No.15 手向山の「小倉碑文」で読む 剣聖「武蔵」と養子「伊織」

対談:平成15年6月

司会・構成:土居 善胤


お話:
小倉郷土会 会長 今村 元市氏
文芸誌「海峡派」編集同人 柿田 半周氏
聞き手:
福岡シティ銀行 常務取締役 中原 二典

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


目を見張る 武蔵碑の雄姿

Profile:宮本武蔵 年表

宮本武蔵画像
筆者不詳
島田美術館蔵

司会

NHK大河ドラマや、井上雄彦(たけひこ)さんの漫画『バガボンド(漂泊者)』もあって、たいへんな武蔵ブームですね。
宮本武蔵(みやもとむさし)(天正12~正保2・1584~1645)を取りあげる原点として、手向山(たむけやま)の「武蔵の碑」からお聞かせください。

今村

「小倉碑文」で知られている武蔵の碑は、小笠原藩十五万石の筆頭家老で、武蔵の養子である宮本伊織(いおり)が、小倉北区赤坂の、手向山に建てた武蔵の顕彰碑です。
武蔵の死後九年、約三百五十年前の、承応(じょうおう)3年(1654)に建てられました。

柿田

武蔵は『五輪書(ごりんのしょ)で、「十三歳にして初而勝負(はじめてしょうぶ)す。(略)其後国々所々に至り、諸流の兵法者(へいほうしゃ)に行合(ゆきあ)い六十余度(たび)迄勝負すといへども一度も其利(そのり)をうしなはず(敗れなかった)」と記しています。

五輪書 宮本武蔵が厳しい剣法修業によって得た武芸の奥義(おうぎ)を、地、水、火、風、空の五巻にまとめたもの。剣聖武蔵の哲学と生涯がうかがえる。自叙伝の趣がある。

司会

“二刀を以て日月(じつげつ)となした”武蔵の一代記になっていますね。

中原

碑まではJR小倉駅から門司の方へバスで十分。手向山バス停から、十五分ぐらい登ればいい。
関門海峡を見おろす小高い山のいただきに、高さ約4.6メートルの見上げるような自然石の碑があって、その偉容に目を見張ります。

柿田

手向山は、伊織が主君の小笠原忠真(おがさわらただざね)(慶長元~寛文7・1596~1667)から薪山(たきぎやま)として与えられた知行地(ちぎょうち)で、通称宮本山と呼ばれています。

司会

あの巨(おお)きな碑をどのようにして、山頂に建てたのでしょう。道なき道を。大変だったでしょう。

今村

筆頭家老のパワーですね。今は響灘(ひびきなだ)を向いていますが、明治中期までは、すぐ横の展望台のところで巌流島の方を見下ろしていたのです。
明治二十年に、ここに要塞が設置された時、近くの延命寺山へ移され、戦後にまた復元されたのです。

柿田

江戸時代後期の浮世絵師、安藤広重(ひろしげ)(寛政9~安政5・1797~1858)の描いた「諸国名所百景」があります。
その中に関門海峡を俯瞰(ふかん)した図があって、左に小倉城、正面に彦島、右向こうに巌流島、そしてすぐ下の山の上に、武蔵の碑が大きく描かれています。

司会

当時から、武蔵の碑は、関門風景の目玉だったのでしょうね。

千百十一字で武蔵の一代記

武蔵碑の手向山からの展望

司会

では、碑文の紹介から。全文が、千百十一文字の漢文で、ちょっと手ごわい(笑)。

今村

いや、リズムで読めばいい。胸がひろがる雄文ですよ(笑)。

司会

三百五十年たっていても、碑文は、きれいに読み取れますね。

柿田

碑に風雪の傷(いた)みがあまりない。
文脈や配列から、それが建てられた時のままなのか、どうか。
読み方にも微妙な表現があるし、「州」を「※1」、「事」を「※2」などと、独特の略字が使われている。
移設や復元もあったし、なんらかの理由で、後代に彫り直されたのでは、と言われる所以(ゆえん)でしょう。
宮本山は、維新の小倉戦争で、小笠原藩支援の肥後細川藩が、長州の奇兵隊と烈(はげ)しく戦ったところで、流れ弾(だま)で碑に傷が付いたかもしれませんね。

  • ※1刀3つ(「森」の木の字が「刀」になった形)
  • ※2「古」の下に「又」

司会

碑文を書いたのは、誰ですか。

今村

武蔵に引導(いんどう)を渡し、「二天道楽(にてんどうらく)」の法号を授(さず)けた細川家の菩提所(ぼたいしょ)、泰勝院(たいしょういん)二代の春山和尚(しゅんざんおしょう)と言われています。だがなにぶん若い。
武蔵が熊本へ来たのは五十七歳のときで、春山は二十三歳、武蔵の没年でもまだ二十八歳です。

柿田

ちなみに熊本の武蔵顕彰会が編集した『宮本武蔵』(明治四十二年刊)では、「道契(どうけい)浅からぬ間柄、交情蜜のごとし」と記されています。

今村

泰勝院の開祖の大淵和尚(だいえんおしょう)だろうという説がありますが、小笠原家の石碑の碑文と似ているし、私は小笠原藩の菩提寺(ぼだいじ)、広寿山(こうじゅさん)(福聚寺(ふくじゅうじ))関係の僧ではないかと考えています。

柿田

伊織自身が、養父を頌(たた)えて書いたのではないでしょうか。
武蔵の『五輪書』には及ばなくても、文武に優れ、小笠原藩を見事に取りしきった人物だけに、伊織なら書けたでしょう。
武蔵は、文、武、礼、芸術すべてに通じていたと述(の)べています。筆頭家老の伊織が武蔵の碑に、小笠原の藩風(はんぷう)をしのばせているようです。

柿田

武蔵の生涯を簡明に要約していますが、謎もありますね。

中原

吉川英治さんの『宮本武蔵』は、関ケ原合戦(かっせん)で西軍の浮田陣に加わった十七歳の武蔵(たけぞう)が、敗れて逃(のが)れるところから始まっていますね。

柿田

碑文は、「石田治部小輔(じぶしょうゆう)(三成)謀反(むほん)の時、或(ある)いは摂州(せっしゅう)※3大坂に於て、秀頼公兵乱の時、武蔵の勇功佳名(ゆうこうかめい)は…」とあります。

※3大阪の古名は大坂。


司会

秀頼には敬称で。だから大坂の陣は、秀頼側についたのではと。

柿田

ところが、その通説をひっくり返す資料が出てきたのです。
福山藩主、水野勝成(みずのかつしげ)(当時三河刈屋藩主)の出陣名簿、「大坂陣之御供(おおさかじんのおんとも)」が発見されて、武蔵が大坂の陣では、家康方の水野勢に加わっていたことが分かったのです。

今村

大坂夏の陣では、藩主の小笠原忠政(ただまさ)と長男忠脩(ただなが)が討ち死にし、後を継ぐ忠真も重傷を負います。
父の武蔵が、敵の大坂方について奮戦したと、小笠原藩の筆頭家老が書くわけがないでしょう。

中原

なるほど。で、碑には武蔵の生年も生国もない。困りますね。

今村

まず、出生は天正十年と十二年の両説。生誕地は、播磨(はりま)の国(兵庫県西南部)と美作(みまさか)(岡山県北東部)の両説があって、ややこしい(笑)。

柿田

そこで出生は、武蔵の自叙伝でもある「五輪書」に、寛永(かんえい)二十年(一六四三)に『年つもって六十』とあるので、逆算して、天正十二年(一五八四)説としておきましょう。
生国は、同じく『五輪書』に「生国播磨(しょうごくはりま)」とあるので播磨説に。
幼名は弁之助(べんのすけ)で、播磨国の印南郡米堕(よねだ)村(現、兵庫県高砂市米田町)で、名門の赤松家の流れをくむ、土豪、田原家貞の次男として生まれています。

今村

武蔵マターは諸説紛々ですが、「小倉碑文」は、武蔵没後九年の早い時期に作られた"公文書"です。信用しましょうよ(笑)。

司会

読み下しにも微妙な点で違いがあるようですね。では、碑文の「原文」に、トライしていただきましょう(笑)。

中原

見事に読み切れば武蔵が感応して、碑が震(ふる)えるそうです(笑)。

手向山公園周辺地図

小倉碑文

碑文の読み下しと、現代訳にトライしました。
読み下しは当用漢字に。
の部分は、推訳によります。


兵法天下無雙(ひょうほうてんかむそう)

天下に、武蔵の武勇にならび立つ者はいない

天仰實相圓満(てんぎょうじっそうえんまん)兵法逝去不絶

天仰実相円満の兵法は
逝(ゆ)き去するも絶えず

碑文

1. 時に承応三甲午(こうご)年四月十九日
孝子敬(つつし)みて建つ、正保二乙酉(いつゆう)暦五月十九日、肥後国熊本において卒(そっ)す、播※1(ばんしゅう)(州)赤松流(あかまつのながれ)、新免武蔵玄信二天居士(しんめんむさしげんしんにてんこじ)の碑(ひ)

承応三年(一六五四)四月十九日、孝子(伊織)が敬(つつ)んで建てた。
正保二年(一六四五)五月十九日、肥後国熊本で死亡。播磨国(はりまのくに)(兵庫県南西部)の赤松氏の流れ、新免武蔵玄信二天居士の碑。
※1 刀3つ(「森」の木の字が「刀」になった形)

2. 機に臨(のぞ)み、変に応ずるは、良将の達道なり。武を講じ、兵を習うは、軍旅(ぐんりょ)の用※2(じ)(事)なり。
心を文武(ぶんぶ)の門に遊ばせ、手を兵術の場に舞わせて、名誉を逞(たくま)しうする人は、其(そ)れ誰ぞや。播州(ばんしゅう)の英産赤松の末葉(まつよう)、新免の後裔武蔵玄信(こうえいむさしげんしん)、二天(にてん)と号す。
※2 「古」の下に「又」

臨機応変は、秀れた将のとるべき道である。戦略戦術を探(さぐ)り訓練に励(はげ)むのは、出陣に備えてである。
文武両道の達人として名誉に輝いたのは誰であろう。それは、播磨(はりま)の国(兵庫県南西部)の名門、赤松氏の流れをくむ新免氏の子孫である、宮本武蔵、※3諱(いみな)は玄信、号(よびな)は二天である。
※3 諱は死後の尊称、号は本名のほかに用(もち)いる呼び名、雅名。

3. (おも)うに夫(そ)れ天資曠達(こうたつ)にして、細行(さいこう)に拘(かかわ)らざるは、蓋(けだ)し斯(こ)れ其(そ)の人か。二刀兵法の元祖(がんそ)たり。

武蔵は生まれつき、天性がひろくのびやかで、小さな事にこだわらない性格であり、二刀流の元祖となった。

4. 父は新免、号は無二、※4十手の家たり。武蔵家業を受け、朝(あした)に鑚(さん)し暮に研し、思惟考索(しいこうさく)して、灼(あきらか)に十手の利の一刀に倍すること甚だ以て夥(おびただ)しきことを知る。

父は新免無二で、十手術で知られていた。武蔵はその術の伝授を受けて、日夜研鑽し、研究して、十手が刀にくらべて利点があきらかに非常に大きいことを知った。
※4 十手。江戸時代に捕吏(ほり)が犯人逮捕に用いた道具ではなく、槍の先に十字状に鋭器をつけて攻撃と防御を兼ねた戦闘武具であろう。

小倉碑文
北九州市小倉北区
赤坂手向山

5. (しか)りと雖(いえど)も、十手(じゅって)は常用の器(き)に非(あら)ず。二刀は是(こ)れ腰間(ようかん)の具。乃(すなわ)ち二刀を以て、十手と為(な)さば、理其(そ)の徳に違(たが)うなし。故(ゆえ)に十手を改めて二刀の家と為(な)す。誠に武剣の精選なり。

だが、そうは言っても、十手はいつも身につけて使っているものではない。それにくらべて、二刀はいつも腰にさしている。十手を二刀にかえれば、その利点は変わらない。
だから宮本家は十手をやめて、二刀の家にすることにした。まことに見事な剣法の選択であった。

6. 或(ある)いは真剣を飛ばし、或いは木戟(もくげき)を投じ、北(にぐ)る者、走る者、逃避する能(あた)わず。その勢いは恰(あたか)も強弩(きょうど)を発するが如(ごと)く、百発百中、養由(ようゆう)も斯(これ)を踰(こゆ)ること無きなり。

二刀流は、時には真剣を飛ばしたり、木剣を投げて命中させるから、敵は逃れることができない。それは剛弓で、百発百中するのと同じで、中国の弓の名人として伝えられている楚国の養由もこれをこえることはできない。

7. (そ)れ推(おもんみ)れば、兵術を手に得て勇巧を身に彰(あらわ)したるは方(まさ)に年十三なり。
(しこう)して始(はじ)めて播※1(ばんしゅう)(州)に到り、新当流(しんとうりゅう)有馬喜兵衛(きへえ)なる者と進みて雌雄(しゆう)を決し忽(たちま)ちに勝利を得たり。

振りかえれば、武芸を身につけ世間に武名を知らしめたのは、十三歳のときであった。初めて播磨の国(兵庫県南西部)で、新当流の有馬喜兵衛なる者に勝負を挑んでたちまちの間に勝った。

8. 十六歳の春、但馬國(たじまのくに)に到る。大力量の兵術人、名は秋山という者有り。又(また)勝負を決す。反掌(はんしょう)の間に其の人を打ち殺し、芳声街(まち)に満てり

十六歳の春には、但馬国(兵庫県北部)で、たいへんな力持ちで武芸に優れた秋山なる者と勝負をした。手のひらを返すぐらいの一瞬の間に打ち殺したので、世間に武蔵の武名が広がった。

9. (のち)に京師(けいし)に至る。扶桑(ふそう)第一の兵術吉岡なる者有り。雌雄(しゆう)を决せんことを請(こ)う。
(か)の家の嗣(し)、清十郎と洛外蓮台野(らくがいれんだいの)に於て※5竜虎の威を争ふ。勝敗を決せんと雖(いえど)も、木刃の一撃に触(ふ)れて吉岡は眼前に倒れ臥(ふ)して息絶(いきた)えぬ。
(あらかじ)め一撃の諾(だく)(詰)有るに依(よ)りて命根(めいこん)を輔弼(ほしつ)したり。

後に京都へ行き、日本一の兵術者と言われていた吉岡憲法に、雌雄を决しようと申し込んだ。
吉岡家の跡継ぎである清十郎と、京都洛外の蓮台野で、いずれ劣らぬ勝負を争ったが、武蔵の木刀の一撃で清十郎は倒れて息が絶えた。
あらかじめ、勝負は一撃で終わる約束をしていたので、止刀(とどめ)はささなかった。

10. (か)の門生等、助けて板上に乗せ去り、薬治温湯にて、漸(ようや)くにして復(ふく)す。遂に兵術を棄(す)て、薙髪(ちはつ)し畢(おわ)る。

門下生等が、彼を板に乗せて立ち去り、薬や湯治で命を取りとめた。
それから彼は剣を棄て、頭を剃(そ)り仏門に入って世を過ごした。

11. (しか)る後(のち)、吉岡傳七郎、又(また)洛外に出(い)でて雌雄(しゆう)を決す。傳七は五尺余りの木刃(もくじん)(そで)にし来(きた)る。武蔵、其の機に臨(のぞ)み、彼の木刃を奪いて之(これ)を撃(う)てば、地に伏(たお)れ立ち所(どころ)に死す。

その後、弟の吉岡傳七郎と、また洛外(伏見の蓮華王院の裏手)で雌雄を決した。傳七郎は五尺(約一・五メートル)ぐらいの木刀をひっ提(さ)げてきた。武蔵は隙(すき)を見て、彼の木刀を奪って一撃した。傳七郎は倒れてたちどころに死んだ。

12. 吉岡の門生冤(えん)を含(ふく)み、密(ひそ)かに語って云(い)わく。兵術の妙を以て敵対すべき所に非(あら)ず。 籌(はかりごと)を帷幄(いあく)に運(めぐ)らして、吉岡又七郎、事を兵術に寄せ、洛外下松邊(さがりまつへん)に会(かい)し、彼(か)の門生数百人、兵仗弓箭(へいじょうきゅうせん)を以(もっ)て忽(たちま)ちに之(これ)を害せんと欲す。

武蔵を冤(うら)んでいる吉岡一門は尋常の試合では、とても勝てないから、謀(はか)りごとで討ち取ろうと策謀した。
そこで吉岡又七郎(清十郎の嗣子・十七歳)をたてて、果し合いの話しに事よせて、京都のはずれの下松の辺(洛外一乗寺村)で武蔵に会い、門下生数百人が武器や弓矢で、一気に武蔵を倒そうとしたのだ。

13. 武蔵は平日先を知るの歳(才(ざえ))あり。非義(ひぎ)の働きを察し窃(ひそ)かに吾が門生に謂(い)いて云(い)わく「なんじ等は傍人(ぼうじん)たり。速(すみ)やかに退(しりぞ)け。従(たと)え怨敵群(おんてきむれ)を成し、隊を成すとも、吾に於(おい)ては之(これ)を視(み)ること浮雲(ふうん)の如(ごと)し。何(なん)ぞ、之(これ)を恐れん。散衆の敵有るのみ。

だが、平生、先が読める武蔵は陰謀を察し、加勢しようとする門下生たちにひそかに言った。お前たちは手出しはするな。早く退散しろ。
たとえ、敵が群(む)れとなり、隊となって向かってきても、私には浮き雲のようなものだ。どうしてこれを恐れることがあろうか。敵は烏合(うごう)の衆にすぎないのだ。

14. 走狗(そうく)の猛獣を追うに似(に)て、威を震(ふる)いて帰る。洛陽(らくよう)の人皆之(これ)を感嘆す。
勇勢知謀、一人(いつにん)を以(もっ)て万人に敵するは実に兵家の妙法なり。

まるで猟犬が猛獣を追いまわすような威力を見せて、相手を打ち破ったので、京都の人々がみんな感嘆した。強さと知謀を奮(ふる)って、一人で万人に当たれるのは、これぞまことの武芸者である。
※待ちかまえていた武蔵は、躍(おど)り出て門弟たちに守られていた又七郎を斬った。

15. (これ)より先、吉岡は代々公方(くぼう)の師範たり。扶桑(ふそう)第一兵法術者の号有り。霊陽院義昭公(れいよういんよしあきこう)の時に当(あた)り、新免無二(しんめんむに)を召して、吉岡と兵術を決せしめ、勝負は限(かぎ)るに三度を以(もっ)てす。吉岡は一度利を得(え)新免は両度勝ちを決す。
(ここ)に於(おい)て、新免無二をして、日下無双兵法術者(ひのしたむそうひょうほうじゅつしゃ)の号を賜(たま)わらしむ。
(ゆえ)に武蔵洛陽(らくよう)に到り、吉岡と数度勝負を決す。遂に吉岡兵法家は泯絶(みんぜつ)す。

吉岡家は、代々足利将軍の武術師範で、日本第一の兵術者の称号を認められていた。
だが、十五代将軍足利義昭公が新免無二(無二斎)を召し出して、吉岡と三回勝負をさせた時、吉岡は一度勝ち、新免無二は二度勝って、無二に「天下に並びなき武芸者」の称号を賜(たまわ)った。
そういうことがあったから、武蔵が京都に出て、吉岡と数度勝負を決したのだ。こうして、遂に吉岡兵法の家は断絶したのである。

16. (ここ)に、兵術の達人あり。名は岩流。彼と雌雄を決せんと求む。岩流云(いわ)く。真剣を以て雌雄を決せんことを請(こ)うと。武蔵対(こた)えて云(いわ)く。(ニンベンに余(なんじ))(爾)は白刃を揮(ふる)いて其の妙を尽くせ。吾は木戟(もくげき)を提(と)りて此の秘を顕(あらわ)さん。堅(かた)く漆約(しつやく)を結ぶ。
長門(ながと)と豊前(ぶぜん)との際(きわ)、海中に嶋(しま)有り。船嶋(ふなしま)と謂(い)う。両雄同時に相会(あいかい)す。

岩流という武術の達人がいた。武蔵は彼に雌雄を決しようと申し込んだ。
岩流(巌流・佐々木小次郎)が真剣で勝負を決めようと言う。武蔵は「貴殿は真剣で、私は木剣で、秘術を尽くして戦おう」と固く約束した。
場所は、長門(山口県西北部)と豊前(大分県北部)の境の関門海峡の船島に決めて、二人が約束の時刻に立ち合った。

17. 岩流は三尺の白刃(はくじん)を手にし来(きた)り命を顧(かえり)みずして術を尽くす。
武蔵は木刃(もくじん)の一撃を以て之(これ)を殺す。電光すら猶遅(なおおそ)きがごとし。故(ゆえ)に俗(ぞく)にいう船嶋を改めて岩流嶋と謂う。

※7岩流は刃渡り三尺(約九十センチ)の真剣で死力を尽くした。武蔵は木刀の、電光一閃の一撃で岩流を斃(たお)した。これから、船島を岩流島というようになった。
※7「二天記」では、このとき武蔵二十九歳。巌流十八歳。

18. (およそ)十三より壮年まで兵術の勝負六十余場、一(いつ)として勝たざるなし。
(か)つ定めて云う。敵の眉(まゆ)八字之間(のかん)を打たざれば勝を取らずと。毎(つね)に其(そ)の的(まと)を違(たが)えず。

およそ十三歳より壮年まで、六十回余り勝負をしたが、一度も負けたことはなかった。
そして、敵の眉と眉の間を打って勝つのでなければ、勝ったことにならないと自分に決めて、その的(まと)をはずしたことはなかった。

巌流島の武蔵・小次郎
写真提供・下関市観光振興課

19. (いにしえ)より、兵術の雌雄を決する人、其(そ)の数(あず)を算(かぞ)うるに幾千万なるかを知らず。然(しか)りと雖(いえど)も夷洛(いらく)に於て英雄豪傑に向かい前(すす)んで打殺せし人は、今古(きんこ)に其(そ)の名を知らず。武蔵一人に属するのみ。
兵術の威名四戎(しい)に遍(あまね)く、其(そ)の誉(ほまれ)たるや古老の口するに絶えず、今人(こんじん)の肝(きも)に銘ずる所なり。
誠に奇(き)なる哉(かな)。妙(たえ)なる哉(かな)

昔から果たし合いをした人は数え切れないが、国中の名のある英雄豪傑にすすんで立ち向かって、敵を打ち殺したのは武蔵一人である。
武芸者としての武蔵の名声は、国内にあまねく知れわたった。古老もその誉れを絶えず口にして、今の人たちが感銘しているのだ。まことに目を見張らされるではないか。

20. 力量早雄(もっと)も他に異(こと)なる。武蔵常に言う。兵術は手熟(しゅじゅく)して一毫(いちごう)だに私無きを心得よ。則(すなわ)ち恐(おそ)らくは戦場に於(おい)て大軍を領し、又(また)国を治むること豈難(あにかた)からんやと。

武蔵が武芸にすぐれ、若くして武勇の誉(ほま)れをあげたことは、他の武芸者を大きく引き離している。
武蔵が常に言っていたが、武芸は技量がいかに優(すぐ)れていても、ただひとつ私心をなくす事が大切である。そうすれば、戦場で大軍をあずかり、また国を治めることも決して難しいことではないであろう。

21. 豊臣太閤公の嬖臣(へいしん)、石田治部少輔謀叛(いしだじぶしょうゆうむほん)の時、或(ある)いは摂※1(せっしゅう)(州)大坂に於(おい)て、秀頼公兵乱の時、武蔵の勇功佳名は、縦(たと)海の口渓(たに)の舌有るとも寧(なん)ぞ説(と)き尽くすべけんや。簡略には之(これ)を記(しる)さず。

太閤秀吉公のお気に入りの臣であった、石田治部少輔(じぶしょうゆう)(三成)が謀反(むほん)した関ケ原合戦や、秀頼公が乱を起こした大坂の陣に参加した武蔵の功名はいくら語っても語り尽くせるものではない。簡単には言えないからここでは述(の)べない。

22. (これ)に加うるに、禮、楽(がく)、射、御(ぎょ)、書、数、文に通ぜざる無し。況(いわん)や、小藝功業殆(ほとん)ど為(な)す無(な)くして為らざるはなし。蓋(けだ)し大丈夫の一体なり。

これらの武芸に加えて、武蔵は、礼(生活の規範)、楽(音曲)、射(弓術)、御(馬術)や、書、数、文の、すべてに通じないものは無かった。
ましてや小芸功業(絵画や彫刻、金工、茶、造園など、身近な工芸)は何事でもできないことはなかった。まことにすぐれた大きな人物であった。

23. 肥の後※1(こうしゅう)(州)に於て卒(そっ)する時、自(みずか)ら天仰実相圓満之兵法逝去不絶(てんぎょうじっそうえんまんのひょうほうゆきさるもたえず)の字を書し、以(もっ)て言う。遺像と為せと。故に孝子、碑を立て以て不朽(ふきゅう)に伝え、後人(こうじん)に見せしむ。嗚呼偉(ああい)なる哉(かな)。

武蔵は細川藩に身を寄せて、肥後の熊本で亡くなったが、臨終にあたり「天仰実相円満の兵法(ひょうほう)は逝き去るも絶えず」と書いて、この遺言を遺像にかえたと言った。
だから、孝子伊織がこの碑を建てて、武蔵の偉業を永久に伝え、後の世の人に見てもらうのだ。
ああ、武蔵は大きな人物であった。

巌流島の武蔵と小次郎

司会

ハイライトの巌流島の決闘のことを。
武蔵の勝因は、物干竿(ものほしざお)と言われた小次郎(巌流)の長刀より数寸長い木刀を使ったことでしょう。

柿田

巷説では、船島へ向かう舟の中で、櫂(かい)を削って作ったと。

司会

武蔵の作戦勝ちですね。生涯に、負けを知らなかった武蔵の秘密は、試合以前からの、"全武蔵"で勝ちを手にしていたのでしょう。

中原

立ち会い役は、細川藩ですね。武蔵が本当に二時間も遅刻したのなら、これはちょっとひどい。判定負けでいいはずですね(笑)。
碑文では「両雄、同時に相會す」とあります。そこらへんの機微(きび)は。

今村

吉川英治さんの『宮本武蔵』は、『二天記(にてんき)』をもとに書かれていて、武蔵遅刻説になっています。
『二天記』は、肥後八代(やつしろ)の長岡佐渡(さど)の家臣、豊田正剛(まさたけ)が書きのこした武蔵の伝記である『武公傳(ぶこうでん)が種本です。
それに、子息の正脩(まさよし)、孫の景秀(かげひで)が手を加えたもので、武蔵の死後百二十年ぐらいたってまとめられています。

柿田

"吉川武蔵"のさわりの科白(せりふ)の、「武蔵っ、怯(おく)れたか。策か。」も、「小次郎、負けたり!勝つ身であれば、なんで鞘(さや)を投げ捨てむ。」も『二天記』によっています。
勝負は、尋常に始めたのではないかと思いますが、分かりませんね。

中原

その時、二人の年齢は。

柿田

『二天記』によれば、武蔵が二十九歳、小次郎十八歳とある。ときは慶長十七年四月十三日です。
細川藩の武術指南役の小次郎が十八歳の若さとは?。

中原

それにしても、碑文で吉岡一門との決闘は詳しいのに、ハイライトの巌流島の闘(たたかい)は表現が簡単ですね。

今村

武蔵は熊本でも、巌流のことは、あまり話さなかったらしい。『五輪書』でも触(ふ)れていません。

中原

不思議ですね。なにか、そっとしておきたいことでも。

柿田

そこで、細川藩の記録、「永青文庫(えいせいぶんこ)」の「沼田家記(ぬまたかき)」が気になります。これによると、この試合は弟子たちの師匠自慢が発端(ほったん)でした。

柿田

勝負は武蔵の一撃で決(き)まりますが、止刀(とどめ)をさしていない。
あとで巌流が蘇生すると、隠(かく)れていた武蔵の弟子たちが現れて、巌流を撲殺したというのです。

中原

それで巌流の弟子たちは。

今村

当然、復讐しようとする。
危難を避(さ)けて、武蔵は細川藩の門司城城代だった沼田延元(ぬまたのぶもと)を頼るのです。沼田は武蔵を鉄砲隊に護衛させて、豊後杵築(ぶんごきつき)にいた父の無二斎のところへ送り届けます。

司会

それは、それは。
武蔵碑で気になるのは"殺した"云々の戦闘者武蔵の生々しさです。
"雌雄を決す"も五回出てくる。

今村

武蔵は、六十余度(たび)の死闘をしているのです。率直な表現だったのでしょう。だが、生命をかけた試合は巌流島で幕を引いたのです。
それから約二十数年、姫路と明石にいたという話をのぞけば武蔵の動向は記録からぷつんと消えています。
そして、禅や絵画と、剣を越えた求道者(ぐどうしゃ)武蔵が出現するのですね。

小次郎は添田の佐々木

司会

小次郎の生誕地も、はっきりしないのですね。

柿田

福井説が有力ですが、"つばめ返し"の妙剣から、錦帯橋(きんたいきょう)のある岩国説も。そして、地元の添田(そえだ)説があります。

今村

佐々木家は源頼朝以来の近江(おうみ)の名家です。蒙古襲来の元寇(げんこう)の時に、西日本の防備に配置された一族がそのまま定住しました。 
その流れが副田(そえだ)(添田)の地頭になった佐々木氏で、これは、原田夢果史(むかし)さんの、宇佐八幡宮と関係の深い到津(いとうづ)文書調査で明白ですね。

今村

天正十五年に秀吉勢に攻められて、佐々木氏の岩石城(がんじゃくじょう)が落城(添田町に復旧)。小次郎は落ちのびた一族の出で、小倉の細川藩に、剣術指南番で仕えていたと言われています。

柿田

関連が分からないのですが寛政時代に博多の市井(しせい)の学者で絵師として知られた、奥村玉蘭(ぎょくらん)(宝暦十一~文政十一 一七六一~一八二八)が描いた『筑前名所図会(ちくぜんめいしょずえ)』の一枚に、筑前小谷村(現、福岡県嘉穂郡嘉穂町小野谷)に蟄居(ちっきょ)し、剣術指南をしている四十歳ぐらいの小次郎の姿があります。

中原

やっと、謎の小次郎のアリバイが証明されたのですね。。

今村

とても十八歳ではない(笑)。
戦前の講談では、巌流に闇討(やみう)ちされた父、無二斎の敵討(かたきう)ちをするストーリーで、武蔵が美男、そして小次郎は悪者面(づら)でした。
それを吉川英治さんが、『二天記』にそって若い小次郎に、イメージをひっくり返してしまった(笑)。
そして村上元三さんが、薄命の美男の剣士に書かれて、いい句が、

"小次郎の眉(まゆ)涼しけれつばくらめ"

美男説がさらに定着しました(笑)

柿田

"吉岡武蔵"の終末を、巌流島にされてよかった。名作の終わりを吉川調で括(くく)られて…。
「波騒(なみざい)は世の常である。波に任せて、泳ぎ上手に、雑魚(ざこ)は歌い、雑魚は踊る。けれど、誰が知ろう。百尺下の水の心を。水のふかさを。」
(六興出版「宮本武蔵」より)

剣術を指南している小次郎 奥村玉蘭画

大抜擢(だいばってき)された伊織

三階菱
(小倉藩小笠原家の紋)

司会

では武蔵の養子で、武蔵碑を建てた宮本伊織のことを。

柿田

伊織は巌流島の決闘が行われた慶長十七年(一六一二)の十月二十一日に播磨の土豪、田原久光(武蔵の弟)の次男として生まれ、寛永元年、十三歳の時に武蔵の養子になるのです。
そのころ武蔵は、姫路藩主、本多忠政に「遊寓(ゆうぐう)の名士」として迎えられ、武術指南のかたわら、城下の町割りや作庭をしていたようです。ついで、忠政のとりなしで明石十万石の藩主、小笠原忠真(後の小倉藩主(十五万石))に身を寄せ、町割などをしているようです。
そして寛永三年に、十五歳の伊織を忠真の近習(きんじゅう)に推薦したのです。

中原

小笠原一門でもない伊織が五年後には、二千石の執政。そして小倉へ移って二千五百石。入社早々で専務取締役に抜擢ですね(笑)。

今村

若年ながら、さすがに、武蔵が見込んで、鍛えただけの器量と誰もが一目おいたのです。

司会

そして、寛永九年(一六三二)九州に大変動が起こるのですね。

今村

加藤忠広の肥後五十四万石が改易(かいえき)されて、後へ豊前(ぶぜん)及び豊後(ぶんご)二郡三十万石(実高三十九万九千石)の細川忠利が加増されて移る。その後の小倉へは、明石から小笠原忠真が五万石加増されて、十五万石の大名として入国したのです。

中原

そして伊織が、新領地の采配に、存分に手腕を振るったのでしょう。

柿田

それだけではなく、小倉城下で注目される存在でした。
乗馬で往来する伊織のあでな姿に城下の娘たちは、見られるのが恥ずかしいと、顔を伏せたそうです。

司会

そしてアイドルの青年重役が、島原の乱(寛永十四年十月~十五年二月一六三七~一六三八)で活躍するのですね。

今村

小笠原藩は、乱勃発(ぼっぱつ)の翌年、寛永十五年正月に参戦。伊織は侍大将と惣軍奉行(そうぐんぶぎょう)として出陣します。二月の原城総攻撃で、追手門(おおてもん)に小笠原の菱旗(ひしばた)をたてる殊勲を挙(あ)げました。
幕府と西国諸藩注視の舞台で、小笠原藩の武名を高めたのです。
そのころ、陣屋を訪ねた隣藩の筑前藩主黒田忠之(ただゆき)が、伊織の采配に感服して、脇差(わきざ)しを与えています。
戦後の論功行賞で、筆頭家老の伊織は、千五百石加増されて四千石の知行(ちぎょう)となります。

中原

小笠原軍は、反乱の総帥(そうすい)だった天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)の首を持って小倉へ引き上げますね。

柿田

九州探題(たんだい)役の小笠原藩に与えられた名誉だったのでしょう。時貞の首は小倉の清水(きよみず)の地で晒(さら)したそうです。

細川藩を改易から守った伊織

柿田

伊織の器量をはかれる書簡が残されています。島原の乱後十三年、慶安三年(一六五〇)六月に、伊織が細川藩の筆頭家老である、八代(やつしろ)の長岡佐渡(さど)(松井家)に宛(あ)てた書状です。
その背景には、細川藩五十四万石が、幕府に取り潰(つぶ)されるかもしれないという、大きな危機感がありました。

中原

肥後は、加藤家に続いてまた細川が改易騒動ですか。

柿田

その大変のときに、伊織がひと働きした。佐渡への書状で、その経緯がうかがわれます。
細川家は慶長六年に藩主忠興(ただおき)が長男忠隆(ただたか)を廃嫡(はいちゃく)、小倉城代の弟興長(おきなが)が大坂へ出奔(しゅっぽん)。三男忠利(ただとし)を世継ぎにしましたが、二男興秋(おきあき)が大坂の秀頼(ひでより)のもとへ去り、後に自刃(じじん)(?)と、藩が揺(ゆ)らいでいました。
それを、やっと乗り越えて、ひと安心のところに、寛永十八年に忠利が死亡し、光尚(みつなお)が後を継ぎます。

今村

そのときに森鴎外(もりおうがい)の小説で有名な『阿部一族』の事件が起きて藩内は騒然としました。
その光尚が、わずか八年の治世(ちせい)で亡くなって、後を継ぐ六丸君(綱利)はわずか六歳の幼児です。

中原

それを好機と、幕府が細川五十四万石の改易か、減封を図ろうとしたのですね。

今村

それで、細川藩の筆頭家老の長岡佐渡が、忠利の未亡人である阿波(あわ)様の兄、小笠原忠真に、細川家の存続支援を頼むのです。
忠真の意向を受けた伊織が、幕府の老中たちに細川家の存続工作を計り、六丸君が成人するまで、忠真が補佐することで、細川藩が改易から免れたのです。

柿田

徳川家のために、父と兄が討ち死にし、自分も重傷を負(お)っている忠真に頭を下(さ)げられては、幕閣も粗略に扱えなかったでしょう。

今村

問題の書簡で"細川大変"の、処理の緊迫感がうかがえます。
内容は多分に指示調で、大藩肥後五十四万石の筆頭家老が、これを平静に読んだかどうか。

柿田

そこらへん、なんとなく"吉川武蔵"に出てくる"どじょう伊織"が気になりますね。
これも、長岡佐渡の家臣豊田景英の『二天記』にある話です。
武蔵が出羽(でわ)(いまの秋田県と山形県の大部分)の国で、どじょう取りをしていた少年に、どじょうを分けてもらう。其の家に泊(と)まると、夜ふけに少年が野差刀(のざし)を研(と)いでいる。
いぶかる武蔵に、前日死んだ父を母の墓の側に埋めたいが、自分では運(はこ)べない。それで寸断して運ぶのだと。その気丈さに惚れて、養子にしたのが、後年の伊織だと。

中原

だが、本当の伊織は、武蔵の実兄の次男でしたね。

柿田

兵庫県の三木市の本要寺にある、実父田原久光の墓碑には建立者(こんりゅうしゃ)として。また、加古川市の(とまり)八幡宮建立(こんりゅう)の棟札(むなふだ)には寄進者として伊織の名がのこされています。
だから、"どじょう伊織"は創作話なんですね。

司会

そういえば、武蔵が亡くなった時に伊織が長岡佐渡へ宛(あ)てた丁重な礼状がありましたね。

柿田

武蔵への細川藩の厚遇に感謝した礼状です。藩主へ直接では非礼なので、筆頭家老の佐渡に宛てたものでした。

中原

細川藩と小笠原藩。武蔵と伊織と佐渡と。いろいろの絆(きずな)があって、それは幕末の細川の小笠原支援までつながっているんですね。
伊織家の四千石は、明治維新まで変わらなかったのですか。

今村

宮本家は藩主家から養子を迎えたり、名家として続きました。

司会

封建時代に目を見張る栄達をした人は、妬(ねた)みや譏(そし)りをうけて、後がよくない。伊織は、よくよく信望のある人物だったのですね。

今村

漂泊者の武蔵と違って、名声に恵まれた幸せな生涯でした。
今は武蔵碑への上り口のところ、宮本家の墓に静かに眠っています。

講談にも登場 文武両道の伊織

布袋見闘鶏図(武蔵画)
福岡市美術館蔵
(松永コレクション)

今村

剣聖武蔵の養子である伊織は、「小笠原に、宮本伊織あり」と江戸でも知られた名家老でした。
小倉藩の小島礼重(れいじゅう)が、小倉見聞録を記した随筆「鵜(う)の真似(まね)で、「不思議の人也」と賞賛しています。
慶安四年(一六五一)、三代将軍家光の死に乗(じょう)じて、浪人たちを集めて幕府転覆を謀(はか)り、天下を仰天させた由井※1正雪(ゆいしょうせつ)の乱があります。
そのころ、駕籠(かご)に乗っていた伊織が薬売りの行商人に姿を変えた正雪と、小倉城下ですれ違う。
「きゃつ、ただ者ならず」と、伊織が捕方(とりかた)を差し向けると、危機を感じた正雪はすでに逃亡(とうぼう)。追跡を振りきって、筑前領に逃げ込んだそうです。

※1 正雪は由比正雪とも

司会

武蔵と伊織、親子そろって講談のスターでしたね。

今村

いわゆる"寛永御前試合"。将軍家光の御前で伊織が、伊賀上野の敵討ちで有名な荒木又衛門(またえもん)と立ち合って、勝負は引き分けだった(笑)。

司会

武蔵の養子の伊織に、大衆が剣の達人を期待したのですね。

無二斎と武蔵の養子たち

武蔵の「独行道」
熊本県立美術館蔵

中原

武蔵は、黒田藩へは。

今村

父親の無二斎が主君の新免宗貫(しんめんむなつら)について関ケ原の合戦で敗れ、新免一族は同郷の黒田如水(じょすい)を頼って中津へ下(くだ)るのです。無二斎も武蔵を連れて一緒だったでしょう。

柿田

そのころ如水は、西軍大名の留守城を次々に攻略しています。
そして、宗麟(そうりん)時代の勢力回復をねらう大友義統(おおともよしむね)の軍を"九州の関ケ原"と言われる、石垣原(別府)の合戦で破って威名を高めていました。
だが、すでに徳川の天下でした。
そこで、新免一族と無二斎は、筑前五十二万石の城主になる黒田氏について福岡へ移り、のちに秋月に落ち着きます。無二斎は、黒田二十四騎の黒田兵庫助(ひょうごのすけ)らに、剣の指南をしています。
武蔵も黒田藩への仕官を望んだようですが、当時の武蔵はまだ無名、それにどうも、異相(いそう)を嫌われたらしい(笑)。
それから、武芸修業で諸国をまわったのでしょう。

今村

腕を磨いたそれからの武蔵は、吉岡一門と巌流を倒して、天下一の武芸者として、勇名がとどろきました。
だが、異相で狷介(けんかい)な性格から敬遠されたし、大坂の陣が終わると、時勢は一変して※1元和偃武(げんなえんぶ)の時代です。
戦いはないから、名声に相応(ふさわ)しい一軍の采配(さいはい)を任せてくれる大名はいない。

※1 元和偃武=偃武は武器をしまって用いないこと。元和元年の大坂夏の陣以後、武備は必要なくなった。


柿田

武蔵は「貴種たらんとして貴種たりえずに潰(つい)えた」のです。その夢を、養子とした、智勇すぐれた三人の美少年に託したのでしょう。

中原

養子は、伊織のほかにも。

柿田

造酒之助(みきのすけ)(三木之助)と伊織、九郎三郎の三人です。
長男格の造酒之助は、福山藩士中山志摩之助の三男です。
武蔵の推薦で、姫路藩主の嗣子、本多忠刻(ただとき)(秀頼の妻の千姫が大坂落城後忠刻に再嫁)に側小姓として仕え、七百石を受けていました。
その忠刻が寛永三年に三十一歳で病没します。大坂にいてその報を聞いた武蔵は、江戸藩邸の造酒之助が帰ってくるから一献酌(いっこんく)もうと、知人に話していたそうです。
程なく造酒之助が帰ってきて、武蔵と最後の別れをし、姫路に下って、主君の墓前で切腹しています。
九郎三郎は田原家を継いだようです。

小次郎あわれ 武蔵かなし

中原

では、晩年の武蔵を。

柿田

五十一歳を迎えた寛永十一年に小倉へ行き、藩主、小笠原忠真の客分となっています。

中原

そして四年後の寛永十五年に、小倉藩に従って、島原の乱の鎮圧に参加しますね。

今村

それが定説でした。だが作家の宇都宮泰長さんが「小笠原文庫」から、武蔵が参加していたのは、親藩の中津小笠原藩であることを発見されたのです。

中津小笠原藩は後に改易。享保二年(一七一七)から奥平(おくだいら)藩。
軍監のような役目だったのか。達人武蔵も、天草勢の投石を脛(すね)に受けて、思わぬ負傷をしています。


柿田

二年後の寛永十七年(一六四〇)に、肥後藩主の細川忠利(ただとし)に招かれ、客分として知遇を受けます。
だが、このとき武蔵五十七歳。養子の伊織が小笠原藩で四千石、自分は堪忍料(かんにんりょう)の三百石です。複雑な思いで晩年を迎えたでしょう。

今村

いまや、後世に名を遺すには、人里離れた霊巌洞(れいがんどう)にこもって、心技一体の武蔵芸術にひたる以外になかった。

柿田

寛永二十年(一六四三)に兵法論の総まとめといえる『五輪書』の筆をおこしますが、武蔵の身の衰えを気遣う長岡寄之(よりゆき)(養子・細川忠利の六男)に、翌年、熊本の居宅へ連れもどされる。
それから五輪書の筆を擱(お)き、自戒の書「独行道」を記して、正保二年(一六四五)五月十九日、弟子たちに看(み)取られながら亡くなりました。
「家」を小倉藩に、「技」を熊本藩に伝承しての、厳しい武道者らしく壮絶な、武蔵六十二年の生涯でした。

中原

そう思えば、壇ノ浦も巌流島も同じ関門海峡にあって…。
「平家あわれ、源氏かなし」ではないが、"小次郎あわれ、武蔵かなし"ですね。

司会

興味深いお話を、ありがとうございました。