No.19 小倉藩 十五万石 『豪商と大庄屋の日記』
豪商 『中原嘉左右日記』
大庄屋 『中村平左衛門日記』『小森承之助日記』

対談:平成27年8月1日

司会・構成:土居 善胤


お話:
元・北九州市立自然史・歴史博物館 参事 永尾 正剛(まさのり)氏
聞き手:
西日本シティ銀行 取締役常務執行役員 定野敏彦

※役職および会社名につきましては、原則として発行当時のままとさせていただいております。


①「三日記」と小倉藩のフレーム

小倉変遷 年譜

小倉藩領(ゴシックは現代地名)

司会

以前、米津三郎先生と永尾先生に、『小倉城物語』(北九州に強くなろうNo.4)を伺いました。
今回は、幕末から明治へ。「小倉戦争」の時代を背景に、記された「三つの日記」と、関連して興味深い「庄屋さん」のお話を。

永尾

ユニークな「三日記」は、城下町人の中原嘉左右(なかはらかぞう)」と、農村代表の大庄屋中村平左衛門(なかむらへいざえもん)」、「小森承之助(こもりしょうのすけ)」の日記です。
支配者側の武士ではなく、小倉藩の裏方が記した貴重な記録です。

司会

まずは、三日記の背景の小倉藩のフレームから。

永尾

小倉小笠原藩十五万石の領地は、城下町の小倉と、在方(ざいかた)の六郡三百六十八村で構成されていました。
六郡は、今の北九州市小倉南、北、門司区一帯の「企救(きく)」九十五村。筑豊の「田川郡」六十三村。行橋(ゆくはし)、苅田(かんだ)方面の「京都(みやこ)」六十六村。犀川(さいがわ)、豊津、行橋東南部一帯の「仲津郡」七十四村。築城(ついき)、椎田(しいだ)、豊前(ぶぜん)市方面の「築城郡(ついきぐん)」三十九村。豊前、吉富方面の「上毛郡(こうげぐん)」三十一村でした。

定野

小倉十五万石は、結構広いのですね。

  • *村の数は小倉藩の『天保郷帳』による。
  • *上毛郡は七十三村だが、中津藩領十六村と小倉藩の支藩・千束(ちづか)藩の二十六村を除く小倉藩領は三十一村。
  • *明治二十九年(1896)築城郡と上毛郡が合併し築上郡となった。
  • *小倉藩の人口は約十四万五千人。内、武家方は武士・足軽・使用人・家族まで約一万一千人(慶応二年)。

永尾

城の周りを武家屋敷が囲み、その周辺と紫川東部に町人たちの町があるのが城下町の小倉。小倉は武家と町人の町です。
一方、十五万石の米を生み出すのは、三百六十八村の農民で、村それぞれに、農民を束(たば)ねる庄屋がいました。その上に、十数カ村を統括する大庄屋がいます。

定野

庄屋さんは、いまの村長さんで。

永尾

イメージは似ていますが、村長さんは村民に選ばれた民主的なリーダー。庄屋は、藩の行政官である郡奉行(こおりぶぎょう)の任命で、一番の責務は藩の財政を支える年貢(ねんぐ)確保と村内の治安でした。
小倉藩の行政前線の責任者で、農民の相談に乗る役目もありました。

  • *大庄屋は郡代(ぐんだい)が任命します。小倉藩では、郡奉行のことを筋奉行(すじぶぎょう)といっていました。

小倉小笠原藩十五万石

定野

小倉藩は、九州の大名の中では。

永尾

江戸時代末期の大名の石高でみれば、島津七十七万石がトップで、肥後細川五十四万石。筑前黒田五十二万石。肥前鍋島三十五万七千石。久留米有馬二十一万石に次ぐ、九州では六番目の小倉小笠原藩十五万石です。
ついで、柳川立花の十万九千六百石。中津奥平(おくだいら)十万石。対馬の宗十万石格。延岡内藤七万石。岡竹田(岡藩)中川七万石。唐津小笠原六万石。平戸松浦(まつら)六万石。飫肥(おび)伊東五万一千石。臼杵稲葉五万石と続きます。(以下略)
幕末の小倉藩の米の生産高、実際の内高は、新田開発などもあって、十九万石から二十万石でした。

定野

小倉藩は、まずまずの石高で。

永尾

島津、細川、黒田に並ぶ雄藩ではないが、開祖が家康曾孫(そうそん)の忠真(ただざね)で、関ヶ原戦後三十二年の寛永九年(1632)に入国。
幕府勢力の九州への浸透をはかったもので、譜代(ふだい)大名として九州の外様(とざま)雄藩の抑(おさ)えに任じられ、海を隔(へだ)てて長州藩を看視する役目も担(にな)い、「九州探題(たんだい)」と自負しています。

  • *「九州探題」鎌倉、室町時代に、将軍に代わり、九州の政務、訴訟軍事の大権を握る役名。

街道の要衝小倉

定野

さらに小倉藩は本州と九州の接点で、関門海峡を押さえ、地の利が抜群でしたね。

常盤橋の西勢溜(たまり)
(村田応成画「豊国名所」)

永尾

何よりも、西国各藩の領米と物産の集結地で情報センターである大坂と、船で結ばれていました。
藩米を預かっていた在方行事(ざいかたぎょうじ)村(現・行橋市)の豪商、飴屋(あめや)と、三日記の一人、小倉の豪商中原嘉左右の中原屋(なかはらや)や、小倉の商人にとっては、大坂は隣町の感覚だったかもしれませんね。

  • *「大阪」は、明治以後の名称。江戸時代は「大坂」でした。日記は大坂で記されている。

小倉は長崎街道の始発点で、九州の諸藩は参勤交代(さんきんこうたい)の上(のぼ)り下(くだ)りに、小倉の常盤橋(ときわばし)一帯の鍋屋、皿屋、枡屋(ますや)、村屋、大坂屋、銭屋などを、本陣旅館としました。
その諸般の世話にも小倉の商人が当たっていました。すべての面で活気ある城下町小倉でした。
隣藩の黒田藩は、自領の黒崎から下関へ船で。また他藩と同様に、小倉を経由して本陣の銭屋も利用しています。

司会

日本列島を踏破(とうは)し、精緻(せいち)な日本地図をつくった、あの伊能忠敬(いのうただたか)(延享二 1745~文政元 1818)も。

永尾

文化六年(1809)暮れに常盤橋東の大坂屋へ泊まり、以降四年の間に、門司往還、中津街道、秋月街道、長崎街道、唐津街道、の小倉の五街道を測量しています。
幕末に開明の窓を開いた、ドイツの医学者で博物学者のシーボルト(1796~1866)も、オランダ商館長に従って長崎から江戸へ向かう途路に、文政九年(1826)大坂屋に泊まっています。

定野

当時の小倉の賑わいが目に浮かぶようですね。

大事件の「小倉戦争」

定野

三日記時代の大事件は。

永尾

それは、何といっても、小倉大変の「小倉戦争」です。
明治維新の三年前の慶応元年(1865)に、幕府が「第二次征長令」を発令。翌二年、幕命に従った小倉藩は逆に長州の侵攻を受けて敗北。城を焼いて香春に退避した大激戦です。
翌年小倉と企救郡を長州に委ねることで和解が成立します。
大庄屋は、庄屋を督励して、藩から割り当てられた農民を動員し、武器・糧食の運搬や、その他の用役(ようえき)に当(あ)たりました。また、猟師(りょうし)を集めて郷筒隊(ごうづつたい)(火縄銃の鉄砲隊)をつくり藩に従っています。

②蘇(よみがえ)った「三日記」の個性と、ひらめき

司会

三日記は百五、六十年前の幕末から、明治中期にかけての貴重な日記なのですね。激動の時代の日記が、空襲の災禍もまぬがれ、よく遺(のこ)っていましたね。

永尾

三日記は、遺族が旧小倉市に寄贈されて、現在は博物館に保存されています。昭和三十八年に福岡県の重要文化財に指定されました。

定野

でも、読み取りは大変だったでしょう。

永尾

日記は公文書でないから、自分にだけ分かればいい。数日分のまとめ書きもありますし、人名を省略した略称もある。略字で一行の解読に何日もかかったことも。
万年筆も、ボールペンも、ノートもない時代です。三日記は、和紙をとじた日記帳に、癖のある達者な筆文字が、奔放(ほんぽう)に躍(おど)っていたのです。
嘉左右の日記は特に難読だったらしい。それは嘉左右の娘さんの話で想像できます。「父は人と話しながら、手は日記の筆をとっていた」と。

定野

それでは、とても読めませんね。解読のきっかけは。

永尾

小倉の文化の守り神のような存在で、「小倉郷土会」の会長だった曽田共助(そだきょうすけ)さん(医師・俳号公孫樹・明治十八 1885~昭和三十八 1963)が、『嘉左右日記』の調査研究、そして刊行を提唱された。
それに、著名な郷土史家の代表だった米津三郎さんが応じられ、同好の方々と大変苦心なさって、誰でも手に取れる現代版に解読、刊行されたのです。
さらに、九州大学の秀村選三教授の監修で、その意義と背景が充たされ、学界、文化、財界の支援で、「嘉左右日記」が蘇ったのです。

司会

そして、当時少壮(しょうそう)の永尾先生が二人の大庄屋の日記を再生なさった。(笑)

永尾

先発の『嘉左右日記』を励みに、私たちも大庄屋の『中村平左衛門日記』と、『小森承之助日記』の再生に挑んだのです。

定野

そうして、小倉藩時代から明治への、激動の時代を語る「三日記」が、北九州市の誇りとして新登場したのでしたね。

豪商 中原嘉左右

(天保二 1831~明治二十七 1894・六十四歳)

  • 「小倉戦争」の時は三十六歳
  • 日記は慶応四年(明治元年 1868)四月一日から明治二十七年(1894)十月二十日まで二十七年間の記。

司会

それでは手にとれるようになった「三日記」で、幕末から明治へ。激動の時代にふれさせて下さい。現代に復活した順に、豪商の中原嘉左右から。
昨年(平成二十七年)は、「戦後70年」でした。もうひとつ前の七十年は、明治八年で、西郷隆盛(さいごうたかもり)も木戸孝允(きどたかよし)も大久保利通(おおくぼとしみち)も健在。中原嘉左右は小倉復興に大活躍中でした。

永尾

『嘉左右日記』は、活動スケールの大きな豪商の営業日誌です。それだけに、新時代に機敏に対処した興味ある情報が多いですね。

永尾正剛 氏

定野

嘉左右さんの「中原屋」は。

永尾

先祖は毛利氏に仕えた武士。浪人して小笠原の初代藩主忠真(ただざね)の時に、小倉の新魚町で諸国書状取次所(今の郵便業)を始めたのです。
そして、飛脚問屋(ひきゃくどんや)、諸国用達(ようたし)商と家業を広げ、屋号を「中原屋」に。当主は代々、嘉兵衛を通称にしました。
六代で小倉の中心地の室町に進出。七代の時代には、門松御免、苗字帯刀の栄誉を受けています。

  • *武士以外は禁止の正月の門松が許され、苗字をつけてよく、公式の場で、脇差を腰に差していい。

司会

藩への貢献や献金も惜(お)しまなかったのでしょう。小倉藩に、代々貢献した豪商だったのですね。

定野敏彦

永尾

その二代後の当主が、主人公の嘉左右で、小倉戦争では藩に従って香原に移り、藩の用品調達や財務の商法方(かた)の役目を担(にな)って藩財政に密着し、御用商人として活躍します。
戦後小倉へ戻って、世襲の「嘉兵衛」を「嘉左右」と改名。独特の才覚で、弟の嘉平(かへい)と全盛の中原屋を築き、小倉商法会議所(のちの商工会議所)を設立して、初代の会頭に就(つ)いています。

大阪に支店
石炭に着目
 取引指示に電報

中原嘉左右

永尾

嘉左右は物産の集結地であった大阪にいち早く支店(出張所)を設け、米と、次第に着目されてきた石炭と、文明開化の舶来品を含む諸物産の取引、そして融資の四業務が営業の柱でした。
中原屋は、藩が田川郡に設置した「焚石(たきいし)会所」の頃から、石炭問屋の役目を担(にな)っていました。小倉戦争後は若松をベースに、大阪、神戸、横浜、東京まで販売を広げました。
電話のない時代。大阪支店の幸治郎に、電報で頻繁に業務の連絡や取引の指示をしています。
日記に初めて電文の控えが見えるのは、明治六年九月二十三日、幸治郎にあてた石炭積み出し連絡で、馬関(下関市)から発信しています。
「石八十万デタ、アト百万今月中出ス、亦(また)アト数万出ス」とあり、石炭取引の活況がうかがえます。(単位は斤(きん)=600グラム)
以降、日々の電報指示に驚かされます。

定野

家業の飛脚問屋が、明治開化で電報取引に進化したのですね。なんだか、一世紀半前に、メール時代を先取りしたよう。

永尾

取引先も、福岡、長崎、広島、名古屋、ほか各地へ拡大しています。
石炭搬送に、持ち船の蒸気船が活躍したでしょう。そして、中間の朝霧炭鉱と企救郡宮ノ尾炭鉱(現北九州小倉北区)の経営に当たり、銅山にも取り組みました。

定野

驚きました。小倉で石炭が掘られていたのですね。

中原嘉左右の小倉室町の住居

永尾

石炭は、当時は焚石(たきいし)と言っていましたが、煙が出るので、家庭用燃料にはならない。
石炭を必要とする、北九州工業地帯の出現前で、まだ採掘機もない。地表に出ている石炭脈を油の灯火(ともしび)を頼りに、鶴嘴(つるはし)で掘り進んだのです。

定野

石炭の販路は。

永尾

主に内外の蒸気船と瀬戸内の塩田でした。ペリーの黒船来航から二十年。世界に港を開いた明治日本は、内外の蒸気船ラッシュで、燃料の石炭需要が大きかった。
明治五年に新橋と横浜間に鉄道が開通。鉄道から製糸など、軽工業への展望もあったでしょう。飴屋も明治十三年に蒸気米搗(つ)き機を導入しています。
塩田は、北九州市内でも。すぐ近くの門司の甲宗八幡の前の浜や、曽根(そね)、朽網(くさみ)、苅田(かんだ)の浜にありました。
嘉左右も自前の蒸気船光亀丸(こうきまる)、ほか二隻の持ち船で、石炭や舶来品や、物産の取引にしのぎを削っています。
一方、銅山の方は失敗。大阪の出資家も頼りにならず、金策に持ち船売却を思案したり、苦労しています。

貴重な経済データ
胸を打つ日記も

永尾

経済史の見地に立てば、『嘉左右日記』に見る維新後の諸物価、流通の状況と地域性、輸入されるハイカラな物品etc.のデータが、実証の記録として、輝いて見えるでしょう。
丹念で、着目範囲の広い営業日誌だけに、資料的価値があるのです。

定野

なるほど。でも、それだけでは味気ない。日本の夜明けの時代です。嘉左右さんの胸を打った日記は。

永尾

それは、「五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)」を明治元年四月八日に、書き写した日記でしょう。
日記のスタートは慶応四年四月一日ですが、その半月前の三月十四日に、明治天皇(嘉永五 1852~明治四十五 1912)が、天地神明に誓うと公布された、維新政府の基本方針です。

  • *前日三月十三日は、江戸城の無血開城を約した西郷隆盛と勝海舟の会談が行われています。
  • *慶応四年九月八日「明治」と改元。

大阪か神戸から船便で取り寄せた、当時の新聞から書き写しているのです。

五箇条御誓文(ごせいもん)
一(ひとつ) 廣(ひろ)ク会議ヲ興(おこ)シ万機公論(ばんきこうろん)ニ決スヘシ
一 上下(しょうか)心ヲ一(いつ)ニシテ盛ニ経綸(けいりん)ヲ行(おこな)フヘシ
一 官武一途庶民(かんぶいっとしょみん)ニ至迄各其(いたるまでおのおのその)志ヲ遂ケ(とげ)人心ヲシテ倦(うま)サラシメン事ヲ要ス
一 舊(きゅう)来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ天地ノ公道ニ基(もとづ)クヘシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大(おおい)ニ皇基(こうき)ヲ振起(しんき)スヘシ

  • *原文による。国史大辞典(吉川弘文館)より。

御年十七歳。若い明治天皇の御誓文を、僅か半月あとに、新聞で食い入るように見つめている嘉左右の姿が目に浮かびますね。

定野

「五箇条の御誓文」に、新日本の夜明けを感じたのですね。

ロンドンへ留学させた長男辰八郎の夭折(ようせつ)

ロンドン留学中の
中原辰八郎

永尾

当時の気風でしょうが、嘉左右は、日記でも私事は控えめでした。
明治六年、旧殿様の忠忱(ただのぶ)のロンドン留学に長男の辰八郎を随行させます。三年後に帰国し、開成学校(後の東京大学)に進みますが、肺結核で明治十二年十一月二十日に二十歳の若さで夭折します。その時も、世話になった医師名を列記。淡々と数行の記に万感を尽くしています。
でも、大阪の手代へのこんな電文も。重症で高熱の辰八郎のために、氷を求めての電報です。
当時は、豪商の嘉左右でも、氷を小倉では入手できなかったのですね。
「タツハチロヲ ビヨヲキ コヲリイリヨヲ ヲイソギ ミハカライクダセ」(明治十年九月二十一日)

  • *イリヨヲ=入用。ヲイソギ=大急ぎ。クダセ=送れ

そして、滋養になるものをと、
「タツハチ シヨクヨウ ブドヲ ナシ カステラ カシ カイクダリタノム」(同年翌日)

司会

人の親なる嘉左右さんですね。

永尾

息子の夭折は痛惜(つうせき)ですがロンドン留学は嘉左右の卓見(たっけん)だったでしょう。

定野

当時、アメリカやイギリスへ留学した人は、皆、新日本の要人として活躍していますね。

永尾

当時のロンドン留学は、費用面でも大変でした。日記によれば、とりあえずの費用に百一両。渡航前に正金二千六百両計二千七百一両を渡し、以後も送金しています。

  • *明治五年二月施行の「新貨条令」で、本位貨幣を「円」とし、「両」を等価の一円とした。辰八郎洋行の明治六年は、両貨幣併用の時期。

後に、所有の蒸気船光亀丸の評価が九千円とありますから、高額の留学費であったことが、推測されます。
嘉左右を助けて、大飛躍する筈の人物でした。痛恨(つうこん)ですね。

司会

日記の常用的な事項は。

永尾

毎日記載されているのは、日付と、その日の天気と風向き。持ち船の運航が頭にあったのでしょうね。
「気温」も明治十三年十二月二十二日に華氏(かし)温度で登場し「寒暖計四十九度」とあります。
当時は、寒暖計も珍しい文明開化の輸入品だったのでしょう。

定野

一週間の曜日は。

永尾

太陽暦に変わったのは、明治五年十二月三日で、同日を明治六年一月一日にしたのですが、日記に曜日の記載は一切(いっさい)ありません。
なじまなかったのでしょうが、当時は日曜の安息も無縁だったでしょう。

司会

愉快な記事は。

永尾

ありますよ。明治十一年三月七日の記に、「東京江(え)注文の人力車(まか)り下候(くだりそうろう)ニ付(つき)本日小区区役場江願出候事(しょうくくやくばへねがいでそうろうこと)」と。
東京へ注文した人力車が届いたのですね。交通法規もまだなかったでしょうが、早速、区役場へ届けています。
九州で自家用車の第一号は、のちの伊藤伝右衛門とされていますが、人力車の第一号は嘉左右だったかも。

嘉左右の以前の日記は

司会

現存の『嘉左右日記』は、スタートが慶応四年(明治元年)だから、以前の維新の大変動にはふれていません。
明治二十七年十月二十日の死の前日まで、丹念に日記を記した(最後の一月は代筆)嘉左右さんに、明治以前の日記がないのは、なぜなのでしょう?

永尾

米津三郎さんによれば、昭和六年に日記の寄贈を受けた当時の小倉図書館の館長だった伊手伊親(これちか)さんの『抜書(ぬきがき)』の冒頭に、「推定すれば、以前の日記もあるべし」とあります。
多分、存在したでしょうね。それが、時代の激変と、移転で、失われたのか。故(ゆえ)あって処分されたのか。
以前の日記は存在していない。惜しいですね。

気骨の大庄屋 中村平左衛門

(寛政五 1793~慶応三 1867・七十五歳)

  • 「小倉戦争」の時は七十四歳。
  • 日記は、文化八年(1811)正月十日から慶応二年(1866)七月晦日(みそか)(末日)まで、五十六年間の記。

司会

では、大庄屋の日記に。

永尾

『中村平左衛門日記』は、大庄屋の役目とともに、家族の生活面から、本人の私憤(しふん)まで。公私ちゃんぽんの愉快な私日記です。

司会

なかなか気骨のある、大庄屋さんだったようで。

永尾

三日記の筆者の中では、一番の高齢。大庄屋歴も長く口八丁、手八丁。そして学識がある。
郡奉行としては、頼りになる、こわもての大庄屋だったでしょう。

司会

では、大庄屋の硬骨ぶりのぼやき節から。

永尾

文政十一年(1828)の夏場、長崎方面の大台風で、今の北九州市の企救郡一帯も相当の被害でした。
その回復に専念していた平左衛門が、一年足らずで企救郡の富野手永から津田手永へ転任になります。大庄屋が管掌(かんしょう)する地域を「手永(てなが)」といい、この呼称は前藩主細川時代からです。
平左衛門はその転任が気に入(い)らない。藩の役人は見る目がない。郡奉行は自分の事しか考えない人物で、農村をよく知らない。
代官も大した人物ではないが、郡奉行よりはましだから、代官に聞くことにしていると、日記ではっきり毒づいています。

司会

痛烈ですね。(笑)

中村平左衛門の歌

永尾

在方(ざいかた)豪商の、行事(ぎょうじ)村(現・行橋市)の「飴屋」は、藩への用立ても、桁外(けたはず)れでしたが、その飴屋のことでも日記で噛(か)みついています。

司会

飴屋の小倉藩への貢献のすごさは、以前、本シリーズで飴屋十二代のご当主の玉江彦太郎氏に伺った「飴屋物語」に見られます。
「天保十二年(1841)丑年(うしどし)に立ち戻り御差引詰金(おんさしひきづめきん)壱万両程、卯年(うどし)より弐(に)百五十年賦仰出(ぶおおせだ)サレ候(そうろう)」

永尾

飴屋がこれまで藩に用立てした一万両を二百五十年払いにしてくれと。実際は、帳消しにしてくれですね。

藩は到底返せないから、その代(か)わりに苗字帯刀(みょうじたいとう)を許し、士分並みの礼遇をしています。
平左衛門はそれが気に入らない。飴屋の貢献は認めても、小倉城下でなく在方の豪商だ。藩の定めでは在方一番は大庄屋だと言うわけです。

定野

筋は通っている(笑)。大庄屋のプライドですか。ちょっと、ハラの立て過ぎで。

永尾

ちなみに、飴屋家訓として、「武家トノ縁、結ブベカラズ」が伝えられています。

  • *縁-縁談。

だが、平左衛門は只者(ただもの)ではない。小倉藩研究に欠かせない『郡典私志(ぐんてんしし)』の著者なのです。
農政に関する土地制度、諸税などを、数十項目にわたって述べ、また既存の関連資料を紹介し、その批評を添えている。
私も「豊前(ぶぜん)史料集成(一)」に、『郡典私志』を取り上げて、「読み下(くだ)し文」を書きましたが、藩政時代の農政研究の一級資料なのです。

定野

何か、エピソードは。

永尾

平左衛門は、九歳で父を亡くしたせいか、とても母思いの人でした。母が八十四歳で亡くなった時、愁傷(しゅうしょう)のあまりに発熱し、数カ月間『勢力不足、惣身(そうしん)(全身)に腫氣(しゅき)」が残ったそうです。
安政六年(1859)、六十六歳で、村人や従者ら数人と二カ月かけた伊勢参宮をしています。当時はずいぶんの高齢ですが、元気だったのですね。「伊勢参宮日記」を記し、経費が四十余両かかったと。

定野

平左衛門さんの経歴は。

永尾

安政三年(1856)、六郡大庄屋の上席に。翌四年、六十五歳で息子の泰蔵に家督を譲り隠居しています。
その後、藩に望まれて、京都郡内の大庄屋上席を拝命。子息の泰蔵は、平左衛門の跡を継いで、「津田手永大庄屋」に就いています。

司会

維新の激動には高齢でノータッチですが、それだけどっぷりと、幕末体制に浸(ひた)った大庄屋だったのですね。

定野

小倉戦争の時は。

永尾

小倉に集結した九州諸藩の征長軍は楽勝気分だったようで、平左衛門も農民や猟師を連(つ)れて従軍した息子に、弁当を差し入れたりと、気楽な様子がうかがえます。
だが、長州軍に敗れ、息子の泰蔵は藩とともに香春(かわら)へ。隠居の平左衛門は行橋の方へ避難しています。

司会

当時は日本の激動の時代でした。衝撃の大ニュースは、大庄屋の耳に届いていましたか。

永尾

嘉永六年(1853・六十一歳)の「ペリー浦賀来航」も、万延(まんえん)元年(1860・六十八歳)大老井伊直弼(いいなおすけ)が水戸浪士らに襲撃された「桜田門外の変」も、二十日ぐらい遅れて、きちんと日記に記しています。高齢だが、時代先端の、見事な大庄屋だったのですね。

堅実な大庄屋 小森承之助

小森承之助画像 画 瓠落乎

(文政八 1825~明治八 1875・五十一歳)

  • 「小倉戦争」の時は四十二歳。
  • 日記は、安政五年(1858)八月二十七日から明治四年(1871)二月七日まで、十四年間の記。

司会

次は、同じ大庄屋の小森承之助へ。侍のような名前ですね。

永尾

先祖は大内氏の一族で、大内氏が北九州に覇権(はけん)を広げていた戦国時代初期に、この地に定住したと伝えられ、実父の大庄屋友石宗左衛門は、一時大内姓を名乗りました。
大庄屋は手永の名を姓とする習いで、承之助は小森手永の大庄屋に任命されたので、小森姓を名乗ったのです。

  • *現在も小倉南区に「小森」の地名がある。

学問が好きで、藩内屈指の学塾であった水哉園(すいさいえん)(行橋市)の村上仏山(むらかみぶつざん)と交友が深く、子弟を入門させ、さらに弟の春之助を、日田の広瀬淡窓(ひろせたんそう)の咸宜園(かんぎえん)に学(まな)ばせています。

定野

向学の一家だったのですね。

永尾

承之助は教養人で、当時の文化尺度だった茶道にも通じ、蔵書も多く、日記にも読書の記が。郡奉行や代官もたじたじの大庄屋だったでしょう。
でも「乳母よりもち(餅)、にしめ(煮しめ)到来。乳母へ砂糖を送り候」の日記もあり、ほっとしますね。

司会

現役の大庄屋です。「小倉戦争」では。

永尾

承之助は自身で戦いはしませんが、藩から要請の軍夫や、火縄銃の郷筒隊を引き連れ、戦費献金の割り振りまで、大変だったでしょう。
大庄屋として幕末の修羅場(しゅらば)をくぐり抜けた、承之助ですが、日記はあまり身辺のことにふれていない。公的立場を考えてか、丁寧にきれいな字で記されています。
小倉戦争の時は数えの四十二歳。誰からも頼りにされる大庄屋だったでしょう。

③身近な庄屋さん

司会

三日記の二つは大庄屋の日記です。庄屋さん、親しみを感じますね。

永尾

では、庄屋のおさらいを。
小倉藩十五万石の米を生産するのは、領内の六郡三百六十八村の農民で、藩と農民をつなぐ大きな役目が庄屋でした。

司会

村と同数。約四百人の庄屋さんがいたのですね。驚きました。

永尾

それだけ、農民に密着した存在だったわけで、庄屋制度は、藩財政を二百五十年間カバーし、領内の平安を保った重要なシステムだったのです。

定野

庄屋の任命は。

永尾

庄屋は、藩が有力農民から選んだ村役人で、だいたいが世襲(せしゅう)。大庄屋の下で、藩の布告の伝達や、村民の相談ごとなどにあずかり、村の年貢納めの責任者でした。藩の手当は年に玄米二十俵ほどでした。

司会

案外、薄給だったのですね。

永尾

庄屋も農民ですから、いわば農作が本業です。入り用の不足分は、自身の農作で補っていたようです。

郡奉行と代官

定野

庄屋さんも大変ですね。さらに、大庄屋の上には、藩の行政官である武士たちがいて。

小倉藩の都方行政組織

永尾

大庄屋に指示する、藩側の民政官は、「郡奉行(こおりぶぎょう)(筋奉行(すじぶぎょう))」と、山林を管理する「山奉行(やまぶぎょう)」、そして年貢徴収の責任者である「代官(だいかん)」の三人。いわゆる「郡方三役(こおりかたさんやく)」です。さらにその上に、総括する「郡代(ぐんだい)」がいました。

司会

時代劇ではよく悪代官が出てきますが。

永尾

テレビの見過ぎですね(笑)。郡奉行の下には、「手代(てだい)」がいて、大庄屋を監視していました。
大庄屋の管轄区域が「手永(てなが)」で、大庄屋を補佐し、代行する役目が「子供役」。平左衛門も十九歳で子供役に就いています。

司会

変な役名ですね。

永尾

天草の乱に、出陣した大庄屋の留守役を、息子が見事に果たした例があって、その呼称になったのです。
大庄屋の中村平左衛門が采配(さいはい)した企救(きく)郡。今の北九州市の小倉北区、南区、門司区あたりですが、ここには六人も大庄屋がいたのです。大庄屋は、十カ村から二十カ村を束(たば)ねていました。
大庄屋は、農民の陳情を藩に伝える唯一のパイプでした。

司会

庄屋さんも、大庄屋と農民に挟まれて大変だったのですね。

永尾

そして、郡ごとに年番で、代表の大庄屋を決め、その代表の大庄屋が、藩の「郡奉行」の指令を大庄屋に伝え、さらに庄屋から農民へ藩令が行き渡るのです。

司会

「庄屋」と「名主(なぬし)」、また「方頭(ほうかしら)」「組頭」とは。

永尾

同じ役目を日本の東では「名主」、西では「庄屋」と言ったのです。「方頭」は、庄屋の補佐で、村の地形が複雑な所には二、三名いました。「組頭」は農民五人組の頭(かしら)で、農民の援助、監視、連帯の責務を負っていました。

定野

藩の農民管理は上から横からがんじがらめですね。俗に「士・農・工・商」と言われますが。

永尾

トップは武士。次は生産方の農民としたのですが、次第に経済を握る商工に取って代わられました。

庄屋は何でも知っている人

永尾

大庄屋や庄屋は、住職や神官とともに、何でも知っている人。農民には、難しいことは庄屋に聞けばいいといった、身近なコンサルタントでもあったでしょう。
庄屋は諸国の旅人を泊めて話を聞いたり、短歌や俳句を詠(よ)み交(か)わしたりして、情報にも通じていました。今でも、旧庄屋の蔵から貴重な古文書の束が出てきたりします。

定野

村一番の、教養人だったのですね。

永尾

幕末は、国学ブームでした。大庄屋が神職を中心に、古事記や日本書紀の勉強会なども開いています。

百姓一揆(ひゃくしょういっき)

司会

「百姓一揆」では、まず一番に庄屋が標的にされ、家を打ち壊(こわ)されたりしていますね。

永尾

「揆(き)」ははかりごと。「一揆」は行動を共にすることで、農民の藩への不満が爆発しての武装蜂起で、間に立つ庄屋は大変でした。
汗水流して年貢を納めている農民には、庄屋への反感もあったでしょうし、庄屋宅が、役宅でしたから、藩の代官への不満も庄屋に向けられたのです。
だから、一揆が起こると、平生農民を見下(みくだ)していた庄屋は大慌てで、行方(ゆくえ)をくらましたり、酒食や金品で懐柔(かいじゅう)をはかったりと大変でした。
のちの長州戦争で奮戦した島村志津摩(しまむらしづま)(天保四 1833~明治九 1876)が、家老に就任すると、厳正に調査して、私腹を肥やしていた、いわば悪大庄屋を更迭(こうてつ)しています。
その後任の大庄屋が、日記に毒舌を記した中村平左衛門なのです。

  • *「企救一揆」
    小倉藩の最後の一揆は、明治二年(1869)の「企救一揆」。小倉戦争での世情不安に加えて、凶作で人心は混乱していた。小倉藩を破った長州は、占拠した企救郡で、年貢半減などの占領政策で暫時の平安を保ったが、賄賂(わいろ)による年貢高決定や、年貢米横流しの噂が広がり、長州藩と庄屋への不満が増幅された。
    こうして動揺した農民により企救郡一帯に一揆が起こり、参加者は一万数千人に及び、放火や打ち壊しにあった庄屋や村役人の家は七十軒をこえたという。このとき飴屋は、島村志津摩がいるという風評から、その難を避けられたという。「役人や庄屋の不正は調べる、犠牲者は出さない」の条件で、ほどなく一揆は終息した。だが長州より企救郡の移管を受けた行政により、九右衛門は首謀者として処刑された。

『結び』「三日記」は各駅停車の旅

司会

北九州市の宝の三日記が、現代に蘇り、手近に手に取れるようになったのはありがたいですね。
だが、ちょっと取っ付きにくい。三日記を近寄せてください。

永尾

それに、二十七巻のボリュームですからね。でも、いい方法がありますよ。
三日記とも、最寄(もよ)りの図書館で手に取れます。まずは各巻に付されている、「解題」や、「後記」「月報」などを読まれることから。
『嘉左右日記』では、再生された米津三郎さんや、監修なさった九州大学の秀村選三先生や、福岡大学の武野要子先生。作家の劉寒吉(りゅうかんきち)さんら、各界の方々の奥の深い寄稿で、日記の概要から、時代のうねりまで汲(く)み取れます。
大庄屋の日記も同様です。
三日記は、百五十年バックの「各駅停車の旅」です。気楽にめくりながら、幕末から明治への大激変のポイントを拾えばいいのです。
拾い読みで走りながら、気になる駅で途中下車。思わぬ発見があり、楽しめますよ。
私たちも、三日記をベースにしての、地方史全野にわたっての研究はこれからで、前途遼遠(りょうえん)の思いです。歴史好きの方は、ご一緒にどうぞ。

眠っている炉辺(ろばた)日記を

永尾

三日記に浸(ひた)りながら、私は、別の日記を読んでみたい願望にとらわれます。
徳川幕府三百年(二六六年)の間、国民という言葉もありませんが、あえて使うなら、当時の国民の大多数が、疑いもなく、権力も、知識もない農民の百姓でした。
武家でも、郷士でも、庄屋でもない。汗を流し、黙々とこの国を支えてきた農民たちが、藩以外の幕府や、ペリーや、倒幕のことに、明治新政府に、どれだけ関心を持っていたのか。知りたいですね。
どこかにその、素朴な「炉辺日記(ろばたにっき)」か、書付(かきつけ)の断片が眠っていないか。手に取りたいなと願うのです。

司会

戦後七十年ですが、その倍ちょっとさかのぼれば、ついそこで、今日の主人公たちが、日記の筆を走らせていたのですね。

永尾

だから、近世史は面白いのですよ。小倉藩に三日記や、在郷の豪商飴屋の記録がある。これは、すごい事ですね。

定野

先生、貴重な三日記のお話、ありがとうございました。

司会

では、背景の小倉藩十五万石に、乾杯して結びに。

「小倉戦争」
北の会津藩と並び称される南の譜代藩小倉藩の大義

「三日記」の背景には、維新激動期の、小倉藩十五万石の最大の大変、いわゆる「小倉戦争」があります。その、あらましを。

▼攘夷(じょうい)の先駆けをした長州藩が文久三年(1863)八月十八日の政変で都を追われ、攘夷七卿(じょういしちきょう)を擁(よう)して都落ちとなる。
長州藩は名誉と勢力回復のために、翌、元治(げんじ)元年(1864)三千の軍兵が京に上る。だが、七月十八日、御所の蛤御門(はまぐりごもん)で、会津、薩摩軍に敗れる。いわゆる「禁門(きんもん)の変(へん)」である。
幕府はただちに西国の大名を動員して第一次長州征伐を発令し、長州は三家老の切腹で屈服する。
だが、長州藩は、高杉晋作(天保十 1839~慶応三 1867)の挙兵で、幕府恭順の体制を一新。桂小五郎(のちの木戸孝允(たかよし)(天保四 1833~明治十 1877))が、土佐の坂本龍馬(天保六 1835~慶応三 1867)の斡旋(あっせん)で、薩摩藩の西郷隆盛(文政十 1827~明治十 1877)と慶応二年(1866)一月二十九日、ひそかに薩長同盟を結ぶ。
長州藩は薩摩名義で、英国のグラバーから入手した新鋭銃で洋式装備を固め、同年六月、再び反幕府の旗を挙げる。
幕府は、ただちに第二次征長令を発令し、小倉は九州諸藩の征長軍の拠点になる。
征長総督に、唐津藩の世子(せいし)(後継者)ながら英明で知られた幕府老中の小笠原長行(おがさわらながみち)(文政五 1822~明治二十四 1891)が着任。唐津、久留米、柳川、肥後細川の藩兵約一万五千名が、征長軍として小倉に集結した。
長州は二年前の第一次征長で幕府に屈しており、今度は将軍家茂(いえもち)(弘化三 1846~慶応二 1866)が大阪まで親征している。征長諸藩は楽勝気分であった。
だが、幕府軍を迎え撃つ長州は、前回の長州軍ではなかった。高杉晋作の率いる長州の奇兵隊が、六月十七日、田の浦(北九州市門司区)を奇襲して、「小倉戦争」が始まる。
洋式装備の長州軍の前に、甲冑(かっちゅう)と槍(やり)、火縄銃(じゅう)の小倉藩はあえなく敗れ、七月三日には大里で敗退。
火縄銃は、稲穂に群れる雀追いと、猪などの害獣退治に藩が認可を与えているもので、猟師などで「郷筒隊(ごうづつたい)」(火縄銃の鉄砲隊)を組織し、その編成を、役料を与えている大庄屋や庄屋に押し付けた。到底(とうてい)、長州の洋式銃に対抗できるものではなかった。
隣藩の黒田藩も藩境を固めるのみであった。
七月二十七日、長州藩は赤坂を攻めて小倉突入をはかったが、藩主と血縁の肥後の細川藩が小倉藩兵と共に勇戦。長州勢は兵を引いた。
だが、反撃もそれまでで、将軍家茂が大坂で死亡との報が伝わると、征長総督の小笠原長行は軍艦で長崎へ走り、出兵各藩も引き上げ、支援の細川藩も兵を引いた。

再征軍の出陣(『慶応元年長州再征軍進発図』より)

その大変の中で、病を秘していた藩主忠幹(ただよし)が、慶応元年(1865)九月に死亡。家老の小宮民部(こみやみんぶ)は、四歳の豊千代丸(忠忱(ただのぶ))の家督相続(慶応三年六月)まで二年間、主君の喪を伏せた。
民部は、幼君と主君の家族を親戚の細川藩に託し、長州に渡すよりはと城を焼き、田川郡の香春(かわら)へ退(ひ)いて、戦いを続けた。
藩滅亡の危機であったが、中老(のち家老に復職)の島村志津摩(しまむらしづま)が士大将(さむらいたいしょう)として、藩士を鼓舞(こぶ)して、田川郡境の金辺(きべ)峠で勇戦。長州の追撃を阻止し、和睦(わぼく)の道を開く。
同年十二月、企救郡を長州に預け、長州藩と不戦の条件で和睦。小倉藩にとっては、悲痛の命運であったが、徳川譜代藩としての大義を貫いた戦(いくさ)だった。

藩校思永館への書籍代を献上

ついで藩庁を、香春から、藩士の投票で、百三十票のうち多数の四十票を得た京都郡の錦原(今の豊津)に移し、新たに豊津藩に。明治二年六月(1869)の版籍奉還(はんせきほうかん)で、小倉藩以来の二百三十七年にわたる小倉藩の歴史を豊津藩で閉(と)じた。
敗れたとはいえ、藩校思永館を「育徳館」に一新、洋学を取り入れて藩風の誇りを持した。この裏に、恩顧に報いた飴屋や、嘉左右ほかの多大の献金があった。
小倉侵攻の長州総監であった山縣有朋(やまがたありとも)(天保九 1838~大正十一 1922)は、晩年の回顧録『懐旧記事(かいきゅうきじ)』の中で、徳川の恩顧に報わんと城士一体になっての小倉小笠原藩の義戦を讃(たた)え、後代徳川の歴史を編纂する人は、その忠節を大きく記すべきだと述べている。

永尾正剛(ながおまさのり)氏 略歴

昭和二十二年生まれ。四十九年九州大学文学部大学院博士課程卒。北九州市立自然史・歴史博物館参事をへて、現在北九州市立大学非常勤講師。行橋市、田川市、苅田町の文化財委員。近世社会史を専攻し、庶民生活史、史科学を目指す。著書翻刻『郡典私志』。『中村平左衛門日記』『小森承之助日記』『北九州市史』『行橋市史』『久留米市史』ほか執筆。

  • 本篇は、三日記を刊行された北九州市立自然史・歴史博物館、一般財団法人「西日本文化協会」の御協力をいただきました。
  • ※人物の年齢表記は数え年です。