No.12 五市合併

対談:平成11年8月

司会・構成:土居 善胤


お話:
財団法人 北九州都市協会 会長 出口 隆氏
聞き手:
福岡シティ銀行 頭取 四島 司

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


年賀会で合併の気運

年譜

司会

2000年を迎えると、北九州市が誕生して三十七年になりますね。ひとつの新聞記事があります。「20世紀との対話」と題した西日本新聞の九州百年シリーズに、「五市合併」が取りあげられています。

四島

昭和三十八年二月十日。歴史に刻まれた、輝かしい一日でした。合併実現の日の市民の歓びが、如実にうかがわれますね。新世紀を展望して、今世紀の検証のひとつに、あらためて五市合併を振り返るときですね。

出口

門司、小倉、若松、八幡、戸畑、のいわゆる「五市合併」は、戦前からの宿願で今世紀の大事業でした。あれからそろそろ四十年。世代もかわりましたから、旧五市の顔を知らない人も多い。反面に、旧五市を懐かしむ人たちも。そして、五市合併にかけたロマンが達成されているかどうか。

新生「北九州市」の看板

四島

今は、整理統合や合併が内閣の省庁や大企業で進められていますが、地方自治体の合併で、これほど大規模で産業全般に影響した合併は、他に例がないでしょう。会長は、ずっとその中枢にタッチしていらっしゃって、五市合併の生き証人ですね。

出口

私は、当時、小倉市役所の総務部企画課にいました。若いぺーぺーでしたが、合併の当初の担当者で現役なのは私だけになってしまいました。上司だった小倉市長の林信雄さんや八幡の大坪純さん、戸畑の白木正元さん、若松の吉田敬太郎さんら当時の市長さんたちが、あいついで亡くなられました。薫陶(くんとう)いただいた小倉の香月助役さんも、久富総務部長さんも、工藤・大塚課長さんも。だが、門司市長だった柳田桃太郎さんが、九十二歳でご健在で心強いですね。

四島

柳田さんは、合併の貴重な推進役を果たされましたね。最初に合併の話が出ましたのは。

出口

最初は、昭和三十五年の小倉の年頭名刺交換会でした。そのとき、林市長が今年こそ五市合併を進めたいと決意表明をなさった。いよいよ歴史が動くなと強く感銘を受けたことを鮮明に覚えております。そして二月十日の五市の市長会で、八幡の大坪市長が五市合併を正式に提案された。市長さんたちもOKで、みんなでやりましょうとなったのです。

左より白木(戸畑)吉田(若松)太平坪(八幡)
林(小倉)柳田(門司)市長

四島

合併のちょうど三年前ですね。

出口

今考えると、ちょっと不思議な気もしますね。あれだけの大問題を、前年に初当選されたばかりの八幡市長が突然に提案して、よっしゃ、みんなでやろうと決まったのですから。そのとき、八幡市会議員の岩尾四十三郎(いわおよそさぶろう)さんも、不思議に思われたのですね。そのニュアンスをメモに残されていて、北九州都市協会の広報誌「ひろば北九州」に掲載されています。八幡の議員さんの間で、なんで急に合併話が飛び出たのかと話題になって「市長は小倉市長と合併の下地話をしチョラせんナ」とか、「あれは八幡製鉄所の指令じゃろうか」とか、噂話が飛びかって、合併研究委員会でもつくろうかという話になったそうです。それを読んで、私もハハーンと気付きました。小倉と八幡の市長間では、合併の下話ができていたのですね。

合併のうねりその話は百年前から

明治33年の旧五市

四島

合併が時代の要請だったからでしょう。

出口

合併話は、いろいろの組み合わせで、百年前から論議されてきましたが、本格的な合併話は昭和に入ってから四回ありました。新市の中心になると期待される小倉と八幡はいつも賛成。場末になると懸念される門司や戸畑は保留か反対と、決まった図式のままに話が流れていたのですね。

四島

会長は合併本番の四回目の流れを、つぶさに見ておられたのですね。

昭和26年の旧五市

出口

たまたま私はずっと合併担当を命じられ、新市になってもアフターケアを手がけてきました。断面は小さく狭いのですが、合併推進に当たって、多くの体験をさせていただきました。今後は都市問題の一環として考えてみようと思っていますが、末吉興一市長から、五市合併の学術評価をと大きな宿題をもらいましてね。都市協会としても格好なテーマですから、専門の先生方のご協力をいただいて作業を進めているところです。

四島

ひところ産学交流が話題になりましたが、五市合併は都市と大学の交流のいいお手本だったのですね。ところで、外国に五市合併のいいサンプルがありましたか。

出口

歴史的にはブダとペストが合併したブダペストがありますが、参考できるケースは見当たりませんでした。行政協力方式はカナダのトロントやアメリカの各地で見られます。協定を結ぶとか、権限の一部を集めてメトロポリタン組織に持たせるとか、方式はいろいろありますが、北九州は五市が裸になって新しい市を作る純粋合併です。これは世界でも類例のない合併でした。

四島

そもそも五市合併の話が出てきた初めは。

出口

最初となると、ぐっとさかのぼって明治三十二年です。イギリスの公使、アーネスト・サトウが本国へ送った手紙の中に、門司と下関の間に合併の機運があると書いているんですね。

アーネスト・サトウ
(Sir Ernest Mason Satow 1843~1929)イギリスの外交官。文久二年(1862)から明治十五年(1882)まで日本に駐在。幕末から明治にかけてパークス公使を補佐して、反幕府の薩長勢力を支援し、明治維新と明治政府に大きな影響を与えた。バンコク、ウルグアイ、モロッコの公使を経て明治二十八年から三十三年まで日本公使。ついで駐清公使に転じ、明治三十九年(1906)に引退。

司会

アーネスト・サトウと言えば、幕末から維新にかけてパークス公使を補佐して活躍した歴史的人物で、明治二十八年に、日本公使になっていますね。当時の世界国家だった英国の公使だけに、関門の重要性に着目していたのですね。

出口

この事実は、昭和三十一年に、下関市が市史作成のため、門司駐在イギリス代理領事トーマス・マルコム氏に照会して初めてわかったのです。

四島

百年前の五市は、とびとびで離れ小島のようだったのでは。

出口

百年前のころの五市を振り返ってみましょうか。門司と下関は狭い海を隔てて、すぐ真向かいで舟の往来が盛んです。だが、陸地のほうは小倉まで約十キロ。間をつなぐ町並みもないし、もちろん電車も車もない。小倉はぽつんと離れているはるかな遠い町でした。それから五キロ先に戸畑、その先に若松、八幡はその先で、さらに四キロぐらい離れたところに黒崎の宿場町がある。ちなみにそのころの小倉と門司の人口はそれぞれ約三万でした。明治三十二年は、門司市制実施の年で、その時の合併の見合い相手に赤間関市(あがませき)(現・下関市)を考えるのはごく当然のことだったのです。その後も門司と下関、門司と小倉、小倉と八幡、若松と戸畑、五市と下関、八幡、若松、戸畑の洞海三市と、明治、大正、昭和の三代にわたって頻繁(ひんぱん)に合併話がでてくるのです。

司会

末吉市長が、中野金次郎さんの関門県構想を高く評価しておられましたが。

出口

中野さんは門司の商業会議所会頭(昭和三年に商工会議所に変更)で、日本通運の産婆役をなさり、中央にも顔の広い大物実業家です。大正十四年に、門司と下関の県際合併を提議した『海峽大觀』を発行されています。合併実現には都道府県なみの海峡府か関門県を特別立法で作らなければならないので、行政を動かすまでにはいたっていない。時代が早過ぎたのですね。(*昭和三年に商工会議所に変更)

四島

門司と言えば出光佐三さんは。

出口

戦前昭和七年から十五年まで門司商工会議所の会頭をされていた出光さんもこのままでは門司は場末になるから、下関と合併しようと主張されていたそうです。

四島

お二人は、門司商工会議所の会頭として、門司の将来を下関との合併に求めておられた。後進の論議を通りやすくしておられたのですね。

現在の北九州

  1. 市庁舎・小倉城・市立図書館・松本清張記念館
  2. 中央緑地(中央公園)
  3. 新日鉄八幡・スペースワールド
  4. 新日鉄戸畑
  5. 若戸大橋
  6. 九州工業大学
  7. 産業医科大学
  8. 北九州大学
  9. 学術研究都市(建設中)
  10. 黒崎・安川電機・三菱化学
  11. 門司港レトロ地区
  12. 響灘埋立地
  13. TOTO
  14. 関門橋

合併問題は四回浮上

昭和37年当時の八幡製鉄所東田溶鉱炉群

出口

合併が具体的に大きな問題になったのは、昭和九年が最初です。北九州大学の小林安司先生と神崎義夫先生が、九州都市学会をつくられ、日本都市学会の全国大会を小倉へ誘致し五市合併の問題を論議されました。小林先生は合併を四回のステップに分けて説明され、第一回は昭和九年から十二年までということでした。この時は若松と小倉の二市だけが賛成で、戸畑は慎重論、門司と八幡は態度保留ということで終わりました。門司から言えば、小倉、八幡組と合併するとセンターから遠ざかってしまう。それよりも船ですぐ向かいの下関が先だという意識だったでしょうね。

四島

当時としては一理ありますね。製鉄が中心の八幡は、商業の小倉とは補完しあう。

出口

そうです。小倉は小笠原藩十五万石の城下町で、北九州工業地帯の中心というプライドがありました。それで八幡と一緒になって、商工業一体の展望をもっていましたね。

四島

それぞれの思惑があって、合併は一回や二回の話し合いでは難しかったでしょう。

出口

それで第一回は、合併の機運作りといったことで自然消滅し、昭和十八年の第二回目の運動となるんです。

四島

戦時体制下で、戦争遂行のための国策でもあったのですね。

出口

国会で五大市の論議がかわされた時に、北九州の五市合併も一緒に検討すべきだという発言があった。それで合併が急浮上したのですが今度は小倉、若松、八幡の三市が賛成。門司は下関との六市合併ならいい。戸畑は時期尚早ということでした。戦時中ですから合併問題はほどほどで、討議の主題は緊急の防空問題だったらしい。まあ話を先伸ばしにして終わったのですね。

出口

第三回は、戦後の昭和二十二年でした。五市の議長会で、合併して特別市を作るために「五市合併研究委員会」の発足が決まったのです。県と学者にも協力してもらおう、住民投票で合併の可否を聞こうと、一歩前進でした。

四島

そのころ福岡県知事は。

出口

初の民選知事で、杉本勝次さんでした。ところが、投票を実際におこなったのは、小倉と八幡だけという結末でした。だが次の五市合併の水脈をひいた役目は果たしたでしょうね。

四島

そして、いよいよ本番第四回を迎えるのですね。

出口

八幡の大坪市長が、昭和三十五年の市長会で合併を提唱されて、全員一致で推進と決まったのですが、この時のステップは非常に戦略的でした。全国総合開発計画が策定されて北九州も実施しなければならなくなった。そこで五市合併を視野において、とりあえず、北九州総合開発促進協議会を作って、北九州工業地帯の将来をどうするかという研究から始めたのです。これが戦略的に大変なヒットでしたね。そのため五市が二百万円を出して、九州経済調査協会に北九州工業地帯の発展方向の調査を依頼しました。若き日の兼尾雅人さん(のち九州山口経済連合会専務理事)が中心になって作業されましたが、実にすばらしい調査でした。それで五市合併が最大の重要テーマとして認識され、了解事項となったのです。

四島

工業基盤の整備一つをとっても総合開発が一市だけでできるはずはありませんね。

出口

折もよく、自治省が地方基幹都市構想を打ち出して地方自治体に呼びかけていました。それで五市もぜひそれにと意欲を燃やしたのです。ところが自治省の小林与三次事務次官から、北九州は基幹都市よりも、特別立法をしてもいいと、大きなエールを頂いた。それならということで、門司の柳田市長に、特別立法の私案を考えてもらうことになったのです。

四島

それがウルトラCとなった「合併特例法」なのですね。

出口

ええ。すばらしい提議でした。それからは柳田私案を支えに、強力に合併に向かって突き進んだのです。

四島

あの大事業を三年の短期間でよく達成されましたね。その「合併特例法」のあらましは。

出口

具体的には、市長には特例を設けないが、市会議員や農業委員の任期は二年間自動延長する。行財政は既得権を保証して経過措置を認める。まあこういった骨子で、いい格好の合併案になったのです。政令指定都市の指定もおりこみずみで、実現は五市合併の二か月後でしたから、まずは計画通りの進行でした。東京都とは別に、大阪、京都、名古屋、横浜、神戸の五大都市の地位は不動でしたが、北九州市が「五大都市」の仲間入りができるのですから、これはたいへんな福音でした。

磯村さんの多核都市論

水産基地・戸畑のシンボル的な風景(昭和38年ごろ)

四島

合併がスムーズに進展したのは最初に合併の論理をはっきりさせておられたからでしょうね。

出口

それは都市学の分野で指導的立場にあった都立大学の磯村英一先生の、「多核都市論」に負う面が大きかったのです。合併の際の基本方針となった理論ですが、先生は、五市の講演会で、「多核都市論」をこまめに話して廻られました。それぞれに核を持つ都市が合併して、多くの核を持つ多核都市になる。計画に核の将来を描いておけば、核は温存されるから合併は心配ないという論旨で、渇きをいやす魔法の言葉のように浸透しました。

四島

それなら合併しても場末になることはありませんね。

出口

五市合併という大手術では、心理的な安心感が必要で、大先生のお墨付きが黄門様の葵(あおい)の紋だったのです。それならやってみるかとなって、合併反対の主論だった場末論が、先生の説得で消えてしまいました。都市合併で自分の地域が繁栄するかどうかは、たいへんな問題で論議沸騰です。磯村理論の支えがなかったら、あの時に五市合併が実現したかどうか、疑問ですね。合併後の北九州市のマスタープランでも、多核都市をベースにしたまちづくりの理念を鮮明に打ち出しています。北九州市は、合併後四半世紀にわたって、多核都市論をベースに、生活環境が充実するように一極集中を避けてまちづくりをしてきました。磯村先生は、東大時代はセッツルメントの活動家でした。卒業後、東京都庁に勤め、社会局長や渋谷区長をされた行政マンです。だいたいの学者は理論構築が一番でそれを自説として主張しますね。磯村先生は行政の経験があるから、社会的な問題点を、体験的にすぐキャッチされる。それだけに非常に説得力があったのです。

ひたひたと合併の歩み

四島

五市合併には、マスコミの協力が大きかったですね。

出口

民放テレビが本格的な活動を始めだしたときで、毎日新聞とRKB毎日が『百万人の都市づくり』を合言葉に、合併推進の立体キャンペーンを次々に展開してくれました。不買運動を起こすぞとの脅迫もあったそうですが、五市の一体性と合併の必然性を強調した毎日新聞とRKB毎日のキャンペーンは高く評価されて新聞協会賞(昭和三十七年度)を受けています。他の新聞やテレビも、負けじと力をいれて合併特集を何回も企画されました。問題点の指摘も次々にありましたが、こうして合併が必要な選択だという世論形成ができたのです。マスコミの協力はありがたかったですね。

四島

世論形成もできて、五市合併は必然の問題だったのですね。

出口

アーネスト・サトウの観察から五十年たった戦後から、各市が拡大して鉄道や交通機関が整備され、国道や臨海国道、そして高速道路と、五市が断続なしに線で結ばれている。その象徴が昭和三十七年に完成した若戸大橋でしたね。電話局番も自動化されて、生活感覚で境界がないから、住民の間に一体感が醸成されてきている。それにともなって、行政協力も密接になってきますね。小倉と戸畑との間には、病院を一緒にと共立病院組合を設立し、やがて塵芥(じんかい)焼却場や、火葬場と共同歩調をとりました。結核療養所は五市で、水道は門司を除く四市と県で運営。港湾の管理は八幡、若松、戸畑の三市が共同歩調で洞海港務局を設立しました。消防の応援協定、教育の事務委託とか、数限りない協調システムが運用されていました。

四島

住民意識では、とっくに合併していたのですね。

出口だから戦後間もなくの頃は、合併問題はよくわからんという人が多かったのですが、合併直前には、合併賛成が三分の二以上は占めていました。五市合併は大資本に奉仕するものだという反対意見もありましたが、世論調査から見ればごく一部の人たちで、多くの市民は賛成だったのです。

市庁舎など三つのハードル

はしけ積み込みで炭じんにまみれて働く人たち
(昭和30年ごろ)

四島

五市合併は当然の帰結だったのですね。でも、それは総論で各論は。

出口

いざ合併となると、三つのハードルがありましてね。一つは市庁舎をどこにおくか。二番目は、行政と財政のバラツキをどうならすか。三番目は、大幅に減員となる市会議員や農業委員をどうするかでした。

四島

行財政のバラツキや議員さんの身分保証などは当座のことですが、市庁舎は永久で、もめたでしょうね。

出口

三つともシリアスな綱引きがありましたが、市庁舎をどこに置くか、これは一番もめましたね。当初は、おおまかに北九州の真ん中の小倉、戸畑、八幡の接点である到津遊園地をふくむ緑地帯に、新庁舎をつくる。今の交通公園のところに地図の上でマルを描いて、まあここらへんでということでおさまったのです。具体的なことは、合併後にということでした。仮庁舎は一年ぐらいだから、とりあえず旧小倉陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)の跡地で、となってそれぞれに持ち帰ったのですが、戸畑から仮庁舎も戸畑でなければ断固反対という、強硬意見がでましてね。それなら、小倉と戸畑にということになったが、戸畑は承知しない。小倉はそれはないと言う。鵜崎多一知事の斡旋などもあって、やっと中央緑地に本庁舎、戸畑に仮庁舎を建てることになりましたが、すったもんだの末で、それが決まったのは若戸大橋の開通まもなくでした。

四島

そのころ、会長さんは。

出口

私は旧市の企画課員として、庁舎問題を検討していた市長、議長で構成するA委員会も担当していました。A委員会が仮庁舎を決めようとしたとき、小倉市は、旧小倉陸軍造兵廠の跡地に誘致することになりました。いまの市立中央図書館の場所で、まだ、造兵廠の本部事務所ビルが残っていました。軍が中枢を置いていただけに、立地的にはすばらしい場所です。A委員会の委員である各市の市長、議長さんが視察に見えることになり、急遽、プレゼンテーション用の資料が必要となりました。それで私は、まさに若気のいたりでしたが、仮庁舎案とついでに、その場所での本庁舎案まで図面を作成して林市長にお見せしたのです。今から考えると、かなり勇み足ですが、林市長は、それでよいと言われ、視察に見えた委員さんたちに提供して理解を求められました。本庁舎の絵は地下に大駐車場を持つ画期的なプランでしたが、残念ながらボツでした。今朝、早起きして、その図面を見てきましたが、なかなかいい案で…(笑)。でもその案では、小倉リードですから、パスしないんですよね。第二代の谷伍平市長が勝山公園に本庁を新築するとき、この場所を避けられましたがこの経過を配慮されたのでしょうか。

出口

百万都市に相応しい北九州市の姿を整備された谷市長も、いろいろと御苦衷があったのですね。

名案のタッチゾーン

四島

五市それぞれに、バラツキのある市民サービスを、いかに公平に充実するか。たいへんだったでしょう。

出口

市民サービスの格差は、市の財政規模の違いそのものなのですから、調整はたいへんでした。戸畑を例にとりますと、新鋭の製鉄所ができたばかりで税収が豊富で、ゴミ処理がタダとか、いろんな面で市民サービスが充実していました。だから戸畑がメリットの温存を主張するのは当然ですね。だが他市からは、はだか合併が原則だ、最初から格差があるのはおかしいと批判が出てきます。

四島

簡単には、調整できませんね。

出口

それで、バラツキ調整には経過措置期間を設けようということになった。その時、八幡市の市会議員で北九州五市合併促進特別委員長だった岩尾四十三郎さんが「タッチゾーン」を持ち出されたのです。岩尾さんは視野の広い多才で硬骨の政治家でしたが、アイデアマンとしても知られていました。昼休みの八幡市議会事務局で、岩尾さんが、「誰か知らんかなあ。陸上のリレー競争で、バトンタッチのときだけ二人で走るじゃろう。あの区間を何と言うのじゃろう」と聞かれた。そして井手口体育課長に、「タッチゾーン」と教えてもらったらしい。初めは各市の議員のばらばらの任期を、統一するまでの経過措置として考えられたらしいが、これ、実に重宝な言葉でしてね。福祉のばらつきを統合するのも、引き継ぎ調整のタッチゾーンをおいて…、というふうに。それから、各市の調整と擦り合わせで盛んにつかわれましたね。合併の年度と続いての五年間、計六年度間は、タッチゾーンで特例を認めよう。新しく生まれた市に、五つのルールを認めようとなったのです。これで、合併処理は実にスムーズに運びました。タッチゾーンはそれからたいへん有名になりました。これをうまく使えば、少々難しい合併話もスムーズに運べるわけで、あっという間に、日本列島の関係者に広まりました。

四島

そのタッチゾーンの実例は。

出口

まず議員の任期でした。ひとつの市に五人の市長は不要ですから市長さんにはあきらめてもらう。だが議員さんにはそういうわけにはいかない。それで二年間議員として前任待遇。そして新しい選挙で一列に並んでもらうことに決まりました。だから新市発足の時の議員さんは百九十六人の大議会でした。市議会は戸畑の中央公民館のホールを借りてしのぎました。二年後に正式の選挙で、三分の一の六十四人に落ち着いたのです。

西京市から北九州市

旧・市長対若松高校生の「テレビ・インターハイ」
TNCテレビ

四島

新しい市名選びが大変だったでしょう。私どもの銀行も十年ばかり前に普通銀行転換で名前を変えました。関心が強いだけに、大変でしたが。

出口

本音は自分の市の市名を残したいのですが、そういうわけにはいかない。それで全国公募になりました。賞金は十万円でした。応募数十三万七千百票で、一番は西京市の一万二千百票、二番目が北九州市で六千六百票、三番が玄海市で四千百票、四位が洞海市で四千票でした。なんと、銘柄は一万九千二百九十二種という華麗さでした。それで、諮問委員会の答申をへて五市の市長と議長の特別委員会で検討されました。

四島

西京市とは、雅びでしたね。でも北九州の五市を統一した名前としては弱々しい。

出口

雅びでいいなあともりあがって西京市に決まる雰囲気でした。私も決まりだなと思っていました。当時は西京は北九州にまつわる名として使われていましたし、同名のお菓子屋さんもあって、違和感はなかったのです。そしたら、意外な伏兵が。ひとりの長老の方が、「天子様がおられた歴史がないのに、京と名乗っていいのかなあ」と、つぶやかれたのです。あまり大きな声ではなかったのですが、天子様と言われたとたんに、みんなしゅんとなってしまった。意表外のといいますか、一種新鮮な驚きだったのですね。そうだなあ、それなら二番目かなということになった(笑)。北九州は、大正十二年頃から国定教科書に「北九州工業地帯」の記述があって、全国に通用するからPR不要。メリットも大きいわと、「北九州市」に決まったのです。

司会

そこらへんが、新聞に東京、京都に”遠慮して”と報道されているゆえんですね。時代を背景に、記者さんたちの苦渋のニュアンスが汲み取れますね(笑)。

出口

古老から歴史認識が不足している。安徳天皇の内裏(だいり)の柳の御所が、大里にあったじゃないかと言われましたが、そうは言ってもですね(笑)。でも「北九州市」は、日本中の人たちに、場所と歴史と特性がすぐにわかります。結果的にはいいネーミングだったと思っています。吉田敬太郎委員長が協議会で、北九州五市には都の歴史がない。かつ西という文字、京という言葉に疑問が多く新しくスタートする新市名に相応しくないとはっきり言明されました。

司会

そうして、都市合併が実現したその翌日の、二月十一日でした。ほっとされた旧五市の市長さんを包むユーモラスな風景がありました。当行がTNCテレビで提供していた高校対抗クイズ合戦の「テレビ・インターハイ」に、旧、五市の市長さんたちが合併記念で登場されたのです。元気いっぱいの若松高校生とのクイズ対戦で、スタジオは沸きました。吉田敬太郎臨時市長の審判で前市長チームは惜敗でしたが、皆さん晴れ晴れのニコニコ顔が印象的でした。

合併の決め手「北九州市庁舎」

初代・吉田法晴市長

四島

北九州市が発足して、初代市長は吉田法晴さんでしたね。具体的なマスタープランは。

出口

今度は九州大学の都留大治郎(つるだいじろう)さんの出番でした。市民参加をポイントに、”太陽と緑のまち”をうちだされましたが、煙の街だった北九州のイメージを一掃するすばらしいテーマでした。

四島

初代の吉田市長さんは、経過措置や合併の後遺症でたいへんだったでしょう。

二代・谷伍平市長

出口

仮庁舎は戸畑の市役所をあけてもらいましたが、五市の行政やサービス機能をとても収容できず、事務所があちこちのビルやプレハブにタコ足で連絡がたいへんでした。一年半の予定でしたが、財政難その他から九年間も居続けました。吉田市長は調整と財源不足、そして組合の激しい清掃ストなど、新市誕生の痛みをもろに受けられて、新庁舎までは手が廻らない。それで、新庁舎の建設は、第二代の谷伍平市長にまわってきたのです。そこで地盤調査をしてみると、公約だったマル印の一帯は、地下に炭鉱の坑道がいくつも走っていて地盤極めて不安定。庁舎建築には不適切という結論が出たのです。

四島

それは、またたいへんで。

北九州市庁舎

出口

それで、条例で決まっていた市庁舎問題が、また振り出しにもどってしまった。それから、今の勝山公園のところとなったのですが、公約違反ということで、一度は議会が紛糾して流会。臨時議会を招集してやっと決まったのです。谷市長は、「合併のいきさつは知らないで市長になった。だから、できたんですね」と述懐されています。条例で決まっていた予定地は、建築不可能の結論が出たのだから、次善策を選ぶしかない。この地が適切ですとねばりにねばって、今の場所を主張された。最終的には皆さん賛成で、合併前後約十年にわたった大問題が、やっと一件落着しました。そして、昭和四十七年四月十日、小倉城内に本庁舎の開庁を迎えたのです。

四島

谷市長さんが、本領を発揮されて…。近代的な本庁完成が、五市合併の完成を象徴しているようですね。

合併のメリットと問題点

現・末吉市長

司会

振り返られて、五市合併が成功した要因は。

出口

やはり最初に、北九州方式の合併の基本理念をきちんとしていたことがよかったのですね。具体的には、産業基盤の整備と、五市住民の生活環境の改善で、その実現のために都市形成の歴史を尊重しながら、多核的都市構想に基づいて活力あふれた都市の実現に努めてきました。そしてもうひとつが政令指定都市の実現でした。

 

司会

その裏返しの問題点は。

出口

政令指定都市にもなって、市の財政が豊かになりましたし、市民の生活環境も向上してきましたが、その裏返しとして、都心の整備が遅れたことでしょうね。百万人の大都市でありながら、都心がせいぜい三十万都市並みのセンターでしかない。若者に魅力に欠ける都市になっていることですね。そのリフレッシュが大切です。それで末吉市長が都市構造の転換のときに至っているとルネッサンス構想を打ち出された。多核都市構想から、JR小倉駅周辺を都心に、JR黒崎駅周辺を副都心にという複眼都市構想への、発展的転換を掲げているのです。それから十年。都心は小倉駅と紫川周辺の一新が進み、その一環として室町の再開発も取り上げています。

松本清張記念館

四島

北九州市の歩みと、エネルギー革命は、皮肉なことに同時進行でしたね。工業基盤を広域的に整備しなければ、時代の激変に取りのこされてしまう。

出口

合併当初の北九州は、エネルギー革命が進んで炭鉱閉鎖ほか一連の政策から非情な影響を受けました。日炭高松に象徴される石炭業界の衰退で、石炭移出で成り立っていた若松の経済がメタメタに。戸畑の牧山地区も門司も同様でした。

四島

五市合併のとき、産業構造の変化は議論にならなかったのですか。

出口

産業の「体質改善」ということで論議になりました。学者からも提起されていたのですが、大きな時代の流れに、都市レベルではどうしようもなかったのです。

四島

確かに一地方自治体で、解決できることではなかったでしょうが、核をとらえた論議がされていたらという気はしますね。

出口

内陸部の開発をもっと早い時期にしておけばという悔いはありますね。いざと思った時には、地価が上がり過ぎていて、手がつけられなかった。一方、九州縦貫道とか道路網は次々に整備される。企業も住宅も、周辺の地価の低い地域に建設した方がよくなってしまった。工業団地として期待された小倉南区の舞ケ丘団地も、住宅地に工業半分ということで実現しました。しかし高級住宅地ですから、企業も外からの新規誘致は無理で、結局地元のTOTOが入ってくれました。それで響灘造成地に、発想を変えて新しい資源再生の角度から計画されたエコタウン構想に期待しています。今後は周辺地域との関係も強まるのでは。港湾も十分ですから将来の発展が期待されますね。

四島

では、五市合併を振り返って、その意義を。

出口

人口二、三十万の都市が合併することによって、百万都市になり、世界地図に載る大都市になったのです。このこと自体の意義が大きいですね。合併のとき、合併促進協議会の招きで来日した国連のアーネスト・ワイズマン社会局次長が、種々の提案を行いましたが、市民には世界の注目を浴びている高揚感があったでしょうね。五市合併が政令指定都市の指定につながって、国の資金の投入が増え、財政力が非常に大きくなった。市民福祉にも従来では考えられなかったほどにサービスが充実した。基盤整備も推進できた。行政の機能も拡充できた…と、ダイレクトなメリットが大きいですね。行政面でも、従来の五市がそれぞれに行ってきた議会や市長部局、etcの人件費から施設費、諸般の手間が一つのシステムでカバーできるので能率とリストラ効果は計り知れません。職員も合併直後は、事務局の統合で人員が一時ふえました。最大の時は一万三千人ぐらいでしたが、合併後は合併効果と加えて、行政改革もあって約二千人減り、今は一万八百人ぐらい。結果としては大きなリストラ効果が達成されているのです。五市合併は、事務の共同処理方式の行きつく先であり、究極の広域行政だったと思います。歴史に「もし」はないのですが、もし合併ができていなかったら、バブルが崩壊した後の数十万人の工業都市や港湾都市は大変な惨状だっただろうと思いますね。ひとつの街がひとつの産業によって繁栄する時代は終わったのです。

合併を振り返って五市へのノスタルジア

司会

五市合併が成って、四十年弱ですが、今の若い人たちは旧五市の性格を知らない。それでかつての、栄光の五市概観のおさらいを。

出口

門司は、明治三十二年に市制施行。合併時の人口は十五万六千人でした。鹿児島本線の始発、終着のターミナル駅であり、日本有数の港湾設備を備えた海上交通の要衝で大陸への窓口でした。商社や銀行のしゃれたビルが並び、”一丁ロンドン”と呼称されたことでも、その繁栄がうかがえます。だが、戦後中国との関係が絶たれたことで、貿易港門司は一挙に衰退しました。さらに、関門鉄道トンネルについで関門海底国道トンネルが開通。自動車時代の急進展で関門架橋が実現して通過都市の様相を深めました。門司港レトロ構想は門司回生の大きなプロジェクトです。
小倉は豊前小笠原藩十五万石の城下町で、明治三十三年に市制施行。合併時の人口は三十一万一千人でした。戦前は陸軍の第十二師団と造兵廠が置かれ北九州の商都、軍都。戦後も米国の第二十四師団が駐留していました。鹿児島本線と日豊本線、日田彦山線の分岐点で、JR小倉駅周辺が一新されて北九州広域圏の都心となり、文化施設も充実され、百万都市のセンター機能が急速に充実されています。
若松は、大正三年に市制施行。合併時の人口は十万八千人。火野葦平さんの小説に見られるように、石炭の集積で栄えた街で炭鉱が衰退すると、屋台骨が揺らいできました。その回生のために、遊休地となった広大な石炭関連用地を住宅地として整備中です。さらに広大な二千ヘクタールの埋立地を利用して、新しい産業機能を充実させる。産業廃棄物の再生処理をスムーズにするエコタウン構想。大水深港湾の設備の整備と若松再生の巨大プロジェクトを進行中です。
八幡は、明治三十年に設立が公示された官営八幡製鉄の町で、戦前は大小六百の工場がありました。大正六年に市制施行、合併時の人口は三十五万一千人でした。昭和三十年代に製鉄の主力工場が戸畑へ移るまで、北九州工業地帯の要として、日本産業のバックボーンの役目を果たしていました。膨大な製鉄遺産を新しい時代の地域活性化に役立てるために、また新しい産業を開いていくきっかけにと、製鉄百年の二千一年に博覧祭を開きます。黒崎地区は北九州市の副都心として今後の発展が期待されます。
戸畑は大正十三年に市制施行。合併時の人口は十一万四千人でした。栄光は銑鋼一貫工場の新日本製鉄でした。その蓄積を活かして、リフレッシュしながら、新しい時代も北九州の重化学工業を担う中核の街であらねばなりません。

まさに”転機”だったー「合併特例法」

柳田 桃太郎氏
(旧門司市長)

早いもので、昭和三十五年二月の市長会で八幡の大坪純君が合併しようじゃないかと言い出して、四十年になろうとしている。当時、門司、若松、戸畑では反対の空気が強かったが、たまたま市長は合併に前向きな考え方の持ち主が多数派になっていた。そのため、大坪君の提案に、ほかの市長も直ちに同調して、真剣に考えてみようではないかということになった。国も県も、大学やマスコミも賛成である。こうして、合併の気運は一気に盛り上がっていった。しかし、問題は山積みである。新庁舎をどこに置くか、各市の行政・財政のバラツキをどうならすか、大幅に減員しないといけない議員をどうするか。どれ一つとっても大変な問題である。行財政のレベルの違いの接点をどうするかを巡って、スムーズに合併を実現するためには従来通りでという考え方と、合併すれば直ちに一律にすべきだという主張が鋭く対立した。そこで私は議員の任期の延長を含めて「合併特例法案」を立案して自治省に持っていき、国会で通してもらいたいと談判した。行政法上、難しいことばかりであったが、自治省はこれを呑んでくれた。まさに転機であった。私は、それまで海外の事例を含めて都市の研究をしてきたし、自分なりに理想をいだいていた。それで、合併は必要であるという信念を持っていた。合併が成立して三十六年も過ぎた。厳しい環境のなかで、道は必ずしも平坦ではなかったが、やっとここまで来たかとの思いである。市内の各地域が、その歴史や地理的条件を生かしながら個性あふれたまちとして発展することを心から期待している。

溌刺と新しいハーモニー

年譜

四島

それぞれに、特性を生かして有機的な都市のシステムを構築していくことが大切でしょう。かつての企業城下町から、新しい企業と市民とのふれあいがこれからの課題でしょうね。

出口

たとえば、文化活動でも、かつては八幡製鉄とか門鉄という枠組みの中にいることによって、地域的なつながりも持っていましたが、やはり五市という五つのゾーンがあって、その中での文化活動でした。合併によってその垣根が取れて、地域の広い連帯が生まれ、北九州の文化活動が一皮大きく脱皮しました。そして、ハードの地域だった北九州に、ソフト産業の要請が強く、次々に強力な企業が登場しています。人と企業との、新しいハーモニーがあふれている都市へ、更なる脱皮が望まれます。少子化の時代ですが、北九州には、安川敬一郎さんと松本健次郎さん父子が明治専門学校(現・九州工業大学)を設立した輝かしい前例があり、戦後は産業医科大学の設立があります。そしてすぐ近くに、新しい学術研究都市の建設が進んでいます。若い人を吸引する大学の設置など、若い人の希望あふれるまちづくりも必要でしょう。五市合併で、重工業の町から、高度な科学技術を目指す都市へ。そして周防灘海上の新空港や、響灘の大水深を生かした国際物流を担う文化都市へと、大きな変転の中にあります。五市合併の成果は、二十一世紀に、さらに大きく開花するものと思っております。

四島

大きな展望と、激浪の歩みをお聞かせいただいてありがとうございました。

北九州市の現状

  • 人口=一〇一万九、六〇〇人。
  • うち就業者=四六万九、四〇〇人。
  • 所帯数=三八万八、七〇〇所帯。
  • 市域面積=四八三平方キロメートル
    (いずれも平成七年国勢調査時)。
  • 事業所数=五万六、三〇〇事業所。
  • 従業者=五一万五〇〇人(平成八年)。
  • 製造品出荷額等=二兆四、一〇〇億円(平成九年)。
  • 商業販売額は、三兆九、六〇〇億円(平成八~九年)。

出口氏略歴

昭和九年福岡県に出生。三十一年、中央大学法学部卒。旧小倉市役所入職。三十八年、合併で北九州市役所へ。企画課長、企画局次長、企画局長を経て、平成五年、市助役。九年から(財)北九州都市協会会長。十一年、九州大学大学院人間環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間環境学)。