No.18 世界の竜巻博士 藤田 哲也

対談:平成24年10月

司会・構成:土居 善胤


お話:
九州工業大学
名誉教授 富田 侑嗣氏
聞き手:
西日本シティ銀行
取締役専務執行役員 川本 惣一

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


藤田哲也博士 年譜>>

ミスタートルネード

藤田哲也博士

司会

今回の主人公は、北九州市小倉南区の中曽根出身の藤田哲也博士で、「世界の竜巻博士」として、たいへん有名な方ですね。

富田

それなのに、博士の偉業は地元でもあまり知られていない。残念ですね。

司会

博士の魅力とピカピカの業績を、明治専門学校(通称「明専」)の後輩である富田先生にうかがいます。

富田

学制が変わって、私は九州工業大学(九工大)の機械科卒業で、大学で「機械知能工学科」の学生たちを教えてきました。
博士は私の二十二年先輩ですが、シカゴ大学におられたので、身近に接することはありませんでした。
だが、とても気さくな方で、帰国されたときはよくお話をうかがっていました。
私は気象専門ではありませんが、機械科の後輩として敬慕の博士を語らせていただきます。

川本

日本では東日本大震災の記憶が生々しくて、「地震、雷、火事、親父」で、怖いものの筆頭が地震ですが、アメリカでは、竜巻なのですね。

富田

アメリカ人にとってトルネード〈竜巻〉は、身近な天災で、毎年千個ぐらいの発生が見られます。
世界の竜巻の約75パーセントに当たるそうで、アメリカは竜巻王国なのですね。だから、「竜巻学」を構築した藤田博士への敬愛の思いが深いのです。
日本人は、地震のマグニチュード(アメリカではリヒタースケール)に関心が高いのですが、アメリカ人は竜巻の基準である「Fスケール」なのです。

司会

そのFスケールを博士が。

富田

はい。藤田博士が昭和四十六年(1971)に生み出された。だからミスター・トルネードと呼ばれています。

川本

竜巻王国のアメリカで、博士が着目するまで、竜巻のスケールが無かった。不思議な話ですね。

富田

それで博士が強度順に、7つの基準をつくられたのです。
秒速17~32メートルでテレビのアンテナが揺れ、小枝が折れる軽度のF0から、想像を絶する被害をもたらす、秒速143~170メートルのF6まで、竜巻の規模と強度が、誰でも納得出来る明快なもので、すっかりアメリカ人の日常に溶け込んでいます。

※Fスケールは、建築、交通、インフラの進展に伴い、部分修正されています。

ORIGINAL 最初の発見は脊振山の「下降気流」

昭和22年(1947)脊振山頂で
観測した雷雲の断面図

司会

竜巻の基本スケールの生みの親。国際的な竜巻の大博士が、地元の北九州市出身とは嬉しいですね。

川本

博士の母校である明治専門学校は、明治四十二年(1909)の開学以来、九州工業大学の今日まで、日本の科学と産業を支え、世界に通用する人材を生み出してこられた。
その、輝きのお一人が、今日の主役の竜巻博士なのですね。

富田

飛躍の手始めとなった脊振山(せふりさん)の雷雲調査で発見された「下降気流」が、アメリカでの活躍をもたらした大変なオリジナルだったのです。
これがなんと博士が弱冠二十七歳の時なのです。

川本

新進気象学者の輝かしい初陣(ういじん)だったのですね。

富田

理学博士になられるのは三十二歳の時ですが、博士とお呼びしてこのお話を進めましょう。
博士の生涯を、一言で表せば、「オリジナル」に要約されるでしょう。
話は、昭和二十二年(1947)八月二十四日、明治専門学校の新進助教授のときに遡(さかのぼ)ります。
この日、博士は福岡県と佐賀県の県境に聳(そび)える脊振山頂測候所の、観測小屋で、大谷和夫所長と助手の三人で雷雲の観測をなさった。
脊振山麓の南西から強い雷雲(入道雲)が吹き上げ、山頂上空に達すると、秒速20メートル以上の強風が吹き、気圧計が狂ったように変動します。
測候所の自記計が捉(とら)えた風と気圧変化のデータを仔細に分析して、上昇気流に乗って空高く発達した雷雲の下部、脊振山頂の高さに、今まで知られなかった「下降気流」があることを検証されたのです。

司会

上昇気流でなく、下降気流が、なぜですか。

富田

まず雷雲のことを。夏の暑い日には、空気は地面で温められて上昇しますね。だが、上空は冷たいので、冷やされて結露する、これがおなじみの入道雲なのです。
結露は衝突を繰り返して大きくなると雨滴になる。寒い日は雹(ひょう)や霰(あられ)になりますが、これらは重いので、上昇気流の中でも落下する。その際、周りの空気を引っ張り込んで、「下降気流」が発生するのです。

司会

なるほど。

富田

そして、下降気流が乾いた空気の層を通ると、冷やされてさらに重くなり、下降速度が大きくなるのです。
後にお話しするダウンバースト(DOWNBURST)は、この下降気流がとても強いものなので、まるでバケツの水をひっくり返したようだと言われます。

川本

下降気流の発見は、大ホームランで。

富田

学界初のすごい発見でした。博士はこの発見を「雷雨の鼻の微小解析研究」として、西日本気象研究会で発表されたのです。
だが残念なことにすばらしいこの論文に学界の誰も見向いてくれない。まったく評価されなかったのです。

司会

がっかりですね。

ホーレス・ロバート・バイヤース教授

富田

だが、この観測が、アメリカのシカゴ大学の気象学の権威者、ホレース・ロバート・バイヤース教授(1906~1998)の下降気流発見と同時期のすごい発見だったのです。
それを知ったバイヤース教授が、博士をシカゴ大学へ招き、支援してくださった。まさに捨てる神あれば拾う神ありで、博士が世界の竜巻博士へ躍り出る大変な幸運でした。

川本

教授は、写真を見ても立派な風貌(ふうぼう)の方ですが、スケールの大きな、闊達(かったつ)な気象学者だったのですね。

富田

バイヤース教授は、アメリカ空軍の支援を得て、昭和二十二年(1947)から翌年にかけてフロリダ州とオハイオ州で雷雲研究のために「サンダーストーム・プロジェクト」を結成し、雷雲の中に生じる下降気流をキャッチしておられた。
軍の航空機を駆使し、約二百万ドルかけた大プロジェクトでしたが、藤田博士の発見は100ドルもかからなかったそうです。

川本

それは、また、愉快ですね。

シカゴ大学のバイアーズ教授のエールーゴミ箱から拾った幸運

藤田博士の竜巻のスケッチ

富田

そして、アメリカ気象学のすでに大御所的存在だったバイヤース教授と、日本の新進学者を結び付けるこの話には、ひとつの幸運がセットされていたのです。
脊振山にあるアメリカのレーダー基地が測候所と隣接していたのですね。その基地でゴミ箱に捨てられた紙クズの中にバイヤース教授の下降気流の原点となった論文があって、たまたまそれを見つけた気象台の職員さんが、博士に渡してくれたのです。
それで博士は、アメリカでも同じ研究が進められていることを知って、脊振山の雷雲の断面図を添えた英文のデータを、教授に送ったのです。

司会

不思議な巡(めぐ)り合わせでしたね。

富田

さらに、また面白い話が。となると、英文のタイプライターが必要ですが、空襲で焼け野が原になった敗戦後のこと、周辺にまともなタイプライターが、どこにもなかった。
そのタイプライターを、後に料理研究家として大活躍される江上トミさん(当時は北九州で料理教室を開かれていた)が持っておられた。
博士と身近な中村弘さんのお話では、幸いにも、博士が江上さんの一人息子さんの家庭教師だった。その縁(えん)で代金二万円(半額は拝借)で譲ってもらったのです。

司会

よかったですね。(笑)

富田

そのたいへんなタイプライターで、脊振山の発見をバイヤース教授に送られたのです。

川本

なんとも、いいお話で。

富田

そうして、バイヤース教授から、藤田博士にアメリカへの招待状が届くのです。
博士は恐縮して、「私はまだ博士ではないミスターです」と返事をすると、「では早く学位をとっておいでなさい、待っています」との返事。こうして、アメリカでの竜巻研究の道が開けたのです。

川本

太平洋を隔てて、気象学の大家と新進学徒の気持ちの通じ合う、いいお話ですね。

さあ、竜巻の本場アメリカへ

富田侑嗣氏

富田

そうして、昭和二十八年(1953)に、東京大学理学部の正野重方(しょうのしげかた)教授に提出した論文がパスして、晴れて理学博士になられます。
このときも陰(かげ)に大きな支援が。後の第一次南極観測隊長として有名な永田武教授が、シカゴでバイヤース教授と会われたとき、藤田博士の話題が出て、東大の正野教授への斡旋につながったのだそうです。
また、上京ほかの取得経費は、地元の大谷賢(おおたにまさる)医師が支援されています。

司会

次々に協力者が現れて。博士の真摯(しんし)な姿が周囲の人たちの気持ちに触れたのですね。

富田

正野教授は大学卒ではない博士の論文に感嘆して、ゼミの東大生たちに、君たちも励まなくてはと話されていたそうです。
こうして、誕生した三十二歳のホカホカの新理学博士が、直ちにパンアメリカン機であこがれのアメリカへ飛ぶのです。

川本惣一

当時は外貨の持ち出し制限もあって、サンフランシスコから、大陸横断鉄道の切符代を払えば残金は僅(わず)かに二十五ドルしかなかったそう。途方に暮れている博士を、一泊した草野ホテルの支配人が、返済はいつでもいいよと二十ドル貸してくれたそう。嬉しいですね。
こうして八月十二日に待望のシカゴ駅に到着。教授秘書の出迎えを受けて、竜巻博士の新しい未来が開けたのです。

川本

それにしても、バイヤース教授との出会いには、国境を越えた、ふれあいの機微(きび)を感じます。胸をうたれますね。

アメリカ市民に溶け込んでファーゴの竜巻調査

富田

博士は査証更新のため、一旦帰国しますが、シカゴ大学客員研究員として夫人と幼児の和也(かずや)さんを連れて再渡米。アメリカに腰を据えて次々に成果を挙げられたのです。

司会

いよいよ「竜巻」との「ご対面」ですね

富田

実は、脊振山の気流調査の翌年昭和二十三年に筑後の「みやま市」(旧、瀬高、山川、高田町が合併)の「江の浦(えのうら)」で起こった竜巻調査をされていますが、アメリカで竜巻との対面はこれからですね。
そして渡米から三年後の昭和三十一年(1956)、三十六歳でシカゴ大学メソ気象学研究計画主任となります。
「メソ気象学」(MESO-METEOROLOGY)は、日本全土を対象とする予報のような広域の「総観気象学」とは別の、竜巻や雷雨や集中豪雨といった、極めて局地的なジャンルです。
翌昭和三十二年(1957)にノースダコタ州ファーゴ市に強い竜巻が起きました。この竜巻の速度が遅かったので、土地の人たちがたくさん写真を撮っていることが、ニュースの話題になっていました。
まさにメソ気象学の対象で、バイヤース教授に勧められて、渡米後初の竜巻調査を担当したのです。

川本

メソ気象学の腕試(うでだめ)しですね。

富田

まさにですね。早速、現地へ飛び、テレビ局で、竜巻の情報をと呼びかけると、百枚以上の写真に五本の映画フィルムと、たくさんの情報が集まった。博士はそれを持ち前の丹念さで、分析して、見事な論文にまとめられた。
このレポートは話題になって四十五セントで完売。もっと高くすればよかったのにと、協力した市民に言われたそうですから、アメリカの研究生活に溶け込んだ博士の姿が浮かびますね。

川本

これで、アメリカの竜巻とすっかり親しくなられた。(笑)

富田

それに市民との取材で、円滑な会話や、論争に負けない英語力もマスターされた。その後の研究活動に大変なプラスだったそうです。

『竜巻とは』

積乱雲(入道雲)や積雲に伴って発生する空気の細長く強い渦巻。発生から短時間で消滅し、その直径も数mから最大でも1000mと台風などに比べると小規模であるが、風速が極めて強く、これが大きな被害につながる。
これらの雲に上昇する空気が吸い込まれて行くが、これに何らかの原因で回転が加われば、竜巻となる。
竜巻の元となるのは急速に発達し回転を伴った「回転雷雲」であるが、藤田博士は米国気象局の飛行機から世界で初めて1961年4月に写真撮影に成功している。

メソ気象学のヒーロー そして衝撃の「親子竜巻」

1971年に藤田博士が予言した
子竜巻の想像図。
1979年に証明された。

司会

そうして、三十代から四十代にかけて、従来の気象学とは別ジャンルの、「メソ気象学」を確立されたのですね。

富田

当時日本では、局地解析を総観気象学と対比して、「マイクロアナリシス」と呼んでいました。
だが、アメリカのマイクロの定義はさらに小さいので、研究対象をマイクロと総観の中間という意味で「メソ気象学」と命名され、学界でもその範囲を、「メソスケール」と呼ぶようになったのです。
この研究が注目されて、アメリカ気象局からシカゴ大学に共同研究の提案があり、NASA(米国航空宇宙局)も気象衛星で雷雲の研究を始め、メソ解析の機運が高まりました。

川本

まさに、上昇気流で。

富田

博士は、NASAの協力を得て、雷雲にジェット飛行機で挑み、竜巻のヒミツを次々に解明。
博士たちが、ジェット機で行った雷雲探査は、“藤田エアフォース”として知られています。
「メソ解析ブーム」で、大学も博士の研究所をつくり研究員が十五名を超えるなど、メソ解析の黄金時代を迎えたのです。

司会

まさに順風満帆(じゅんぷうまんぱん)ですね。

富田

ところがそれが長く続かない。竜巻研究が定着すると、驚きが当たり前になって、今度は、予算や支援のダウンが始まる。

司会

照る日、曇る日で。(笑)

荒城の月英訳

富田

博士は「研究の成功は、研究費の暴落」と苦笑しながら、愛誦(あいしょう)された「荒城の月(作詞土井晩翠(つちいばんすい)、作曲瀧廉太郎)」の、
天上影は変らねど
栄枯(えいこ)は移る世の姿
を、異国の月光に痛感されたそうです。
博士の英訳がありますよ。

司会

だが、博士はくじけない。その逆境をはね返す衝撃の論文が生まれたのですね。

富田

それが「親子竜巻」だったのです。昭和四十六年(1971)、五十一歳の時に、Fスケールを発表された同じ年ですが、大竜巻の中に、子竜巻があって、メリー・ゴー・ラウンドのようにぐるぐる回っているという、気象学界に衝撃を与えたユニークな親子竜巻の二重構造のモデルを発表されるのです。

司会

気象学者の度肝(どぎも)を抜く、発想だったとか。

富田

竜巻の痕跡(こんせき)を丹念に調べての成果で、誰も考え付かない竜巻の二重構造を発見されたのです。
風速と風向きの違う親子の竜巻が一緒に移動して、子竜巻の渦の風速は親の約倍であることを突き止められた。学界で喧々囂々(けんけんごうごう)の論争になりましたが、結局、竜巻の約七割が子竜巻を伴う二重構造であることが確認されたのです。
親子で竜巻の風向きも違うことが分かったので、竜巻対応もこれまでの窓をオープンから、クローズに変わったそうです。

川本

まさにミスタートルネードの、面目躍如(めんぼくやくじょ)ですね。

富田

そして、博士の真骨頂が発揮される大アクシデントが起きるのです。

イースタン航空の墜落事故で

福岡航空測候所
空港気象ドップラーレーダー局舎

司会

それが、博士の名声を不動のものにした、イースタン航空の墜落事故だったのですね。

富田

昭和五十年(1975)六月二十四日に、ニューヨークジョン・F・ケネディ空港で起きた墜落事故です。
着陸態勢に入ったイースタン航空66便727型機が、地上150メートルのところで、強い下降気流に突入して地面に激突し、死傷者115名という大惨事になったのです。
事故はパイロットの操縦ミスによる着陸失敗と断定されましたが、納得できないイースタン航空が、竜巻博士に再調査を依頼したのです。
博士は、当時のフライトレコーダーや、気象を詳細に解析して、これは、異常気象の「ダウンバースト」によるもので、不可抗力の事故だったと裁定されたのです。

川本

大逆転ですね。博士は勇気ある学者だったのですね。

富田

高速で飛翔(ひしょう)している高空であれば、単なるエアポケットで済んでいたでしょう。
だが、このケースは着陸態勢の低空低速だったので、激突が避けられなかったのです。
727機が低速で着陸態勢に入り、一方、雷雲から秒速60メートルの新幹線並の速度でダウンバーストが下降し、地面に激突して周囲に放射状に巻き上がります。

川本

その激風で地面に叩きつけられたのですか。

富田

そうですが、すこし詳しく説明しましょう。
機が着陸時にダウンバーストに突入する際、強い向かい風で機体が浮き上がるので、エンジンの出力を落とします。だが、ダウンバーストの下降気流に入ると、機体が一気に地面に押されるので、今度はエンジン出力を上げなければならない。
でも、ジェット機は、エンジンの応答速度が少し遅い。即座に出力が上がらず、あっという間に失速して、地面に叩きつけられたのです。

司会

パイロットはどうしようもなかったので。

富田

その余裕がなかった。
局地的、瞬時の気象の激変ですから、前後に相次いで離着陸した、他の航空機は難に遭(あ)っていないのです。
博士は、こうした論証から墜落の原因は「ダウンバースト」と推定して、パイロットの操縦ミス説を否定されたのです。

司会

抵抗も強かったでしょうね。

富田

多数の気象学者が反対で、事故時の風は昔から知られているガストフロント(突風前線)で、別段の発見ではない等々、否定の意見が強く、ある雑誌では賛否の投票まで行っています。
博士には眠れない日々が続いたそうです。

司会

つらいですね。

富田

だが、バイヤース教授の励ましや、以前から変な気象に気がついていたパイロットたちの支持が、大きな支えになったそうです。
さらに、当時アメリカに三基しかなかった最先端の「ドップラーレーダー」を総動員しての実験で、自説の確かさが立証されたのです。
そして下降の「ダウン」と、爆発的に広がる「バースト」を組み合わせて事故の激風を、「ダウンバースト」と命名。以降、気象学用語として、定着し、博士の名を高めたのです。

司会

博士の解析で、今後の事故発生を防げた。大きな功績ですね。

※論争にとどめを刺したのは、八年後の昭和五十八年(1983)に、レーガン大統領の専用機エアフォースワンが、着陸した六分後にダウンバーストが吹いて、格納庫を吹っ飛ばした事故であった。肝を冷やした空軍があらためて対策の検討を始め、博士の論説の正当性が認められた。

富田

さらに博士は、ダウンバーストの事故を防ぐために、ドップラーレーダーの設置を提言。現在は多くの飛行場に設置されていて、ダウンバーストによる航空事故はほぼなくなったと言えるでしょう。

輝く受賞歴第一号は母校小倉中学の「第一回理科賞」

小倉中学時代に博士がつくった
「小倉中学校近傍図」

川本

博士の受賞歴もすごいですね。名誉から、気象関係を、総なめで。

富田

名誉の受章は皇居で下賜される、「勲二等瑞宝章(くんにとうずいほうしょう)」です。
博士は円滑な研究のためにアメリカの市民権を保有されましたが、この栄誉は、日本人藤田哲也の感激の極みであったでしょう。その喜びが、当時の消息から汲(く)み取れます。
また、日本気象学会の最高の名誉である、藤原咲平(ふじわらさくへい)博士(明治17年~昭和25年・1884~1950)の「藤原賞」受賞がありました。

司会

そして、シカゴ大学から、名誉の称号も受けられて。

富田

アメリカの大学の慣習に、大学への貢献者の名を付した、特勲の名称システムがあります。
学長の懇請で、博士は、「チャ―ルズ・E・メリアム特勲名誉教授」の称号を受けられ、博士の書信のレターヘッドにもこの称号が付せられています。

司会

喜ばれたのは。

富田

昭和四十年(1965)の母校九州工業大学の「第二回嘉村賞(かむらしょう)」と、平成元年(1989)の「フランス航空アカデミー」の金賞だったのでは。
飛行機好きの博士は、話題の超音速機コンコルド送迎のおまけ付きで、機長室に座れてご満悦の写真も。

川本

そして嬉しいのは、博士の受賞歴の一番最初に、母校旧制小倉中学(現・小倉高校)の第一回理科賞が挙げられていることですね。

富田

第一回ですから、秀才、藤田少年のために設けられた賞なのかもしれません。受賞歴の中でも、ピカピカに光っている。(笑)

※嘉村賞 明専第一回生で、アメリカ留学を経て、母校の教壇に立ち学長にいたるまで、三十六年間大学の発展に寄与した嘉村平八(かむらへいはち)(明治23年~昭和42年・1890~1967)を記念する賞で、顕著な科学業績をあげた九工大関係者に贈られる名誉の賞。

科学少年が25歳で原爆調査(明専時代)

昭和9年(1934)の藤田家。
父友次郎(42歳)を囲んで、
後列左より祖母はつ(63歳)、
母よしえ(32歳)、哲也(14歳)、
前列左、妹閑子(8歳)、右碩也(6歳)

司会

博士を生み出した、少年時代から、飛躍のバネ時代である明治専門学校時代を振り返って、若き日の博士像を。

富田

博士は、当時の福岡県企救(きく)郡曽根町、今の北九州市小倉南区中曽根、北九州空港の西9キロのところに、小学校教員だった友次郎氏と母よしえさんの長男として、大正九年(1920)十月二十三日に出生。弟の碩也(せきや)さん、妹の閑子(しずこ)さんとお祖母ちゃんの六人家族でした。
父君は、遠浅の曽根の海岸に博士を連れ出し、潮の満ち引きが、月の引力によることを教えたり、博士の科学への芽を生きた教育で育てられましたが、結核で博士が中学五年の卒業直前に亡くなられています。

司会

周辺に知られた秀才少年だったのでしょう。

富田

早くから科学少年ぶりを発揮しておられたらしい。
小倉中学時代には眼鏡のレンズを使って望遠鏡を作り、太陽の黒点の観測をしたり、数学の対数計算を習う前に自分で考え出したり、友人の戸田君と平尾台付近に未踏の鍾乳洞を探検して、藤戸洞と名付けたりと。

川本

先生も一目置く秀才で。

富田

こんな話があります。修学旅行で、耶馬溪(やばけい)の青(あお)の洞門(どうもん)を訪ねたときに僧の禅海(ぜんかい)が三十年かけて洞門を掘削(くっさく)したのだと聞いて、「私なら、十五年かけて、掘削機を作り、後の十五年で洞門を掘削する。そうすれば、メカとノウハウで、あちこちの洞門を掘削できる」と言って、先生から大目玉を喰らわれたとか。(笑)

川本

茶目っ気もあったのですね。そして、明治専門学校に。

富田

病弱の母親、弟妹を抱えてすぐに働かねばという哲也少年に、当時の小倉中学や明専の校長先生らがエールの手を差し伸べ、哲也青年も家庭教師で補って、明専での勉学に専念できたのだそうです。
明専時代には、地質学の松本唯一(まつもとただいち)教授のお供をして、九州各地や朝鮮まで地質探査をされている。
松本教授は英文で書かれた阿蘇山の論文で、国定教科書が訂正されたり、後年昭和天皇への御進請もされているたいへんな碩(せき)学の方で、地質探査で歩きながら、地図の誤りを正していかれるので、博士はびっくりしたそうです。
さらに、地図の等高線から立体的な図面を作り出すことも教えられて、これは後年の気象図の作成にも大きく役立ったでしょう。

司会

明専助教授時代に、原爆調査に当たられていますね。

富田

当時、二十五歳。立派な観測に頭が下がりますね。
学校が派遣した長崎原子爆弾調査団に、物理学の助教授であった哲也青年も志願して浦上へ。
被爆の凄愴(せいさん)さに目を見張りながら、真夏の炎天下に三日間で的確な調査をなさっている。樹木の倒れ方や焦(こ)げ方、墓地の花受けの竹筒の焦げ方の角度から、直下地点(グラウンド・ゼロ)の爆発の高度を地上約520メートルと推定されている。
そして、二週間後には、広島へ。推定した爆発高度は、地上約530メートルで、鉄柱の倒れ方から推定した原爆のエネルギーは、長崎の方が、20パーセント大きかった。
後に、広島はウラン、長崎はプルトニウムの違いと知ったと。

川本

原爆の落下直後に、爆破原点で調査活動をして、よく放射能被害にかからなかったものですね。

長崎原爆より倒れた樹木の方向

富田

晩年に足痛に悩まされますが、放射能と結びつくのかどうか…。とにかく、変事に即応、ただちに駆けつける科学者魂の方だったのですね。
この原爆体験は、後の、ダウンバーストの研究でも、激風の算定に役立っているようです。

※広島と長崎の「原子爆弾資料館」に照会したところ原爆破裂の推定高度は、広島約600メートル、長崎503メートル(±10メートル)とされています。

定年後もアメリカで研究―メソ哲学と、カマキリ観察の日々

博士が使用していた竜巻の実験機器。
機器の多くは、母校・九州工業大学に
保管されている。

司会

博士の晩年は。

富田

晩年に帰国された博士を迎えた歓迎会で、教え子の鶴島正男(つるしままさお)さん(「火野葦平記念館」館長)が「今、何を一番、なさりたいですか」と尋ねますと、「ジェット機で台風の目の中を飛んでみたい」と言われたとか。
まだまだ意気盛んだったのですね。

司会

定年後も、アメリカで研究生活を。

富田

七十歳でシカゴ大学の定年を迎えられた時、アメリカに残ろうか、帰国して日本で研究を続けようかとずいぶん迷われたようです。
でも、最後はアメリカでの研究生活を選ばれた。それは、定年後も、大学から研究室と、助手と、研究費が保証され、NASAほかの支援も持続されたからでした。
博士の記録によれば、支給された三十五年間の研究費は、平成二年(1990)の貨幣価値に換算すると、二十六億円相当になるそうです。
研究を存分にさせてくれたアメリカとシカゴ大学への恩義、感謝の思いでもあったでしょうね。

司会

で、私的な日常は。

富田

科学者らしい几帳面だが、ユーモラスな一面が、博士の魅力でもあったようです。
統計と、データの収集好きは、私生活でも存分に発揮され、晩年の血圧や糖尿病、足痛までの健康管理、そして財務まで、データが克明に整理され図表化されていて、ドクターも舌を巻いたことでしょう。
かといって、研究ばかりの日常でもなく…。散歩コースの菩提樹(ぼたいじゅ)の並木の美しさ、特に春先の黄色い花の下をすみ子夫人と一緒に散歩して、菩提樹の歌をハミングされたり。
またカマキリの卵を取り寄せて庭で観測したりと、研究の合間に、よき憩いタイムを過ごされている。

川本

ほっとする一面もお持ちだった…。

富田

夫人とのアメリカ大陸からヨーロッパにかけての、広範な旅行、そして、弟の碩也ご夫妻との二カップルで行く日本の温泉旅行をなによりの喜びとされていました。
ご子息の和也氏も、ミシガン州立大学の地質学の教授として活躍され、竜巻をセットした電気スタンドの見舞いに博士が大喜びだったとか。

司会

博士の、「メソ哲学」があるそうで、それを結びに。

富田

よく知られている博士の言葉が載せられています。

  • 「コンピューターは高速で忠実な道具だが、考える力が無い。複雑で、未知の現象を発見するのは人である。」
  • 「低確率の事故や事件は、起こらないと思う半面、最低確率の宝くじには当たるだろうと思うのは、個人の願望にすぎない。」
  • 「学生に教える以上に、学生に教わるのがよい教師で、患者に教える以上に患者に教えられるのが名医。その逆もまた真である。」
  • 「すべての薬には正作用と副作用があり、正作用は病気を治すが、副作用は次々に薬害を体内に残すので、高齢者や特殊体質者の苦しみや、また死の原因にもなる。」

等です。

川本

明快で、なるほどですね。

富田

最後の二年は、足の痛みで病床にありましたが、研究所が自宅から近かったので、ベッドから助手たちに研究を指示される日常でした。
また、膨大な資料を駆使して、赤道付近の東太平洋の海水温度が世界の気象に影響を与える「エルニーニョ現象」に関する新説を発表されています。だが、論争以前に亡くなられて…。

川本

研究意欲は、晩年になっても旺盛で、さすがに竜巻博士ですね。

彼のいない世界は少しつまらない

竜巻とイナビカリ

富田

博士は平成十年(1998)十一月十九日に気象学者として、栄光に包まれた、七十八歳の生涯を閉じられました。
テレビで早速追悼番組が放送され、平成十二年(2000)には、米気象学会による記念シンポジウムが開催されています。
「藤田賞」(T. Theodore Fujita Research Achievement Award)が、新設され、博士による十数個の学術用語が認定されています。 小柄な方でしたが、気象学会の巨人でしたね。
竜巻博士を悼(いた)む声が次々に寄せられました。
同僚たちは「博士は大気中のあらゆる現象を見抜く天賦(てんぷ)の才能の持ち主だった」と追慕し、アメリカの気象専門誌「ストームトラック」は博士を惜しむ、学界の人たちの声を載(の)せて、博士の成果と人柄を讃えています。

  • 彼との出会いは、私には、ローマ法王との出会いに等しかった。彼の暴風科学に対する影響は計り知れない。彼のいない世界は少しつまらないものになるだろう。
  • フジタは、私がこれまで出会った中でおそらく、最も独特の才能を持つ人物だった。彼とともに働けたのは並外れた幸運だった。

等々。

川本

博士の卓越した研究と真摯な人柄がうかがえますね。

富田

研究も私生活も満たされて、幸福なご生涯だったでしょう。
アメリカのマスコミは逝去を大きく伝えて悼みましたが、なぜか祖国の日本では地味な扱いで、残念でしたね。
博士の「ふるさとの地で眠りたい」との遺言で、今は北九州市小倉南区中曽根の円光寺の御両親の墓地に安らかに眠っておられます。

司会

博士は日本人の誇りの方ですね。遠い存在だった、世界の竜巻学者、藤田哲也博士が、すっかり身近な方になりました。
ありがとうございました。

富田侑嗣氏 略歴

昭和十七年大連生まれ。修猷館高校から九州工業大学、東京大学大学院で学び工学博士。九州工業大学に奉職。専門は機械工学。

「哲ちゃん先生」

中村 弘 氏

先生の最初の生徒でした

私は、後に世界の竜巻博士となられる藤田哲也先生に、親しく教えていただいた、最初の生徒の一人です。
戦時中は、先生方の応召で旧制小倉中学も、教員不足でしたから、中村亀蔵校長先生が、明治専門学校生で秀才であった藤田先生に代用教員をお願いされたのでした。
先生はお父上が亡くなられ、病身の母上に妹さん弟さんを抱え、進学をあきらめておられたそうです。
だが、先生の挫折を惜しんだ、当時の波多野俊夫校長先生が、明治専門学校の中川維則校長先生に相談して、授業料の免除や、旧殿様の小笠原奨学金(おがさわらしょうがくきん)や、明専の松本唯一教授の個人助手にと、エールの手を差し伸べられたのです。
先生も家庭教師をして、明専で勉強を続けられたのです。

※母上は明専時代に、小学教員の妹さんも若くして亡くなられ、先生と弟の碩也さんとの若い兄弟二人がのこされました。

先生は、中学と明専で、結核で一年ずつ休学されている。だがすぐに復学されて、幸運の方ですね。
先生の授業は物理と数学でしたが、テキストが毎回手作りの謄写版刷(とうしゃばんず)りで、新鮮な授業でした。
教課以外に、科学組と生物組の活動が活発でしたが、先生は科学組の担当でした。天体観測から、地質学、物理現象と、興味満点のわくわくする課外教室で、次の授業が待ち遠しくてなりませんでした。
一例を挙げますと、昭和二十三年五月九日の日食観測がありました。先生は、北九州地域の四十六カ所の観測ポイントを指定し、生徒や協力者を二人ずつ張り付けて、日食を観察させ、十五分ごとに、風向き、風力、温度を克明にレポートするよう指示されたのです。
多分、測候所顔負けの調査だったでしょう。先生の観測のお役に立てるとみんな一生懸命で、私も母の手を借りて、守備ポイントの観測をしました。
観測点に張り付いた生徒は八十三名。今も集まるたびに話題になる楽しい思い出です。
親しく教えていただいたのは、私たちと、二年上級の二年度の生徒たちでした。今も母校懐古で、懐かしの先生に代用教員だった先生を挙げる連中が多いのです。
私たちは、先生を「哲ちゃん先生」と呼んでいました。
先生方に失礼なニックネームもありましたが、「哲ちゃん先生」の呼び名に私たちニキビ面(づら)が先生に捧げた、親しみと敬慕をお汲み取りください。
先生は、ご両親を早くに亡くされたこともあって、親を亡くした生徒には、格別の思いやりを示される優しい方でした。
私も父を亡くしていましたせいか、先生に目を掛けられ、すみ子奥様との結婚式には母とともに招かれ、わが家にご夫妻がお泊まりになったことも。

九州工業大学の「百周年中村記念館」にミスター・トルネード「藤田ギャラリー」

先生の記念館構想が幾度も盛り上がり、ちょうど故郷の曽根地区に北九州空港ができましたので、先生の名を冠した空港名にと尽力しましたが、日本にはそうした前例のなじみが無く、また箱ものへの見直しもあってか記念館も挫折。
シカゴ大学の研究遺品は、九工大で大切に保管していただいていますが、ほとんどが地味な英文のレポートや、関連資料で、一般の展観にはなじみませんね。
北九州市が生み出した、世界に誇れるミスター・トルネードの顕彰のお役に立ちたいと、旧制小倉中学、旧明治専門学校のOBたちが、地域の方たちと、話し合ってきました。
幸いに、明専先輩の中村孝(なかむらたかし)氏の浄財の基金をもとに、実現した母校九州工業大学の「百周年中村記念館」に、「ミスター・トルネード 藤田ギャラリー」が生まれました。
北九州市の誇りである、城内の輝かしい文学館とともに、いつの日か、日本の産業を支えた、北九州工業地帯を代表する科学館が設置され、先生の偉業がさらに顕彰されることを願っています。

中村弘氏 略歴

旧制小倉中学を経て、明治専門学校電気科を昭和二十六年卒業。八幡製鐵から、新日本製鐵、日鐵電設、北九州国際技術協力協会の要職を歴任。恩師藤田哲也博士の顕彰に尽力。

竜巻博士の私家版の「自著」があります。

ある気象学者の一生』(A5 94頁)
兄 藤田哲也著・弟 藤田碩也編集
(1996 6月)価700円
照会は「藤田哲也記念会」事務局長 橋本昭雄氏へ
TEL093-471-6730
E-mail : ayugorouhs@aol.com

『ある気象学者の晩年』藤田哲也著・藤田碩也編集(1997 3月)は絶版です。

※掲載の写真資料は藤田哲也記念会提供。その他、内外の資料から、博士の回想を引用させていただきました。それぞれの源泉にふれていませんが、博士の輝きを伝えるためと、なにぶんのご了承をお願いいたします。