No.17 佐藤慶太郎 日本最初の美術館 東京府美術館を個人で寄付した石炭の神さま

対談:平成22年10月

司会・構成:土居 善胤


お話:
筑波大学大学院 人間総合科学研究科 教授 齊藤 泰嘉氏
北九州市 総務市民局 市民活動推進担当 理事 西之原 鉄也氏
聞き手:
西日本シティ銀行 副頭取 樋口 和繁

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


忘れられていた巨人
東京府美術館の建築費百万円を寄付(現在の三十数億円)

北九州市若松区高塔山登り口
佐藤公園の胸像

司会

今回は、上野の美術館で親しまれている、「東京府美術館」(現、東京都美術館)の建設費百万円を、九十余年前に、個人でぽんと寄付された若松の佐藤慶太郎さんのお話をうかがいます。

齊藤

現在なら、三十数億円、感覚的にはもっと大きな浄財です。「石炭の神さま」と称された人物でしたが、その石炭人が日本文化の根っこに、誰もできなかった大変な貢献をされた。
でも、それだけではなくて、社会奉仕を次々に。アンドリュー・カーネギー(1835~1919)の「富みて死すは、富者の恥辱(ちじょく)なり」を信奉して、遺言で遺産までも。
実に志操の見事な七十三年の生涯でした。

西之原

「石炭王」と称された方たちが、産業、教育、医療、文化の各面で地域に貢献されたことはよく知られていますが、北九州市の若松区、五市合併前の若松市で戦前に活躍された、見事な「石炭の神さま」がおられたとは。

齊藤

石炭のことなら、佐藤に聞けと言われたほど、炭質から鉱脈までの、石炭科学。そして流通から経営、いわば石炭の経済学まで、造詣の深い石炭の神さまでした。
火野葦平さんが小説『花と龍』に慶太郎を実名で登場させています。
主人公の玉井金五郎が、荷役の監督を誘って、ハイカラな洋食店「突貫亭(とっかんてい)」へ入ると、大広間で宴会が始まっていて、監督が、「玉井君、あれが、佐藤慶太郎氏だよ。炭鉱をいくつも持っとる大金持ちだ。(中略)その右手のが、安川敬一郎氏、安川財閥の御大。(中略)それから、右に、順々に」と説明するくだりです。

樋口

安川敬一郎氏は後年の九州工業大学を寄付。慶太郎氏は東京府美術館を寄付。葦平さんの小説に、二人が同席して会食している。愉快ですね。

齊藤

また、慶太郎の自伝では、こんなエピソードが伝えられています。
門司港の貯炭場で、小さな石炭を拾った慶太郎が手の中で確かめて片方の置き場にぽんと返した。連(つ)れの石炭仲仕の親分、いろは組の村田為吉が「よくお分かりですね。藤棚と本洞、隣り合わせの鉱区ですぜ」と感服。
慶太郎が「僕は若松に運ばれてくる石炭は、みな見ているから分かるさ」と答えるくだりです。
毎日見ていれば、色合いとか、割れ具合とか、縮みの模様が違って、同じ炭層の石炭でも見分けがつくのだと、石炭の神さまぶりがうかがえます。

玉井金五郎、マン、葦平
(火野葦平資料館所蔵)

西之原

私は地元の若松区長でしたが、東京に美術館を寄付した人という断片の知識だけで、本日の主人公のことをあまり知りませんでした。
先生のご本、『佐藤慶太郎伝』で、若松にこんなすごい男がいたのかと、胸が震えました。

齊藤

でも、理事さんと地元の方々が尽力されて、佐藤慶太郎が、立派な銅像に回生して、ふるさと若松に、見事な凱旋(がいせん)をしたのです。

司会

「慶太郎さん、以(も)って瞑(めい)すべし」ですね。

社説がドラマを創造した運命の日

司会

では、慶太郎さんのお話を。これからは、登場人物の敬称は略させていただいて。

齊藤

佐藤慶太郎は明治元年(1868)生まれで、数え年が明治の年数と同じでわかりやすいですね。彼の歩みの背景は、新しい日本の歩みでした。
数えの十九歳で福岡県立英語専修修猷館(現、修猷館高校)に入り、法律家を志望して、明治法律学校(現、明治大学)を二十三歳で卒業します。
帰郷して二年。虚弱な慶太郎を心配した親戚の医師に、「法律の座仕事は体に良くない。方針を変えろ」と勧められ、信頼できる番頭を探していた山本周太郎商店に入るのです。
山本周太郎は、若松石炭商同業組合の副組合長を八年務めた人物で、若松屈指の石炭商でした。
信用のある“やましゅう”で、石炭学と商法をマスターして、三十三歳で独立するのです。

樋口

その頃の若松の石炭商は。

齊藤

明治二十五年の若松の人口は、三千五百人余り。日本のエネルギーの半ばをカバーすることになる筑豊炭田を背景に、二百五、六十軒の石炭商がしのぎを削っていました。
その中で、研究熱心と、誠実な商法で着々と信用を築き、貝島から譲り受けた高江炭鉱を基盤に、上海に支店を出し、南洋にも販路を伸ばして二百万円の資産を築いていたのです。現在の七十億円ぐらいですね。

司会

そして、いよいよ運命の日が。

齊藤

大正十年三月十七日。数え五十四歳の時でした。第一次大戦(大正3~大正7・1914~1918)が終わり、一転して大不況の時代でした。
石炭業界も深刻で、慶太郎は業界回生のために、全国石炭鉱業連合会の結成に奔走して、たえず上京していました。その定宿が、歌舞伎座そばの木挽(こびき)町にあった水明館でした。
朝のお茶を飲みながら、手にした「時事新報」の社説に、慶太郎は目を奪われたのです。

司会

それが、美術館建築費の寄付を促した運命の警鐘だったのですね。

齊藤

社説「常設美術館」の書き出しは、(以下要旨)
「大都市東京に、常設美術館が必要なことは、再三本欄で述(の)べてきた。
明年の平和博覧会を機に、美術館建設の機運にあるが、東京府は博覧会に経費がかかるので、本格的な美術館を建築する余裕はなく、一時的な美術館を建てる方針のようだ。
常設美術館の建設費は約百万円だが、一時的のものも約二十万円必要だという。
府は国民の視点に立って、この機会に仮の美術館でなく、日本を代表する最初の常設美術館を建てるべきだ」
そして三つの根拠を挙(あ)げています。
[1]西欧諸国の大都市には、一国を代表する美術館があるのに、わが国にはない。
[2]美術上の手腕に富むのがわが国民の特徴だが、油断していれば西欧諸国に後(おく)れを取る。
[3]美術の保護奨励がなければ、わが国の工芸品の輸出も衰退するおそれがある。
最後を締めくくって、「東京府がすでに二十万円で、一時的の美術館を建築する方針であるから、ぜひ望みたいことは、富豪や有力美術家の協力によって残り八十万円を補って、常設美術館を建設することで(略)、心ある人々の一考を望むものなり」とあります。

樋口

その社説が、滾(たぎ)っていた慶太郎氏の志に点火して、大きな焔(ほのお)になったのですね。

齊藤

慶太郎は果断でした。旧知の阿部浩知事に電話をして、府庁で面談。時事新報の社説に共感したので、その費用百万円を寄付したいと申し出るのです。

西之原鉄也 氏

西之原

朝刊の社説を読んで、すぐに寄付の申し入れ。炭鉱気質(かたぎ)の果断さに、知事はさぞびっくりしたでしょう。

齊藤

知事は七十歳、慶太郎は五十四歳でした。

樋口

読者に人を得て、これほど効(き)き目のあった社説も新聞史上希(まれ)なのでは。
論説冥利(みょうり)に尽きる、幸せな社説だったのですね。(笑)

真情あふれた寄付願い

齊藤

タイミングも良かったのです。
虚弱体質の慶太郎は、生涯の知己であった野口雄三郎医学博士に、命か事業かと説得されて、引退を決意。今後は、社会奉仕を生き甲斐にと考えていた矢先だったのです。

司会

それにしても…。

齊藤

さらに、養子の与助の友人で、若松中学(現、若松高校)の美術教師をしていた志賀寛治から、美術学校の名校長正木直彦の「今の日本には美術館建設が急務である」との持論を聞かされ、協力を訴えられていたのです。

養子の与助はのちに明治専門学校(現、九州工業大学)と東北大学の教授に。

美術館竣工後十四年たって、昭和十五年に、佐藤と正木は相次いで他界しますが、雑誌『美術日本』は、美術界の二恩人と讃(たた)え追悼しています。

樋口

慶太郎氏は、美術館の生みの、志賀と正木は陰の恩人になりますね。

司会

慶太郎の陰で、俊子夫人もよく協力されたのでしょう。

齊藤

「やましゅう」に勤めてすぐに、店主の義妹を妻にしたので、最初の石炭の先生は俊子夫人でした。
店の金も生活費も実印も、一切(いっさい)夫人任せの佐藤式会計でしたが、この百万円寄付だけは決心が鈍(にぶ)ってはと話さなかったらしい。
でも申請書には実印がいる。それでほかの書類に紛(まぎ)らして押したそうで。(笑)
新聞で知った夫人はひと言(こと)「いいことですね」でケリ。それからは、美術館が夫婦の楽しい話題だったそうです。

樋口和繁

樋口

地元の若松でも、話題に…。

齊藤

なりましたね。「なぜ若松の人間が、遠い東京に巨額の寄付をするのか」「石炭屋が、文化面の寄付とは如何(いか)なる事情か」等々。
そうした関心に応えて、福岡日日新聞(西日本新聞の前身)の、寄付の背景を探る記事(大正十年四月十六日付)となる。その一節に、「富の程度から言うと従来筑豊では第二流以下の鉱業人として知られた人」とあり、石井若松市長と終生の知己であった野口若松病院長の言葉を載(の)せています。
石井市長は、「全財産の半分を擲(なげう)ったものである。(略)氏は寡言沈黙衒気(げんき)の無い人で(略)氏の趣味としては別に聞かないが、俊才養成ということには頗(すこぶる)力瘤(ちからこぶ)を入れていたようである」。
野口若松病院長は、国家に聊(いささ)かなりとも貢献したいからと相談を受けたので、(略)「自分は国民の品性を高めるような事業に寄付をするように意見を述(の)べておいた」。

司会

いろいろと背景が…。

齊藤

その頃の話でしょう。
筑豊石炭ご三家のひとり、麻生太吉が慶太郎に「失礼ながら、君はたいした資産もないようだが、よく思い切ったことをする。まことに感心だ」と話されたそうです。
慶太郎が即座に、「私のやり方にご賛成なのですね。では、翁も思い切り寄付をされては」と言った。
太吉が「それができるぐらいなら、君のやりかたに感心などしない」となって、二人で大笑いしたそうです。

※石炭王と称された人たちとは

具島太助
弘化二~大正5年(1845~1916)
享年八十二歳 慶太郎より二十三歳上 

安川敬一郎
嘉永2~昭和9(1849~1934)
享年八十六歳 慶太郎より十九歳上

麻生太吉
安政4~昭和8(1857~1933)
享年七十七歳  慶太郎より十一歳上

伊藤伝右衛門
万延元~昭和22(1860~1947)
享年八十八歳 慶太郎より八歳上

佐藤慶太郎
明治元~昭和15(1868~1940)
享年七十三歳

西之原

府庁に提出した「美術館建設費寄付願」に、慶太郎の気持ちが汲(く)み取れますね。

齊藤

半紙二枚に細字で克明に書かれた異例のものです。
長文ですが、核心に入って「不肖(ふしょう)斯(か)く国家若(もし)くは社会を利すべき、有益なる事業に献身すべき目的を持って奮闘せる結果は、一家の生計及(および)鉱業、商業に必要の資金を控除したる以外壱百万円の余裕を生じたるを以(もっ)て、之(これ)を表記の如(ごと)く美術館建設費に寄付せんとするものなり」(略)と記しています。

齊藤泰嘉 氏

齊藤

そして担当者に、「此(この)百万円は、自分が一生涯努力して得た総資金の半額であって、三菱三井の百万円とは事情が違ふ。その積(つも)りで扱って貰(もら)ひたい」と真情を述べています。

司会

厳粛(げんしゅく)な気持ちになりますね。

西之原

丁度同じ大正十年に、当時の若松市が市庁舎を建築していますが、そのときの建設費は十五万円でした。
文化教育面の貢献では、石炭御三家の安川敬一郎さんが明治専門学校(現、九州工業大学)を寄付されていますね。

安川電機の安川寛名誉会長に伺った本シリーズ北九州編№1『安川家のひとびと』参照。

竣工は慶太郎の美術館より十二年前の明治四十二年で、建設費八十万円、基本金三百三十万でした。北九州の戸畑と若松で燦然(さんぜん)と輝いた大きな志でした。

樋口

それで、美術館の建築は順調に進展したのですか。

齊藤

いや、まだ用地がはっきりしない、翌年の平和博覧会が急務。そして知事も代(か)わりました。

西之原

その間に死者九万人の関東大震災が。大正十二年(1923)九月一日でしたね。

齊藤

暗雲低迷でしたが、宮内省から上野公園一帯を下賜(かし)されて、一挙に用地問題が解決したのです。
着工は大震災の一年後の大正十三年九月で施工は大林組。竣工は一年八カ月を経て大正十五年四月。開館式は五月一日でした。

樋口

美術館が、東京復興を印象づけましたね。

齊藤

まさに、東京復興の旗印でした。
すぐに着工されていたら、慶太郎が心血を注いだ百万円が宙に消えていたでしょう。利息が付いて、原資も百三十万円に膨(ふく)らんでいました。
最適の用地に、資金も潤沢(じゅんたく)で、かえって、万全の建築に。慶太郎は、強運の人だったのです。

光を生かして
岡田信一郎設計の美術館

西之原

国を代表する建築ですから、設計者の選定も大変で。

右 岡田信一郎
(「東京朝日新聞」記事)

齊藤

選ばれたのは、活躍の四十代を目前にした岡田信一郎で、ギリシャ建築などの古典様式を現代に蘇(よみがえ)らせた、「近代クラシックの旗手」で、光の建築家として注目されていました。
皇居前お堀端の明治生命本社ビルも彼の作品で、西洋古典主義建築の最終到達点として、重要文化財に指定されています。

司会

二人の運命的な出会いは。

齊藤

大正十年(1921)で、慶太郎五十四歳、岡田信一郎三十九歳でした。建物は「回」の字に。内側の四角が彫刻展示の「光の中庭」で、その周りを絵画の展示室が取り巻いていました。風格のある美術館で、ガラス張りの屋根を抜け、天井の布で濾過(ろか)された光が展示品を柔らかく包み、「作品が生きて語り掛けてくるようだった」と回顧されています。

西之原

自然光を取り入れて近代建築のよう。時代を先取りした人だったのですね。待望された最初の展示は。

岡田信一郎設計 初代美術館(大正15)
前川國雄設計 二代美術館(昭和50)
リニューアルモデル(平成24年完成予定)
HPより東京都美術館改修イメージ図

齊藤

奇(く)しくも、慶太郎が美術館寄付の決意をした大正十年は、聖徳太子の没後千三百年でした。
太子賛仰の気運のままに、五年後の日本初の美術館の開館展示も、「聖徳太子奉讃(ほうさん)美術展」でした。
開会式展に総裁の久邇宮(くにのみや)ご夫妻をお迎えし、総理大臣若槻礼二郎(わかつきれいじろう)、文部大臣岡田良平(おかだりょうへい)、渋沢栄一(しぶさわえいいち)子爵、東京府知事平塚廣義(ひらつかひろよし)、東京市長中村是公(なかむらこれきみ)、そして美術界の大家や各界の代表千名が参列する文化の盛典だったのです。

司会

その日の慶太郎さんは。

齊藤

東京朝日新聞の記者に、「いやどうも立派に出来上がりましたなあ。今度は、田舎から親戚のおばあさん三人を連れて、見物に来ましたよ。私は明治四十年来の炭鉱業も、去る九年末止(や)めて以後、こんな道楽(社会事業)をしています。(略)なあに自分一代で得た金は、世の中のために差し出さなきゃ。自分一人で費(つこ)うてはすみませんよ」と述べています。

西之原

石炭気質の、はにかみですね。それで入場者は。

齊藤

五月一日から六月十日までの入場者は、六万四千百十六人。当時はまだ美術の啓蒙(けいもう)期ですから、大成功だったでしょう。なお、入場料は大人五十銭、団体割引で三十銭でした。
ちなみに、美術館は、昭和十八年に東京都美術館に変わりましたが、開館から終戦の昭和二十年までの二十年間に展覧会が七百七十本、入場者は千二百万人に及んでいます。
ピカソも、マチスも、ロダンの「考える人」も、新芸術のうねりも。さらにパリのピラミッド広場にあるフレミエ作のフランスの愛国者ジャンヌ・ダルク(1412~1431)の騎馬像まで、この美術館の賓客(ひんきゃく)となったのです。
開館式の日には感激の慶太郎を、もうひとりの慶太郎が迎えていました。

朝倉文夫

西之原

朝倉文夫さん(明治16~昭和39・1883~1964)の、慶太郎像ですね。

齊藤

帝展院展彫塑部有志が感謝の印(しるし)として、彫刻の第一人者で文化勲章受章の朝倉文夫に依頼した胸像でした。
朝倉は、大隈重信(おおくましげのぶ)、嘉納治五郎(かのうじごろう)ら、錚々(そうそう)たる人物の銅像を制作していますが、共感する人物しか手がけない硬骨の彫刻家として知られていました。慶太郎に惚(ほ)れ込んで、会心の作品に。眼光炯炯(けいけい)、だが奥に優しさをたたえて、素晴らしい胸像です。

西之原

生存中に銅像ができるのは希(まれ)なことでしょう。いかに感謝されたかが、うなずけますね。

齊藤

朝倉は慶太郎との友情にふれ、「翁とは竹馬の友ではなかったかと、どうしても思えてならないのである」と述(の)べています。
また、美術館の候補地が東京美術学校の校庭だと聞いて、「それは、おかしい。前の上野公園まで押し出せないか」と主張。結果的にはそうなって、陰の功労者でした。
慶太郎への感謝はこれに終わらず、日本画の横山大観(よこやまたいかん)、前田青邨(せいそん)、川合玉堂(かわいぎょくどう)らの七十二名と、洋画の坂本繁二郎(さかもとはんじろう)、安井曾太郎(やすいそうたろう)らの三十名、合わせて百二点の絵が六冊の画帖にまとめられて贈られています。のちに六角紫水(ろっかくしすい)らの工芸作家から十六点の工芸品が贈られました。
美術の大家たちが、いかに感謝していたかがうかがわれますね。

司会

その画帖は今。

齊藤

昭和二十六年に、慶太郎が支援した別府市美術館の展示を最後に姿を消したのです。
工芸品は発見されましたが、画帖は行方不明のまま。心当たりの方にお知らせいただければありがたいですね。

我をして九州の富人たらしめば 森鷗外

西之原

そこで、頭に浮かぶのが、陸軍第十二師団の軍医部長として、少将待遇で小倉に赴任していた森鷗外(もりおうがい)(文久2~大正11・1862~1922)の新聞寄稿ですね。
西日本新聞の前身である福岡日日新聞の明治三十二年九月十六日号に掲載された、警世の一文です。

齊藤

直方(のおがた)駅で、人力車の車夫たちが、口実を構(かま)えて鷗外を乗せてくれなかった。見かねた茶店の主人が連(つ)れてきてくれた車夫も二十町(約2キロ)ほどで一服して替(か)わりの車にしてくれと。
それで、鷗外先生は雨の田舎道をとぼとぼと。彼が記(しる)した『小倉日記』に「此(これ)より歩して福丸に至る」と。もっとも、帰りは、「午餐(ごさん)後巡査をして車を雇(やと)はしめて返る」でした。
のちに、料金の数倍もチップを弾(はず)む坑業家(炭鉱主)が車夫たちの見込み客で、少将待遇の鷗外もかまってもらえなかったと知るのです。
それで、福岡日日新聞に「我をして九州の富人たらしめば」と、よく知られている檄文(げきぶん)を寄稿するのです。

司会

鷗外先生、よほど心外だったので。(笑)

齊藤

以下、要約で失礼して。
「自分が炭鉱主のような富者であれば(略)富を芸術と学問に役立てる。
国内屈指の蔵画家(絵画収集家)となり、海外に人を派遣してロンドン、パリ、ミュンヘンの美術館の名品の謄本(とうほん)(模写)をつくらせる。また、新画派の作品を高く買って、奨励発展させる。
学問の奇書(貴重文献)を集め、多くの学者や文人を招き、『芸術の守護と学問の助長』に金を使うことこそ、富人のなすべきことである」と宣言しているのです。

西之原

今のように、ゴッホやモネの名画を、九州の美術館で手軽に見られる時代ではない。
美術書もない、せめて謄本をと、時代を感じさせられますね。

樋口

時代の要請が鷗外の叫びに結集していたのかもしれませんね。

西之原

もしそうなら、のちに、素晴らしい美術館を創り出された出光佐三さんや石橋正二郎さんの胸にも届いていたのかもしれませんね。
石炭王と言われた人たちの対応は。

齊藤

坑業家も、見識のある石炭王と称された人から、一攫千金(いっかくせんきん)に酔っている連中までいろいろです。鷗外は、貝島太助邸に三泊して、『小倉日記』に「偉丈夫(いじょうふ)なり」と記しています。
石炭王たちは国家、社会が念頭にある人たちで、共感しながらさらりと受け取られていたのでは。

司会

謹厳(きんげん)な鷗外の顔が浮かんできて、愉快な話ですね。その鷗外と慶太郎との接点は。

齊藤

二人の関わりを資料に見ることはできません。だが結果的には、鷗外の呼びかけに、警世の対象だった坑業家が見事に応(こた)えたわけです。 
鷗外は美術館完成の四年前に亡くなっていますが、存命なら美術館の開館式で、味わい深い対面が実現していたでしょう。

美術渇望のうねりを慶太郎が

司会

お話をうかがって思うのですが、NHKの大河ドラマで、評判だった坂本龍馬のように、時代のうねりは、一人の人物に凝縮(ぎょうしゅく)するのでは。

西之原

1920年代は、両大戦の合間の静謐(せいひつ)のひと時、黄金の時代でした。日本を壊滅させた戦いの魔手は、すでに忍び寄っていました。 
軍備優先の時代になれば、美術館構想など吹っ飛んでいたでしょう。 
あのとき、慶太郎の決断がなければ、美術館は戦後の復興期まで、多分三十年間は存在しなかったでしょう。

齊藤

美術への国民の渇望(かつぼう)は熱く、展覧会は戦時中でも続けられました。敗戦の昭和二十年は一件でしたが、前年までは持続されていました。 
彼のアクションがなかったら、数年もたもたしていたら、すぐに悪夢の時代に突入でした。

西之原

あの時代の、美術渇望のうねりが、慶太郎に凝縮したのですね。
あらためて、慶太郎の義を思います。生家は代々庄屋で、後年の彼の生き方を暗示するような家訓が遺(のこ)されていますね。そうした遺伝子も。

齊藤

父の孔作から数えて四代前の大庄屋、佐藤信英ですね。天明と寛政の二度の凶作の時、飢えた農民を救った人物ですが、子孫に守るべきこと四十四カ条を遺しています。
その一つに「一族は勿論(もちろん)、他人なりとも親切をつくし、少しもかざりがましく不実な事すべからず」とあります。
また先祖が、屋島の合戦で源義経(みなもとのよしつね)の身代(みが)わりになって忠死した佐藤継信(さとうつぐのぶ)と伝えられていて、それが家名の誉(ほま)れでした。加えて、私財を社会に還元した鉄鋼王アンドリュー・カーネギーに共感している。
財は世のために。彼の中に醸成(じょうせい)された義が、当時の資産家には想像もできなかった、美術館寄付の壮挙になったのです。

魅せられて三十年

『佐藤慶太郎伝』

司会

先生のご本で、清冽(せいれつ)な志の生涯に胸を搏(う)たれ、このシリーズで慶太郎さんに登場していただきました。
先生と慶太郎との出会いは。

齊藤

私は、九州にも、石炭業界にも縁がありませんが、銅像の慶太郎さんとの出会いは幼時からでした。
毎年秋、上野の美術館であった日本美術院展の展覧会に、会員であった日本画家の父、(あつし)に連(つ)れられてよくいってました。
入り口の階段を上がると正面に、威儀(いぎ)を正したフロックコート姿の胸像が私たちを迎えていました。
のちに、私は慶応義塾大学で美学を専攻して、昭和五十五年から東京都美術館の学芸員になったのです。

司会

そこで馴染(なじ)みの、銅像に再会されたのですね。

齊藤

いや、慶太郎の寄付した美術館は半世紀間、見事に役目を果たしましたが、時代とともに規模の拡大が要請され、昭和五十年に、前川國雄設計の二代目の新館に変わっていました。
経緯は知りませんが、幼時に馴染(なじ)んだ偉い人は収蔵庫に眠ったままでした。

司会

それはちょっと理不尽な。

齊藤

でも、平成十三年に、二十余年の眠りから醒(さ)めた慶太郎像が、新館の玄関ホールに姿を現したのです。
忘れてはならない方を大切に。多くの人たちの声だったのでしょう。
その美術館も、平成二十二年から休館。二年をかけて、リフレッシュ中ですが、完成すれば慶太郎の人物像を描く演劇も企画されています。

司会

慶太郎再生に火を点じられたのは、先生です。そこで、慶太郎とのふれあいを。

齊藤

美術館誕生のドラマに魅せられましてね。以来三十年、このすごい人を追い続けています。
彼の「公私一如」の生き方に共鳴し、佐藤新興生活館の創立に参加された加藤善徳氏のお話と、氏の著『美術館と生活館の創立者佐藤慶太郎』に深く啓発されました。
「美術館ニュース」の記事執筆や研究のために、彼に私淑(ししゅく)した人たちの声に接して、彼が社会の発展に生涯を捧げた一途な人、見事な日本人であることに惹(ひ)かれたのです。

西之原

慶太郎を追っての、先生のひたむきな歩みが、三百三十四ページの重厚な『佐藤慶太郎伝』(福岡市・石風社刊)に尽くされているのですね。

慶太郎を敬慕したお巡りさんに懇願され、筆を執った生涯最初で最後の一筆

莞爾たり慶太郎
洞海湾を望む佐藤公園に慶太郎像が凱旋

樋口

彼の愛した故郷の若松に銅像が生まれ、福岡の出版社から先生の著(あらわ)された立派な伝記も出版された。慶太郎氏はふるさとのぬくもりに、ほのぼのとしているでしょう。

司会

当時の若松区長で、胸像設置に尽力された理事さん。そのいきさつを。

西之原

ご本に啓発されて、若松の偉人、「石炭の神さま」を、復活させるのは、私たちの役目だと痛感したのです。
そして、まず一番に、東京都美術館の胸像を、市に寄贈された私邸跡の、ゆかりの佐藤公園に復元することだと思ったわけです。
そこで、地元で信望の厚い第一港運株式会社の岡部秀年さんをリーダーに、「佐藤慶太郎胸像建設実行委員会」を立ち上げ、地域と区役所一体での勉強会から始め、スクラムを組んだ地元有志の十一人の同志たちを軸に、多くの方にご協力していただいて、銅像実現に至ったのです。

樋口

皆さんで、いい事を思い立ってくださいましたね。

西之原

それからはもう勢いで。当初予定の金額をはるかに超える五百六十万円の浄財が短期間に集まり、高塔山の麓(ふもと)の佐藤公園に、東京都美術館の胸像を再現させる夢が実現したのです。

司会

戦災をはさんで、八十余年。原型探しも大変だったでしょう。

西之原

悩(なや)むより当(あ)たれでした。オリジナルの作品の鋳型(いがた)が朝倉彫刻を集めた「台東区立朝倉彫塑館(ちょうそかん)」に温存されていた。嬉しかったですね。

齊藤

世間に尽くした、慶太郎さんなればの清福だったのでしょう。

樋口

郷土が誇れる慶太郎像の誕生は、北九州の人たちの心にパッと灯(あか)りをともしましたね。

若松、高塔山にて 銅像除幕式
左より野口夫妻、佐藤夫妻、北橋北九州市長、
浜田別府市長、齊藤教授

西之原

平成二十一年六月十四日、好天。アジサイが目に染む佐藤公園で、胸像の除幕式が行われました。
ご遺族から、地元各界、小学生まで、大勢が参加して、石炭の神さま、佐藤慶太郎の回生を祝いました。

司会

そして、慶太郎基金まで。

西之原

若松区はこれを機に、彼の精神を将来にわたって受け継いでいきたいと、寄金の一部で「佐藤慶太郎基金」を設立しました。
地元の企業や個人の方々から追加のご寄付も頂いて、地元の文化や福祉活動をしている団体への助成を行っております。

司会

慶太郎像が、感泣(かんきゅう)しているのでは。先日訪ねましたが、さすが、朝倉さんの作品だけに、容貌(ようぼう)に凛冽(りんれつ)の気が漲(みなぎ)っていて、並の彫刻ではありませんね。背(せな)に彫られたサインの大きさは、自信作の証(あかし)でしょうか。
活躍した洞海湾を遠望する高台で、まさに「莞爾(かんじ)たり慶太郎」ですね。

齊藤

高塔山には、上り口に佐藤慶太郎の像、中腹と山頂に、火野葦平の文学記念碑と、吉田磯吉の像があって、『花と龍』の息吹を感じますね。

志の人 慶太郎の歩み

司会

魅せられる慶太郎像を伺いましたが、彼の他の活躍ぶりは。

齊藤

ではまとめとして、彼の歩みを年代順に追ってみましょう。

五平太舟

●明治元年十月九日、筑前国(ちくぜんのくに)(福岡県)遠賀郡(おんがぐん)陣原(じんのはる)村(現、北九州市八幡西区陣原)に出生。父は孔作、母はなを。庄屋の生まれですが、明治に入って庄屋は失業。事情があって、夫婦は独立します。
筑豊の遠賀川(おんががわ)と「出船千艘(せんそう)、入船千艘」とうたわれた洞海湾(どうかいわん)をつなぐ堀川で、水運の花形だった五平太舟(ごへいたふね)(川ひらた)の船頭向けに酒、醤油、わらじを売る商売を始めます。だが、商売下手で、苦しい生活でした。

●明治六年に、農民三十万人が加わった筑前竹槍一揆(たけやりいっき)が起きています。

●明治十九年、父が勉強好きの慶太郎に、学資無用の福岡師範学校への進学を勧めます。だが気が乗らないので、勝手に福岡県立英語専修修猷館(現、修猷館高校)を受けてパス。
父は学資は出せないと立腹。そこで親戚を回って、五十銭が二軒、三十銭が二軒、二十銭が一軒、合わせて五軒から毎月一円八十銭援助の約束を得て、両親に承諾させている。意志と才覚がすごいですね。
当時は三食付きの宿泊が十五銭で済(す)んだそう。成功してのち、それぞれ一万円ずつ返して感謝しています。

父 孔作  母 なを

●修猷館の授業は全部英語。英語が初めての慶太郎の成績は最低。しかし猛勉強で、二年度は優等の成績に。後年も英会話に不自由はしなかったそうで、頑張り屋でした。

●修猷館時代に、初代の文部大臣、森有礼(もりありのり)(弘化4~明治22・1847~1889)が、安場保和(やすばやすかず)(天保6~明治32・1835~1899)県令と学事視察参観に来て、英語による数学授業に立ち会っています。森は、維新後いち早く、廃刀令や断髪令、男女平等を主張したことで知られています。
慶太郎の間違った解法に有礼は「ううん」と頭をかしげ、すぐに訂正すると、「うん」とうなずいたそう。明治開化期の闊達(かったつ)な風景で、慶太郎が数えの二十歳、有礼四十一歳でした。
従兄弟(いとこ)に啓発されて、明治二十年秋に修猷館を中退して上京し、明治法律学校(現、明治大学)に三年学ぶ。学資も、親戚から支援アップの確約を得て、着実態勢での上京でした。
明治二十三年卒業して帰郷。

修猷館時代

●この二十三年から、北九州に陸送で鉄道、水運では洞海湾の港湾整備と、石炭の背景に革新の波が押し寄せます。その流れを概観(がいかん)すると、

明治二十一年発足した九州鉄道株式会社により、二十二年に博多と千歳川仮停車場(久留米)間に、九州初の汽車が走る。二十四年に若松と直方を結ぶ筑豊興業鉄道が開通。二十六年に直方、小竹間開通。三十年に九州鉄道株式会社に吸収され、四十年に国有鉄道に。
かつての石炭運送の主役であった五平太舟は姿を消しました。
鉄道開通と並行(へいこう)して、若松の風景を一変させたのが、大型船舶の接岸を可能にした、洞海湾の港湾整備の着手でした。
その役目を担ったのが、若松築港会社(現、若築建設株式会社)で、安川敬一郎ら筑豊炭田の坑業者たちの呼びかけに、渋沢栄一や、三菱、大倉、浅野らの中央資本が参加して明治二十三年に誕生しました。
明治三十四年は、日本の製鉄業と北九州工業地帯の核となる官営八幡製鉄所の溶鉱炉に火が点じられ、北九州工業地帯の幕を開(あ)けたのです。

妻 俊子
慶太郎

●こうしたパノラマを背景に、明治二十五年、慶太郎は法律家への方針を変えて、石炭商山本周太郎商店に入り、店主の義妹俊子と結婚します。俊子は物事にこだわらない人に好かれる性格で、希(まれ)に見る女丈夫(じょじょうふ)でした。
彼は一歳違いの新婦に、
「一、楽をしようとは思わないこと。二、住居に望みをいわないこと。三、給料を目当てに働かないこと。
私はこの信念に従って、商売に励む。お前が信じてくれるなら、必ず大成して見せる」と約束。
「分(わ)かりました。私もその信念に従います」と新婦の俊子。

●義兄で店主の山本周太郎にも、「給料は生活費のみでいい。仕事を通じて、経験もできる。知己も増える。信用という無形の財産を得て独立したい」と述(の)べ、了承させています。

●その時から、美術館の寄付の基盤が約束されている感じ。明治時代の人物の鮮烈さにしびれますね。
石炭の板目(いため)、柾目(まさめ)から始めて石炭学の猛勉強、そして次は石炭経営学の実践に。
“遠賀(おんが)土堤(どて)行きぁ雁(かり)が鳴く
家じゃ妻子が泣きすがる
喧嘩博打(ばくち)にすねた身は
川筋男(かわすじおとこ)の意気のよさ”
で知られる「飲んだ、張った」の世界に、慶太郎は目もくれない。さぞ“変わり者”だったでしょう。

●安田財閥の総帥(そうすい)安田善次郎が、石炭に興味を持って、安田銀行の若松支店長に、「若松一の石炭商を東京へ派遣せよ」と指示。二百五、六十の石炭商の中から、支店長が白羽の矢を立てたのは、石炭業界へ入ってまだ日の浅い二十代後半の慶太郎でした。

●明治二十七~二十八年に、日清戦争。

●明治三十三年五月一日独立して、佐藤商店に。店は二坪足らず、社員は夫婦と小学校卒の店員の三人でスタート。店は小さくても、すでに「若松の佐藤なら」「インチキのない正直な男」の信用を築いていました。

遠賀川水路図(「炭鉱の文化」より)

●さらに「石炭の神さま」と称される彼ならではの、革新の商法も生み出していました。

五平太舟に積まれた石炭を目分量で量(はか)っていたのを計量計算に。
水深の深い門司港岸壁に決(き)まっていた大型汽船の石炭積みを、風と潮を研究して「海上直(じか)積み」に。
陶磁器用、製飴業用、捕鯨船用に、火持ちや瞬間効率で適応する炭質の石炭提供など。

●その頃、生涯を決定づける本に出会います。甥の山本魯一郎の東京土産で、公共奉仕に生きた鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの伝記『立志の師表(しひょう) 成功の模範 カー子(ね)ギー』(子は子(ね)の刻の子(ね))でした。
木綿会社の糸捲(いとまき)小僧(こぞう)時代から、収入の十分の一を、慈善事業に捧げた生き方に深い感銘を受けたのです。

●明治三十三年独立。義兄に贈られた明治鉱業の株百株六千円の六割、三千六百円を奨学資金にと決意。
慶太郎三十三歳、奉仕人生のスタートでした。
最初に選ばれたのは、修猷館を首席で卒業した一高生の矢野眞で、後に外交官として活躍しました。彼に与えた言葉は「返済無用、次の世代に返せ」でした。

●明治三十七~三十八年。日露戦争。

●慶太郎が炭鉱経営に乗り出したのは四十一歳で、貝島から引き取った小さな炭鉱が当たり、ついで譲り受けた大辻第四坑と合わせて、従業員が千名。高江炭鉱と名付けました。
明治末年には、三池炭鉱夕張炭鉱などとともに、年産二十万トン以上の主要炭鉱に数えられ、美術館建設ほか、慶太郎の志を支えたのです。
成功の歩みでしたが、事業拡大は自己資金でと、堅実経営を堅持。「不景気のときは坑道を掘り進めて坑内を整備。回復すれば一挙に販売」が、慶太郎の流儀でした。

●大正十四年の冬。胃腸病に悩む慶太郎が、文化勲章受章一日二食の玄米主義者であった、東大教授二木謙三(ふたきけんぞう)の診断を受けます。
示されたのは、薬を飲むな、一日二食に、と意外な処方でした。
そこで慶太郎が、「先生の裸体拝見」と注文。所論を証明する健康体かどうかを確かめる手段でした。二木は「いまだ、かつて、患者にそんな注文をされたことはない」と、苦笑。二木説に従い、慶太郎は長年の胃腸衰弱に訣別(けつべつ)したのです。

ピラミッドの前で

●昭和六年、六十四歳で、日本貿易振興会主催の百十五日間の世界一周実業視察団に参加。資源の乏しい日本は加工立国と自得、福祉の実態にも触(ふ)れています。
夫人と観世の能に親しんではいましたが、事業と奉仕一筋の慶太郎に、天与(てんよ)の褒美(ほうび)の旅であったかと、ほっとする思いです。この時も慶太郎流。
土産一切無しで、俊子夫人を慌てさせたそうです。

●晩年は、「日本農士学校」と、「佐藤新興生活館」に、力を注ぎました。

●昭和九年文字通り人生のパートナーであった、俊子夫人が病逝(びょうせい)。六十六歳でした。慶太郎はその悲しみを抑え、知人への便りに「これからは、二人分働かねば」と記しています。
昭和九年喜代子夫人と再婚。昭和十五年一月十三日、流感が悪化して、別府の自宅で静かに志一筋の人生を閉じました。数えの七十三歳でした。

●終生の友人であった、バセドー病の権威、野口雄三郎博士は、
「思ひ出は無数にあるが、それらを一貫して流れてゐるのは、何と美しい人間佐藤の姿である。絶対に地味な生き方をした佐藤、贅沢(ぜいたく)を嫌った佐藤、金に負けなかった佐藤、約束を必ず実行した佐藤、真の愛国者であった佐藤、その時々の姿が思ひ浮かぶのである」と、慶太郎の死を悼(いた)んでいます。

日本のカーネギー
育英資金から、文化、医療、農業、新生活への奉仕人生

司会

後半生の慶太郎さんの歩みは、寄付、寄付、寄付。そして遺産のすべてまで。身の震える思いですね。

齊藤

それがみな半端ではない。よくそこまでも、の思いがしますね。
だがみな、彼の人生哲学に基づいたものだったのでしょう。
知恵と果断、努力と信念で積み上げた結晶だけに、社会のためにという大義がない者や努力が足りない者、甘えの輩(やから)には見向きもしなかったそうです。

司会

晩年に力を注いだ福岡農士学校と、佐藤新興生活館について。

齊藤

時代が変わって、今の人たちにはなかなか理解できないかもしれませんね。
昭和初期に農村の疲弊(ひへい)は極まり、軍部若手将校たちが決起した昭和七年、5・15事件の一因にもなりました。
慶太郎は、農村疲弊を根源から回復するため、農村を担(にな)う若い指導者、“農士”育成が肝要と考えて、福岡農士学校の支援に当たったのです。
農業は天の恵みを育(はぐく)み国民生活の基盤であるから、農士の誇りをもって生産に励み、農業振興に当たろうという、銃剣を駆使したパワーとは無縁の遠大な展望でした。
福岡近郊の早良、脇山に敷地を求め、安岡正篤(まさひろ)に師事した伊藤角一を学監に、社会の基盤になる農士づくりを目指した、研修道場でした。
石炭王の麻生太吉も、埼玉の日本農士学校に多額の援助を行っています。注目された新風だったのでしょう。

神田駿河台の 現 山の上ホテル

司会

川端康成ら、昭和を代表する作家たちが、小説を書いていたことで知られる、「山の上ホテル」も、その前身は慶太郎の理想図から生まれたと。いったい、どんな関係が…。

齊藤

慶太郎の関心は、日本人の生活向上でした。贅沢(ぜいたく)ではなく、心身ともに豊かな生活をと願ったのです。
富士山麓(さんろく)の聖者といわれた、山下信義の「我等いかに生くべきか」の考え方に共鳴し、ついで岸田軒造著の『汗愛主義に立てるほんとうの暮し方』に出会う。
この考えを生かす本拠として、昭和十二年七月に、駿河台一丁目、富士山を望む丘の上に、慶太郎の出資金三十八万円で、地上六階、地下二階のモダンな「佐藤新興生活館」が出現しました。
「美術館を寄付した佐藤翁(おう)の快挙」として、各新聞に掲載され、大きな反響を呼びました。
さっそく、「生活訓練所」を発足させます。期間は一年。入学資格は二十五歳までの、高等女学校長または、婦人会長らの推薦による女性でした。
機関誌『新興生活』を発刊し、二木謙三、朝日新聞の前田多門(まえだたもん)、戦後にノーベル平和賞候補に挙げられた賀川豊彦等、錚々(そうそう)たる人が寄稿しています。

樋口

育英資金から美術館、各種の支援、遺贈まで。社会に尽くされたお気持ちの厚みは、とても計り知れませんね。

西之原

若松の誇り、慶太郎さんは、まさに、日本のカーネギーでした。

齊藤

慶太郎没後、敗戦から戦後にわたっての諸般の経緯で、佐藤新興生活館は山の上ホテルに。農士運動も消えました。
すべては、時の流れですが、慶太郎が社会に尽くした志は、新しい東京都美術館に、私たちの心に生きています。

司会

志に還(かえ)」ですね。
忘れられていた郷土の誇り、「佐藤慶太郎」さんを、蘇(よみがえ)らせていただきました。胸の中が洗われるお話をありがとうございました。

佐藤慶太郎「志」の履歴

  • 育英資金の援助を始める。(33歳)
  • 健康状態から事業縮小。以後は社会奉仕に専念と決意。(53歳)
  • 東京府美術館の建設費百万円を寄付。(54歳)
  • バセドー病の世界的権威、野口雄三郎の別府病院建設費十六万円を寄付。
    以前に三年間のベルリンほかへの海外研究を支援。(55歳)
  • 財団法人若松救療会を設立、十万円を寄付。(57歳)
  • 母校、明治大学女子部の建設費、六千円を寄付。
  • 福岡市郊外早良の脇山に設立する「福岡農士学校」の建設資金集めに奔走。
    自分も五万円を寄付。翌年開校。(63歳)
  • 別府に温泉付き新居が落成、転居。若松の居宅を若松市に寄贈。市民利用の、佐藤倶楽部、佐藤公園となる。(67歳)
  • 丸の内ビルの仮事務所で「佐藤新興生活館」の開館式を行う。(68歳)
  • 佐藤新興生活館の農村部として、静岡県函南に農村中堅青年練成を目的に聖農学園を開設。(69歳)
  • 神田駿河台に総工費三十八万円を投じ「佐藤新興生活館」のビルが完成。第一回生活訓練所入所式。落成記念、時局生活展覧会。(70歳)

    *このビルは、現在の「山の上ホテル」。

  • 生活講座開始。機関紙『新興生活』を『生活』に改題。『生活費三割切り下げの提唱』が、NHKラジオで全国に。(71歳)
  • 昭和十五年一月十三日、急性肺炎で逝去。義と情に充たされた社会奉仕一筋の七十三年の生涯だった。(73歳)
  • 全遺産百八十万円は遺言により、すべて社会事業に寄付された。食糧協会経営食糧学校建設費・別府市美術館建設費・別府市体育館建設費・九州帝国大学国防工学研究所建設費・財団法人佐藤育英財団設立に配分して遺贈。

(年齢は数え年です)

齊藤泰嘉氏 略歴

昭和二十六年(一九五一)山口県山口市生まれ。千葉県佐倉市育ち。慶應義塾大学文学部哲学科美学専攻卒業。同大学院修士課程終了。
北海道立近代美術館、東京都美術館、東京都現代美術館に学芸員として勤務。
現在、筑波大学芸術学系教授。芸術専門学群芸術学専攻芸術支援コース担当。
佐倉市市民文化資産運用委員会委員長。美術史学会会員。美術評論家連盟会員。
著書『佐伯祐三』新潮社、『ロマン派の石版画』共著、岩崎美術社。
訳書『デイヴィッド・ホックニー(僕の視点ー芸術そして人生)』美術出版社。
博士論文『東京府美術館史の研究』。『佐藤慶太郎伝』

西之原鉄也氏 略歴

昭和二十八年鹿児島市に出生。昭和五十年鹿児島大学卒。同年北九州市に入職。
各分野を担当し、教育委員会教育次長、平成二十年より若松区長を経て、北九州市総務市民局市民活動推進担当理事。

慶太郎の胸像がある「佐藤公園」

北九州市若松区山手町一番口
高塔山登り口、白山神社前。

慶太郎が支援した「別府市美術館」

〒874-0023 別府市上人ケ浜町一の一
TEL 0977-67-0189

佐藤慶太郎伝・東京府美術館を建てた石炭の神様

福岡市石風社刊 三三四頁 定価二,五〇〇円
TEL 092-714-4838
●本シリーズバックナンバーはJR博多駅前の西日本シティ銀行本店4Fに用意しています。
●平成23年3月20日発
●本シリーズは、インタネットに遂次掲載中です。
http://www.ncbank.co.jp