No.10 源平合戦「壇の浦」 その壱 中世の窓をあけた天下分目の海戦

対談:平成10年3月

司会・構成:土居 善胤


お話:
作家 古川 薫氏
聞き手:
福岡シティ銀行 常務取締役 石橋 博光

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


壇ノ浦は歴史と景観の舞台

源平合戦 年譜

眺望 壇ノ浦

司会

先生は関門海峡のほとりにお住まいですね。

古川

800年前に、この海峡の壇ノ浦で源氏と平家の最後の、合戦(かっせん)があったのだと思うと感慨が深いですね。
日本歴史を振り返ると、天下分け目の東西合戦が3回あるんです。第1回は源平合戦、第2回は400年前の関ケ原合戦。第3回は130年前の明治維新です。前2回は東軍の勝ち。維新だけは西軍が逆転勝ちをしている(笑)。明治維新では、激動の幕開けにここで長州藩が、お粗末な大砲でアメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国艦隊と攘夷(じょうい)戦争をやっている。それから時代のうねりが大きく変わって討幕へ。明治維新の大きな転換でした。
源氏の勝利は古代の摂関政治から中世の武家政治へ。関ケ原は江戸幕府の近世へ。明治維新は近代への幕開けでした。
壇ノ浦は、源平合戦はロマンとしてだけではなく、こうした史観でとらえる必要がありますね。

石橋

すると、日本変革の3つのできごとのうち、関門海峡はその2つにかかわっている。そして、壇ノ浦にしぼればハイライトは源平合戦ですね。

古川

幕末の攘夷戦はまだ生臭くて完全な過去にはなっていない。源平合戦はすでに風化して、極彩色(ごくさいしき)の絵巻物の感じですね。
今から約800年前の寿永4年(1185)3月24日、平家の軍船が海峡の田野浦に集結して源氏の軍船を邀撃(ようげき)します。

  • 寿永4年 壇ノ浦合戦があった1185年3月24日は、安徳天皇による寿永4年と後鳥羽天皇による*元歴2年(寿永3年4月16日、元歴に改元)の両説がある。いずれも同年。

海峡は満潮と干潮によって、約3時間おきに昼夜4回、西の響灘と東の周防灘(すおうなだ)の水位が変わり、潮流が西流れと東流れの激流に変化します。
大潮で時速8ノット、小潮で5ノットの激流ですが、変わり目には静止状態になって、次は反対に逆流するのです。

  • ノット knot 船舶や海流の速度の単位。1時間に1海里(1852メートル)が1ノット。

その激流を九州北端に突き出た門司半島がさえぎって、東ふところは比較的に水面のおだやかな田野浦です。平家はこの田野浦に兵船を集め東からの源氏の船を待ち受けて、乾坤一擲(けんこんいってき)の最後の決戦に挑むのです。
下関の火の山公園や、門司の和布刈(めかり)公園から見下ろせば、源平の古戦場が一望ですね。

清盛が内海を国際航路に

皇室系図 桓武平氏系図

石橋

日本歴史を分ける重要な合戦が、なぜここで行われたのでしょうか。

古川

関門海峡が本土と九州の結接点という地理的条件があって、必然的に日本歴史の重要な舞台に登場したのです。
いまひとつのポイントは古来から九州が日本史のエネルギーの倉庫だったことです。

石橋

人的資源、物産。さらに博多という外来文化の窓口がある。九州の持っているエネルギーを、中央政府が吸い上げようとしたのですね。

古川

古代には大宰府、室町幕府になると九州探題(たんだい)をつくるでしょう。九州を重要視しているのです。

  • 九州探題 九州の政務・訴訟・軍事をつかさどった。

そして京都と九州をつなぐ大きなパイプの瀬戸内海を通して、人と情報と物産が盛んに往来していたのです。

司会

平家が源 義経(平治元1159-文治五1189)の急襲で摂津(せっつ)(兵庫県)の一の谷と讃岐(香川県)の屋島で敗れる。頽勢(たいせい)を挽回し、京都を回復しようという起死回生の最後のカードが壇ノ浦合戦だったのですね。

古川

平家がなぜ九州を頼りにしたかというと、平 清盛の父の忠盛のころから、平家は九州と深い縁があったのですね。

  • 平清盛(元永元1118-養和元・治承五1181)
    保元・平治の乱後、源氏に代って勢力を得、従一位太政大臣。娘、徳子は高倉天皇の中宮、皇子が安徳天皇で、外戚として勢力を誇ったが、没後数年で平家が滅亡。

忠盛は身分は刑部卿(ぎょうぶきょう)ですが、白河院の荘園(しょうえん)である肥前神埼荘の荘司(しょうじ)(管理者)になって下ってくる。

  • 刑部卿 訴訟の裁判、罪人の処罰をつかさどる役所の長官。
  • 荘園 平安から室町時代にかけての貴族の領有地。鎌倉幕府成立後、武家に侵略されて衰退。

そのころ博多には宋の船がさかんに交易に来ている。利潤が大きいので彼は宋貿易にのりだす。平家が急激に勢力を伸ばしたのはこれからで、博多を平家隆盛の基盤にしたのですね。

身を投げた建礼門院と源氏の兵

石橋

だから息子の清盛も。

古川

大宰大弐(だざいのだいに)(律令制の大宰府次官)から、太政大臣(だいじょうだいじん)となり中央の実権を握った清盛は、瀬戸内海航路の開発に力を注ぎます。
広島湾倉橋島の音戸(おんど)の瀬戸を切り開いたという伝説もあります。宮島の厳島(いつくしま)神社を修復していますが、瀬戸内航路開発の一環でもあったでしょう。

  • 太政大臣 律令制の最高長官

司会

福原遷都もそのラインで。

古川

そうです。清盛が治承4年6月、天皇、法皇、上皇を奉じて福原(神戸市兵庫区)へ遷都をはかり、大輪田泊(おおわだのとまり)(神戸港の古名)の修築を手がけますね。だが、延暦寺の僧兵の要請や、富士川の敗戦などで、わずか半年たらずで、同年11月京都へ還(かえ)らざるをえなかった。
でも都を陸の奥にある京から国際航路の内海の港にと、清盛は国際感覚のある人だったのですね。
そのころは、天智天皇藤原鎌足の大化改新(大化元645)から540年たっていて、律令政治が機能しなくなっています。それを守ろうとするのが平家で、いわば保守政権である藤原氏の傭兵隊長だったのですね。
それを打ち壊(こわ)そうとしたのが、関東の新興勢力である源氏です。律令政治が有名無実になったので、地方の官僚や豪族は自衛のために次第に力を蓄えてきます。いわゆる武士の登場で、その棟梁(とうりょう)が源氏です。
この大きな時代変化のうねりを象徴するのが源平合戦で、そのとどめが壇ノ浦でした。古代の摂関政治の幕を閉じて、中世の武家政治を開く新旧勢力の決戦だったのです。

司会

平家は古代に殉じたのですね。壇ノ浦の哀れがさらに深まりますね。

エネルギーの倉庫 九州

石橋

九州で敗勢を挽回するパターンは、150年後に、源氏の流れである足利尊氏も踏襲していますね。

古川

尊氏(嘉元三1305-正平十三・延文三1358)は後醍醐天皇を擁する楠木正成(くすのきまさしげ)、新田義貞等に敗れて九州に逃れますが、勢力を挽回して京都を回復し足利幕府を創設しています。
だから、昔から火の国九州はエネルギーの倉庫だったのです。そうした背景で源平合戦のフィナーレを飾る壇ノ浦合戦が行われたのは、極めて興味深いものがありますね。
地政学という分野がありますね。政治現象と地理的条件を総合して、政治は地形や自然によって大きく影響されるという説なんです。源平の決戦もある必然をもって、壇ノ浦で行われたと言えるでしょうね。

司会

もし、平家が勝っておれば。

古川

古代の摂関政治がしばらく持続したでしょう。でも、律令制度がほころびてしまっているから、長くは続かなかったでしょう。

司会

日本史の転換は、源平合戦、関ケ原合戦、明治維新と、東西対決の歴史なんですね。

敗因は源氏の大将が義経だったこと

清和源氏系図

司会

平家の悲運の初めは、木曽義仲に敗れて、京を落ちてからですね。

  • 木曽義仲(久寿元1154-寿永三1184)源義仲。頼朝と従兄弟。治承4年挙兵。平家を西海に走らせ征夷大将軍になったが、範頼・義経に敗れ敗死。31歳。

古川

幼帝安徳天皇を奉じて、寿永2年(1183)7月に九州の大宰府へ落ちます。
しかしそれもつかの間で、豊後緒方維義が謀反して攻めてくる。それで筑前遠賀郡芦屋の山鹿秀遠を頼ります。ここも危いので、海路豊前柳ヶ浦(現・北九州市門司区)に移ります。

石橋

JR門司駅から1キロぐらいのところで、今の大里ですね。
大里の御所神社は、このとき安徳天皇の行在所(あんざいしょ)がもうけられたところで、大里はその内裏(だいり)に由来すると言われていますね。

古川

義仲と源 頼朝が源氏同士で戦っている間に、四国の屋島で、平家が勢力を回復します。行宮(あんぐう)を讃岐の屋島へ移し、京都奪還のために兵を福原へ進めて摂津の一の谷に陣を張るのです。
そこを義仲を敗死させた義経が寿永3年2月に一の谷を奇襲します。敗れた平家軍は、総大将の平 宗盛がひきいて讃岐の屋島へ退陣する。
弟の*平 知盛は陸路をとって西へくだり、周防長門を抑えます。しかし、源氏の源 範頼の軍に追われて、平家の知行地である海峡西口の彦島に下り、本陣を構えます。
海峡の東は今の関門大橋の門司側の橋脚がある古城山(高175メートル)で、ここに砦を築いて門司関を固めます。門司六郷を支配している門司関の別当(べっとう)(長官)は、平家の息がかかっている大宰府の管轄です。
一方、翌、寿永4年2月、義経の急襲で敗れた平家本軍の宗盛は、屋島をすてて海路彦島の知盛の軍と合流します。
こうして平家は関門海峡の制海権を確保し、全軍を結集して、源氏の襲来に備えたのです。

石橋

2年たらずの間に、目まぐるしい平家の逃走ですね。そして、いよいよ決戦の壇ノ浦合戦ですね。

古川

約800年前の寿永4年3月24日、新暦に直すと5月若葉のころです。
陸の長門には追討の源氏軍、背後の豊後には平家に反旗をあげた緒方三郎臼杵二郎の兄弟に迎えられた源 範頼がいる。平家はここを失えば逃げ場所がない。最後の決戦と覚悟しての白昼堂々の対戦だったでしょうね。

石橋

地元の豪族たちは……。

古川

西国は平家の地盤ですが、源氏が連勝しているので、去就(きょしゅう)に迷ったでしょうね。
平家側には大宰権少弐(だざいのごんのしょうに)の原田種直や、兵船500艘(そう)を率いる遠賀川河口の山鹿秀遠、水軍の松浦氏、菊池氏らがついています。本土の方は周防の大内盛房、長門の厚東武光(こうとう)の態度が曖昧(あいまい)です。
屋島の戦いから壇ノ浦までの約1ケ月の義経の行動が謎で記録がない。河野水軍や熊野水軍ら内海の豪族に、味方につけば御家人にとりたてると勧誘していますが、大内にも厚東にもうまく諜報工作をしたのでしょうね。
大内氏は兵は出さないが、周防の船所政利(ふなどころまさとし)(船奉行)が24艘の船を供出しています。これまで平家側だった二大勢力が消極的支援をとったのは義経の諜略でしょう。義経は槍戦(やりいくさ)や船戦(ふないくさ)に長(た)けていただけではなく、たいへんな戦略家だったのです。平家の悲運は敵の大将が義経だったことでしょうね。
このとき義経に長府櫛崎を根拠地とする水軍が12艘の早船“櫛崎船”(くしざきぶね)を献上しています。
櫛崎船は造船史にも出てくる船足の速い船で、義経はこれに乗って、急流の関門海峡で、縦横に指揮をとったのでしょうね。

軍船千三百艘、軍兵一万人が海峡で戦った

石橋

戦いに参加した双方の兵船は。

古川

鎌倉幕府の史書である『吾妻鏡(あづまかがみ)(東鏡)』によると平家が五百余艘、源氏が840余艘となっています。
しかしそれはありえない。海戦直前の勢力は平家が山鹿、菊池、松浦などの強力な水軍を擁して800艘、源氏500艘と平家が優勢でした。
一の谷でも屋島でも、源氏が平家を取り逃がしたのは、平家が源氏をはるかに上回る水軍をもっていた、源氏は追撃の水軍をもっていなかったからですね。
『平家物語』によれば合戦の途中で、四国の阿波民部大夫(あわのみんぶだいぶ)の軍船三百艘が寝返りしたからとなっていて、これで平家の軍船が最初は源氏を圧倒していたことがうなずけます。だいたいの説が、緒戦(しょせん)での源氏優位説を取っています。

司会

『吾妻鏡』には壇ノ浦合戦の捕虜の中に民部大夫の名があるそうですが。

古川

むつかしいところですね。400年前の関ケ原合戦は資料が残っているが、800年前の壇ノ浦合戦ははっきりしない。矛盾した資料も多い。800年は、物語になる年月なんですね。
私は、優勢だった平家が負けた理由は、『平家物語』にあるとおり、民部大夫が合戦の途中で、源氏に寝返ったからだと考えています。
一の谷で子息が源氏の捕虜になり、その不憫(ふびん)さから裏切ったのですね。これも義経の諜略だったでしょうね。

石橋

軍兵(ぐんぴょう)の数は。

古川

源氏が3、4千。平家が4、5千ぐらい。これも民部大夫の寝返りで逆転しています。両軍合わせて1万人。船1,300艘がこの狭い海峡で血みどろの合戦をしたのです。
平家軍の指揮をとった平知盛は全軍を三手にわけ、山鹿勢(ぜい)500艘を先陣に、松浦勢300艘は中堅、安徳帝はじめ平家の一門をのせた200艘を後陣にして、田野浦から源氏に迫るのです。

石橋

悲壮な情景が目に浮かびますね。戦いは何時ごろから。

古川

これがまた、夜明け前説、早朝説、正午説と諸説紛々なんです。
ただ摂政・関白を歴任した公家の九条兼実(かねざね)(1149-1207)が40年間書きのこした日記『玉葉(ぎょくよう)』に『午 正より(うまのしょう)*さる時(さるのとき)に至る』と書かれている。午の刻は正午で、さる(日ヘンに甫)時は午後四時ですね。これが一番正確だろうと思います。
これに大正時代の東大教授だった黒板勝美さんが注目された。幸いに当時の月食の記録を手がかりに、正確な月齢を割り出して、海軍水路部の協力で合戦が行われた3月24日(新暦では5月)が大潮の日であったことを調べられたのです。
潮の流れが初めは平家、後は源氏に有利に働いたという“潮流説”を大正8年に『歴史と地理』に発表。『義経伝(ぎけいでん)』にまとめられて、広く世間に知られるようになったのです。

石橋

それで、両方の軍船の位置は。

古川

平家の軍船は田野浦の沖に、一方の源氏は長府の沖の満珠(まんじゅ)・干珠(かんじゅ)という小島、あの辺に集結していたようです。

石橋

潮流をよく知っていた平家は潮の上手(かみて)にいたのですね。

古川

東流れの潮が最高速度時速8ノットの11時過ぎをこえた正午ごろ、平家は追い潮にのって源氏に三町(300メートル)の間合いに迫り矢合わせを戦端に攻撃をかける。緒戦は潮にのった平家が優勢でした。
平家優勢のうちに午後3時ごろ潮の流れが止まり、西流れに変わる。
今度は源氏が好機到来と、逆流した追い潮にのって平家軍を西へ追撃する。潮の流れが速さを増してきた午後4時頃、攻守ところを変えた源氏の猛攻に平家は壇ノ浦で敗北するのです。勝敗を決した激戦は、約1時間ぐらいだったでしょう。

石橋

潮の上手も下手(しもて)もたいして変わらないように思うのですが。

古川

潮に乗った両軍の相対的速度は同じですからね。海上保安大学の金指正三氏もそのように指摘されたが、「流速は微弱にせよ、流れに乗った源氏が有利」と潮流説を否定されてはいない。
いずれにしろ800年間、多くの人が潮の流れに平家の哀れを感じているのですから、私はまあそれでいいじゃないかと(笑)。

石橋

絵巻物の世界ですからね(笑)。

源平の争乱
(注) 1180.5.26/源頼政が平家に敗死、1184.1.20/木曽義仲が範頼・義経に敗死。

源平壇ノ浦合戦(1185年3月24日)

“平家急潮に滅ぶ”に?

平 知盛 肖像

古川

こうして“平家急潮に滅ぶ”が定説だったのですが、10年ぐらい前から異論がでてきたのです。
黒板さんは潮の最高速度を1時間8ノットから10ノットとしているのですが、開門海峡の流れは大潮小潮があって、毎日8ノットの早さではない。
この頃はコンピュータでびっくりするような計算ができるでしょう。
気象学者の荒川秀俊さんは壇ノ浦合戦の日は小潮で、平家の敗戦が決定的となった午後4時ごろの潮流は、0.6ノットだと。
0.2ノットという説もありますね。

石橋

大きな違いですね(笑)。

古川

関門船舶事務所の山下通航潮流事務所に聞いてみると、関門の潮流には、流れがゼロになる片瀬が、大潮小潮に関わりなく、月に一度か二か月に一度ある。その日が片瀬かどうかは、800年昔のことで確かめるのは不可能だそうです。
平家の敗亡は急潮のためだけではない。民部大夫の裏切りに加えて、もう一つは義経の作戦です。義経が巻き返しを図って、平家の船を動かしている楫取(かじとり)や水夫(かこ)を弓で射させたのですね。
そのころの船は、漕(こ)ぎ手の水夫が 舷 (ふなばた)の外に突き出た船梁(ふなばり)に渡した板(船(木ヘンに世)がい(せがい))の上にのって、むき出しで艪(ろ)を漕(こ)いでいたのです。兵船は囲(かこ)いでせがいを保護してあるが、徴収した運搬船は無防備なので、水夫が次々に弓で射られる。
楫取や水夫を失った船は勝手がきかず、彦島陣地へ逃れることもできない。下関側に流されると陸の源氏から矢をあびる。散々ですね。

石橋

平家も同じ戦法をとれば。

古川

混乱の中では、指令もゆきとどかなかったのでしょう。

石橋

源氏の勝ちとなって、地元の豪族たちは。

古川

平家に加担した原田氏、山鹿氏らは所領を没収される。鎌倉幕府が派遣した守護時代を迎えることになって、摂関家の荘園も有名無実となってしまうのです。
源氏が勝って、幕府が各国に関東の御家人を守護職としてはりつけます。薩摩の島津、豊前・豊後の大友、周防・長門は佐々木などで、戦国時代までの西国地図がおおかたできるのです。

司会

義経の末路も哀れですね。

古川

義経は頼朝が命じた侍大将の梶原景時(かじわらかげとき)とそりが合わない。景時の讒言(ざんげん)で、頼朝は功名の華々しい義経に猜疑(さいぎ)心を抱き出す。
後鳥羽上皇がさらに一の谷の急襲でヒーローになった義経を引き立てられ、検非違使(けびいし)に任じて昇殿を許される。これが裏目に出て、頼朝は自分に相談もなくそれを受けたと立腹するのです。

  • 検非違使 京中の違法をとりしまる長官。追捕、訴訟、行刑にあたり、今の警察官と裁判官をかねた絶大な権力をもった。

義経は頼朝の怒りを解(と)くために一死を覚悟して奮戦したのでしょう。
だが頼朝の怒りは解けず、華々しい栄光に包まれた義経が流転(るてん)を重ね、ついには身を託した奥州の藤原家にそむかれ、衣 川(ころもがわ)の館(たて)で命を絶つのです。
義経を討伐した頼朝も、二代頼家(よりいえ)、三代実朝(さねとも)が悲命に倒れ、21年たらずで北条政権になるでしょう。

石橋

哀れですね。

古川

滅びるものは、美しいのですよ。『平家物語』は滅びていくものへの哀惜(あいせき)でしょうか。“諸行無常”(しょぎょうむじょう)に全てを尽くしていますね。

司会

そして作者もわからない…。

古川

それでいいんですよ。

見るべき程のことは見つ

義経の八艘飛び

古川

8歳の幼帝、第81代の安徳天皇も「浪(なみ)の下にも都のさぶらふぞ(ございます)」と二位の尼(清盛の妻)に抱えられ、三種の神器(じんぎ)の宝剣(草薙 剣(くさなぎのつるぎ))を腰に、神璽(しんじ)(八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま))を脇にはさんで入水(じゅすい)して果てられる。幼帝を抱いていたの按察局(あぜちのつぼね)だという説もあって、平家滅亡の哀史ですね。

安徳天皇の
御座船

司会

そうして三種の神器も海に。

古川

三種の神器は皇位継承に欠かせない宝物だったのです。神璽は海中に箱のまま浮いていて、神鏡(八咫鏡(やたのかがみ))は御座船に残っていた。宝剣だけが海に沈んだのですね。
天皇の母君、高倉天皇の中宮(ちゅうぐう)、建礼門院徳子(けんれいもんいんとくし)(久寿二1155-建保元1213)は源氏の兵にひきあげられ、余生を京の大原の寂光院(じゃっこういん)で、安徳天皇と平家一門の冥福を祈ってさびしく過ごされる。

  • 中宮 平安時代以降は皇后、または同資格の正后の称。

総大将の宗盛も哀れで、子息清宗と生け捕(ど)りにされ、頼朝の尋問を受けて近江(おうみ)で斬首されています。

石橋

平家の落日をかざる話は。

古川

救いは、平 教経(たいらののりつね)と知盛ですね。
清盛の弟、教盛の次男平教経は、屋島の戦いで武勇で知られていた義経の家来の佐藤継信を豪弓で射殺(いころ)し、壇ノ浦では義経を追い回します。
義経がそれをのがれて、「八艘(はっそう)飛び」の伝説になったのでしょう。
いよいよ最期を迎えて、怪力無双といわれる源氏の安芸(あぎ)太郎兄弟を抱えて入水している。平家一の豪の者ですね。
私が『平家物語』で、いちばんすばらしい場面と思うのは、平家軍を指揮した平 知盛(たいらのとももり)の最期ですね。
戦いにあたり、「各(おのおの)命をこの時に失いて、必ず名を後の世に留めよ」と全員を叱咤(しった)激励しています。
そして奮戦の後、「見るべき程のものは見つ。いまは何をか期せん」と乳母子(めのとご)の伊賀家長とともに鎧(よろい)を二領ずつ着て入水したとあります。
作者が知盛の口をかりて言わずにはおれなかった言葉、『平家物語』の真髄ですね。
一の谷では、父の危機を救い身代わりになった子息知章(ともあきら)を、見殺しにせざるをえなかった。修羅場の壇ノ浦の戦いを終わって、最期のときを迎えた知盛が、栄光も悲哀も、源氏の奢(おご)りも平家の悲しみも、人の世の哀れをすべて見たと。大きな達観ですね。
確かに知盛はすべてを見たのですね。壇ノ浦合戦の大きなピリオドを彼は打っているんですね。

司会

いいお話で終わらせていただきましょう。ありがとうございました。


お話:
相愛大学人文学部教授 砂川 博氏
聞き手:
福岡シティ銀行 常務取締役 石橋 博光

今の“壇ノ浦”ではない

司会

“壇ノ浦合戦”ですが、800年昔の壇ノ浦は今のところじゃないそうですね。

砂川

戦場は干珠、満珠の島あたりで長府の前の海でした。当時、長府は長門の国府があったところですね。
源平合戦の約520年程前に百済(くだら)が中国の唐と新羅(しらぎ)の連合軍に攻略されます。百済の救援に、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇 )が朝鮮半島に援軍をおくりますが、白雉(はくち)2年(663)に白村江(はくすきのえ)の戦(たたかい)で惨敗しますね。
そこで大陸からの侵攻が懸念され、それに備えて大宰府に水城や、大野城に朝鮮式山城を築き、西国に軍団を配置して防備にあたります。
遠賀川の河口におかれたのが遠賀軍団、志賀島におかれたのが志賀軍団で、長府にも軍団が置かれます。前が海だから軍団の浦。その“軍”がいつの間にか落ちてダンノウラ、壇ノ浦になったのだと言われています。私はこの説をとります。
山がすぐ海に迫っている海峡部の今の壇ノ浦では、多くの兵士を駐屯させることはできないでしょう。当時の団の浦は、今の壇ノ浦よりずっと東だったのですね。

石橋

それに、今の海峡の狭い壇ノ浦では、源平の1,300艘が戦うことはできませんね。

砂川

面白いのは壇ノ浦があちこちにあることです。『平家物語(延慶本)』には、一の谷や屋島にも壇ノ浦が見えます。

石橋

普通の地名だったので……。

砂川

平家滅亡の悲話が、琵琶法師の語りで全国津々浦々まで知られるようになって、ほかの壇ノ浦は霞んでしまったのでしょう。

石橋

壇ノ浦が源平合戦のフィナーレとなる伏線は、平家が九州に縁が深かったからですね。

砂川

九州との縁は、清盛の父、忠盛の時からで、すぐ近くの長門の国司は清盛の三男の知盛ですね。
地元水軍の遠賀郡芦屋の山鹿氏や大宰府の原田種直はよく平家に尽くし、壇ノ浦合戦でも、最後まで奮戦しています。

幼帝、安徳天皇の柳ヶ浦御所 能「清経」の舞台

石橋

豊前の柳ヶ浦に設けられた御所のあとが、北九州市門司区の御所神社だと言われていますね。

砂川

その御所が宇佐市の駅館川(やっかんがわ)の河口あたり、旧、柳ヶ浦町だと言う人もありますが、私はまちがいなく門司の柳ヶ浦だと思っています。
平家物語に、柳という所に御所をつくろうとしたが、狭い所なのでとりやめたとあります。

石橋

宇佐は広々としていて、この記述に合いませんね。

砂川

そこで門司説なのですが、室町時代前期に今川了俊(りょうしゅん)という武将がいました。文学にも通じていたインテリ武将ですが、応安4年(1371)に九州探題となって博多へ赴任します。その道中記を『道ゆきぶり』という手記に残しています。
赤間関(あかまがせき)(下関)の火の山まで来たときに彦島を見て、「この島の向かいは柳の浦とて、昔内裏(だいり)のたちたる所なるべし。いまはそこを内裏の浜ともいうなり」と記(しる)しています。
壇ノ浦合戦から200年ぐらい後ですが、柳ヶ浦に内裏があったと伝承されていたのです。今川了俊は門司の歴史の立派な証人です。

砂川

平家物語との関連で言いますと、ここで平重盛(清盛の長男)の三男の平清経(きよつね)が入水自殺しています。
いわゆる世阿弥がつくった能の名作、『清経』にこの間の事がよく窺われますね。
清経は妻に必ず迎えにくるからと言い残して都を落ちますが、平家の行く末をはかなんで柳ヶ浦に身を投げます。
家来の淡津の三郎が京へのぼり、清経の北の方(妻)に形見(かたみ)の遺髪を届けてその次第を伝えます。そして北の方の夢の中に清経の霊が現れます。
北の方は、いつかは迎えに来るといいながら、自分一人先に死んでしまったのは、恨(うら)めしいと嘆きます。
清経は、月夜、柳ヶ浦に舟を出し船首に立ち上がって横笛を吹き、入る月に極楽往生を祈りながら身を投げたと語ります。妻ははかない契(ちぎ)りを嘆きながら、現世も来世も悟れば同じだとの清経の言葉に安らぐのです。
ストーリーは岩波文庫の『平家物語』でわずかに四行の記述です。それをふくらませたのが『源平盛衰記』、さらに夫婦愛をテーマにふくらましたのが能の『清経』です。

石橋

今いちばんポピュラーな演目で、時代相にふさわしい能ですね。

砂川

江戸時代には男らしくないとして、上演が少なかったようです。
清経供養の五輪塔が、柳の御所の跡と言われる御所神社からちょっと西に、昭和30年頃まであったそうです。地元の人たちが、花や線香を供えていたそうですが、今は跡形(あとかた)もありません。残念ですね。
ところが、大分の柳ヶ浦では駅館川の河口に「清経」の五輪塔があり、今も香花(こうげ)が絶えません。
ところで幼帝安徳天皇の母君、建礼門院徳子(清盛の娘)は壇ノ浦で入水しますが、源氏の兵に引き上げられて、余生を大原の寂光院で寂しくおくります。そこで在りし日を回想して、平家滅亡に至る最初の悲劇は清経の死だと言っているのです。
当時は、関東に源頼朝、京都に源義仲、西には平家と天下三分の形勢で、まだ平家挽回の可能性があったのです。
そこへ嫡流の清経が平家の行く末をはかなんで身を投げた。平家一門にはショックだったでしょうね。このように門司には平家ゆかりの柳ヶ浦があるのです。御所神社もあることですから、門司の方々にもう少し関心をもってほしいですね。

源平ともに軍事貴族

石橋

源氏も平家も、もともとは貴族ですね。

砂川

平家の先祖は第50代桓武天皇。源氏の先祖は通称第56代清和天皇と言われていますが、実は第57代陽成天皇が直接の先祖です。平家も源氏も、天皇家にどれだけ近い血筋であるかということで、家柄が決まっていました。

石橋

じゃ、軍事貴族だった。

砂川

そうです。源氏は八幡(はちまん)太郎義家が出て、前九年の役、後三年の役(えき)で、安倍氏の叛乱と清原氏の内紛を鎮めました。いわゆる武士の登場で、彼ら軍事貴族が、次第に力をつけていく端緒(たんしょ)でした。

石橋

源氏は関東武士、平家は瀬戸内海や九州の水軍を手なずけたのですね。

砂川

清盛の父忠盛大宰少弐(だざいのしょうに)(大武につぐ次官)、清盛と弟の頼盛が大宰大弐(次官)になって日宋貿易の拠点である博多を抑えますね。
忠盛と頼盛は赴任しますが、清盛は遥任(ようにん)といって現地赴任はしないままでした。こうして平家は日宋貿易で利益をあげたのです。

石橋

その富と利権で、内海や九州の水軍を掌握して宋から京の都までの交易ルートを抑えたんですね。

砂川

それで“平家でなければ人にあらず”とまで言われた一門栄達の財力をきずいたのです。
清盛の父の忠盛は、鳥羽法皇のために、今の三十三間堂と同じ規模のお寺を、一千一体の御仏とともに寄進しています。見返りに昇進していますが大変な財力です。

石橋

財力と武力をもった軍事貴族の登場ですね。

砂川

いわば古代から中世への幕開けを、平家が準備したのです。

石橋

源平合戦といっても、平家の血に繋がる者が源氏の陣営にいて、どうもわからない。

砂川

お家大事。どちらにつけば有利かだったのでしょう。
『平家物語』の冒頭、祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の段にあるように、平安京を開かれた桓武天皇のお孫さんにあたる高見王の子の高望王(たかもちおう)、この人が上総(かずさ)の国に土着して平家の先祖になるのです。
子孫が次第に枝分かれして、関東八平氏となる。千葉、上総、三浦、土肥、秩父、大庭、梶原、長尾と。

司会

みな頼朝の重臣ですね。

砂川

平安中期に藤原道長に仕えた知勇兼備の源頼信のときに平忠常を押さえ込んで、それ以来関東の平氏が源氏の傘下に入るのです。
頼信、頼義、義家と、武士たちに尊敬された三代の名将が、源氏の基盤をしっかり築いたのです。

石橋

平家本流は。

砂川

平安中期に平 維衡(たいらのこれひら)が伊勢の国に移住しました。これが伊勢平氏で、後の平氏の本流になるのです。

石橋

源氏は地味な積み上げで東国武士団を味方にした。平氏は当時の世界貿易に目を向けて先端を走ったが源氏に敗れる。対照的ですね。

砂川

関東八平氏に推されて源氏が、西国平氏を破って天下をとったのが源平合戦の実態で、その締めくくりが壇ノ浦でした。

司会

その源氏が、頼朝を助けた北条氏に実権を奪われてしまう。

砂川

北条は平氏です。因果はめぐるですね。

最後のカード壇ノ浦合戦

夏潮のいま退く 平家亡ぶ時も
和布刈神の境内の高浜虚子の句碑

石橋

壇ノ浦までの、源平の合戦は。

砂川

最初の直接対決は富士川の合戦です。治承4年10月20日、平家は夜半にいっせいに飛びたった水鳥の羽ばたきを源氏の急襲と勘違いして、慌てふためいて退却します。
次は木曽義仲との寿永元年(1182)6月の横田河原(後年の川中島)の戦い、そして翌、寿永2年の北国の倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い。どちらも義仲のゲリラ作戦と奇襲で敗れています。その義仲が頼朝に敗れ、義経と平家の戦いとなる。寿永3年(1184)2月に一の谷合戦があって翌年の寿永4年の1月に四国高松の屋島の戦いです。

石橋

どれもみな敗れている。
寿永2年10月に、義仲を備中(びっちゅう)(岡山県)の水島合戦(現在の倉敷市)で破っていますが義経との陸地戦は完敗ですね。屋島も海戦と言うよりも陸地戦です。陸で負けて海に浮かんだのですから。
最後の決戦を小倉平野でやればと思うけれども、当時は内陸部まで海でしたでしょうし範頼を擁(よう)した緒方勢が背後の豊後にいるから無理。
それで平戸の松浦水軍、遠賀川河口の山鹿水軍、阿波の水軍を率いて壇ノ浦での乾坤一擲(けんこんいってき)の海戦となったのです。

石橋

源氏の方は。

砂川

河野水軍が兵船150艘、平家重恩の熊野水軍が兵船200余艘で加担して、源氏水軍の劣性をカバーしています。
同じく平家物語によれば、熊野水軍を率(ひき)いる熊野別当湛増(くまのべっとうたんぞう)が、田辺(和歌山県田辺市)の新熊野権現(いまくまのごんげん)(闘鶏神社)の神前で赤と白の7羽の鶏を闘わせて勝運を占い、白鶏が勝ったので源氏に加担を決めたとあります。
それに三浦水軍がいます。相模(神奈川県)の三浦半島に本拠をおく有力な水軍で、率いる三浦義澄和田別当義盛は関東武士を代表する武者です。

石橋

九州まで、まさか船では。

砂川

『吾妻鏡』によれば、頼朝は合戦に先立つ3月12日、兵糧(ひょうろう)を積んだ兵船32艘を伊豆(いず)鯉名の沖などから出発させています。しかし兵船はほとんどが現地調達だったようです。
ところで周防の守備に当たっていたのは外ならぬ三浦義澄でした。
義経は出迎えた義澄に「汝は門司関を見る者なり。今、案内(あない)者と謂(い)うべし。然れば先登すべし」(平家物語)と言っています。味方に水陸戦のベテラン三浦一族がいるのは心強かったでしょう。
食糧や兵船は、長門の長府、周防の防府とそれぞれ国府を抑えて確保したのでしょう。
当時、周防、長門は飢饉で食糧調達が困難でした。義盛も食糧が乏しくて戦えない、鎌倉へ帰りたいと頼朝に訴えています。弓矢の戦のかげには補給をめぐる地味な戦いがあったのですね。

司会

両軍とも補給と軍船確保の静かな戦いをして、壇ノ浦合戦になった。源平のロマンが、急に現実感をおびてきますね(笑)。

石橋

熾烈(しれつ)なサバイバルだったのですね。それで平家は海戦に勝算をもっていたのでしょうか。

砂川

現実には源平ともに初めての海戦だったのです。平家は頼みの熊野水軍が源氏につきましたが、地元の水軍が味方だからまだ優勢と考えていたのではないでしょうか。
ところが、阿波の民部重能(しげよし)の裏切りで形勢が逆転した。平家は山鹿、松浦、阿波の三水軍で、その3分の1の阿波勢が激戦のさなかに裏切ったのですから致命的でしたね。

石橋

平家は一の谷、屋島と敗れても次の布石をきちんと打つていたでしょう。肥前の松浦党もいるし、壇ノ浦の次を用意しておかなかったのですか。

砂川

面白い見方ですね。安徳天皇を奉じて、高麗(しげよし)や震旦(しんたん)(今の中国)へ亡命を考えた者もいたのではないでしょうか。『玉葉』にも「旧主(安徳天皇)の御事分明(ふんみょう)せず」とあります。

石橋

宗盛親子が最後まで生きのびようとしたのは、そういう背景があったのでしょうか?

宗盛親子と重衡のあわれ

砂川

ただ宗盛という人はよくわからない。平家一門の人々が入水したり自害したりしている中で、船上でおろおろしていて、見苦しいと味方の侍に海に突き落とされる。だが水練が得意で、子息清宗と顔を見合わせながら泳いでいて、源氏の伊勢三郎に熊手で引き上げられてしまいます。
義経は二人を京に連れていって車にのせ、都大路を引き回す。鎌倉で頼朝の尋問をうけてまた引き戻され近江(おうみ)で親子ともに首を打たれる。まことに哀れですね。

石橋

頼朝は清盛の義母、池の禅尼(ぜんに)の口添えで助命されていますね。情をかけなかったのですか。

砂川

そこが頼朝のしたたかさですね。彼が平家一門のなかで徳としていたのは、池の禅尼の頼朝の助命願いに手をそえた平 重盛(たいらのしげもり)と清盛の異母弟で母が池の禅尼の頼盛だけで、重盛はすでに死んでいます。
頼盛は、都落ちの時にひとり引き返して、助けられています。だから重盛の子供たちにも助かるチャンスはあったでしょう。
しかし一の谷の合戦のあとで、重盛の長男の平 維盛(たいらのこれもり)は、もはやこれまでと屋島を逃れ、熊野の那智の沖で弟の清経と同じく身を投げています。
だから、宗盛親子も命が助かるとは思っていなかったでしょうね。

石橋

相手は頼朝と義経で、総大将の器(うつわ)の相違が歴然ですね。

砂川

そうなのですが、清盛は亡くなる前に後白河法皇(ごしらかわほうおう)に使いを送って、自分が死んだ後はいっさいを宗盛に任せてあると言っているんです。
あの清盛が、一門を託すに足ると宗盛を一応認めているのです。それなりの人物ではあったのでしょうが、滅びを合理化しようとした『平家物語』が、宗盛を弱将の象徴にしてしまったのではないでしょうか。時の勢いも宗盛に味方しなかったようです。
ただ、知勇兼備の重盛が生きておれば、平家の命運は変わっていただろうと、誰もが思うのですね。

石橋

一番お好きな平家の人物は。

砂川

宗盛の弟の平 重衡(たいらのしげひら)です。
以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて、源三位(げんざんみ)頼政が宇治で、平家に最初に反旗を挙げましたが、清盛にあっという間に鎮圧されますね。このとき奈良の興福寺の僧兵たちが頼政に与(くみ)しました。
清盛は妹尾兼康(せのお)を送って説得させますが散々な目にあって戻ってきます。それで重衡を総大将にして、奈良法師たちを攻めます。そのとき配下の兵が示威のために、般若坂(はんにゃざか)のあたりの民家に火をつけたのです。
季節が冬で北風が強く、あっという間に燃え広がって、東大寺も興福寺も大仏も、奈良の町々まで焼けてしまったのです。
重衡は一の谷の戦いで捕らえられて、いったん鎌倉に送られ、最後は仏敵として奈良の僧兵に首を刎ねられます。
最後は「このたびの戦は天皇の命令であり、父の命令であった。どうして拒むことができようか。これが私の運命である」とはらはらと涙をながし、従容(しょよう)と死につくのです。
平家物語のエキスのような人物でその哀れさに魅かれますね。

石橋

興味あるお話でしたが、その根底でもある、『平家物語』、『源平盛衰記』、そして幕府の記録である『吾妻鏡』。この三つの位置づけは。

砂川

『平家物語』をさらに読み物風にしたのが『源平盛衰記』です。『吾妻鏡』は鎌倉幕府の公式記録で治承4年(1180)から文永3年(1266)までの出来事を鎌倉幕府の側から記録したもので、およそ13世紀末から14世紀初頭に編纂されたものと考えられます。
頼朝の石橋山挙兵のところは、『吾妻鏡』と『源平盛衰記』が類似している。それで『吾妻鏡』は平家物語のあるテキストを底本(ていほん)にして書かれたのだろうと言われているのです。壇ノ浦合戦の記録も参考にしたでしょうね。
そして、肝心の平家物語がいつ書かれたか、誰が書いたかがわからない。研究者泣かせなんですね。

司会

平家物語を軸に、奥の深いお話をありがとうございました。