No.16 飴屋物語 小倉藩十五万石を支えた 裏方の豪商

対談:平成18年3月

司会・構成:土居 善胤


豊前行事飴屋関係年表

お話:
日本近代史研究家 「飴屋」十二代 玉江 彦太郎氏
聞き手:
西日本シティ銀行グループ NCBオフィスサービス株式会社社長 中原 二典

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


乃木大将の日記

飴屋の法被

司会

行事(行橋市)の「飴屋」は、小倉・小笠原藩、十五万石の財政に裏方として尽くした豪商です。
明治の初めには、全国の長者番付百選にも選ばれて気を吐いていますね。

玉江

明治五年(一八七二)に発行された『大日本持丸長者鑑(もちまるちょうじゃかがみ)』ですね。
勧進元が三井八郎右衛門、行司に住友吉次郎らの名が見える番付で、前頭二十二枚目に、「飴屋」の小倉・玉江彦右衛門の名があります。

『別冊太陽』の『豪商百人』(平凡社発行。一九七六冬号)にも、取り上げられている。

司会

では、十二代のご当主に三百五十年の飴屋の歩みと、小倉藩とのかかわり、興味ある裏話などをうかがいます。
明治初年の飴屋さんの規模が、謹厳な乃木大将の『乃木希典日記』(のぎまれすけにっき)(和田政雄編、昭和四十五年、金園社刊)に登場していますね。お話の出だしに、このことから。

玉江

大将の明治九年(一八七六)の日記に書かれています。当時は陸軍少佐で、小倉駐屯歩兵第十四連隊の連隊長心得でした。
翌明治十年が、薩摩の西郷隆盛さんの挙兵で、それに備えて軍備を固めておられたころでしょう。任地近郊の行事、大橋村付近を周遊した見聞です。
「遥ニ秀彦山(英彦山)ノ突兀タル(険しくそそり立つ)ヲ見ル。平野の中央、瓦屋粉壁(白壁造りの家)数百戸、之レ則チ行司(行事)・大橋ノ二大市邑(都市)ナリ。(略)
行事ニ飴屋ト云ヒ、大橋ニ柏屋ト云フ。之レ皆有名ノ富豪商。家屋の荘厳、実ニ小候伯(諸侯)ニ比シテ余リアリ」と。
市邑も、候伯も、ちょっと大仰ですが、乃木さんは天成の詩人でしたし、文語体の日記ですから(笑)。

中原

「小倉藩御用商」だった「行事飴屋」の威容がしのばれますね。

飴屋を始めた三代彦右衛門

司会

では飴屋の物語を。ご創業は。

玉江

飴屋は、代々家を継ぐと彦右衛門を名乗っています。まぎらわしいので、法名(戒名)で区別させてください。
六代宗慶(そうけい)が文化九年(一八一二)にまとめた『先祖記』によれば、約三百五十年前の寛文六年(一六六六)に亡くなった宗泉(そうせん)が初代で、小笠原忠真(おがさわらただざね)公が寛永九年(一六三二)明石から小倉十五万石の城主として入国したときに、付いてきたのではという説がありますが、詳しくはわかりません。二代が休哲(きゅうてつ)です。

中原

飴を作り出されたのは。

玉江

三代目の彦右衛門・宗利(そうり)(延宝八~寛保三・一六八〇~一七四三)です。
約三百年前の宝永六年(一七〇九)、宗利三十歳のときと伝えられています。当時の飴はべたべたして歯切れが悪かったのですが、宗利の作り出した飴は、口当たりがさっぱりして、氷飴のようだと、近郷で評判になったのです。

中原

屋号がユニークですが、「飴屋」を屋号とされたのは。

玉江

最初は「布袋屋」(ほていや)で、遺された木版に「御華飴所(おんはなあめところ)・布袋屋玉江義勝」とありますが、享保年間(一七一六~一七三五)に、飴屋に変えたのです。

中原

商品を屋号に。しゃれてますね(笑)。そのころの時代は。

玉江

徳川幕府の将軍を見れば、時代がよくわかりますね。飴の製造を始めたのが、六代家宣が将軍に就いた年で、七代家継、八代吉宗の時代にかけて家業を広げました。
時の藩主は小倉藩二代の小笠原忠雄(おがさわらただお)公。この殿様は長命で、治世五十八年に及びました。

中原

評判の飴で、豪商飴屋の基盤を築かれたのですね。

玉江

それから、十六年後の享保十年(一七二五)に権利を買って「綿実商」(わたざねしょう)を始めています。事業拡大の第一歩でした。

中原

当事の庶民の衣服は木綿が主でしたね。

玉江

農家が栽培したワタの種子から、やわらかな繊維をとって木綿に紡ぎ、残りの実は綿実商が買い集めて、大阪の油を絞る業者に送り、灯り用の油や食用油がつくられていたのです。

中原

日常生活に直結して収益性の高い商いですね。

豪商のスタートは親孝行から

藩から授けられた親孝行の褒状

中原

飴屋が世に広く知られたきっかけは、飴製造を始めた三代の宗利さんが、親孝行で殿様のお褒めを頂いたことからだそうですね。

玉江

はい。それがさらに幕府に知れて、幕府公刊の『孝義録』(こうぎろく)にまで載せられたのです。

司会

大名は江戸城で格式や禄高に応じて控え室を割り当てられていたでしょう。その溜りの間で、殿様のお国自慢の種になった…。

玉江

そういうことがあったかもしれませんね。譜代(ふだい)十五万石の小倉藩は「定鑑間」(ていかんのま)詰めで、殿様は二代小笠原忠雄公でした。

中原

豪商の発端が親孝行から。愉快ですね。

玉江

享保十七年(一七三二)、宗利五十三歳、妻おにく三十九歳の時です。
行事村庄屋藤八(とうはち)の上申書にその仔細がうかがえます。
「彦右衛門ト申スモノ、平生心底実儀成者ニ而、親孝行申候」から始まります。

司会

当時の文書ですから要約していただいて。

玉江

「彦右衛門は心がけが実直で親孝行です。父の没後は母に朝夕の食事も付き添い、夫婦で昼夜を分けず看病しました。母没後も、姑に実母同様の孝行ぶりです。
幼時から両親に背かず、成人後は人々との付き合いも良く、貧しくても、孝養に怠りがありません」。

中原

すると、豪商飴屋さんも三代までは藩公認の貧しさだった。(笑)

玉江

そして「年貢を払えない者がいれば、米を送って皆済させ、家族の葬式もできない者には、有り合わせのものを届けて助け、飢えて難儀する百姓があれば、飯米を与えて介抱し、病気の使用人には薬湯を与え、わが子のように親切に看護しています」とあります。

中原

農民が年貢を払えなければ、藩の財政は成り立たない。藩からすればありがたい人が出てきて。(笑)

玉江

当時の税制は四公六民で、収穫の四割が年貢だったのです。年貢は藩収入の根幹ですから、稲の取り入れ時には、年貢優先で、商人の農村への立ち入りが禁止されていた時代です。

中原

親孝行で年貢の皆済を勧め、ボランティアまで。藩にとって彦右衛門さんは世の鑑でしたね。

玉江

そして終わりに、「右書上申候通リ彦右衛門儀孝心成者ニ御座候ニ付御注進申上候、以上
享保 十六年九月十二日 行事村庄屋藤八」とあります。

司会

殿様からのご褒美は。

玉江

米俵十五俵でした。

「快哉楼」より眺めた本宅裏

飴屋七商

中原二典

玉江

それから三十年、宗利六十一歳の元文五年(一七四〇)に、行事川(長峡川)の川端の空き地に飴屋の新しい店をかまえました。
周防灘に注ぐ長峡川の河口で、水運を利用して物産の集散に便利。上方(大坂地方)への船の便もあって、飴販売に格好の場所だったのです。

中原

先見の明ですね

玉江

それから次第に町並みが揃って行事新町へ、今の行橋市の中心街の行事本町が生まれたのです。
さらにこの年、「登り商」を始めています。綿実や、鶏卵など、豊前の産品を船で上方へ送り、帰り便で綿の実や菜種で絞った灯り用の油や食用油、重宝されていた古着などを積んで帰る物産取引です。

周防灘から、すぐに波のおだやかな瀬戸内海に入りますから、安全な船便だったのですね。 それから事業を広げて、三代宗利から五代宗達まで、七十年にわたって「飴屋七商」を展開しました。今風に言えば飴屋の七事業部です。整理しますと、

三代宗利 延宝八~寛保三・一六八〇~一七四三・六十四歳
1.飴商 飴の製造販売
宝永六・一七〇九。三十歳)
2.綿実商 (享保十・一七二五。四十六歳)
3.登り商 (元文五・一七四〇。六十一歳)
四代宗賢 享保二~天明二・一七一七~一七八二・六十六歳)
4.質商 (延享二・一七四五。二十九歳)
5.酒商 銘酒「玉椿」「三笠」の醸造。
(宝暦六・一七五六。四十歳)
・船 宝暦十二年(一七六二・四十六歳)
収益の大きい上方との商 いを自前船でカバーしました。
6.醤油商 (安永七・一七七八。六十二歳)
あわせて、本家(明和四・一七六七) と酒屋店舗(安永三・一七七四)、醤油蔵(天明元・一七八一)を建てて、体制の基盤を固めています。
五代宗達 (宝暦元~寛政六・一七五一~一七九四・四十四歳)
7.板場商 (ろうそく製造)
(寛政元・一七八九。三十九歳)

中原

食品から海運、主要な日常品まで、今の総合商社、そして大地主ですね。
本業の飴は、殿様や江戸家老が、藩の対外折衝にも重宝したのでは。

玉江

氷飴のようだとの定評を大切にして、容器も小倉藩名産の上野焼(あがのやき)の壷を使ったり、工夫しています。
なお、小倉城下へは、旦過橋(たんがばし)の近くに支店を設けていますが、天保八年(一八三七)の記録で小倉城下町商人の一人に数えられていますから、それ以前の出店でした。

中興の祖 蓬洲の「快哉楼」

玉江彦太郎氏

六代が五代宗達の弟の宗慶(明和八~文政二・一七七一~一八一九・四十九歳)。そして七代が宗達の長男である宗徹(彦右衛門)、号は蓬洲(ほうしゅう)(安永八~弘化三・一七七九~一八四六・六十八歳)で飴屋中興の祖とされています。

中原

小笠原藩の御用商は、小倉城下の商人だけではなくて。

玉江

えゝ。小倉藩の御用商は、城下の小倉と在郷(ざいごう)に分かれていました。
宗徹は飴屋七商と生産地に直結した在郷の利点や、上方との船便取引の利便を駆使して、二十七年間の采配で、領内屈指の在郷商人として、飴屋の全盛時代を築いたのです。

司会

スケールの大きい人ですね。

玉江

その象徴は、天保年間に建てた見かけ三階、実質四階の居宅で、絵のアトリエまで備えた「快哉楼」(かいさいろう)でしょう。
当時の藩政時代の民家は二階までしか許されなかったのです。

中原

では、快哉楼はアウトローで。

旧飴屋正門

玉江

その仔細は、蓬洲の曾孫になる九代宗槃(そうはん)の四男東五郎が明快に書き遺しています。
「七代宗徹ガ蓬洲トシテ画家タリシヲ以テ、海上ヲ眺望シ得ル様ナ高キ場所ガ望マシイトテ、之ヲ建築セルモノト聞ク」から始まり、要約しますと、
「百姓町人は、三階家はもとより、二階建ても許されなかった。身分の低い町人が武士を見下ろすのは無礼であると禁止されたのである。

しかし二階が物置き場であれば、特例で許可されたので、町家は通りに面した二階の窓に、形の鉄格子を付け、物置の明取窓(あかりとりまど)で住居ではないとしたのである」と。

中原

藩幕時代の身分制度を物語る風景ですね。

玉江

そして、「我家ノ四階建ガ違法建築デアルコトハ申ス迄モナク、ソレガ現代迄モ存続シ居ルコトハ、裏面ニ於テ如何ニ多額ノ家屋税ヲ支払ハサレ居リシカハ想像シ得ルベシ」と結んでいます。

司会

四階建てで展望のいいアトリエまで。よく咎められなかったですね。

玉江

それまでに五代宗達が苗字帯刀(みょうじたいとう)を許されて、玉江の姓を持ち小刀を帯びていい。六代宗慶が門松御免や、拾人扶持(じゅうにんふち)を許されて、正月には門松も立てられ、扶持までも。
武士ではないが武士並の資格を与えられていたのです。
飴屋の代々が、「御銀談筋」(おぎんだんのすじ)と藩の要請に応えていましたし、殿様廻郡(かいぐん)の本陣(滞在所)にもなっている。

中原

“功多し”で大目に見られていたのですね。(笑)

快哉楼は文化サロン

関羽図 玉江蓬洲画

玉江

蓬洲はこの快哉楼で、四季の風光を楽しみ、絵筆に興じて、画家顔負けの作品を遺しています。

中原

蓬洲さんの絵の先生は。

玉江

京都の絵師、村上東洲(むらかみとうしゅう)について、雅号も一字いただいています。
よく知られている豊後竹田の絵師田能村竹田(たのむらちくでん)(安永六~天保六・一七七七~一八三五)や、京都の絵師柴田仙渓(しばたせんけい)や、下関の岸梅圃(きしばいほ)らもたびたび滞在しています。
蓬洲は山水と人物の力作を遺していますが、圧巻は三国志の関羽を描いた縦約一間(一七三・七センチメートル)の大幅の絵です。

司会

保存が良くて、つい最近筆をおいたのではと思える絵ですね。

玉江

この絵は朝日新聞で新年の華やぎに取り上げられました。
蓬洲は季節ごとに、自分の描いた絵で床の間をかざっていましたが、それがいまは私の役目で、二百年前の先祖の蓬洲と語り合っています。(笑)
ただ多くは散逸していて、手元にはほとんど残っていません。

司会

蓬洲さんは、絵を嗜むだけでなく、学問も。

玉江

快哉楼は文化人の来訪で、さながら文化サロンの趣でした。
幕末の大ベストセラー『日本外史』の著者で知られる、頼山陽(らいさんよう)(安永九~天保三・一七八〇~一八三二)や、宇佐の著名な連歌師里村玄碩(さとむらげんせき)も逗留(とうりゅう)しています。
漢詩人として知られた村上仏山(むらかみぶつざん)(文化七~明治十二・一八一〇~一八七九)は、家が近くて、我が家のようによくみえていたようです。
仏山は名が剛、村の南側にあった通称仏山を号にしました。北稗田村(行橋市)に生まれ、秋月の儒者原古処 (はらこしょ)や、博多の亀井昭陽(かめいしょうよう)に学びました。
天保六年(一八三五)二十六歳の時、全寮制の「水哉園」(すいさいえん)を稗田に開き、毎月試験をして昇格させるなど、新しい教育法で注目され、各藩から多くの俊秀が集まりました。
開塾の時蓬洲は円熟の五十五、六歳。新進学者の誕生に目を細めて支援を惜しまなかったのでしょう。

中原

蓬洲さんの絵に、若い仏山先生が賛の詩文を添えたりして。文人の風流が目に浮かびますね。

玉江

仏山堂詩鈔』に快哉楼の詩があります。

登玉江氏快哉楼賦示主人
玉江氏の快哉楼に登り賦(ふ)を主人に示す

彫甍画棟挿青空 両袖飄飄身欲冲
百万黄金何足羨 羨君楼上富清風
彫甍画棟(ちょうこうがとう)青空を挿す。両袖は飄飄(ひょうひょう)として身冲せんと欲す。百万の黄金なんぞ羨むに足たりんや。羨む君の楼上清風に富めるを

(訳)屋根瓦や彩色した棟木は、青空に向かって伸び、風通しが良く袖が翻り体が舞うようだ。豪商である貴方の百万の黄金を羨むのではない。羨ましいのは、ただ、貴方の家に心の清らかな気風が、満ちていることである。

快哉楼は老朽のため、昭和二十一年頃、解体されました。

殿様のお成り

中原

そこで、殿様のお話を。

玉江

殿様が、領内視察や等覚寺(とかくじ)参詣のおり、飴屋や柏屋などを本陣として、休息や宿泊をなさったのです。
殿様を迎える「お成り座敷」は、六代宗慶か七代宗徹の時に増築したようです。殿様はここで休息されていますが、快哉楼の四階まで上がられたかどうかははっきりしていません。
お成り門として知られた飴屋門は、天保十二、三年(一八四一~二)に建てられています。

中原

殿様を迎えるとなると、気配りも大変で。

玉江

まず藩から「お達し」があります。「農民の日常を知ることが主旨だから、不自由は勘弁する。宿泊や休息は質素で手軽でいい。百姓の難儀にならないように」と。「特別な道は造らなくてもよいが、橋は危なくないように」ともあります。
だが実際は、お居間の屋根の葺き替え、畳の表替え、壁の上塗り、襖、障子の張り替え、その他の指示があって大変でした。

中原

「お達し」とは大違いで。(笑)
お供のほうは。

玉江

お供は家老から、小姓、馬役、用人書役(秘書)、お膳番、料理人、酒部屋役、吟味役、髪結い、医師、鷹匠(たかじょう)、その他で、百三十人を超える大勢でした。

中原

殿様のご巡行日程は。

玉江

「御廻郡(ごかいぐん)」と言っていました。
安政六年(一八五九)一月の廻郡日程をみますと、

二十五日 御城御発駕(はつが)(出発)。
御昼 苅田。
御泊 行事本陣 玉江彦右衛門宅。

すべてに御が付いているが、以下は省略。

二十六日 等覚寺参詣、昼食。泊り大橋。
二十七日 崎野境、羽根木、辻垣巡回。
今井社参詣、昼食。
泊り大橋。
二十八日 昼食下曽根。帰城。
実際は雨のため参詣が二十八日、帰城が二十九日になっています。

司会

殿様もご精勤ですね。ご接待のメニューは。

玉江

二十五日夕食を見ますと。

御酒  
御吸い物 味噌、ふきのとう、しんじゅう(糝薯(しんじょ)であろう。魚、鳥、エビなどの肉のすり味にすった山の芋、粉類を加えて調味し、蒸し、またはゆでた もの)
組附 かまぼこ、かすてら、蓮こん、香芋、山芋、
差身(刺身) 作り身、こぶのり、うど、
八寸切身、鯛塩焼き、九年母(くねんぼ)

九年母はミカン類、秋熟して美味。

御膳 八寸高、木貝ぜん
膾(なます)
汁 青味すりたて
平 はんぺん、志いたけ、玉川ふ
ご飯  

司会

一品一品、さぞ、気を使うお客様だったでしょう。(笑)

玉江

なお、この時、雨で所在のない殿様は、引飴の製造をご覧になっています。

千両役者三津五郎のスケッチ

蓬洲筆の「三津五郎扮する与四郎」

司会

蓬洲さんが、千両役者の窮情を救っていますね。そのお話を。

玉江

遺されている天保十年(一八三九)の古証文にある話です。
文化、文政に続く文化爛熟のころで、各地で江戸の歌舞伎を引き受けて、興行したのですね。
町民や農民が江戸へ行くなど夢の時代でしたから、江戸の千両役者の芝居をじかに見られるのですから、大変な評判だったでしょう。
詳しいことは分かりませんが、四世坂東三津五郎さんが養子の蓑助さんや門弟を引き連つれて西国の興行に下ってきた時のことです。
思惑違いがあったらしく、大勢の連中を連れてのことで、苦労も並大抵ではなかった。その窮情を知った蓬洲が手助けして、最初に十両、ついで八両と二度用立てています。

中原

当時の十八両というと

玉江

今の百四、五十万円ぐらいでしょうか。
「遠路ヲ参リ居リ今日さし当リ当惑致し候ママ何共恐レ入候得共…」と、来春までとしたためてあります。

司会

それが残っていて…。結果はご祝儀に。

玉江

蓬洲は、はるばると西国まで下ってきた一座の、難渋を見過ごせない。次の肥後路の興行に、役立つならと、ハラをくくったのでしよう。
蓬洲が描いた「三津五郎紛する与四郎」の一筆スケッチがのこっていますが、これで満足だったのでは。
三津五郎さんは

お目見得に江戸紫の初なすを
はつかしながらへたをそのまま

の狂歌を遺しています。江戸の千両役者らしい、天保時代なればこその粋な一筆ですね。

蓬洲の家訓

司会

飴屋の代々に受け継がれている家訓のようなものは。

玉江

七代蓬洲が、孫の彦作の元服の時に与えた訓戒状があります。この家憲は、なぜか十代からお蔵入りになっています。ひらたく訳しますと

  • 受入加判禁制(保証人にはなるな)
  • 衣服は普通にして、上を望まないこと。
  • 米相場、博打、諸勝負禁制。
  • 御家はご先祖からの預かりもの。
    亭主はその時々の職役だから、気侭な取り扱いはせず、旧例を尊重して、ご先祖の尊慮に背そむかないこと。
  • 結婚は両親の考えを尊重すること。武家、寺、お宮関係の縁組は避けること。
  • 遊芸も全然しないのはいけないが、あまり上手は禁制。
  • 生死不定の世界だから、手際の金銭(手許金)を手放さないこと。

などといった訓戒になっています。

私札「飴屋札」

飴屋私札

司会

豊前京都郡(豊前=福岡県北部)一帯に通用した『飴屋札』の発行も蓬洲さんのころですか。

玉江

藩が発行する藩札と違って、こちらは版元の信用が支えの私札です。藩の承認を得て、信用のある有力商人によって発行されています。
通用は一定地域内に限られていましたが、領内の経済発展や上方との商取引もあり、藩の国産会所の役目も引き受けていましたから、産物買い集めにも当てたのでしょう。
『飴屋札』は、天保年間に三回。発行されていますが、回を追うごとに松竹梅、鶴亀など、念を入れた意匠になっています。
額面は、当時の正貨である銀を見合いにして、十匁(もんめ)、五匁、一匁、五分、三分、一分、と、他の商人札(銭札)よりも高額になっています。
『京都郡行事住 飴屋』の屋号が刻まれています。

(もんめ)
(尺貫法では一貫目の千分の一)は小判一両の六十分の一。分は小判一両の四分の一。銀一匁の十分の一。

中原

飴屋の信用がいかに高かったかを示すものですね。

玉江

ご用商が発行を請け負っていますが、現・行橋地区では行事村の飴屋新屋、大橋村の柏屋がありました。飴屋と宇島の万屋の私札は銀札ですが、新屋と柏屋など大半の商人の札は銭札でした。私札の流通は、安政二年(一八五五)十月まで約二十年で終わりました。
一説によれば、飴屋札の発行が旺盛で、藩札を圧迫したからだろうとも言われています。

維新の小倉戦争 飴屋も藩と心中

中原

小倉藩ご用商の飴屋さんには、藩にかかわる文書がたくさん残っているでしょう。

玉江

文書といっても、上納で下された賞詞や、褒状などが主ですが、小倉戦争で藩を滅亡から救った、勇将島村志津摩(天保四~明治十六・一八三三~一八八三)関係の文書や、ピストルもあります。

中原

上納の褒賞から、小倉藩の財政のうねりもうかがえますね。

玉江

最大の上納は幕末の小倉戦争で、飴屋存亡をかける時を迎えるのです。
元治元年(一八六四)の第一次長州征伐で長州は幕府に屈しますが、翌慶応元年に、桂小五郎(後の木戸孝允・天保四~明治十・一八三三~一八七七)や高杉晋作(天保十~慶応三・一八三九~一八六七)らの活躍で、幕府への恭順態勢を一変。薩長同盟を支えとして反幕の旗をかかげます。

司会

そして二年後(慶応二・一八六六)の第二次長州征伐に。

玉江

だが十四代将軍家茂(いえもち)の死亡で士気と統制をかいた征長軍は、大村益次郎(文政七~明治二・一八二四~一八六九)の指揮で洋式軍備に一新して、士気盛んな長州兵に、芸州口(安芸)、でも石州口(石見)でも、小倉口でも、散々に敗退します。
小倉藩は高杉晋作と山県有朋(やまがたありとも)が指揮する長州の奇兵隊に敗れ、首席家老小宮民部(こみやみんぶ)が城に火を放って敗退し、民部は切腹して果てます。

中原

その時の、救世主が島村志津摩ですね。

玉江

小倉藩は前年病死した藩主忠幹(ただよし)公の喪を伏せながら、わずか四歳の豊千代丸(のちの忠忱)を戴いての、非常の時を迎えていました。
その時、家老の島村志津摩が、連敗で士気が喪失している小笠原藩兵を鼓舞して、金辺峠で奮戦し、長州の追撃を退けます。
小倉藩の義を見せて和解に持ちこみ、藩の再建を果たすのです。小倉藩は香原へ退き、そして豊津で、藩の再生をはかります。
その藩存亡の時に豊津藩は、藩校「思永館」を「育徳館」に改名して存続させています。講堂に掲げてあった七代藩主忠徴(ただあきら)公の書からとったもので再建は人づくりからと、卓見ですね。
後の豊津中学校の記録(校友会雑誌記念号)をみれば、
「国内(藩内)の富豪各献金ノ挙アリ、京都郡行事村玉江彦右衛門、藩学の再興を謀り、独力校舎を建築して、之を献じたリ、即ち育徳館是なり、藩主その志を賞し、特に擢でゝ、士族に列せリ、建築費時下(価)七千両を要せしと云ふ」とあります。
明治三年(一八七〇)のことですね。

※豊津中学は、新制高校をへて、平成十九年四月より育徳館高校に変る。

中原

藩も、飴屋も大変なときでしたね。
今ならいくらぐらいで。

玉江

七千両は新政府紙幣の約一万円で、今なら五、六億円ぐらいになるのでしょうか。
このとき、初めて士分に列し切米十石三人扶持に遇せられます。
士族の一番下の身分ですが、士農工商の時代ですから、士族待遇という名誉を与えられたのです。

*切米ー知行地を持たない、小禄ノ家臣に春夏冬の三回に期限を切って支給した扶持米。

司会

ご本の『行事飴屋盛衰私史』に、そのころ殿様へ一万両とありますね。

玉江

記録に「天保十二丑年に立戻り御差引詰金壱万両程、卯年より弐百五十年賦仰出サレ候」とありますから、それまでの貸出をまとめて一万両とし二百五十ヶ年賦ということに。

司会

実質献金ですね。それが、今あれば…。(笑)

玉江

小倉戦争で、飴屋は小倉藩と心中したのですね。九代、曽祖父宗槃の苦衷が思われます。それで、明治以後の飴屋にはかっての勢威はありません。

志津摩のピストル

司会

小倉藩の滅亡を救った島村志津摩は、飴屋をよく訪ねていたそうですね。

玉江

「幕府の旧恩に報いたものは、西国では小倉藩の義あるのみ」と讃えた山県有朋(天保九~大正十一・一八三八~一九二二)が志津摩を新政府に招きますが、彼はそれを受けず京都郡の二崎に隠棲します。
悠々自適の日月で、飴屋にぶらりとあらわれていました。

中原

藩の大変に飴屋が家運を傾けて尽くしたことを、徳としていたのでしょう。

玉江

志津摩さんには家老就任の頃から九代宗槃が尽くしていましたが、藩の滅亡を救った人ですから、酒食の接待をして別段の扱いでした。だが、何かと厳しい隠棲の日常だったのでしょう。時々懐から身辺のものをさらりと取り出す。
家人も心得ていて、十分に見合う金品をさらりと差し出す。志津摩さんは黙って、それを懐に、という按配だったそうです。

中原

以心伝心のやり取りが、目に浮かぶよう。いい風景ですね。

玉江

家老のころでしょうが志津摩から贈られたと伝えられるピストルがあります。
だが、薬莢も実弾もない。歴史の遺品で、もはや凶器ではありませんが、といってもピストルですから、数年前に古式鉄砲の申請をして認定され、文化財として保存を認められています。歴史文化財の認可を受けました。

中原

坂本竜馬(天保六~慶応三・一八三五~一八六七)が京の寺田屋で新撰組に襲撃され、ピストルで脱出しましたね。あのピストルも同じで。

玉江

志津摩は懐中時計を取り寄せていたほどのハイカラさんで、ピストルも、長崎からのものでしょうね。
実は志津摩さんに、飴屋は助けられています。明治二年に、旧小笠原藩領で起こった百姓一揆の時、豪農や豪商が標的にされて、家を壊されたり、大金を提供させられたり、散々な目に遭っていますが、飴屋は難を免れました。
それなりの対応はしたでしょうが飴屋には志津摩がいるということで、襲撃を免れたのだそうです。

ロンドンに散った若き雄志と、末松謙澄

旧藩主小笠原忠忱伯

中原

維新となって、新しい夜明けの、四民平等の明治を迎えますね。それからは。

玉江

といっても、飴屋や柏屋はやはり殿様とのしがらみが続きます。
維新で再出発した豊津藩は、これからは西洋の学問をと、明治六年に十二歳の幼君忠忱さん(豊千代丸)をロンドンのケンブリッジ大学へ留学させて、藩士や、豪家の子弟が随行しています。

中原

その費用も、豪商たちが献上したので。

玉江

よく分かりませんが、若殿へのお餞別は弾んだでしょう。(笑)
その時、親戚の柏屋の柏木勘八郎の長男門三が十六歳で随行しています。門三は、豊津藩が設立し、オランダ人ファンカステールを英語教師に招いて注目されていた大橋洋学院に学び、医学修行のために渡英したのですが、異国の地で十八歳で病没しました。
死後三年の明治十一年に、英国公使館員としてイギリスに渡った同郷の末松謙澄(すえまつけんちょう)(安政二~大正九・一八五五~一九二〇)が、門三が暮らした地を訪れ、ロンドンでの評判が良く、惜しまれての最期であったと、柏屋の老父に慰めの手紙を送っています。

司会

元気に帰国されれば新時代のリーダーとして活躍されたでしょうに残念ですね。

玉江

さらに後年。昭和五十三年に、門三の弟の孫で損保会社の役員をしていた柏木黙二が墓に参り、墓石を再刻再建して、異国に若く散った雄志をなぐさめています。

在英時代の末松謙澄

司会

末松謙澄は飴屋のご親戚で、後に伊藤博文の女婿として、明治憲法草案に参画した明治日本のリーダーですね。
玉江先生にお話をうかがって、本シリーズの北九州篇『末松謙澄』(通巻七〇号)で紹介しています。

玉江

仏山の水哉園に学んだ謙澄は、上京して枢密院顧問の佐々木高行侯爵の書生になり、後に総理大臣となる高橋是清(たかはしこれきよ)と親交を結びます。
英国公使館付一等書記官時代に、ロンドンで『源氏物語』の翻訳出版もしている。海外に『源氏物語』を紹介した最初の人で、後年編纂した明治維新の『防長回天史』とともに、スタンスの広さを感じさせます。
私の母方の祖母が生んだ子を養子にしていますが、毎年、正月には、謙澄の書を床の間にかけています。

旧藩主家へ嘆願。残照

司会

小倉藩と心中されて維新後の飴屋は大変だったでしょう。

玉江

飴屋を支えていた『飴屋七商』も、次々に撤退して、商いは本業の飴屋だけになっていました。

司会

いつの頃ですか。有名な社会主義者の堺利彦(枯川・明治三~昭和八・一八七〇~一九三三)が飴屋の氷飴にふれていますのは。

玉江

ずっと後の大正時代に入ってですが、友人への手紙にあるのですね。一部を紹介しますと、
「僕等にとっては此の氷飴は実に懐かしい物だ。(略)
普通の飴は兎かく歯に附ていけないが、此の氷飴に限って、噛めばポロポロと砕けて、そして少しも歯に附かぬ。そこが名物たる所以で氷飴の名の由って来るところである。
まだ其れ丈ではない。この飴の製造元は『行事の飴屋』と云って昔から有名な分限者である。(略)
然るに此の飴屋は元来が小さな飴屋から起って、遂に此の大身代を作りあげたのであるから、其の昔を忘れぬ為、今でも矢張り飴屋をやって居るのだと、遠近に言ひ伝えられて居る。(略)
扨ハヤ落莫たる店の有様で、甚だしく想像の詩趣を損じたが、それでも矢張り上等の箱を三つ買って…」とあります。利彦先生の目にも飴屋の落魄ぶりが映ったのですね。

司会

旧家の大方が時代の激変に翻弄されていたのですね。

司会

でも、飴屋は飴屋。陸軍大演習の統監で来られた宮様の行在所(滞在所)に指定されていますね。

玉江

明治十八年に北豊前地方で行われた広島鎮台と熊本師団の大演習の時ですね。
明治天皇がお見えになる予定が、急に変更になって、小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)がおいでになったのです。
行在所にご下命いただいたことは、当時では最高の名誉で、まさに家門の誉れでした。旧藩時代のお成り座敷を中心に、軒先瓦を菊のご紋章入りに葺き替えてお迎えしています。
宮様のご嘉賞をいただきましたが、これが飴屋の余映、残照のひとときでした。

中原

行事飴屋への信望は、新時代でも変わらなかったのですね。

司会

だが、そのころですね。旧藩内を驚かせた財産せり売りの新聞広告がでるのは。

玉江

明治十九年五月十一日付の「福岡日日新聞」、今の西日本新聞に掲載された広告で、「家政改革のため」とあります。
小倉戦争にまきこまれた九代宗槃が隠居して、家業を任された祖父、後の十代宗哉が、家財の整理売却などをおこない、積極的に家運の挽回を図るのです。
「目録」を見ると、書画、道具、花器、茶道具、屏風と永年にわたり収集してきた美術品全般にわたる大手術でした。
そして三年後の明治二十二年に、旧藩主家にご支援を嘆願しています。

司会

ご本人は当事者ですから(笑)、代わって資料を紹介しますと
「私儀、祖先累代旧御国恩ニ沐浴シ、家名相伝仕来候処、去ル慶応年中、御変動後時勢ノ変遷ニ遭遇シ、愚蒙機変ニ応ジルノ才幹無之ヨリ、家運日ニ月ニ衰替ニ傾キ」との前文から、要旨、次のように嘆願文が記されています。
「図らざる負債を生じ、明治十五年に一万円余に達しました。神速に償却しなければ、家産が蕩尽(とうじん)いたしますので、先祖以来の微忠を思し召され、なにぶんのご配意を」と、代々の献上で下された藩主の賞詞をそえ、田畑を担保にして金一万円の拝借を、懇請されていますね。お応えがありましたか。

玉江

一度承諾されたのですが、藩主家も維新の後で、諸事大変だったのでしょう。お応えいただけなかったようです。
後年のことですが、私が東京の日本銀行本店に勤務していましたとき、お孫さんのご当主からお招きがあって、三井ビルの華族会館で、お目にかかったことがあります。
その後、祖父、宗哉が亡くなって、父、彦太郎が十一代目の彦右衛門を襲名したのは、明治三十五年、年齢わずか十五歳の時でした。内部の放漫経営で、飴屋の家運が傾き、戦後の農地解放で、飴屋の勢威は消えたのです。
幕末には小倉藩に、終戦では平和日本にと、この国の激動期に我が家なりの禊をしてきたのでしょうか。

戦前の飴屋 米俵がいつも八十俵 ピンポン卓が何台も

司会

戦前の飴屋さん。玉江家のたたずまいは。

玉江

敷地は二千六百坪ぐらいで、敷地内に先祖代々の墓地がありました。今の国道201号線のところも敷地で、あのあたりは家の白壁が続いていました。
親戚が上京するときは、その端までぞろぞろとついていき、そこで手を振って送っていました。
居宅に蔵や倉庫、そしてお成り座敷がありましたが、その中に高い屋根の広屋があって、親戚や近所の人たちの集会所になっていました。
そこで、婦人会のおばさんたちにまじって、子供の私たちも木曽の中乗りさんや、阿波踊りなどを踊って楽しんでいました。
秋になるとそこに、お百姓さんたちが、小作米を運び込まれます。お世話さまと一献差し上げ、それはそれは大変な賑わいでした。
その広屋に四季を通じて、いつも米俵が八十俵ぐらい積んでありました。子供のころ、それに上って遊んでよく叱られていました。
またピンポン卓がいくつもあって、家族で楽しんでいました。まあ、当時としては、ハイカラな暮らしだったのでしょう。

むすび

中原

飴屋十一代の誇りをしっかと継承された十二代のご当主に。小笠原藩と豪商のかかわり、飴屋さんの三百五十年を、おさらいさせていただきました。

玉江

私が綴った『行事飴屋盛衰記』(海鳥社刊)に、当時の日本銀行北九州支店長の鈴木茂氏が渋沢敬三さん(日本銀行総裁、大蔵大臣)の言葉、「失敗の書いていない歴史書には意味がない」の語を引用されて、成功談とともに、第一級の失敗談もあって示唆を受けると、ありがたいエールをいただきました。
十二代の私が、飴屋の総括をいたしましたが、ご参考になれば何よりの先祖への供養でしょうか。

司会

旧幕時代に身を置いているような、リアルで、奥の深いお話でした。ありがとうございました。

玉江彦太郎氏 略歴

一九一九(大正八年)福岡県行橋市に生まれる。
日本銀行に入り、管理部調査役を経て、社団法人北九州銀行協会常務理事、行橋市監査委員を歴任。
前行橋市文化財調査委員。


福岡市海鳥社より

  • 「小倉藩御用商行事飴屋盛衰私史」
  • 「小倉藩の終焉と近代化」
  • 「若き日の末松謙澄」

の著がある。

※掲載写真については玉江彦太郎氏からの提供によるものです。