No.11 「小倉日記」時代の森鴎外

対談:平成11年1月

司会・構成:土居 善胤


お話:
北九州市立美術館長 谷 伍平氏
聞き手:
福岡シティ銀行 頭取 四島 司

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


百年前に九州へ舞い降りた「森鴎外と漱石」

森鴎外 年譜

「小倉日記」

司会

今年平成十一年は、森鴎外(文久二1862~大正十一1922)が北九州の小倉へ来て、百年ですね。

鴎外は軍医総監で、医学博士で、文学博士で、歴史家で、評論家で大作家です。明治日本が生んだ桁外れの大知識人ですね。石川淳さんによると、「古今に比なき大文章、流血の文字」と評される文学です。
その鴎外が、明治三十二年六月に第十二師団の軍医部長として、小倉(現・北九州市)へ着任して、今年が百年なのです。鴎外は、それから三十五年の三月まで、二年九か月間、小倉に滞在しています。

司会

夏目漱石(慶応三1867~大正五1916)が、その三年前に、旧制第五高等学校の英語教授として、熊本にきていますね。

四島

近代国家を目指していた明治三十年代に、日本の近代文学を作り上げた二人の文豪が九州に舞い降りた。壮観ですね。
「小倉時代の森鴎外」を研究しておられる館長さんですが、鴎外に関心を持たれたのはいつからですか。

鴎外は学生時代から愛読していました。彼の「小倉時代」に関心を持ち出したのは、北九州市長を辞めてからで、そろそろ十年でしょうか。
鴎外には、若き日の『ドイツ日記』と、壮年時代の『小倉日記』があるのですが、永らく『小倉日記』は所在が不明でした。

四島

それが偶然に発見されて。

戦後、末子の(るい)さんが、疎開した荷物を整理していて、ひょこっと出てきた。それもタイミングよく岩波書店が鴎外全集を刊行するときだったのですね。
読んで見ると、簡潔な文体で小倉時代の日常が手に取るように記されている。実に興味深々です。それで日記の背景を探ってみようと思いましてね。

四島

松本清張さんの芥川賞受賞の出世作、「或る『小倉日記』傳」も、発見以前の『小倉日記』を巡(めぐ)っての哀話でしたね。

九州に文化の種を

観潮桜前にて

日記を読んでみると、鴎外は北九州に克明な足跡を記(しる)し、文化の種を播(ま)いているのです。九州の私たちにとって、これはすばらしい恩恵です。

四島

鴎外が文壇に出たのは。

明治二十三年に、ベルリンを舞台にした「舞姫」を発表し、続いて「うたかたの記」でミュンヘン、「文づかひ」でドレスデンを。
こうして、明治十七年から足かけ五年のドイツ留学を下敷きにして、「ヨーロッパみやげ三部作」が誕生したのです。これで鴎外は、一躍、文壇の寵児になるのです。

四島

漱石のほうは。

漱石が『吾輩は猫である』で登場したのは、それから十五年後の明治三十八年です。

四島

二人とも洗練された東京人で、なかなか九州になじめなかったでしょう。

文化面でも東京一極集中でしたから、九州へ来ても、目はいつも東京へ向いていたでしょうね。
漱石は小説の『坊ちゃん』にみられるように、松山中学の先生を一年しましたが、どうにも松山になじめない。
東京へ帰ろうかと思っているうちに熊本の五高で英語教師を募集しているということで、熊本へ来るのです。
しかし熊本にもなじまない。そこへ文部省の海外留学の話があって、五高教授の資格のままで明治三十三年、英国へ出かけるのです。
鴎外が小倉へ来たのはその前年で、二人の九州時代が、一年ダブっています。鴎外は軍務で熊本へ行っていますが、漱石と会った形跡はありません。

四島

会っていれば、『小倉日記』のハイライトだったのに残念でしたね。

鴎外は十一歳からドイツ語を勉強していますから、流暢な会話に本場のドイツ人が目を見張ったそうです。
橋本綱常軍医監に、「君の任務はドイツ陸軍の軍陣医学の研究と、陸軍衛生制度の研究だ」と、念を押されていました。
だから、コレラ菌を発見したコッホ博士について学び、ドイツ語で論文を発表したりと、医学勉強の成果をあげていますが、それでは飽きたらない。
ナウマン象の発見で知られる著名な地質学者ナウマン博士と、日本の西洋化について論戦を交(かわ)したり、任務外の文学、芸術、哲学、美学と、ドイツの文明を白紙が墨を吸うように吸い取って、鴎外文学の裾野をつくりあげたのです。

  • ナウマン象は、約三十万年前まで日本及び東アジアに生息した象の一種。日本では化石として、各地で発見されている。

四島

すごいですね、一方の漱石先生は。

どうも漱石の英会話は、ロンドンで通用しなかったらしい。それでずいぶん苦労されたようです。
それに鴎外の時代は、留学生への手当てがよかった。それが、漱石のころになると洋行の価値が薄れ、手当てが削減されて、実家に送金をたのんだりしています。
いい下宿がないと転々し、英語の個人教師とのコミュニケーションもうまくいかなくて、ノイローゼになってしまう。
漱石のイギリス留学は悲惨でしたが東洋と西洋の落差を認識し、日本を外から眺めることで文学開眼の契機になった。漱石はイギリス文化との対応がネガティブだったが、鴎外はのびのびと、ドイツ文化を吸収したのです。
時代もちょっと違いますが、二人の異国体験は非常に対照的ですね。

「小倉時代」をバネに飛躍

森 鴎外の名刺

四島

あれだけの秀才が、なぜ小倉へ左遷されたので。

鴎外はたいへんな秀才ですが、ブリッ子の面もあって、軍にとって「問題児」でもあったのですね。

四島

「ブリッ子の問題児」で(笑)。

それはですね。

  • ドイツ留学のとき、橋本軍医監の意向にそわず、独自の行動をとった。
  • 『舞姫』のモデルとも言われるドイツ女性、エリーゼ・ヴィーゲルトが鴎外を追って来日して物議をかもした。
  • 海軍中将男爵、赤松則良の長女登志子と結婚したが一年八か月で離婚している。
  • 陸軍医学部の先輩を医学雑誌で批判した。
  • そして決め手は、『小説』を次々に発表して文名があがった。

軍の要職にいる者の行為ではないと顰蹙(ひんしゅく)をかって、小倉に左遷されたのです。

四島

鴎外先生もまだ三十七歳。なかなか激しいですね(笑)。

大佐相当官の一等軍医正(ぐんいせい)だった鴎外が、少将担当官の軍医監で着任するのです。身分は軍医監、職位は軍医部長ですから体面はまもられているのですが、実際は左遷でした。
六月十六日、新橋を発(た)ち大阪に一泊。十八日に、大阪を発ちますが、その日の日記に「私(ひそか)に謂(い)ふ、師団軍医部長たるは終(つい)に舞子駅長たることの優(すぐ)れたるに若(し)かず」と記しています。
峰子への手紙に、「小生の小倉に来(きた)りしは左遷なりとは、軍医一同に申し居り、決して得意なる境界には無之(これなく)」と述(の)べています。
鴎外は、こうした背景で小倉に着任したので、小説は書かず翻訳や評論を執筆するだけでした。発表も、福岡日日新聞(現・西日本新聞)に投稿したりで、目立たない活動だったのです。
小説を書きたい欲望は、名訳と評価の高い、アンデルセンの『即興詩人(そっきょうしじん)』などの翻訳で抑(おさ)えていたのですね。

四島

だから、鴎外の小倉時代は、遠流(おんる)とか、沈潜とか、雌伏とか、言われるのですね。

でも雌伏は逼塞(ひっそく)を意味していません。
先輩の石黒忠悳(ただのり)への手紙に「東京出発後勇猛精進罷在候(しょうじんまかりありそうろう)」と述べています。また友人の賀古鶴所(かこつるど)への返信で「小生は人の好まぬ処にありてする奉公が真の奉公なりと存知居(ぞんじお)り」とも言っています。
井上光師団長や山根武亮参謀長という気持ちの広い人たちに迎えられて、小倉時代の二年九か月は、まさに飛躍のための充電の好機でした。
そしてついには新夫人志げを伴い、第一師団軍医部長の肩書きを射止め、文学面でも満々の抱負を抱いて、東京に凱旋(がいせん)するのです。

四島

だから、九州とのふれあいぶりも、鴎外の方が目立つのですね。

漱石は熊本で、あまり地元との世間つき合いをしていません。
五高の英語の先生に終始していて、小説を書くことも、地域の文化人たちと交際することもなかったようです。
鏡子夫人が流産でノイローゼになり川に投身する。幸いに釣り人が助けてくれるということがあり、いっそう学校にこもりきりだったのですね。
もっとものちに『草枕』や『二百十日』の傑作を書いて、熊本にたくさん「お返し」をしている(笑)。

四島

ブリッ子、問題児の鴎外もよく本流に復帰できましたね。
軍務に精励し、師団の幹部ともよく同調して、謹慎が解けたのですね(笑)。

軍医部長は先任者が後任を指示する不文律があって、鴎外の進路を妨げたとされている先任の小池正直が、鴎外を指名したのが実情だったようです。

鴎外流、九州探険

四島

鴎外と九州とのつながりは。

鴎外流で九州探険をしています。当時の兵役は、納税と義務教育とともに国民の三大義務のひとつで、その新兵の採否を決める徴兵検査の立ち会いは、軍医部長の重要な任務でした。
その立ち会いや軍務で、各地を訪ねるたびに、福岡では貝原益軒(かいばらえきけん)や亀井南冥(なんめい)、久留米では高山彦九郎、唐津では近松門左衛門の遺跡などを訪ねることを楽しみにしていたようです。
先賢の墓に参り、史跡や資料を見聞して、九州の歴史にたいへん関心を抱いています。
これがのちに歴史ものを書くときに、大きく生きたわけです。小説の種をひろっての文学行脚(あんぎゃ)でもありました。
たとえば福岡では『栗山大膳』、熊本では『阿部一族』といった小説に結実しているのです。

四島

鴎外はたいへんな秀才のうえに勉強家だったのですね。

親交を結んだ安国寺の玉水しゅんこという学職の深いお坊さんに、禅宗の唯識論(ゆいしきろん)の講義を受け、代(か)わりにドイツ語を教えています。

四島

なかなか出来ないことで、ハイクラスの、バーターレッスンですね。

鴎外はドイツ語は堪能でしたが英語とフランス語には弱い。それで小倉の天主教会のベルトランというフランス人の宣教師について、フランス語も習っています。
それまで小説に出てくる横文字はドイツ語でしたが、それからやたらにフランス語が出てきます。
そのほか、ドイツ語を教えた篤学の青年、福間博がいます。後に第一高等学校の英語教授になった人です。
わが国最初の計算機を作成し、飛行機発明の先駆者で、鴎外が「天馬行空(てんばくうをゆく)」の書を渡した矢頭 良一(やずりょういち)もいます。惜しくも夭折(ようせつ)しましたが、鴎外の周辺には出色(しゅつしょく)の人が集まっていたのですね。

四島

エトランゼだった鴎外や、漱石にとっては、小倉や熊本は、生活感覚では、もしかしたらひとつの「異国」だったかもしれませんね。
そう考えると、外国と九州の二つの異国体験が、二人の文豪の文学を育てたのかとも。

結果的には、九州の文化を育ててくれたのです。だから、先年の漱石の「来熊百年」そして今年の鴎外の「来倉百年」が意義があるのですね。

「りんさあ見されえ」(りんさんを見なさい)

鴎外の遺書

四島

ただ不思議なのは、二人とも二度と九州を訪ねていない。当時、九州が中央からそれほど遠隔地だったのか。やはり「異国」だったのかな。

鴎外は、小倉だけでなく、少年の時に津和野を出てから一度も故郷を訪ねていないのです。
有名な鴎外の遺書に、「余ハ岩見人(いわみじん)森林太郎トシテ死セント欲ス」と述べ、岩見人であることを誇りにしている外です。故郷の津和野を思わないはずはありません。
小倉時代も東京へよく出張しているのですから、ちょっと足を伸ばせば津和野を訪ねられる訳です。
どうも、身分の飛躍が激しい人の複雑なコンプレックスですね。
日記で計算すると当時、小倉から東京の新橋まで約三十九時間、おおかた二日間かかっています。

四島

東京までは遠かったのですね。で、鴎外の家は、代々津和野藩の典医(てんい)、お医者さんでしたね。

現代と違って、旧藩時代の家職だった典医という地位は、武士から見れば、微録で低い身分だったのですね。
頭を剃(そ)り、十徳(じっとく)という医師のユニフォームのような羽織をまとって、茶坊主のような恰好でした。
森家は女系家族で、代々婿入りでしたが、藩内からは典医に婿入りしてくれる人がいない。それで、藩外からの婿入りが続いていました。

四島

鴎外は、その森家に久しぶりに生まれた嫡男で、大秀才ですね。

藩校の養老館では開設以来の神童と評判の秀才でした。友達が腕白遊びをしているときに、林太郎少年は母峰子のそばで勉強していた。それで、仲間たちは母親に、いつも「*りんさあ見されえ」とたしなめられていたそうです。
*徳川慶喜の諮問(しもん)役となり、新政府での活躍もめざましかった、郷里の先輩で親戚の*西周(文政十二1829~明治三十1897)の勧めで、父親の静男と一緒に上京したのです。
外国語との最初の出会いは、静男に手ほどきを受けたオランダ語ですからなかなかの父親だったのですね。
とりあえず、西家に寄宿し、それから、東京大学医学部を空前絶後の十九歳で卒業して軍医となり、軍医総監にのぼりつめ、東京では知らない人がいない大文豪になる。
だが情報から遮断され、時間が止まっている津和野では、依然として典医の「りんさあ」にすぎないのです。

四島

ふるさととの対応にも、いろいろのシルエットがあるのですね。

鴎外は、島根県人会や津和野出身者の会には、よく出ているんです。
東京だから、外の社会的なステイタスも十分に知られていて、皆が敬意を表してくれる鴎外先生も不愉快ではなかったのでしょう。

津和野から二つの巨星

四島

小藩出身でも、洋行帰りで秀才の鴎外は、注目されていたでしょう。

ええ。当時の出世のきっかけは、まず縁組からでした。
鴎外の帰国前から、母峰子が縁談をすすめていて、ドイツから帰国した翌年の明治二十二年に、先輩の西周の仲だちで、海軍中将、赤松則良の長女、登志子と結婚します。
赤松則良は旧幕臣のときにオランダへ留学して造船学をならい、帰国後は沼津兵学校の教授になっています。軍艦「磐城」の設計者で、近代造船学の建設者と目された人物です。
そして登志子は、最後の幕府軍を指揮して函館の五稜郭(ごりょうかく)に戦った、榎本武揚(えのもとたけあき)の義理の姪でもありました。
華麗な背景で、この縁組は、鴎外が将来を属目されていた成長株であったことを、物語っていますね。

四島

当時ですから、結婚には陸軍大臣の承認がいったのでしょう。

ええ。鴎外クラスの結婚となるとさらに総理大臣の進達を経て明治天皇のご裁許をいただいています。
それが、長男の於菟(おと)が生まれると、結婚一年半であっさりと、登志子夫人を離別してしまうのです。
陛下の勅許をえて結婚したのに、なぜ離婚したのかと非難されるし、西周の顔は丸つぶれ。西は激怒し、二人の間は冷えてしまいました。
十年後の小倉時代に、友人の賀古鶴所(かこつるど)から送られてきた登志子さん病没の新聞記事をみて、漢文の白文もさらさらと読めた教養ある女性だった故人を偲びながら、日記に「同棲一年の後、故ありて離別す」と記しています。
お付きの老女が、鴎外を殿様といって、弟の篤二郎潤三郎と区別するのも気にいらなかったようです。

「我をして九州の富人たらしめば」

司会

鴎外と漱石の感性は、小倉や熊本とのつきあいかたでも、対照的ですね。

漱石にかかると、松山はぼろくそです。鴎外も、小倉がいい所だとは、少しも言っていない。小倉の商店街でパイプたばこを買ったが、ろくなものはないとか。醤油がなじまないとか、いろいろ不足を言っている。
しかし、そうした日常の些事(さじ)とは別に、鴎外は大きな贈り物を九州の私たちに遺していてくれているのです。

四島

だから館長さんが、鴎外に魅せられて、『小倉日記』を、さかんに吹聴されている(笑)。
昨年は、直方の貝島公園に、鴎外の記念碑を提案もされたとか。

いや、どうも。
『小倉日記』には、二つの大きな出来事が記されています。
一つは、当時の福岡日日新聞の六千号記念に寄稿をたのまれて、「我をして九州の富人たらしめば」を寄せ、鴎外の言う「坑業家」たちに大きな警鐘を鳴らされたこと。
もう一つは偉丈夫、貝島太助翁との出会いです。
まず最初の話ですが、筑豊地区の福丸で徴兵検査があるので、 鴎外がその立ち会いに、直方(のうがた)駅から人力車に乗ろうとしたのです。
ところが、立場(たてば)に 屯(たむろ) している人力車夫たちは、知らん顔をして誰一人乗せてくれない。
茶店の主人が見かねて、やっと一人を連(つ)れてきてくれたが、二十町ばかり(二キロ強)のところで車をとめ、一服して他の人力車に変わってくれと言う。代(か)わりの車がいるはずもない。
鴎外先生は、仕方がないから、雨の中の田んぼ道を「此(これ)より歩(ほ)して福丸に至る」と、散々ですね。

四島

師団軍医部長という、名刺の重みがわからなかったのでしょうね。

帰りは、「午餐後巡査をして車を雇(やと)わしめて返る」とあります(笑)。
小倉に帰ってその話をすると、札ビラをはずんでくれる炭鉱主が一番客で規定料金しか払わない軍人など、だいたい相手にしてくれないのだと言う。
そこで鴎外は、「我をして九州の富人たらしめば」という慷慨の一文を、福岡日日に寄稿するのです。福丸事件から二か月後ですね。
そのころ、一部の炭鉱主の目にあまる非常識ぶりが話題になっていたのです。あぶく銭で汽車も一等に乗るが、諸肌脱(もろはだぬ)ぎになって涼をとっている無法ぶりとか…。

四島

それから、鴎外の言う「利他の志」、「自利の願い」がでてくるのですね。

そうです。利他は労働者の財産形成をたすけ、社会保障制度を設け、衛生を普及することで、心ある人はその価値を認めるが、並の金持ちに説(と)いても聞き入れてはくれない。
自利は美衣を身につけ、酒食にふけることもできる。官能だけ満足させておくと、身体を損なう。それで、富んでいる人の「自利の願い」に残されているのは学術と学問だと。
自分が金持ちなら、官能を満足させることに金を使わないで、コレクションを考える。価値のあるものを収集して、公衆の視聴に供する。
それから九州は歴史の宝庫だから、研究所を作って学者を集め、九州の歴史研究に貢献する。といった内容ですが、現代にも通用しますね。

四島

その考えは、後年の大手で優良炭鉱だった明治鉱業の、安川敬一郎さんと松本健二郎さん父子によって、明治専門学校(現・九州工業大学)設立に、見事に生かされていますね。
人力車夫のボイコットで、福岡日日新聞は、歴史に残る鴎外の寄稿をもらったのですね。

司会

日記の面白さは、日常の些細なことが記されていることで、福日の小倉特派員から「札幌麦酒(びーる)十二瓶を贈りて潤筆銭(じゅんぴつせん)に充(あ)つ」とあって、「我をして…」の原稿料が、ビール一ダースだったことがわかります(笑)。

四島

その「我をして…」が評判になったのですね。つづいて福岡日日からたのまれている。

次は中央文壇批評をと頼まれて、次の年始号に載(の)せたのが、「鴎外漁史とは誰ぞ」だったのです。
「漁史」は、文(史)を漁(あさ)る人間という意味です。
中央文壇にきこえた「鴎外」としばらく訣別している経緯から書き始めて、正岡子規(まさおかしき)と幸田露伴(こうだろはん)を認めながら、泉 鏡花(いずみきょうか)も島村抱月(しまむらほうげつ)も撫(な)で切りです。他は末流の文壇と切り捨てて、小倉から中央を睥睨しているのです。
それにしても、鴎外先生の自負の強さに圧倒されるし、当時の新聞読者のレベルの高さに驚かされます。

偉丈夫貝島太助翁

貝島太助翁 像

司会

もうひとつの出来事は。

翌年の三十三年の十月四日から十日まで、直方周辺で行われた衛生隊の演習を統裁(とうさい)しているんです。
日露戦が避けられないと思っていた陸軍だけに、重要な演習だったでしょう。当時の演習は、兵隊が一般家庭に民宿し、歓待されていたのです。
鴎外ともなれば、民宿先も格が違って、貝島太助邸で、三泊しています。 このとき「主人太助出(い)で客を見る。五十歳許(ばかり)の偉丈夫(いじょうふ)なり」と記しています。
鴎外の日記は、誰それに会ったという記述はあるが、会った人の印象を書いているケースはない。よほど印象に残ったのでしょうね。「偉丈夫(いじょうふ)なり」に貝島太助さんの人物像がつくされていますね。
友人に出した手紙の中にも、「目に一丁字なきも、なかなか面白きやつなり」。無学だが、たいした男だと言っている。

四島

さすがに、筑豊御三家の一人である貝島太助翁の人物を、見事に見抜いているのですね。

めったに人を褒めない鴎外の最大級の賛辞だったのです。
このとき長男の栄三郎さんが、太助翁の蒐めた狩野派や円山応挙(まるやまおうきょ)英 一蝶(はなぶさいっちょう)などの絵画や書を鴎外に見せました。鴎外はその眼福(がんぷく)を日記に実に克明に書いています。
太助翁の略歴も詳しく日記に載せている。こういう「坑業家」もいるのかと、炭鉱経営者のイメージをを見直したのでしょうね。

貝島太助翁 像

司会

貝島さんも、また最上のいい客を、接待したものですね(笑)。

『小倉日記』に、鴎外が飯塚の島田呉服店に泊まったと記されていて、それで先年、文学碑が建ちました。
それで直方の有吉 威(ありよしたけし)市長に会ったとき、鴎外が『小倉日記』で貝島太助翁を偉丈夫と書いている。貴重な文学遺産だから文学碑をつくられたらと、勧めたのです。
貝島さんの居宅址が、市に寄付されて多賀町公園になっています。太助翁の銅像もあってうってつけの場所だということで、この公園にきまり、火を点(つ)けたあんたがということになって、とうとう碑文も書かされた。
九十九字だったが、ユーモアのある人がいて、鴎外が九州へ来て九十九年目ですからねと言われて笑いましたな。
作者は文化勲章を受賞している北村西望(きたむらせいぼう)さんです。長崎の「平和祈念像」の作者で知られていますね。
太助翁が丸顔に角刈りの益荒男(ますらお)ぶりで、羽織姿の正装で正面を睥睨(へいげい)しています。不屈の気迫のうちに、春風を感じさせる偉丈夫の姿が実にいい。
直方には、『放浪記』で有名な林芙美子の文学碑が十年ぐらい前にできています。少女時代の林芙美子は親に連れられて放浪し、炭鉱景気をあてこんで直方にもいたのです。
文学碑が、次々に作られるのは、風土が豊かになっていいですね。

四島

よかったですね。『小倉日記』でほかにユニークな記事は。

面白いのは小学校の生徒と同宿の記があります。久留米へ出張の時、二日市から人力車に乗って、太宰府に泊まっています。
旅館は、隣室が女性づれで、おそくまで淫猥(いんわい)な弦歌で賑やか。それに福岡の住吉小学校の生徒百余人が同宿していて騒がしい。
生徒たちは、朝早く宝満山(ほうまんざん)へ登って日の出を拝むのだと、朝二時起床で出かけていった。日記には「終夜喧囂(けんごう・さわがしいこと )眠をなさず」とあって、喧々囂々の騒ぎで散々だったらしい(笑)。
それにしても、明治の子供達は剛健だったのですね。鴎外先生も、ほとほとあきれて、参ったらしく一句をものしています。

遠足や生徒寐(ね)あまる秋の宿

四島

鴎外は軍務の出張を、地域探訪に、うまく活用していたのですね。 『小倉日記』をみると、よく行橋にでかけていますね。

地元教育会の顧問になって、熱心に勤めていますね。この次の「鴎外発見」は、行橋かも知れません。

さよならの挨拶が「洋学の盛衰を論ず」

四島

そして、鴎外が小倉を去るにあたっての、最後のメッセージがあるとか。

二年九ヵ月の小倉勤務ののち、やっと待望の第一師団軍医部長の辞令をもらって、明治三十五年の三月二十六日に小倉を発(た)ちます。
その直前の二十四日、城内二の丸跡にあった将校たちの親睦クラブ偕行社で師団長以下将校連中の月例会の「上長官会」が催されました。鴎外の送別会のおもむきだったでしょう。
その席で旅団長(りょだんちょう)から、九州を離れるにあたっての講演を頼まれておこなったのが、有名な「洋学の盛衰を論ず」です。

  • 旅団-軍隊の構成単位。連隊をいくつかまとめて旅団、旅団いくつかで師団。

四島

明治二十七・八年の日清戦争後、日本が次第に国力をつけて、欧米からアジアの新興国と注目され出したころですね。

ナショナリズムが勃興して、一部の有識者の間に、洋行も西洋の本もたいして役にはたたないというような、慢心の傾向が見えてきました。
そのころ、シェークスピアの翻訳で一世を風靡していた坪内 逍遙(つぼうちしょうよう)(安政六1859~昭和十1935)が、洋行する早稲田の文学部教授の島村抱月(しまむらほうげつ)に贈った送別の辞が、話題になっていました。「もはや外国のことを鵜呑(うのみ)に持って帰ってくる時代は去った。貴君は、はっきりした考えをもって、選別して見てこなければならない」(大要)と。
鴎外はこの例を取り上げて、
「洋行、洋学無用論が横行しているが、これはとんでもない思い違いで、驕慢(きょうまん)のいたすところだ。
日本が国力を伸ばしてきたのは、外国からでき上がった果実を輸入しただけのことにすぎない。種から育てる土壌はまだ日本には育っていない。いったん外国と、そのルートを断てばどうしていいかわからないのが実情だ。
日本人は、これから文化を育てる姿勢を外国に学び、身につけなければならない。それなのに、洋行する後進に、もはや学ぶべきものはないというのは、増上慢(ぞうじょうまん)もいいところだ。日本はまだまだ先進諸国のすべてを、謙虚に吸収しなければならない」
と力説したのです。

四島

確かな目で、西洋と日本をしっかと見つめているのですね。

鴎外は九州の小倉から、日本文明への目配りを怠らなかった。世界と日本の行く手を、注視していたのですね。

四島

懇親、送別の席の話としては、ちょっと場違いだったでしょうが、その話を、師団長以下の軍の幹部が傾聴したというのがいいですね。

前大戦の軍人だったら、軍医が口を出すなと一笑に付されたでしょう。
だが列座の将校たちは、非常に感銘を受けたらしい。この時代の軍隊は、「坂の上の雲」を目指して、まだまだ清新な軍隊だったのですね。

四島

そうした、間違った論調の中央へ、俺はこれから乗り込んで、縦横に論陣を展開するぞという使命感。
論戦好きの鴎外先生の、宣戦布告でもあったのでは(笑)。

そうだったかもしれない(笑)。
鴎外先生は、短い三年間の小倉生活でしたが、こうして九州人に大きな贈り物を遺して去られたのです。

四島

先ほどの坪内逍遙と鴎外。この二人は文学面でも好ライバルだったのでしょう。

東京専門学校(後の早稲田大学)に文学科を創設し、「早稲田文学」を創刊し、シェークスピアの翻訳者である坪内逍遙です。

そもそもの論争は、十二年前の明治二十三年までさかのぼらなければなりません。
逍遥が『早稲田文学』に載(の)せたシエークスピアの「マクベス」の評註をめぐって、鴎外と逍遥の間に小説のあり方について、「没理想論争」と評判になった論争が展開されたのです。
逍遥は、小説は事物を写せばいいというリアリズム。鴎外は、そうではない。小説には、読者に訴えるひとつの理想をもとに書かれるのでなければならないと言う主張です。
論争好きの鴎外ですが、逍遥も負けてはいない。文学への理解を深める、理想論とリアリズムの論争となって、大向うをうならせましたが、決着はまあまあの別れだったのでしょうね。

日記に一行「茂子を娶(めと)る」

小倉時代に森鴎外と再婚した志げ夫人

司会

『小倉日記』にみる、面白さ、深みについて。

この日記は、鴎外が書いた原文を筆耕者が半紙に清書したものです。読解不能の空欄や誤謬(ごびゅう)点を、鴎外が朱筆で訂正し、茶褐色の和紙で表装されています。

四島

貴重な記録であるという、鴎外の思い入れだったのでしょうね。

清書し直されているので、形にはまった感じもしますが、日記が残されているのは、一世紀後に鴎外先生を慕う私たちにはありがたいですね。

四島

簡潔な記載が特色ですね。

それは徹底していて「再婚」も、「八幡製鉄の開所式」も、たった一行でかたづけられています。
鴎外は明治二十三年に前妻登志子と離別して、以後十三年間独身生活でした。
小倉を去る三か月前の明治三十五年一月四日に、母峰子の勧めで荒木志げと再婚しています。鴎外四十一歳、志げ夫人二十三歳でした。
夫人は、大変な美人で、鴎外先生は嬉しくて仕方がなかったようで、その消息は友人賀古鶴所にあてた書状に、「好イ年ヲシテ少々美術品ラシキ妻ヲ相迎(あいむか)ヘ」とあることで汲み取れます。

四島

いいですね。でもそれまで、ずいぶん不自由だったでしょうね。

日記には、お手伝いさんで苦労したことがよく出てきます。
軍の高官で独身の鴎外は、傍目(はため)を考えてでしょうね。大して用もないのにお手伝いさんを二人雇(やと)っている。
若い方のお手伝いさんが、ルーズだったり、お金が不始末だったりと、気苦労したことがよく出てきます。再婚は、こうした雑事からも解放されて、ほっとしたでしょうね。
だが、この大慶事も小倉日記ではたったの五字。「茂子を娶る」とあるだけです。
※夫人に「志げ」「茂子」とあるが「小倉日記」記載のままでこのような表記は当時の慣例でした。
本心を吐露するようなことは、男子たるもの、日記に書くべきではなかった。当時の代表的な人物に共通した一種の男のはにかみだったのでしょう。
だから、貝島太助を「偉丈夫」と書いた率直な表現が、貴重なんですよ。

司会

だが、国を挙げてのセレモニーだった八幡製鉄の開所式の記事も、一行で。

国家的大行事で、大臣はもとより宮様の臨席もあったのです。それが一行で。しかも、日を間違えている。

四島

ということは、鴎外先生は、日記を何日分か、まとめ書きしていたのかな(笑)。

その点は私たちと同じで(笑)。
日記の開所式の一日違いを発見したのが、新日本製鉄の副社長さんだった水野勲さんというのが面白いですね。この仔細を門司新報に書かれている。
国家的大行事も、世界の文芸の流れを見ていた鴎外先生には俗事のひとつだったのもしれない。

四島

ともかく、我らの鴎外さんは、大きな人だったんですね(笑)。

好ライバル外と漱石

四島

鴎外と漱石、二人の巨人は活躍期も同じで、好ライバルだったのですね。

東京へ帰った鴎外は、今度は明治三十七・八年の日露戦争に従軍です。
こうして文学面では、道草をくっている間に、漱石は文壇をひとり占めするような勢いで立場がごろっと変わっています。
六歳下の漱石を意識して、鴎外の創作意欲に火がつく。いちばん油がのったのは、明治四十年に、陸軍軍医総監に昇進し、翌年には文学博士になった頃で、それから団子坂にかまえた居宅、観潮楼(かんちょうろう)で、鴎外の名作が堰(せき)を切ったように、生み出されるのです。
そのころ、明治四十三年に鴎外が書いた「夏目漱石論」が面白いですね。メモのような小文ですが、一部引用しますと。

  • 漱石君が今の地位は、彼の地位としては、低きにすぎても高きに過ぎないことは明白である。
  • 二度ばっかり逢ったばかりであるが立派な紳士であると思う。
  • 今迄読んだところでは長所が澤山目に附いて、短所と云ふ程のものは目に附かない。

…とあります。

四島

鴎外と縁のある西周も忘れられませんね。学者の頂点と目された二人が、石見(いわみ)(島根県)の山間のたった四万三千石の津和野藩から出ている。不思議ですね。

小藩の津和野藩としては、藩の名を高めるのは学問しかない。学問を奨励した藩風にもよるのですね。
二人は親戚だが、鴎外が西に仲立ちしてもらった前妻を勝手に離縁して間が冷えている。
後年、『西周伝』を頼まれて書いていますが、どうも一歩距離を置いた感じで、外の歴史ものを代表する作品とはいえない。不思議な二人の縁ですね。

四島

西も鴎外も、当時の政界、官界、軍部の最高権力者だった長州閥の山縣有朋(やまがたありとも)の庇護を受けていますね。
有朋は西を信頼していて、陸軍出仕(しゅっし)でもないのに、新陸軍の背骨となる軍人勅諭(ちょくゆ)の草稿を頼みます。
一方心ならずも小倉に来た鴎外は、井上師団長から頼まれて、若い将校たちに戦略の天才と言われたクラウゼヴィッツの『戦争論』の講義をするのです。
日露戦争を視野に置いた当時のきな臭い空気の中で、この講義は青年将校たちに圧倒的に受け入れられ、師団司令部が石版で印刷するまでになったのです。
鴎外の末弟、潤三郎さんの文章によると、鴎外の訳二巻と、士官学校がフランス語訳から重訳した三巻以後とまとめて、陸軍から『大戦学理』のタイトルで出版されているのです。
だが、せっかくのその出版は、日露開戦の三か月前で、あまり役にたっていない。
私は、鴎外が山縣有朋に目をかけられたのは、歌の縁だと考えています。
すぐれた歌人でもあった有朋の歌の会、常磐会(ときわかい)の幹事を鴎外は親友の賀古鶴所とともに引き受けていますから。

好鴎外文学の醍醐味 鴎外開眼はヰタ・セクスアリスだった

夏目漱石

司会

鴎外の小説の魅力について。

鴎外の作品に最初に触(ふ)れたのは、旧制中学の教科書に載(の)っていた『高瀬舟』でしたね。鴎外が岩波文庫で最初に取りあげられたのは『ヰタ・セクスアリス』だったでしょう。

四島

あれは私どもの青春開眼の文学でしたね。

みな、非常に興味を持って読みましたな(笑)。次に読んだのは『雁』で、東大一年の時でしたな。不忍池(しのばずのいけ)が出てくるでしょう。私の下宿が近かったので、親しみを持ったのですね。
鴎外の小説の嬉しさは、歴史が、生き方が文明が簡潔な文体で大方がほどほどの掌中篇に、凝縮されていることでしょうね。
代表作は『雁』『興津弥五右衛門の遺書』『阿部一族』『佐橋甚五郎』『山椒大夫』『栗山大膳』『最後の一句』『渋江抽斎』『高瀬舟』などがあって。やはり歴史ものから読み始めるのがいいのでは。
小倉時代が背景になった小説には、『鶏』と『独身』があります。当時の小倉の風俗がうかがえて興味深いですね。

四島

鴎外の小説は、時代相への批判や主張を背景にしているので、奥が深いですね。

官僚を批判した『最後の一句』。明治天皇に殉死した乃木希典(のぎまれすけ)大将の心情を肯定してただちに筆をとったと言われている『興津(おきつ)弥五右衛門の遺書』。一転して封建時代の殉死を批判した『阿部一族』等々です。
息も継がせぬ一種の清爽なリズムがあって、若い人でも一息に読めるのでしょう。鴎外文学の醍醐味である、格調ある言葉の充実感に浸れます。
『阿部一族』は映画になりました。前進座の川原崎長十郎(かわらざき)、中村翫右衛門(かんえもん)の主演、熊谷久虎監督で評判作でした。

四島

鴎外の小説は、第二次大戦をはさんで歴史の転換を実感した男どもの、心をくすぐるものがあるのですね。

肌が合う小説といったらおかしいけれど、漢籍の素養がベースにあって、短くて勁(つよ)い。簡勁(かんけい)な文章でぐいぐいと迫まってくる、快いのですね。

魚町からすぐのしじま

司会

小倉の繁華街の魚町の近くにある、鍛冶町の鴎外旧居(記念館)は、館長さんが尽力されたとききました。

記念館にかかわったのは、もう二十年も前の古い話で、私が市長になって、小倉へ帰ったときのことでした。
鴎外の小倉寓居は、私の母の同級生の宇佐美マサさんの持ち家でした。宇佐美さんと佐藤さんと母と、小倉女学校の三人の同級生が、私の家によく集まっていました。
宇佐美さんは上品な美しい方で、よく鴎外の話をされていました。
そうした縁で鴎外旧居の話を知り、市に買いあげてもらいました。「鴎外旧居」と名づけ、「北九州森鴎外記念会」を設立し、会長を作家の劉寒吉さんにお願いしてスタートしたのです。

四島

鴎外は、あそこから馬に乗って師団司令部へ出勤していたので。

そうです。馬に乗って常磐橋を渡り、小倉城内の師団司令部まで毎日通っていました。馬も二頭飼っていました。絵になる、楽しい風景ですね。

四島

鴎外は小倉時代、ずっとここに住んでいたのですか。

いいえ。なぜかわからないのですが、二年後にこの閑静な住まいから、にぎやかな京町に越しています。
ここで『即興詩人』の翻訳を完成したのですが、小倉駅の移転で駅前広場をつくるために壊されました。今は駅前に記念碑だけが残っています。

四島

鴎外の来倉百年だけに、小倉の中心地に鴎外を偲ぶしじまがある。鴎外旧居はいいものをのこされましたね。

「鴎外」は友人の雅号

森 鴎外 旧居

司会

では、締(し)めとして、鴎外さんの名前の由来は。

鴎外の長男森於莵さんの著書に記されています。隅田川に「鴨の渡し」があったのです。鴎外の医学生仲間の友人にしゃれた人がいて、その鴎外に住んでいたので雅号を鴎外とつけたのですね。
森林太郎はその面白さに魅(ひ)かれて、了解ずみだったでしょうが、最初の著書の『舞姫』で外を借用しています。そのまま永久借用となったようで、森鴎外の誕生です。
もっとも、このペンネームを私用に使ったのはずっと以前からで、ドイツ留学時代に愛読したレクラム版の『ファウスト』に「鴎外漁史校閲」の自署があるそうです。
斉藤茂吉が支持している柳田 泉杜甫(とほ)詩の引用という説もあり、諸説いろいろですね。
鴎外先生ご本人が、はっきり書き残しておられないから困りますね(笑)。

四島

では、鴎外と双璧の漱石の由来も伺っておきましょう。

これは中国の古典『晋書(しんしょ)』によっているのですね。「石に枕し、流れに漱(くちそそ)ぐ」を、孫楚(そんそ)という人が「石に漱ぎ、流れに枕す」と、言い間違えました。
だが、孫楚は、漱石とは歯を磨くことで枕流は耳を洗うことだとこじつけたのです。その故事にちなみ、負け惜しみの強いことを言うのですね。

司会

負け惜しみの漱石先生ですか。愉快になりますね。
鴎外も漱石も、明治の文豪のネーミングは奥が深いですね。
鴎外の「来倉百年」にふさわしいお話をありがとうございました。