仲津郡長・清水可正と門司築港計画をすすめていました。
本州と九州の交通は赤間ヶ関(下関市)の亀山宮下から北九州市の大里(だいり)への海路で、潮流も急だし、荒天の日には欠航と不便極まりない。
これを赤間ヶ関から目の先の門司浦に結べば最短距離でたいへん便利になる。門司浦を九州縦貫鉄道の起点にする構想も固まっていました。

別府

その予算は莫大で…。

玉江

築港工事費が三十九万円で地場資本だけではとてもまかなえない。
津田が思いあまって、水哉園の後輩で、内務省懸治局長の謙澄に相談するのです。謙澄は、財界のドン渋沢栄一に頼み、渋沢の斡旋で安田善次郎大倉喜八郎浅野総一郎が賛成。
明治二十二年に門司築港株式会社は資本金二十五万円(一株二千五百円)で発足。渋沢、安田、大倉、浅野は各十株ずつ計十万円を出資したのです。

別府

門司港レトロが今注目され、戦前の門司の繁栄がしのばれますが、そのきっかけに謙澄さんがからんでいたのですか。大きな貢献だったですね。

司会

金子堅太郎も八幡製鉄誘致に一役買っている。北九州の発展に、郷土出身の金子・末松がかかわっているのは興味深いですね。

玉江

築港を契機に九州鉄道の本社は博多から門司に移り、日本銀行西部(さいぶ)支店設置。商社や銀行や中央資本の進出が続出して、日本経済の縮図といえる壮大な景観だったのです。

「天覧劇」と『谷間の姫百合』

『防長回天史』未定稿

別府

文化面の活動では。

玉江

演劇改良運動があります。謙澄はロンドンの時代に演劇もよく見ています。
軍艦「清輝」が、はじめて渡航してきたとき、井上良馨(よしか)艦長(後年元帥)を芝居に誘っています。演劇が世間にありそうな様子を写している。総ての所作が、作りもののようでなく、一々真に迫るので、二人で感心したと言っています。
帰国後、伊藤博文、井上馨、渋沢栄一、福地源一郎等朝野の名士と、守田勘弥市川団十郎(九代)等を集めて、演劇改良運動を提唱するのですが、その下地はロンドンで養ったのです。
モットーは「一、従来の陋習を脱し好演劇の実施。二、脚本の著作を名誉ある業たらしめる。三、演劇、音楽会、歌唱に供すべき演技場を構造すること」の三つで、「高尚たるも世態に背(そむ)かず、(略)楽しんで淫せず、和して流れず、上等社会の觀に供して恥づる所なきの域に達せしむ」とあります。

別府

本邦初の「天覧劇」公演も演出したのですね。

玉江

外国では国王や元首が演劇を見物するのは普通だから、歌舞伎を天皇に見ていただこうと、井上馨邸に明治天皇昭憲皇太后、各国大公使などを招いて、団十郎左団次(初代)、菊五郎(五代)福助の名演で、「勧進帳(かんじんちょう)」や「操三番叟(あやつりさんばそう)」などを上演したのです。
これはたいへん話題となり、演劇界の地位向上に大きく貢献しました。団十郎は「嗚呼(ああ)、此の日はいかなる日ぞや」と感泣したそうです。

別府

謙澄さんは、好奇心が旺盛で、次々と新機軸に挑むのですね。

玉江

面白いのは、明治二十一年に英国の女流作家パーサ・M・クレイの小説『ドラ・ソルン』『谷間の姫百合』という題で翻訳し二十三年まで四巻本で発行している事です。
大変評判となり、昭憲皇太后が愛読され、侍従を通じて次巻を心待ちされている事を伝えられたそうです。

別府

内務省の局長が、外国の女流作家のベストセラー小説を翻訳する。若さを失わない人なんですね。

玉江

前後しますが『日本文章論』『青萍詩存』『歌楽論』『国歌新論』『日本美術全書(翻訳)』などの本、そして晩年にはローマ法研究に力を注ぎ、「欽定(きんてい)羅馬法学提要」を著している。
硬軟自在の見事さですね。

広く深い史観で『防長回天史』

昭和55年に発見された
謙澄の在英通信

司会

そして、そのエキスが年々評価の高まってきている『防長回天史』ですね。

玉江

『防長回天史』は文字通り読めば周防(すおう)と長門(ながと)二州の維新史ですが奥がひろい。毛利家の委嘱を受けて始めたのですが、結局は末松謙澄の編纂発行になり、彼のライフワークの一つになったのです。
毛利家が明治十二年に東京に編纂室をおき、明治維新の大業をなしとげた自負から、維新当時の殿様の毛利敬親(もうりたかちか)公(文政二1819~明治四1871)の功績を顕彰し、自藩の功業を記録するものにとの意向でした。
井上馨が斡旋役で、編纂を長州出身の杉孫七郎(子爵)と品川弥二郎(子爵)に頼むが断られる。関係者が生存しているから、誰もがしりごみするのです。
困って伊藤博文に相談すると、末松ではどうかとなった。

別府

井上と末松、不思議な因縁ですね。毛利藩の維新史を、幕府方だった小倉藩領出身の末松謙澄に頼む。なかなかの度量ですね。

玉江

結果的にはそれがよかったのです。末松は、第一に防長二州の維新史にとどめず、維新全史とする。第二に編纂人は末松に一任する、この二つを条件に毛利家歴史編輯所総裁を引き受ける。明治三十年のことです。

玉江

謙澄はケンブリッジ大学在学中ヨーロッパの近代的な実証史に興味をもっていましたし、封建社会から近代国家へ移行する歴史の執筆は魅力だったのですね。

別府

そうして、近代史家末松謙澄の出現ですね。で、謙澄が選んだ編纂の面々は。

玉江

それが、逆賊足利尊氏を評価した旧幕臣の山路愛山と南朝正統論の笹川臨風、ともに幕臣につながっている。のちに幸徳秋水(こうとくしゅうすい)と親交を結び左派の言論で知られた旧小倉藩の堺利彦といった人たちを起用しています。

別府

末松も内務大臣におされたり忙しいのによくやりとげましたね。

玉江

謙澄が引き受けてから二年目の三十二年に編集は一応終了しています。

別府

一応と言いますと。

玉江

編集事業が終わって、山路、笹川、堺等の編集人は解散、あとは謙澄と中原邦平、助手の時山弥八という人たちが整理された資料や草稿をまとめて執筆すればいいことになる。
ところが、「社会新報」が『防長回天史』は毛利氏のために筆を曲げて他藩の功労を没にしていると攻撃をはじめる。それで、「萬朝報」(よろずちょうほう)に移っていた堺利彦が『防長回天史』は公平忠実を旨にありのままに編纂したと反論するのです。
こんどは毛利家がひっこみ思案になって、延期をと言い出す。
そこで謙澄は毛利家と交渉して、一切(いっさい)の資料を自由に閲覧できる承諾と印刷前に関係者の批正(ひせい)を受ける事を条件に、自費出版を決意するのです。

別府

小倉藩領出身の謙澄が自腹で『防長回天史』を。面白いですね。

玉江

そのうち明治四十二年に伊藤博文がハルピン駅で狙撃されて亡くなりますね。
博文を失ったあとは、政治的活動を、極力避けて、博文から要請を受けた『防長回天史』の完成に全力を注いだのです。
第一巻は、明治四十四年八月二十日に刊行され、大正九年八月に初版本第十二巻が完成するのです。
博文に推薦されてから二十四年の歳月を経ている。維新回天史にはそのぐらいの熟成期間が必要だったのですね。

司会

そうして、客観記述、総合的構成、史料主義を貫いた近代歴史叙述として年々評価の高まる維新史が誕生したのですね。

玉江

回天史で明治維新の初期を天保改革においたのが卓見と評価されています。各藩とも財政が窮迫し、武士の貧困化、大飢饉、百姓一揆の続発、大塩平八郎の義挙もおこり、封建社会の基盤がゆるぎだしたときでした。
アメリカ船モリソン号が日本漂民七名をつれて浦賀にくるし、渡辺華山高野長英等の蛮社の獄もある。内外ともに封建時代の矛盾が噴出した時代なのですね。
老中水野忠邦の改革は失敗に帰しましたが、長州・薩摩・土佐の西南雄藩は有為な人物を登用し、幕末の政局を動かせる経済改革を成功させて、維新回天の基盤を築いたのです。

別府

その天保時代を、明治維新の初期とした歴史家、末松謙澄の面目躍如ですね。

玉江

さらに謙澄は初版の完成をすすめながら、再編にとりかかる。そして九月中旬に再版のために緒言を書いて間もなく、枢密院に出席中、気分が悪くなり、流行性感冒に急性肋膜炎を併発して、大正九年(1920)十月五日に数えの六十六歳で亡くなっています。
その緒言は
〈一、予カ毛利公爵家ノ依嘱ニ依リ、本書ノ編纂ニ着手セシハ、二十有余年前ノ明治三十一年ニ在リ。其後、若干年ニシテ故アリ、其事中止トナレリ。既ニシテ、予ハ公爵家ノ容認ヲ得テ、全然、自費、自力ヲ以テ、其業ヲ継続スルコト無慮十年、其間、事故ノ為メ、偶々、間断アリシ外ハ、殆ント一切ノ政治上、社交上ノ功名モ、義務モ之ヲ抛(なげう)チ、日トナク、夜トナク、心、若(もし)クハ手ヲ、此事ニ労セサルノ時、殆ント之(こ)レナク、本年六月末日ヲ以テ、全部十二巻ヲ完結シ、九月中旬ニ至リ、修訂ノ功ヲモ竣(おわ)リタルモノナリ。
一、本書防長ノ二字ヲ冠スト雖(いえど)モ、維新ノ事業ニハ防長ニ州ノ関係其半(そのなかば)ニ居ルノミナラス、本書ハ当時ノ大勢及ヒ諸藩ノ関係ヲモ其要ヲ併叙セルヲ以テ、実ハ維新全史ト異ナラス。読者ノ幸ニ此見地ヨリ観察センコトヲ切望ス。(略)〉、とあり実に堂々たるものです。(傍点は編集にて)

別府

謙澄さんはその完本を見ないままで亡くなって残念だったでしょう。

玉江

『修訂防長回天史』全十二巻は謙澄逝去の翌大正十年三月に、著作者末松謙澄、発行者末松春彦(嗣子)で刊行されています。

司会

末松謙澄は日本の夜明けと発展を客観的に見続け記録したのですね。外交、政治、文学、歴史と、実に大きな歩みの人でしたね。


お話:
さくら銀行 代表取締役会長 末松 謙一 氏

あくなき知識欲のひと

末松謙澄さんは、会長の大伯父さんですね。会長のお名前にも「謙」の字が。御一統の矜(ほこ)りでしょうね。

末松

父が謙澄にあやかれと思ってつけたのです。
子供のころ、学校の成績が悪いと、すぐに謙澄を引き合いにだして叱られる。迷惑でしたな(笑)。
でも名前をけがしてはいけないと、大切な芯のところで大きな励みになっていました。

会長から御覧になって謙澄さんの魅力は。

末松

身びいきでしょうが、謙澄の「飽くなき知識欲」には敬服しています。
生まれたばかりの明治日本は、いわば仮普請(かりぶしん)で、皆がそれぞれ分担して固めていかねばなりませんでした。
謙澄は外交、政治、文学、歴史、etcと、今で言えばマルチ型ですが、当面の問題にひたむきにチャレンジしたのですね。
だから語られる人によって、政治家にされたり、文学者にされたり、歴史家にされたりといろいろで、当人は苦笑しているでしょう。

それぞれが日本の夜明けを築いた立派な足跡ですが、美術面でも。

末松

洋画家の草分けとされている山本芳翠(ほうすい)と昵懇(じっこん)でした。演劇改革に情熱を燃やしていましたから、謙澄は芳翠に、新しい舞台背景のジャンルまで期待していたふしがあります。
ライフワークになった『防長回天史』の編纂では、糖尿病で視野がうすれた眼を、史稿すれすれに近づけて朱筆をいれていたと聞いています。
晩年、道で謙澄とすれちがった私の父が頭を下げると、どなたですかと言ったそうですから、よほど悪かったのですね。
目が悪くなったのは、日露戦争のとき、親日世論を喚起するために英国へ渡りましたが、そのときの過労が原因だと親父は話していました。

謙澄さんの日常は

末松

ロンドンで八年間も外交官生活をしていながら、日常は純和風の暮らしぶりだったそうです。家では和服で通しましたが、無頓着な人で前をはだけたままでも平気だったとか。
宮中の晩餐会に召されたときも、たいがいの方はほとんど手をつけずに記念に持ち帰られたもののようですが、彼はだされたものを全部たいらげたうえ、生子夫人の皿まで箸をつけるので、大伯母は恥ずかしくて仕方がなかったそうです。

伊藤博文から福地桜痴まで、当代一流の人に引き立てられますね。よほど魅力のある人だったのですね。

末松

それはよく分かりませんが、回顧談で、こんな話を聞かされたことがありました。
枢密院会議の席で、厳しい質問をするが、決して追い込まないで、必ず逃げ道を残していたそうです。
維新で冷や飯をくった小倉藩領出身のハンディにたえ、多くの人の温情で道を拓(ひら)いてきた謙澄だけに、人の苦衷(くちゅう)がよくわかっていたのでしょう。
その意味では、ふところのひろい苦労人だったようです。

謙澄さんの活動は若い国家、明治日本が背景にあってですね。

末松

東南アジアの若い国々をよくまわりますが、大蔵大臣はじめ指導者たちが四十代の若さで目を見張ります。
明治維新後の新興日本を担った若い群像をほうふつさせますね。
日本も明治維新、終戦と、社会変革の大きなうねりがあって、若い俊英を輩出しました。戦後半世紀をへて、新しい時代を開くときでしょう。
末松謙澄に思いを馳せながら、第三のうねり、明日が見える若い俊英登場が待望されてなりません。

---末松謙一氏は「末松謙澄」の弟・凱平氏の嫡孫にあたられます。


聞き手:
福岡シティ銀行 広報室 土居善胤