No.14 鉄任せ、あなた任せの巡り会い 八幡製鉄ものがたり

対談:平成14年6月

司会・構成:土居 善胤


お話:
財団法人 北九州国際技術協力協会 理事長 水野 勲氏
聞き手:
福岡シティ銀行 頭取 四島 司

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


煙突のある会社にあこがれて

八幡製鉄のできごと

四島

シルクロードで小アジアを訪ねたとき、メソポタミアで「鉄はBC10数世紀のころ、自分たちの先祖のヒッタイト人が初めて作った。それで、世界の文明が生まれた」と誇らしげでした。

水野

江戸時代中期の豊後(ぶんご)(大分県)の思想家、三浦梅園(みうらばいえん)は経済論『価原』の中で「五金(金・銀・銅・鉛・鉄)の内にては、鉄を至宝とす」と述べ、鉄が1番廉価で用途が広い。1日もなくては過ごせないからと言っています。

四島

あたりまえだが、梅園先生のお墨付きとなると…(笑)。鉄は鐵の新字体ですね。私たちは子供のころ、鐵は「金の王なる哉(かな)」と習いましたよ。鉄は昔から、文明の象徴でもあったのですね。

司会

ご本の『浮生碌々(ふせいろくろく)』(西日本新聞聞き書き集)によりますと、八幡製鐵に入られたきっかけは、煙突のある会社に入りたかったからだと。

四島

「浮生碌々」、漢詩がお好きな水野さんらしい。

水野

中国の古典の「十八史略」にでてくる言葉の「公等碌々」からいただきました。取るに足らない連中のひとりということで…(笑)。そして、煙突。まあ、いい加減(かげん)なものでしたね。親父が八幡製鐵の技術嘱託をしていて、身近な感じで製鐵に入ったのです。昭和6年が満州事変。7年に上海事変。12年7月に蘆溝橋(ろこうきょう)で日中戦争がはじまり、16年12月に太平洋戦争に突入します。入社したのは昭和12年4月で、日本が戦争へひた走るなかで社会人になったのです。

鉄、この確かなもの

現在の高炉

司会

昨年(2001)は、八幡製鐵発祥の地、東田を中心に、製鐵百年の博覧会が催されましたね。

水野

いよいよ、製鐵第2世紀に入ったのです。八幡製鐵と言っていますが、明治34年に誕生したときは官営で、製鐵所は日本にひとつしかない。それで、日本製鐵(日鉄)に変わるまでの最初の20年の名称は「製鐵所」と簡明でした。ついで、釜石三菱輪西(わにし)(室蘭)、富士九州と、民間の製鉄会社が生まれ、昭和9年に、鉄鋼増産の国策にそってこれらの5社と合併して、半官半民の日本製鐵株式会社となるのです。

司会

資本金の半分を、国が出していたのですね。

100年前の八幡村長
芳賀種義 氏

水野

だから株式会社ですが、半官半民と言われていました。ところが終戦後の昭和25年(1950)に、連合軍総司令部の指令による財閥解体と過度の経済力集中排除の対象とされて、今度は八幡製鐵富士製鐵日鉄汽船播磨(はりま)耐火煉瓦の4社に分割された。そして、その20年後の昭和45年に、八幡と富士が合併して、今の、新日本製鐵株式会社になったのです。

四島

製鐵の歩みは、日本の歩みでもありましたね。100年前に、製鉄所に八幡が選ばれた理由は。

水野

日清戦争(明治27~28・1894~1895)後、アジアの侵略を謀(はか)っている帝政ロシアとの対決を前にして、国防と産業振興から、製鉄所の建設が明治国家の急務でした。そうして、建設地に北九州の八幡が選ばれたのです。一番の理由は国防の見地からでした。当時は空からの襲撃など想像もできない時代です。八幡村は、響灘(ひびきなだ)から深く入り込んだ洞海湾(どうかいわん)に面していて、外敵の砲撃を避けられる。それに加えて、中国や外地からの鉄鉱石の輸入や、鉄鋼の積み出しにも便利だし、燃料の石炭は背後の筑豊炭田でまかなえる。労働力は豊富だし、工場用水も十分。日本の国運を左右する製鉄所設置の要件を満たしたのが、100年前の八幡村だったのです。

四島

八幡のほかの候補地は。

山内提雲 初代所長

水野

最初は関門、広島の呉、尾道、神戸大阪地方などの候補地があったそうです。八幡が浮上してきたのは、その後の調査からで、最終的には八幡村と広島県の坂村との争いでした。だが、背後に豊富な筑豊炭田があることと、地元の誘致運動が成功して八幡に決まったのです。

四島

そのころの八幡は。

水野

洞海湾に面した、戸数351、人口1,229人の小さな漁村でした。村長の芳賀(はが)種義さんが体を張っての説得で住民の同意を取り付け、政治家の平岡浩太郎(こうたろう)、石炭関係の安川敬一郎麻生(あそう)太吉貝島太助といった人たちが熱心に支援しました。敬称は略させていただいて、政府の製鉄事業調査会の委員長が福岡出身で農商務次官だった金子堅太郎です。官民一体の誘致運動が功を奏したのですね。

四島

金子堅太郎は初代の総理大臣伊藤博文(ひろぶみ)のブレーンで、のちに明治憲法の制定や日露戦争(明治37~38・1904~1905)の講和締結で功績のあった大物ですね。平岡浩太郎は、代議士で政治結社玄洋社の社長もした有力者で…。

水野

安川敬一郎は当時の若松築港会社(現、若築建設株式会社)と明治炭鉱(後の明治鉱業)の社長で、後に明治工業専門学校(現、九州工業大学)を創設し、安川電機ほかの事業の創立者です。麻生太吉と貝島太助は、筑豊炭田の有力者で、3人はのちに筑豊御三家と称される有力な存在でした。

四島

そうして、製鉄の城下町八幡が誕生したのですね。実際の開業は。

水野

ドイツ人のF・W・リュールマンが設計した溶鉱炉が八幡の東田に完成して姿を見せたのは、ちょうど1世紀前の明治33年(1900)11月でした。技師カール・ハーゼの指揮で点火式が行われたのは、翌34年の2月5日、記念すべき作業開始式は同年11月18日でした。「本邦創始の大事業」といわれた八幡製鐵がこうして誕生したのです。

司会

最初はうまくいかなかったそうですね。

水野

国の期待を集めた製鐵開業でしたが、4年近くもたもたしていました。ちょうど日露戦争の時だし、関係者は気が気でなかったでしょう。それで、鉄冶金(やきん)学会の第1人者、野呂景義(かげよし)に望みを託して、第3次吹き入れを明治37年(1904)7月23日に行い、それから順調に出銑が続いたのです。

八幡は製鉄の城下町

田中熊吉 宿老

四島

いや、ほっとしました(笑)。そうして、近代日本工業の背骨となる八幡製鐵の100年が始まったのですね。製鐵さんの城下町八幡の百年でもありましたね。城下町ということで、市民とのふれあいにも独特のものが…。

水野

官営製鐵所の開所式の日を記念して、毎年11月17、18、19の3日間にわたって行われる起業祭が、それを如実(にょじつ)に物語っていました。明治の末ごろから始まったらしいのですが、大谷広場(後に大谷体育館)で殉職者の慰霊祭や、永年勤続と技術開発者の表彰が行われ、前後3日間は市をあげてのお祭りでした。八幡と戸畑の街のあちこちに演舞場がつくられ、大谷広場には露店がぎっしりで、サーカスや見せ物まである。八幡、戸畑の小中学校も、以前は記念日の18日がお休み。工場も開放されて、いちばん多かった大正14年(1925)の工場見学者は108、971人にものぼりたいへんな賑わいだったそうです。いまは市民の祭りへと変わり、「まつり起業祭」となっています。

四島

鉄でなければ成立しない、製鐵と八幡の人たちとの、誇らしい連帯を感じますね。

水野

お互いに通い合うものがあったのでしょう。製鐵所から北九州の人たちへの感謝の気持ちでした。

司会

昔の、起業祭の新聞記事には、きまって宿老が登場していますね。

水野

宿老は八幡製鐵独特の特殊な制度でした。創業以来の功労があり、人格、識見、技能の優れた工員さんを礼遇しようと、大正9年(1920)に設けられた職制で、官営時代の高等官に匹敵する終身の課長待遇でした。親愛と敬意を込めて皆から元帥(げんすい)と呼ばれていました。

四島

その名にふさわしい名物宿老が次々に登場したのですね。

水野

全部で7人でした。溶鉱炉専門の田中熊吉さんらは、大正元年に派遣練習員としてドイツへ留学して高炉の神様といわれた人です。優秀な技能の持ち主だったのですね。この独特の宿老制度も、最後の田中宿老で、過去のものとなりました。

技術と誇りで国会議事堂

国会議事堂の鉄骨組立

四島

国会議事堂の建設に、製鐵が鉄骨を請(う)け負(お)われたそう。

水野

テレビでおなじみの国会議事堂は公募第一席に入選した宮中技師渡辺福三氏のデザインにより、大蔵省営繕管財局の設計で大正9年(1920)一月に起工され、7年後の昭和2年の春に、9,500トンの鉄骨の組み立て工事が終わりました。さらに、約10年を経て、昭和11年(1936)11月に完成しています。議事堂は高さ216尺(約65メートル)の中央塔を中心に、右が貴族院(現在、参議院)、左が衆議院と、左右対称の設計になっていました。その鉄骨を八幡製鐵が請(う)け負(お)ったのです。国家の要(かなめ)となる建築ですから、厳選した制作チームを左組と右組に分けて、その精度とスピードを競わせたそうです。実際の組み立てに、1ミリの違いもあってはならないので、鋼材の1本1本に番号をうって、八幡製鐵の構内で、議事堂そのものに鉄骨を組み立てました。そして大丈夫と確認してから、解体して東京に送ったのです。

四島

鉄骨だけの議事堂が、事前に、八幡に出現していたのですか。いや、すごい話ですね。組み立てと解体にもかなりの日数と、大変な手間が。

水野

日本のシンボルとなる建築だからと、全員が1体になって取り組んだからできた。こうして、完璧な鉄骨を納品できたのです。議事堂は、戦時の空襲にも耐えて約71年、揺(ゆ)るぎのかけらもない、あの威厳と品位のある姿を見せてくれています。

四島

鉄の男たちの、胸に秘めた誇りなのですね。

三回の大空襲

八幡製鐵の門札をかける
角野尚徳所長

四島

前大戦で、アメリカが日本の戦力を叩くには八幡製鐵が1番の目標だったでしょう。空襲が大変でしたね

水野

そのころ私は人事課長で、製鐵本事務所の防衛隊長でした。のべ5回の空襲を受けましたが被害の大きかったのは3回でした。最初は昭和19年(1944)6月16日未明で、ボーイングB29とB24が1時間30分にわたって、枝光や牧山地区を爆撃しましたが、製鉄所の被害はわずかでした。次に大きな被害が出たのは19年8月20日の4回目の空襲でした。日曜日の午後でした。工場の爆破をねらったB29約100機の2時間にわたる波状攻撃で、226発の500ポンド爆弾が落とされ、151発が製鉄の中心の東田、洞岡(くきおか)地区に集中しました。東田・洞岡のコークス炉、鋼板、化成工場が損傷を受け、電気、ガス、水道、電話線がずたずたです。46人の方が亡くなられ、重傷者も多数で痛々しかったですね。甚大な被害でしたが、製鐵の心臓である高炉とコークス炉は直撃を免(まぬが)れて助かったのです。すぐに、各地から救援の人と資材が動員されて、48時間の操業停止ですんだのです。

四島

全員が一心になって、見事な危機管理でしたね。このとき高射砲で撃墜した敵機から、詳細な空撮写真が出てきたそうで。

水野

長崎上空あたりから北九州へかけての海岸線がはっきり撮(と)られていて、八幡上空へ赤線がすーっと引いてあった。もう1枚は製鐵所の全景で、1週間前にはなかったバラックの建物が写っていた。これでは丸裸だなと、びっくりしたのです。そして、八幡市街を壊滅させたのは、昭和20年8月8日の、B29ー120機と、大・中・小型機、120機による5回目の大空襲でした。今度は焼夷弾を主にした爆撃で旧八幡市の3分の2が消失しました。西八幡駅に停車していた爆弾積載の列車が、直撃を受けて爆発し、第四製鋼工場が炎上倒壊し、化成や、戸畑のストリップ(薄板)工場が被害を受けました。社宅や寮が焼かれ、出勤者も半数で製造機能が完全に麻痺(まひ)しました。製鐵所の死者が87人、被災家族7,700人と、たいへんな被害でした。

四島

あと7日で、戦争が終わるという、まさに終戦前夜で…。胸が痛みますね。

水野

大空襲は受けましたが、東田第2号第4号戸畑第2号の3つの高炉が、致命的な被害は免れて健在でした。この三つの高炉は、戦後の日本の復興に大きな役目を果たしました。このあとすぐに戦争が終わり、空襲の心配はなくなったが、原料の鉱石は入ってこないし、石炭も不足していたので鉄の生産はストップです。それで在庫の銑鉄で鍋や鍬をつくり、化学工場では砂糖がわりのサッカリンや、塩を作ったりしていました。工場の空き地は食糧確保のために藷畑(いもばたけ)になっていました。こんなこともありましたよ。終戦の8月15日の翌朝に、製鐵所の本事務所の前の道を、街の人が大八車やリヤカーに家財道具を積み、列をなして、河内(かわち)貯水池の方へ避難しているのです。どうしてあんなところへと思ったが、2、3日たつとまた列をなして帰ってきた。

四島

アメリカ軍が上陸すると何をされるか分からない。とくに女性は大変だという噂(うわさ)でしたから、疑心暗鬼で避難したのですね。

水野

マッカーサー元帥が厚木飛行場に飛来したのが、8月30日でしたね。進駐軍のアメリカ兵がすぐに小倉に駐屯しました。製鐵にも数人やってきたが何もしなかった。平穏なものでしたね。

四島

いま考えると本土が戦場にならなかったのはありがたかったですね。

水野

沖縄だけが、悲惨を引き受けられて申し訳ありませんでした。それで思い出しました。終戦直前に所長の交代があって、陸軍出身の新しい所長が赴任していましたが、空襲の対応に追われて、幹部会での就任挨拶も終戦後にやっとというありさまでした。そのとき、これからは平和産業として、時計のゼンマイをつくろう。世界の需要があるだろうと言ったのです。とたんに研究所長がワッハッハと大笑いした。そんなもの作ってもしれてますよと。明日への手がかりが消えてしまって、所長も茫然自失だったのですね。

四島

戦争中には、捕虜の人たちも働いていて。

水野

イギリス、オーストラリア、インド兵の捕虜たちで、1,200人ぐらいいましたね。でも、製鐵所もクリスマスパーティをしたり、扱いに気を遣っていましたから、終戦後も何も問題は起こりませんでした。なにより頭が痛かったのは、人員削減でした。高炉は3つ残っているが、鉄をつくるにも鉄鉱石と石炭がない。生産はストップしているのに人が余っているでしょう。工場にいてもろくに食べ物がないから、工員さんたちが辞めて、農村へ帰ったり炭鉱へいったりしていましたが、自然減少だけでは追いつかない。とくに一般職員は、帰る田舎がない人が多いし、とても炭鉱では役立たない。私は人事課長でしたが、本社から矢継ぎ早に人員整理の指示があり、約4,000人の人に退職勧告をしなければならなかった。役目とはいえ、あれはつらいことでした。

ブラジルにウジミナス製鉄所を

四島

戦後の復興はまず製鐵の活動からでしたね。

水野

戦後は食料不足とインフレで社員の生活も大変でした。昭和22年の2・1ゼネストが、マッカーサーの命令で挫折したり、社会が激しく揺(ゆ)れていました。製鐵は、三鬼隆さんが社長に就任して戦後の新体制となりました。日鐵全体に配給された石炭を八幡に集中する傾斜生産をとって、やっと鉄鋼復興の兆(きざ)しが見えてきたのです。

四島

ところがすぐに、製鐵がGHQが出した「過度経済力集中排除法」の対象になりますね。

水野

戦後の米ソの対立、いわゆる冷戦状態が続いて、賠償指定も解(と)かれそうな雰囲気だったのです。海南島からの鉱石やアメリカの石炭の陸揚(りくあ)げもあって、生産にも弾(はず)みがついていました。私は三鬼さんに「分割は生産力を弱める。競争力をつけるためにも大規模の方がいい」と進言しましたがどうにもならない。そして、昭和25年4月に、日本製鐵は八幡製鐵、富士製鐵、日鉄汽船、播磨耐火煉瓦に4分割されたのです。三鬼さんは、「生木を裂(さ)かれたのだから、八幡と富士は必ずもとの1本の木にもどるよ」と言っておられました。

四島

結果はその通りに。

水野

えゝ、でもそうした信念の三鬼さんは、休止していた第4製鋼の改造完成式に立ち会うために、日航のもく星号に乗られ、飛行機が三原山に激突して亡くなられました。27年4月9日でした。悲しかったですね。

四島

その2年前の25年には朝鮮戦争がありましたね。特需景気もあって、経済白書が「もはや、戦後ではない」と日本経済の復興を見事に宣言したのは、終戦から10年目の昭和30年でしたね。水野さんはその年に設立された、日本生産性本部の第1回産業視察として、アメリカ全土の鉄鋼視察に行かれている。海外への視野の広さはそのころからですね。

水野

あれはアメリカの占領方針の大転換からですね。米ソの冷戦状態になって、対日政策が一変した。戦争犯罪で、9人のA級戦犯を処刑したかと思うと、すぐに岸信介さんらを放免している。最初は、新鋭の広畑製鐵所をまるごとアメリカへ持っていく話もあったそうです。それが俗に言えばちゃらになって早く復旧しろ、技術も、マネージメントも、労使関係のノウハウも教えようと…。ありがたいが目まぐるしい転換でしたね。

四島

冷戦がなければ日本の復興は遅れていた…。

水野

皮肉ですが、リアルに見ればそうでしょうね。ま、そうして、誕生したばかりの生産性本部のプロジェクトで、ピッツバーグを主に、工業施設や大学の研究所、諸団体など、全米29か所を6週間で視察しました。どこでも、実に懇切に教えてくれましたよ。このとき、アメリカ経営のキーワードが、IEであることを知りました。IEはインダストリアルエンジニアリングの略で、生産の全工程を分析して改善向上を図(はか)る手法で、はからずも私たちがIEを日本に伝える役割を担ったのですね。34年には、生産性九州地方本部の主催で、石炭工業の渋滞打破のために、石炭から石油変換へのエネルギー対策をテーマにして、ヨーロッパを約40日間視察しました。

復興から戦後の体制へ

新日鐵誕生

四島

そのころブラジルの製鉄所建設支援の話があったのですね。

水野

戦後11年目の、昭和31年(1956)に、瓢箪(ひょうたん)から出たコマのようにふっと持ち上がった話だったのです。そのころ、八幡製鐵の常務の湯川正夫さんが、アルゼンチンへ輸出の話で行って、そのついでにブラジルへ寄った。そのとき日系2世で、下院の有力者だった植木議員から、製鉄所をブラジルに作ってくれと、熱心に依頼されたのです。

四島

八幡製鐵が堺(大阪府)や君津(千葉県)の製鐵所建設を進めているころでしょう。

水野

だから、湯川さんはそれどころじゃないと思ったがあまりに熱心だから、帰って相談してみると言ったのですね。ところが、社長の小島新一さんに報告すると、面白いな、調査してみろと、身を乗り出された。

四島

稲山さんの前の社長さんですね。

水野

戦前の日鐵時代に渡辺義介社長のもとで副社長だった人です。戦後の公職追放で製鉄を退いておられたが、追放解除で渡辺さんと一緒に復帰され、渡辺さんがすぐに亡くなられたので、社長になっておられた。話がとんとんと進んで、ブラジルの3大州であるミナスブラジェライスの荒野に作ろう。州名のミナスとブラジル語の製鉄工場のウジをとって、ウジミナス製鉄所にとなったのです。

四島

いま、みんな縮こまっているから、そういう壮大な話はいいですね。

水野

小島さんが乗り気になり、経団連を窓口にして、製鉄七社や機械七社の共同事業として、閣議了解までいったのです。だが、富士製鐵の永野重雄さんらは、あまり関心を示されなくて、実際は八幡製鐵の事業になったのです。役員会でも長老たちから問題にされたが、社長の稲山嘉寛さんは妙な徳のある人で、あの人が「まあ、まあ。いいじゃないですか」と言ったらそれで収まった(笑)。だがこれが結果的には大成功で、人口300人の荒野に、人口30万人の、粗鋼生産日産公称700トン、世界第7位の製鉄会社が生まれ、昭和37年10月26日に高炉の火入れ式を迎えたのです。

四島

日本とブラジルの大きな親善になりましたね。水野さんもその立ち上げにかかわられて。

水野

私も35年の9月に、総務部長として派遣され、スムーズな建設のために、組織づくりから始めて、日本人とブラジル人の異文化の調整役でしたね。弱ったのは、現地の人たちが自分の部署以外のことには無関心で、横の連携や話し合いの慣習がまったくないことでした。それがなければ、この大プロジェクトが達成できるはずがない。それで、協調と、一体意識を植え込むのに一苦労でした。

四島

製鉄所作りよりも、意識改革が先だったので。

水野

えゝ。でもどうにか理解してくれて、うまくいったのです。完成してから、幹部さんたちに、あの要求にびっくりしたが、意識革命がなければ、製鉄所がこんなに早くできるはずはなかったと感謝されて、嬉しかったですね。なにしろ、飛行機はプロペラ機、東京までの電話が通じるのに半日ぐらいかかった時代のことです。失敗したら大変で、身が引き締まる思いでしたが、八幡製鐵は少々のことは目をつぶる、大きな包み方のできる会社でしたからできたのですね。ありがたいことに、今もブラジルの人たちに、日本のおかげと感謝されています。今秋、創立40周年の祝典が行われる予定ですね。いまのヒナルド社長は、私がいた時の新入社員なんですよ。だから向こうへ行くとVIP扱いで大事にしてくれる(笑)。

四島

国際的な大きな仕事が実りましたね。マレーシアの木炭を使う製鉄所も。

水野

マニヤワタ製鉄所ですね。ゴムの樹は樹齢30年ぐらいで植え替えないといけない。その無限の廃材を使って、日産わずか170トンですが、八幡が支援したユニークな製鉄所ですね。

四島

数年前に、山崎豊子さんの小説の『大地の子』が、NHKでテレビでドラマ化されて話題になりましたが、製鉄所の構築が背景でしたね。

水野

技師の陸一心をめぐって、実の父で建設の責任者である松本耕次と、育ての親の陸徳志・淑琴夫妻の、国境を越えた愛情に泣かされました。作品の舞台は「宝華製鉄」でしたが、上海の宝山製鉄所建設が背景で感動的なドラマでしたね。中国の文化大革命が終息して、経済建設に取り組むために、近代化4大方針のひとつとして重視された巨大なプロジェクトでした。あれに私は参加していませんが、今や世界的な規模になっている中国の製鉄のスタートに力を貸せたわけで、感慨深いものがありますね

八幡と富士の合併 鉄はマグネット

合併を伝える
毎日新聞のスクープ

四島

いま新しい経営志向として企業合同が進められていますが、昭和45年の八幡製鐵と富士製鐵の合併は見事なサンプルですね。

水野

当時の国内の鉄鋼各社の設備拡大競争は熾烈(しれつ)で、各社の計画を合計したら、世界の製鉄量の半分ぐらいを日本で生産することになったでしょう。 このままでは共倒れになる、何とかしなければというのが業界の大方の意見でした。もとはひとつで、嫌で別れたわけではないし、原料の手当(てあ)てや開発は同一歩調、技術面の協調もしていました。

四島

だが社風は違って、稲山さんが社長の八幡製鐵は地味な会社だったが、永野さんの富士製鐵は派手な印象でしたね。

水野

永野さんが澁澤財閥の、当時は規模が小さかった鉄工所出身だったせいもあったでしょう。一方の稲山さんは後輩だが、八幡製鐵育ちでおっとりと地味な人で、永野さんをよく立てておられました。国家100年の計のために、どちらからともなく、合併しようという話が出て、2人のベストコンビが、大局的見地から腹をくくって決めたのですから、極めてスムースな復縁話でした。だから、この大合併がわずか2年で実現したのです。四島
公正取引委員会は「寡占になる」と当然ながら反対でしたね。

左 永野重雄会長
右 稲山嘉社長

水野

20年前に過度の経済力集中を排除するために2分割になったのです。その論理からすれば当然だし、近代経済学の人たちやマスコミにも反対意見が多かった。それでいくつか条件をつけての承認だったのですね。鋳物用銑鉄の八幡の東田高炉を神戸製鋼所に譲り、そのほか、当時の日本鋼管、神戸製鋼、住友製鋼、それぞれに配慮して実現したのです。

四島

リーダーの八幡と富士がひとつになることで、無用の拡大競争に歯止めをかけ、業界の過当競争フィーバーを冷やす結果になって、成功でしたね。 だが合併で、他地区の製鉄所の近代化や、新しい製鉄所の建設などに、八幡の人たちが多数移動しましたね。ホームグラウンドだった八幡製鐵所のボディが細くなることに、社内の反対はなかったのですか。

水野

1種の感慨はありましたが大事に当(あ)たっての使命感で抵抗はさほどにはありませんでした。富士製鐵の本拠のひとつの広畑製鐵所は、戦前の日本製鐵時代に八幡の連中がいって作ったので、八幡色が強いところです。だから、富士側の反対運動もなかったですね。こうして、昭和45年3月31日、資本金2,293億6千万円、従業員8万1千人、粗鋼生産が年間4千万トンの、世界トップの新日本製鐵株式会社が誕生したのです。

四島

スムーズな合同劇だったのですね。でも、昨日までライバル同士だったし、現実面では融和策が大変でしたでしょう。

戸畑製鋼工場の転炉。
洗鉄から鋼へ。

水野

トップは社長が八幡の稲山さん、会長が富士の永野さんです。そして融和のために、旧八幡製鐵の八幡、堺と、旧富士製鐵の名古屋、広畑所長の相互乗り入れになりました。話題になった“たすきがけ人事”で、八幡所長は富士の金子信男さんでした。マスコミにいろいろ騒がれましたが、一体化を内外に印象づけるにはあれが効果的で、私も2年間広畑所長で赴任しました。

四島

いま、論議の的になっている大型企業合同のハシリでしたね。

司会

そして広畑で2年、激動の役目を果たされて、八幡へ帰られ、副社長としてご活躍ですね。

水野

昭和47年の秋でした。いざなみ景気が去って不況期を迎えたので、地元をよく知っている人間で経営をと、方針が変わったのです。翌四18年末からは、石油ショックでした。広畑時代の嬉しい思い出は、46年の夏、第42回都市対抗野球大会で広畑チームが優勝したことでした。社長の稲山さんも駆けつけて大喜びでした。帰ってみると、八幡製鐵は様変わりしていました。製鉄誕生の地の東田高炉群は火を消され、戸畑に日産粗鋼生産8千トンの超大型の、戸畑第四高炉が火入れをしたばかりでした。銑鋼一貫工場で、“海に築く製鐵所”の出現でした。私が八幡を離れていた八年間に、八幡は“母なる製鐵所”として、戸畑第四高炉や、堺、君津の新鋭製鐵所へ人と技術を送り、建設資金を稼ぎ出す、兵站基地(へいたんきち)となっていました。

四島

八幡製鐵の、新しい役目だった…。

水野

八幡地区にはステンレスや電磁、特殊鋼と、高級化製品をという路線でした。製鐵発祥の地の東田地区に残っていた第1、第6高炉の火が落とされました。

四島

なんとも言えない、お気持ちで。

水野

市民から保存の声が起こって第1高炉は創業年の「1901」のプレートを掲げて、東田高炉記念広場として残しました。

本格的に取り組んだ公害問題

四島

“環境”は21世紀のキーワードですが、八幡製鐵は規模が桁違いに大きいので、公害対策も大変だったでしょう。

水野

戦後15年たった昭和35年に、向こう10年で所得を倍増するという、池田内閣の“所得倍増宣言”が出ましたね。あれから1960年代の好景気が始まり、鉄の生産も拡大に次ぐ拡大でした。だから当然のこととして、公害対策に取り組まなければならなかったのです。

四島

公害対策基本法が制定されたのもそのころですね。

水野

環境の基準や、公害防止を定めていますが、その3年後、昭和45年(1970)の国会は十数本の関連の法案が一挙に採決されて公害国会と呼ばれました。環境庁が生まれたのは、その翌年で、平成5年(1993)には、さらに環境基本法が制定され。昨年(2001)は環境省に昇格しています。

四島

そうした流れの中で、地元では。

水野

北九州市の対応は早くて、昭和46年には公害対策部を局に昇格し、数々の公害防止条例が制定されています。製鉄も、早くから煙突に集塵装置をつけて七色の煙を追放し、転炉には排気ガス回収システムを採用して公害対策に留意していました。43年に、公害対策委員会を発足させ、49年には北九州市と公害防止協定を結び、コークス全工場に、脱硫酸装置を設置しています。また九州電力と提携して、クリーンな天然ガスの基地北九州エル・エヌ・ジーという会社を設立したりしています。最近では地球温暖化対策といったグローバルな視点に目を向けていますね。

四島

公害対策は、製鐵さんと地元企業との協調も大切でしょう。

水野

市との交渉で、製鐵はたいがい仲立ち役でしたが、双方が次第に協力的になって、前向きにいい解決が生まれたのだと思っています。

四島

市と市民と産業の協力で、環境に理解の深い北九州市が実現したのですね。水野さんがいなさったから、環境推進がうまく進められたと、当時の谷伍平市長さんも喜んでおられるのでは。

水野

それはどうも。でも、鉄の街は住みやすい街ですよ。当時の警察の幹部の人たちは、八幡署長さんの辞令をもらうと喜ばれたそうです。北九州で凶悪犯罪がいちばん少ない町だったのですね。もっともそれにはわけがあって。高炉の火を消さないために、製鐵の勤務は3交替です。八幡の市街はいつも目覚めていて、丑三つ時の犯罪タイムがない。自然と犯罪にブレーキがかかったのですね(笑)。小倉は伝統のある城下町で、その分、気を遣うこともあるが、八幡は新開地で地縁はみんな同じだから無用の気遣いがいらない。八幡は企業家もお巡りさんも市民も、みんなが住みやすい町だったのです。 ところで製鐵の公害対策には3つのテキがあった。本来の敵は公害そのものですが、あとの2つは行政と本社でした。当時の実情は、国が制定した公害関係法よりも、地方行政の要求の方が厳しかったようですね。公害担当の方も熱心で、ときどき現在の技術を越えたことまで要求されて参った。だが、いま考えると、それでかえってよかったのかもしれない(笑)。

司会

鉄の男の水野さんにも、いろいろとご心労が…(笑)。

水野

つぎの相手は、身内の本社でした。地域と行政の要望を入れて環境改善や保全、etc.の提言を、新日鐵の各所から申請するのです。膨大な経費を伴うものばかりですから、本社の担当役員も部署もたまりませんわな(笑)。本社とは、それはもう、激しい公害バトルでした。

四島

そのバトルが、立派に実っている。

水野

背景に、市民とマスコミの関心が強かったということですね(笑)。

四島

そうしたこともあって、空も空気も、水もきれいな、製鐵の街(まち)八幡が実現したのですね。ご苦労さまでしたね。

鎮守の森のドングリから緑化

四島

公害対策と連携するでしょうが、北九州は煙の町だったのに、今は緑が多い街に変わっている。

水野

昭和48年に、工場敷地の10パーセントを5年以内に緑のゾーンにするという協定ができて、主要十数社が賛成しました。八幡製鐵だけで126万平方メートルの広さ、いわば大きなゴルフ場1つの緑化運動でしたが、53年に達成しています。各社も協力されて、煙の都市の緑の街への見事な変身として、北九州市が全国でも注目されたのです。

司会

具体的には。

水野

緑化というと、すぐにモダンな西欧風を連想するのですが、北九州では、椎(しい)や櫟(くぬぎ)や楢(なら)などの日本的な樹を植えようという話し合いになっています。面白いのは、北九州の緑化が“鎮守の森のドングリ拾い”から始まったことでしょう。このときエコロジー(生態学)の権威である横浜国立大学の宮脇昭さんの指導がきわめて明快でした。緑化はその土地に合った樹木がいいから、鎮守の杜(もり)に在(あ)る木を植えればいい。それで、小学生まで協力して、鎮守の森や林のドングリ拾いから始めました。それがずいぶん茂って、今の緑の街をつくりあげているのです。

四島

北九州の緑化がドングリからだった。この取り決め、何となく気持ちが広がっていいですね。製鐵に水を補給している河内貯水池も、すばらしい自然の景観となっていますね。

水野

あれは先人の業で、大正8年(1919)から8年の歳月をかけて完成したのです。製鐵の拡張計画のひとつで実施されたのですが、今では製鐵に欠かせない水とともに、九州民芸村やあじさいの湯などで、北九州市民の人たちに親しまれています。当時、製鐵の土木課長だった沼田尚徳さんという方が、心血を注いで作られた。奥さんは弁当をつくって、作業の人たちにご苦労様ですと頭を下げて回っておられたとか。竣工直後に内助を尽くして亡くなられた夫人を偲んで、沼田さんが建てられた「妻恋の碑」があります。「記念として。今は亡き最愛の妻沼田泰子、私は、彼女の自己犠牲と神の恵みにより、河内貯水池の建設をやりとげることができた」とあり漢文、英文でも記されている。

妻恋の碑
In Memory

My late beloved wife, Mrs. yasuko Numata,
through whose self-sacrifice and under god's
blessing,I have been enabled to construct
Kawachi Water-Work.
Showa 3(1928) H. Numata

四島

鉄の男は、ロマンにも熱いのですね。

水野

貯水池の実現から80年、数次の大洪水にびくともしない。芸術的な眼鏡橋とともに、土木工学の傑作ですね。

くろがね劇場と製門戦

司会

製鐵さんは、北九州の文化の大きな柱でしたね。まだテレビがない昭和26年から36年まで、RKB毎日のラジオで毎週放送されていた「くろがね劇場」を支援されていました。懐かしい番組ですね。

水野

火野葦平原田種夫劉 寒吉(りゅうかんきち)、岩下俊作矢野朗(ろう)さんら、『九州文学』の五人の連中が輪番で台本を作り、お互いに声の出演もしていました。

四島

スポーツ面では、門鉄(門司鉄道管理局)といいコンビだったとか。

水野

ああ、野球の製門戦ですね。春秋二回、小倉の到津球場で催された門鉄さんと製鐵の野球は、“北九州の早慶戦”と言われました。市民が門鉄派と製鐵派に分かれ、事前の下馬評から当日の応援まで、北九州の人たちを沸(わ)かせましたね。

四島

水野さんの、野球好きは有名で。

水野

私の野球好きは、入社した昭和12年に、製鐵野球部が第11回都市対抗野球大会に優勝した時に始まります。戦後の昭和22年、人事課長のとき、野球部長を引き受けました。食べ物も、野球用具もろくにないときに、野球部員が真っ黒のユニフォームで練習をしている。まるで“忍びチーム”です。訳が分かって大笑いでしたが、彼らは戦時中の灯火管制用の暗幕で、ユニフォームを作っていたのです。このチームが、21年に後楽園球場で行われた都市対抗野球に出場したのです。2回戦で敗れましたが戦後早々の“忍びチーム”がよく頑張ってくれました。ついで29年にも優勝しています。野球部長として、いい思い出になっています。

四島

水野さんは上野(あがの)出身の高鶴元(はじめ)さんや、備前焼きの藤原啓さんとご昵懇(じっこん)で。

水野

すっかり、焼き物に魅せられましてね。八幡では上野小石原小鹿田(おんた)、伊万里鍋島柿右衛門萩焼などになじみ、久山の高鶴さんの窯もよく訪ねました。広畑時代に、いわゆる六古窯(ろくこよう)の備前丹波信楽(しがらき)、瀬戸常滑(とこなめ)、越前焼に触れられたのは幸運でした。藤原さんも、高鶴さんも伝統や現在に満足していない。藤原さんは静かさの中に、高鶴さんは激(はげ)しさの中に、常に新しいものへのトライでしょう。そこに魅かれたのかな。

四島

なるほど…・。鉄も焼き物も火の所産ですよ(笑)。

八幡製鐵所は、戸畑地区に製銑・製鋼工程と、熱延、冷延、各種メッキ、スパイラル鋼管の工場。
八幡地区に条綱、ステンレス厚板、電磁綱板の工場が配置され、両地区を会社の専用鉄道が結んでいます。

鉄の明日

四島

製鐵100年の歩みを伺(うかが)いましたが、八幡製鐵は第2世紀を迎えて大きなうねりの中にありますね。

水野

鉄の未来は新製品の開発にかかっているのです。私の時代とは市場の様相が一変して、鉄鋼生産は中国が1番で2番が日本とアメリカ、次がロシア、韓国となっている。だが、統一データが取れないこともあるのですが、需要がどうも増えていない。いま世界の鉄鋼生産は、8億トンがやっとなのです。

四島

ではこれからの切り口は。

水野

製品の合理化と高品質化、消費市場との密着化、そして新製品で差をつけることが、これからのポイントですね。

四島

錆びない鉄とか、やわらかい鉄だとか、いろいろ新製品が開発されていますね。

水野

八幡は主力製品のストリップミル(薄板)を中心に、ステンレスほか高度製品の生産に転換しています。リサイクルできる缶ビールの缶から、現段階ではまだコストが高いけれども、紙のように薄い鉄箔も登場しています。

四島

蓄積したノウハウと広い構内を利用して、複業企業体へも。

水野

八幡製鐵の構内に出現したスペースワールドは、開設十年を迎えて地域に定着しています。また産業廃棄物の再生を掲げた、北九州エコタウンの実現などは、その好例ですね。

四島

基盤の鉄の方は。

水野

世界の人口が、消費者が増えているのです。ながいスパンで見れば、鉄の将来は明るいですね。

四島

それでは、三浦梅園先生にかえって…。あらゆる分野で、鉄の見直しが重要ですね。水野さんはさらに、生産性向上や環境対策など、工業技術の国際移転のために、(財)北九州国際技術協力協会でご活躍ですね。鉄人生が、次々に、すばらしい人とものを、引きつけられて。“鉄は大きなマグネット”なんですね。

水野

“鉄人生”で、多くのありがたい出会いがありました。“人生はあなた任せの巡(めぐ)り合いです”よ(笑)。

司会

身近な八幡製鐵のお話をありがとうございました。