No.13 「櫓山荘」をめぐる女人たち 橋本多佳子、杉田久女、竹下しづの女

対談:平成12年8月

司会・構成:土居 善胤


お話:
北九州俳句協会 会長 本田 幸信氏
俳誌「自鳴鐘」編集長 寺井 谷子氏
聞き手:
福岡シティ銀行 執行役員 小倉支店長 宮崎 誠

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


大正文化の夢のあと

profile:橋本多佳子

profile:杉田九女

profile:竹下しづの女

橋本多佳子

司会

いなびかり
北よりすれば北を見る

よく知られている、このひろやかで孤独感を強くにじませた句は、女流俳句の第一人者で、北九州にたいへん縁の深い、橋本多佳子さん(明治32~昭和38/1899~1963)の句ですね。

本田

小倉の櫓山荘(ろざんそう)で俳句に目覚めた多佳子が、戦後の昭和21年に奈良の日吉館の句会で詠んだ、華麗で新鮮な名句です。作家としての心の動かし方、多佳子の凛(りん)とした気持ちがみなぎっています。

司会

今日はそれで多佳子さんが住まれていた櫓山荘の跡へ寄ってきました。JR小倉駅から戸畑方面へ向けて車で約十分ぐらい。旧藩時代の豊前(ぶぜん)と筑前の境界だった境川のすぐ手前の、こんもりと樹木が茂った高さ30メートルぐらいの小山があります。それが櫓山(やぐらやま)で、そのふもとをぐるっと回ると、「中井北公園」のサインがあって、櫓山荘の入口でした。

本田

JR鹿児島本線の「九州工業大学前」駅の近くですね。建物はすっかりこわされていて、今はわずかに道の両側に残っている装飾を施した手摺で、往時の偉容をしのぶばかりですね。周囲がすっかり埋め立てられていますが、戦前の櫓山は響灘(ひびきなだ)に突き出て三方を海に囲まれた岬山(みさきやま)でした。その南側を鹿児島本線と九州電気鉄道(現・西日本鉄道)の電車が走っていて、櫓山を、海に押し出している感じだったでしょう。北側は岩だらけの磯で、西がわの境川の木橋を渡れば戦前に北九州でいちばん賑わった中原(なかばる)海水浴場でした。

櫓山荘

宮崎

その櫓山の上にあったモダンな西洋館が、櫓山荘だったのですね。

寺井

そこに、俳句に目覚めた橋本多佳子が夫の豊次郎(明治21~昭和12/1888~1937)と、大正9年から昭和4年まで9年間住んでいたのです。

本田

ユーカリの並木を通って、山荘の大きな門を入り、小石を敷きつめた道を歩むと、回転式の庭園とつらなって和洋折衷の3階建て。延約100坪の瀟洒(しょうしゃ)な建物でした。

寺井

テニスコートや、児童の舞踊やバレーまでできる石舞台の屋外ステージがあり、趣向を凝らしたステンドグラスと広い窓、明るいバルコニーがあって、絵で見る西洋のお城のような異空間だったのですね。

本田

豊次郎さんは開けた人で、大正15年に、童話作家の阿南哲朗(あなんてつろう)さん(明治36~昭和54/1903~1979)、舞踊家の黒田晴嵐(せいらん)さんらと「小倉児童芸術協会」を組織していますが、屋外ステージにその片鱗が見られますね。

寺井

磯を洗う潮騒(しおさい)の合間にピアノの音がきこえている。父の横山白虹(はくこう)(明治32~昭和58/1899~1983)について櫓山荘を訪ねた姉の博子は、自動演奏のピアノまであってびっくりしたそうです。下の磯へは急な石段が通じていました。当時の多佳子の句です。

裏門の石段しづむ秋の潮(しお)
窓の海今日も荒れゐる暖炉かな
山荘やわが来て葛(くず)に夜々燈(とも)す

本田

今は、埋め立てで海が3キロ先まで後退しているし、すぐ近くを国道199号線と都市高速が走っている。椿や椎(しい)などが茂って玄界灘の展望もさえぎられ、かつての閑静な文化サロンの雰囲気はあとかたもない。前の持ち主はマンションでも建てるつもりだったらしいが、折角の緑地ゾーンだからと北九州市が買い取って「中井北公園」に指定されています。

司会

すっかり変わっていて“夏草や大正文化の夢のあと”ですね。

夢のカップル

橋本豊次郎

宮崎

櫓山というのは。

本田

徳川幕府の鎖国令にそって禁を破った抜荷(ぬけに・密貿易)を取りしまるために、譜代大名の小笠原藩が正徳5年(1715)この小山に堺鼻見張番所(さかいばなみはりばんしょ)の櫓を設けました。それで櫓山と言われていたのです。幕末には、外国の蒸気船、いわゆる黒船と、すぐ西側の筑前黒田藩の監視も兼ねて、見張りにぴったりの場所でした。阿南哲朗さんが大正十二年につくられた民謡に「見張り番所よ」があります。

“見張り番所よ やぐらの山よ 六連(むつれ)まがった
船のかず 沖をゆく船 見てくらす”

櫓山荘から、はるかに玄界灘が見晴らせました。東がわが関門海峡の門司方面。前方が下関側の彦島で、その向こうに六連島、雄島(おじま)、雌島(めじま)。そして西は名護屋崎先端の浜の松原から響灘玄界灘。門司へ向かう数万トンの外国船や、下関と釜山を結ぶ関釜連絡船が眺められて見飽きないパノラマでした。

宮崎

そこに多佳子夫人との新居があった。実業家の豊次郎さんは、なかなかのロマンチストで…。

本田

19歳のときにアメリカへ飛び出して苦学をしながら土木建築を勉強しています。そのせいでしょうね。豊次郎は大阪で建築請負業「橋本組」を興(おこ)し、難波の地下鉄工事や日本紡績の工場建設などで成功した橋本料左衛門(りょうざえもん)の次男坊でした。橋本組は大正6年(1917)に小倉の中心街の大阪町に九州出張所を設けて、アメリカ帰りの新知識でハイカラな豊次郎を駐在させたのです。

宮崎

2人の結婚は。

寺井

その年の10月で、29歳の豊次郎が、18歳の多佳子と大阪に、新居をかまえました。

本田

多佳子の本名は山谷多満(たま)で、明治32(1899)年1月、東京生まれ。文芸趣味の夢見る少女でした。最初は多佳女、多佳子はのちの俳号です。15歳で、黒田家に出仕(しゅっし)して琴を教えていた山田流宗家の祖父清風から、流儀の奥義の後継の「奥許(おくゆるし)」を得ています。

宮崎

皆から羨まれるカップルでしたね。

本田

このとき、結婚記念に大分に10万坪の農園を買っています。栗や梨を植え、馬も飼っていて牧場を夢見ていたのでしょうか。そして、3年後の大正9年(1920)に夢と個性美にあふれた新居を建てました。ロマンチスト豊次郎の自画像といってもいい。英国の中産階級の家庭を描いて、彼が設計した櫓山荘です。

宮崎

大正初期の資産家のロマンは桁外れに大きかったのですね。

寺井

18歳の多佳子さんが、この櫓山荘で、理解ある夫の助言のもとに、生来の美貌を包む女性の教養を次々に磨いていくのですね。それから九年間、夫妻は櫓山荘に住みますが、父、料左衛門の逝去で昭和四年に大阪の帝塚山(てつかやま)に越しています。その後は別荘として使われましたが昭和14年に手ばなされています。

現在の北九州市中心部

現在の北九州市中心部

北九州の文化サロン

司会

豊次郎のセンスと多佳子夫人の魅力が、この別天地に文化人や知名人を引きつけて、櫓山荘が北九州を代表する文化サロンになったのですね。

本田

小倉は小笠原藩15万石の城下町で、第12師団司令部がおかれていた軍都ですが、東京から作家や芸術家を迎えたとき、恰好な歓迎の施設がなかった。それで、櫓山荘にとなったのでしょうね。

寺井

小説家の宇野浩二、里見(とん)※1久米正雄佐佐木茂索(もさく)、詩人の野口雨情(うじょう)、作曲家の中山晋平、舞踊の石井漠(ばく)、歌手の佐藤千夜子といった錚々たる人たちを櫓山荘で歓待しています。

※1弓へんに享

司会

彼らも目を見張ったことでしょうね。でも八幡製鐵にも施設があったでしょうが。

本田

製鐵には公餘(こうふ)クラブがあり、戸畑には松本健次郎さんの邸宅(現・西日本工業倶楽部)がありました。でも、門司、小倉、戸畑、八幡、若松の5市が合併したのは戦後の昭和38年(1963)のことです。当時は、各市が自前の施設をさがすのは当然で(笑)、櫓山荘を利用したのです。いわば櫓山荘が小倉の文化サロンだったのですね。

寺井

耳鼻咽喉科の曾田共助(そだきょうすけ)(公孫樹・こうそんじゅ)先生のお宅も後の小倉の文化サロンでしたね。

宮崎

お父上の横山白虹先生もお母様の房子先生と、俳句誌『自鳴鐘(じめいしょう)』でそのお役目をなさったでしょう。

寺井

話を櫓山荘にもどして(笑)。櫓山荘の華(はな)が橋本多佳子さんですが、ご主人の豊次郎さんは目立つことをさけられたのか、地域の文化面に尽くされた功績が表に出ていません。

本田

児童芸術協会を作り、文化人歓迎に自宅を提供し、行き倒れの人の供養に「旅賓供養之碑(りょひんくようのひ)」や墓碑をたてたり、気持ちの奥がふかい方ですね。

寺井

白虹と婚約した母の房子が、一緒に櫓山荘をお訪ねしたのは昭和13年で、ご主人の豊次郎さんが亡くなられた翌年だったでしょう。竹下しづの女(じょ)さんが長男の(よしのぶ)※2さんを連れてきておられ、母はお嬢さん方とトランプをしたそうです。しづの女が詠まれた

※2にんべんに口

女人高邁(こうまい)芝青きゆゑ蟹は紅(あか)く

はそのときの句だったでしょうか。私も小学3年生くらいのころ、父の白虹を訪ねて来られた多佳子さんにお目にかかったことがあります。多佳子さんは白虹と並ぶ背丈(せたけ)の方でお着物姿でした。夏でしたが、黒レースの手袋をしていらっしゃったのが、とても印象的に残っています。

白虹の
機上にて人立てばある夏手袋

は、多佳子さんがモデルのようです。私は子供心にとても美しい小母さまだなと思ったことを覚えています。

暖炉に椿の花を

杉田久女

司会

その、美しい多佳子さんの真価が発揮されたのが、西海道俳吟旅行で小倉を訪れた高濱虚子(明治7~昭和34/1874~1959)の歓迎ですね。寺井先生、これからは敬称略で(笑)。

寺井

俳句結社「ホトトギス」を主宰している虚子は、当時の俳人にとっては雲の上の存在でした。

本田

その虚子を小倉に迎えて句会が催されるのですから、これはたいへんなビッグイベントです。その連絡を受けた杉田久女(ひさじょ)(明治23年~昭和21/1890~1946)が、小児科医の太田登博柳琴・りゅうきん)と相談をし、柳琴と公孫樹の世話で櫓山荘の句会が実現したのでしょう。

司会

大正11年3月25日は、肌寒いが快晴でした。この日が、俳句界に華麗な活躍を見せた、橋本多佳子の俳句開眼の日になるのですね。

寺井

虚子が長崎からの帰途、小倉魚町のみかど旅館に一泊して、翌日11時に歓迎句会が催された櫓山荘に立ち寄ります。

本田

地元の俳人たちと橋本夫妻が心を尽くして迎えます。杉田久女と橋本多佳子は、この日が初対面でした。

寺井

俳壇の大御所の虚子は、男盛りの49歳です。源氏物語の紫上(むらさきのうえ)のように美しい23歳の多佳子との、華やぎの対照が目に浮かびます。

司会

眼下には干潟が展望されて、席題は潮干狩り、兼題は落椿(おちつばき)でしたね。

「落椿投げて暖炉の火の上に」

寺井

久女の句は、

汐干人(しおひびと)を松に佇(たたず)み見下ろせり

でした。春とはいえ、潮風をうけてまだうそ寒く、暖炉にはもてなしの火がたかれていました。そのとき、暖炉の上の花瓶に活けられていた深紅(しんく)の一輪の椿が、青い絨緞の上にこぼれたのです。それを、まだ俳句になじんでいない多佳子が、そっとひろって暖炉に投げ入れたのだそうです。艶なしぐさだったでしょう。虚子はその瞬間を見逃さない。すぐに

落椿投げて暖炉の火の上に

と詠んだのです。

宮崎

さすがですね。カルメンの一場面のような…。

寺井

絵になる風景だったでしょうね。眼前で美しい一句が、さらさらと生まれたのです。そして、自分がモデルですから、感動が深かったのでしょう。俳句に関心をもった多佳子に、豊次郎が後に「久女さんに習えば」と勧めています。

宮崎

劇的な一日だったのですね。多佳子の俳句の目を開くため虚子が櫓山荘を訪ね、深紅の落椿が、久女との縁を結んで…。

本田

多佳子がたいへんな美人だったこともありましょうが(笑)、櫓山荘にとって華の一日だったのですね。

寺井

多佳子が櫓山荘で詠んだ句をあげましょうか。

ひぐらしや絨緞青く山に住む
山荘やわが来て葛に夜々燈す
(昭和10年)

廃園に海のまぶしき藪椿(やぶつばき)
(昭和23年)

司会

櫓山荘が整備されて、この句碑が建てられるといいですね。

俳壇の神様だった虚子

司会

俳誌の『ホトトギス』は、創刊百年をこえているのですね。

寺井

正岡子規柳原極堂(やなぎはらきょくどう)が、松山で俳句革新をかかげて『ホトトギス』を創刊したのは、明治30年(1897)でした。翌年虚子が本拠を東京へ移して編集にあたり、俳句を国民文化に高める役割を見事に果たしましたね。当時の『ホトトギス』は、俳句のほかに小説も載せて、幅の広い文芸雑誌だったのです。夏目漱石の「我が輩は猫である」は『ホトトギス』に載った小説でした。

本田

だが、同じ子規門の河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)らが、五七五にとらわれない新傾向俳句を唱え出します。これを俳句の危機と感じた虚子は誌上に自分の選句欄を復活させ、季題を尊重し、花鳥諷詠の客観写生をとなえて、定型をまもる守旧派宣言をするのです。そのころ大正2年、虚子40歳の句が有名な

春風や闘志いだきて丘に立つ

です。それから俳壇に君臨し、ホトトギス俳句を確立していくのです。

寺井

途中で虚子の守旧の姿勢にものたりず、吉岡禅寺洞、水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)、山口誓子(せいし)らが離反して、新興俳句の結社が生まれましたが、彼らの虚子への尊敬はゆるがない。それぞれに、俳句革新の役目を果たして、俳句を隆盛に導いたのです。

司会

虚子が女流の活躍の場を設けたことも大きな功績ですね。『ホトトギス』以前は、女流俳人は寥寥(りょうりょう)たるものでしたね。

寺井

虚子は『ホトトギス』に「婦人十句集」欄をもうけたり、当月の第一席である雑詠の巻頭句に女性俳句を登場させたりしたのです。俳句界を支える基盤は女性層であると一世紀も前に着目したのですが、久女、しづの女、多佳子、汀女らを生み出してその慧眼(けいがん)は見事でした。

ひたむきな久女あわれ

宮崎

ここで、杉田久女のおさらいを。

本田

久女は大正7年に28歳で

艫(とも)の霜に枯枝舞ひ下(お)りし烏(からす)かな

で、『ホトトギス』に初登場し翌八年に

花衣(はなごろも)ぬぐや纏(まつ)はる紐(ひも)いろく

11年に

足袋つぐやノラともならず教師妻

昭和6年に

谺(こだま)して山ほととぎすほしいまま

と俳壇に衝撃を与える句を次々に発表しました。そして『ホトトギス』の巻頭句(昭和7年7月号)は、八幡製鐵の公餘クラブの内庭にあった楊貴妃桜を詠んだ

風に落つ楊貴妃桜房のまま

ほかに5句でした。ついで昭和8年7月、9年5月と巻頭句が続き、同年6月ホトトギスの同人に推されますが、11年10月号に吉岡禅寺洞、日野草城とともに同人除籍の社告が出るのです。

司会

華麗な俳句歴が暗転して、久女には衝撃でしたね。

本田

戦後すぐに、久女は悲運のうちに亡くなりましたが、彼女の遺したすぐれた句は、年々評価が高まっていますね。昭和61年に、『朝日グラフ』が俳壇と作家に好きな女流俳人の推薦を行っていますが、トップの多佳子、久女についでしづの女が光っています。

司会

長女の石昌子さんにうかがった久女の俳句一筋56年の生涯は、本シリーズの「杉田久女」(通巻59、北九州第3号)で見られます。

書き遺すこと何ぞ多き

書き遺すこと何ぞ多きいな
びかり北よりすれば北を見る

本田

久女はひんぱんに櫓山荘に通って美しく聡明な弟子の多佳子に俳句から絵や書まで教えました。

きさらぎや通ひなれたる小松道

このとき久女は32歳。「花衣ぬぐや」の句で、虚子の賞賛を受けて以来、“東のかな女(長谷川)、西の久女”と俳壇の注目をあつめている存在です。

寺井

久女は何事も投げやりにできないひたむきな人ですから、多佳子にお嬢様芸ではだめ、真剣な観察と描写をと、びしびしと鍛えたらしい。そうして眠っていた天賦(てんぷ)の才能を久女が引き出したのです。久女は俳誌「花衣」で「多佳子さんの句は、華やかで印象強く清新な点が特徴である」と述べています。

本田

昭和2年に、『ホトトギス』に初めて載った多佳子の句は

たんぽぽの花大いさよ蝦夷(えぞ)の夏
で、大正14年に豊次郎と樺太(現・サハリン)、北海道へ旅行した情景で、多佳子28歳でした。

花衣ぬぐや纏はる紐
いろいろ

寺井

だが、久女は熱心すぎて、豊次郎が帰宅するころになっても指導をやめないことも…(笑)。それでは寛容な豊次郎も顔が曇る。多佳子さんもはらはらしたでしょう。豊次郎も久女先生に習うのを遠慮してはと言いだし、次第に疎遠になっていくのですね。

本田

でも、久女に俳句の手ほどきをしてもらったことは、多佳子にとってはたいへんな恩恵でした。

多佳子が後に久女を詠んだ句に
青芦原(あおあしはら)をんなの一生(ひとよ)透(す)きとほる

があります。

司会

大阪へ帰った後の多佳子は。

子といくは亡き夫といく
月真澄

寺井

昭和4年11月大阪中の島の中央公会堂で催された『ホトトギス』400号記念俳句大会で久女に紹介されて、生涯の師となる山口誓子(明治34~平成6/1901~1994)に会うのです。誓子、29歳、多佳子31歳でした。このとき日野草城(そうじょう)にも会っています。

本田

誓子は水原秋桜子、高野素十(すじゅう)、阿波野青畝(あわのせいほ)らとともに虚子門下の4Sと言われた俳壇の大物です。誓子の代表句は、

夏草に機罐車の車輪来て止る
七月の青嶺(あおね)まぢかく熔鉱炉
海に出て木枯(こがらし)帰るところなし

多佳子は昭和10年に、誓子に師事する決意をかため、誓子のすすめで『ホトトギス』を離れ、水原秋桜子の『馬酔木(あしび)』の同人になります。

寺井

こうして、誓子について本格的に俳句に取り組み始めた多佳子ですが、昭和12年に夫、豊次郎を亡くしています。中国との悲しい戦争が始まった年でした。

夫(つま)恋えば吾に死ねよと青葉木菟(あおばずく)
炉によみて夫の古椅子ゆるる椅子
(昭和14年)

月光に一つの椅子を置きかふる
(昭和16年)

本田

昭和16年に上梓(じょうし)された第一句集『海燕(うみつばめ)』は、題名を、豊次郎との最後の旅になった、上海旅行の情景の句からとっています。霧で停船した乗船にたくさんの燕が羽をやすめていたのです。

わがまつげ霧にまばたき海燕

司会

夫、豊次郎へのレクイエムですね。

本田

誓子は序文を寄せて、「女流作家の道には二つの道がある。女の道と男の道である。女の道は男性にもてはやされる道だが、男の道は男以上の志と炎を燃やす。多佳子の俳句は男の道で容赦のない冷厳な道である。多佳子は男の道を歩く稀な女流作家の一人である。」と言っています。

寺井

多佳子は戦前戦後の厳しさの中で、4人の女の子を抱えて生活と戦いながらひたすら俳句修業に挑むのです。誓子の序文は、その予兆を感じての言葉だったでしょうか。

司会

多佳子の句には、女人(にょにん)が薫っていて。女の道なのでは…(笑)。

本田

戦争が厳しくなって、奈良のあやめ池に疎開します。そして終戦。大分の10万坪の農園は戦後の農地解革で坪80銭で買いあげられてしまう。厳しい生活ながら、女手ひとつでそれを超えて、自分の俳句に挑む雄々しさ…。男の道の俳句でしょうか。

寺井

でも多佳子の句は、彼女ならではの、女人の情感にあふれている。哀歓に浸(ひた)りながら、それを突き放したキラキラした句ですね。そして、多佳子俳句の完成にはまた大きなハードルが待ち構えています。

書き遺すこと何ぞ多き

句を詠む多佳子

本田

それが、奈良の日吉館時代の荒行(あらぎょう)の句会ですね。奈良市の登大路(のぼりおおじ)にあった旅籠風(はたごふう)の日吉館は、奈良路を訪ねる文化人がよく利用した旅館でした。

司会

今は廃業されていますが、さりげなく使われていた看板の字は、歌集『南京新唱(なんきょうしんしょう)』で知られ、書家としても有名な会津八一(あいずやいち)の書でした。

寺井

戦後間もなくの昭和21年に多佳子は西東三鬼(さいとうさんき)、平畑静塔(ひらはたせいとう)、秋元不死男(ふじお)、右城暮石(うしろぼせき)らと、日吉館で奈良俳句会を始めるのです。冬は掘りごたつを囲んで、夏は大小の蚊帳をつり、小さな蚊帳に多佳子、大きな蚊帳(かや)に男4人がこもって、夜を徹して俳句の創作を競いました。時には明け方までも。年下の俳句の鬼才たちと、身を削り、脳漿(のうしょう)をしぼっての、練磨の荒行だったそうです。冒頭の「いなびかり」はこの頃の句です。

炎天の梯子昏(くら)きにかつぎ入る
雄鹿の前吾もあらあらしき息す

静塔は多佳子を追想して、「美しい人だとか洒落た人だとの賛辞は、外の人たちの事であって、私たちの関係はまるで昔の蘭学塾の男女学生のようなものであった」と言っています。

宮崎

こうして、華麗で、深淵で、繊細ですぐれた女人の感性がひたひたと伝わってくる多佳子の俳句が完成されたのですね。

本田

多佳子は幸せな人ですね。天賦の才能と美貌。そして虚子、久女、誓子、荒行の男たち。それぞれに多佳子俳句を磨きあげる砥石の役目を果たしたのでしょう。そして昭和23年に、多佳子や三鬼や静塔らが誓子に勧めて発行された俳誌「天狼(てんろう)」の同人に加わります。誓子は「出発の言葉」で、現在の俳句雑誌に欠けている“鬱然たる俳壇的権威と、酷烈なる俳句精神”をみたすためにと述べています。

司会

激しいですね。多佳子はそれに共感して、「七曜(しちよう)」も。

寺井

“「天狼」を目指す若い作家集団のために”、同時に発行された姉妹誌です。初めは榎本冬一郎と2人で、すぐに多佳子の主宰になります。多佳子の方が2歳年上でしたが俳句改革の熱情を内に秘めた誓子の静かな人柄に傾倒したのでしょう。苛烈な俳句精神を追求し、写生構成をとなえた誓子は、彼女を戦後の女流俳壇を代表する第一人者に育てたのです。だが親しい人たちに「誓子はまじめ過ぎるのよ」と言っていたそうで、闊達なお弟子さんだったのですね(笑)。

宮崎

それからの多佳子の挑戦は。

寺井

俳句は生命に触れたもの、いのちを素手で掴みとるものとした、多佳子の俳句への姿勢は、5冊の句集に結晶しています。大戦直前に数か月を過ごした思い出をタイトルにした第二句集『信濃』を昭和22年に。

子を負える子のみ
しなのの梨すもも

誓子が「現代俳句に橋本多佳子といふ作家のあることを誇りにせずにはゐられない」と序文を寄せた『紅絲(こうし)』が昭和26年に。最初に紹介した「いなびかり」の句や

雪はげし抱かれて
息のつまりしこと

第三句集『海彦(うみひこ)』は誓子に従って土佐に旅したときの句から。

崎に立つ遍路や何の海彦待つ
十指の癖一(ひ)と冬過ぎし手袋ぬぐ

昭和三十二年に刊行しています。こうして、多佳子は戦後の女流俳人第一人者の実績と栄光に輝きました。

本田

昭和16年に上梓(じょうし)された第一句集『海燕(うみつばめ)』は、題名を、豊次郎との最後の旅になった、上海旅行の情景の句からとっています。霧で停船した乗船にたくさんの燕が羽をやすめていたのです。

わがまつげ霧にまばたき海燕

本田

久女に俳句の手ほどきを受けてから、晩年の輝きまで。誓子について男の道を駆けながら女人の俳句を追求した多佳子俳句の見事さでしょうか。

多佳子は昭和38年に、胆嚢と肝臓のガンが発見され、手術の前に

雪の日の浴身一指一趾愛し
*愛しは「いとし」とも

雪はげし書き遺すこと何ぞ多き

の句を遺して、美しい64年の俳句人生を閉じました。第五句集となる遺句集『命終(みょうじゅう)』(角川書店)が、没後の昭和40年に出されています。

宮崎

多佳子の俳句を要約しますと。

寺井

女人の哀歓をつくして、女の内側に秘められた感覚を、見事に結晶させました。それも単に「なげき」でなく昇華させ得た、真の女性作家と言えましょう。

本田

写生に徹した眼の鋭さと確かさ。しなやかで豊かな感性の俳句が、人々の心に生き続けているのでしょうね。

宮崎

久女は。

本田

終戦の翌年の昭和21年一月に、腎臓病が悪化して太宰府の筑紫保養院(現、太宰府病院)で、ひとり寂しく俳句一筋の56歳の生涯を終えています。久女の句に

はりとほす女の意地や藍浴衣(あいゆかた)

司会

句集刊行が久女の念願でしたが、序文を虚子に忌避され手にしないままでしたね。

本田

でも、幸いに生の句稿が遺っていました。お嬢さんの石昌子さんが戦後に虚子の序文をもらって、見事な句集を編まれ、高い評価が定着しています。

巻頭の虚子の悼句は
思ひ出し悼(いた)む心や露滋(つゆしげ)し

でした。薄幸な久女でしたが、芸術的な資質をみごとに開花させた花の生涯は、人々に多くの感動を与え続けています。多佳子は後年、久女終焉(しゅうえん)の地を訪ねて菩提を弔っています。

菜殻火(ながらび)の燃ゆる見て立つ久女いたむ
一切忘却眼前に菜殻火燃ゆ

司会

いたましいですね。久女の俳句への炎(ほむら)は、手ほどきをして、戦後女流の頂点にたった多佳子に、見事に継承されたのだと思いたいですね。

すてっちまをか

多佳子、久女、しづの女の“俳句”

竹下しづの女

司会

久女と多佳子の対照的な俳句人生を見てきましたが、気になる人に行橋の竹下しづの女(じょ)(明治20~昭和26/1887~1951)、がいますね。今年はしづの女没後50年で…。

本田

竹下しづの女は、明治20年(1887)福岡県京都(みやこ)郡稗田(ひえだ)村、今の行橋市に生まれ、久女と同世代、多佳子は一回り下ですね。

宮崎

代表作が鮮烈ですね。

本田

大正8年の冬、32歳で吉岡禅寺洞の指導で俳句を始め、翌9年『ホトトギス』に投句を始めたと思うと、8月号で雑詠巻頭句に5句が選ばれます。彗星のように躍り出て、衝撃を与えた句が、短夜(みじかよ)や乳(ち)ぜり泣く子を須可捨焉乎(すてっちまをか)

寺井

当時の授乳はお母さんの母乳でした。4児の母親と、妻と、勉強で、体がいくつあっても足りない。綿のように疲れて眠っている。夏の季語である短夜に乳不足で泣きやまぬ赤子。無意識で乳首をあてがうが、乳がでなくて赤ん坊は火のついたように泣く。捨てっちまをか…。その瞬間に目覚め、赤子をしっかと抱きしめているしづの女がいます。母親の愛情が結晶した句なのですね。

本田

母子の情景を直截な表現でとらえて、うわべ言葉のモザイクを突出した「すてっちまをか」の鮮烈な叫びは常套表現になれていた俳壇に、強烈なパンチを与えたのです。

宮崎

ところが、非難続出で…。

本田

ステッチマヲカとは何ごとか。子供のために身を捨てるのが母親だ。おまえは鬼ババか。漢文の知識をひけらかして、生意気だ、etcと。

夫伴蔵としづの女

寺井

巻頭句を九州の、それも俳句を始めたばかりの女性がさらって。やっかみもあったでしょうね(笑)。そして見知らぬ人が、「短夜や」を詠まれた先生はこちらですかと、次々に訪ねて来る(笑)。ご主人は農学校の先生(後、校長)でわずらわしいし、家事も勉強も妨げられてしまう。さっぱりした人で、『ホトトギス』の巻頭句を取って大ホームランなのに「俳句の主観、及び季の問題に懐疑を抱く」と言って、作句を中断してしまった。知の人でもあります。

本田

俳句活動を再開したのは8年後の昭和3年で、福岡へ来た虚子と会って思い直しての再開でした。

寺井

ホトトギス派の俳人、皆吉爽雨(みなよしそうう)氏は「須可捨焉乎(すてっちまをか)」の衝撃を、「初学者の私たちは、文字通り茫然として、既成俳句を見失ってしまうほどの驚きとうろたえをもってこの句にむかった。(中略)すべて俳句にこめる感情とはかばかりの激しさを持ち、表現またかばかりの自在を帯ぶべき心構えを我々はつねに心得うべしという叱咤を投げつけられたような一句であった」と述べています。

宮崎

それにしても、「須可捨焉乎」とは。しづの女はもとよりながら、当時の人たちの漢文の素養を感じますね。

寺井

明治から大正にかけて、“斯(こ)の身飢ゆれば斯の児育たず斯の兒棄てざれば斯の身飢ゆ”ではじまる「棄児行」という漢詩が全国で詠われていたそうで、身近に感じた人が多かったかもしれませんね。その乳飲み子は次男の健次郎氏で、九州大学工学部の名誉教授ですが、しづの女追想の会で、「私が捨てられかけた泣き虫です」と話されて、感動のどよめきが流れました。

寮の子に樗(おいち)よ花をこぼすなよ

※樗=香気ある栴檀(せんだん)の木

子といくは亡き夫(つま)といく月真澄(ますみ)

宮崎

なにごとも“創世紀”には、目を見張る人がでてくるのですね。

寺井

しづの女もその一人です。こうだと結論をつけたら猪突猛進で即座に実行してくよくよしない。直感とか心の動きに率直で、その上に思想を書こうとした最初の女性俳人でしょう。

本田

虚子が秋桜子や誓子らの東大俳句会の俊英を育てたように、しづの女は昭和十二年に、長男吉★(よしのぶ)※1(俳号・龍骨 りゅうこつ)らの主唱で組織された高等学校俳句連盟(後の学生俳句連盟)を支援して、機関誌「成層圏」の指導に力を注いでいます。姫路や山口、関東の旧制高校の学生も参加したそうで、いま俳壇第一線で活躍の金子兜太(とうた)さんも会員でした。

※1★はにんべんに口

寺井

たが『成層圏』は、昭和16年に戦時下の統制で廃刊されました。

ただならぬ世に待たれ居て卒業す

俳句に望みを託した自慢の息子の龍骨は結核にかかって、終戦の昭和20年8月に31歳の若さで夭折(ようせつ)してしづの女を嘆かせています。
戦後早々のしづの女の句に、

米提(さ)げて戻る独りの天の川
天に牽牛(けんぎゅう)地に女居て糧(かて)を負ふ

農地改革のとき、行橋で五反歩の田に田小屋(たごや)をたてて米を作り、福岡の子供たちに運ぶ。母親を看病し、九大俳句会の指導も始める。せつなくも凜と生きたしづの女の、吐息がきこえてくる思いです。

宮崎

つらい日々だったのですね。

寺井

「作品は如何なる場合にも、作者の性格の反映である」「俳句は遍照無礙(へんじょうむげ)自由闊達に、主義の人生を詠うべきである」と言ったしづの女です。

昭和十五年に句集『(はやて)』※2を刊行。この句集に寄せた虚子の序句が

※2★はかぜへんに立

女手の雄々しき
名なり矢筈草(やはずそう)

でした。昭和26年に、自由闊達に俳句を愛し続けた64歳の生涯を終えました。昭和54年に行橋市中川に建てられた句碑は代表作の

緑陰や矢を獲(え)ては鳴る白き的

碧梧桐の句に

明るくて桃の花に菜種さしそふる

があり、しづの女を彷彿させるものがありますね。

三つ星 久女、しづの女、多佳子

俳句一途に「一處一情」のひと

宮崎

大正の半ばから昭和にかけての同じ時期に、北九州に躍り出た久女、しづの女の輝きがまぶしいですね。

寺井

そして2人が櫓山荘の訪客として、戦後女流俳句の第一人者となる多佳子の俳句形成に直接間接に影響を与えていたのです。まさに櫓山荘をめぐる女人たちで、三つ星のめぐり合わせがとても不思議ですね。

宮崎

久女としづの女はライバル同士のようで、対照が興味深いですね。

寺井

久女は清艶高雅で浪漫的、王朝趣味、女流第一、粘着質、孤独のひとです。しづの女は、所信を通す性格で漢文調、万葉趣味、男まさり、猪突猛進だが母性的、というイメージが浮かびます。これは二人の代表作の

短夜(みじかよ)や乳(ち)ぜり泣く子を
須可捨焉乎(すてっちまをか)
しずの女

花衣(はなごろも)ぬぐや纏(まつ)はる紐(ひも)いろく
久女

をくらべてみると、わかっていただけるでしょう。

宮崎

当時としては学歴も高くて。

本田

久女はお茶の水高等女学校卒、しづの女は福岡女子師範学校卒業です。久女のご主人の宇内(うない)は上野美術学校(現・東京芸大)西洋画科卒で旧制小倉中学の美術の先生。しづの女のご主人(養子縁組)は、福岡県立糟屋農学校の校長先生の水口伴蔵(みずぐちはんぞう)です。

司会

環境が似通っていて、鮮烈な違いが面白いですね。

本田

しづの女の本名は静栖(しずの)です。漢文は、末松謙澄(けんちょう)の兄で漢学塾水栽園に学んだ房泰に学んで、白文(はくぶん)が自在に読めたそうです。だから、須可捨焉乎(すてっちまをか)などすらすら出てきたのでしょう。

※「末松謙澄」(談・玉江彦太郎氏)北九州シリーズ9号、通巻70号参照

寺井

ご主人の急逝後は、福岡県立図書館に勤めて、二男二女(長女はすでに結婚)を育て、学者一家を期していたようです。下のお嬢さんも九大の哲学科でした。たいした母親で、子供達には叱咤激励だったそうです。今の教育ママと違う点は、学問をして社会の役に立つ人になれと。武家の母親のような叱咤だったのですね。

本田

しづの女は旧制高校の学生たちを指導し、久女は多佳子や中村汀女(なかむらていじょ)などの女流を育てています。対照的ですね。

司会

俳句に魅せられた女人たち、櫓山荘をめぐる多佳子、久女、しづの女のお話をどうもありがとうございました。